北のお部屋の話をしよう。
一般的な六畳一間の簡素な和室で、入口の引戸を引いて中へ入ると、部屋の奥側に腰窓があって、垂直方向の壁にはベランダへ出入りできる大きな窓がある。毎朝起床した北は、布団をベランダで干してから洗面や食事をしに一階へ降りる。そして戻ってきたら中へ入れて、折り畳み押入れへしまう。毎日ちゃんと朝の太陽の光と風を採り入れているところが素敵だと思う。
室内にある家具といえば、木目の美しい書机と小さめの本棚がひとつ、壁沿いに置かれている。西に面した腰窓からは強烈な夕日が調度品を焼きそうなものだけれど、障子窓が内側に設置されているので、光と熱を和らげてくれて適度に明るいし、夜はここから月が見える。タイミングが合えば、ここで書き物をしている北の背中を見上げながらお月見ができるという風情ある角度となるからお気に入りだ。私は寝転がっている設定である。 机と同じく背の低い本棚には、農業に関する本や経営、経済関連の書籍がちらほら。その他の仕事に関係ない本や大学時代のノートなんかは押入れの下段にまとめているらしくて、高校以外の卒業アルバムを私が強請った時はキャスター付きの低い本棚から取り出してくれていた。座椅子が元々ひとつ置かれていて、私がここでお世話になるようになり、気が付くともうひとつ増えていた。
押入れの中には先ほど挙げた寝具と本棚、それと衣装ケースが三つ、雑具を入れているという箱がいくつか。あとは鞄や扇風機、ヒーターなどが、それぞれ出し入れしやすそうな位置に整然としまわれていた。
こまごましたものがほぼ押し入れに入っているからか、北の部屋はとても物が少なく見える。いや、実際さほど多くはないのだろう。ものの仕分けが得意な北は、いつか使うかもしれない、と捨てるのをためらうなんて感情とは無縁そうで、でも思い出を必要としないわけでもなく、そこらへんは絶妙なバランスで自分のものを整理しているらしい。まあそもそも判断に困るような雑多なものを、あいまいな動機で購入することがないからかもしれない。とにかく部屋の中にあるものはきちんと整えられているわけで、だから私たちは六畳一間のこの部屋で、毎晩ひろびろと寝ることができているのだった。

なぜ急に北の部屋について語ったのかというと。
机がひとつ、増えていた。

「えっ?」
一歩お部屋に入った姿勢のまま声を上げた私に、ちょうど机に向かっていた北が振り向いた。
「どうしたん、なまえちゃん」
「いや、え?」
「うん?」と北が首を傾げた。
そのあどけない不思議そうな表情に、なんやろうもしかしたら見えてへんのかな、私の幻覚?と思いながら、それ、と指をさす。
壁の中心に置かれていた北の机が少しずれて、もうひとつ同じようなサイズでおんなじような仕様の書机が横並びに鎮座している。隅に寄せていた座椅子までそこへおさまって、なんだか元からそこにありましたよっという雰囲気を醸していた。私もうっかり見逃しそうやった。
「ふえてる?」とまで音にすれば、ようやく北も「ああ」と頷いた。
「ええやろ」
「うん。広なったな」
「これなまえちゃんの机やで」
朗らかに笑い、北が言った。
「はい?」私は固まった。
ふたつ仲よく並んだ揃いの設え。その片方を埋めた北が、目を丸くして立ち呆ける私を導くように手を差し出した。そして反対側の手で、空いた席を指し示す。
「なまえちゃん、ここ座り」
「…………」
「おいで」そのやわらかな声に足が動く。北のところまで数歩近づいて、こちらも手を伸ばす。指先がちょんと振れたところで握られた。
ここやで、とその声で再度、隣を示すので、このひとに抗えない私は座椅子にお尻を下ろした。
「隣同士やな」
指先を握り込んだまま、北が口を開く。
とんでもなくやさしい目をしてこちらを覗いてくるものだから、つい目を逸らしてしまう。
「これ、これどうしたん……」
「昨日、オトンが作った」
「北パパが!?」
思ってもみない言葉に重ねて驚いた。
「日曜大工好きやねん」と北はいくつかこの家にある家具の名前を上げた。北家の子供は全員北パパに机を作ってもらったらしい。日ごろのんびりと穏やかな北パパの意外な趣味が発覚して「すごいな」と語彙力の乏しい感想をこぼした。
昨日はちょうど外出していて、夜も自宅に戻っていたので、そんなことをしていたとは知らなかった。というか、え?
恋人のお父さんが、息子の恋人のためにわざわざ机を自作してくれたん?
そんでその机を息子のお部屋に置くの?
「…………え???」
「これでなまえちゃん順番待ちせんでええやろ」
いや――たしかによく借りとったけども。
ええんやろうか。
「棚も増やしてもらった」
「ほんまや!?」机のインパクトが大きかったからだろう、こちらは言われてはじめて気がついた。
北の書机の隣にある本棚も、よくよく見れば増設されていた。これでなまえちゃんの荷物しまえるで、と北が無邪気(のん気)によろこぶ。まだなにも置かれていない本棚にはやはり私のものを置く予定のようだった。
「ええよ私、そんな」
「しまう場所がないとなまえちゃん、散らかるの気にして持って帰ってまうやろ」
「置いて帰って、って言うとるのに」とやわらかく刺してくるのは意図的やろうか。北の私的な空間が乱れるのが嫌で、衣類やらスキンケア類やらは極力鞄で持ち込みの形をとっていた。衣類に関しては洗濯をさせてもらっているので、乾けばその日持ち込んだ分だけ持って帰るといった具合だ。私は現状に十分満足しているけれど、北は違ったようだ。
「私がしょっちゅう泊まりに来てるばっかりに……」
「なんでそういう言い方をするんや」
とにかくこのような立派な贈り物をされて、驚きとうれしさと申し訳なさで心中めまぐるしかった。なんやろうか、ブザーとかおもちゃとか洋服とか指輪とか、これまで北にもらってきたものとはまた違う部類の感動で胸がくるしい。趣味とはいえ手ずから製作してくれた北パパにも、それらを当然のように自分の部屋へ置いてくれる北にも。
空いている手で、天板の美しい木目をそっとなぞる。黄色みを帯びた赤褐色のなかで、大きなカーブを描いた年輪模様が広がり控えめに光沢を放っている。すべすべや。手触りが気持ちええし、北のそれと同様見た目にもきれいに仕上がっている。とても趣味の日曜大工でできた代物には見えなかった。
「ええ欅や」北が満足そうに呟いた。
欅なんやと思いながら、まだ見慣れぬ心地でじっと私の書机を見つめる。綺麗なコの字型の形状の中に三段の引き出しがおさまっている。それだけのとてもシンプルな机。シンプルだからこそ、ビスのひとつも傍目に見えないところや、引き出しが取っ手の代わりに指を引っかける穴が空いているところが上等な感じのする。引き出し部分は移動できるので、足をおさめるのに窮屈なら机の隣に出してもいいらしい。芸が細かい。
「すごいな北パパ」
「せやろ」北が嬉しそうに笑う。誇らしげな表情が愛くるしく、いとおしい。
「ええんかな、私こんな……」
「ええやんか。仲良く使おうや」
「また北は、そそのかして」
「なまえちゃん、前にアトリエの棚、平日に自分でちゃちゃっと作ってしまったやろ。オトンそれ聞いて残念がっとってん」
「そうなん」はじめて聞く話にこれも驚いた。
アトリエの押し入れや板間部分は画材や作品の収納に使わせてもらっていて、それらを整理するための棚や仕切りなどは自分で簡素なものを作っていた。そういえばおばあちゃんが「言うたら作ってくれるで」と言っていた気がする。あれは北ではなく北パパのことだったという。
「……北ほんまにええの?北のお部屋狭なるよ」
「ここは俺となまえちゃんの部屋や」
「…………」
それはいささか早い気がしますけど。
「ありがとう。使わせてもらいます」
「うん」まなじりを下げて北が笑う。
「隣の席の北くんや」
「ほんなら、隣の席のみょうじさんか」
「ぐう……」唐突に高校時代の北が戻ってきて心痛が襲う。いや、私の思いつきに乗っかったんやろうけども。大人になってから、北と机を並べることになるとは思ってなかった。
「私、北とおんなじクラスになりたかってん」
「そうなん?」と、乙女心を微塵も理解せえへん男は首を傾げる。
「毎年北のクラスメイトを呪ってた」
「過激やな」
「一回もなれへんかった……」
「みょうじ文系やったしな」
「選択教科も一回もかぶらんかった」
「そういえば、そうやな」
「北と日直ができる女の子に生まれたかった」
「えらい物好きや」
「ちょっとでもあんたと過ごしたかったの!」
のほほんと言う北にかちんときて、本音の根っこのところを引っ張り出して声を張ってしまう。
北は驚いたように目を見開いて、
「そうか」と笑った。
ぐうう。大好き。

「あんたそれ、取り込まれかかっとるやん」
場所は大阪中之島。
堂島川沿いの美しい景色を眺めながら、中央公会堂や府立図書館ほか歴史的建造物を求め散策でもしたいこのエリア。リバーサイドの遊歩道に面したオープンテラスのあるこの式場では、なんと水上で式を挙げられるらしい。ガラス張りの温室のようなチャペルを指してミサミサがどやっていた。屋根面は抜けているようだが天幕で覆えもするとのこと。ええなあコレ、当日が視界の見えへんほどの雷雨でも一応決行できるやんとエリリンが言ってしばかれていた。エリリンをしばけるのは彼女のご両親とミサミサぐらいである。
そんな場所にある結婚式場で、私とエリリンは明日に挙式を控えセンシティブなミサミサと共にウェルカムスペースの装飾に励んでいた。
「え?」私はアイビーをええ感じにテーブルへ巡らせるという作業の手を止め、一旦エリリンを振り返った。エリリンはそのまま新郎新婦のラブラブツーショ写真をハート型に配置するためのガイドをマスキングテープで貼っている。
「エリリン、私いま北パパが机を作ってくれたよっていう自慢話をしとったんやけども」
「なまえ、手ぇ動かして」
「いや〜あの手この手でなし崩しにしようとしてるん、こわいわ〜北」
「私やっと北の隣の席になれたの!」
「あんたはもうやられっぱなしになる未来しか見えんな……」
「なんてこと言うん!私ちゃんと頑張ってるし!」
「なまえ!ちゃんと手ぇ動かし!」
センシティブなミサミサに叱咤されて作業を再開する。アイビーにゆるく絡めるようにして、……もうちょっとやらかめにしたいな。
「ミサミサ、チュールやっぱりいる〜」
「黒い方の紙袋」
「はーい」指定された方の紙袋をあさって目的のものを取り出した。フェアリーライトの上からふわっとかぶせてアイビーはその上に飾るようにする。アンティークゴールドの額縁にセットされた絵や写真を適宜配置して、高さのバランスを見ながら他の持ち込み雑貨と組み合わせて調整していく。ミサミサはお気に入りのイケアで買いそろえたキャンドル(風)ライトをガラスのホルダーにセットして満面の笑みである。よかったね。今回ミールヘーデンまで使うしね。
「ええやないの。優しくしてもろてんねやろ」
ニコニコしたミサミサがそっと肩をもってくれる。
「親とは仲良くしといた方がええで」
「うん、優しいねんみんな」私は北家のみなみな様を思い浮かべながら首肯する。
「よかったなあ。あんた争いごとには向かんもんなあ」
ウキウキのミサミサが優しく微笑みを向けてくれて私は再度頷いた。
「甘いななまえ」そこですかさず差し込んでくるのはエリリンである。
「あんた、北なんかなまえの五十倍はあれこれ考えてるんやから。あんまりボーっと流されとったら、奴の思うつぼやで」
「お、思うつぼ……??」
「ええか?主導権は持ちつ持たれつが原則や。持ちすぎてもあかん、持たれすぎるんもあかん。恋愛はシーソーゲームやねん。握られっぱなしやと、うまいこと転がされて、二十代の女が持ってるうまい蜜全部吸い尽くされてまうわ」
「そんで、吸うだけ吸うて、ポイや」と呟く。どこでそんな恋愛観を習得したのだろうか、と突っ込みたくなるような自論を平然と言い「なあ、この段ずれてへん?」とガイドのチェックを求めるエリリン。うん大丈夫、と返したがミサミサは「壁の中心からちょっとずれとる。あと全体二センチ右や」と一切の妥協がなかった。セ、センシティブ〜……。
「北はそんなことせえへんよ」
「前に教えたやろ?夜のマンネリ防止のやつ。ああいうことでもええねん。とにかく、適度にあの仏頂面崩してやらんとな。なめられとったらあかんで。稲荷崎の女の名ぁ廃る」
笑顔があくどいです、とても……。
「なんで北にこんなケンカ腰なん?」
「昔あんたのために立てた作戦、ことごとく失敗に終わったから根にもっとるんやろ」
「そんな、エリリン!大丈夫やで、私まだちゃんとエリリンは恋の伝道師やと思ってる!」
「気遣いやめろやッ……!!!」
邪悪なエリリンをミサミサと穿ち、聖なるエリリンへ浄化させるという壮大な冒険を繰り広げながらも作業は進む。ミサミサの好きな真鍮のトレイにフェイクフラワーを挿したフラワーベースと小さなキャンドル(風)ライト、あとはミニブーケを添える。チュールの下のライトの位置を少しずらして置き、流木のオブジェも近くに寄せた。ここへ飾るようにセレクトした写真やイラストは予定通りセットできたから、あとはリングピローぐらいだろうか。
「ミサミサ、リングピローある?明日置けばいいだけにしておきたい」
「持って来てる。はいコレ」
丸太のトレイの上へ置いたのは、真鍮とガラスでできたヘキサゴン。その蓋を開けて、飛び出してくるような白爪草やスズラン、かすみ草といった白い草花に囲まれた中央部分にはめ込まれた、ふたつのシンプルな指輪。清楚で華のあるリングピローは、見た目に控えめながらもしっかりと存在を主張していた。――これはひとつふたつ、小花を添えるだけにしておこう。そっと花弁を降らして終えておく。
ミールヘーデンを飾る写真の配置に悩み続けるミサミサを呼んで、私が担当したテーブル上の仕上がりを見てもらう。ふんふんと顔を近づけて色んな角度からポイントを確認したミサミサが、顔を上げて私の手を握ってきた。
「わっ。なに?」
「めっちゃいい。ありがとう」
「……どういたしまして。私も大事なお式のお手伝いさせてくれてありがとう」
ミサミサが一瞬、形のよい唇を噛みしめたと思ったら手を引っ張られて彼女の胸に飛び込んでしまう。やわらかでやさしい匂いのする唐突な抱擁にわあっ!?と声をあげた。
「どうしたんミサミサ!」
「あ〜ほんま……ほんまもうあんたはも〜」
わしわしと手のひらで頭を撫でられる。
やわらかくってええ匂いで撫でられて、まあもちろん悪い気はしないが意味不明である。たまらずエリリン!ともう一人の友人を呼んだが、彼女は「なあこれで真ん中とれてる?」とあいかわらず壁を睨みつけていた。

「さ〜あ独身最後の宴じゃ〜あ」
「飲むで〜え!」
「なまえ覚悟しときぃや」
「諸々詳らかにしたんねん」
「既に色々つまびらかにされてるんですけど……」恐ろしい予告をされて、これ以上何をどうつまびらかにされるんやと身構える。
夕暮れ時、予定していた飾りつけを終えてフリータイムに突入した独身女三名は、リバーサイドの遊歩道をぶらぶらと歩きながらいささか開放的すぎる会話を流す。ふたりはこちらへ照準を合わせているようだが、私は説明下手なので、特に言葉でうまく表現できない北へのあれこれを根ほり葉ほりされるとこう、とてもじれったくなるねんな。胸が。
「私はエリリンの恋愛遍歴を聞きたいけどな」と自分の興味関心へ矛先を変えれば、ミサミサは「それもええな」と同意した。矛先が自分でなければそれでよいらしい。
「やめろや〜」とこちらは一転して、とても嫌そうに顔をしかめるエリリン。
「あ〜んな男の話なんかしたない〜」
「よ〜し伝道師の話聞くで〜」
「で〜!」
「や〜めろ〜!」
ふらふらと気ままに、時折もみくちゃになりながら、気持ちのええ風で髪を遊ばせては進む。歳月を経てちょっぴり大人になったわれわれが、けらけらと子どものように笑い、まっすぐに歩けず寄り道ばかりして、肩を抱き手を引き合って、夕日を浴びてキラキラと輝かしい川沿いを歩く。互いに独身最後の夜ということで、門限こそ早めに決めているものの各自友人と過ごすことにしたらしい。こちらが心配したくなる晴れやかなテンションで少し南下して、インスタを見て行きたくなったというレストランまで案内してくれた。
「おぉ。ええ感じやん」
「な!ここのラザニアが食べたかってん」
歴史を感じさせる重厚な建物の一階、店名の大きく描かれたガラス扉から店内へ入る。店内はシンプルなテーブル席が多く、冠にあるとおりのトラットリア。こういうお店に来るのも久しぶりだ。ローマを出てもう何年経っただろうか。なつかしさを感じながら案内された席に落ち着き、さっそくメニューを広げて話し合う。
「ラザニアこれやな」
「あ。ちょい待って飲みホあるやん」
「コース色々ついてるな」
「ラザニアあるって」
「パテもある」
「なあグアンチャーレってなに?」
「豚のほっぺた〜」
なんやかんやで結局飲み放題のコースを注文した。
三人の女性が姦しく話をしていれば、料理を待つ時間なんかわずかなもの。あれこれと楽しく会話していれば、すぐに料理が運ばれてくる。色鮮やかなサラダを頬張り、回答しづらい質問を流したり、生ハムの塩味とニョッコフリットの旨味を絶賛することで話題を逸らしたり、というのをエリリンは試みていたが、度重なる追求に観念したのか、やがて顔をしかめながらも話し出した。どうやら先月、お付き合いをしていた男性と別れてしまったらしい。
「も〜さあ、なんしかうっといねん。向こうと休み合わんのもそうやねんけど、こっちばっか休み取れとか言うしよ?そらこっちは別に事務職やけど、そういうんって対等とちゃうの?お前のあり余って消えかかっとる有休はいつ使うんや?そんで会っても仕事の文句ばっかやし。延々話を聞いたるとか性に合わなさすぎて無理寄りの無理!テレビ観てる時ずーっとしゃべってくるし。まだ話し足りひんの!?ドラマの声全っ然聞こえへんねや!あと人のトーク履歴覗こうとするんほんまマジもう無理。さっき誰とどんな電話しとったん?とか聞かれるんも無理。そのくせ自分が追求されると濁して不機嫌になるんとかもう人として無理」
「もう無理しかないやん」と茶々を入れつつ、わかるわ〜と頷いている。ミサミサは高校卒業後、三人の男性とそれぞれお付き合いを経て今ここにいるので、かなり共感できる部分があるようだ。最終的に人として無理と言われてしまったエリリンの元カレを見たことがないのだけれど、ここまでボロクソに言われてしまうと一度見てみたかったなと人並みの興味が今さらわいた。
二人の発言を聞きながらハムを頬張っていると、エリリンはじとっとした目で私を見た。
「あんたはええよなあなまえ。相手はもの凄いレベルの人格者や」
若干据わった声色を向けられて瞬きをする。
次の瞬間、私を呼んで微笑む北が脳内に現れた。
「ふふ」
「しばく!」
べしっ!と頭をはたかれた。
いたっ、と反射的に声が漏れる。
「なにをするん!」
「ええご身分やのぉほんま……」
「ドスがきいてて、こわいんですけど……」
「せやからあの男はやめとけって言うたのに」相手の男性と面識のあるミサミサがぼやいてフリッタを口に入れる。
「あんた年下と相性悪いんやから」
「ん〜。やって、グイグイくるからさ〜。試してもええかな〜って思ってんもん」
「あかんって〜。そろそろ本気で狙い定めていかんと……」
会話が完全にモテる女の発言やな……と思いながらレンズ豆のペーストをパンにつけてかぶりついた。やさしくトロトロに煮込まれた豆の旨味とパンの相性が良い。この味加減は日本人好みやなあ。
「もうしばらく恋はええ……」
「そんな弱気なこと言いなや」
「そうやでエリリン。エリリンやったら、きっとええひとと出会えるよ!」
「せやせや。私らみたいな旦那さんと出会えるよ〜」
「え〜もお出会う気力がないわ〜……」
「疲れてん私はぁ〜」しょぼんとするエリリン。
「もう出会いすっとばして付き合いたいな……」
「こらこら」恋の伝道師、落ち込み過ぎて乱心しとる?エリリンほど恋しているとやむ形無いんやろうか。
「ちゃんと出会おうぜ。それも楽しみやろ?」
「でも知り合いから行くんならアリやろ」
「まあそれはそう」
「ン〜。会社……は嫌やな。後腐れを考えると。大学とかサークル縛りでいくか……?」
「獲物を探す伝道師こわいな」モッツァレラをもちもち噛みながらミサミサが言った。バズーカ砲の発射口をグルグル回すイメージのアレである。それからしばらくウンウンと唸りながら知人と思われる人の名を呟いては打ち消して、を繰り返していたエリリンだったが、それもうまくいかなかったらしくでっかいため息を吐いてうなだれた。
「あ〜あ。どっかにおらんもんかな〜。優しくて、頼もしくって、おもろくて、見どころあるやつで、文句ばっかり言わんくて、貧乏やなくて、仕事とちゃんと向き合うとって、イエスマンやなくて、あとダーウィンとかちゃんと一緒に観てくれる度量のでっかい男!」
「結構あるな」ミサミサが突っ込んだ。
私も思った。
「あと私より身長が高い!」
「増えるし」
「これは譲られへん絶対に!」
こだわりがあるらしい。
あんたなあ、と呆れるミサミサをよそに私は出てきた要素を復唱する。
「エリリンよりもでっかい、優しくて頼もしくっておもしろい、見どころのある文句ばっかり言わへん貧乏じゃない仕事と向き合えるイエスマンじゃない、出会いを省略できてダーウィンを一緒に観てくれる度量のでっかい北以外の男……」
「おーい。最後最後」
「さすがにあんたから取らへんわ」あと北は身長が怪しい、と身長百七十三センチのエリリンが言い添えた。身長自体は北の方が高いが、髪型如何では見た目的に競るようだ。いや身長クリアしとってもだめですけど!?!?と心中反駁しつつ、私のメインの思考回路は即座に出てきたある人物に占領されていた。
「えっこんなん、尾白しかおらんねんけど」
「尾白?」とエリリンが驚いてこっちを向いた。
「尾白アランか!」ミサミサも食いついた。
「そうや。稲荷崎が誇る、世界の尾白アランや。むっちゃええやつやし、かっちょええし、頼りがいあるし。きっと北の次にええ男やで」
あー、とこぼして「ありやな」ミサミサが頷いた。
「まあええ男やわ尾白くんは。なまえと宮んズの面倒見倒しとったし。人がええわな」
「せやろ!」友人に尾白を褒められて一気にテンションが上がる。そうやねん、むっちゃええやつやねん尾白は!力いっぱい肯定すれば「あんたは懐きすぎやな」と苦笑するエリリン。
「ちゅーかなまえ的に宮んズはオススメせんの?」
「ん?んー。まあかわいい後輩やけどな」
「イケメンやしな」
「でもあいつら無茶苦茶やらかすやん。つよつよやし。エリリンをあいつらに振り回された挙句ちょっとでも傷つけられたらと思うと、安易にオススメはできひん」
ファンの子ら見てきてるやん?と続ければ「それは確かに」と同意の声。
「尾白やったら安心してオススメできるで!」
「私大耳くん派やったな〜」ミサミサが思い出したように呟いた。ビックリしすぎて凝視したら焦ったように「昔の話や!」と言い置く。な、なんや驚いた……。
「まあ大耳もええやつやわな」
「あんた高校ん時大耳に恨み言言うとったやん」
「そ、それも昔の話や!」
「あ〜あれな。大耳中立姿勢やったもんな」
「逆に赤木は北派やったよな」
「いやアレは北派言うより――」北と懐古するのとは違う視点から、稲荷崎時代の話にわっと花が咲く。こういう瞬間がとても楽しく懐かしい。濃厚なパテを舌の上で擦り風味を楽しみながら、グラスにはお手軽なワインを注いで。
「エリリン的には尾白どう?」
話を振ったが、最終的に男女どうこうの話でなくとも私はとにかく尾白が褒められたらそれでいい。そして解説するまでもなく尾白アランはええやつだ。単に私の中でエリリンの挙げた条件にどんぴしゃ合致する尾白が出てきたから、なにかしら一言もらえたらいいという心もちで聞いたのだが、エリリンはまじめな顔をして、うーんと一回唸った。
そして数秒。
首を振る。
「いやアカンな。一回誰かかまさんと尾白には行けん」
「どういうこと???」

明日の花嫁さんをしっかりと自宅まで送り届けたあと、エリリンとも駅で別れた私はぶらぶらと谷町筋を北へ上っていた。片道四車線もある道路を道行く車がかっとばしてまたたく間に追い抜いてゆくのを見送りながら、高層ビルとマンションの立ち並ぶ大通り沿いをちょっとずつ進む。若干足の感覚が浮かれポンチなのは先刻までの楽しかった時間の名残りやろうか。いやお酒か。頬の筋肉が勝手にゆるむ。ミサミサのお手伝いができて、エリリンにも会えて、三人でいろんな話ができてほんまに楽しかった。明日はミサミサが主役だし、その近くへ行き声を掛けることはあろうが(いや写真も撮りたい)忙しいだろうから、こうして先にゆっくりおしゃべりができてよかった。明後日からさっそくハネムーンやしな。一週間やて。豪華。楽しいやろうなあ。私も北とどっかしら行けたら楽しいやろなあ。北とおったら、どこでもむっちゃ楽しいやろうなあ。北と行くおでかけええなあ。ていうか北がええなあ。
なんて思っていたら、府庁のあるあたりまで上ってきた頃ぐらいやろうか。ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンが振動して着信音が流れ出す。北やな、と思って取り出し画面を見たらほんまに北やった。
「きたあ!」
『酔っとるな』開口一番に北が現状を把握した。予想しとったんやろうなとも思う。
「酔っとる!ワイン飲んでん!」
『今どこにおる?』
「ん〜。もうちょっとで、てんま!」
『楽しそうやな』
「たのしい!たのしかった!」
『よかったな』と言ってくれた。北やさしい。
心がきゅーんとときめきで満たされたところで再度北が名前を呼ぶ。
『聞いてる?』
「うん聞いてる!」
『俺今北浜近辺におるんやけど』
「えっすぐそこやん!なんで?」
『なんでってお前……』耳にあてたスマートフォンから、世界一好きな人のこえが近く聞こえて、足元がますますふわふわする。
『お前を拾うために決まってるやろ。あとオカンにチョコレート買って来いって言われた』
「ひゃ〜!」あまーいセリフや!
歓喜の声がしっかりと届いたらしい。『大丈夫かほんま』と気遣う声がかかる。
「だいじょうぶや!私はいま、無敵!」
『……ほんなら無敵のなまえちゃん。天満橋に確か京阪モールあったやろ。そこまで行けるか?わかるか?京阪モールや』
「わかるます」
『なまえちゃん、大通りを通って行くんやで』
「うんわかるよぉ」
『今どのへんや?』
「うーん。そくどうに、入りましたあ」
『どこで待ってるんやっけ?』
「けいはんモールやろお?スタバおってもええ?」
『ええよ。ほんなら、ちょっと待っとってな』
「はあい」ちゃんと返事のできたところで、通話は切れた。北の声、やさしかったなあと思い出してとてもしあわせな気分になる。これから北に、会えるんや!私の心は弾んだ。日は沈み、ぐっと暗くなってきたが、私の心はぽっと灯火がともり、つめたい風も火照った頬を冷やすのにちょうどよかった。
言いつけどおり、大通りから一切逸れることなく到着した天満橋駅。に直結している京阪モールの入るコーヒーチェーン店に入って注文したホットティーを受け取ると外のテラス席まで出る。空いている席に着いて温かいそれをちびちびちと消費しながら、かれを待つ時間ほど満ち足りた時間がこの世にあるやろうか。は〜っと息を吐いて、また飲んで、指先をカップであたためて、としていれば、ものの数分も経たないうちに「なまえ!」と待ち望んでいた声。
「生声やあ」
「うん?外におって、寒ないんか」
「ううん、ひんやりして、気持ちええ」
そう言うや否や、両側から頬っぺたを包まれた。
ほんわりと北の体温が伝わって、せっかく冷めかけていた熱がまたぶり返してくる。
そうこの手。これめっちゃきもちええの……。
「どうする?このまま車行くか、それ飲み終わってからにするか」
私のホットティーを指して尋ねる北。頬に触れたまんまの手に片手を添えてちょっとだけ堪能してから首を振って答えた。
「ううん、これ持って車のる」
「わかった」
「北はええの?せっかく来たのに」
「俺の用事はもう終わったよ」
「ちょこれーと買えたん?」
「うん」と頷いたあと、なんでかふはっと北がふき出したけれど、その理由がわからないまま手を引かれて立ち上がる。交差点で立ち止まり、青信号で渡り、中の道を数分歩くとコインパーキングに停めてある北の車に乗り込んだ。清算を終えた北が運転席へ入ると、ギッと音がして車内が揺れる。ちょっとえっちやなと思った。
「ん?どうしたん」振り向く姿もえっちである。
「むふふ」笑顔がこぼれて仕方ない。
わらうばかりで返事をしないので、ひとつ首を傾げて終わらせた北がさあ発進するかとエンジンを入れて操縦をはじめる。真剣な横顔がたまらなく格好よくて、動き出したあともじーっと恋人を見つめてしまう。
「なんやの」
北が唐突に尋ねて、やわらかく苦笑した。
「はずかしいん?」
「そら、そんなに見られたらな」
「ちゅうしたくなっちゃった」
「え?」
「なあちゅうしてもええ?」
「ちょ……っと、待って」前を向いたまま動揺する北。声の抑揚がちょっと乱れている。 私はかれに手を伸ばして腕に触れようと思ったが、運転中やとかろうじて自制する。その代わりに「きたあ」とあまえた声が出た。
「いや、あかん。ワイン飲んだんやろ、運転できんようになってまう」
「ちゅうしたいぃ」
「家まで待って」
「ちょっとだけや」
「帰られへんで」
「ええよ」
「結婚式出られへんで」
「それは、いやや」
「いややろ?家帰ったら好きなだけできるんやから、我慢して」
「むずかしい……」
「なまえちゃんならできるよ」
「かいかぶりすぎやあ」
「そんなことないよ。なまえちゃん頑張り屋さんやろ」
「がんばりやさんは、北やろ?」
「ははは」
また笑う。ちゅうは拒むが機嫌はええようでなによりや。ホルダーからホットティーを出して少し飲む。透明ではないからはっきりとはわからないが、中身はあと半分ほどあるようだった。
「あーあ。アイスにしとったら、北と間接ちゅーできたのになあ」
「うん?」
「ほら、アイスはストローのカップやんか?」
「なまえちゃんそんなにちゅうしたいん」
「したいよぉ私はいっつも」
「そうか。いっつもか」
「私はなぁやられっぱなしやないんや」
「うん?」
「北をぉときめきまみれにするんや……」
おかしいな。
ふふふとわらう声がとおい。
北がわらう声、もっとちゃんと聞きたいのに。
ふわふわとした心地のなか、ゆらゆらと揺られて、たのしそうな北のあどけない横顔がぼんやりとして、にじんで、そしてゆっくりと見えなくなった。なんにも見えなくなってしまったのをざんねんに思っていれば、ふとあたまに熱がのっかって。額にかからないようにやさしく撫でるので、私はすっかりうれしくなって、家についたら、私がおきたら、北にたくさんちゅうをしようと心にちかうのだった。


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