北信介が頑張りすぎる

からからから、ぴしゃん。
そんな音が聞こえてきたのを、感知したとたんにピクリと耳の動いたのをしっかり見てしまったらしいお婆ちゃんが興味深そうにこちらを見たことには気づいたころには立ち上がっていた。
ものの数秒で廊下へ身体をすっかり出して玄関のほうを直視すると、やはりお仕事終わりの北が玄関扉を閉め切って、靴を脱ごうとするところであった。
「北!おかえり!」
思わず走ってはいけないと言われている廊下を駆けて、一直線に北へ近づくと、足元を見下ろしていた北が面を上げる。
直射日光を避けるためのでっかいつば付き帽子をかぶり、首にはスポーツタオルを巻いている。上下揃いの作業着の中は半袖のシャツとさらにインナーを着ているが、ファスナーが襟元まで上げられているためはたからは見えない。軍手はすでに外されて、ポケットにでも入れられているのだろう。外の散水栓でしっかりと泥土を洗い流してきた長靴を半端まで脱いで家の中へと片足ずつ上がったところで、私と同じくらいだった目線がぐっと上がったため、かれを見上げる高さとなる。
「ただいま」
静かな微笑みを向けられて言葉を失う。
なん……なんってかっこええんや私の恋人……。
惚れてしまった。
今日も北信介、たまらなく男前や……。
急激に体温の上昇した頬を両手で包むと、ちょっと前まで水仕事をしていた手がひんやりと熱のかたまりを冷やした。あっこれちょっと気持ちええ。思いもよらぬ心地よさにふうっと息がこぼれてしまった。
「……なまえちゃん?」
冷感ハンドに気を取られていると、対面の北が不思議そうに声を上げる。
一歩こちらへ踏み込んで、そして、勢いのまま伸びてきた両腕につかまって、ぐいっと引き寄せられたと思ったら全身をあついもので包まれる。腰と背中に回った腕が、ぎゅうと私の身体をしめつける。
「わっ!わあ、きた!?」
――抱きしめられている!
――帰宅いちばん!?!?
なんとまあめずらしいこと!
北が、手洗いもうがいも、お風呂にも入る前にぎゅうしてきた!北のあっつい身体と心臓の震えを感じ取る。ば、ばくばくしとる……。私の心臓もバックバクや……と思いながら大人しくぎゅうをされている。鼻に押しつけられた首元のタオルはしとどに湿っている。位置をずらすと、ふわっと香ってくる、土のにおいと山のにおい。それと北のにおい。はあっと熱い息が耳にかかって跳びはねる。すると腕の力はますますいっそう強くなるのだ。
「わ、き、ちょっと、きた……」
「なまえちゃん……」
掠れたような北の声が響く。
「な、なに……?」きょうは一体どうしたんやろうかと思いながら、声だけで恐る恐るうかがうと。
「…………ただいま……」
ん…………?
「お、おかえり……?」
「……ん…………」
あ、あれ……?
なんか……なんかおかしいな??
そういえばいつもの『走ったらあかんよ』も言われへんかった……。手洗いうがい……。おふろ……。なまえちゃんなんて、しょっぱなからギア全開で……。からだあっつい。心臓バックバク。息あつい。声かすれとる。
あっこれ。
「き、きた!?」
力をふりしぼって上半身を少し離すと、北の顔面がよく見える。
「顔あっか……!!!」
「ん…………?」
どうしたん、なまえちゃん……なんて、いくら仕事終わりといえど随分と覇気のない。真っ赤に火照った顔は夏が過ぎたにもかかわらずあちこちから汗がにじんでいる。
普段よりも目力弱い!
まぶた半分閉じとる!
「だ、だ、だいじょうぶ!?」
「……ん…………」
消え入りそうな声と今にも閉じそうな瞼。それとどんどん重たくなっていくからだ。慌てて私は、でっかいからだに腕を回して両足を踏ん張ると、なんとか崩れ落ちずに持ちこたえることができた。あ、あっぶな……。ちょうど裸足でよかった。今やもうほとんど何も発さず、熱すぎる吐息だけをこぼす北のあたまを肩のところで支え、からだは全身で受け止めた私は、大きく息を吸い込んだ。
「お、お、おばあちゃあん!」

ぴちょんと水の跳ねる音が鳴る。
桶に張った水に浸らせた手ぬぐいを絞って、それでかれの頬をそっと撫ぜる。うつくしく妙な色気さえ感じさせるその薔薇色が薄くなるわけではなかったが、ひたいに、こめかみに、頬に、鼻のあたまに、あごに、順番にやんわりとなぞりあげて、浮かんだ汗をぬぐっていく。タオルをほどいてくつろいだ首まわりもさっと同じようにくぐらせて、お婆ちゃんとどうにか二人がかりで脱がせた作業着の、下に着こんでいた白いシャツもまたぐっしょりと湿っているのを確認して脱がせた、北の肌も軽く拭いて首や脇、足の付け根に濡れタオルをかませた。
場所は北家の居間と繋がる大きな開口部、縁側。
ふっと気の抜けるように重たくなった北の身体を、涼しいそこへ、非力なふたりでどうにか運ぶことができたのは、北の意識がかろうじて保たれていたからだ。相変わらずぼうっと瞳をさまよわせ、頬もからだも燃えるように熱いが、なんとか飲み物を飲ませることもできた。汗をさっと拭い局部を冷やしたあとは、とにかく安静に休めるのだと昔の記憶を引っぱり出して、出してもらったうちわでそっと扇いでやる。
「ちょっと頑張りすぎたなあ」
お婆ちゃんはそう言って、笑う。
「ばあちゃん……」
目玉を潤ませ、細い声でお婆ちゃんを呼ぶ北がよく見える。その表情は、悪さをして叱られたときの子どもの表情そのものだ。頼りなさげに、不安げにも見えた。ひたいに張りついた前髪を気づかれぬようそうっと払ってやる。
「きょうは風もほとんどなかったやろ。湿度も高かったし、熱がこもったんやなあ……」
「うん……」
「そういう日はな、無理したらあかんよ」
信ちゃんがしんどなったら、みんな悲しいで。やさしいままそう続けたお婆ちゃんにますます眉の下がる。
「ごめん、ばあちゃん……」
おさない子どものような謝罪に、かなしそうな目をしたお婆ちゃんは北のあつい頬をひとなでして、その口に小さな氷を含ませた。並びのよい歯列に当たってかつんと鳴る。力の入りきらない唇を、ゆっくりと動かして口内へ閉じ込めている。
立ち上がったお婆ちゃんは「ほんなら、お風呂先に入って来ようかなあ」気を取り直したようにのんびりと言った。
「なまえちゃん、信ちゃんみとってくれる?」
「あ、うん」
「ほんならいってきます」
「いってらっしゃい……」
はたはたとゆるく扇ぐ、手を止めないまま視線だけお婆ちゃんの背中を見送った。
「……みょうじ」
「ん?」
再び北のほうを見下ろすと、頬の赤いのはそのまんま、目元のしんどそうなのはやわらいだのか生気がわずかに戻っていた。北の腕が、ふらっと持ち上がって私へ伸びる。
「ごめんな……ビックリしたやろ」
「うん…………」申し訳なさそうに、よわよわしく謝ってくる北に泣きたくなる。うちわを持つ手とは逆のほうを、赤く熟れた頬へあてがうと、気持ちよさそうに目を細めた。手のひらから北の熱が入ってくる。
「つめたい?」
「うん。気持ちええ……」
「ふふ」
「みょうじは、熱いやろ」
「北はあったかい」
「熱いやろ」
「北しゃべるんしんどくない?」
「ううん。平気や」
「そう?」
「うん。なまえちゃんの声を聞きたいねん」
「…………」
北の声がふわふわとあまい。
こんな時にまでこの男は……。
黙りこくった私をまっすぐに見上げて、はは、と北がわらった。
こんな状態のときでさえ、なんだか北に負けているような気がして撫でていたほっぺたをつまむ。ふにふにしていて、気持ちいい。一気にまぬけな顔になった北がううんと頭をころがして、天井へ向けて寝ていた体勢からごろんと私のからだの方へ移動した。私の頬をつついていた指先が離れたと思いきや、今度は腰へめがけて目いっぱいに腕を回してくる。首と脇へあてていたタオルが畳へころがって、それを拾い上げているうちに北の顔が私のおなかにひっついてしまった。
「北」
「なまえちゃん……」
か、かわええ……。
なんやこの男……。
あまえた声とこすりつけられた頭に私はもう、胸がいっぱいになる。みょうじなまえは、多大なるときめきに襲われた。うちわを置いて、さらされたかたちのよい後頭部をなでる。いっぱい汗をかいた北の髪はとてもしっとりとして、ぺちゃんこになっていた。さっきは拭けずにいた髪の毛をこの機にと、タオルでやさしく拭っていく。少しは頭もさっぱりするやろう。気持ちええ、とまた北がささやいた。顔が埋まっているのでくぐもっている。あんまり妙齢の女性の下腹をさわるもんやない……とは思うが、抱きついてすりすりと顔を寄せる北のあまりのかわいらしさにとがめることができない。北信介ちゅう男は、ほんまにずるい男である。
「元気になった」
「ええ?ほんま?」
「なまえちゃんの膝まくらが効いた」
「うそやろ」
「ほんま。この感触が、ええ」
「おい」
「下から見るなまえちゃんも、ええわ」
「ばか」
「ひどいな」
とか言いつつわろてる北もどうかと思うで。
「なまえちゃん」
「うん?」
「また膝まくらしてくれる?」
「……ええよ」
「ほんま?」
「ほんま。やからはよ、元気になってな」
もう元気やけどなあ、とうそぶく北を、もう一回だけばかとののしった。
はやくはやく、起き上がれるようになってほしい。
この体勢じゃ、私が抱きしめられへんやん。
「しばらくお昼間、手伝いますので」
「ええ?いや、ええよそんな」
「てつだい!ますので!!!」
「……お願いします」
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