音駒人狼・序(七)

乾いたアスファルト。
ポタポタと落ちたいくつもの雫が吸い込まれていく。
足を進めるたびに、びしょ濡れの靴から水がにじむ音がする。
細い脚。配色のまぶしい子供靴。
靴から、ナイロン袋から、ランドセルから、衣服から、肌から髪から――全身から滴り落ちる水滴。
蝉の声。生傷のある頬。爪を噛む。
振り返る少年。
夕日が照らす、山間の田舎道。
他には誰もいない。
画面がスライドする。
赤いランドセル。
女の子がひとり、うつむき加減に立っている。

目が覚める。
やりたくない、嫌だ私やりたくないと叫ぶ女の子の声。
ぼんやりとしていた主人公は、枕代わりになっていた椅子への衝撃で一気に覚醒する。見上げるのは声の主。泣き叫ぶ女の子。上空に向かい叫び、掛け時計を見上げて問いかける。
『なんで私?』
泣き叫び、怒鳴りつけ、首に手を。
首輪を掴む。
その異様な挙動に導かれるように、目覚めた他の参加者も状況を不審に思い騒ぎ出す。
監視カメラに駆け寄り、見上げ訴える。
『私はしたくない……したくないよ……』
彼女の奥側、窓辺にぴったりと身体を寄せて体育座りをしている男の子。
主人公は彼を見つめる。
視線をどこからも逸らし、爪を噛む癖。
名前を呟いた。

「…………かわいい」
「そうでしょう?」間髪入れずに差し込まれる得意げな声。
「うるさい黒尾に言ってない」
「逆に誰に言ってんの」
「ほんとうるさい」ほら今回も人狼三人だって、と指をさす。知ってますぅ、と返ってきたがスルーである。
今作の配役が一覧で表示されている、文字をしっかりと目で追った。
「狐いない。共有者は二作目ぶり、で……」
「『狂人』ひとり」寂しがり屋はスルーされるとキツいもんだ。黒尾がイジるテンションを止めて続きを読んだ。狂人というのは初めて出て来たな。ということは、主人公が狂人なのだろうか?役割はまだよくわからないが、あんまりいい役ではなさそうだと考える。
困惑しながら、各自ポケットに入れられているカードを確認する。
ルールを全て読み終え、建物の探索が行われる。もはや当然のように預言者の占い方法はルールに記されるようになった。一作目で、経験者の人狼が占い方法を把握しており公平性に欠けるとでも思われたのだろうか。預言者のカードをあてがわれたらしい、金髪の男の子が部屋でリモコンを持っている。替えの制服が支給されているのも恒例となっている。返り血という物的証拠で人狼がバレてしまうという懸念だろうか。たしかに、水洗いで落ちないだろうと思ってはいた。ああなんだ、全員で一部屋ずつ物色していたのか。
先ほど泣き叫んでいた女の子が現在の状況を語っている。
大人が遊ぶ違法なギャンブルの対象になっているのだと説明する女の子は、年上の恋人に裏切られ放り込まれたらしい。このゲーム、恋人に裏切られてばっかりだ。悲しい。
主人公が、爪を噛む少年に話しかける。幼なじみだった二人。小学生以来の再会のようだ。
続きなにか言おうと口を開いた主人公だが、さっとその場を離れる男の子。
食堂らしき場所に集合する参加者たち。
自己紹介と、預言者・共有者ひとりのカミングアウトが行われた。その後女の子三人が集まって相談をしている。
経験者しき子がセオリーを交えて推理をしているのでわかりやすい。
その様子を、あるいは主人公を、遠く窓から見つめる男の子。
一堂に会した参加者。
投票前の最後の話し合い。
これ以降後出しの預言者COがないよう警告される。
爪を噛む男の子がやり玉にあげられて、主人公がフォローを入れている。
初日だから情報が少なすぎるのは確かなのに、参加者の弁がかなり論理的で、場の主導権を握る人とそれを逆手にとって疑いをかける人、舌戦がこなれていて、もしも私があの場にいたなら目を白黒させてよくわからないまま流されまくるに違いないと思わせる。
黒尾は逆に、果敢に立ち向かうんだろうな。
自分をちゃんと持ってる人だもんな。
などと考えると、さらに格の違いを見せつけられたような気になってしまう。
想像でしかない話でなにを落ち込んでいるんだ、と自嘲する。
重なった指先の熱を感じながら、壁に映し出される少年少女の生きざまを眺めた。

一夜が明け、新たな犠牲者が出る。
人狼がまだ二人以上いる状態で、占いの結果と霊媒師の確認を行う。霊媒師は潜伏、あるいは昨夜の犠牲者が霊媒師の可能性。
話し合いが終わったのか、中断か、主人公は調理場で水を手にしている。
そして偶然、幼なじみの男の子と二人きりになった。
ずっと気になってた。
そう言って女の子が小学生時代の話をはじめると、男の子はそれを嫌がって声を荒げた。
そして。
「えっ!?」
声を上げたのは、予想もしていなかったからだ。
まさか男の子が主人公に襲いかかるなんて。
えっえっ、とわが目を疑いなりゆきを観るしかない。
作業台に押し倒され、もがく腕を掴まれ口を覆われる主人公と彼女に触れる男。
それまでの描写から、主人公に好意をもっているだろうことと、おそらく小学生の頃クラスメイトから虐められていたのだろうという推測はしていたが、それがまさかこんな形で。
押し返し、再び押し返され、としているうちに、別の参加者の女の子がそれを発見し、助けてくれたから御の字の。
他の女の子に襲われていたと状況を説明され、それを否定しようとする。
女子が全員集まって、すると他の子も相手は違うが同様の目にあったという。えぇ、こういう方向に行くんだ、行くのか?と思いながら聞いている。
男子が数人組んで、票数を盾に脅したという。
それを聞いて激昂する女の子。
男子たちを呼び出して、男子側の言い分を聞くとさらに怒りが、
――怒りが殺意へ変わる。
過去の負い目から、相手を糾弾できなかった主人公。
『その時』のことをひとり思い返し、『それ』を思い出しているうちに、ふとなにかを思ったようだ。
再び調理場に赴いて現場に立つ。
そして見上げるのは。
後ろから現れた男の子。
反射的に、一瞬身構える主人公。
彼は自らの首輪に触れた。

「えぇ、そっち……そういう……」
ゲームの本筋とはまた違った緊張感の中、主人公と男の子は隣り合わせに並び、偶然見つけることができたカメラの死角について話している。ゲーム中は他の参加者に物理的に危害を加えることはできないルールらしいのだが、先に襲われた際、違反者は問答無用で締まるという首輪が締まらなかったのだという。主人公はこの死角を使って、脱出できるようななにかを仕掛けられないかと考えている。この首輪さえ壊せれば、逃げられる?
もしバレたら、と指摘され、殺されると思う、とすぐに答えられるのに、それでもやろうと言えるのは。
大人しそうに見えたけど、結構大胆なこと言うなこの子。
意志の灯った瞳が、男の子に訴えかけた。

場面が変わる。
二日目の話し合い。
あの時助けに入った子が、男子の振る舞いの理由を軸に嫌疑をかける。
相手が人狼かもしれない女子を相手に、あんなことをできるわけがないという主張をした。それに関しては、襲われたという別の女の子は加害者だという男子と同じ共有者であったと明かされた。言うことを聞かないと自分をもうひとりの共有者だと認めないと脅されたらしい。彼女の推理は、相手が人狼でこそなかったが正しかったと肯定される。主人公は、はっとしたように幼なじみを見る。彼はすぐに逸らしてしまった。
違和感をよそに議会は揺れる。
もうひとり、預言者が現れたからだ。
そしてひとりを指さして、占いの結果が人狼だったと言い放つ。
彼女は、彼女は、彼女は――

一夜明け。
三日目も凄惨な朝となる。
変わり果てた少女の死体を、魂が抜かれたような表情で屈み見下ろす男の子がひとり。
その目から、ポトリとしずくが零れ落ちた。

ふたりの自称預言者。
占いの結果を発表する。
主人公がひとりから白出しを受ける。
霊媒師が名乗り出た。
社長の愛人、ではなく恋人だった女の子。
昨夜投票で処刑された子が人狼だったから名乗り出たと言う。
後から出てきた自称預言者の占い結果が当たっていた。ということは、初日から出てきたもうひとりの自称預言者は?ただ、占いが当たっていたからと言って、信頼をまるっきり得られるというわけでもなさそうだ。彼の性格ゆえかもしれない。性格というか、人格だろうか。どうだろうか。あの場で最も場をコントロールするのがうまい彼は、疑いを疑いで返す。

監視カメラを見上げている。
なにができるのかと、考えているのだろう。
主人公はカメラの死角で息を吐く。台に手をついたはずみで落としてしまったお椀を眺め、思いに耽るような。そして顔を上げた。
やって来たのは備蓄倉庫だろうか。タオルや文房具、日用品がしまわれているらしい物置のような場所。そこは初日に主人公が箱をひっくり返し文具が床に散乱したままの状態だった。足を踏み入れ、屈みこむ。
散らばったていたそれらを物色して、ひとつ拾い上げたのは。

「エッいっちゃう?いっちゃ……アッそんな、もうちょっと考えてからとか……」
「ホントすげえよな。手元見えないのも普通に怖いよ」
「こらこらソウマ、なに大人しく削ってもらっちゃてんの。きみがしてあげなさいよ」
「ね〜。あんなに接近しちゃってねぇ〜」
「超お行儀よく削られてるねソウマくん」
「よくあんな真顔でいられますよね」
「黒尾もまあまあ真顔だよ」
「マジか。怖い?」
「たまに」
とか言ってる間に、ああ見つかってしまった。
自称預言者で、弁の異様に立つ彼だ。
あっという間に全てを詳らかに。
協力してくれる風なことを言っているけれど、果たしてどこまで本気か。ゲームを仕切ってくれてはいるが、バレてはいけない人にバレてしまったような気もする。自分の首輪を真っ先に切るように言いつけている。幼なじみのソウマくんは、彼に恫喝され泣きながら爪を噛む。見張りのために追い払われ、彼女とふたりきりにするのも嫌なんだろうなと思った。

暗がりで夜を過ごす、彼女の部屋のドアノブが音を立てた。
頬を濡らした彼女が、はっとしたように扉を見やる。
扉は開かなかった。

四日目の朝。
全員が食堂に揃った。
主人公に白出しした自称預言者は幼なじみを、そして弁の立つ彼はひとりの女の子を人狼だと言い放つ。
それぞれがどちらの預言者につくのか、投票先がはっきりと絞られた今露になる。
そんな急転の一方で、死角でひっそりと行われていた首輪の切断。
彼の首輪がついに切断された時、歓喜に震え嗤い出すその姿を見てひとつ気づいた。
首輪を切断して、投票され死んだふりをすることによって死を回避したうえで脱出して助けを呼ぶ。
自称預言者の彼が、果たして吊られるのだろうか?そしてごこ傲慢な彼が、本当にふたりの立てた作戦通り助けを呼んでくれるというのだろうか?
預言者が、この場を捨てて?
弟を見捨てて?

「…………」
沈黙の中、エンドロールが流れている。
「…………」
「…………」
「……黒尾くんやい」
「……なんだいみょうじさんやい」
「ピュアピュアとは、一体……??」
全てを視聴し終えた今となって、なぜ黒尾があれだけピュアを推していたのかがはなはだ疑問だ。黒尾は「いや、この二人にだけ焦点当ててみ?」と弁明する。いや、わかる。言いたいことは、すごいよくわかる。わかるけど、わかるんだけど……。
自由な方の腕でお菓子をつまみながら作品の感想をアレコレしゃべる。
「いや本筋ね。アレすごかったね。最後の投票の」
「ネ。人狼を勝たせるためじゃなかったけど、見事な狂人っぷりだったな」
「そうそう。人狼の子が完全に騙されて、利用されてからのアレでしょ。やばすぎだよね」
正直、始まった直後はヒロインが狂人かなと思って観ていたが、言動や流れを見ていくうちにその予測が頭からきれいに消えてしまっていた。だから最終日の狂人カミングアウトはかなり驚いたのだ。
「あのちょっと怖い男の子のことも流しちゃって」
「あれ。アイツ怖かった?」
「怖かったよ。兄も弟も怖い。あと人狼の男の子もはじめっから雰囲気が怖かった」
「そっかあ」最後まで重ねられていた指先がいたわるように甲を撫でる。くすぐったい気持ちになる。
「でも面白かっただろ」
「面白かった。シリーズ初の快挙もあったしね。難しいかもだけど」
「希望をもてる終わり方なのがよかったよね」
「うんうん」なんとシリーズ四作目にして、初めてわりと希望のあるエンディングを迎えたのだ。今までは、これから後半戦です、とか、自分だけ生き残ったとか、そんなんばっかりだったからな。完全に逃げ切るのは難しいだろうけど、作中で描かれていないだけでもまだ希望があるし、それにあの二人がきらきらと眩しかった。
「あとヒロインの子がかなりよかった。話し方とかもかわいかった」
「そうでしょうそうでしょう」得意げに頷く黒尾。
「黒尾をほめたわけじゃないし」
「拗ねちゃった」
「拗ねてないし!」
「拗ねなくても、みょうじが一番かわいいよ」
「そ、そんな適当なこと言って……」
「本当に思ってますよ」そのニヤニヤ顔で言われても全然説得力がない。ないというのに。絶対ないのに。私詐欺師に引っかかりやすいかもしれない、と今さら危惧を覚える。
「騙されないから」
「なんならみょうじのカワイイとこ、一個ずつ挙げていきましょうか?」
「なっ……そ、ナ!?」
「ホーラかわいい。もうかわいい」
「う、うるさい」身体を起こして黒尾から距離をとった。視線から逃れるように窓の方へ目を向けるが、あいにく毎日目にしている特にいい眺めでもない景色がレースカーテンからぼんやり見えるだけだ。真新しくもなくおもしろくない。だから早急なクールダウンと話題転換に力を注いだ方が賢明である。何度か深呼吸をして、ゆっくりと振り返る。
「なに。もういいの?」
「大人だからね!」

今回は私も緑茶にしよう、と思いカップを変える。ティーバッグではあるが香りが深くて、お手軽なのにおいしい一杯になるのだ。二人分のカップを持って部屋に戻る。おやつは黒尾が足してくれていた。
「熱いから、気をつけてね」
「サンキュ。みょうじも同じやつ?」
「うん。案外洋菓子にも合うんだよね〜」
チョコレート菓子をひとつつまんで、口に残った甘さを緑茶の苦味がさらってくれる。紅茶もいいけど、緑茶も相性がかなりいいのでどちらも常備していた。決して黒尾が好きだからという理由ではないが、あまりに急に来ることになったものだから、置いててよかった〜と安堵したのも事実だ。
「ねえねぇさっきのさ。用心棒だったやつさ」
「うん」
「ヒロインのこと守ったところでハッとしちゃって、超ときめいた。めちゃくちゃいいタイミングだったし」
「ああ。アレ初日からずっとヒロイン守ってたんじゃねぇの?」
「えっ、そうなの!?」
「俺はそういうことだと思ったけど」
でなきゃさすがにあんなピンポイントで守れねぇだろ。と言われて確かにとなる。
「えっやば……キュンキュンする……」
「ときめきがすごいネ」胸を押さえる私をおかしそうに揶揄する黒尾。
だってあんな、自分が生きるか死ぬかっていうところで、相手がなんの役職かもわからないのに無条件でずっと守ってくれてたなんて知ったらときめくじゃん。
まあ人狼ゲームとしてはダメかもしれないけど。
他の参加者からしたら『戦犯』だろうけど。
「男としてかっこいいじゃん。一途」
「俺も一途ですけど」
「なに言ってんの?」
「鼻で笑うでしょ」肩をすくめる黒尾。
なんで私が『やれやれ』されてるんだ。
「これでちょうど折り返し地点か」
そう言ってあくびをした黒尾は、座ったまま腰を引きグッと腕を伸ばす。パキパキと軽い音も聞こえてきた。時刻を確認すると午後三時の少し手前の時間。覚悟はしていたけど、本当に休日終わっちゃうわコレ。
「もうすぐ三時だって」
「お。おやつの時間だァ」
「常に食べてるじゃん。お昼ごはん飛ばしちゃったけど、黒尾おなか大丈夫?」
「常に食べてるからね。鳴るほどではない」おやつもまだあるしと返ってくる。まあおつまみもまだあるし、そう言うなら大丈夫か。私もことさらちゃんとしたものが食べたいほど空腹なわけでもない。
「じゃあ晩ごはんはちゃんとしようか。作るか近くに食べに行くかで」
「明日も多分外で食うだろうから、今日はみょうじの手料理が食べたいところですね」
「手料理って」
「なんでも、いいので」
「んー。あるもので作るとしたら……お豆腐と豚こまがあるから肉豆腐とか、きんぴらはあるし、ごはんとおひたしとみそ汁……あとなんか……」
「よろしくお願いいたします」ふかぶかと頭を下げられてまあ悪い気はしない。僕もお役に立ちますので……と言われると、黒尾の台所事情に興味も湧いてくる。じゃああと一二作観てから一緒に準備しようかと言って次の作品をケースから出す。
ディスクを挿入して席に戻ろうとしたところ、黒尾が腕をグルグルと回しているのに気がついた。
休憩を挟むとはいえ通しでかなり長時間同じ姿勢でいるし、私がしがみついたりもするので肩が凝るのだろう。それにに痛いのは肩じゃないはずだ。
「黒尾ベッドで観たら?」と提案してみる。
直後、黒尾は回していた腕を頭上のところで静止させた。
「はい?」と聞き返す黒尾は笑顔だ。
「腰とかお尻も痛いでしょ。重いんだし」
「まあそれは、ハイ」
「いいよそこ。寝転んで観たら快適だよ」
「ていうか私は寝転んで観るためにベッドここに置いたよ」動線的にダイニングが部屋の奥という配置になったのもこのせいだ。まあそのおかげで自然光でメイクができるしごはんもいい気分で食べられるし、結果オーライだと思う。
「それはそれは……」
「あっ。コロコロしたし大丈夫」
「イエそういうことではなく」
「えー。でも床に寝転んでも身体は痛いでしょ?部屋狭いからソファないのはのはごめんだけど。もうそこぐらいしかないよ」
フカフカだよ、と魅惑の一言で後押ししてやる。
変なところで律儀だし遠慮するんだから、とほほ笑んでみせれば、黒尾はコクリと喉を鳴らした。
「…………いいわけ?」
「逆に、なにがだめなの?」
「そんな純粋な目で見られましても」
「いいよじゃあお借りしますよ」なぜか両手を上げて降参のようなポーズをした黒尾。なにそれと言えば「僕は無実ですという主張」意味の分からない主張が返ってきた。まあともあれ腰を上げる気になったのだからよしとするか。
黒尾のでっかい存在感が隣からふっと消えて、安物のベッドがギシッと音を立てた。
振り向いて膝を立てる。
「いける?」
「なんとか」
様子をうかがうと、黒尾の百九十センチほどある身体はベッドの有効幅でギリだった。目算数センチほどしか余裕がない。あってないようなものだ。もしもここの窪みが尺通りの一帖換算だったら、絶対に入らなかったな。 寝転んだ黒尾が私を見上げる。
ドキリとした。
「フカフカです」
「それはよかった」
「イイ匂いがします」
「嗅がないで」
「ドキドキします」
「それは…………」
「それは?」
「それは、耐えて」
「耐えるの?」半笑いの黒尾は口ではなんだと言いながらもかなり余裕そうだ。そもそも女のベッドに寝転がり慣れている風格すら漂っているのだから、黒尾が胸に手を当てていてもわざとらしくさえ見える。今さら私のベッドに寝転がったところでそんな、ドキドキだなんて。いや本当に黒尾にとってイイ匂いがしているならそれはよかったと思うけども。
「ほら、もう再生するからね」
「ウン」いつまでも黒尾ばかり見ていても仕方ない、ドツボにはまるだけだと画面を向いて座り直した。テーブル上のリモコンを握り、再生モードへ移ろうとしたところで、腰になにかが巻きついた。
「えっ?」
見下ろし確認して、振り返る。
すでに身体を起こしベッドに腰かけていた黒尾の図体が真後ろにそびえ立っていた。
ち、近い。あとデカい。
威圧感半端ないな……。
すでに床へ下ろしたこれまた巨大な両脚に、挟まれる形で自分がおさまっていた。
そして真横にある顔が、視線が、まっすぐこちらを向いているから、一瞬その迫力に口をつぐむ。
なんだどうした、と言う前に、今度は自分の身体が宙を浮いた。
「えっ!?」
これは、えっ?
私浮いてる?
持ち上げられてる?
と思った直後、今度は背中にあたる感触がガッチガチの巨体ではなくフカフカの、寝転び慣れたベッドに変わる。視界も黒尾や画面ではなく天井が映った。
……なんで急に九十度回転した???
そう頭を抱える前に、ベッドは再び軋む。ぬっと現れ私の身体を跨いだ巨人が、奥の壁側のスペースに窮屈そうに入ったと思ったら、こっちを向いて横になったのだ。
「……これは、なに?」
「快適な映画環境を二人で共有しようと思って?」
隙のない笑顔で言い放つ黒尾。
「ホラ、家主を差し置いてまさか俺だけこんな、ねえ?」
「いやいや、そんな、お気になさらず。どうぞのびのびとくつろいで」
「いやいやいや。ホラこんなにフカフカですし。イイ匂いがしますし」
「嗅がないでってば……」
「さっきよりもっとイイ匂いする」
「ちょっと!」
「ドキドキも共有しましょうよ」
耳に息がかかるような声で囁かれた。妙な震えがつま先まで走る。
「え、な……!?」
「ホラ再生」と、力の抜けた手からリモコンを抜き取って勝手に操作をして、放心する私は彼に転がされる形で反転しなければ、おそらく映画なんて観られる状況ではなかった。
肩に置かれた手が、そっと離れて髪を梳く。
腰に回された腕。いたずらに絡む脚。熱のこもる背中。どれをとってもドキドキが加速する要因で、こんな状態で長々と映画を観ないといけないのかと思うと恥ずかしさで叫び出したいほどだった。
「降りる、むり……」顔を覆って懇願する。
「ハイ耐えてくだサ――イ」
楽しそうな声が無情を告げた。
蜘蛛の巣が映る。


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