音駒人狼・序(十)

再び。
三方を黒尾に固められながら映画を眺めている。
シリーズの六作目は一風変わっていて、基本的な人狼のルールは同じだが運用方法が他と大きく異なる。
人狼ゲームは村人の中に紛れ込んだ人狼を探して追い出すというのが主題だから、普通は村人側の人数の方が人狼よりも多い。その中で人狼が一人二人と増えることでより難易度が上がっていって、預言者や霊媒師など村人側の役職の構成で調整をとっていく……というのが一般的らしい。
しかし今回は、ただの村人は一人もいない。人狼が一人、預言者と用心棒が一人ずつ、他の人間は全員狂人だ。狂人というのは人狼が勝利したときに自分も勝利となる村人の役職だから、人狼側の人間で。つまり人狼を勝たせたい人間が多数を占めることになる。
だから人狼は絶対に投票で追放されない。
むしろたった二人の村人側である預言者・用心棒を見つけ出して追放したいわけだ。あるいは夜の襲撃か。
だから、少数である村人側が行わなければならないことは、通常の人狼ゲームとは真逆の――
「人狼騙り……」
自称預言者のカミングアウトではなく、自称人狼としてのカミングアウト。
二人の自称人狼が名乗り出たから、やはりどちらも投票先からは外される。
「人狼も一人だから、ローラーしちゃうとダメなんだ」
「そーいうこと」
耳元のくすぐったさには今日で大分慣れたと思うが、小さな震えは治まらない。この声間近で聞いてると、なんか変な気分になるから本当にやめてほしい。でも離れないでほしい。
一人のはずの人狼が二人名乗り出て、そのうちどちらかは村人側だから預言者か用心棒。それに用心棒は自分を守ることができないから、名乗り出るのは超危険。ということで、おそらく預言者が名乗り出ているのだろうという前提で話は進んでいく。実際に『用心棒』のカードを引いた主人公は二人の自称預言者のうちどちらが守るべき対象なのかを見極めながら自身は潜伏して人狼を勝たせたい狂人を騙り動いていくことになる。
「ねえ。でもこれ、人狼が勝つ条件ってたしか……」
「ウン。『人狼の数と村人の数が同じになること』ですね」
「狂人って占っても『村人』なんだよね?じゃあ実質人狼側だけど、狂人を含めた村人の人数が一人になるまで続くの?」
「そういうことになるな」
「じゃあ狂人も一人しか生き残れないんだ」
「だから人狼名乗ってる奴があんなに偉そうなんだろ」
「えー……なんか雰囲気わる……」
「ねー。嫌だねえ」
手を伸ばしてテーブルからチョコレートをひとつ摘まむ。銀紙をはがして口へ放ると、ほどよいビターな甘みが口の中でとろっと広がる。ちょっとした気分転換を羨んだ黒尾が「俺にも」と言うのでもうひとつ取ってやる。
「はい」
「あーけーて?」
「自分で食べなよ」
「俺の両手は塞がっています」
シートベルト業に忙しいらしい黒尾の手の代わりに銀紙をはがしてやる。まあ、私もチーズ食べさせてもらったしな……と思うとその時は平気だったのにちょっと恥ずかしい。ホラあーんとせびってくる顔に腹立たしさを感じながらチョコのひとかけらを差し出した。
「おいしーね」
「あざとい……」
「カワイイとは思ったワケだ?」
「ホラもう、朝になったよ」
「お。守り成功してる」
モグモグしながら二日目の様子を眺める。
やっぱり自称人狼の女の子の方が預言者か。男の子の方がなんか態度人狼っぽかったもんな。あと性格が悪い。二人はお互いに相手を襲撃しようとしたけど用心棒が守ったから失敗してしまったと主張している。張り合ってる張り合ってる、と眺めていると、雲行きがどんどん怪しくなってきた。
既に性格がクソだった人狼らしき男の子が、さらにクソみたいなことをし出したのだ。
「うわっ。いじめじゃん」
絵面の醜さに思わず身を引こうとする。背もたれにピッタリとついていたから背中は動かなかったが、背もたれの方は前にのめってさらに私を包み込む。
「うーわ。ヒドいことするねえ」
「やだあいつ……最低……」
男子のひとりに行う非人道的なふるまいに顔をしかめる。
あとさっき男子にごはん食べさせてもらってなかった?
「超超超超クソだ……」吐き捨てる私の頭を手のひらが撫でた。
慰めてくれるらしい。
嫌な気分が若干マシになりつつ、展開を傍観していると場面は変わって用心棒と預言者ふたりのシーンだ。主人公の女の子からして、相手は自分が昨夜守った相手で護衛が成功しているので預言者で間違いない。そう思いカミングアウトするのだが、相手からすればまだ信用できない。もう一人の自称人狼から遣わされたスパイで用心棒を騙る狂人だと考えたらしい。主人公を追い出してその場が終わる。
ただ再び男子を従えるクソみたいな場面の中登場し、子分の決め方を提案して人狼らしき男の子を別の意味で挑発する。効果はてきめんだったようだ。次の場面では女の子たちを自分の側の子分としてふるまわせようとした。ただ赤い服の女の子は人狼の騙りをあまり信用していないのか言うことを聞くとは思えない様子だ。彼女は自ら投票で追放が決まった人を殺害するなど胆力があり、独特の雰囲気がある人だ。今後の鍵になりそうな映し方をしている。
二日目の投票。
「うわ。またあいつ……」
「お。でも反抗した」
「…………」
そこからの展開は観るに堪えない。
目をすぼめてその光景をやり過ごす私。背後の黒尾がどんな顔でそれを観ているかはわからない。ただ私の肩に顎を乗せ、首筋に鼻をこすりつけていた。まだしっとりとしている彼の髪を撫でる。そうしていると場面が変わる。二日目の襲撃先を互いに予告して解散となる。
用心棒が預言者に呼び止められた。
村人側の完全な和解。
これで話は一歩大きく動き出す。
ただ、事態は想像以上にややこしいようだ。
『あいつ人狼じゃなかった!』
預言者が語る。
自称人狼のクソ男。
あいつは嘘つきだった。
狂人なのに人狼ムーブをしていたことになる。
「リア狂だな」
「なにそれ?」
「リアル狂人」
あいつリアル狂人だった!
しかも男子はべらせて喜ぶクソだった!
「む、むなくそ映画だ……」
「おーヨシヨシ」
この包容感マックスのリクライニングシートに固定されていなければ立ち上がっているところだ。
でもだって、じゃあ本物の人狼は?
まだ暫定狂人と思われている人達の中に潜伏していることになる。
「人狼は絶対に投票で指されないのに、なんで出てきてないんだろう?」
「さあな。騙ってる二人を泳がせてるだけかもよ」
「でも危ないよね。人減ってきてるし」
「吊られない自信があるんかね」
「えー……」
結束した用心棒と預言者。
二人で勝ち筋を探っていく。
その晩。
本物の人狼による犠牲者がひとり。
「く、くそ男……」
「ンー」
リアル狂人のクソ男が殺されてしまった。用意しておいた襲撃理由を預言者が騙る、そこへ本物の人狼が名乗り出てきた。赤い服の女の子だ。なるほど、だからこれまでと納得できる言動が多い。でも狂人からしてみたらまだどちらが本物かを特定するのは難しい。三日目の投票でも、判じかねて結局暫定狂人の中から選ぶことになるようだ。ただしクソみたいな人間がいないから、鬱屈とした雰囲気はなくなっている。とは言っても処刑する人を決めるひどいシーンには違いないが。
投票で決められた人を、主人公が手にかける。
その後誰を襲撃するかを話し合う場で、本物の人狼は襲撃先を公言しなかった。用心棒の守りを警戒してのことで、村人側の作戦が破られてしまう。
用心棒は預言者の部屋を訪れて自分のナイフを手渡した。柄の部分がグチャグチャになったナイフだ。
彼女たちは寄り添い合う。
異様な極限状態の中で生まれた絆が、彼女にひとつの決意をさせた。
『何があっても絶対守るから』
――話運びが、なんだか不穏だ。
元々明るい展開とは無縁な作品だけれど、主人公側にとってよくない雰囲気が漂っていた。この晩、確実になにか事態を大きく揺るがすことが起きるような。クライマックスと言えるようななにかが。
唯一自分の身を守れるナイフを渡して丸腰になった主人公は、部屋で護衛先を選択する。開け放った窓辺に寄りかかり月を見上げていると、扉が開く。ナイフを持った人狼が入ってきた。
え。
主人公の部屋に来ちゃったじゃん。
え、え。
対峙する彼女の表情。
予想していたのだろうか。
刺しかかる人狼。押し返す主人公。再度人狼が襲い掛かる寸前。
彼女はひとつ吠えると、手にしたリモコンで、
「えっ」
自らの頭部を殴った。
驚愕に染まる人狼の顔。
彼女が殴った。
何度も、何度も。
自分の頭に打ちつけて。
叫びながら。泣きながら。
リモコン。
わけのわからない状況に立ち尽くす人狼。
え、え、
それを外へ投げ捨てて。
あ。
振り返った彼女は。
わらう。
あ、あ。ああ。
あああ。
自ら、外へ身を投げる。
首輪が締まる。
ポケットをさぐって。
そして――

「…………」
「はいティッシュ」
差し出されたティッシュの箱らしきモヤに手を伸ばす。遠近感がなさすぎて空ぶると「しょうがねえなあ」と言い置かれシュシュッと引き出された白いものが顔面にぶつかった。
「まったく。なまえチャンは泣き虫でちゅね〜」
「なき、虫っじゃない、」
「ハイハイ。よちよち」濡れた顔面の水分を吸い取られながら思う。
だって仕方ないじゃないか。まさか六作目があんな結末を迎えるだなんて。
「うう〜っ……」
「お前はよく観ようかななんて言えたよね」呆れ混じりのからかい混じり、愉しげに揺れる声の主はしかし同時に慰めるように頬を撫でて目元にティッシュをあてがうのだ。こんなの存分に泣けと言われているようなものだ。次々と生まれる涙の粒を、まるで母親みたいな面倒見で許してくれる黒尾のやさしさがさらに胸をついて、結局しばらくは感傷に浸ることになった。
「……くろおは、よく平気だよね……」
「俺もビックリはしたよ。前半も後半も揺さぶりが凄かったわ」
結構な時間胸糞だったしなとは言うが、やはりというかさすがというか。いたって平常心に見える。フィクションの物語だし、黒尾のことだきっと純粋にエンターテイメントとして楽しんだのだろう。途中までとはいえ元々このシリーズを観ていたらしいのだし。少なくとも私をよちよちする程度の心の余裕はあるというのだから神様はこの男に一体何物を与えれば気が済むというのかと見当違いに憤慨したくなる。
しばらく好きにさせてもらい、ようやく気持ちが落ち着いてきたと自分で思ったころに顔を覗き込ませてくる。ぬっ現れた迫力ある男のアップを、泣き止んだばかりでぼうっとする脳が認識だけして。
「あと二つあるけど、大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
「夜も遅いし、明日とかまた今度にするという手もあるよ」
「やだ。黒尾と一緒にいたいの」
名残のしずくがポロリと頬を滑った。
「…………観たい、ではなく?」
少しの沈黙のあと、静かな表情で黒尾が尋ねる。
私は「そうとも言う」と返し彼の腕に触れた。
「まだ全然遅くないし。黒尾が教えてくれないとよくわかんないところあるし。こわいし。帰っちゃやだ」
「お、おお……?」上ずって動揺する黒尾。その腕に抱きつくと一瞬地震かと思うほど身体が揺れた。
「怒らないで」
「怒って、ねえよ」
「ほんと?」
「本当です」
じい、と今度は私が黒尾を見つめる。
驚いてはいるが、本当に怒ってはいなさそうで安堵する。
「帰らない?」
「帰りません」
「絶対に帰らない?」
「絶対に帰りません」
「それよりあの、腕を、ッ!?」ひと一人がしがみついてもビクともしない安定感半端ない腕に頬を寄せる。それと同時に黒尾の声がひどく揺れた。腕の筋肉が頬につも伝わる。長袖ではあるがこの季節の寝巻は結構薄着だ。背もたれの頑丈さも、熱さも、鼓動もずっとはっきり伝わっていた。この腕がずっと私を締めつけてそこにつかまえていた。そう考えると、ずくんと身体の奥がうずくような。はあっと息をこぼして生まれた熱を少しでも逃がそうとしたら、逆に黒尾がしどろもどろになる。なんだかおもしろい。
だって黒尾、あんなに私に悪戯したのに。
私は気づいている。
だって、あんなことをされたら、映画を観ながらも意識はどうやったって黒尾に持っていかれてしまう。あのシートベルトの端っこたちが、わさわさとさりげなくお腹を揉んでいたのだって知っているのだ。何回も耳たぶを咥えてきたり、耳の裏や首に吸いついたりされた。狂人村の時だけじゃない、前作前々作でもいっぱいされた。そのたびに私は五感を黒尾でいっぱいにして、けれどずっと耐えてきた。
あの過度な接触によって私の恐怖がいくらか軽減されたと主張するならばそれはまあその通りだが、それにしたって長時間にわたり私をドキドキさせすぎた黒尾は有罪だ。
「みょうじサン。大丈夫なら、次を観よう」
腕を離して、とは言うが振りほどこうともしない。どころか後頭部に手のひらを添えて指先だけが撫でるように少し動く。こんなのズルだ。腕を離す。明らかにホッとしたような顔をする黒尾にかまわず、その太い首に腕を回して正面から身体をひっつける。今度は悲鳴が上がった。おお。正面からだと、鼓動がすごい。温いし。すごくはやい。
「ちょっと、みょうじ」
べろり。
と舌を這わせる。
形のいい耳のふちをなぞると、飛び跳ねる巨体と悲鳴。
ちょっとしょっぱい。などと感想を抱きつつ、やわらかな耳たぶを軽く咥える。
そして即座に反応する彼の身体。
ふうん、なるほど?
これは確かに――おもしろいかもしれない。
自分から香るソープではなく、黒尾自身の匂いと混ざった、ひとつだけの匂いがわかる。汗ばんだ肌からさらにそれを感じて、私の中の本能がくすぐられる。
彼をベッドに押しつけて、自分の身体で挟んで首根っこをねぶる。彼はもうなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。熱のこもった息を吐き、漏れそうな声を押し込める空気の振動だけが聞こえる。
頭に添え直された手のひら。腰を抱く腕。口からは、文句のひとつもこぼれない。
彼を味わいながら、そうかと思う。
そうか。
今の黒尾はコレを怒らないのか。
まだ余計な水分が残っていたのか。にじんでくる視界に瞼を強く閉じてやり過ごした。
やわらかく、しなやかな皮膚に吸いついてそれを食む。
黒尾の味を確かめるように行われるそれをやがて夢中になって繰り返していた。

「――――ちょぉおっと、タンマッ!!!」

勢いよく身体が引きがされたのは、悲鳴にも聞こえるそんな声が鼓膜を侵した瞬間だった。
陶酔するほどに心地よかった熱のまじわりは離れた瞬間一気に冷えてしまう。私は肩を掴まれて力づくで黒尾から拒まれた。真っ赤になって息を乱す、首を濡らした黒尾を煽情的と見惚れる一方で、小さく絶望の淵に立たされる。
「俺らっ、その……ッ。その前にッ、先に、話すことがあるんじゃないでしょーかッ……!!」
「……怒らないって言った」
「怒ってませんッ!」
「うそ!怒ってる!鬼みたいに真っ赤になって!」
「コレはお前っ、お前ホント――に言わないとわかんない!?」
「しまいには泣くよ俺!?」とキレ気味に言われて、泣きたいのはこっちだと唇を噛む。そうしたら黒尾は勢いをなくして、歯を食いしばり苛立たしげに頭を掻く。
ほらまた怒らせた。
私は怒らせてばっかりだ。
このやさしい人を、私は昔っから、一体何度怒らせれば済むんだろう。
自分が情けなくなってくる。
「あー……だからだな、怒ってるんじゃなくて……」
「…………」
「……そんなに悲壮な顔をしなくても」
「世界滅亡か」とよくわからないツッコミが手刀とともに降ってきた。
「だって……私がされたことをする分には、怒られないと思った……」
「……それはまあ、そうね」
一応そういうこと考えてんのねと言われる。考えてるよ。だってもう怒らせたくない。声色が少しずつ穏やかさを取り戻しているように感じるが、それは黒尾がやさしいからで。だけど黒尾の怒りは鎮まってはいないはずだ。だってなにも解決していない。
昔っからなにひとつ。
私はいっつも黒尾の思いを踏みにじる。
一歩踏み出す度胸もないくせに、我慢することもできなくて中途半端に手を出して、それなのに何もなかったみたいな顔をして取り繕って。だけど黒尾が好きで。好きをちっとも止められなくて。ずっと途方に暮れている。そして黒尾のやさしさに甘えて、また自惚れるのだ。
「いっぱい舐めてくるから、もしかしたらおいしいのかなって……」
「……やってみて、どうだった?」
「ドキドキして、なんか……なんかきもちよかった……」
「ハハ」突然黒尾が笑った。
笑った!?とまじまじ見てしまう。
「素直か」と黒尾は笑いながら頭にポンと手を乗せる。地味に重量を感じる。少しの間おかしそうに息をこぼした黒尾は、フウッとひとつため息を吐いてじっと私を覗いた。
「俺は怒ってないし、怒ったとしてもお前を嫌いになんないよ」
笑みを浮かべてハッキリと言い切る黒尾に胸がずくんと痛む。今怒ってないよと言われたのに、昔のことも一緒に言及されたような気がする。でも、そんな痛みを感じるにしては彼の表情が穏やかで――惑う。
「みょうじもそうだろ」
「私も?」
「俺にイラっとしても、引いても何されても嫌いにならない」
「……そんな、言うほど引いてもないけど……」
「いや〜ぁたまにスッゲー冷たい目で俺のこと見てたよ?お気づきでない???」
「……え、それ、そういうレベルの話なの……?」
「そういうレベルのお話ですよ。俺にとってはね」
じっと私を見た。
その目はとてもやさしくて。
私はまた、背中を押されている感覚になる。
「大声出したのは俺が悪かった。けど、心身ともに健全な男の事情と、俺が言った内容を汲んで、ちょーっとだけ考えてもらえませんかね」
肩を覆っていた手のひらの力が緩む。
「考える?」
「うん」
「私はいっつも黒尾のこと考えてる」
「……ウンッ」返答が悪かったのだろうか、ギュッと目を瞑る黒尾。口も一文字にしてプルプルしている。この反応が何を意味するのかはわからないし、心身ともに健全な男の事情とやらもよくわからないから、取り急ぎさっき黒尾が言った内容を汲むというのに絞るしかない。
「タンマって言った」
「言ったね」
「先に、話すことがあるんじゃないって言った」
「……みょうじはどう思う?」
言われたことを切り出す私に黒尾が問いかける。
私は口を閉じて、黒尾の顔を見た。
静かに、だけど怒っていない黒尾が表情を消して私を見つめる。
怒ってないし、怒っても嫌いにならない。
「……………………あると思う」
情けない声が出た。
大きくて、やさしい指先が頬を撫でる。
謝る前から許されたように錯覚して、また瞼が熱くなる。
「黒尾」
「ウン」
「黒尾、あのとき」
「ウン」
「私高校の時」
「ウン」
「私…………」
言葉に詰まった私に、ウンと黒尾が頷いて。
なんでそんなにやさしいの。
「私黒尾にキスした」
「…………うん」
「く、黒尾が寝てて。私、知ってたのに」
「…………」
「部活のことだけ考えたいって、言ったの知ってるのに」
そう、知っていた。
黒尾は私に話してくれていた。
黒尾に恋をしている私に、わかりやすく伝えてくれていた。
バレーボールは黒尾にとって大事なもので、音駒高校のバレーボール部主将としてのそれは、ひときわ大切にしたいもので、それだけを考えていたいって言っていた。私はちゃんと覚えていた。黒尾にとって今なにが一番大切かを把握していた。幼なじみのこと、仲間のこと、監督のこと、バレーボールのこと。それが黒尾の柱になっていた。そんな黒尾は輝いていた。それが柱になった黒尾を好きになった。
それなのに。
「黒尾の気もち無視して。自分だけの都合で、寝込み襲って」
「…………」
「それで黒尾に、いまなにしたって聞かれてわたし、私、なにもしてないって言った」
映画の円盤なんかよりも、再生するのは簡単だ。
今でも克明に甦る。
「こわくなって、黒尾の気もち踏みにじったのに、こわくて、なにもなかったフリした」
あの時の、黒尾の――傷ついた顔。
それを一瞬で引っ込めて、私のウソに乗っかった黒尾は、間違いなく私を軽蔑した。
私のそばで眠ってくれることが嬉しかったのに。
私はそれだけじゃ足りなくなった。
信用されていたのに裏切った。
その上、それをなかったことにした。
あさましい意気地なし。
今もそうだ。
ここまでお膳立てされないと、本当のことひとつ言えない。
「ごめん黒尾。ごめんなさい」
本当は怒ってもいいよ。嫌われても仕方ないよ。私はひどいことをしてきたよ。今までずっとそうだよ。
本当は嫌だよ。でも私は、本当に自分のことばっかりだから。これを言葉にも出せない。あさましいんだよずっと。
黒尾に誘われてうれしかった。覚えててくれてうれしかった。あてにされてうれしかった。ほめてくれてうれしかった。考えてくれてうれしかった。助けてくれてうれしかった。さわってくれてうれしかった。わらってくれて、からかってくれて、見つめてくれて、全部、全部うれしかった。だからなにをされてもよかった。
自分のことだけだ。
全部自分のことだけ。
最低な自分と向き合いたくなくて、黒尾にまたあんな目をされるのがこわくて、私にとって都合がいい道に向いてくれた黒尾のやさしさに甘えてここまで来た。今だってそうだ。
ごめんなさい、と言葉を振り絞る。
黒尾はじっと私を見ていた。
もう逸らせない。
「…………」
沈黙の中、黒尾の唇が薄く開く。
ぎくりと肩が跳ねたことに気がついたらしい。本当によく見ている。
なにか言おうとしたに違いないのに、口を閉じてしまった黒尾に内心慌てて。どうしよう、また気を遣わせてと思っていたら、彼の表情がほどけた。すこしだけわらったらしい。
ぼうっとそれを見つめていたら、おもむろに近くなる。
彼の腕をめいっぱい伸ばしたほどの距離に開かれていた、私たちの間がどんどん縮まって、縮まって、縮まって、焦点が徐々に定まらなくなるほど近づいて、そして完全に埋まったとき、私はあの日感じた彼のやわらかさを思い出していた。


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