音駒人狼・序(九)

「じゃあお先に入らせてもらうね」
お風呂がわいたのだが、黒尾の要望通り先に入ることにする。黒尾はとても爽やかそうなスマイルで「ごゆっくり〜」と手を振っている。変な男だなあ、と思いながら荷物を持ち洗面室に向かった。洗濯機の上にタオルと着替えを置く。扉がないのでつっぱり棒に通したカーテンをしめて空間を仕切る。その前にと、部屋に向かって呼びかけた。
「こっち来ちゃダメだからね」
ベッドに腰かけた黒尾は顔だけこちらに覗かせてニコ……とほほ笑んだ。
返事をしろっての。
カーディガンを脱ぐ。ワンピースのファスナーを下ろす。インナーから頭を抜け出すと髪の毛がふわふわと静電気で浮かぶ。靴下や下着まですっかり脱いで脱衣かごへ入れ、洗面台に収納しているヘアブラシを手に浴室へ入った。
部屋に誰かいる中でお風呂に入るのは、やっぱり少し変な感じがするな。
変というか慣れないというか、ちょっとくすぐったい感じだ。
しかも今日いるのはあの黒尾だし。
いやだいぶくすぐったいな。
浴室の扉がバタンと閉まる。
ブラシを置いて、シャワーヘッドをスタンドから外して水栓をひねると、勢いよく床にたたきつける水の音。片手をあててお湯になるまで少し待ち、十分に暖かくなったところでスタンドに戻す。身体にさあっとお湯がかかる。椅子にかけて顔から洗おうかと身をかがめたところで、湯気でくもり出す前の鏡に自分の姿が映って視線がぶつかる。サイドの髪に隠れていた耳元が前かがみになったことで顔にかかって、耳元がちらと覗いている。
そこから紅色がきらりと瞬いた。
「あっ!」思わず声が出る。
ピアス外すの忘れてた。
気づいてすぐ、豪雨のように床をたたくシャワーを鳴りやませる。静かになった浴室内。
うわー最悪、と一人佇んだ。
とりあえず外さないと、と思いさっき入ったばかりの浴室を出る。バスマットに濡れた足を置いてバスタオルで濡れそぼった手をひとまず拭い水分を吸わせた。これで外すことはできた。ころんと手のひらにおさまった、小さくて愛らしい私のピアス。照明の安っぽい光を受けてつるんと光っている。かわいい、と心ときめかせ、そして頭をかかえた。
「どーしよ……」
こんなに小さくて大事なものを置ける、平らで安全な場所がない。
いま着替えやタオルを置いている洗濯機の上は、それとして安定はしているが蓋の造形が水平ではないし、開閉の際指を引っ掛けるための窪みがある。些細なものが挟まりそうな穴もたくさん開いているのだ。衣類やタオルの上に置くにしたって、身体を拭いたり着替えの時などちょっとしたはずみで転がり落ちてしまいそうだ。そのまま行方を見失って、紛失にでもなったらと思うと、入浴中のわずかな間とはいえとてもそこへ置こうとは思えなかった。同じような理由で、ハンドソープを置いている洗面台の淵なんかにも絶対に置きたくない。もはや一度転がったら排水溝へ待ったなしで、とてもとても危険だ。ここは危険しかないな?どういうこと???
「…………」
無意味に何度もこのスペースをキョロキョロとしてみるが、安全な置き場など見つかるわけもない。そして身体はびしょ濡れだ。段取りの悪さにため息が出る。
仕方ない。相当間抜けだけど仕方がない。
そう言い聞かせてバスマットを足で少しずつずらして脱衣場と廊下を仕切るカーテンまで移動する。
カーテンの端に手をかけた。
最終手段である。
「黒尾〜ちょっと来て〜」
部屋に向かって声を張ると、すぐに足音がやって来た。
「どうした、虫でも――おおっ!?」
そばにやって来た黒尾が目を丸くする。
そりゃそうだろうな。ぴっちりと閉じたカーテンから首だけ出した、旧友の姿は間抜けすぎる。パッと手で口を覆うと気まずそうに顔をそむけた。
自分でもこの姿は相当に恥ずかしいけれど、全てはピアスの安全のためである。
「虫じゃないの。ピアス」
「ピアス?」目だけがこっちを向いた。
「外すの忘れちゃって。これテーブルに置いといてくれない?」
わずかにカーテンを開け、その隙間から手を通して黒尾に差し出す。
「いいけど」と黒尾はそれを見下ろした。
「ピアスって濡れたらダメなんだっけ?」
「説明書きには純チタンって書いてあったから、大丈夫とは思うけど……」
「けど?」
「でも劣化が早くなったら嫌だし……ね。これ」
急かすように腕をさらに突き出すと、なんだろうか黒尾は一瞬慌ててから受け取った。
「転がんないところに置いてくれれば大丈夫だから」
「リョーカイ」黒尾の大きな手のひら。その中で光る紅色は、豆粒どころか砂粒のようだ。なんかおもしろいな、と思って見下ろしていると、視線を感じて顔を上げる。
「なに?」
「お前さあ……」
「うん?あ。次から気をつける。ありがとうね。助かります」
「…………ハア」
しまいには人の顔を見て大きくため息を吐いた、失礼な黒尾はのっそりと来た道を戻っていった。
呆れられてしまったな。と私も自分にため息だ。
まあそれはそれ。
ともあれ、これで安心して入浴を再開できる。カーテンから手を離し、私も浴室へ戻るのだった。

「ただいまー」
しずくの垂れないようタオルで髪をかき上げて部屋に帰ってくると、黒尾はテーブルにかぶさるように上体を折って窓辺の席に掛けていた。さほど声量もなかったが、聞こえていないらしくその横顔は腕に隠れてピクリとも動かないので、眠っているのかと思い足音を殺してしのび寄る。
上から彼を見下ろすと、真っ白なテーブルの上に放り出したように見えたごつい腕がその掌を彼に見せるようにしているのがわかった。その中に何があるのかも。
「…………」近づいても反応がない。
寝ているのかと思ったが、垂れ下がった前髪で見えづらい瞼はちゃんと開かれているのが窓ガラスの反射で映る。眠るよりも珍しい、ただボーッとしているだけらしい黒尾の表情が知りたくて、その視界に割り込むように覗き込んだ。
「きれいだよね、それ」
「うわっ!?」
大仰な悲鳴を上げて身体を震わせた黒尾はすぐさま顔を上げた。盛大に驚いている。とっさにだろうか、手の中のものをギュッと握り込むので気に入りの紅色は見えなくなってしまった。
「お、驚かすなよ」
「言ったよ。ただいま〜って」
「……寝てた、カモ」
「へえ?」視線を逸らして言うものだから、暫定的にはこちらが有利だ。語尻を上げて相槌を打つと、相手はもの言いたげに瞳を揺らしたが空いている方の手で口を覆う。
昨日今日でさんざんからかわれたから、少しはこちらも仕返しをしてやりたいところだけれど、私もいい大人である。好きな男をいじめる性癖はないのだ。いい夢見れたみたいでよかったね。とだけ返しておく。
「ピアスありがと」
「…………ン」
手を差し出したら、照れがちに上目遣いで手の中のそれを渡してくれる。テーブルでよかったのに、大事そうに見つめて……一体何を思っていたのやら。自分のもとに戻ってきたそれを眺め、笑みが浮かんだ。
「お風呂どうぞ」と促しつつ、サイドボード上にあるアクセサリーボックスの一番上の段を引き出して紅色をしまう。透明度の高いアクリル製のボックスは、最上部に入れられたそれらがくっきりとよく見える。指で箱のふちを少し撫で、視線を彼に戻せば交錯した。
黒尾は何を思うのだろう。
自分がたわむれに贈ったピアスを夢見心地で身につける女を見て、一体何を考えるのだろう。
その解は、私なんかが見つめたところで読み取れるわけがない。すうっと目を細めた黒尾はのんびりと立ち上がり、肩をぐるりと回して「おし。入るか」と呟けば調子はすっかり通常運転だ。
荷物をリュックから取り出す黒尾に、バスタオルは今朝乾いて畳んであるものを出してやる。
「まあ換気だけしてくれたらいいからね」
「スクイージーもでしょ。やりますよ」
「うーん。じゃあ、覚えてたら」
「ハイハイ」広くない通路が窮屈に見える、大きな背中が浴室へ向かいのしのしと歩いて行った。ごゆっくりー、と声だけかけて私も自分のヘアケアへ移る。タオルで頭部をもみこむように包み毛先まで優しく水分を拭う。蓋つきのバスケットからヘアミストを出して髪になじませる。あまり香りの強くないタイプで、滑らせた途端に質感が変わるから愛用している。ミスとが済んだらドライヤー。手早くしつつも細部までしっかりと指を通し、最後は軽くブラッシングでケアを終える。
シャワーの音がまだ続いている。
黒尾がうちでお風呂に入るって、変な感じだなとまた思う。入浴中も、部屋で自分が上がるのを待っているのだと思うと妙な気分になった。なんだろうこれは。今日まで感じたことがない心地がしてムズムズした。他の誰が相手でも、これまでこんなことにはならなかったのだから、やっぱり黒尾は私にとって特別な人なのだろう。
まったく諦めが悪いことだと心底呆れる。
道具をしまい終えて立ち上がる。
髪をゆるくまとめてキッチンへ。
冷蔵庫を開き、忘れていた喉の渇きを潤したあとは夕飯づくりの仕上げをしていると、折れ戸の開く独特の音がして水音が止んだことに気が付いた。みそ汁を相手にしている間にそこそこ時間が経ったらしい。炊飯器は少し前に炊き上がりを告げていた。おかずも温め直したし、お皿に盛り付けていればほどなくして髪をぺしゃんこにした黒尾がカーテンを引いて出てきた。
「おかえり」
「おー。いいお湯でした」
ぺたぺたと可愛らしい足音がそばまで来る。私の手元を背後から覗いた巨体から、同じシャンプーの香りがふわっと届いてまた心乱される。しっとりと水分を含んだ肌は湯気がほのかに上がり肌色も赤らんでいた。
「なに見てんの。エッチ」
「ト、サカがないのが珍しいだけ……」
「へえ?」色気マシマシの笑みを間近で見せられて体温がぶわ、と上がるのを感じた。アイデンティティを失って元気がなくなるはずの男は、背中にピタッと自分の腹をくっつけてくる。
「ちょっと」
「いーニオイ」
「どこ嗅いでんの!」
「だって自分の嗅げねえし」
しれっと答えてはスンスンと野良の動物みたいに鼻を鳴らす。その鼻先がちょんと首にぶつかって悲鳴を上げた。
「ギャ」
「今すっごいビクッてしたね」
「誰のせいだと思ってんの」
「ぜーんぶ俺のせい」言葉通りに思っているようには到底見えないほどの笑顔を直射で浴びる。これは耐えられない。
「退いて」
「いーや」
「ごはんできたからっ」
「風呂入ると腹減ってくるのなんなんだろうな?」
「知らないよそんなの」
いいから、ほら。と肩で分厚い胸板を押すとおどけてのけぞる。なんの茶番だ、とひとりごちて料理の乗ったお皿を両手に掴んだ。
「ほらほら退いて。邪魔です」
「おーコワ。そんなにプリプリすると、かわいいお顔が台無しですヨ〜」
なんで今日そんなにかわいいばっかり言うんだ。眉間を思いっきり寄せて、口端を引き締めるさまがかわいいわけないのに。しかもお風呂上がりでスッピンだし。一人でさっさと部屋の奥まで料理を運ぶ。後ろからペタペタと音と気配がついてきて「コッチもうまそうだな〜」と笑っている。がしがしと乱暴にタオルで頭を掻くから痛んでしまいそうだ。勿体ないな。ポタリと顎を伝った水滴が床に落ちる。いけない。と視線を剥がしてキッチンを往復する。ごはんをよそおうとお茶碗を出す傍ら、黒尾が「箸どれでもいーの?」と引き出しを開けて尋ねてくる。
「どれでもいいよ」
「じゃあこのネコのやつ使お」
「そのネコなんか黒尾っぽいよね」
ほくほくと湯気のあがる炊飯器、炊き立てのにおいを胸に吸い込んで幸せな気持ちになる。さっくりとしゃもじを刺し込んでふかふかのごはんをお茶碗へよそう。これくらいでいい?と黒尾を振り返った。
「どうしたの」柄の部分に黒猫のイラストが描かれている箸を握ったまま口をモゴモゴさせてこっちを見る黒尾に首を傾げて問いを重ねる。黒尾は少しの間こちらをじっと見つめていたが、なんでもないですと静かに答えて空いた指に小鉢をひっかけて配膳しに行った。お味噌汁の支度もできたらトレイにまとめて窓辺のダイニングへ。そっち置いて、とお茶碗を手渡しお椀を置いたら晩ごはんの食卓が完成だ。
向かい合って座り、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
人で遊ぶ黒尾も食べ物で遊ぶタイプではないから食事は平和的につつがなく進む。サンマが好物だったり和食が好きだったりで、食の好みが案外渋い黒尾は野菜の出汁がたっぷり詰まった肉豆腐の味を気に入ったみたいで「コレは丼にしてもウマい」とごはんを頬張って頷いていた。蒸し鮭を使ったサラダにも旺盛に手を出していてホッとする。料理はどうしても味付けの好みとかあるからな。おいしそうに食べてくれるのはやっぱりうれしい。
「いい食べっぷり」
「身体が資本だからネ」
「結構あちこちイベント行ってるんでしょ?忙しいね」
「そーね」
「でも楽しいんだ」
「まあね」
「うれしそう」目の前の表情をそのまま声にすると、照れたのか「あんま見ないでくださーい」とおどけ始めてしまうけれど。バレーボールのことと、バレーボールを好きな人のことを考える黒尾の表情は生き生きと躍動に満ちている。部活についてしゃべる時の黒尾も昔からそうだった。そこだけ見ていると、とても雄弁でわかりやすいと思うのに。
「そうだ。さっきヨッシーから返事来たよ」
「ヨッシー?あ、映研の?」
「そう。部長だった吉上。撮影の日、休み取れたからいいよーって」
「おお!」
「私らの代でいた子五人オッケーとれて、今の部員でよかったらあと三人追加できるって」
「すげえ。集まるもんだな」
「バレー部もそうじゃん」
そう言うと目を丸くする黒尾。ごはんを咀嚼しながら、この顔かわいいなと思う。
「好きなことで繋がってる奴らだからね。面白そうなことなら集まるし、力になりたいって思うよね」
「ありがたいね」みしめるように黒尾も言った。
「機材については、えーと何だっけ……私らは自前のがあるし、部員の子らは部のやつとヨッシーの借りて撮るみたい」
「足りなきゃ研磨が貸してくれるって言ってた」
「じゃあモデル確認だね。ジンバルはそんなに数がないかも」
食事をしながらいくつか撮影のことを話す。明日の現地確認でチェックする項目も詰めつつ、日中随時小腹を満たしてきたのに卓上のおかずはしっかりと消えていく。黒尾はおかわりまでした。怪獣並みの胃袋は炊飯器のお米を食らい尽くすので、冷凍する手間もない。
「ホントよく食べる」
「おいしいからネ」
「鮭派になった?」
「サンマ最高!」
「ベッド下だわ」
「コラコラ」
すっかり空になった食器が並び、二人手を合わせ食後の挨拶をする。こんなにきれいに食べてもらえると、作ってよかったって思うよなあ。トレイに器を重ねてキッチンへ運ぶ。両手にお皿を持ってついてくる黒尾はアレが特にうまかったとか言ってニコニコしている。高校生の頃とおんなじ顔で食べてたなあと思い出して笑う。シンクに食器を置いて水に浸しておく。あ。炊飯釜としゃもじ、もう浸けてくれてる。
「ホイ。皿」
「ありがとう」
「あと台拭きで拭いとけばいい?」
「うん。助かります」
「ベッド下脱出した?」
「あはは。したした」
ご機嫌でテーブルを拭きにかかる黒尾だった。
食卓の片付けを終えてお茶の準備をして定位置に戻ると、クッションを置いて黒尾が待機していた。なにげなくそれを視界に入れて『あ、スタンバイしてるなー』と思いながら次の六作目のディスクを取り出し挿入したところであれ?と違和感に気づいた。
「どうしたの」
立ったままの私に黒尾が声をかけてくる。
「なにこれ」
「僕の渾身のセッティングになにか問題でも?」
「なんでドヤ顔なの」あまりにもドヤッとした顔をするから思わずツッコミを先に入れたが、内容に関しても色々言いたくはある。ラグの上、ベッドを背もたれにあぐらをかく黒尾のすぐ手前に恐らく私が座る位置を示すクッションが置かれている。
「いや、その配置おかしくない?」
「新しいポジションにもどんどんチャレンジしていこうと思いまして」
「バレーでやりなよ」
「ほらココ。いいからココ」子どものおねだりかな?という言い方でもはや言いくるめる気ゼロでクッションを叩く黒尾を見下ろす。これはアレだろうか、人を集められたことへのご褒美とかかな……と見当がつけられないわけではない。素直に乗っかってもよいものだろうかと自身の心臓に確認する余裕もなく、しまいには指先を握られて引っ張られるのでいよいよ子どものおねだりの言いなりになる大人のごとくクッションの上に着座することとなる。
そして。
「これでヨーシ」
腕が回って後ろに傾けられる。
座席の背もたれみたいに黒尾の身体にもたれかかり、腕はシートベルトみたいに巻き付いている。
「夜行バスみたい」
「もっと快適でしょーが」
「リクライニングできる?」
「九十五度までなら」
「せめて百はいってよ」
「いやいや。それ二時間キープはキツいからね?」言いながらシートベルトがギュッと強く巻き直された。リクライニングも八十五度ほどに狭まり、夜行バス以下の乗り心地になったが、体温が温くて適温だしいい匂いもする。包まれている感覚は安心するのにドキドキしてスリリングだ。脳を震わせる声も間近で、最強のシートには違いなかった。
「これで観るの?」
「イヤ?」
「じゃないけど」
「じゃないんだ?」
「悪戯したらダメだからね」
「その言い方、可愛すぎてしたくなっちゃうよネ」
「ネじゃないよ」リモコンで照明を調整する。暗くなった室内、映像の映し出される壁のスクリーンを目線のまま見つめる。組んでいたはずの黒尾の足が私を囲って少し体重がかかった。肩になにかがぶつかって、離れなかった。心臓に悪い八十度の全自動リクライニングシートに掛けたまま、ゆっくりと本編が始まる。


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