クマと手つなぎ

都会の喧騒から車で数十分離れた住宅街。
駅に一番近い商店街の一本裏手は、車も一台通るのを難儀するほどの細道が長く一本続いている。車両の往来はほとんどないうえに、通行人だって表の商店街をメインの生活圏とする住人たちが行き来するのがもっぱらの。長屋もそこそこに古民家が窮屈に建ち並び、自転車や三輪車がわずかな隙間に突っ込まれた通りには余白というものがほとんどない。
経年で白塗りは色あせて板張りは煤け、縦横に走るわずかなヒビももはや味だと割り切った気風のいいご老台か、あるいはこの築ウン十年に真っ向から立ち向かう気概のある若夫婦か、といった情緒ある道なりである。
そんな裏道沿いにある、一件のお店の話をしよう。
これまた窮屈に区画ぴっちりと狭建った二階建ての古民家の、一階にお店を構えたのは小さな小さなマフィン屋さん。ご近所さんと、地図アプリやSNSで見かけてやって来るマフィン好きさんたちに支えられて切り盛りしているごく小規模のお店だ。道路に面した木組みの大きなショーケースに一口サイズのマフィンがずらりと整列して、控えめに視線を集めている。
チョコチップ、ドライフルーツ、抹茶にレモン、バナナにラズベリーに塩バター。
その数おおよそ三十個。(仕入れにより前後)
全部に目を通すには思わず足を止め、しげしげと眺めたくなるような。
ドアを開けずとも吟味でき、通りすがりに、思いつきでパクッと食べてもらえるお菓子のお店。
そんな風に思ってもらえたらうれしい。
手ムラの粗く残る真っ白な漆喰で一階部分を分厚く薄く塗りたくられた壁には、よくよく見ると素っ気なく店名が設えてある。

『ココ・マフィン』。
近年のご時世の影響もあり、テイクアウト専門でやっているこの小さなお店は、この町の小さなおやつケースとして今日もまったり静かにおやつ時を待っていた。
はずだったのだけれど。

二月十四日。
「さすがに今日ばかりはそうも行かない……」
開店前、シャッターの向こうから聞こえてくる「寒ぅい」「あと七分や!」と華々しい声に頭を抱える。
「すごいな……うちみたいなちっちゃな店もこんなになるんだ……」
「なにをのん気に言うてるんや」
私に負けず劣らずののんびりとした声がすぐ隣から聞こえた。
見れば階段をちょうど降りてきたらしい彼が、ふわんとした顔でこちらを見下ろしている。眠いのだろうか。(そうかもしれない。彼はすでにひと働きしてここにいる。)
「菓子屋やねんから、今日は戦場に決まっとるやろ」と、菓子屋の人間よりもよっぽど菓子屋の繁忙期に詳しい彼。
「バレンタイン舐めたらあかんで」
きりっとした表情で言い放たれ、私は「はい」と頷いた。
飾り気がないながらも、どこかかわいらしい雰囲気のエプロンを身につけた、ゆうに百八十五センチはある黒髪の大男。その立ち姿を首が痛くなるほどの鋭角で上から下までさっと目を通して「似合うよ」と親指を立てれば、せやろ、とこれまた断言的に胸を張るため、角度はさらにきつくなる。友人とはきちんと目を合わせて言葉を交わしたいけれど、今日は特に首を痛めるわけにはいかないから首筋あたりまで視界を下ろすのをどうか許してほしい。
菓子屋の繁忙期をよく知っているし、店名の入ったエプロンをしているけれど、この巨人は菓子屋ではない。
お店の真裏、表通り商店街屈指の人気店『おにぎり宮』の店主。宮治くんだ。
珍しくも開店前から賑わしいうちの様子を目にして、善意からちょっと手伝ってくれることになった。
ちょくちょくあることだが早朝営業を終えて小腹が空いたため、焼き上がりをつまみにやって来た宮くん。今朝は小道に伸びた女性の列にビックリしたらしい。
『ちょお!すごいことになってんで!?』って、普通に入ってきたもんな。
私も陳列で顔を出した時ビックリした。
だって、平日午前にこんなに並ぶと思わない。
「ただの平日午前やない。バレンタインや」
「不思議なことがあるもんだねぇ」
「なんも不思議やないねん。バレンタインやから」
「なまえちゃんとこの店のふわふわした空気に騙されとったけど、これが普通やねん。本来は」再三バレンタインの本領を匂わせる彼はこれまで一体どんなバレンタインを過ごしてきたのだろうか。ちょっぴり湧いた疑問をよそに、サーブ用のトングとトレイをケースの底板と水平に揃えた棚板に配置する。
ともあれ。
そういうわけで宮くんは、思いがけずひとりで行列に立ち向かわねばならない私を案じ、ひとつふたつ、みっつほど焼きたてのマフィンを胃袋に納めてから、彼のトレードマークの黒帽子を外してアイボリーの三角巾を頭に巻くこととなったのだ。
『それはすごくありがたいけど……宮くんランチ営業はいいの?』
『今日は元々昼開けんねん』
『そうなの?』
『会社が昼休みやと、押しかけられるやろ』
『そりゃあ、ランチタイムだもの』
『ちゃうて。オネーサン方や』
『あー』
『あーて』
宮くんはフーッと口の中の息を吐き切るように深く深く吐き出して、真剣な目つきになる。
「よし……準備万端や」
「あ。宮くん手を洗って」
「ヘイ」流しで手を洗ってもらう。
「拭いたらここでシュッシュしてね」
「ウン」除菌も済ませて。
「これがビニール袋です。入るかな?」
「ギリいける」薄手の使い捨て手袋をはめてもらえば、今度こそ完璧なマフィン屋の店員さんになった。言い換えるならば、『マフィン屋・宮』だろうか。うーん、語呂が悪い。
お持ち帰り用の袋や箱、対応の流れなんかを申し送り、レジの確認も簡単に済ませてあるが、彼の飲み込みの速さは相変わらずで安心できる。
「じゃあ、ちょっと早いけど開けようか」
ショーケース上部のシャッターを勢いよく上げる。途端に、外の冷えた空気がふわっと顔にかかる。拓けた視界には、すでに陳列されたマフィンたちを覗いて目を輝かせるお客さまの姿が見えた。
「お待たせしました。『ココ・マフィン』開店します」
外へ向かって声を張ったあと、宮くんを見る。
「じゃあ、ごめん。お任せするね」
「おん。作るんに専念しい」
「ありがとう」
困ったら呼んでね、と言い残し、頼もしい助っ人店員に売り場を任せた。

「苺クッキーとチョコバナナ、くるみショコラがあと三個です!」
「苺クッキー焼き上がりまで三分、チョコバナナとくるみショコラ二便であと十五分です!」
「箱のストックどこですか!」
「ごめんレジ台の開きの中!」
「どうしよお。お客さんがチョコくれるってぇ〜」
「それはご自由にどうぞ!」
狭い店内、売り場と厨房で時おりせわしいやりとりをしつつ製造と販売をお互いにこなす。売り場は宮くんが見事にさばいてくれているので私はたまにその補助をしたり品出しをしたり、列の様子見と誘導をしたり、また厨房に戻ったりしながら働いていれば、時間は難なく過ぎていった。 ランチタイムの会社員駆け込み需要ピークも落ち着き、待機列も失せてお客様はようやく並んだり並ばなかったりの混雑で注文ができるようになってこちらも余裕ができていた。
時間的にもそろそろ夕方の締めを考慮して追加のマフィンを準備する。おやつ時も近づくと、様子をうかがってくれていた常連さんがちょこちょこと顔を出しては今日のおやつを買って行ってくれた。よくわからないままにお騒がせをして申し訳なかったので、あとでご近所回りにうかがおう。ずっと立ちっぱなしで頑張ってくれた宮くんにもようやく休んでもらうことができそうでほっとする。
「宮くん。そろそろお店大丈夫そう」
「あ。ほんま?せっかくやし五時までおるで」
「ええ……いや、さすがに悪いよ。夜あるでしょ?」
「んー。ほんなら夜はコッチ手伝ってもらうか」
「あれ。アルバイト入らないの?」
「試験に彼女にで、あかんねん」
「あらぁ。それはおめでたい」
「クリスマス入ってもらったし、あんまり無理言うんもなあ」と悩まし気な宮くんはいいオーナーだと思う。いつも元気で誠実にお店で出迎えてくれる彼らも大学生。存分に青春を謳歌してもらいたい。
「私でよければ、もちろん手伝うよ」
「ほんま?助かるわ〜」
「このままやとツム駆り出さなあかんトコやったわぁ」なんて冗談っぽく言うけれど、お客様的にはそちらの方が間違いなく盛り上がるだろう。宮くんと同じ顔立ちの兄弟を思い浮かべる。見た目にも性格にも、どちらも人の前に立つことがすごく合っている。現に本日行列に並ぶことになった女性方、みなさん順番が来ればイケメンに接客してもらえると心なしかそわついていらっしゃったし、長時間待たされてもニコニコうれしそうにしていた。それどころか、バレンタインのお菓子を買いに来たお店で手持ちのお菓子を彼に差し出す女性が結構いたらしく、置いていいよと伝えた棚の上には個装のチョコレートやキャンディなんかがこまごまと散らばっていた。むしろ『こんなものしかなくてすみません』とか言われていた。そしてお客様は減らしたお菓子の分もマフィンを買って行った。あれはおもしろくて思い出してもちょっと笑える。
「五時に閉めて片付けして、六時前後になると思うけど」
「それでええよ。ありがとお」
「こちらこそだよ。じゃあ、とりあえず休憩に入ってください」
「もらったお菓子、上で食うてもええ?」
「いいよ」と頷けば素直に輝くどんぐりまなこ。表情とは裏腹の大きな手が、小さなお菓子をわしづかんで階段へ向かう。焼き損じも冷ましてあるから食べていいよと伝えれば、はしゃいでドタドタと足音を鳴らして上がっていった。子どもみたいでかわいいな。
今日はあんまり出番がなかった、待機用の椅子をショーケースの前まで持ってきて腰掛ける。ようやく見慣れた前の小道が目前に広がって、フーッと肺の中の酸素を吐き出した。

宮くんとは専門学校の同級生の間柄だ。
彼は調理で私は製菓。学科は違えど趣味が揃えばなにかと接点が生まれて結構親しくなった。学生時代、課題と実習に追われながら、アルバイトの傍らでともに将来の出店計画のための実地調査(兼食べ歩き)を行った仲である。卒業してなおご縁は地続き、お店もまさかこんなに近くになるとは当時は思ってもみない。
その頃から宮くんは背がとても高くてつぶらな瞳がかわいくて、食欲にとても忠実な青年だったけれど、現在とパッと見どこが一番違うかと言われれば昔は体格にちょっと丸みがあったというかふくよかであったというか、端的に言うとぽっちゃりしていた。おなかとほっぺたのあのフォルムがなんだか愛らしくて、私は結構気に入っていた。試験勉強のさなかなど、たびたび癒しを求めてはプニプニのおなかをさわらせてもらっていたほどだ。だから就職活動に入って久しく、ゴリゴリのマッチョとして現れた時には、とても気が動転したのだ。
まあさすがに数年たった今では見慣れたものだし、彼の内面はなにひとつ変わらない。
なまえちゃんと呼ぶ彼の声色もなにもかも。
ちいさなお菓子ひとつでよろこぶ彼の表情が、ほどけた空気が、流れる時間が、宮くんといる時間が私はとても好きだった。
「なまえちゃ〜ん」
二階から声が聞こえてくるので、階段下へ向かい「なあに」と声を上げる。
「どの味食いたい?」
「宮くんお菓子もう食べちゃったの」
「あんなもん秒や。なあどれ食う?」
「どれでもいいよ。残ってるやつで」
「先によけとかんと残らん」
「そうなの?」思わず笑ってしまった。
「またぽちゃっちゃうよ」尽きない食欲を形だけでも窘めるつもりで言った言葉だったけれど、間髪入れず下から降りてきたのは「それはそれでなまえちゃんは嬉しいんやろ」と見透かしたような返事だった。途端に開いた手のひらにあのプニプニがよみがえって手をワサワサしてしまう。うーん。言い返せない……。
「俺を太らせたがるんはなまえちゃんぐらいや」
「ふ、太らせたがってるわけでは……」
「なまえちゃんのお菓子が俺を太らせる〜」
嘘じゃん。もう全然太んないじゃん。
階段上から顔だけ出した宮くんがけらけらと笑っている。
なんにも変わらないなんてやっぱり嘘。
ちょっと意地悪になった。
「なまえちゃんの分、塩バターとブルーベリークリームチーズにしといた」
「お気に入りのやつ……」
…………ような気がする。

陽が沈んできた。
客足もすっかり落ち着いて――夜まで営業していれば、また別の需要があるのかもしれないけれど――しっとりしたBGMのかかる中、最後までいると言い張った宮くんは椅子に腰かけてショーケースにわずかに残るいくつかのマフィンを物欲しげにじいっと見つめながらゆらゆらと揺れている。さっきいっぱい食べましたよね?と言いたくなるほど、そのまなざしに灯る熱は率直で雄弁だ。私は袋やシールなどの備品を補充しながら、もの言いたげに丸まった背中をちらと見る。広い背中だ。今日はあんなに頼もしかったのに、これなんだもんなあ。ふふ、とつい声を出して笑うと「ん?」不思議そうに振り返る。
「なんで笑ってるん?」
「ん、ふふ。ううん」
「ううんとちゃうやつや」と、訝しげな顔をして追求したそうにしている。わかりやすいなと思えばますます笑えてくるのだから、あまり彼に意識を割いてはいけない。ショップカードのケースを整えてストックを追加する。テキパキと作業する私をよそに、気持ちよさそうなあくびの声が聞こえてくる。暇じゃん。
「宮くん。あくびは外向かってしないようにね」
「ハーイ店長ぉ」
「怒られた」と言いながら、なぜかニコニコする宮くん。
「宮くんあと三十分お店番できる?」
「おん」
「じゃあ、先に厨房片付けてきてもいいかな?その分早く向こう入れるし」
「大丈夫やで。任せとき」
接客はピカイチな宮くんに売り場を任せて厨房へ戻る。小麦粉やバターなど、材料の在庫をさっと確認して控えておく。元々バレンタイン需要で通常よりも多めに仕入れていたものが、本日の空前の繁忙ですっかり空になっている。明日はお休みだけれど、明後日のために発注かけておかないとな。水につけておいた器具を洗い、水気を切っていた洗い物を収納して、作業台を拭き上げる。あとは売り場に備えてあるトングとトレイぐらいかな、という状態にして厨房をあとにする。
「おかえり店長ぉ」と外に背を向けてこちらを見ている宮くんと目が合った。またあくびでもしていたのだろうか。
「なまえちゃん。行列の理由わかったで」
「え、ほんと?」
「ほんと。こっち来て」
宮くんのそばへ寄ると、彼の手に握られると途端に小さく見えるスマートフォンを差し出される。そのディスプレイをのぞき込んだら、ああ、と声が出た。
「昨日の日付だ」
映っているのはインスタグラムの投稿だ。撮影した覚えのない絵面でのショットが、お店のアカウントではなく個人のアカウントから投稿されているらしい。アイコンはブランドものらしきサングラスとスカーフ。お店で販売しているさまざまなマフィンとカトラリー、お店の外観写真が掲載されていて、本文にはマフィンの感想とお店の情報まで載せてくれていた。お店のアカウントでつくよりも明らかに多くのハートが贈られている。
「別の投稿でバズったんやって。直近の投稿見られてるんやろ」
「なるほど……それでかあ」今日一番の不思議にちゃんとした理由がついて納得する。写真に載っているマフィンのトッピングと数からおおよそあの時のお客様かと思いあたった。
ありがたいねえ、と手を合わせる。
感想ばかりか、お店の紹介まで。
写真も素晴らしくきれいに撮っていただいて。
なむ……と二人外に向かって拝んでおいた。
「それで、そのひと何でバズったの?」
「飼っとるパグの動画やな」
「パグかあ」
パグかわいいよね。
タップされたバズり動画とやらが再生される。画面の端から端まで、豆粒から鼻のあたまのドアップまで移り変わる映像はたしかにかわいらしい。全身全霊でちまちまとかわいい動きをしてつぶらな瞳をうるうるとさせるので、感嘆の息が出てしまう。身を乗り出しすぎて、宮くんの肩にぶつかってしまった。
「あっ、ごめん」
「気ぃつけんと。ふっ飛ばされるんはなまえちゃんやねんからな」
「いやいや。私もふんばるしね」
「ほんまやろうか」
「ほんまだよ。今すごくふんばってる」
「ほんま?」ちょっと突っつくで。
と一言おいてすぐ、脇腹に鋭い衝撃が走る。
「ウッ」思ってもみない部位への予想外に強い衝撃を受けて低い悲鳴が出た。加えられた力のまま崩れ落ちそうになると慌てたように支えられた。
「あ、ありがとう……」
「ほら言うてみい」
「疑わしいなら、つっつかないでほしかった……」
人さし指で突かれた脇腹がじんじんと痛い。回された腕に寄りかかって回復を待つ私へ罪悪感は生まれないのだろうか。うれしそうに「ええ感じに隙だらけやってん」などと言うものだから、この悪戯っ子めと心中恨めしく思う。
「そんなに痛い?」
「痛いよ。宮くんは力が強いんだから」
「なまえちゃんは、かよわいなあ」
「かわいそうに」どの口が言うのかとはこのことだろう。自分で攻撃をしかけておいて、こけそうになったのを助けてくれて、あげくに脇腹をいたわるように撫でてくる。本当に不思議というか、独特なひとだなあと思いながら、おなかに顔を埋め出した頭を覆う三角巾の結び目に指をかけてそっとほどいた。閉店の時間だ。

「なまえちゃん」と、宮くんが呼ぶので掃除の手を止める。外にかかっていたのれんを抱えている。入口の引き扉をしめ切ったらようやく『おにぎり宮』閉店となった。
「おつかれさま。……ふふ」
「なに?」
「外寒かった?鼻が赤くなってるよ」
「えぇ、ほんま」両腕が塞がったままこちらにやって来て顔を差し出してくるから、座卓を拭いていた濡れぶきんを離して彼の赤らんだ鼻先に触れる。
「つめたい」
「なまえちゃんの手ぇも冷たい」と言いつつ機嫌の良さそうにほほ笑んだ宮くんは、のれんを仮置いて両手を服でさっと拭ってから私の手を包み込む。
「なにしてるの?」
「なまえちゃんをあっためとる」
「まだ拭き終わってないよ」
「お湯を使たらええのに」
「なんかね、ぱぱっと濡らしちゃう」
そのまま手を自分のほっぺたに宛がう宮くん。本格的に温めようとしてくれるらしい彼に早く片付けちゃおうよと声かければ眉を下げて放された。機微のスイッチがよくわからないな。首を傾げつつ残っている卓の上を拭いていく。
「なあ。ネギトロと明太子今日中やで。おかずとみそ汁もちょっとある」
「やった。ネギトロが残るの珍しいね」
「どっかのアホが来んかったからなあ」
「あ、そっか。私食べても大丈夫かな?」
「なまえちゃんはなんでも食うてええよ」
「また甘やかして」と笑い飛ばして。
宮くんは実家住まいだけれど、このお店と私の家(店舗の二階部分)がとても近いから、その日食べたほうがいい残り物をうちに持ち寄り、適当なものを合わせて晩餐とすることが多い。お店のこともうちのこともよく知っている宮くんが何か作ってくれることもよくあるけれど、今日は朝からお世話になりっぱなしだから自分が作るていで家の食料について考える。
「この間ジャガイモいっぱい買っちゃってさ。ベーコンあるから、ジャーマンポテトでも作ろっか」
料理のほうはあまりレパートリーがないのだけれど、宮くんは目を輝かせて「おん!」と快諾した。好物でも出てきた子どもみたいだ。ジャーマンポテトは特に彼の好物ではないものの、食べ物全般が好きで偏食もないから出せばなんでもおいしいってニコニコ食べてくれる。そうなると、作ったひとは嬉しくなる。嬉しくなるから、また作ろうかなとか思っちゃうわけだ。でも私自身は宮くんが作るジャーマンポテトのほうがおいしいと思っている。軽い足取りでカウンターへ入り、口笛を刻みながら手際よくレジ締めを始める彼を見て、私も台拭きから座布団の回収へと移った。お座敷の各席に配置されている座布団を、膝をついてせっせと集めていく。すぐに作業が終わって振り返ったら、なぜか宮くんと視線がぶつかった。千円札を数える手が止まっている。止まってるな、と思ったと同時に彼はニコッとほほ笑んで、シャラシャラとなめらかな音を立てて再びお札を数え出した。私に用かと思ったけど、ちがうのか。そう思い、今度はドライシートで畳のからぶきを始めた。
「そろそろ終わろうか」
「うん。あ、お鍋持つね」
「俺が持つ。なまえちゃんは戸締りして」
お鍋はおろか、おにぎりや具材、おかずの詰まった袋すら寄越してもらえず、自らの力不足を嘆きながら戸締りをしていく。後ろの店長さんにもしっかりと確認してもらいながら、最後に正面扉を施錠して『おにぎり宮』を出た。その足でふたり、暗闇に注意しながら敷地の奥まで歩いて、境界に申し訳程度に積まれた数段のブロックを片足ずつ越える。
「足元大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「こんなもん、壊して正解やったやろ」暗闇でもわかるほどに得意げな声だった。
元は私の身長ほどに高くそびえていたブロック『塀』は、うちのお店の工事着工の際、宮くんの強い意見によってその大部分が撤去された。こっちのお店は車両の乗り入れにことさら気をつかうため、広い道路に面し駐車場もある彼の敷地の方から行き来すればええやろうと言い切ったのだ。いえいえそんなご迷惑はかけられません、と謹んで辞退する私の声は、彼の太い声にかき消された。業者さんに『出来るならばそうしたい』という旨をやんわりと伝えられて、結局彼の勧めるままになってしまった。
そんな工事が終わってからも、こうして互いの領地を超える。
表通りと裏通りをつなぐ小道をつかって回り込むのが面倒やと宮くんが大股であっさりと境界を越えたのをきっかけに、今ではすっかり横着するのが日課になってしまった。
一日働いたあとでも宮くんはこのブロックをぴょーいとひと跨ぎ。身軽そうだな。筋肉って重たいんじゃなかったっけ?
このルートのための懐中電灯の明かりで足元を確認しながら、前を慎重に進む私を見てだろうか。
「このへんに電灯とか建てる?」
「なに言ってるの、もう」

自宅に入り電気をつける。
古めかしい玄関灯えパッと視界が明るくなって目をすぼめる。店舗にスペースを割きたくてかなり狭くなった玄関で急いで靴を脱いで端に寄せる。お鍋と食材をたっぷり抱えた宮くんの腕が心配だ。それも無用とばかりにスニーカーを脱ぐ様子はひどく落ち着いたものだったけれども。玄関すぐの廊下を上がって二階の電気もつけて、見慣れた自室が現れた。ダイニングキッチンスペースとひと揃えの水回りの他は一部屋しかない、ひとを呼ぶには狭い家だ。
彼がそれを気にした様子はないけれど。
お鍋をコンロに置いてもらって、おにぎりやおかずの詰まった袋はカウンターの上に。順番に手を洗ってから宮くんはおみそ汁を温めなおし、私はジャーマンポテト作りに取りかかった。
「ベーコンは薄切りとブロックどっちがいい?」
「ブロック!」
「じゃあこれくらいか」
「マシマシでお願いします」
「あと三日は保たせたいから、ダメ」
材料をカットして調理へ移るから宮くんに端へ寄ってもらう。それでも彼の広い肩幅に何度も触れてしまいながら、私はフライパンを振った。宮くんは穏やかな表情でぐーるぐるとお玉をかき回す。出来上がった品を簡単に盛り付けてテーブルの中央へ置く。袋からおにぎりの包みとおかずの詰まったタッパーを取り出して配置して、あとは取り皿とお箸をセットするだけ。そうしていると、そろそろええやろ、と声がしてお椀を二つそばへ置く。
「ほい。熱いから気ぃつけや」
「ありがとう。いいにおい」
「あげさん多めに入れといたで」
「やった〜」
ダイニングチェアに腰を落ち着け向かい合う。
手を合わせて食前の挨拶ののち、さっそくおにぎりにかぶりついた。
「ん。おいしい」
「こっちもうまいで」
「よかった。きんぴらいただくね」
「どうぞ。米止まらんくなるで」
「恐怖のきんぴらじゃん」
他愛ない言葉を交わしながら箸を進める食いしん坊たちは、どちらの残り物もものの数分ですっかりたいらげる。指についたお米まできれいにいただいたあとは、ちょっとの間ため息をこぼしてお互い幸福に浸るのが癖だった。
今日も……おいしかった……。
とても…………。
宮くんのごはんは本当に、ほんっとうにおいしくて食べすぎちゃうから幸せすぎて困る。今日も限りなく満腹に近いところまで食べてしまった。はあぁ、と恍惚がまた漏れた。向かいの宮くんも見ているこっちがとろけそうなほどの表情で口をモグモグとさせている。まだ食べられるという意思表示だろうか。テーブルにもたれかかってしばらくうっとりと満腹の心地に浸っていたけれど、食器も浸けておきたいので仕方なしに身体を起こした。心なしか重たくなった身体に鞭打つように立ち上がり、空になった食器を重ねてシンクへ持っていく。蛇口から勢いよく流れ落ちる水の音を聞いてか、後ろで椅子の引く音がした。
「なまえちゃん。これ持ってきた」と持ち切れなかった分の食器を受け取って同様に水を溜める。目的を終えて再び蛇口をひねる頃、シンクの両端を大きな手が掴んでいることに気づいた。
「宮くん?」先ほど背後に立った宮くんがまだ退いていない。彼の手がシンクに固定されるので、私は彼とシンクに挟まれる形になった。
宮くん。
振り返って見上げると、彼は力の抜けきったような顔で笑って「なまえちゃん」と私の頬に自分のそれをこすりつけた。わあ、ほっぺたすべすべだ。じゃなくて。
「宮くんどうしたの」
「うまいもん食うたら、気持ちええよな」
「うん?うん、そうだね」
「なあ。きもちええなあ」
すりすり、とまた頬ずりされて。
ぽよぽよではない身体があったかい。おみそ汁で温もったからかな。すり、と彼がわずかに動くから、余計に伝わってしまうのに。
「宮くん、ちょっと」
「うん……?」
「ちょっと、いたい。かたいから。もう、ぽよぽよじゃないんだから」
「ぽよぽよなんはなまえちゃんやろ」
「たたくよ」
「あーかん」準備した拳を、振り回さないように腕ごととじこめられた。
「ぽよぽよきもちええなあ」
「ぽよぽよって言わないで」
「先に言うたんはなまえちゃんやで」
「それはそうか……」
「フッフ」
「ふっふじゃないよ、もう。退いて」
「いま力出えへんのや」
「またそんなこと言って」
ほんまや、と言いながらびくともしない腕の力。頬にあてられていたそれは首すじへ移動してじゃれつくように皮膚を刺激する。
「わ。ひゃっ、もう。宮くん」
「力出えへんの〜」
「それはわかったから」首元に埋まった彼のあたまを探るように髪を撫でては宥めてみる。本当に甘えん坊だなあ。よしよしと何度も撫でつけていれば、機嫌を直したようにまた頬を寄せられた。なにかしらにすりすりしていたい気分なのかもしれない。いかんせん身体が大きくて力が強いからビックリするけれど、幼子のような気性の彼のことだ。気を許した友人に甘えているのだろう。なんにしても結局彼が放してくれるまでは身動きがとれないものだから、気のすむまで好きにさせておくことにした。ぽよぽよ気持ちええ、と溶けるような声が鼓膜を甘く震わせた。

「タオルどれ使ったらええ?」
どうにかこうにかの洗い物のあと。
そろそろお開きにしようかと思った時には宮くんがラグで寝そべっていて『力出えへん』と呪文のように唱えるものだから、彼はまた床で眠ることとなる。買った覚えのない来客用の布団一式をベッドの隣に敷いて、肩も足もはみ出して寝るのはしんどくないのだろうか。特に今の季節は寒そうだから、カーペットくらいはつけておいてあげるけれど。おうちに帰って自分の部屋で眠ったほうが心地よいだろうに、ウキウキと遠足気分でひとの衣類箪笥のタオルを物色する宮くんに、私は一番手前のでいいよと声をかける。
「最後換気モードにしておいてね」
「ほーい」
お店でのしゃきっとした姿勢と打って変わって、背中を丸めてのしのしと浴室へ向かう姿がかわいくておかしい。今日は普段の営業に加えてこっちのお店でも頑張ってもらったので、存分に疲れを癒してもらいたい。一番風呂に入ってもらえたら、もっとよかったんだけどな。かたくなに後がええと言い張るのでいつも遠慮しいだなと思いながら先に入っている。洗面所から持ってきたドライヤーをコンセントにさしてスイッチをつける。適当にふりふりと本体を振って風を送りつつタオルで髪の水分を軽く拭っていく。絡んだ束に指を通してほどく。あっ、ここ玉結びになっちゃってる。ベッドを背もたれに、ラグの上でまったりと髪のケアができるのは宮くんが入浴している今ぐらいだ。ついでに柔軟もしておく。上がってきたら彼に構ってあげないとのしかかられたり噛まれたりする。
「いや、クマかな?」
「ガオー」
「わっ。おかえり」
「ただいま。クマってなに?」
「宮くん髪の毛拭いてあげよっか」
「ええの!?」しずくをポタポタ落としてやってきた半裸のクマが嬉々として頭を差し出してくる。危なかった。まさか声に出ていたとはと内心冷や汗をかいた。水気と重力に従ってばっさりと下ろされた黒の短髪は自分のそれと違って太くコシがある。あまり乱さないよう、ゆっくりと地肌にタオルをもみこんでいくと、すぐにぐっしょりと湿った感覚が伝わる。
「拭いてから出てきてね」
「はよなまえちゃんに会いたかってん」
「シャツも着てから出て」
「サービスやのに」
「おしんこサービスがいいなあ」
「食いしん坊さん」
「ふふ。宮くんとこのおしんこおいしいよねぇ」あらかた拭き終えて、ドライヤーする?と尋ねれば返事の代わりに頭が膝へ落ちてきた。再びスイッチを入れて風を起こす。私が親切心で髪を乾かしてあげている間、宮くんは太ももに頬ずりしたり鼻を脚の間にねじ込ませようとするなど悪戯を図る。こら、と数回たしなめてもかたくなで、私の腿筋が負けそうだったので「チョコあげないよ」と囁いてみる。
「あるん!?」あっさりと顔を出した宮くん。
「あるよ。おねだりしてたじゃない」
「したけど、くれへんかったやんか」
「帰りにおみやげがてら出そうと思って……」
「バレンタインは今日や!」
「それもそうだよね」
「とてもお菓子屋さんの言うことと思えんわ……」信じられへん、と表情が私をなじっていた。ひと月ほど前から、なにかにつけてチョコチョコチョコチョコと呪文のように唱えるものだから、せっかく作ってあげたというのに心外である。それでも期待した様子で膝から起き上がって両足を解放してくれたから、ドライヤーのスイッチを切って宮くんに渡した。彼はすぐさまコードを引っこ抜いた。乱暴にしないで。
「手作りやんな?」
「このご時世、迷ったんだけどね」
「日ごろどんだけお互いの料理食うとると思てんねん」
「売ってるチョコもおいしそうだよね」
「サロンデュショコラ、オンラインのやつ注文しちゃった」言いながら、宮くんのそばにあるサイドテーブルへ膝立ちで寄って手を伸ばす。籐編みのカゴのフタを開けると、簡素にラッピングされたマフィンがころっと転がった。
「チョコマフィン!……コレ食うたことないやつや」
「見てわかるなんて、さすが宮くんだね」
はちみつレモンの生チョコマフィンだよと伝える。香り豊かなココア生地の中にほぼペースト状の生チョコレートとはちみつが入っていて、噛めばとろりとなめらかな舌触りが生地に絡んで垂涎の仕上がりになっている。見た目の彩りと味の掛け合わせを考えて、表面にはたっぷりのレモンアイシングとほんの少しのアラザンを降らせた。
「一個だけの特別な味だよ」
クマにはやっぱりはちみつかなって。
「トクベツ」彼の両手にはひときわ小さく見える小さな包みを、彼は目の高さまで掲げて熱い視線を送っている。そのどんぐりまなこがチカチカときらめくのを見て、私は胸を撫で下ろした。よかった、よろこんでくれているみたい。ラッピングというよりただのパッキングに近い、そっけない包みでも気にならない様子で安心する。包装のことすっかり忘れてたなんて言えない。あの時ほど自宅が焼き菓子屋さんでよかったと思ったことはないよ。よかったよかった、と思いながら頬のかっかと紅潮していくのを眺めた。
意外と静かによろこぶんだな。
渡したら即効で包みはがして即座に口へ放り込むかと思っていたけれど、目の前の彼は唇をみしめてただ小さなお菓子を見つめているのだ。その様子がなんだかとても愛らしくって、尊くて、こういう表情が見たくて『特別』を創ったんだなあと気づいた。
「食べないの?」
「ン。ちゃんと使ってから、大事に食う」
「使うって何に?」
「なまえちゃんお返しにほしいモンある?」私の問いかけにかぶせて尋ねる宮くん。食べる前からもう一月後の話なんて、ずいぶんと気が早い。
「特にないかな」
「俺とかほしない?」
「かさばりすぎかな」
「秒で断るやん」
「あと、食費もかさばる」と続ければ明らかに眉を下げた。
先ほど渡した包みをそっとテーブルに置いた宮くんは、空いた両手で私の腰へ回す。引き寄せられた貧弱な私の身体は彼にもたれかかられることで後ろへ重心を崩しかけた。これはまた甘えたモードだなあ。
「なまえちゃん、ヒドい」
「かさばるし、重たい」
「増えたし!」
「ぽよぽよじゃないし、痛いし」
「……」もはや言い返す言葉がないのか、黙って首元に顔を突っ込んできた。息が肌にさわって、今度はくすぐったいし。
「でも宮くんのことが大好きだよ。いつも仲よくしてくれてありがとうね」
何に使うか知らないけど、特別のマフィン、ちゃんと食べてね。
心からの気持ちをかけがえのない友人に伝えると、ぎゅううと腰を締めつけられる。
「俺もなまえちゃん大好き」
「やったあ。両思いだねぇ」
まあるくカーブを描く広い背中をポンポンと叩く。丸くても感触はしっかり骨格と筋肉が硬くてごつい。こうして感触は変わってしまったけれど、昔も今も宮くんはおもしろくて、頼もしくて、食いしん坊で、甘えたで、やさしい。この友人を私もずっと大事にしていきたいなと思う。
「俺はかなり辛抱強い」
なぜか唐突に宮くんが呟いた。
脈絡がない一言を疑問に思い、それは嘘でしょと思ったが、やさしく頭を撫でてやった。
何と言っても、大切な友人ですからね。


クマと手つなぎ
ranさんに感謝の気持ちとして/20230214
完全に夢小説とは一切関係ない私利私欲をかなえていただきました。本当に本当に本当にありがとうございました。とてもおいしいです。


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