「うッわ、なんだこの部屋」

ユキの病室に入って開口一番、恋次は驚いた声をあげる。

「言わないでよ、悲しくなるから……」

恋次の言葉に、ユキは諦めたように乾いた笑みをこぼしながら言う。
ユキの病室はと言えば、病室にあるまじき状態になっていた。
書類と資料が置かれるそこは、明らかに執務室だ。

「もう仕事をしていると話には聞いていたが、大変なのだな……」
「! ルキア、来てくれたの」

恋次の後ろからルキアが顔を出せば、ユキはその顔を明るくする。
そして筆を置き、オーバーテーブルの上を片付けながら、いらっしゃい、と声をかける。

「おい。俺の時は仕事続行で、ルキアにはそれかよ」
「なんであんたに、ルキアと同じだけ時間とらなきゃいけないの」

暇じゃないの見ればわかるでしょ、と恋次に言葉を投げつけながら、一方でユキは、ルキアは気にしなくていいからね、とにっこり笑う。
しかしルキアはそれよりも書類の山の方が気になるようで、呆然とした様子でひとしきり目をやった後、はっとしてユキの方へ顔を向けた。

「昨日、目覚めたばかりだろう?体は大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。正直体力は落ちてるけど、書類片付ける分には問題ないから。なんにしても、私やらないと回らないしね」
「私でよければ手伝うが……」
「だーめ。ルキアだって、まだ本調子じゃないんでしょ。私は私で鈍り取り戻さなきゃだし、これくらいが丁度いいんだって」
「はあ……」

とは言うものの、ルキアの目には『丁度いい』とは思えない量が病室の床に重しを載せて置かれている。
改めて、『書類業務役』という特別枠が十一番隊にある意味を再確認すると、ところで、とルキアは話を切り替えた。

「髪を切ったのだな」
「うん、似合う?」
「ああ、よく似合っている。なあ、恋次?」

同意を求められて、恋次も素直に頷いた。

「また伸ばすのか?」
「わかんないけど、結構気に入ったからこのままかも。それとも、ちょっとだけ伸ばしてルキアとお揃いにしようかな」
「わ、私とか?」

ユキの言葉に、瞬間慌てたルキアを見て、恋次がプッと吹き出す。

「なに照れてんだよルキア」
「照れてなどおらぬ!」

口喧嘩を始める二人を、まあまあ、とユキはなだめた。
その後、思い出した恋次が持ってきた久里屋の饅頭を出し、ルキアが茶を入れる。
久しぶりに穏やかな時間を感じながら、ユキはゆったりと背後に背を凭れた。

「それで、朽木隊長とはその後どう?」

湯呑をテーブルの上に置いて、ユキはルキアに尋ねる。
目をぱちりと一つ瞬いたルキアは、顔を少し俯かせて、そこに幾分か照れた微笑みを浮かべた。

「……兄様と、少し近くなったように思う。私の目を見て、話してくださるのだ」

小さく。されど、心底嬉しそうな音で、ルキアはそう紡いだ。
それを聞いてユキは目を和やかに細めると、そう、と優しい音で相槌を打つ。

「兄様に、初めて料理を作ったんだ。おかゆ、なんだが。それを、兄様はおかわりしてくださった」
「そう」
「私が、現世で見聞きしたことを話すのも、兄様は全て聞いてくださった」
「うん」

よかったね、とユキは穏やかな笑みを浮かべて告げた。
目の前のルキアが、はにかみながら紡ぐ報せが、ユキは嬉しくてならなかった。
やっと全てが報われたのだと、それが分かって、内心震えるほどに歓喜していた。

ふとルキアが、顔をあげてユキを見る。
その瞳に意思を感じて、小首を傾げるユキにルキアは言った。

「……前に私が、兄様は私を殺すだろうと言ったことがあったろう。あの時『そんなことはない』と言おうとするお前に、『ユキには分からない』と、私は、そう言ったな」

そんなことを、確かに言った。
その時のことを思い出して表情を暗くし、そうね、と頷くユキに、ルキアは続ける。

「あの時は……正直、ユキとの間にすら隔たりを感じて、辛かった。……私はこんなにも兄様から突き放されているというのに、それと違って受け入れられているお前が、羨ましくてならなかった。実のところ……これまで、お前と兄様が共にいるのを見るのが、辛い時も多々あった」

ルキアの言葉に、ユキは悲しげに眉を下げた。
対してルキアは苦笑を浮かべ、けれど、と二の句を継ぐ。

「此度のことで、全て分かった。兄様が本当は、私が思うような方でなかったことも。兄様が、誰よりもお前に信頼を寄せ、大事になさっているということも。そして私もまた、兄様にちゃんと想われ、大事にされていたのだということも」

なにもかも、わかった。
そう言って、ルキアは再び笑顔を浮かべる。
そして、両手で包み込むようにユキの手をとった。

「ありがとう、ユキ。私を、助けようとしてくれて。ありがとう。誰よりも、兄様のことを想ってくれて。……ありがとう。目を覚ましてくれて」

お前が生きていてくれて、本当に良かった。
ユキの両手を包む手に優しく力を込めて、その想いをルキアは伝える。
しかしその手は、すぐにためらうように力を緩めた。
ユキが僅かばかりきょとんとするうちに、ルキアは、それから、とたじろぎながら口を開く。

「その、なんだ。こう言うのは、なんだか違う気もするのだが、ええと……」
「?」

顔をうつむかせて、躊躇し。
しかし再び上げてユキの目を見据えると、ルキアは続けた。

「こ、これからも、その、私と兄様を、よろしく頼む。……というか、なんというか……う、うむ……」

いい言葉が見つからないとでもいうふうに、ユキの両手を包んだまま視線を泳がせるルキア。
それを見てユキは吹き出すように笑って、馬鹿だな、と口にした。
恥ずかしそうに肩をすくめて眉を下げるルキアに、ユキは言う。

「私たち、友達でしょ!」

ニッコリと笑って告げたユキは、逆にルキアの手をとって今度は自分が包み込む。
そのあたたかさに、ルキアはくしゃりと笑う。

そんな二人を少し後ろで黙って見つめながら、すっかり蚊帳の外の恋次は肩を竦めて笑みを浮かべた。

***

「うわっ、なんだいこの部屋」

ユキの病室に入って開口一番、声をあげたのは八番隊隊長・京楽春水。
執務室と変わり果てた病室を見回して、いっそ感心したような表情を見せる京楽を前に、「こんにちは、京楽隊長」とユキは苦笑を浮かべる。
その言葉を言われるのは、今日は二回目だ。

「もう仕事してるのかい?昨日目が覚めたばかりにしては元気みたいだけど……卯ノ花隊長、よく許したね」
「実はちょっと、今朝怒られました。でもこれが役目ですから」

「それに、全然回ってなかったみたいですし」と乾いた笑いをこぼしながら、ユキは続ける。

「私がいないからって、書類を自分で書く隊員もいたらしいんですけど、慣れないことしたもんだから、結局再提出で戻ってくることが多かったみたいで」
「大変だねえ。まあ、君のお母さんも大変そうだったけど」
「母なんて、鬼道衆と掛け持ちだったでしょう。それに比べたら、私なんてまだまだです」
「いやいや、充分だよ」

謙遜するユキに、京楽は既に処理が済んだ書類の山を見ながらそう言葉をかける。
確かに、量を見れば当時の摩耶の方がよっぽどであったが、一方でユキは昨日目覚めたばかりの病み上がりだ。
それでこれだけこなすのであれば、大したものである。

「そうそう。浮竹から、お見舞いの品を預かってたんだ」
「浮竹隊長から?」

うん、と頷いて京楽は箱を取り出す。
上品な包装紙に包まれたそれを開いて、ユキは少し驚いた声をあげた。

「これ、羽衣じゃないですか」
「そ。『きっと早々に仕事を再開しているだろうから、疲れたときに』って。浮竹の読みは、正解だったみたいだね」

羽衣――それは、浮竹も愛飲する最高級の玉露だ。
思わぬ頂き物に、ユキは恐縮しながらも心から喜んで、礼を言っていたと伝えてくださいと京楽へ頼む。
にっこり笑って、勿論、と頷いた京楽は、そういえば、と二の句をつぐ。

「髪を切ったんだね。前も可愛かったけど、短いのもよく似合ってるよ」
「ありがとうございます」

綺麗になったねえ、と告げる京楽に、褒めても何も出ませんよ、とユキが返せば、こりゃ手厳しい、と京楽は笑う。
かと思えば不意にスッと目を細め、その雰囲気がピンと張ったものに変わったことに、ユキは気づいて背筋を伸ばした。

「ところで……卍解は、相変わらずのようだね」
「……」

声を抑えながら、穏やかな声で京楽は告げたが、しかしそこには戒めるような音があった。
とん、とユキの喉元に軽く人差し指を突き立てて、京楽は続ける。

「まだ、あの頃のままなんだろう?」

ユキの首元には、包帯が巻かれていた。
ほとんどの人間が、怪我を治療した証と思っているそれは、実はそうではない。

京楽が指をどければ、ユキは首に巻かれたそれをゆっくりと外す。
その下から現れたのは、ただれた火傷痕。

――普段ユキが、死覇装の下にハイネックを着て、その下に更に包帯を巻いているのは、これを隠すためだった。
蠢く炎のような形をしたそれが、首をぐるりと取り囲んでいるのを見て、京楽は眉根を寄せる。

「君の卍解の力は、聞く限り君とよく合っている。けどそれは、今はまだ使うべき力じゃない。それは、君が一番良く分かってる筈だ」
「……はい」

京楽の言葉に、ユキは顔を俯かせながらも素直に頷く。

ユキの卍解は、正当な手段――具象化と屈服――をもってして手に入れられたものではない。
20年前、危機を前にして【斬魄刀と契約】を行い手にしたものだ。

本来使えない筈の力を使用する。
その代償として、卍解を使い終わるとユキは急激に霊力を、ひいては生命力を消費し、命の危機に晒される。

気落ちした様子のユキを見て、京楽は眉を下げて笑みを浮かべながら、ひとつ息をつく。
それから片手を、ぽん、とユキの頭の上に置いた。

「ま、今回は状況が状況だったからしょうがなかったけどね。けどやっぱり、代償が大きすぎる。これから先も使いたいなら、ちゃんと手に入れてからにしなさい。じゃないと、京楽おじさんと浮竹おじさんの寿命が縮んじゃうからね」
「……はい」

今度の返答は、少しだけ笑みを含んでいた。
しょんぼりとしながらも、京楽のおどけに答えて笑みを浮かべるユキに、京楽はにっこりと笑いかける。
そして不意に、ぎゅっとユキを抱きしめた。

「ッ、京楽隊長!?」
「無茶したことと卍解したことは減点だけど、いっぱい頑張ったからね。いい子のユキちゃんに、ご褒美」

言いながら、京楽はヨシヨシとユキの頭を撫でる。
突然のことに驚き、恥ずかしさに慌てながらも、撫でられればユキは気持ちが落ち着くのを感じた。
思わず、けれどぎりぎりで我に返って、それでも抗えずに結局遠慮がちに少しだけ身を任せて目を瞑れば、上から京楽の声が降りてくる。

「ユキちゃん。これまで何度か言ってきたけど、ボクも浮竹も、君のお父さんの代わりに、君に出来ることは何でもしたいと思ってる。だから、何かあったら遠慮なく頼っておいで。ボクら二人共、いつでも待ってるからさ」
「……はい」

三度目の返事は、その奥に嬉しさを滲ませて。
とはいえ実際のところ、何度そう言ったところでユキが京楽や浮竹を頼って来た試しはない。
そしてそれが、二人の悩みの一つでもあったのだが――それでも、何度もこうして声をかけておくことが、ユキにとっては大切なのだと京楽は思う。

(ほんと、もっと頼ってくれたらいいんだけどねえ。穂村も、ユキちゃんを随分しっかり者に育てちゃって)

心の中で、京楽は独りごちる。

いわゆるエリートの両親のもとに生まれた、それに恥じない優秀さを持ったユキの欠点の一つは、人の手を頼ろうとしないところだ。
ユキが成長し、手がかからない年頃になってから、二人は仕事に本格的に仕事に復帰して、家をよく開けるようになった。
当然一人でいる時間が多くなったユキは、『一人』が基本のしっかり者に育ったのである。

ユキが我儘のひとつも言わず、真面目でしっかりとした良い子に育ったのは、ユキの両親、もとい父親である正義の自慢でもあって、京楽と浮竹はそのことを酒の席でよく聞かされた。
しかしそれは同時に正義の悩みの種でもあって、「寂しい思いをさせてるだろうに、『寂しい』の一言も言えない子に育ててしまった」と、これもやはり酒の席でよく聞かされた。

(穂村も苦労したはずだよ、ほんと)

そう思いながら、京楽はユキを離す。
そうして、恥ずかしそうにはにかむユキをひとしきりからかってから、病室を後にした。



「――いやァ。ボクにちょっとだけ身を任せた時のユキちゃん、本当に可愛かったなあ」

その時のユキの話を、デレデレとしまりのない顔で京楽は語る。
そんな京楽を見て、と顔をしかめたのは浮竹。
しかし京楽を戒めるのかと思いきや、開いた口から紡がれた言葉はそうではなかった。

「ずるいぞ、お前ばっかり」

俺だってなあ、と続ける浮竹の顔にはありありと不満が溢れている。
本当は彼も京楽と共にユキの見舞いへ行きたかったのだが、いかんせん病が許してくれなかった。
それで仕方なく玉露・羽衣を見舞い品として代わりに届けるよう、京楽に頼むに妥協したのである。

「それで、様子はどうだった?」
「元気そうだったよ。お前の予想通り、もう仕事してた」
「はは。そういうところは、摩耶ちゃんそっくりだなあ」

そう言って笑いながら、浮竹はユキの母のことを思い出す。
彼女もその昔、熱に浮かされながらその病床で業務を進めていた。
特に鬼厳城剣八のころなどは、摩耶がいなければそれこそ十一番隊の書類は一切動かなかった。

「それと、髪が短くなってたよ。霊術院時代の君よりも、ちょっと短いくらいだったかな」
「! そんなに……」

少し驚きつつも、まあでも確かに、と浮竹は口ごもった。
牢で見た、千本桜の刃を受けて千切た髪は、確かに整えようと思えばそれくらいになる。

今回の事の顛末によって、白哉も思うところ、というよりもユキに対して心を解いたのだろう。
清音から、白哉がユキを見舞っていることを聞いて安心していたが、それとこれとはまた別の問題だ。

「ショックだったろうなあ。あれだけ伸ばしてたのに」
「それも、六番隊の隊長さんのためにね」

ユキは二人に髪を伸ばす真意を語ったことはないが、特に女性の心に敏感な京楽にすれば、理由など見ているだけで分かった。
比較的クールな印象が強いユキの、少女らしく愛らしい理由に気づいた時は、可愛いものだと二人で目を細めた。
でもまあ、と京楽は続ける。

「そんなに気にしてる感じではなかったよ。彼女も覚悟決めた結果のことだし、仕方無いって感じかな。でも、何か迷ってる感じはしたから……もしかしたら、近々何か、進展があるかもね」
「……結末、じゃなくてかい?」

心配そうにそう言った浮竹に、ふっと笑って「進展だよ」と京楽は言った。

「終わるにしろ、続くにしろ、一つケリをつけて。そこからまた、新たに歩き始めるのさ」

その言葉に、そうだな、と浮竹。

「出来れば、幸多き道を……だな」
「そうなるようにサポートするのが、ボク達おじさんの役目でしょ」
「違いない」

いつも一人で先を見つめる少女の瞳を思い出しながら、二人は笑う。
『京楽おじさんと浮竹おじさん』と、京楽はユキにそう言っておどけて見せたが、実際気持ちとしてはそれが的確だった。
幼い頃からユキの成長を見てきた二人にとって、ユキは親戚の子供のように愛しい存在なのだ。

「まあ一つ、穂村の代わりに頑張っちゃうとしましょうじゃないの。ね、浮竹おじさん」
「勿論さ、京楽おじさん」

ぽん、と肩を叩いた京楽に、手をひらりとさせて浮竹は応える。
二人の『おじさん』の苦労は、まだ始まったばかりだ。

***

「……」

ユキの病室に入って、白哉は沈黙した。
執務室と変わり果てた病室を見回して顔をしかめている白哉を見て、ユキはきっとこれまでの二人と同じことを思っているのだろうな、と思いながら「おいでいただきありがとうございます」と白哉に声をかける。
半ば呆気にとられていた白哉は、ユキが促すと椅子に腰掛けた。

「……体は、平気なのか」
「はい、書類を片付ける分には問題ありません」

そういう問題ではないだろう、という言葉を白哉は飲み込んだ。
ユキにおける『十一番隊三席』とはそれが役目だ。
そんなユキが寝込んでいるために、十一番隊は大変らしいという話を恋次から聞いていた。
とは言え、昨日目覚めたばかりの人間がこうして山のような書類を片付けているとなると、さすがにその負担が心配になる。

「……あまり、無茶をせぬようにな」
「……はい」

ねぎらうように言葉をかけると、嬉しそうにユキは小さく笑って返事をした。
それから、ふと気づいて顔をあげると「そうだ」と声をあげる。

「先程、京楽隊長づたいに浮竹隊長からとても良いお茶をいただいたんです。せっかくですから、召し上がっていってください」
「、ユキ」

ベッドを抜けようとしたユキに目をやれば、その体がぐらりと前に揺れて白哉は手を伸ばす。
ユキはユキで壁に手をつこうと手を伸ばすが、掴むものがないそこに手をついても今のユキでは支えられず、そのまま倒れ込んだ。
しかし目を瞑るよりも先に、ユキの目の前が暗くなる。

――椅子の倒れる音が聞こえた時には、ユキの体は白哉の腕の中にあった。
目の前の『何か』に思わずしがみついたユキは、それが白哉だと気づいた瞬間、呼吸が止まる。

なにか言わなければ。
なにか、ではなくて、謝罪をして、離れて、もう一度重ねて謝罪をして。
そうしなければと思うのだが、焦って体に力がうまく入らない。

「……無茶はするな」
「は、はい……」

上から聞こえた白哉の声に、ユキはようやく空気を肺に入れると、ぎこちなく答える。
ゆっくりと足を揃えて床の上に立てば、それを見届けてから白哉はユキをベッドの上に座らせた。

「茶なら、私がいれる」
「あ、いえ、でも……」
「構わぬ。このくらい、私にも出来る。私の手を煩わせたくないというなら、尚の事大人しくしていろ」

きっぱりとそう言われて、それではお願いします、とユキが言ったのは、白哉が自分の言葉をきかないのが分かったからだ。
声がすこし、ムキになっている。

(びっくりした……)

テーブルの上を整えながら、ユキは胸を撫で下ろす。
今日、京楽にも抱きしめられたが、それと今しがた白哉に抱きとめられた感覚は全然違っていた。

いわゆる『女の香り』がする京楽と違って、白哉からは貴族らしい、高級な香のかおりがする。
その香りを、白哉の体温を、近くに感じた瞬間、顔に血が上って息ができなくなる。
京楽に抱きしめられた時のように、落ち着いた気分にはならなくて、ひたすら胸がドキドキする。

そして京楽に抱きしめられた時と同じように、その胸に身を預けてしまいたい気持ちになる。
けれどその意味合いはまた、京楽の時とは違う。そこには自分勝手な欲がある。

(……好きだなあ…)

白哉に気づかれないように、ユキはため息をつく。
そしてふと、短くなった自分の襟足に手をやる。

「その髪……」

白哉の声が聞こえて、ユキはそちらに顔を向けた。
急須と、二人分の湯呑を盆に乗せた白哉は、それをテーブルの上に置くと、椅子の上に腰を下ろす。
かと思うと、伸びた手はユキの襟足に触れた。

「……済まぬことをした」
「い、いえ!いいんです。こんな、髪くらい」

気にしないでください、とそんな気持ちを込めてユキは笑った。

触れられた毛先から、熱が上がっていくような心持ち。
けれどそんな幸せな気持ちは、同時にユキの胸をぎりりと締め付ける。

冷たいと見られがちな白哉だが、本当は優しい。
実はムキになりやすくて、意固地で、頭に熱がのぼりやすいタイプだ。
不器用だけれど、実直で。わかりにくいけれど、わかりやすくて。

そして、一途だ。

「私が言うのも妙な話だが……折角の、美しい黒髪だ。また、伸ばすが良い」

ユキはその言葉に返事をしなかった。
代わりに曖昧に笑って、お茶いただきますね、と濁した。

(……不毛だ)

不毛な、恋をしている。
それでもいいと、ダメでもともとだと、好きなものはしょうがない、それでいいと。
そんな気持ちで、恋をしてきた。

『折角の美しい黒髪だ。また、伸ばすが良い』

その言葉を言うのが二度目だということを、白哉は覚えているだろうか。
20年前、十一番隊に入ってから暫くして、久しぶりに会った白哉にそう言われたのが嬉しくて、髪を伸ばしていた。
けれどその髪は、白哉の大切なものを護るのと引き換えに失ってしまった。

別に、それは構わない。
白哉の手で、ということも、それもどうでもいい。

『……兄様と、少し近くなったように思う。私の目を見て、話してくださるのだ』

今日、その後の様子を聞いた時の、ルキアの嬉しそうな顔をユキは思い出す。
しがらみも何もなくなって、白哉は今、次へと踏み出した。
きっともう、緋真との約束を違えることはない。

そしてそうでなくとも、緋真以外の人間を愛することはない。

不毛だ。
ずっと前から知っていたことを、ユキは再確認する。

「……美味しいですね」
「ああ」

白哉は、ユキのことを大事に思ってくれている。
それはけして、ユキの自惚れではないことをユキは確信している。

けれどそれはどれだけ待とうと、ユキの欲しい気持ちには変わらない。
それも、確信していた。

(朽木隊長は、私のことを好きにはならない)

別に、不毛な恋が嫌になったわけではない。
いつか気持ちが溢れてしまう時が来そうで、それが怖いだけだった。
言えばきっと、白哉は困る。

(……やっぱり、良い機会なのかもしれない)

髪がダメになった時から、なんとなく考えていたそれ。
白哉を目の前にしてユキは改めて思案しながら、白哉へ四方山話を寄越してにこりと笑った。



「では、また来る。……まだ病み上がりなのだ。程ほどにしておけ」
「はい、ありがとうございました」

挨拶を交わして、白哉はユキの病室を後にする。

(随分と、細い体をしていた)

態勢を崩したユキを抱きとめた時の、その感触を白哉は思い出す。
その体は、少し不安になるくらい細く、弱々しく感じた。
気丈に振舞ってはいたが、やはり病み上がりは病み上がり。
病室に積まれた書類の山を思い出すにつけても、ユキの責任感を鑑みるにつけても、白哉は少し心配になる。

(また、倒れねば良いが)

そう思いながら、「大丈夫ですよ」と笑ったユキを思い出して、その意識は髪の短さに移った。

『……じゃあ、また伸ばしますね』

いつかのユキの言葉が、白哉の脳裏に蘇る。
20年前、虚の襲撃に巻き込まれたユキは、命は助かったが伸ばしていた髪は首筋の辺りでばっさり切ることになった。

その後ユキを更木の隊にとられ、暫く多忙だからと顔を合わせられないでいたが、久方ぶりに会ったユキは妙に疲れた顔をしていた。
けれど同時に、「みんな良い人たちで、よくしてもらってます」と憂い無く笑うユキが、なんだか遠くなったような気がして、繋がりを求めた手は、髪へと伸びた。

『髪は、もう伸ばさぬのか』

『折角の美しい黒髪だ。また、伸ばすが良い』

そう言った。
そうしたらユキは照れたように、そして嬉しそうに微笑んで、伸ばしますと誓った。

それを切ったのは、自分だった。
立ち向かってきたユキを、容赦なく斬り伏せたのはほかでもない、白哉だった。
結果論とは言え、馬鹿なことをしたものだ、と白哉は思う。

『お茶、いただきますね』

また伸ばすがいいと言った白哉の言葉に、ユキはそう言って返答を濁した。

(……私も存外、不器用が過ぎるな)

ユキのことに限らないが、大事なくせに傷つける。
それを何度も、繰り返してきた。

ユキに対しては、その本心を想いを受け入れる気もないくせに、気づかぬふりをして、伸ばされる腕を引き寄せている。
それがどれだけ残酷なことか、白哉はよく分かっている。
白哉へと向けるユキの笑顔が、少し歪になるその理由も、白哉はよく分かっていた。




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