北信介がおこられた

「北信介くん。そこになおりなさい」
洗ったあとの食器類を拭き終え、流しやコンロを軽く掃除して、居間を片し、雨戸をすべて閉めていく。それらをはじめとした夜の仕事をひととおり片付けて、ふたりして部屋へ戻ったところだった。俺の後ろをとことこ歩いていたなまえちゃんが部屋へ入るなり、のんびりとした足取りから急にすばやく動き出し、部屋の真ん中に座り込んで陣取ったかと思えば、その対面をぴしっと指さしてそう告げた。
命令形や。
なんだか声がかたい。
きびきび……いや、とげとげ?
なまえちゃんなんかとげとげしとる。
うん?と首をかしげながらも、ひとまずは布団を敷くために押し入れへ向かうのを中断して、指定されたかのじょの正面へ腰を落とす。
「なんやなまえちゃん」
「北信介くん」
「そろそろ北はいらんのちゃう?」
「き、北!信介くん!」
ううん、惜しいなあ……。
なんて思いながらかのじょの様子を眺める。さっきはぴしっと凛々しい顔つきをしていたというのに、ちょっと一言からかうと、わあっとわめくところが素直で幼く、かわいらしい。望むほうへ話を運ぶことができないもどかしさをうまく処理しきれないらしいかのじょの感情は、子どものようにちいさなかんしゃくを起こすらしいが、ここ最近でようやく見られるようになってきた、かのじょの甘えの一部だった。
「そんでなに、どうかしたん?」
「北信介くん。これを見なさい」
命令形続行や。
今日はなまえちゃん、強気ななまえちゃんでいくんやろうか。そうは言うてももう夜やで。などと考えているうちに、気を賭し直したらしいかのじょが淡々と言うたかと思ったら、首に引っ掛けたタオルを外したあと、おもむろにカーディガンのボタンを外す。そして肩と腕を外気にさらしたかと思ったら、首や肩のところを覆っている髪の毛を、両手でかきあげてあらわになった首まわりこちらへ見せつけてきたのだから驚いてしまう。
「これを見なさい」
命令されずとも見とります。
なだらかな曲線。
それと薄くやわらかで、もちもちしている皮膚の感触がよみがえるから口角が上がる。
「わかる?ちゃんと見てる?」
「うん見とるよ……」
まったく今日もたまらなくうまそうな肌をしている。
「そうか……」
「そんなら私が言いたいこと、わかるな?」鷹揚にうなずいたあと、続けられたなまえちゃんの問いかけに。
「うん」これはもう間違いないなと確信した俺は、自信をもって頷いた。
「きょうも仲よししような」
「ちゃあうっ!」
叫ばれてしまった。
うんっと元気のええ返事が返ってくるのかと思いきや。力いっぱいに不正解をたたきつけられたので、なんやおかしいなあ、なんか違っとったやろうかと考えながら、このふたつの優秀な目玉は、なまえちゃんのかわいいお顔がさらにかわいくなるのをしっかりととらえている。くちびるをぎゅっと閉じたまんま突き出して、頬っぺたをふくらます。眉間にぐぐっとしわを寄せ、眉尻を可能な限りつりあげたのをキープしようと顔面に力をこめたまんまプルプルと小刻みに震えている。劇的に、怒った顔の似合わへん……かわええひとである。
「わからんなあ。なにが言いたいん、なまえちゃん」
「わ、わ、わからんの!?」
「うそやろ!?」わからへん。このたまらなくうまそうな首筋が、一体どうしたと言うんやろうか。 なめらかな肌は、白くうつくしく、ところどころに花が咲いている。首筋に、肩に、腕やろ。あとそれからたしか、正面からは非常に見えづらい、えりあしや耳の裏にもつけた覚えがある。こんひとに抱いている愛情と劣情のほんのわずかな気持ちのかけらを込めて、お花にしたところが、もとの白さに映えて赤々しくなまめかしい。
「北これ見てなんとも思わへんの!?いま正気とちゃうの!?正気の北ちゃうの!?」
「正気の北やけど……なに?もっとつけてってこと?」
「なんでや!」
きいっと声を張り続けるかのじょの喉が心配になる。
そんなにようさん叫んで、あとがもたへんよ?
「私は!きょう!大変やったんや!上着脱がれへん!髪の毛もくくられへん!襟があってもギリギリ見える!誰やこんなところにちゅうしたん!」
「俺や」
「そうあんたや!」
「かんべんしてくれ!」眉をつりあげて渾身のこわいかおをするかのじょが吠えるが、感情を入れすぎたのか、ちょっと泣きそうですらある声色であるから、途端にかのじょをあわれに思い、無性になぐさめてやりたい気持ちが湧いた。
どうやら大変な一日であったらしい。朝服を着替えた時に気が付いてからの心労と努力をかのじょはそれから滔々と語った。
ふうん持ってる服では隠しきれんと。打ち合わせで外出やから。まだまだ残暑やし。耳の裏なんてわからんから。ほおん虫刺されって。
語っているうちに、今日起きたあれこれの記憶をすっかり掘り起こしてしまったようで、眉がどんどん下がってきて、しまいには頭を抱えてしまう頃合いに、大変やったなあ、おいで。そうささやいて、両腕を広げれば、みずから肌を露出したかのじょが即座に飛び込んでくる。大変やったなあなまえちゃん、と抱きしめて頭を撫でれば「きたあ……」とあまえた声ですり寄ってきた。
「大変やったのに、一日よう頑張ったなあ。えらいでなまえちゃん」
「……ほんま?ほんまに、えらい?」
「えらいよ。めちゃくちゃぎゅうしてやりたいぐらいや。なあしてもええ?」
「ええよ……」
「ほんま。ありがとう」
きらきらと輝いた瞳が見上げてきて、もちもちの頬をひと撫でしてから、ふわっとやさしく包むような具合から、まさしく自由を封じる拘束のような抱擁へ替える。かろうじて動かせる腕だって、こうしてこの背に回す程度のことしかできない。
なんてかわいいひとやろうか。
「ええ子やなあなまえちゃん」
「ん……」
「なまえちゃんはええ子」
「うん……」
ちいさくてあったかくてやわらかくてかわいくて、素直でええ子のなまえちゃんは、少し気持ちが落ち着いたようだった。重なり合った胸からかのじょの心音のテンポがおだやかになっていくのを感じられる。
「目ぇ閉じてな」
「うん……」
「ゆっくり息しようなあ」
「うん…………」
体温を分け合って、鼓動を重ね、ちがったからだを感じながら、一緒に呼吸をする。あまえた声のなまえちゃんは、この胴体から顔を出せないまま、大した身動きもとれないなりに、自分の居心地のよい場所を見つけたのか、少し動いたあとはおとなしくじっとしていた。
すうはあ、ふう、ふう。
いっしょうけんめいなかのじょの呼吸に耳を澄ませてしばらく経ったころ。
きた、と呼ばれて少し上体を反らすと、中にいるかのじょをうかがった。
ぴったりとひっついて暑かったのだろう、すこしぼうっとした目をして頬は上気している。
「なまえちゃん、落ち着いた?」
「ん……」
「そう。そんなら、よかったわ」
「なんや、わたし、ちょっと疲れとったみたい……」
「そうなんや。なまえちゃん頑張っとるもんなあ」
「うん……きたも、がんばってるで……」
「ふふ。ありがとう。なまえちゃんにそう言ってもらえると、嬉しいわ」
「……イライラしてごめんなさい。私かんじわるかったやんな……」
「そんなことないし、俺はええよ。なまえちゃんは、もうええの?」
「んん…………癒された」
「そうなん」
「きたは癒し系……」
そんなこと言われたんはじめてやわ。
けらけら笑うと、じいっと見つめてくるかわいいひと。
見とるとなんや、ちょっと気持ちがくすぐられる。
「けど俺も、今日ちょっと疲れてん」
「そうなん?」
「うん。今度はなまえちゃん癒してくれる?」
「うん、ええよ」
なにしたらええ?とたずねてくる、ほんとうに心配になってくるくらい素直できれいな心の持ち主。こんなに騙されやすくって、ほんまに世の中生きていけるんやろうか。そう思うので、やっぱり、きょうもまたひとつ、しろくてきれいななめらかへありがたくくちびるを落とすのであった。

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