12月。
学校が冬休みになるちょっと前に、私は日本をはなれてオーストリアに来ていた。

その理由は、海外の姉妹校で行われる冬期交換留学。
3つあるプランのうちのひとつ、オーストリア音楽留学に参加することにしたからだ。
もちろん――っていうと、ドイツテニス留学もあるからちがう気もするけど、とにもかくにも、長太郎君も一緒だ。

午前のオリエンテーションを終えて、あたたかいカフェテリアで別グループになった長太郎君を待ちながら、私は跡部先輩にわたされた楽譜を見る。
卒業式用の合唱曲が二曲と、それから入学式の時にも使う校歌が一曲。
五線譜の上の音符を追いながら、私は跡部先輩との会話を思い出した。



「以降、行事の曲はお前が任されると思え。いいな?」
「はい」

私が戸惑うことなく返事をすると、楽譜をわたした跡部先輩は驚いたようにちょっぴり目を丸くした。
それからふっと口元をゆがめて、どうした、とたずねる。

「随分とやる気じゃねえか。前はあんなに怖気づいてやがったのに」
「あ、あの……私も、私に出来ることをがんばろうって思って」
「ほう?」
「ちょう……鳳君がこの間、準レギュラーになったって聞いて、すごいなって。それって、ちょっとやそっとがんばったくらいじゃなれなくって、でも、鳳君の目標は正レギュラーだから、もっとがんばらなきゃいけなくって、それでえっと……」

言いたいことはあるのだけれど、言葉がまとまらない。
「それで?」と続きをうながす跡部先輩を前に、私は考えながら少しずつ言葉を口にする。

「要するに、あの……鳳君ががんばってるのに、私だけ何もしないでダラダラしてるのってダメだなって…イヤだなって、思ったんです。だから私も、私にできることがあるならがんばろう、全力でとりくもう、って……そう、思ったんです!」
「……そうか」

そうとだけ言って、跡部先輩は笑みをうかべた。
私が「はい!」と力をこめて返事をすると、目を細めた跡部先輩は「よし、わかった」と頷く。

「お前の殊勝な心がけ、褒めておいてやろう。……それと、一つアドバイスだ」
「? はい」
「出る杭は打たれる。頑張ると決めた以上、お前は確実に有象無象のくだらねえやっかみに巻き込まれるだろう。ま、それをいかに華麗にかわして見返してやるかっていうのが腕の見せ所なワケだが……お前はその辺、下手そうだからな。もし何かあったら、俺か副会長の篠宮にすぐ報告しろ」

「すぐにだぞ、いいな」と、念を押すように私を指さす跡部先輩。
跡部先輩の言っていることは、正直わかるような、わからないような。
なんとなく上手くのみこめなくて、それでも跡部先輩の勢いにつられてあいまいに「はい」と返事をすると、跡部先輩は顔をしかめた。

「……本当にわかってんのか、お前?」
「えっと……よ、要するに、なにかあったら跡部先輩か篠宮先輩にすぐ報告、ってことですよね?」
「それじゃ、俺様のオウム返しだろうが」
「はい……」

すみません、と情けなさともうしわけなさで顔を伏せると、まあいい、と少し呆れたような跡部先輩の声。

「とにかくそういうことだ。いいな、すぐだぞ」
「は、はい」

おずおずと顔をあげながら答えれば、絶対だからな、と念を押した跡部先輩は、それから、と付け加える。

「文化祭の演奏は、見事だった。観客からのアンケートや、招待客からの評判も好評だった。……お前の演奏、これからも期待してるからな」

そう言うと、じゃあな、と後ろ手に手をひらりと振ってその場を後にする。
私はあわてて「ありがとうございます、精一杯がんばります!」と口にすると、その背中に向けて礼をして見送った。



「ごめん、待った?」

跡部先輩とのやりとりを思い出して。
それから、跡部先輩の言葉の意味をあらためて考えていると、ふと声がかかった。

顔を上げるとそこに立っていたのは、もうしわけなさそうな顔をした長太郎君。
私は、ううん、と首をふって「どうぞ」と目の前の空いた席を示す。

「それ、なんの楽譜?午前中にわたされたの?」
「あ、ううん。これは、跡部先輩から」
「跡部さんから?」

ふしぎそうな長太郎君に、うん、と頷いて私は続ける。

「卒業式用の合唱曲と、あと校歌。これから、行事で使う曲は私に任せてくれるんだって」
「……へえ」
「文化祭の演奏、評判良かったんだって。お世辞かもしれないけど……でも跡部先輩も、これからも期待してるって」

ほめられちゃった、と思い出してくすぐったくなりながら、口元には思わず笑みがこみあげる。
と、不意に長太郎君の視線が私にじゃなくて楽譜のほうに向いていて、オマケになんとなく元気がないように見えることに気付いた。
「そうなんだ」と、聞こえる声もなんだか浮かない感じだ。

「長太郎君?あの……大丈夫?」
「えっ!?」

私が声をかけると、長太郎君はハッとして顔をあげると途端にあわてだす。

「あっ、えっ、えーっと、だ、大丈夫!大丈夫だよ、うん!」
「本当?なんか元気なさそうに見えたけど……午前中、なにかあった?それとも、時差ボケとかでつかれた?」
「ううん、大丈夫!ただあの、ほら、お昼だし、お腹すいたなーって!」

「そういえば、お昼ご飯はもう買った?」と長太郎君。
なんだかごまかされたような気もするけれど、言いたくないなら無理に聞いちゃうのもわるいし、本当にお腹がすいてボーっとしちゃっただけかもしれないし、これ以上は聞かないでおくことにする。
代わりに、「うん」と頷いて膝の上に置いていた紙袋を取り出した。

……ほんとは、聞かないでもわかってあげられたらって思うんだけど。
だって、長太郎君のことだもの。わかりたいし、悩んでるなら力になりたい。

(って言っても私、そういうので力になれることなさそうな気もするけど……)

長太郎君の悩みってだいたいテニス関係のことだ(と思う)から、そういう話になるとたぶん、日吉君とか柏木さんとかの方がいいんじゃないかなって思う。
なんてことを思いだしたら気分がついつい暗くなっちゃうことは、ここしばらくで自分で気が付いたからやめておく。
長太郎君の前では、いつも元気でいたい。

「オススメって書いてあったから、ハムとトマトのチーズインサンドイッチにしちゃった。飲み物はね、オレンジジュース」
「飛鳥さんも?俺も、オススメって書いてあったから同じのにしちゃった」

飲み物も一緒、と長太郎君はオレンジジュースのボトルを紙袋から取り出す。
たまたま同じものを買ったってそれだけなのに、なんだか妙にうれしくなってしまう。
さっきまでうっかり暗い気分になっちゃってたのに、私ってすごく単純だ。
顔がにやけないようにこっそり唇をかんでいると、ふと長太郎君が「そうだ」と明るい声をあげた。

「ねえ、飛鳥さん。前に一度、俺がピアノ教室に通ってた話したよね?」
「うん」

長太郎君の言葉に私は頷く。
その話は、よく覚えている。長太郎君と私のよく似た、大切なあこがれの話だ。

「その時の先生に、会ったんだよ!」
「えっ?」

おどろく私に、長太郎君はきらきらとした顔でつづける。

「俺もびっくりしたんだけどさ、オーストリアに帰ってから、こっちでこの学校の音楽の講師をしていたんだって!」
「……えっと…帰った、ってことは、長太郎君の先生ってオーストリアの人だったの?」
「あ、うん。言ってなかったっけ」
「うん、初めて聞いた」
「そっか。レオンって言ってね、すっごくやさしい先生なんだ。ピアノ専攻者の担当をするって言ってたから、きっと午後からは飛鳥さんも会うよ」
「そうなんだ。よかったね、長太郎君。すごくうれしそう」

めずらしくすごくはしゃいでいる長太郎君を前に、私までうきうきした気分になる。
対して長太郎君は、そんな自分に気付いてハッとすると、赤くなって「ごめん、はしゃぎすぎたね」と肩をすくめて小さくなる。

「ううん。だって、昔に別れちゃった先生とこんなところで偶然会えたんだもん。私だってきっと、それぐらいよろこんじゃうよ。それに、長太郎君があこがれた人なんでしょ?」
「……うん。俺の、あこがれの人」

そう言うと本当にうれしそうに、それからちょっと懐かしそうに、長太郎君はほほえみを浮かべる。

「私も、早く会いたいな。午後の授業、すごく楽しみ」
「飛鳥さんも、そう思ってくれる?」
「あたりまえだよ!だって、長太郎君があこがれて、ピアノやるきっかけになった人だよ?私だって会いたいし、音だって聞いてみたいよ!」
「……そっか。うん、そうだよね。ありがとう、飛鳥さん」
「ん?」

急にお礼を言われて、小首をかしげる。
長太郎君は首をふると、なんでもない、と笑って言った。

「さ!それより、そろそろ食べよう。お昼休み、終わっちゃうよ」
「あっ、うん」

長太郎君に言われて、お昼休みがあと30分しかないことに気付く。
二人そろって手を合わせて「いただきます」を言って、ようやく、サンドイッチの包みを開いた。


***


『私も、早く会いたいな。午後の授業、すごく楽しみ』

飛鳥さんのその言葉を思い出して、やたらとうれしくなってしまう自分がいた。
自分の好きなひとが、自分の好きな人に会えることを楽しみだと言ってくれる、思ってくれる。
それだけでこんなにうれしいなんて、思わなかった。

となりを歩く飛鳥さんに、そっと視線をむける。
と思ったら飛鳥さんも俺の方をみて、二人して少しびっくりしたけれど、すぐに笑いあった。

「長太郎!」

不意に後ろから、俺を呼ぶ声が聞こえた。

ふりむくより前に、誰かはわかった。
立ち止まって振りかえると、向こうから背の高い男のひとが俺に手を振りながらこっちに来る。

「その子が飛鳥ちゃんですか?」

俺のとなりできょとんとしている飛鳥さんを見ながら、男の人――レオンは懐かしいドイツ語で俺にたずねる。
うん、と頷いて俺は飛鳥さんの方に顔をむけた。

「飛鳥さん。この人が、俺の言っていたレオン」
「! は、はじめまして!長太郎君と同じ学年の……」

言いかけて、飛鳥さんはハッとしたように口を閉ざした。
焦った表情で俺を見た飛鳥さんは、「英語、わかるかな。どうしよう、ドイツ語飛んじゃった……」とおろおろと口にする。

オーストリアの姉妹校では基本的に全部ドイツ語で、英語も使えないことはないけれどあまりメジャーじゃない。
だからオーストリアに交換留学に行くってなった時点で、参加者はみんなドイツ語をしっかりと勉強しているけれど、自由に使えるレベルかっていうとそうじゃない。
飛鳥さんも確か、聞き取りと筆記はなんとかできるけど、話すのは苦手って言ってたっけ。

「ニホンゴでも、大丈夫ですよ」

俺が言うより先に、レオンがそう言ってにっこりと飛鳥さんに笑いかけた。
逆に飛鳥さんは、レオンから飛び出したきれいな日本語におどろいた顔をしている。

「日本語、お上手ですね……」
「昔はニホンで、ピアノの教師をしていましたから」
「あ、ああ……」

レオンの説明に、飛鳥さんは納得したように頷く。
やっぱりちょっとだけ、外国の人によくある【なまり】は入っているけど、それでもレオンの日本語はとってもきれいだ。
小さい頃はよくわからなかったけれど、今こうして聞くと他の国の言葉をこれだけ自由に使えるなんてすごいな、って思う。

「それで、お名前は?」とうながされた飛鳥さんは、思い出したように背筋をぴんと伸ばして自己紹介をやりなおす。
そしてレオンと、握手をかわした。

「飛鳥さんは確か、ピアノがすごく上手いんでしたっけ。ヒョーテイからもらったデータに、そう書いてありましたよ。学校のフェスタで、学校の代表として一曲ヒロウしたって」
「あ、はい!」
「この後の授業で、みんなの前で弾いてもらえますか?僕も聴きたいですし、うちの学生にもサカキ先生が認めた音を聴かせてあげてほしいです」
「わ、私でよければ是非。がんばります!」
「はい、よろしくお願いします。それじゃあ、そろそろ行きましょうか」

俺たちの前にサッと出て、案内するように先を歩きはじめるレオンに俺と飛鳥さんも続く。

――ちょっとだけ、違和感をおぼえていた。

(飛鳥さんって、こんなに積極的だったっけ?)

今――レオンに「ピアノを弾いて」って言われた時だけじゃない。
昼にカフェテリアで、跡部さんからもらった楽譜を手に話していた時も思った。

飛鳥さんってこういう大事な役割を任されたりとか突然のお願いをされたりとか、そういうことをされた時ってもっと戸惑うっていうか、尻込みしていたはずだ。
それなのにカフェテリアの時も今も、飛鳥さんに困った感じは全然なくって、むしろうれしそうだった。

(……なんだか、変わった気がする)

気のせいかな。
いや、気のせいじゃない。
でも気のせいだったらいいな、って思う。

もし飛鳥さんが変わったんだとしたら、それってたぶん、跡部さんが理由だ。
だって跡部さんからもらった楽譜を前に、あんなにうれしそうに話していたんだから。

心が、沈む。

飛鳥さんが気のせいじゃなく本当に変わっていたとして、だとしたらこれは良い変化だ。
それなのに、変えたのが跡部さんだってだけで暗い気持ちになっている自分がいる。

わかってる。ただの嫉妬だ。
それに、このまま飛鳥さんを跡部さんにとられてしまうんじゃないか、って心配してる自分がいる。

『とられてしまうんじゃないか』なんて、飛鳥さんは俺の物じゃないし、そもそも『物』じゃないのに。

(なんか俺、カッコ悪いなあ……)

飛鳥さんと近くなったと思っていた心の距離が、また少し離れた気分になる。
だけどこれは離れたんじゃなくって、俺が自分で離しちゃったんだ。
それがわかるから、余計に心が沈んだ。

「……長太郎君、どうかした?」

飛鳥さんがこっそりと、俺に声をかけてくる。
つい暗い顔をしていた自分に気付いてハッとすると、俺はあわてて笑顔を作って「なんでもないよ」と答えた。
飛鳥さんは納得してないみたいだったけれど、もう一度俺に聞こうとするよりも先に教室に着いて、話は終わりにするしかなくなる。
それでも、席につきながら俺の方を心配そうにちらちらと見る飛鳥さんに、大丈夫だよの意味をこめて笑ってみせた。

――飛鳥さんは、すてきな女の子だ。

俺が落ち込んでいたらすぐに気付いてくれて、俺が元気になるにはどうしたらいいかって必死で考えてくれて。
俺のことをいつも気にかけてくれて、そして、俺の大好きな人に会いたいって、会うのが楽しみだって、そう言ってくれる女の子だ。

そんなすてきな女の子に、もっと近づけるように。
俺の大好きな人のその隣に、胸を張って並べるように。

(俺も、がんばらなきゃ)

そう思いながら俺は、教壇に立ったレオンの話に耳をかたむけるように前を向いた。




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