夏の日のはじまりを


風に膨らんだ悟のワイシャツが頬に当たる。控えめに回していた腕に力を込めると、ワイシャツのさざめきは途端に大人しくなった。代わりに私の心臓の音、悟にバレるんじゃないかな。
自転車を漕ぐ悟を通して私に流れ込んでくる風に、ほんの少しだけ混ざっている悟の匂い。愛おしいのに何故か切なくなって、胸が苦しくなってくる。誤魔化すために大きく息を吸い込んだ。

「……さーとーるー、はーやーく!」
「るっせえな、じゃあ、オマエが、漕げよっ」
「やだ疲れるもん」
「なら黙って、掴まっ、とけっての!」

長すぎる上り坂、おまけに向かい風。食らいつくかのようにペダルを踏み締める悟の背中はじんわりと汗ばんでいる。2人乗りで上り坂なんて無謀にも思えるけれど、降りろよと言わない所が悟らしい。坂道の半ばに差し掛かった所で、目的地の赤いテント屋根がちらりと視界に映り込んだ。
はやる気持ちを抑えきれないまま、地面にぴょんと飛び降りる。私の重みを失って急に軽くなった自転車は一気に加速して、悟が「あぶねっ」と小さく叫んだ。

「着いた!あそこの赤いお店」
「おい言うことあんだろ」
「悟くん、運転ありがとう」
「あれが、おかしや?」
「違うよ駄菓子屋さん」
「……駄菓子屋」

3歳児みたいに私の言葉を復唱した悟の顔は、自転車を散々漕いだからか少し赤くなっていた。襟元をぱたぱたと仰ぐ悟の綺麗な首筋に、汗の玉が伝って落ちていく。

「あっちー」
「帰りは下り坂続きだからまだマシだと思うよ。てな訳でよろしく」
「なまえの体重のおかげでいい筋トレになるよ」
「うざっ!ほんっと悟ってデリカシーない」

悟の肩に放ったはずの私の左拳は虚しくも空を切る。身を翻して小さく笑った悟が、舌先をちろりと出した。

「つーか、灰原ここまで走って来たってマジ?」
「マジらしい。ジョギング中に見つけたって言ってた」
「へえ、元気なこって」
「ほんとだよ。でも良い町だね。風情があるっていうか、首都圏じゃないみたい」
「そーだな。おい、早く行こうぜ」

初めて訪れた小さな町をきょろきょろと眺めている悟がまるでミーアキャットみたいで可愛いなと思ったけど、言うと怒るだろうからやめておく。高専から自転車で1時間ほどの所に駄菓子屋さんがある、と灰原くんが教えてくれたのは昨夜の事だった。



五条の坊に駄菓子なんて覚えさせて、いつかどこかで叱られないだろうか。そんな罪悪感は、駄菓子を前にした悟のキラキラ輝く笑顔を見た瞬間に遠くへ消し飛んだ。

「なまえ、これ何?」
「ヨーグルトだよ」
「ヨーグルト?小さすぎねぇ?それに常温保存だし」
「これが本当のヨーグルトなんだよ」
「え、マジか……」

悟は見るもの全てが新鮮なようで、あれこれとカゴに入れまくっている。こんなに買い込んで、食べ切れるのかな。わたパチとさくらんぼ餅をカゴに放り込むと、悟が何かを思い出したかのような顔でこちらを振り返る。「ここカード使える?」と不安げに囁いた悟のポケットから財布を引っ張り出すと、一万円札ばかりで小銭どころか千円札すら入っていなかった。

「カード使えないよ。私が立て替えとく」
「悪い。あとで倍にして返す」
「言ったね」

悟の代わりにお会計を済ませると、レジの横に置かれた冷蔵庫の中で光るラムネに目を奪われる。懐かしい。小さい頃はあの綺麗なビー玉がどうしても欲しくて、取ろうと必死になったっけ。

「ラムネも2本ください」
「ごめんねえ、冷えてるの1本しかないのよ」
「じゃあ1本で」



ありがとねえ、と数回繰り返す店主の声を背に店の外に出ると、ベンチに座る悟は天を仰いで目を閉じていた。店先の風鈴の音が夏の日差しに溶ける。日陰にいる悟の髪が風に靡いて、かすかに差し込む白い光と混ざったその姿は蜃気楼みたいに綺麗だった。じゃり、とコンクリートと私の靴底が擦れた音に反応した悟がこちらを見上げる。透けて見えるような青い瞳に射抜かれると、私の心の奥底まで透けている気がしていつも落ち着かない。

「風鈴の音って本当に涼しい気分になるもんだな」
「……はい、コレ」
「なにこれ」
「ラムネ。飲んだことない?」
「ない」
「あのね、こうして……ここ押してみて」

悟の指先に力が込められると、ビー玉が落ちる音と炭酸が吹き出す音が大きく響いた。悟の瞳に輝きが増す。

「何これ、すげえ。テンション上がる」
「ふふ、小さい頃はこのビー玉が欲しくて舌突っ込んだりしてた」
「ははっ、なまえは昔からアホなのな」
「失礼だな。可愛いでしょうが」
「……うん、可愛い」

不意に発せられたその言葉につい動揺して軽口を返せなかった。しまった、と思って悟を見やると、なんて事ない薄ら笑いを浮かべた口元にラムネを寄せている。いつからこんなタチの悪い冗談を言うようになったんだろうか。
悟が傾けたラムネの瓶から、カラン、とビー玉が揺れる音がした。白い喉仏が上下する。炭酸の刺激に顔を歪ませた悟が妙にいやらしく見えて、わたパチの袋を思わず握りしめた。

「ん、」

悟の飲みかけなんてこれまで何回も口を付けているのに、差し出されたラムネの瓶をまじまじと見て喉が鳴る。間接キス、と思うと唇が少し震えた。これじゃ私、なんか変態みたい。

「ありがと」

久しぶりに舌に触れたラムネは、昔に飲んだそれよりもずっと甘いような気がする。駄菓子の入った袋を物色していた悟が、わたパチを握りしめたままの私の指先をちょんちょんと突く。

「なまえの持ってるこれ何?」
「わたパチ。悟好きそう。口開けて」
「綿飴みてえ」
「うん。綿飴」

三分の一つまんで悟の口に放り込むと、唇を引き結んだ悟が鼻で大きく笑う。

「ん、ふふっ、うわ」
「パチパチする?」
「うん、音聞こえる?」
「あんま聞こえない」
「ほら」

夏の日差しを蝉の声が加速させていく。悟が私に身を寄せると、古めかしい駄菓子屋のベンチは大きく軋んだ。
悟の閉じられた唇がすぐ目の前にあって、白くて滑らかな頬がぴかぴかと反射した。その頬に指をそっと添える。ぱちぱち、ぱち、ぱちと弾けている飴たちの感覚が、私の指先から手のひらへと伝わってくる。
サングラスから覗く悟の六眼はビー玉のように陽に透けていて、そこには私だけが映っている。私の瞳にも、悟だけが映っているのだろうか。ぱち、と弾ける音が小さくなって消えた。悟の頬に添えたままの手を慌てて離そうとしたのに、一回り大きな手に捕えられて、握り込まれる。

「悟……も、音しないよ」
「もっと近寄ってみろよ」
「うん」
「まだ、音する?」
「……悟、もっとこっち来て」

空気が暑くて、熱い。これは悟の熱か、私の熱か。

「なまえ」

あと僅かの距離を無くすための言い訳を考えていたのに、私の名前を呼ぶ悟の目があまりにも真剣だったから、もう何も言えなかった。グレープソーダの香りがして、悟のまつ毛が伏せられる。音が消えて、引き寄せられるみたいに私たちの距離が縮んでいく。このまま、私たちは間接じゃないキスをするのかもしれない。悟と、このまま。

後頭部に生ぬるい強風が吹き付ける。風鈴が大きく揺れて鳴った。私たちを包んでいた陽炎のような空気が、その音で一気に晴れる。ほんの数センチ先まで近付いていた悟の目が驚いたみたいに見開かれた。多分、私も同じ顔をしていた。

「……風、強くなってきたね」
「……そろそろ帰るか」
「そだね」



自転車の後ろに腰を落とすと、太ももに当たる鉄の質感がひんやりとして心地いい。さっきまでの陽炎の中では私と悟は同じ気持ちだという確信めいたものがあったはずなのに、こうして自転車に乗ると途端に不安になる。「掴まっとけよ」と前を向いたままの悟に言われても、胸の奥に毛糸が詰まってるようで落ち着かない。私の小さな「うん」に悟が呆れたように口を開いた。

「おいなまえ、落ちるから」
「……落ちないよ」
「ふーん。拾わねえぞ」
「いじわる」
「なに恥ずかしがってんの?」
「……別にそんなこと」

嘘だ。そんなことある。恥ずかしくて切なくて苦しくて、どうしたらいいのか分からない。さっきのは何?悟は私のこと、どう思ってるの?そう聞けばいいだけなのに、声にしようとすると涙が出そうだ。ローファーの爪先を意味もなく揺らし続ける私と、ゆっくりとペダルを漕ぎ続ける悟。白銀の髪が夕陽にくらくらと揺れる。
私のこの指先からシャツを伝って、好きが悟に伝染しちゃえばいいのに。悟も私のこと、好きになっちゃえばいいのに。


悟の溜息と舌打ちが聞こえて、自転車が止まる。シャツを強く摘んでいた指が悟の手によってぷつりと外されると、振り向いた大きな身体に強く抱き寄せられていた。
いま私、悟に抱き締められている。現実か確かめたくて広い胸に耳を押し当てると、私のものと勘違いするくらいに大きな心臓の音が聞こえてくる。とくとくと早すぎる悟の鼓動に驚いて顔を上げると、顔を赤くした悟が拗ねたような表情でこちらを見下ろしていた。

「……悟、なに恥ずかしがってんの」
「オマエだけじゃねーよ」
「うん」
「だから、しっかり掴まっとけ」
「……顔真っ赤」
「夕陽のせい。つーかオマエに言われたくねぇ」
「じゃあ私のも夕陽のせい」

再び漕がれ始めた自転車が下り坂に差し掛かる。ゆっくりと進んでいく坂道で、重力に任せて悟の背中に強く強くしがみついた。

「はは。なまえの心臓うるさ」
「悟のも、うるさいよ」
「……なまえ、俺たちさ、」

「      」風に膨らんだ悟のシャツが、押し付けられた私の頬のせいで行き場をなくす。耳元でシャツがはためく音が響いていたけれど、悟のその言葉だけは大きく、まるで浮かび上がるみたいに私の耳に届いた。

「……風の音で聞こえなかった。もっかい言って」
「嘘だね。ぜってー聞こえてる」
「ねえ悟、もっかい」
「……この坂道終わったらな」

速度上げてよ、私がそう言うまでもなく、悟が急にペダルを強く踏み込んだ。私たちを乗せた自転車はぐんぐんと速度を上げる。景色が早送りのように流れていって、髪の毛も、シャツも、何もかもが風に掻き乱されてぐちゃぐちゃだった。悟の笑い声とそれにつられた私の笑い声が、生ぬるい夏の坂道を転がってゆく。
この坂を下り終わったら、私と悟は。





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