携帯のアラームの音で、菜々美は目を覚ます。 画面をスライドして音を止め、いつもと違ってあまりはっきりしない目をこすっていた菜々美だったが、ふと画面に映し出された時間を見て目を見張った。 「うそ、もうこんな時間!?」 いつもならもうとっくに起きている時間を、一時間もまわっていた。 とはいえ学校に行くにはまったく問題のない、どころか普段通りに支度をしても30分以上も余裕のある時間だ。 しかし菜々美にとっては、大遅刻もはなはだしい時間である。 (悠くんのお弁当……!) ベッドから飛び上がって、手首につけた髪ゴムで適当に髪をくくる。 パジャマがわりにしているジャージを羽織ってポケットに携帯をほうり込み、あわてて部屋を飛び出すと階段を駆け下りた。 が、リビングに入ったところでふと思い当ってポケットから携帯を取り出す。 途端、慌ただしかったそれまでの時間が、いっきに静まり返った。 (メール……着信……) 新たなそれを告げない履歴を見ているうちに、菜々美の荒い息遣いもおさまっていく。 「……悠くん……」 ――いつもなら、朝はもっと早くに起きて田島と自分のための弁当を作る。 そしていつも同じ時間にやってくる田島にお弁当を渡して、部活の朝練のために菜々美よりずっと早い時間から学校へ行く彼を見送るのだ。それが、自分の日課のはずだったのだけれど。 でも昨日はあの後なかなか眠れず、胸の中にモヤを抱えたまま時間ばかり過ぎていく時計を何度も見上げた。それでもそのうち眠ってしまったらしいが、いつもの時間に鳴ったはずのアラームには気づかずにこの状態である。 「……」 菜々美は、リビングを後にする。適当に身支度をととのえて、向かう先は田島家。 菜々美を出迎えたのは、田島の母・美輪子だった。 「あら、菜々美ちゃん。どうしたの、こんな時間に」 「あの……悠くんって、もう学校行っちゃいましたか?」 「ええ、いつもの時間に……」 「……そうですか……」 しゅんと顔をうつむかせる菜々美を見て、あらあら、と美輪子は心配そうな表情を浮かべる。 「……菜々美ちゃん、悠と昨日、あの後なにかあった?」 なんだか悠、昨日の夜から気持ち悪いくらい黙り込んじゃって。 菜々美のことを気にしてか、冗談交じりに美輪子がそう言って笑うのに対して、菜々美は唇をちいさく噛む。 そうして少し迷いながら、そっと口を開いた。 「……実は、昨日少し悠くんとケンカしちゃって……。そのうえ私、今日寝坊してお弁当作れなかったんです。……どうしよう、おばさん。悠くん、きっとすごく怒ってる……」 涙を目に溜めて、菜々美はスンと鼻をすする。 そんな菜々美を見て、美輪子は優しげに目の端をなごませた。そして「そんなに心配しなくても大丈夫よ」と笑いながら、菜々美の震える肩をぽんぽんとなでる。 「悠はちょっと意地っ張りなところはあるけど、菜々美ちゃんのことは大好きだから。怒ってることなんて、きっとすぐに忘れちゃうわ」 そう言うと、よしよしと菜々美の頭をなでながら美輪子は続ける。 「お弁当だって大丈夫!お小遣いは持ってるし、無いなら無いで勝手に買って食べるわよ」 普段だって早弁して購買で買ってんだから平気平気、と美輪子は笑う。 それでもなお菜々美が鼻をぐずぐずと言わせていると、菜々美の空いているほうの手を包み込みながら「でもね」と美輪子は言葉を続ける。 「もし早く仲直りしたいなら……よかったら、菜々美ちゃんからキッカケを作ってあげてくれる?あの子、菜々美ちゃんのことは大好きだけど男なんてバカで意地っ張りだから、きっと自分からはうまく言えないと思うのよ」 「……おばさん……」 眉を下げた美輪子の眼差しは、申し訳なさを含みながらも暖かい。 しかしだからこそ尚の事、あふれる涙をぬぐう菜々美の胸には新たなモヤが溜まっていった。 そんな菜々美に気づかず――もしかしたら、気づかないフリをしてくれているのかもしれないが――美輪子はにっこりと笑うと、「さあ!」と明るく声をあげる。 「そろそろ菜々美ちゃんも、学校に行く支度をしてらっしゃい。そんな顔じゃ、せっかくの美人が台無しよ」 ――結局、最後まで頷くことはできなかった。 洗い直した顔で、菜々美は鏡に映る。 どんよりと暗い顔をした少女が、そこには映っていた。 『俺は頑張ったのに、菜々美は頑張ってくれねーの?』 田島の言葉が、頭の中で響く。 射抜くような鋭い視線を思い出して、鏡の中の自分が怖気づくのが菜々美の目に映った。 思えば。 今まで、頑張ったことなんてなかったかもしれない。 いつもいつも田島に頼って、甘えてばかりいた。 田島が自分のところへやってきて手を引いてくれるのを、いつも待つばかりで。 そのくせ、田島がどうしてもという時にかぎっては、その手を拒んできたように思う。 『……もういーよ。悪かったな』 田島の言葉がもうひとつ響いて、菜々美の心に突き刺さる。 だとしたらこれは、田島に甘えきっていた自分への罰だ。正当な、報いだ。 手のひらを、ふと見つめる。 白い指の先では、昨日包丁で切った傷にうっすらと赤みがさしていた。思い出すのは、それを見て悲しげに顔をくしゃりとさせた田島。 けれどこんな痛み、自分が田島に与えたであろう心の痛みにくらべれば、きっとなんてことはない。それだけのことをした。いや、もしかしたらこれまでもずっと、気づかなかっただけでしてきたのかもしれない。 (……ずっと、このままでいるつもり?) 鏡の中の自分を見つめる。 大きな体はよく大人に間違われて、でも心はずっとちっぽけな子供のままで。甘えて、頼って、ワガママばかりで。いつまで自分はそれを続けるつもりなのだろうか。 そうは、思うけれど。 鏡の中の自分に、菜々美は手を伸ばす。 鏡の中の自分も手を伸ばして、その指先が触れ合った。 「頑張れる?」 二人同時に、そう問いかける。 不安げな瞳が交差して、しかし。 「……やっぱり、怖いよ」 時が迫る中、唇からこぼれたのは弱々しい一言だった。 *** 「あれ、今日弁当は?」 泉の言葉に、焼きそばパンへかぶりつく田島が顔をあげる。 そのままもふもふ喋ろうとする田島へ、「食ってから喋れ、食ってから」と泉は呆れ顔を向けた。 田島が休み時間に早弁をするのはいつものことで(補足しておくと、泉達や野球部に限らずほかの運動部の面々もよくしている)、それは普段となにも変わらない。 泉が気になったのは、今日にかぎっては田島の机の上に並べられているのがすべて購買のパンだということだ。田島はいつも、割と豪華な弁当を持ってきている(そしてそれをよく、三橋が羨ましそうに見ている)。 が、それが今日は見当たらない。 弁当を食べきってしまった昼以降ならまだしも、今はまだ午前中である。 「今日弁当無いんだよ。だからコーバイ!」 「へえ。お袋さん、寝坊でもしたの」 「……んー、まあ。そんなとこ」 田島の返答に一瞬間があいたのを、泉は見逃さなかった。 しかしあきらかに誤魔化された答えをわかっていながら追及しなかったのは、元来見守るタイプである彼のスタンスからくる選択である。だがそれ以上に、自分の踏み込む問題ではないとハッキリ判断していたからでもあった。 ――今日の田島は、少しおかしかった。 いつも通りのように見せかけて、しかし、ふとした瞬間に黙り込んでなにか考え込んでいることが多かった。 そう思ったのが泉だけなら勘違いだったかもしれない。 だが栄口や花井などよく気づく面々がそろって「今日ちょっと田島おかしくない?」と泉に囁いてきたあたり、おそらく勘違いではない。(ちなみに気づいた彼らには、「続くようならアレだけど、とりあえず今日一日は放っとけ」と告げておいた) 結局、ふうん、とだけ言ってそれきりその話題には触れず、泉は自身の席に戻った。 対して田島は、ポケットからおもむろに携帯を取り出すと履歴ボタンを押した。そしてなんの新着も告げない画面を落とすと、溜め息もなくしまい込んだ。 (……やっぱ、怒ってるよな) 昨日の夜こそあんな別れ方をしたけれど、でもきっと菜々美のことだから、朝になればまたいつも通りになるんじゃないか――そう、田島は思っていた。 気まずそうな顔をしてドアを開けて、いつもみたいにお弁当を渡してくれて。そしたら、「昨日はごめん」と謝ろうと思っていた。 けれど、実際は違った。 いつも通りの時間にインターホンを鳴らして、しかし菜々美は出てこなかった。 ドキリ、と心臓が嫌な音を立てるのを感じながら、恐る恐るもう一度。でもやっぱり、菜々美が顔を出すことはなくて、三回目を押すより先に田島は二階にある菜々美の部屋を見上げた。 そして、ぴっちりと閉じられたまま微動だにしないカーテンを見て、菜々美は自分に会わない、と田島は理解した。 気まずくて会えないのではなく、自分に会いたくないのだと悟った。 だから三回目は押さずに、そのまま学校へと向かった。 本当は、電話してみようかと思った。メールを、出してみようかと思った。 会うのが気まずいなら、間接的な方法ならもしかして、と思った。 なんだったら、学校についてから思い切って菜々美の教室にでも行ってみようかと思った。 学校なら、あからさまに避けたりはできないだろうから、そこで強制的にでも顔を合わせて謝れば。そう思った。 だけど、怖くてできなかった。 電話をかけても、出てくれないんじゃないか。切られるんじゃないか。 メールを出しても、見てくれないんじゃないか。見もしないで、削除されてしまうんじゃないか。 ――会いに行ったら、面と向かって拒まれてしまうんじゃないか。 そう思うと、怖くてできなかった。 『俺は頑張ったのに、菜々美は頑張ってくれねーの?』 昨日自分が口にした言葉が、自分の胸を締め付ける。 思えば。 菜々美は、いつも頑張ってくれていた。 田島が言えば人の輪の中にも入ろうとしてくれたし、自分の言う野球の応援だって、一度はちゃんと見に来てくれた。菜々美が頑張らないのは、それが『一度失敗したこと』だからだ。 正直なところ、今の菜々美の引っ込み方は駄目だと田島は今でも思っている。 けれど一度自分が引っ張り出して、それが結局駄目だったことを考えると話は変わってくる。そうして菜々美を『失敗させてしまった』ことを考えると、自分の無理強いはそれこそ菜々美のためにならないのでは、と思わないでもない。 『……もういーよ』 焦って、苛立って。そのせいでつい口をついてでてしまった言葉が、胸に突き刺さる。 本当は、あんなことを言うつもりではなかった。けれどあの時の田島は「じゃあ、私も頑張る」と口にした菜々美に対して、「おう。一緒に頑張ろうぜ!」と、その言葉しか用意していなかったのだ。そんなことを菜々美が言えるはずもないのは、あの時の菜々美を見ればわかり切ったことだったのに。 (……なんで、あんなこと言っちゃったんだろ) 怖がる菜々美に。うつむいて、ただ恐怖に耐えることしかできない、そんな臆病な女の子に、よくもあんな酷い言葉をかけられたものだと、今ならそう素直に思える。 (ただのガキじゃん、こんなの) ワガママを言って困らせて、振り回して、叶わなければ癇癪を起こして。 小さな体と一緒で、心もまるで子供のように未だにうまくブレーキを利かせられない時がある。そのせいで菜々美をいつも困らせて、そして今回は傷つけた。 (俺、マジで馬鹿だ) 心の中でそう自分へ吐き捨てて、味のしないパンを田島は飲み込んだ。 *** (……あ。っつーか、モモカンになんて言おう) 田島がそのことを思い出したのは、放課後になってからだった。 自分から頼み込んだのに、それが無くなってしまったとなると、さすがにいささか言いにくい。 (……っつーか菜々美、今日は家に来るのかな……) もしかすると、もう来ないかもしれない。 そう考えて、田島の胸がちくりと痛む。 (……やっぱり、謝ろう) 怖いだのなんだの、言っている場合ではない。そう思いなおして、田島の足は菜々美のいる7組の教室へ向かった。 ――が、そこに菜々美の姿は無かった。花井も、阿部も、水谷も、篠岡も。見知った顔はみんな教室にいるのに、菜々美だけがいなかった。 もしかして、今日は学校を休んでいるのだろうか。自分のせいで?――そう思っているうち、田島の存在に篠岡が気づいて声をあげた。 「あれ、田島君!どうしたの?珍しいね、こっち来るの」 その声にほかのメンバーも田島の存在に気付く。田島も、はっとしたように顔をあげた。 「おー、田島じゃん。なに、迎えに来てくれたの?」 「三橋は?あいつは先行ったのか?」 「なんだ、泉達一緒じゃねえのか」 わらわらと集まってきた野球部の面々に、しかし田島は開きかけた口を閉じる。 そんな田島を見て、唯一花井だけ察するものがあった。が、口を開くより先に、「なにやってんだ?」と田島の後ろから泉が顔を出した。その隣には、三橋の姿もある。 「もうHR終わったんだろ?掃除当番でもねえなら、こんなとこで固まってねえで部活行こうぜ部活」 言おうとしていた言葉を泉にとられて、花井はひっそり情けなさに苦笑する。それでも泉の言葉につづいて部活へと促しながら、掃除当番の水谷や篠岡たちと分かれてグラウンドへと向かった。 (……こっちの教室来たってことは、やっぱ相沢関係か?) グラウンドへの道すがら、先刻口を閉ざした田島の表情を思い出しながら花井は考えていた。今はすっかり普段通りで、時折三橋の通訳を務めながら他愛もない談笑をしている。 そういえば、今日は菜々美もいつにもまして暗い表情をしていたことを思い出す。よくはわからないが、二人でケンカでもしたのだろうか。 (っつーか。だったら尚更、放置案件だっつーの) 泉に『とりあえず今日一日は放っとけ』と言われながらも盛大に気にして、下手をすれば口を出しそうな自分に呆れながら心の中で言い聞かせる。 そしてその傍ら、そういえばいつもゆっくりと(というより、おそらく人がはけるのを待っているのだろう)帰り支度をしている菜々美が、今日は一目散に教室を出たことを思い出した。まるでどこかに急いでいるように見えたが、もしかして田島が教室に来るかもしれないことを予想してさっさと帰ったのだろうか。 だとしたらそこまでのことを、田島はいったい何をしたというのだと考え始める自分を「だから!」と再び花井は叱咤する。 身内のことなら尚更、自分が首をつっこむべきではない。もちろん練習に身が入らないようなら考えなければならないが、なんにしても泉の言う通り、今日一日は放っておくべきだ。 (ったく、シュショーは疲れるぜ……) そう思いながらこっそりと溜め息をついたのと、皆の足が止まったのは同時だった。合わせるように足を止め、どうした急に、と口を開こうとした花井の耳に、「あれ、あそこにいんのって」と阿部の声が届く。 まだ少し先にある、野球部のグラウンド。 金網の向こう、ベンチのあたりで百枝となにか話している女生徒の姿が見えた。 その女生徒が誰か――それはおそらく、この場にいる誰もが一瞬で分かり得た。 顔はよく見えないが、百枝より頭一つ分ほど背の高い女子など彼らには一人しか思い当らない。 相沢菜々美――少なくともこの学校で知るかぎりは、彼女だけだ。 「ッ……俺、先行くわ!」 「!」 言うなり、駆け出した田島に花井は驚く。 そして、自分の予想がおおよそ当たっているのであろうことを察した。 (……ま。なんかよくわかんねーけど、うまくやれよ田島) 駆け出す瞬間、菜々美の姿をみとめた田島の目が、どこかすがるような色をしていたのを花井は見逃さなかった。 おそらくは自体の解決に向かおうとしているのであろうチームメイトへ、花井は心の中でエールを送る。 「? なんだ、田島のやつ?」 「……?」 そして、なにからなにまでワケがわからずに首をひねっているバッテリーを前に、泉と二人で「さあな」と口にするのであった。 |