――――朝や。
ふと意識が浮上して、薄ら瞼を開く。
硬い枕元にあるスマホを手に取り時間を確認するとやっぱりいつもの時間で、ふうとひとつ息を吐いて身体を起こした。いわゆる思春期というものに入る前から睡眠時間というものを削りに削って生きてきたから、夜更かししても、規則正しい時間に就寝したところで、目の覚める時間は大して変わらない。少しの間ボーっとして、視界の邪魔になっている前髪を適当に撫でつけて、身体に掛かっていたペラッペラの掛け布団をバサッと捲って追いやった。日本のビジネスホテルは安いし衛生的ではあるけれど、あんまり快適やない寝具一式はなんとかならんのかなあと思いながらベッドを降りる。硬めのマットレスのスプリングがギシッと音を立てて、エアコンと冷蔵庫の稼働音だけが響く室内に合わさって耳障りの悪い和音を奏でた。
「…………んー」
意味のない声を出しつつ重たい遮光カーテンを引くと一気に朝の光が入ってくる。夜は光源と言ったら電球色の照明具だけだったので変な心地だったが、やっぱり自然の光というのはええもんやな。ただ窓から見える景色はアスファルトの道路に沿って建築物が軒を連ねる、昨日までとは全然まったく違うもので、起床して三分も経たんうちに気分は下がったり下がったり下がったり下がったり上がったり下がったりと忙しい。トータルで随分下がってるやんけ、私大丈夫か?などと思いながら、備え付けられている冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して乾燥しきった喉に流し込んだ。

――おはようございますみょうじ様、フロントでございます。
――ただいまこちらに、お客様がお見えでして。
――お会いになりますか?

そんな電話を受けたのは、何となしにテレビをつけたものの目ぼしい番組が見当たらず結局チャンネル局を一巡して電源を落とした直後のことだった。使うことはないと思っていた電話が鳴ったことに驚き、モーニングコールを依頼した覚えはないのにと首を傾げて受話器を取ったところ、フロントからそのように告げられて、お客様?と反射的に聞き返す。微妙に関西のイントネーションが加わった敬語で付け加えられた言葉に、こちらは一瞬言葉を失った。

――北様とおっしゃる、男性の方ですが。

「……十分、いえ十五分ほど、待ってもらうように伝えていただけますか」
何往復か言葉を交わしたのち、受話器を置いて息を吐く。これは心を鎮めるための呼吸である。早朝からなんと心臓に悪いことだろう。どきどきどきどきと、起床して幾ばくも経たないうちから、こんなに鼓動を刻んで。あんひとの顔が、一度浮かべば離れられず、頬がどんどん熱くなって、必死で頭を振り回す。今はとにかく。ひとまず。置いといて。支度。身支度を整えねばとキャリーからタオルと洗顔セットをひっつかみ、ユニットバスの小さな洗面スペースへと駆け込んだ。


「おはよう。今日は寝ぐせないんやな……」
「残念そうに言わんでくれる?」
「普通はないはずのもんやねん」なぜ顔見てまっさきに視線をやるのが頭なのか。フロントの待合スペースに堂々と腰掛けた北は、電話から十五分と少々過ぎてからやって来た私を見て立ち上がる。学生時代もほとんど見たことがなかった私服姿に一瞬めまいがするのをグッと踏ん張ってなんとか地に足を着ける私の心情などおかまいなしで、北は「可愛かったから今日も見たかったわ」と真顔も真顔で言ってのける。
「……今日はヒールちゃうからな!こけんで!」
「うん?せやな、スニーカーやな」
「暖簾に腕押し……」
いや柳に風か。
「スカートでもないな」何食わぬ顔で今度は服の方を見るのでつられて自分の格好を見下ろした。シンプルなロゴが入ったブラウンのTシャツの上から黒のサロペットパンツを着用し、ゴツめのスニーカーを履いたラフな服装。一昨日は北に会うと決めたあとショップに走り購入した大人っぽくて綺麗めのデート服(店員さん談)だったし昨日は街に繰り出すために一応それなりのおしゃれをしていたが、今日はかなりカジュアル寄りだ。
「まあ目的が目的やからな。過ごしやすいようにな」
「そういう服も似合うんやなあ。かわええわ」
「…………アリガトウ」
絞り出すようにして返した一言に北は笑う。今日もこちらをまっすぐ見下ろし、首を傾げて少し笑む、その表情が小憎らしくてたまらなかった。だから何やねん、そのカオむかつくな。キュン。

フロントに鍵を預けたあと、二人で駐車場に向かう。停めてあった車は仕事用の軽トラではなく普通の乗用車だった。昨日夕方、不動産屋の帰りに迎えに来てくれた時と同じ車。先に車へ寄ってエンジンをかけ、助手席のドアを開けることを平然とやってのける北は三日目なのでさすがに慣れたいのだけれど。どこで覚えたのか恭しく差し出される手を取ってシートに腰を下ろす。足を畳んで完全に車内へ収まるとそっと離れて扉が閉まり、逆側から北が乗り込んだ。ギシッと車内が揺れて、妙に緊張する。三度目やのに。慣れない手つきでシートベルトを締めて、それを確認した北がギアに手を掛けた。
「――ほんなら、行こか」
「お願いします」
ゆっくりと発車する。
幼い頃の記憶にある父の運転とは違って、北の運転はやっぱり非常に丁寧だった。指定されている上限速度を超えることは絶対にないし、沿道沿いの店から出てこようとする車には前を譲ってやるし、指示器を出さずに進路変更することもない。お手本のような運転とはこういうことだろう。教習所の先生かな??と思いながらハンドルを握る北を横目で見る。紺色の半袖シャツにタックの入った黒のアンクルパンツというシンプルな格好が大人っぽくとても似合う。袖口から見える筋肉のついた腕は過去のそれよりさらにたくましくなっていて、同じ筋肉でも自分とは全然違う。きりっとした眉に大きめの双眼は前や前後左右に動いて冷静に道路状況を把握している。鼻筋は通ってキュッと一線に閉じられた唇は薄いけど、ふにふにしとって、あったかくって、やわらかくて、そうやわらかい、やわ、や…………、…………。
「暑いか?」
「へ!?」
「扇いどるから」
「べ、べつに……」
「なんや顔も赤いし」
「タコとちゃうからな!」
「まだなんも言うとらん」
手でパタパタと顔を仰ぐ私に当然気付いた北はエアコンの風を強める。向きはそこでいじってと言われて風が出ている噴出口の角度を調整しておく。ちょうど信号待ちに差し掛かり停車したところで北がチラッとこちらに目をやった。
「なに?」
「かわええなあ」
「…………エアコン、強めて…………」
「さすがに寒いわ」からからと笑う。人の気も知らないで。顔面を冷やす風の勢いも追いつかず、やっぱりしばらく手で扇ぐこととなった。
音楽もラジオも流れない車内では、北の笑い声が響く。ご機嫌やな北。笑顔。かっこええけど、やっぱり可愛い。凝りもせず視界が北へ惹き付けられて、それでまた気付かれて、そんなやりとりを繰り返しながら、二人を乗せた車は進む。「はよ着かんかなあ」子どものようなことを言う北は、けれどあくまで法令順守。どんどん道幅の狭くなる田舎道を、ゆっくりゆっくり走るのだった。

昨日別れを告げてきた北家の敷地へえっちらおっちら。再び運ばれたどり着いた。農家ってなんでこんなに広いんやろうな。敷地に入ってから駐車するエリアまで車は止まらず、窓からは倉庫らしき建物や小屋、トラクターなんかも目に入る。畑は家を挟んだ反対側にあって、このまま裏を回るとすぐらしい。指定の位置があるのか、広いスペースの中の端まで行くと、ようやく徐行をさらに徐行した速度まで落ちて、車体を軽く右へ振ったかと思ったらギアをいじる。駐車の時の音が鳴って、ゆっくりと後退した車は少しして完全に停止した。
「着いた〜」
「着いたな」
「運転おつかれさまでした。ありがとう」
「うん」
昨日ぶりやけどお婆ちゃん元気かな。昨日買うたお菓子、一緒に食べれるかな。はやる気持ちを抑えきれず、やっぱりワタワタしてしまうシートベルトを外したところで、ふと視界が陰ったことに気付いて顔を上げる。北が上体を乗り出すようにして私を見下ろしていた。
「北?」
「うん」
うんて。返す間もなく。
覆いかぶさってきた大きな身体とシートに押しつぶされ、あっという間に唇が合わさった。
「ん!?」
「うん」
うんとちゃう!
という言葉を飲み込むようにして、唇を食まれて、わけもわからず目を瞑った。え?なに?なん?なにが起きてるん??なんで!?なにがどうなって!?まったく頭が追いつかず、くっついたり、離れたり、挟まれたり、噛まれたり、なめられた、吸われたりして、わけがわからずに、さまよった手が北の肩に触れ押し返そうとすると、なにかががっちりと絡まって動かない。指と指の間にもぐりこんできた大きなそれがすりすりと撫でて力が抜けた。
「ん、んんっ、きっ」
「…………ハア……」
「きた、……っちょっと」
「……ほんま、かわええな……」
合間合間に制止しようと出した声はすぐにふさがれ埋もれてしまう。吐息のように漏らされた言葉にかあっと全身が灼けた。いつもパッチリ開いてる瞳が今は少しとろんと細められて、潤んでいる。吐息がかかるたび、唇がこすれ合うたびに変な声も出て恥ずかしいのに、何度も何度も、そんな風にしてくるので、されるがままになる。
「北、んっ、もう、待」
「……待てへん」
いつの間にかシートは倒されていて、完全に乗っかられる形になっていた。いつの間に助手席側に移ってきたんや。太腿の隙間に北の片足が入り込み、座席下のスペースが狭く膝から下も身動きが取れないのをいいことに、次から次へと色んなところに北の唇が降ってきた。額、鼻のあたま、まぶた、こめかみ、耳のそば、首筋、唇が、息が、当たるたんびにぞくぞくする。あかん、あたまおかしなる。北の瞳に自分の間抜けな顔が映り込むのをぼうっと見つめて、北のにおいと熱を受け取る。お腹の底からじわじわと熱が灯る感覚に、私の中の危機感というものがようやく働いたんか、どっか遠くの方で警鐘の鳴るかんじがしたけれど、力という力が抜けきった今、シャツの襟ぐりを伸ばされて鎖骨のところにまで降りてきた北を止めることはもうむりだ。ていうか私は止めたいのか。止めてほしいのかどうなんか。危ないとは思ってるけど。はあ、と息がまたひとつ。エンジンの音にかき消される。エアコンの人工的な風が気休めに車内を冷やすが、身体はすでに北に覆われていて、そんなものはまったくの無意味であって、くすぐったく、痛いような、気持ちいいような、刺激に意識をもっていかれそうになるのを、ギリギリのところで耐えていた。
熱に浮かれた車内で、おたがいにしか聞こえない息づかいが続く。

コンコン、と控えめに助手席の窓ガラスがノックされて、倒れたまんまの姿勢でそちらを見上げると、お婆ちゃんの顔が向こう側に見えてわれに返った。北は気付かないのか、目をやることも手を止めることもせずにことを進めようとするので、唯一自由だった左手が北の背中を何度も叩くと、ようやく北は顔を上げた。怪訝な表情をして私を見るので、いやその顔私がしたいけどなと思いながら窓を指さす。声はまだ、まともな声を出せそうになかった。
「…………」
ガラス越しにお婆ちゃんの顔を見て、それから無言で私を見下ろすと、北の右手が私の頬を包んで撫ぜた。なんやそれ。数秒間、撫ぜられてから、ぐっと身体を起こした北は両手の指を解いて、私の身体とシートを起こし始めた。息の上がりヘロヘロの私はされるがままに。元の角度に戻ったシートにもたれかかって、運転席側へ戻る北をぼうっと見ていた。エンジンを切ると、途端に静まり返る車内。少し荒いお互いの息遣いが、名残りのように響く。キーを抜くと北は運転席のドアを開け、そのまま外へ出た。助手席に残された私は、北が来る前にお婆ちゃんがドアを開けてくれて、力の入らない足でおぼつかずとも、なんとか車を降りられた。心配そうに差し出された手に私のを重ねて、そのまま抱き着く。
「あらまあ、なまえちゃん」
「おばあちゃん…………」
あかん、全然力入らへん。せめておばあちゃんに倒れ込まんよう、なけなしの力を振り絞って重心だけは前へ動かんようにしようと必死で踏ん張った。北の足音がこっちっ側へ向かう。
「信ちゃん、あかんで。優しくしたらんと」
「優しくしとるよ」
「なまえちゃんにはとびきり優しくな?」
「しとる」
平然と嘘を吐く北だった。いや、北は嘘吐かんから、本気で優しくしとると思い込んでるんかもしれん。息の整わないこの姿が目に入らんのかと思ったが、さっきの今で口を挟む度胸もなく、撫でてくれる小さな手のひらを感じながらひたすら深呼吸を繰り返すのだった。


「ゆうべはなまえちゃんおらんから、ばあちゃん寂しかってん」
ちゃぶ台にほうれん草のおひたしの小鉢を並べながらお婆ちゃんが笑う。両手が空くと壁を背もたれにくったりと座り込む私の頭を撫でてくれて、またほほえみを浮かべて台所へ。入れ替わるようにして三人分の茶碗をお盆に乗せた北が帰ってきて、手際よく配膳していく。そしてそれを終えたなら同じように頭を撫でてくれる。なんなん、と表情を窺えば「ばあちゃんの真似」と笑う。きゅううと締めつけられる心臓を手で抑えた。放っておけば頬まで撫でてくる。中腰からしゃがみ込んで距離も近づき、いつものじいとまっすぐな視線を受ける。顔が近づく。車の中でされたことが過ぎり内心パニックのまんま瞼を閉じた時だった。
「あかんで信ちゃん」
やさしいやさしいお婆ちゃんの声が、北を制止した。
目を開けるとまだ北がいて、視線を逸らしたところにお婆ちゃんがいて、ニコニコしている。もう一度北に目をやると、いつも通りの真顔で、いやこれは、眉間にちょっとシワが……?口が尖って……?見間違い?なんの表情?「…………」ちょっとの間黙った北は、再度髪を撫ぜると、背中と肩に腕を回して私の身体を壁から剥がした。そのまま上へ持ち上げられる。急な浮遊感にビックリしてしがみついた。北を見下ろす。
「なまえちゃんお茄子好きやんな?煮物食べる?」
「たべる……」
「お野菜たくさん食べて仕事がんばらんとなあ」
今度はお味噌汁を並べるお婆ちゃんを見下ろしつつ言葉を交わす。私いつまで持ち上げられてるん?重くないんやろか。北を見る。顔が近くて恥ずかしくて肩のところに顔を埋めた。少ししてからお婆ちゃんが「信ちゃん、ごはんできたで」と言うと、そのまま食卓まで歩いて、定位置らしい席へ正座する前に私を隣の席の座布団へ降ろしてくれた。ああなるほど、運んでくれたんか。
「ありがとう……」
「いや、……うん」
「じゃあ食べよか」お婆ちゃんに倣って手を合わせていただきますをする。熱い味噌汁を口に含むと、味噌と出汁の味がじんわりと口内に広がって、途端に『日常』というものを感じ、心もあたたかくなる。おいしい、と声を漏らすとお婆ちゃんが顔を綻ばせた。お米も噛むたんびにほんのり甘みを感じる。ふわふわの鰹節がかかったほうれん草のおひたしも、残り物やというお茄子とジャガイモの煮物も、お漬物も、なんもかんもが私に優しくて落ち着いてくる。頬が弛んだ。そんな私を見てお婆ちゃんがさらに笑う。
「やっぱりうまいもんは凄いなあ」
「うん?超おいしい……」
「おおきに。おかわり言うてな」
「うん」
「信ちゃんもな」
「うん」
普段よりは遅めの北家の朝食が進む。
ホテルまで迎えに来るという朝一の労働をしてきた北ぐらいは先に食べてると思ったのに、隣でモグモグと白米を咀嚼する様子を見るにそうではなかったらしい。若干調子を取り戻したところで、米を飲み込み、口を開く。
「せめて北は食べてから来いや?」
「一緒に食いたいやん」
「えっ」
胸を抑えた。
北にもそういう情緒が備わってるんかと感動を覚えた。
「いやいや、でもやな」
「なに」
「私のことで、北家のスケジュール変えんといて」
「そんなん言うならここ住め」
「…………」
「黙るな」
黙ってない。なんも言い返せんのは、煮物を食しているからや。一口三十回、ちゃんと噛まなあかんやろ。そしてひとの食べてる姿あんま凝視せんといて。いたたまれん心地のまま飲み込み即座に二口めのおじゃがを頬張ると、ようやく北は諦めたのか視線を食事に戻した。そんな私達を、お婆ちゃんはお米を頬張りながら、やっぱりニコニコと見ていた。

なんとかかんとか、食事を終え。
空になった食器を流しに浸けたあとで三人お茶をすする。
「今日もきれいなお洋服やねえ」と私を見るお婆ちゃんはいくつになっても可愛らしい女性である。全国的に有名なファストファッションブランドでありふれたシンプルな装いも、こんなかわいいお婆ちゃんに褒められたら本望やろ。などとウエストのところに通った同じ生地のリボンの端を指先でいじりながら考える。
「これな、サロペットって言うねん」
「さぺ……?」
「サロペット」
「さぺ……さろろ?」
「サロペットやで、ばあちゃん」
北もはじめて口にする単語であろう、ので、合うてる?やんな?と確認するようにこちらを見る北が可愛くて可愛くて笑ってしまった。じいと尚も見てくる北は気を害した様子はないがやっぱり真顔なので何を考えているのか全然わからんなあと思い首を傾げた。壁時計を見るともう時間は七時を過ぎた。朝ごはんの前に作業着へ着替えていた北は、もうそろそろ家を出る時間だろう。私の迎えになぞ行ったせいで、食事やって遅かったし、一昨日から北の大事な『習慣』はことごとく崩されている。申し訳ないという気持ちと、せやから私のことはあんまり気にせんといてほしいというのを北に伝えると、やっぱり抑揚の薄い声色でかれは言うのや。
「これから新しい習慣を作るんやんか」
いつも隣にお前がおるという習慣を。
お前と一緒に。
当たり前のことのようにそんなことを平然と言ってのけて、しかもその後始末もせんと、そろそろ行くわと腰を上げた北はひと撫でしたあとに背を向けるとさっさと出て行ってしまう。慌てて私も立ち上がって後を追うと靴を履いているところで、お婆ちゃんが背後から「信ちゃん行くの」とのんびり声をかける。トコトコと歩いてきて、私の隣に立ち止まった。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
お婆ちゃんと挨拶を交わした北が次にこちらを見た。どきどきとうるさい心臓を押さえて口を開く。
「……いってらっしゃい」
「…………うん」
「うんて」
「――行ってきます」
音を立てて開き、同じように閉まっていく引戸からしばらく目が離せなかった。
「信ちゃんうれしそうやったなあ」
お婆ちゃんまでうれしそうにそんなことを言うものやからもうたまらんくなる。
「溶けてまう…………」
どうすんねん。
きょうも、惚れ直してしもたやんか。


「自由に使うてええからね」
お婆ちゃんに案内されたのは、前回通された客間とは違う一室だった。縁側で繋がってはいるものの、人の集まる居間から少し歩いたところにあるこの部屋はとてもしんとしている。八畳ほどの空間に畳が敷き詰められて、小さなちゃぶ台とい草の座布団がふたつ、それと扇風機が置かれている他は調度品らしきものがなくすっきりしていた。おお、と声が出る。
「ええの?ここ、使うてないん?」
「うん。使うてへんから、ええねんで」
障子は二面あって、引いてみると縁側と庭を仕切る建具のガラス越しに庭が見えた。二面採光。通風最高。床の間も押し入れも何もない状態なので、何でも置けるし入れられる。ひととおり部屋を探って見回して、お婆ちゃんへと駆け寄りその両手を握る。
「ありがとう!めっちゃいい!素敵!」
「そお?よかったあ」
「大事に使う!!!」
冷え冷えの小さな手をギュッと握りしめてそう言うと、笑いながら「好きなように使うたらええねん」と返されてあまりの太っ腹に心配になる。人が好過ぎるやろ!私がしっかり守ったらなな……と決意を胸に秘めた。
「さっそく描くん?」
「ううん、まずは部屋作る。描き出したら手止めにくいし、お父さんとお母さん起きてきたら、改めてお礼言いたいから」
「そうなん。気にせんでええんやで?」
「いいや、何度頭を下げても足りん……」
「昨日も今日も、なまえちゃんまいにちお礼言うてるで」
また笑われる。
ええねん、ええねん、笑うてくれ。
なまえはこん家の賑やかし係になります。
元気な笑い声をあと五十年は聞かせてほしい。
それにしてもなあ、ところころした声が鳴る。
「この部屋が『あとりえ』になるなんてなあ」
なんやおしゃれやなあ、と楽しそうに呟いた。

――ひどい告白をしてしまった。
――私を見て。私を見て。私を見て。ちゃんと見て。私は、みょうじなまえは、こうやったよ。ずっと前から、こんなやったよ。昔っから、ずっとずっと、こうやったよ。ずっとずっと、北でいっぱいやったよ。北のことばっかり見とったよ。ずっと。ずっとそうやったやろ。見てよ私を。ちゃんと見て。私を、ちゃんと見とってよ。
――――私を見て!
……あんな風に言うつもりやなかったのに。
というのはあとの祭りか。そうは言えど、後悔というほどのこともなく、心は妙にスカッとしていた。高校生の頃からずっとずっとくすぶってきた私の恋心。なんだかんだで結局、言葉にしてやることのできないまんま、卒業してしまった。……いや、卒業式、出てへんから、気持ち的には、卒業すらできてへんような感じもするけど。それはまあ置いといて。残念に思いつつ、心残りとなりながらも、私はあの日、それを選んだ。好きなひとに、好きもさよならも言わんまま、飛び立つことを選んだ。そんなんやから、消えるはずがなかった。触れたこともないはずやのに、おかしいなあ。ひとの記憶は、声と、姿と、忘れていくというのに。私は北を忘れなかった。北の声を忘れんかった。北の背中を忘れんかった。群衆の中だろうが、田んぼの中だろうが、いつだってすぐに見つけられた。
ずっと見てきた。
ずっとずっと、その背中を見続けてきた。
こつこつと丁寧に経験の石を積み続ける、そん姿を、横顔を、まなざしを、努力を、誠意を、当然のように真摯に注ぎ込む熱を見てきたよ。
自分がやると決めたこと。そのために必要やと思うこと。
どんなときにもブレず、折れず曲がらず、ただただ丁寧に、ひたすら反復して、継続する。何に対しても手を抜かへん。
むくわれなくても。
どんなときも――誰になにを言われても、
その姿勢は変わらない。
北信介は、北信介であり続ける。
生きていく中で無数に交わす自分との小さな約束ごとを、毎日毎日、粛々と守り続ける。
ゆるぎなく、
ひたすらに純度の高い、
透き通った熱意。
すずしげな表情。
しずくの、滴り落ちるような声。
穏やかな水面みたいな瞳には、
ちいさな炎がしずかに灯る。
心がざわついた。
気付いたら、底のない穴におっこちていた。
もう、伝えてしまおうか。
――いや、あかん。
けど、わかってほしい。
――それやのに、なんで。
気付いてほしい。
――こっち、見てくれへんかなあ。
北が、私を、見てくれたらええのに。
みょうじなまえに、気づいてくれたらええのに。
ずっと見とるよって、見てたって、見てたいって、言ってしまえばずいぶんと楽やったのに。言わんと気づかんなこの男はって、私が気づく方が早かった。とっくの昔に気づいとった。わかってたよ。北が、私に、これっぽっちの興味もないんもわかってた。あんなに色々やったのに、全然視界に入らんかった。
ほんまはずーっと言いたかった。
目ざといし耳ざといはずのあんたが、なんで気づかんねんって、飛びかかって、のしかかって、胸ぐら掴んで言いたかった。なに見えへんふりしてんねん、なんで聞こえんふりするんって問いただしたかった。
ずっとずっと言いたかった。
私を見てって、
何度も何度も言いたかった。
――――言うてしまった。
あん後大変やったな。わんわん泣いて、そしたら北も泣き出して、ふたりで一緒に泣いて、泣いて、泣いてた、服がびしょびしょで、メイクもはがれて、まぶたが腫れて、鼻水がすごい出て、それでも泣いて、泣いてたら、お婆ちゃんびっくりさせてしもたもんな。ふたり、ひっついて、子どもみたいに、いっぱいいっぱい、泣いたもんな。手とか、おでことか、肩とか、鼻とか、くちびるとか、くっつけて、ぼろぼろ泣いたな。はずかしい。ああ恥ずかしいあんな。せっかくせっかく、ニュージェネレーションみょうじに進化したはずやったのに。なにあんなぶざまな。
『好きや』
――けど、でも、むくわれたな。
『みょうじが好きや』
ぽぽっと頬に熱が灯る。
そう。
そうやねん。
なんと。
私の恋がなんと。
叶ってしもたらしいねん。
ぽぽぽっと全身へ広がる恋の熱。
わからん。
なに。なんで?なにがどうなって?
わからんけど。
全然ちっともさっぱりわからへんけど。
――俺と、付き合うてください。
目玉もまぶたも鼻の頭もほっぺたも真っ赤にした北が、指先をつかんで離さんまんま、おでこをひっつけてそんなことを言うので、北信介に片思いを続けてきたこの女は、そらもう、ますます泣くわな。ますますぶさいくな顔を北にさらして、それやのに北は離してくれへんから、私はどうにか隠れようとして、結局北の腕の中に頭を隠して、わんわんと泣きじゃくった。
――なあみょうじ、付き合うてくれる?
――わ、わた、私、私が、どんだけ、どんだけ、あんたを、好きや、ったと、思とんねん……!
――ふふ。うん。付き合うてくれる?
――す……、
――す……?
――すえながく、おねがい、しますぅ〜……!!
ひとが、感動で、涙を流しているそばで、二人分の笑い声が聞こえて、背中に回る腕が、頭をなでる手のひらが、ひっつけられた頬が、くちびるが、胸板が、どこもかしこもあったかくて、熱くて、あっという間にとけ落ちてしまいそうな心地やった。
――そうしてどうにかして落ち着いてみれば。
『こっち向いてや。顔見せて』
――北の声がふわふわとくすぐったい。
『これから、よろしくな。恋人として』
――北のまなざしがふにゃふにゃにやわらかい。
『そんな泣いて。目ぇとけてまうで』
――じかに伝わる北のぬくもり。
『そん顔は、うさぎやなあ』
――あどけないそのえがお。
なにそれそんな顔するん、北私にそんな顔するん?
『じゃあ、不動産屋はなしということで』
『いや――不動産屋は行く』
…………、
……………………。
あれやこれや思い出すと非常に情緒がアレな気分になるので結果だけ言うと、結局不動産屋には行った。なんなら物件も決めてきた。駅近2DKの部屋を、それはもうしっかりと。契約書に署名捺印もした。初期費用の説明も受けた。みょうじなまえ、ただいま保証会社の審査待ちです。そしてついでに、入居できるまでの最短約二週間、寝泊まりできるホテルも確保しておいた。私は中々にデキる女やねん。お昼時と夕方、着信が入っていたようで全て終わらせたあとに掛け直すと北が進捗を聞いてきたので現状を正確に過不足なく伝えたところ、数十秒の沈黙ののち、現在地を尋ねられ、カッフェでタピオカをキメてると言うと三十分も経たずやってきた北にこんこんと説教をされた。特に、新居が北ん家からまあまあ離れてる駅近にあるという事実を伝えたあたりで、私に向けるまなざしは氷点下を突破したように思う。なんて冷たいまなざしや。朝のあの、とろっとろに熱々なひとみはどこへいった?どこやったん?駅近ええやん。北ん家もバスで行けんことないし。免許とれたら車でたぶんニ十分ぐらい?やと思う。と私は思ってたんやけど。恐ろしかった。私らの周りだけ、人、はけてしもたもんな……。ええ営業妨害やったな。あまりの恐ろしさにタピオカ喉に詰まらせかけたもんな。恐ろしかった。ただまあ、私も決してあさはかな考えで部屋もホテルも決めたわけではないので、釈明をしようとしたところ、思いのほか北が、眉を下げるので、私も感情的になったわけや。
『俺を、迷惑と思うなら言うてや』
とか言い出すので。
いったいお前は今まで私のなにを見てきてんと思うやん。
ムッカー!となった私は、向かい合わせの席から立ちあがって、隣へ乱暴に腰を落とすと、北が何を言うより先に、そのシュッとした無駄な肉の少ない頬を両手でサンドしてプレスしてやった。
『アホか!めっちゃくちゃうれしいわ!!!』
――そんで肌すべすべすぎでムカつくな!
目をまん丸くした北がポカンと口を開いてまぬけの顔をする。
『この場でいますぐ飛び上がって叫んで踊り出したしたなるぐらいうれしいわ!ホームでアローンなカルキンくんみたいにな!』
『カルキ君……』
『嘘やろ、知らんかあの名作を……?』
今度一緒に観ような。
――いやそん話やなくてやな。
北やで?北が。あの北信介が。
私と一緒におりたくて、泊まってほしくて、付き合いたくて、私にさわりたくて、言葉を重ねて、さわって、笑って、泣いて、ときに意地悪をして、私のことを思って動いてくれるんがうれしくないわけない。泣くほどうれしいわアホか!片思い歴何年やと思ってんねん!うれしないわけないやろ!なんならゆうべホテル帰ったあとひとりでちょっと泣いたわ!うそ!わんわん泣いた!大泣きや!
『……せやったら、なんで?』
『心臓もたんねん!』
こっちは北がなんかするたびに、北がそこにおるだけでビーピーエム二百よゆうで超えますけど!?
『急にそんな、なんもかんもされてしもたら、あかんねん。こっちはなあ、辛酸なめた三年間からの〜、まったく会わへん五年からの〜で今やねん』
『辛酸て』
『供給過多です!!!!!』
そこまで一息に言うてようやく、胸のつっかえがすべてなくなったような気がした。肺に溜まる空気がさっきよりうまい。呼吸を続けると、目の前でまぬけのまんま目をパチパチとさせる北の姿もよく見えた。言いたかったことを言えて少しばかり落ち着いた。せやから、と声を落として再び口を開く。
『……せやから、ちょっとずつがええ』
――――うれしいけど。
なんもかんも放り出して抱きつけたなら、それはそれは幸せなんやろうけども。
『ちょっとずつ、北と時間を重ねていきたい』
私の心臓を少しは慣れさせたいし、一緒に過ごしてきた今までの時間のほとんどを、ただの部活仲間としてしか費やしてこんかった私と北やから、そういう目ぇでお互いこれから接していって、いいところだけじゃなくてよくないところも見せ合って、ケンカもして、進んでいきたい。空白の五年間もあって、今はお互い美化百五十パーセントになってる気もするし。特に北には思い出補正というもんを少なからず疑っていた。だっておかしいやん。ひとが帰国してみたら急にこんな、好きですとか言われて抱きしめられたりさわられたり。学生時代の私をふびんに思った尾白が催眠でもかけたんとちゃうかなとまで考えてまう。
『思い出補正も催眠もかかってへん』
『それをこれから証明するんや』
『はあ』
『催眠術師・尾白アランの疑惑を晴らさんとな』
『お前らやっぱり仲ええよな……』

というわけで。
今日の私は北とお付き合いをしているのだった。
せやから車の中であんなことになったんも、こんなことしたとしても全部合法。合法です。無罪です。ただお付き合いをはじめて一日と経たんうちに、ああいうことをされるとは、まるっきり思ってなかったけど。北は案外手が出る……。新たな北情報に心躍る余裕はみじんもない。ただ合法は合法ですんで。こういう関係を世間一般で何て言うか知ってるやろか。そう、恋人。恋人同士です。結局あのあとはタピオカどころやなかったな、と当時を思い返してかぶりを振る。

『それで、お前の作業場の件やけどな』
話も一段落ついたところですっかり気の抜けた茹でダコとなった私に、何食わぬ顔で北が先制攻撃をしかけてきた。
『うちを、お前のアトリエにしてみいひん?』
まったく思ってもみないところから、第二の交渉の火蓋が切って落とされたのだ。
昨日今日とですっかりグズグズになってしまった私のしょぼい脳みそごときが、北の正論、一見正論に思えるように道理というもので包められた言い分に敵うわけもなく、怒涛の勢いで畳みかけられる理由理屈によって、私もなにかおかしいと思ってしばらく抵抗を続けてみたものの、最終的には持って生まれた北の才能『眼力』によって頷かざるを得なくなった。なにが、みいひん?や。ほぼほぼ、強行突破やないか。その一部始終とまではいかないが、ほんのわずかをかいつまんで抜粋すると、おおむね以下のとおりである。
『引っ越しまで二週間はあるんやろ?』
『か、貸しスペースを探します、ホテルの近くで』
『いくら何でも二重三重に金かけすぎや』
『必要経費やし……』
『ええかみょうじ、そういう丼勘定がな』
『お金のことは!ええねん!』
『……ここらへんで借りるつもりやろ』
『そら、ホテル近いからな』
『仕事も寝泊まりもこっちでされてしもたら、滅多に会えんやん』 
『…………せ、世間一般の』
『世間一般は知らん』
『北、私達は大人やねんで』
『嫌や。毎日会いたい』
『…………』
『…………』
『…………』
『……二重三重に金かけて、手間までかけて場所移す必要はないやろ。必要な経費でも手間でもない。俺はもうお前の彼氏なんやろうが。彼氏を頼れ』
どうせ、最終的には、今生ずうっとうちで絵を描くことになるんやから。一緒やん。笑ってそう言われたのがトドメとなった。今でも思い出すたびに顔が火照ってくる。嫌やとか北が言うんずるいと思わん?ずるない?ほんまに??
『……送ってくれてありがとう』
『朝、迎えに行くから』
『またそんな……ええよ。バスで行くから』
『四時台バスないやん。五時台も二本しかあらへんし、乗り遅れたら大変やろ』
『六時台に行くわ』
『五時にホテルに着けばええやろ』
『話聞いてた?』
『まいにち、行くからな』
『やめて怖い』
『怖ない』
『怖い!』

ぶるるっ。と背筋を襲った謎の震えに思考を晴らす。
座布団とちゃぶ台を端の方へ動かして、大きく空いたスペースに手持ちのラグを少しずつ重ねて敷いていく。オレンジやライトグレー、ブルー、グリーンなど色鮮やかなこれは旅先で仕入れたもので、染色も機織りもすべてひとりの職人が行っているという美しい手織物。色だけでなく厚みや重み、肌触りが妙に気に入って購入したのだ。ラグを敷いたところにいくつかのキャンバスを立て掛けていく。何も描き込まれていないまっさらなキャンバス。見てるだけで、ここ数年でインプットしてきたものと数日で駆け込むように頭に詰め込まれたものが次々と浮かんでくる。頭を振って、折りたためるイーゼルも運んで設置した。クロッキーやスケッチブック数十冊と、木炭や絵筆、ペインティングナイフなどの画材、クリーナーや筆洗器、石鹸やウエスなどを画材用の鞄から取り出してここやと思うところに一旦置く。絵具のデカ箱もドーンと鎮座させた。筆を休ませるケースや色を置くパレット代わりのロール紙、出るわ出るわでスペースは瞬く間に多くを埋められてしまった。久々に全部出せたなあと思いながら、貸倉庫に突っ込まれているであろう私の荷物の中にワゴンとかあったっけ。なかったらどっか安いところで買わんとな、ある程度収納計画立てとかんと、この広い部屋もすぐに絵で埋もれてしまう。あとで色々と確認せなあかんな。現状でき上がった作業部屋を見下ろして、ひとつ頷く。
うん。
ええアトリエやわ。


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