「信ちゃんおかえり」
稲と、野菜と、向き合う日々のほんの隙間、ふつりと集中の切れた時に、でっかい声で北と呼ぶ鈴の音が、今にも聞こえてきやしないかと耳を澄ませてしまう。毎日運転している軽トラックの、助手席が空いていて何となく寂しい。玄関扉を開けて中へ入ると、いつも迎えてくれるばあちゃんの隣に誰もいないのが気になって仕方がない。
「ただいま、ばあちゃん」
「おつかれさんやなあ。汗ふき」
「ありがとう。これ、規格外んやつ」
首に巻いているタオルはとっくに使いものにならない。ばあちゃんから新しいタオルを受け取って、代わりのように持っていた袋を手渡した。薄手だが割と丈夫なビニール袋の中には、きゅうりや茄子やピーマン、獅子唐など、午前中収穫してきた野菜が少しずつ入っている。今日は何にしようかなあ、とニコニコして袋をのぞき込むばあちゃんを見ながら、空気のこもりやすい作業靴を脱いで家へ上がった。気持ち足早に、居間へとたどり着いて、かのじょの定位置に視線をやったが、そこには誰もおらず、家の中は俺もばあちゃんも口を開かなければとても静かで、これが普段のとおりだった。後ろをついてくるばあちゃんを振り返る。
「みょうじは?またどこぞへ出掛けたん?」
「おるで。まだ、あとりえで描いてるよ」
おるで、という祖母の言葉がすとんと胸に降りてきて、にわかにざわつき出した心がすぐに静まる。何やったん今の、と消え失せた不快な気配に首を傾げつつ、そうかと頷いて、そのまま居間へ続く入口を通り過ぎる。そのまま少し歩いて、洗面所で手と顔を洗いさっぱりしてから昼食を囲むのだ。いつものように足を進める。「ごはんできたら、呼びにいくなあ」のんびりとした声が背中にかかって、今度はどきんと胸が跳ねた。

ゆうべみょうじを勝手に予約したというホテルへ送り届けた後、家へ帰って夕食を終え風呂も入ってひととおりする事も片づけて、ひとりぼっちの晩酌をして両親の帰宅を待った。目を丸くする彼らと平日に膝を突き合わせるのはえらい久しぶりで、それも食事の準備までして待つ早寝早起きの習慣を持つ息子の姿に顔を見合わせ、それから愉快気に笑う表情をはっきりと覚えている。両親は夕餉を、俺は晩酌をしながら、ここ二日で起きためまぐるしい驚きに満ちた出来事と、いつまでも焼き付いて離れないかのじょのことを話していく。はじめは説明しなければという意識があったけれども、次第に、どんどん、口から自然と言葉がこぼれ落ちていくようになって、するすると、すり抜けるようにして音になっていく、思い出も、感情も、体験も、言葉も、こんなことは初めてだった。小さな子どものように、親になんでも聞いてほしい子どもみたいに伝える俺を、驚いたように見ていて、けどちゃんと聞いてくれて、段々と笑顔になって、そうしてやっとのことで話を終えた俺にあたたかな言葉をかけてくれる。
「信介にも、たったひとりの大事な子ぉができたんやなあ」
その言葉に、まだまだ敵わんなと思った。
小さい頃から、共働きで忙しい両親の代わりにばあちゃんが俺の面倒を見てくれた。仲は決して悪くないが、そもそも生活リズムが異なるので、休日でもなければ顔を合わせることもなく、学生時代は特に部活があったから互いの休みが合うことも滅多にない。そんな中でも、自分の務めと向き合い続け、家族を養ってくれた両親のことを尊敬している。ただそれ以上に、自分でも制御しきれない感情をしっかりと受け止めてくれたこの両親は、きっとずっと、小さな小さな子どもの頃からずうっと、ちゃんと俺のことを、見守ってくれていたんとちゃうかなと今更ながらに思った。
「なまえちゃんな。朝会うたけどかわええ子やったなあ」
「せやなあ。顔真っ赤にしてなぁ」
「なんかひたすら謝ってたな」
「しまいには土下座みたいになってたな」
「切腹でもするんとちゃうって顔してたなあ」
「信介のこと話す時が一番可愛かったな」
「好きすぎて死ぬ!て顔してたもんな」
「ええな〜、女の子やな〜。見てたらなんや私も若返った気分やったわ」
「それは気のせいやな、……アイタッ」
嬉しそうにみょうじのことを話す両親の姿に、なぜか目頭が熱くなった。
それで――それでな。
胸がきゅうと詰まって、いつものようにしゃべれへん。子どものような言い方をしてしまって、咳ばらいを重ねる。彼らは口元に弧を描き、自分の言葉を待っている。
自分の親に、かのじょのことを伝える。
それでなんでこんなに胸がいっぱいになって、幸せやと感じるんやろう。
それで――――
みょうじにひとつ、部屋を貸して、そこで絵を描いてほしいと思ってんねん。
絵を描く場所は、きっとこの先も、ずっといるから。今日も、明日も、明後日も、ずっと、ずっとそばにおってほしいから。

居間を通り過ぎて洗面所も通過して、階段には上がらずそのままやっぱり廊下を進むと、いくつもあった部屋の中で一番奥まったところにある静かな畳の部屋が、絵描きだというみょうじにあてがった部屋だった。油絵の具というもんに触れたことはないけれど、かのじょがいなくなってしまってから、画家になるんやというのをアランから伝え聞いてから、今まで将来の選択肢というもんに浮かんだこともない職業について調べて知ったが、油で溶いてから用いる油絵の具というんは揮発する時に出る揮発油の匂いや乾燥する時に出る乾性油の匂いがするんが特徴で、無臭と言われるものを使っているもののやはり気になるという理由から謹んで辞退しようとしてきたので、日常生活に使用している部屋とは少し距離を設けた場所を確保したという経緯がある。入口のところまでたどり着いて足を止める。そっと中の様子を窺うと、幾重にも敷かれた鮮やかなラグに座り込み、キャンバスと向かい合うみょうじの背中があった。今朝は下ろされていた紙がゆるくバレッタにひとまとめにされていて、白い首筋がまぶしく晒されている。作業しやすいようにという理由でそうしているのやろうけども、気付いてるんやろうか、今自分のそこが、ちょうど巻物のような白い紙のあちこちに絵の具が散らされてるのと似たような状態やということに。気付いてへんのやろうなあ。口元がほころぶのを感じながら、室内へ入る。ノートの山やあちこちに置かれた道具に引っかからないように慎重に中へ進み、俺が入ったことにも気付かずに腕を動かすかのじょを見ていたくて、縁側に近く寄せられている座布団へと腰を落とした。後ろ姿から横顔に変化した視界が、みょうじとみょうじがつくりあげたアトリエを映し込み、たしかに自分の家の中で、かのじょの空間ができあがったという事実がじわじわと胸を締めつけた。
脚の極端に低いイーゼルに立て掛けられたキャンバスには、既に色が乗っている。持ち込んだ時にはなにもない状態だったであろうそこに、鮮やかな青色が。白い建物が並ぶ街並みを切り取った画面の凹凸や高低、質感によって生み出される陰影を描いている。小さなドライヤーが脇に落ちている。油絵は乾くのに時間がかかるらしく、もちろん描き始めたばかりで完成はまだまだ先なのだろうが、好きやと思った。かのじょの目に触れてきたものが、かのじょによって描き出されていく。猫のように瞳孔を開き、じいとキャンバスを見据えるみょうじはひどく集中しているのだとわかる。ステンレス製だろうか、銀色のヘラのようなもので絵具をキャンバスへ滑らせる。そのさまは左官の手仕事に似ている気がした。荒く、けれど繊細に、なぞられた色の重なりが、みょうじの感情のゆさぶりを感じさせる。ここに描かれるひとつの景色に対して、みょうじが心揺らされたということが伝わってきて、自然とうらやましく思った。
かのじょはこの景色を誰と見たんやろう。
どう思ったんやろう。
綺麗やな。
日本とは全然違う。
住みたいとか思ったんかな。
たったひとりで積み重ねてきたかのじょの五年間が、これからひとつずつ描き出されていのだろう。楽しそうに、面白おかしく旅の話を聞かせてくれるたびに、きっと俺は毎回懲りずに胸を灼く。これだけはもう間違いないんやろうなと断言できた。ノートの山に視線を動かして笑う。途方もないなあ。

どれくらいの時間そうしていたんやろうか。
「ごはんできたで」と入口のところで立つばあちゃんに頷きようやく腰を上げる。入ったときからわかってはいたが、みょうじは全然気付く様子もない。部屋を出る前に尚も色を乗せ続けるかのじょのすぐそばへしゃがみ込んで「みょうじ、めしやで」と言ってみるが見向きもしない。なるほど、この細っこい身体はこうして出来てんねんなと考えながら、絵の具を置いてある床へ視線を落としたタイミングで、キャンバスから離れた利き腕をそっと掴んだ。ビクリと一瞬身体が跳ねて、ずっと焦がれた横顔がこちらを向いた。きょとりと瞬きをする。
「……北や?」
きれいな双眼に俺の姿が映る。やわらかな唇が俺のことを形づくるのをまじまじと見てしまう。
「ただいま」
「お、おかえり。えっもう昼?」
「ん。めしできたで」
そう告げると、思い出したかのようにみょうじの腹が鳴って、かのじょは空いた手で勢いよく腹を押さえた。
「腹が返事したなあ」
「忘れてや……」
「それは嫌やな」ひとつも忘れたないねん。そう零すとますます頬を赤くする。どこもかしこも、噛みつきたくなる肌で困るなあと思いながら、途端にぎこちない手つきでヘラのようなものに着いた絵の具をぬぐい、まだ汚れていないロール紙の上へと置いた。近くに放ってあったタオルで手も拭って、みょうじが立ち上がる。俺も再び腰を上げて、ばあちゃんのところへ歩き出した。


日が沈むにはまだまだ早い夏の夕方。
昼の仕事を終えて帰宅した俺を迎えるのはやっぱりばあちゃん一人だった。
かのじょがまだアトリエにいるという事だけを確認してから、今度は居間で普段のとおり水分を補給して風呂場へ向かう。脱衣所に持って来たタオルと着替えを置いて、汗を吸って重たくなった作業着を脱ぐと、それだけで疲労感も和らいだ。何もかも洗濯かごへ放って中へ入る。水気のないようすはまだ誰も風呂に入っていないということを示している。水栓をひねりシャワーを出す。勢いよく肌を叩くシャワーの湯が汗や泥を落としていく。はあ、と息を吐く。椅子に腰掛けて顔を洗い、髪を洗い、身体も洗い、すっかり身ぎれいになって浴槽へ身を浸す。ザパッといくらかお湯が流れた。浴槽に浸かると、自覚した疲労も、知覚していなかった疲れも解けていく感じがする。リラックスして、チャプチャプと動く波面をぼうっと眺めていると、ふと、一緒にここへ入れるんはいつになるんやろう、などと、とても不埒なことを考えてしまう。かのじょが耳にすれば、あん時やこん時やそん時の比やないほどに慌てふためいてくれるんやろうなあ。今まで見てきたリアクションのダイジェストに想像が沸き立って、ふふ、と笑みがこぼれた。あんまり想像しすぎると、今度は現実に、即物的に困ったことになってしまうので、ほどよく楽しんだところで終いにしておく。これでも、やさしくしてやりたいとは思てるんや。ついつい、うっかり、ごくごく稀に、少しばっかり手を出してまうことはあるけれど。浴室を出てバスタオルをかぶり、表面の水分をぬぐう。いつもの着替えに袖を通して、湿る髪はそのままに脱衣所を後にした。居間へ戻って置き去りにしていたスマートフォンを確認すると、通知がいくつか溜まっていて、それに目を通してから廊下に出る。迷うことなくまっすぐに、途中鉢合わせすることもなかったのですぐに目的のそこへ入ると、昼と同じような姿勢でこちらに背を向けるかのじょがいる。見せびらかされているうつくしい白紅の首元。華奢な背中。ほっそい腰。回り込んで、横顔の見えるところまで行くと、相変わらずの真剣な表情をして一心にキャンバスへと向かう。白くて細くてやわらかい腕を伸ばし、上から下へ、右から左へ、何度も何度も、同じ姿勢で似たような動作を繰り返す。これをもう朝から何時間も続けているのだろう。なるほど確かに、スポーツとは違う筋力が付きそうではある。ただやっぱり手首も細いし二の腕はひどくやわらかい。思い出すと鼓動が早くなる感触に熱まで集まり出す前に声を掛けることにした。ただやっぱり気付くことなく作業を続けているので、青い陰影の色濃くなったキャンバスから意識を離す瞬間を同じように狙うと、やっぱりみょうじは飛び上がりそうなほど驚いて顔を赤くした。俺しか見んでするこの表情を、とても好きやと思う。
「はっ!北!」
「ただいま」
「おかえり……これさっきも言うたな?」
時間の感覚が大分怪しいな。不思議そうに首を傾げるのを見て不安になる。途中休憩とかしてるんやろうか、と思って聞いてみると、一度ばあちゃんが様子を見に来て一緒におやつを食べたとのことでひとまずは安心する。ただこいつ、元々自分ちを仕事場にするつもりやったんやんな、危ない…………と思いながらぼけっとするみょうじを見やる。……まあ、ええか。その話はおいおい。とひとり完結して、とりあえず用件を伝えることにする。時間がもうそんなにない。
「風呂空いたで」
「……いや、あの……私やっぱり、お風呂までは……」
「着替えは持って来てんやろ?」
「そら、持ち物リストまで作られたらな……」
「そろそろ入らんと、間に合わんで」
「えっ?なにが?」
スマートフォンを操作して目当ての画面を表示したものを差し出す。瞬きをしつつ、素直に顔を寄せてそれをのぞき込む。表示してある字を目で追って、少しすると「えっ」と声を上げる。
「えっ、北、これ」
「飯行くって言うたやろ」
「言うてた……言うてたな……?」
「うちで食う話になったから」
手元に戻したスマートフォンの画面には、トークアプリのグループトークが表示されている。自分にとっては見慣れた、みょうじにとっては懐かしいメンバーと交わした直近のやりとりからは、元々予定していたアランの他、練と路成も加わって、めしを食うことになった経緯がわかる。ほんまは二人で外食するつもりやったけど、みょうじが急に現れて、色々と状況が変化したので、俺から提案しておいた。驚愕、という顔から、笑みがこぼれて、目もキラキラと輝いた。頬がポッと赤らんで、よろこびの表情が灯るのを見ると、自然を頬が弛んだ。
「みょうじも会いたいかなと思ってな」
「き、北……!」
「嬉しいか?」
「めっちゃ!うれしい!!」
喜びに弾んだ声もその表情もまっすぐ向けられると途端に熱が集まってくる。感極まったんか、小さく小さく、吐息のように「好き……」と漏らす声も。こちらの不意をついて心臓をぎゅうと鷲づかみにしてくるので、感情がぐちゃぐちゃになってしまう。ふたりの付き合い方についていくつか取り決めを交わした喫茶店では、なんや色々と叫んどったけど、驚きのあまり口を挟めんかったけれども、お前だって、相当やねんでとこういう時よく思う。じわじわと集中する熱を紛らわせるように、ほら立てと促して入浴を急かす。みょうじはニコニコと機嫌のよさそうに「すぐ片づけて入るわ!」と無防備な笑顔を向けた。このひとは、今この距離わかってるんやろうかと思ってしまう。咳ばらいをひとつして、立ち上がって先に部屋の出口へ向かう。と、そのまま出て行こうとしたが、ふと思い出して振り返る。専用のクリーナーというらしい液を使ってわずかに残った絵の具まで丁寧にぬぐうみょうじを呼び、ひとつ、ふたつ、先に伝えておくことにする。
「なに、北?」
「あんな、あいつらにな」
「うん?」
「みょうじがおること、まだ言うてへんねん」
瞬きを数回、繰り返して、思い至ったように「ああ!」と声を上げる。
とてもとても楽しそうな、好奇心のくすぐられた、悪戯っ子のような表情を浮かべている。 「あともうひとつ」
「うん?」
「タオル首にずっと掛けとき」
こちらの意味は何度瞬いても分からんかったようで、ただただ首をかしげていた。続く言葉を待っているような様子だったが、構わず今度こそ踵を返して部屋を出た。居間に戻るといつもの位置に座りなんとなく庭を眺める。ちりりんと風鈴が鳴いた。台所から戻ったばあちゃんが俺の顔を見て「あらまあ」と困ったように笑う。
「あんまり意地悪したらあかんよ」
「意地悪なんかせえへん」
「いけずもあかんで?」
「せえへん」
「好きな子には、うんと優しくやで」
「うん。しとる」
「ほんまかなあ」
「ほんまやで」
そんな会話を交わしながら、あとはのんびりと夜が来るのを待つ。虫の声も響き始める夕暮れ空を見上げていると、風呂場の方から小さな悲鳴が聞こえてきて、それが愉快で、たまらなくて、声を上げて笑ってしまった。

「おかえりみょうじ」
「………………死ぬ」
「突然死の予告せんで」
「だ、誰のせいやと思ってんの……!?」
「謝らんで。悪いと思ってへんからな」
つい先日、みょうじ相手に好き勝手にしたあと絞り出した謝罪の言葉にたいそうご立腹やと知ったので、こういうことについては謝らないことにした。本気で怒ってるならもちろんその限りではないが、こういう表情をしている時は、単に恥ずかしかったり照れ隠しで言っているのやとわかったので。まっすぐに目を見てそう告げると、なにやらモゴモゴと言っていたが、こちらにはよく届かんと聞き流す。
「ああ、せや。耳の裏にもあるから、髪も下ろしといた方がええよ」
「…………」
しっとりと濡れた髪をまとめる飾りを無言で外すかのじょを見て口角が上がる。ただでさえ風呂上がりのそんな、どきりとする姿をしているのに、そんな顔をしていたら、おまえの目の前にいる男は我慢ができなくなってしまうよと思いながらも、それを警告してやるつもりはない。ただ今回みょうじによって持ち込まれたかのじょの部屋着は肩も鎖骨も丸見えなので、やっぱりシャツを貸そうと思う。洗濯物の中から適当に引っ張り出して渡すと、従順に頭からそれをかぶった。サイズ的には大きいので首元は多少ゆるいが、上は花柄のキャミソール一枚でおられるよりは随分とマシや。あとは今首に掛けてるタオルを外さんかったら、まあ大丈夫やろ。まあ、仮にあいつらに見られたとしても、困ることはないけれども。しっかりと隠された首元を見て、右手が勝手にそこへ伸びて、タオルをぺろっとまくり上げた。
「わ。な、なに?」
「うん」返事になってない返事をして、あらわれた首筋をじいと見つめる。
「まくらんといて……」
「ええやん」
「掛けときって言うたん北やん」
「別に俺はええやろ、捲っても」
それ以上なにか言われる前にと、あらわになった首筋に唇を寄せる。
「んっ」
「……そん声はあかんで」
あかんと言いつつ、止まらない。だからこの声も止まない。びくびくと震えるちいさな身体を抱きしめて、腰に腕を回すともう、それだけで逃げられなくなるんやから、みょうじはもうちょっと、警戒した方がええと思う。おまえのことを好きやという男の前で、こんな姿ばっかり見せたらあかんよ。そう思うけども、そんなことは言わない。やわらかく吸い付く肌に何度も唇を落とすと、すぐに力が抜けて身を預けてしまう。かわいらしくておかしい。あかんなあみょうじ。こんなんやと、すぐにでもぜんぶ奪われてしまうよ。それも言ってやらんけどな。


――エンジンの音が聞こえる。
力という力を奪われてぐずぐずになったかのじょの感触を楽しんでいると、表の方で車のエンジン音が薄ら聞こえてきて、顔を上げた。こんな時間に滅多とすることのないその音は、少しの間そこへ留まっていたが、一分も経たんうちに遠ざかって行く。そして懐かしい声がにぎやかにうちの方へ近づいてきたかと思うと、その鍛え抜かれた肺活量で、どでかい声を上げるのや。
「こんばんはー!!」
大皿に天ぷらを盛り付けていたばあちゃんも思わずといった風に窓へ目を向けた。
「信介―、飲みに来たでー」
「食いに来たでー!」
「あー腹減ったー!」
……いくら隣家と距離あるからって、もう晩めし時やぞ。
元気すぎるえらい野太い三重奏に息を吐く。
「えらい元気なお客さんやなあ」
「……ちょっと、行ってくるわ」
腕の中のみょうじをそっと壁にもたれさせて頬を撫でる。ぼうっとこちらを見つめるかのじょに「みんな来たで」とだけ告げて、玄関へと向かうことにした。その間にも稲荷崎OBの大合唱は続き、サンダルを履いて門口のところまで行くとまみえた懐かしい顔ぶれたちに、真っ先に注意をすることとなったのだった。

「なっ……………………」
ちょっとした目論見は当たった。
「えっ!?ナ!?エッッッ!?!?!?」
「えええええっ!?」
予想通り、驚愕の声を上げる三人に笑う。ええ反応やな。けれどもひとつ予想外やったんは、壁に預けてきたみょうじが今見るとすやすやと眠り込んでいたことで。絵を描くと言う仕事は体力を使うと書いてあった。日中あれだけ集中して作業していたんや、目も脳も披露しているに違いない。そこへ風呂に入ってリラックスしたところに、俺が恐らくとどめを刺したんやろうなあ。なんや寝てしまったんか、とかのじょのそばへ戻りしゃがみ込む。寝顔かわええな……と頬が弛んだ。しあわせな心地になる。――ただ、この俺にとってのちょっとした予想外が、事態を悪い方向へと転がした。
最初に口を開いたんは練やった。
「ついに…………信介、嫁さんもらったんか……」
「は?」一言目としては奇妙な反応に声を上げてしまう。練の表情を見ると、どこかぎこちない、そう、気まずそうな顔をしていた。なんやこの顔、と思いながらも、しかし訂正はしておかなければならない。
「まだ嫁ではないけど、付き合うとる」
「…………そうなん」
「…………」
あれ?と首を傾げる。思っていた反応と大分違う。見ると、路成もまた似たような顔をして、口を開こうとして閉じるという行動を繰り返していた。その顔はどう見ても『おめでとう』という部類のもんではなくて、さすがに訝しむ。ほんまなんなん、こいつら。どうしたんや。と尋ねようとした時やった。
「ウウッ……みょうじのドアホッ……」
「――アラン?お前どうし」
「お前がッ、お前がッ、外国なんか、フラッと行ってまうからッ……北が、北がついにッ、どこぞのお嬢さんッ、連れてきてもうたやんかッ…………」
アランなんかその場にうずくまって泣き出しよった。わめき沈黙と驚愕に包まれるかつてのチームメイト達を前に、俺は、なんなんこいつら……という気持ちを隠せず、思いっきり顔をしかめた。 こいつら、このひとがみょうじやと気付いてへん。
嘘やろ、マネージャーやぞ……?
しかも一人は超親友とまで言うとるのに、なーんも気付かんと、おいおい男泣きしとる。
「こんなんあんまりやッ、こんなん、こんなんッ」悲痛な声が居間と台所に響きさすがにばあちゃんが顔を出す。不思議そうに、様子のおかしい男達を眺める。最後に俺を見るが、ゆるく手を振ると引っ込んだ。暖簾の向こう側で再びパタパタと軽快な足音と物音がする。それはええ。今はこっちや。練も路成も暗い顔してアランの背に肩にやさしく添えている。なんなんや、この空気。
あのひどく特徴的な瞳が閉じられているせいか。
髪をバッサリ切ってしまっているからか。
それとも、まさか帰って来ているとは思いもよらんからか。
とにかく三人はまったく一ミリも、過去三年間ともに過ごしたはずのみょうじに気付かんのだった。それどころか、俺が別に恋人を作ったと思っている。そしてこの空気。直接言葉には出さんが、これは、確実に俺を批難している空気や。いや、批難される大前提、そもそも間違っとりますけど。アランの嗚咽以外の声がせん中、はあっととびきり大きいため息を一つ吐いて、重たい重たい腰を上げるとアランの元へ行く。しゃがんで、かつて五大エースと呼ばれ今もなお日本トップクラスの主砲として輝き続けるスパイカーの肩を、いささか乱暴に押し上げた。つられて上がった顔面は汗と涙と鼻水でグチャグチャだった。腕を掴んで無理矢理立たせて、そのまま引っ張って壁までズンズン進む。超親友がこないなってんのに、のんきに寝続けるみょうじもみょうじや。すうすうとかわええ寝顔がまた憎たらしい。嫌や、見たない、嫌やッと拒否するアランを全力でかのじょのそばへ跪かせた。ほんまはこんなことしたないけど。後頭部をガシッと掴んですこやかな寝顔の側まで寄せる。
「ほら、よう見いアラン。ちゃんと見い。髪みじかなってるけど、お前わからんか?」
超親友なんちゃうん。あれこれはかのじょが言うてたんやっけ。まあええわ。面倒くさい。アランは俺の言葉に涙で濡れる目玉をかっぴらく。何度か瞬きをして涙を落とし、それからゴシゴシと両手で残った余分な水分を払った。そしてそれから三秒後。
「お前…………もしかしてみょうじか……!?」
「えっ」
「えっ」
練も路成もアランの言葉に声を上げた。
信じられへんという顔をして、みょうじと俺を行ったり来たりする視線を受け止め、どっからどう見ても本人やろ、アホと言う意味を込めて頷いてやると、アランはひとりハーッと奇声を上げ、かのじょの顔をまじまじと覗いた。ティッシュ箱を手に取り押し付けると、大人しく顔面の汁をふき取る。ようやく霧散した奇妙な空気に、またひとつどでかいため息を吐いた。
「みょうじ……、これみょうじや……」
「帰って来たんか……!?」
「ちょお待って、信介お前さっきなんつった……!?」
……人一倍かのじょと仲の良かったアランは、人一倍心配もしたことだろう。かのじょもアランにはなんもかんもをすっかり話していたと思う。でも帰国したん知らんかったん、と路成が尋ね聞くところによると、世界のあっちこっちへ跳び回るかのじょと連絡を取り合うツールは、世界的に有名なGの付くメールアドレスしかなく、細々としたやりとりは行っていたらしいが、特に最近は多忙を極めていたこともあってアランでさえ帰国自体を知らなかったという。ほんまにこいつは……と、人々の気も知らずにすやすやと眠りこける寝顔が憎らしい。過去に何かとかのじょの肩を持っていたアランでさえ、同じ心情のようだった。
「たまーに変なハガキ送ってきよるクセに、何でコイツはこう……!」
鼻をすすって、今度は感極まったように目を潤ませるアランやそばへ寄り同じようにみょうじの姿を窺う二人を尻目に、俺は無駄に疲れたやんかとかのじょを小さく恨んだ。せや。すべてはお前がとびきりかわいらしく寝こけとるから……、
「めっちゃ寝てんな〜」
「起きんかな。起こす?」
「止めたりや、可哀想やろ。なあ信介」
「……いや、起こすわ。ちょっと退け」
正面を陣取っていたアランを雑に押しのけみょうじに近づく。頬にかかる髪を手で軽く押さえといて、すやすやと幸せそうに眠るその顔を見る。なにか夢でも見てるんか、いつでもうまそうに膨らんでいる唇は弧を描いている。「信介?」路成の声にもかまわず、とにかくもう本当に疲れていたので、考えることを放棄したまんま、導かれるようにして、やわらかなそこへかぶりついた。
「ん、ん。ん……ん?んっ?んんんっ?」
「…………」
風呂から上がったばっかりやからか、いつもよりしっとりと吸い付く肌が気持ちええ。感触を楽しみたくって何度も強めたり弱めたりを繰り返す。あかんなあ、やっぱりこれ、一度はじめると止まらんわ。横で三人も見てるんやろうに。角度を変えようと離すたんびに、離さんとってと言うみたいにくっつこうとするそれがかわいくて、繰り返してしまう。しばらくそうして楽しんでいると、やがて、息苦しいのか、羞恥からか、拘束していなかった手が肩を押してくるので、そっと身を離す。目を開くとかのじょは息を乱して、寝起きから頬に熱を溜めている。
「わ……私寝てたん……?」
震えた声で尋ねてくるみょうじに、せや、お前が眠ってたせいで大変やったんやと思ったが、男泣きまでしたアランの手前、ひとまず黙っておくことにする。もう一度軽く口づけてから、ほらええから、久々の再会やろ、こっちの相手したりと、ぼうっと唇に手をやるかのじょを三人の方へ向けてやる。
「みょうじ――!」
「お前ッ、お前いつ帰って来たんや!」
「なんでちゃっかり信介とどうこうなっとんねん!」
「すっかり彼女ヅラしよって!」
「吐け吐け、吐かせろー!」
「はよ結婚せえ、ケッコン!」
「ようやった!ようやったぞみょうじ!」ワッと騒ぎ出す大人三人を背に台所へ向かう。暖簾をくぐとすでに料理がたっぷりと盛り付けられた大皿がいくつも並んであって、ばあちゃんに「ありがとう、うるさくてすまん」と伝えると楽しそうに笑った。いやばあちゃん、笑いごとやあらへんかってんて。
「アカン……なーんも聞こえとらん」
「目ぇハート状態やな」
「状態:メロメロ」
「ポケモンか」
「誰や北に技マシン渡したん」
「信介お前……ガッチガチに脇固めて逃がさん気やな……?」
なんとでも言えばええわ。


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