「いいぞ、裕太!交代だ。次!」
「ありがとうございました!」

赤澤さんとのラリー練習。
一礼してからコートを出て、次の奴と入れ違いにコートを出る。流れる汗をタオルで拭けば、流れてきた秋風が火照った体に気持ちいい。


正式に聖ルドルフ学院テニス部の一員になって、しばらく。俺はまるで、世界が変わったような気分だった。

ここでは、誰も兄貴を知らない。誰も俺を、兄貴と比べない。
だから、誰の目も気にせず思いっきりテニスが出来る。空っぽの頭に、体に、強くなるための方法だけを詰め込める。なんのつかえもなく、息が出来る。

――聖ルドルフに来てから、テニスが本当に楽しい。
ここに来て、本当によかった。

(全部、観月さんのおかげだ)

改めてそんな風に思いながら、そういえばコート内に観月さんの姿をみかけないことに気付いた。俺がコートに入るまでは、たしか隣のコートで柳沢さんたちになにか指導していたと思ったんだけど。

(どこ行ったんだ?)

そう思って辺りを見回しながら給水用のジャグのそばまで来た時、その姿を部室棟の前に見つけた。テニス部の部室扉の前で、桜庭となにか話している。

(今日のメニューの予定かなんか話してんのかな)

ここしばらく桜庭のことを見ていたけれど、桜庭は大人しそうな見た目の割に結構はたらき者だし、案外力がある。
部活中にスポーツドリンクたっぷりのジャグを持って校舎の給湯室とテニスコートを三往復はするし、洗濯物当番は毎日手伝うし、ケガ人が出れば手当もする。あとは生え抜き組の日々のスコア記録とかランキング戦結果の管理なんかも、観月さんに頼まれてやっているらしい。
それから結構声も張れる方で、タイムキーパーとして声を張っている時もある。そうやってあっちこっち小さい体でちょこまかしながら疲れた顔ひとつ見せないで、誰かが声をかければにっこり微笑んでこたえる。

俺や他の部員は、言っちまえば自分のためだからいくらでもだけど、他人のためにあんなに色々やって笑ってられんのって正直スゲーなって思う。

……っつーか念のため言っとくが、別に桜庭が気になって見てたわけじゃない。断じてない。ただクラスも部活も同じだから、それで目にする機会が多かっただけだ。

それだけだ。本当に、それだけ。
でもそれだけなのになんだか後ろめたいような気分になって目を反らそうとした時、それより先に観月さんと目があった。かと思えば、観月さんが「裕太くん、ちょっと」と俺に呼びかけて手招きをする。
なんだろうと思いながらもコートを出て部室前の観月さんのところへ行くと、ちょうどいいところに、と観月さん。どうやら、不足した備品や非常食(主に菓子とかカップラーメン)の買い出しのために、桜庭が街に買い出しに出ると言っているらしい。

「とは言え、彼女一人を街に出すというのは些か危険だと思いまして。ですが僕はこれから早急にしなければならないデータの整理があるので、同行を裕太君に頼みたいんです。お願い出来ますか?」
「あ、はい。そんなことなら、全然いいっスよ」
「あの、でも観月さん、やっぱり練習の方が大事ですし、私一人でも……」

二つ返事で俺が了承する横で、眉を下げた桜庭が断ろうとする。でも観月さんはきっぱりと、でも優しい声で「いけません」と返して、それに、と続けた。

「裕太君はこの辺りの地理にまだ疎いですから、知るためにも丁度いいんです」
「そうそう。俺この辺の店とか全然わかんねーし、ついでに教えてくれよ桜庭」
「ほら、本人もそう言っていることですから。さ、そうと決まれば早くお行きなさい」

桜庭は相変わらず渋るような表情を浮かべてたけど、観月さんに言い聞かせられるように言われると「わかりました」と観念したように口にする。

「それじゃあ、行って来ます」
「ええ、行ってらっしゃい。裕太君、優花さんを頼みましたよ」
「はい。行って来ます」

そうして、観月さんに見送られて俺達はその場を後にした。



観月さんが桜庭一人で買い物に行くことを心配していた理由は、街に出てすぐに分かった。
いやまあ、女一人でフラフラさせるのがそもそもあんまりってのも勿論あったんだろうけど、でもそれ以上に桜庭そのものが人の目をよく引いた。

桜庭はなんつーかこう、「これが女の子です」っつーのを詰め込んだみたいな見た目っていうか。小さくて、華奢で、色白で、雰囲気がこうフワフワしてて、まあ簡単に言えばスッゲー可愛い。
そんでもって、そこにいるだけで空気が華やぐっていうか。こういう人が多いところだと余計に思うんだが、桜庭がいるとそこだけ空気がキラキラするっていうか……まあこれも簡単に言えば、なぜかスッゲー目立つ。

そんな桜庭は人の目をよく引いて、すれ違う人はほぼ間違いなく桜庭を目で追っていた。
桜庭もそれを気にしてるのか、俺の隣を歩きながらも俺の後ろに隠れたそうにしている。伏せるみたいに少し下に向けている顔には、さっきからずっと困ったような表情が浮かんでいた。

(こりゃ確かに危ないな……)

これだけ目立てば、変な奴が近づいてきてもおかしくない。

「あの……ごめんね」
「えっ?」

それまでずっと黙っていた桜庭が、不意に口を開いた。苦笑を浮かべる桜庭は、潜めた声で続ける。

「私、目立つでしょ?だから、一緒にいると……ごめんね」
「ああ、いや。別に、全然ヘーキだから気にすんなって。それよりほら、スポーツショップってあそこだろ?」
「う、うん……」

大丈夫だって、と笑いかけてみたけれど、やっぱり桜庭は申し訳なさそうに笑うだけだった。
それでも、メモを片手にあれこれと買い物をしているうちにだんだんと気持ちが逸れて来たのか、少しずつ表情に明るさが戻ってくる。最後に入ったスーパーで非常食を買い足して袋を両手に外へ出た時には、買い物を終えた達成感もあってか、すっかりいつもの調子に戻っていた。

「それ、重くねえか?やっぱり俺が――」
「だーめ。ただでさえ不二君、もう重い物持ってくれてるんだから。それにこう見えて私、結構力持ちなんだよ。ジャグに比べたら軽い軽い」
「あはは、そりゃそうだ」
「でしょ?」

ふふ、と桜庭が笑う。
それだけで、まるで花が咲くのを見たみたいに気持ちが明るくなって、日向にいるみたいに胸があたたかくなる。正直人の目は相変わらずなんだけど、それでも桜庭が元気になって良かったと思っていた時、ふと桜庭の足が止まった。

「?」

俺も立ち止まって、桜庭の視線を追う。
目に入ったのは、CDショップのウィンドウに設置された宣伝用のモニター。映し出されていたのはテレビでよく見る女性アイドルグループのPVで、桜庭はそれをただじっと、どこかぼんやりとした表情で見つめていた。

「……桜庭?」
「えっ?……あっ、ご、ごめん!急に立ち止まっちゃって」
「いや、全然。それより、そのアイドルがどうかしたのか?」
「ううん、なんでも。……ただ、可愛いな、って思って」

いや、お前の方が可愛いだろ。
そんな言葉が思わず口をついて出そうになって、慌てて閉じ込めた。その隣で、桜庭は少しぼうっとした様子で言葉を続ける。

「すごいよね。すごくキラキラしてて……とっても、ステキだなって思う」

うらやましがるような、そんな声で桜庭はそう言った。
だけど俺は、そう言った桜庭の表情がなぜだか暗いように見えるのが気になっていた。


***


「……桜庭は、さ。アイドルとか、なってみたいとかねえの?」

不意に、一緒に買い物に来ていた編入生の彼がそう言った。
とっさに声が出なくて無言のまま顔を向けると、彼はほんのちょっとだけビックリしたような顔をする。
でもすぐに、ちょっとあわてながら言葉を続けた。

「いや、その、桜庭だってほら、結構その、なんつーか、可愛いしさ。それにほら、親父さんたち芸能人だろ?そういうの、興味ねえのかなって……」

――お袋さんたち芸能人だろ?
その言葉が、胸の底でカランと乾いた音を立てる。

「……ありがとう」

口元をなんとか動かしながら、笑顔をうかべて私はそう言った。

「でも私、なにか人に見せられるようなものってないし。きっと、ダメだと思うな」

そう告げて、「さ、早く学校に戻ろう」と歩き出す。
編入生の彼はちょっと戸惑っていたみたいだったけど、すぐに私の隣を歩き始めた。

――一度だけ、ステージの上に立ったことがある。
まだ私が、小学生の頃。お父さんの芸歴を祝って催されたコンサートステージの上に、お父さんたっての希望で特別ゲストとして上げられた。

たくさんの照明。
そのうちの一番大きなひとつが、お父さんの合図でステージに上がった私を照らし出す。
瞬間に打ち上げられたミラーテープ。その向こうの、ペンライトの海。光に包まれたそこは、まるで夢の世界みたいだった。

私はそこでお父さんとデュエットして、そのコンサートが終わってから暫くの間、私はいちやく有名人になった。

町の人、お父さんやお母さんのファンの人、マスコミ――沢山の人に声をかけられて、騒がれて。
自分の周りがあっという間に変わったことにおどろいたけど、でもちょっと、うれしかった。そしてまた、あのキラキラしたステージで歌が歌えたら、拍手をもらえたら、なんて思っていた。

――だけどある時、その気持ちは急に冷めてしまった。
私に声をかける人がみんな、私じゃなくて「お父さんとお母さんの娘の私」を見ていることに気付いたからだ。
芸能界に入らないか、うちからデビューしないか。そんな声もあったけれど、それも全部お父さんとお母さんありきのことだった。

みんな私が、二人の娘だから声をかける。
みんな私が、二人の娘として芸能界に入ることを望んでる。

それが分かった途端、夢のようなあの日のキラキラした記憶もなんだか悲しくなってしまった。

(……いいな、あの子たちは)

モニターの中の彼女たちを思い出す。

あの子たちだけじゃない。
モニターの向こうにいる女の子たちは、いつもキラキラ輝いている。
照明の効果じゃない。ううん、それはもちろんあると思うけど、でも一番は彼女たち自身の光。
熱くて、眩しくて、とってもきれいな光。誰かに照らされるんじゃなくて、自分で光り輝く。私も、そんな風に光り輝ける女の子になりたかった。


モニターの向こうの世界は、私にはすごく近くて、とっても遠い。


そっと、下唇をかむ。それをほどいて、学校の裏門をくぐろうとした時だった。

「あのさ、桜庭」

不意に、編入生の彼が私を呼びとめる。足を止めた私が顔をむければ、彼は真剣な顔で口を開いた。

「……ごめん」

そう言って彼が頭を小さく下げるのを見て、私はとまどった。えっ?と思わず声をあげる私に、顔をあげた彼は続ける。

「親父さんたちが芸能人だから、とかさ……そういうの、イヤだったよな」
「……」

おどろいて、私は目をまたたく。そんな私を見て、今度は彼がとまどったような表情をうかべる。

「あ……えっと……俺の勘違い、だったか?」

ううん、とはすぐに答えられなかった。
かといって頷くこともできずに、私は唇をかんで視線を足元に落とす。そんな私を見て、彼は私の答えを察したらしかった。

「ほんとごめん。自分だってイヤだったくせに、俺、無神経で……」

――自分だってイヤだったくせに。
その言葉がひっかかって、私は視線をあげる。どういう意味、と小首をかしげて見上げる私に対して、彼は最初「しまった」とでも言うような顔をしていた。けれど、「いや、その」とか「ええと」とかモゴモゴいろいろ口にしたあと、最後に大きく、観念したようなため息をついた。

「……俺、さ。元は青学にいたって、言ったよな」
「う、うん」

私立青春学園。それが、彼がもといた学校の名前。テニスでは関東の強豪校なんだって、前に観月先輩から聞いたことがあった。
そんな強豪校に通っていた彼は、そこから離れたこの近くにあるテニススクールでも自主練習をしていて。そこである日、観月さんと出会ってスカウトされたんだと彼は以前私に言った。

「青学にはさ、兄貴がいるんだ。その兄貴ってのが、めちゃくちゃテニスうまくって。……なんかもう、『天才』って言われるくらいで。それで俺、そんな兄貴の弟だから、入学した時めちゃくちゃ期待されたんだよ」

『天才』の弟君だから、きっとテニスが上手いんだろう。弟君は、テニス部にもちろん入るんだよな。

弟君は。弟君は。弟君は。

入学してから毎日毎日、「天才の兄の弟」として期待されていたらしい。

「それがイヤで俺、青学のテニス部には入らないでこの近くのテニススクールに通ってたんだ。それで、そこで観月さんと出会って……ここにいる」
「……そう、だったんだ」

前に彼の口からきいたものとは少しだけ違う編入の理由。彼が聖ルドルフに来た、本当の理由。なんとなくうつむいた私に、彼は続けた。

「観月さんがさ。俺に、言ってくれたんだ。俺はもっと伸びる。こんな所で埋もれてるなんて、勿体ないって。……だから俺、ここなら……。誰も俺を知らない、兄貴と比べない聖ルドルフなら、兄貴を越えられるんじゃないかって、そう思ったんだ。それで少し、舞い上がってたのかもしんない。自分がイヤだったこと忘れて、他人に同じイヤな思いさせたらダメだよな。ほんと、ごめん」

彼のその言葉に、私は黙って首を横に振る。

すごいな、と思った。
だって、私は彼と同じ状況に置かれて逃げたのに。それなのに彼はそうじゃなくて、それを乗り越えるためにここに来た。私なんかとは、全然違う。

「……えっと……それじゃ、行くか。これ以上遅くなったら、観月さんたち心配するだろうし」

そう言った彼に、私はやっぱりうつむいたまま頷く。でも彼が一歩足を踏み出すその前に、手提げ袋を握る手に力を込めると、噛みしめた唇をちからをこめて開いた。

「あっ……あの…!不二、くん」

動きを止めた彼を、私は視線だけで見上げる。でもなんだか顔が見れなくて、すぐに下げてしまった。

「あの……。……ありがとう。気持ち、わかってくれて」

結局最後までうつむいたまま、私はそう口にした。
「礼言うとこじゃねえよ」と言った彼の顔は、そのせいで全然見えなかったけど。でも、その声は少しだけ笑っていた。




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