――きれいな朝やな。
意識が冴えて瞼を開き、身体を起こして布団から抜け出る。カーテンを開け、ついでに窓も開けると、朝の光と熱されていない風が心地よく部屋の中を通った。その心地よさに一瞬目を閉じる。気持ちええなあ、と思った。二階から見える景色はいつもとおんなじで、物心ついた頃からなんも変わらん、しいて言うなら昔と比べると自分がその風景の中に入り込んで仕事をするようになったというだけのことで、毎日この景色を見とるけど、天気がどうとか気温がどうとか以外はこれといって特に感じることもなく、ただ布団を干すためだけに必要なんがベランダという場所やったのに、今朝は肌にさわる風が、光が、景色がとてもきれいで心地のええもんやなと思った。すこしの間風景をぼうっと見つめて、それから抜け殻になった布団を抱えてベランダへ出る。いつものように干し終えて、窓を閉める。腰窓の方の窓へ向かい、換気のために開けておくのもいつもの手順だった。
パチパチと油の跳ねる音。
くつくつと鍋の煮込む音。
トントントン、とまな板を叩く包丁の音。
かすかに聞こえる生活音は台所でばあちゃんが朝食の準備をする音や。ギシギシと鳴る床を進んで、階段を降りていくと、少しずつ音が近くなって、そして、
「おばあちゃん……」
舌ったらずな甘い声が聴こえてきて足が止まった。
「あらあ、なまえちゃん。おはよう」
「おはよう…………」
慣れ親しんだ祖母のいつもの声と、その声が言葉を交わす。心地のいい風で少し下がった体温が、どんどん上がっていくのがわかった。
そう、まるでめしを食うた時みたいな。
身体ん中が活発になっていく感覚。
「もっと寝ててええんよ?」
「ううん、昔っから、朝は早いから……」
なんとなく起きてまうねん、と、まだ覚醒しきっていなさそうな声に小さく笑いが漏れた。めっちゃ眠そうな声出すやん。朝苦手なんか。朝練とか、合宿ん時とか、そんな風には全然見えんかったけどなあ。寝起きだとそんな声になるんか。穏やかな祖母の声と、その声が重なる音を、もっと聞いていたくなって、そのまま階段に腰を落としてしまう。
「朝ごはん、作ってくれてるんやんね」
「せやで。なまえちゃんごはん食べれる?パンとかの方がええ?」
「どっちも好きやから大丈夫。なあ、私手伝えることある?」
「あら。手伝うてくれるん?」
「うん。昨日は甘えっぱなしやったし〜」
「そんなんええのに。じゃあ、お箸並べてくれる?」
「うん」
この家に来たん、昨日が初めてのはずやのに、完全に溶け込んでんなと膝で頬杖つきながら思う。まるでほんまのばあちゃんと孫みたいや。
『信ちゃんがいつかお嫁さんを連れてきてな、その子と仲よくできたら、ばあちゃん嬉しいわあ』 いつやったか、そんな風に言われたことがあった。
確か結婚式も楽しみにしとるって話で、そん時俺まだ高校バレー真っ最中やでって思った記憶がある。ただ高校を卒業してから、成人してから、そういう話を再度持ち出されることがなかったんは、ばあちゃんもなんとなく気付いてたんかもしれんなとふと思いつく。忘れもせん、高校最後の卒業式。華々しい門出の日。憎らしいほどきれいな青空で、桜も咲いていて、めでたい式典にはもってこいの日やったのに、俺はそれまでの人生で一度も恥じることのなかった自分の行いについて、まさしく後悔することになって、それからしばらくは正直落ち込んでたな……。それは時間が経つとともに新たな日常に少しずつ追いやられていったけれども、昨日までは、そういう話をされたとしても、苦々しく感じるだけやったと思う。
「おかず持ってってくれへん?」
「はーあい」
――昨日の、あの瞬間までは。
「だし巻き一切れつまんでええ?」
「あかんよ。信ちゃん降りてくるまで待っとってな?」
「このにおいが……私をかき立てるん……」
「せやなあ、じゃあ、端っこのやつあげるからおいで」
「あ!おばあちゃんもつまみ食いやん〜」
「ふふ。これは味見やで、ほらお口あけて」
「あーん。……ん〜!おいひい!」
「そらよかったわあ」
胸がどきどきすると思ったら、時折きゅうと締めつけるような感覚が走る。だし巻きを食べて、破顔してるんやろう、恍惚を漏らすような声がして、晩めしを食べたときの表情が思い浮かぶ。久しぶりの煮物。めったに食べれんかった白めし。待ちに待った味噌汁。どれもこれもに一々感動する姿がほほ笑ましいやらかわええやらで、目が離せんかった。身体が勝手に、その姿を焼きつけようとしとった。今もそうやな。楽しそうな声を、聞き漏らさんとこうと、耳をすませてしまう。
「おばあちゃん天才やなぁ」
「何十年もやっとるからやで」
「深いな……!」
「なまえちゃんおもろいなあ」
二人分の笑い声が聞こえる。
ずっと聞いていたい音だった。
朝食を作り終えて、じいちゃんと神さんに水とごはんを供えた頃ぐらいに居間へ降りているんやから、いま現状時間に急いているわけではないから、もうしばらく聞いていてもええけども、「そろそろ信ちゃん起きてくるなあ」と自分の名前が出てきたのでハッとする。「そ、そうなん!?」上擦った声を出すみょうじに思い浮かぶのは昨日さんざ近くで見てきた真っ赤な顔だ。「は、早ない!?」自分を棚に上げて再び笑いが漏れた。
「ど、どうしよ……お婆ちゃん、私、どっか変なとこない?」
「変なとこ?」
「北に見られるにあたって、恥じた方がええところや!」
「恥じて。そんなところないで?今日もかわええよ。寝ぐせあるんもまた、かわええしなあ」
「寝ぐせ……!?」
ああこれは、そろそろ降りたら楽しそうや。
さっきまで座り込んでいたのは何だったのかと思うほど、立ち上がってからの足取りは軽くて、ものの数秒もしないうちに一階へ降り切った。「あかーん!」声のする居間へ向かっていると元気な声が聞こえる。寝ぐせがある言われて、焦って手さぐりで確認したけどよう分からんかったんやろうな。と思いながらも歩いていくと、もう入口やというところで引き戸が勢いよく開いたと思ったら、胸になにかがぶつかってきた。いや、なにかやないな。自分から飛び込んできたそれに、快く両腕を回す。
「痛っ、え?」
「走ったらあかんで」
「あ、北、ご、ごめん」
「おはよう」
「オハヨウ…………」
完全にオウム返しや。
目ぇ見開いて、顔が完全に固まっとる。多分いま頭ん中グルグルしてるんやろうな、というのがわかる。そして数秒経ってから、ようやく今自分が何されてるんかを理解したようで、細い両腕で恐る恐るといった風に抵抗し始めたので離してやる。朝から『離して』なんて言われたないしなあ。距離が空いたので対面する形になって、ばあちゃんの言うてたそれがわかって、笑った。
「え?えっ?なに、なんで笑ってるん?」
「かわええなと思て」
「か…………っ!?」
「どんな寝方したん?」
「えっ?――あっ!そ、そうや!寝ぐせ!もう!見んとって!」
「もう見た」
「忘れて!」鏡のある洗面所で直そう思たんやろうな。まだどこに作ったんかわからんらしく、まったく見当違いのところを両手で押さえつけて、あかんと言うたのに、走っていってしまった。それはそれは真っ赤な顔をしていて、やっぱり茹でたタコみたいやと思った。口に出したらまた怒られてしまうんやろうな。入口からひょっこり顔を出したばあちゃんが「信ちゃんおはよう」と笑う。今のやりとりはまあ聞こえてたやろな、と思いながらおはようと返す。
「なまえちゃんなあ、手伝うてくれてたんよ」
「うん。よかったな」
「ふふふ。今日は信ちゃんも先顔洗うてきたらええんとちゃう?」
「…………せやなあ」
ゆうべも暑かったしなあ、と続けると、ばあちゃんはまた嬉しそうに笑う。普段からニコニコとよく笑うひとだが、やっぱり昨日から殊に笑顔が明るい。どっか痒いようなそうでないような、妙な心地になりつつ、踵を返した。
水の流れる音がする洗面所へ行くと、そこにはやっぱりみょうじがいた。ちょうど顔を洗い終えたところらしく、鏡に映った彼女は目を閉じている。足音は聴こえていたらしいので、誰かが来たのは分かったのだろう、こちらに背を向けて目を瞑ったまんま「お婆ちゃん?」と声を上げる。ふらふらとさ迷っていた手にタオルを渡してやると、ありがと〜、と気の抜けた声で礼を言われた。
「ねえ昨日のお漬物も食べたい」
「ばあちゃんとえらい仲ええやん」
「ヒッ」
悲鳴て。
「俺とも仲ようして」耳元でひっそりと告げると、途端に呼吸を乱して震えだす。全身で感情を表現するのがみょうじ流だとでも言うように、彼女の反応は大げさだった。昔っからこんなんやったっけ。いやわからん、挙動はたまにちょっとおかしかった気もするけど、基本しっかりしたマネージャーという感じやったからなあ。こんなことをしたこともないし。タオルに再び顔を突っ込んで、もごもごとなにかを言っているが、よく聞こえなかった。
「俺も顔洗いたい」
「ドウゾ…………」
「すまんな」
「デハコレデ……」
ふらふらと、後ずさって、すぐに視界から消えてしまった姿に、ほんの少しばかり、やり過ぎたかもしれんと思いながら、代わってもらった洗面台で顔を洗うのだった。

「これが北家の朝…………!」
よくわからん感想と感嘆の息を漏らすみょうじに首を傾げつつ、いただきますと両手を合わせて箸をとる。ほかほかの味噌汁をすすって、炊きたての白米を口に運ぶ。隣で「お米……ウマイ……」と外国人のような感想を述べニコニコしているのを視界に入れて、なんだか心がスッキリとするような、こそばゆいような気持ちになる。それでも朝食は大切な一日の体力の源であって、いつものように、ゆっくりとよく噛んで、飲み込んでいく。
「お婆ちゃんすごい。おいしい」
「なまえちゃんは何でもおいしいって言ってくれるなあ」
「やってなんでもおいしいねんもん」
「嬉しいわあ。おおきに」
「おいしいは、作れる……」
そらばあちゃんが作っとんやから、作れるやろ。
「あとで作り方教えたろか?」
「いいん?あんな、このきんぴらさんとな、あと昨日のお漬物がな」
「きゅうりとお茄子の?まだあるで、食べる?」
「ええの!?食べるー!」
「ちょっと待ってな」
やっぱりばあちゃんにめっちゃ懐いとんな。めしにばあちゃんにニコニコしていてこっちはどきどきする。短時間で作ったとは思えんほど味の染みたきんぴらを咀嚼しながら、やっぱり隣を見てしまう。ばあちゃんもまたニコニコして、いそいそと席を立ち冷蔵庫からゆうべの残りの漬物を取り出して戻ってくる。ちゃぶ台の真ん中に置かれた漬物の器へさっと伸ばされる、深い茶色の木箸。お目当てのものを食べられてご満悦といった表情で、それを見るばあちゃんも嬉しそうや。いつもの朝食を黙々と噛みしめながら、ええなあ、とぼんやり思った。この光景をずっと見とけたら、それはそれは幸せなんやないやろうかと。
「煮物も教えて……」
「ええよ。今度は一緒に作ろか」
……でも、ええなあばあちゃんは。
こんなに甘えてもらって、ニコニコされて。
そう思って、そんな風に思った自分に驚いていると「そういえば」とみょうじが視線をこちらへ向ける。料理の話に一段落ついたのだろう、まるくてキラキラしている瞳が急にまっすぐこっちを見やるので胸がまたひとつ大きく鳴った。
「北のご両親って、農業やのうて、たしか会社にお勤めしてるんよな?」
「せやで」
「ゆうべお出会いせんかったけど、帰ってはるん?」
「俺ら寝てからしか帰ってこんよ。朝はゆっくり寝てるしな」
「あの子らも大変やなあ。靴は玄関にあったから、帰ってるで」
「……私これ、親御さんに無断で泊まってしまってんな……?」
「親御さんて」俺もう成人してんねんけど。これ確かゆうべも言ったな。というかお前もおんなじ年とちゃうんか。この家にはばあちゃんも居るというのに、彼女は一体なにをそんなに落ち込んでいるのだろう。さっきまであんなに元気に頬を染めて笑っていたのに、急に血の気が引いたような顔で震え始めた。
「気にせんでええよ」
「いやいや、自分ちに急に、一人息子に近づくどこの馬の骨とも知れん女が、知らん間に寝泊まりしたっていう事実が、なんかもう土下座したくなる」
「なんやその妄想」
「妄想ちゃうねん!事実やねん!」
「事実ちゃうわ。どこの馬の骨とも知れん、わけないやろ。身元のしっかりした、昔から知っとる堅実なお嬢さんや」
「お、お嬢さん……!?」
「お前の言う一人息子が連れて来とんねんしな」
「北がお嬢さんとか言った……」
「お嬢さん……」特に気にせんまま口に出した単語をうわ言のように繰り返すみょうじは、なにがそんなにおかしいのやら。ばあちゃんは楽しそうにこっち見とるし、なんやこそばいな。それから少しの間、無言で黙々と目の前の食事を平らげることに専念することにした。そのうちみょうじもわれに返るやろ。返らんかったら、そん時はまた、軽くおどかしてやるんもええな。今度はなにしてやろうか……。ということを考えながら、食べ進めていき、みょうじはみょうじで気付いたら再び頬をポポッと染めて、表情を子どものように綻ばせて、食事を再開している。少しは落ち着いたんやろか。
「……ほんまの話、気にせんでええんやからな。オカンたちは、まあお前んこと知らんでるやろけど、別にそんなん気にするような性格でもないねんから。むしろおもろがると思うで」
「せやったら、ええんやけど……」
そう返しつつも、唇をむっと突き出して(かわええ)まだどっか納得していなさそうな顔をするみょうじに首を傾げてしまう。ええと言うてるのに、なにがそんなに気になるんか。変なところを気にする奴やな。
「まあ八時にもなれば起きてくるやろ。そん時にでも一言声掛けたったらええやん」
「うーん、せやね。八時すぎなら……ご挨拶して、そっから出て駅行って……荷物ロッカー入れて、不動産屋行って、物件回って、でいけるか……。今のうちにホテル押さえとかんとなあ」
不動産屋。物件。ホテル。
不意に出てきた単語を頭ん中で繰り返しながら、空になった椀と使い終えた箸を置く。手を合わせて普段のとおりごちそうさまと言うて口元をティッシュで拭い、そして身体ごと隣へ向いた。隣の彼女は口が小さくてやわらかいから、自分よりも少量の食事でも自然とゆっくりになってしまう。残りわずかとなった白米を頬張る様子を無言で眺めると、すぐに気づいて顔を背けられてしまった。それでもなお視線を外さずに見続けていると、またもや真っ赤な顔をして「……なんやの」と、少しだけこちらを向いた。
「ゆうべもそんなこと言うてたな」
「うん?ああ、言うたな」
「……部屋探しなんかせんでええよ」
ちょうど頭によぎった言葉が、考える前にポロっと口からこぼれた。あ、出てもうた。と口を閉じたものの、出したもんは、出んかったことにはならんので。視界にはふたり、目をまんまるくした人が映っているわけで。そしてそのうちの一人は、全然まったくこれっぽっちも意味を理解していないような顔をしているので、ふうと息を吐き、今度は言葉を考えてから、口を開くことにした。
「ホテルなんかとらんでええし、不動産屋にも行かんでええ」
「元同級生、ホームレスになりますけども……?」
「……せやから。このまんま、この家におったらええんとちゃうって意味ですけども」
味噌汁へ伸ばそうとしていた小さな手がピタッと止まった。大きな目をこれでもかと言うほどかっ開いてこっちへ向けている顔は口の端っこに米粒がついているけれども、そんなことには全く気付きそうになかったので、硬直して動かないのをええことに、空いているこちらの手を伸ばして取ってやることにする。口の端を親指で拭ってやると、ふっくらと炊かれた米粒が付着したのでそのまま噛んだ。
「な…………!?」
「米ついとったで」
「な、なにを、言うてんねや……?」
「やから、米が」
「ソッチちゃうわ!いやソッチもソレでなにすんねんっていうアレやけども!ていうかソレなんで食べるん!?」
「ああスマン。次から返すわ」
「返……」すというのは、一体……?ぽかんとしたみょうじは首を傾げる。俺からしたら自明の理やけど、彼女には今一つピンとこんのかもしれへん。なんや身体中赤いけどな。ええから先に味噌汁飲んでまえ。と促すと、顔色の戻らないまま、ぎこちない機械のような挙動で椀を掴み、残りの朝食に手を付ける。その様子を観察しながら、俺は、このあとどういう風に話を進めるのか、思案することにしよう。さいわい、うろたえながら、時折むせそうになる彼女は、箸を置くまでに今しばらく時間を要すのだろうから。

「寝室とは別で、絵描く部屋がいるねんな?」
「うん」
「換気ができて、床は畳の方がええかもしれんと」
「うん」
「風呂とトイレは別で、水回りに清潔感がほしい」
「うん」
「築年数は経っててええ」
「うん」
「駅までの距離も別にええ。田舎が好き」
「うん」
「セキュリティも気にせん」
「うん」
「将来的に車が停められるスペースが欲しい」
「うん」
「うちや」
「う…………ん!?」
「ちょっと待って最後の意味がわからへん」朝食後、ばあちゃんのススメで、先に身支度をしてしまおうと歯磨きと着替えを済ませ、布団を取り込み、普段のとおり作業着に身を包んで再び階下へ戻ってきたのを、そちらも着替えの終わって、いかにも外出する気満々ですといった風貌のみょうじを視認して、そのきれいな格好にほんの少しだけ時間を忘れてから、手招きをして縁側に腰を据えさせた。彼女は先ほど言うたことを忘れたんやろうか。と思い、自分では選んだつもりで出した言葉だったが、今度はよりわかりやすさを意識して、一つ一つ丁寧に言葉を重ねたのだが、しかしそれまでコクコクと順調に頷いていた彼女の頭は、最後の最後、一番大事なところで理解できないと首を振るのだった。
「ちゃんと話聞いてたか?」
「聞いててんけどなあ……」
「じゃあ、もう一回最初っから言うからな?」
「お、お願いします……?」
そしてきっかり一分後。
「あかん……全然わからへん……」
「この説明の、どこがわからんのや」
「最後の最後で北の思考回路がわからんくなった……」途中まではわかってんけども、とどんどん小さくなっていく声と赤い顔。そしてせわしなく絡み合う細い指たちを眺める。ほんまにわからんのやろうか。なにがわからんのやろ。とこちらまで首を傾げてしまう。そんな俺の方をチラチラと見てくるみょうじの表情は晴れなかった。
「北、そろそろ仕事とちゃうん?」
「まだ大丈夫やし、それにこの状態でおちおち行けんわ」
「行って来てええってば」
「行って、帰ってきたらお前は不動産屋へ出かけてるんやろ」
「それはまあ……部屋を、探しますので」
「せやから――」
また最初っからや。
「うーん……」
「強情やな」
「北が頑固なんちゃう……」
「いいやお前やみょうじ」
「ええ…………」
「なんで悩むん?ええやん。うちに居ったら家賃だってかからんし、家事だって負担減るし、お前の好きなばあちゃんだって居んねんで。浮いた金は画材に使えるし、免許取るし車だって買うんやろ」
「そらなんでも金はかかるけど……。北あのな、私これでも、絵で収入得てんねんで?」
「知っとる」
「いや知らんやろ」
「知っとるて。ルクセンブルグの芸術賞と、スペインの美術展やろ?今年賞とったん」
あとコンペっていうんやっけ、あの海外の、ネットのやつ。以前知った情報を挙げていけばポカンとする顔。そしてすぐに、くしゃりと歪める。唇をキュッと結び、目尻に力を込める、その表情は、過去に何度も見たことがあった。これはいつ、どんな時にしていた表情やったか。せやけど、と答える声はその顔つきとは違ってどこか力のない。
「なんで知ってんの」
「雑誌やらネットやらに載っとったで」
「だってそんなん……」
「うん?」
「…………せや。せやし、私これでも一応そこそこ知名度あんねん。今抱えてる案件とか、コンクールとかあるしな。初の日本での個展に向けて準備していくし、仕事あんねん。描きたいもんもあるしな」
「そらええ事やな」
「うん。せやから」
せやからなあ北。
続けて何かを言おうとしていたみょうじを遮って、俺は、やったら尚更と声を出す。言葉を止めたみょうじは眉を下げて、やっぱり唇を引き結んでいる。なんやその顔。なんでそんな顔をするん。なんで頷いてくれんのやろうか。彼女にデメリットなんかないはずやのに。
「……もう一回言うで」
「もうええて……」
そしてさらに五分後。
「もうあかん……」
疲れ果てた声で呟いたかと思うと、ごろんと横になるみょうじと、その隣でお茶をすする俺。
「諦めんな」
「北が諦めてや」
「みょうじが諦めろや」
「ムリ。わからんまんま住まれへん」
「せやから、さっきから何回も言うとるやろ」何度言うたらわかってくれるんやろう。困り果ててしまう。自分では、言葉の限りを尽くしたつもりの説明も、全然まったくわからんと言われてしまうのだ。「……北が、なんか色々と理由並べて住まそうとしてるんは、なんとなくわかったけどな」ごろんと転がって、仰向けになったみょうじはまっすぐに俺を見上げる。少し間を空け、言われたことを理解した瞬間、なぜか、心が波立った。
「……けど、なんで色々理由付けて住まそうとしてるんかは、わからんわ」
「…………」
「それは、北が教えてくれへんかったら、私には一生わからんことやからな」
返す言葉に詰まる。
そんな感覚もはじめてのことで、なにかを言ってやりたいのに、言わなあかんというんは分かっとるのに、喉のところになんかが引っかかったみたいに、声にならない。口を開きはするものの、言葉にすることができない俺をしばらく見ていたみょうじはひとつ息を吐いて「朴念仁」と罵った。昔っから、よく言われてきた言葉だった。
「この言葉、よく北に言ってたな。昔は、女心をちいとも察してくれへん、鈍ちんって意味で、よく使ってた。――今は、少し違うな」
「…………」
「北は、自分の気持ちにも疎いわ」
「知っとったけどな」残念そうな、どこか寂しそうな目をしてみょうじが笑った。うっすらと膜が張ってきらきらしている瞳には眉を下げた俺が映っていて、腕を支えに近く見下ろすようなことをしても、頬こそ染めるものの、取り乱すほど慌てるようなことはない。それどころか、床に放り出された片手を上げて、そっとひとの頬に触れてくる始末だ。かっと顔が熱くなる。
「言うてくれんのなら、私は常識に、社会通念にのっとって動くからな」
「……社会通念」すっかり力の抜けた顔面の筋肉をなんとか動かして、やっと一言、言葉を繰り返す。
「身元のしっかりしとる、堅実なお嬢さんなんやろ。身持ち固いねん」
「…………」
「……北、あのあとすぐ部屋行ってまうし」
小さな小さな声でそう言われて、思わず手を伸ばした。だらりと放られているもう一つのてのひらにそっと指を絡める。「身持ち固いねん」みょうじは繰り返し言う。うん、と頷くと、ほんまやで、と念を押される。うん。わかっとるよ。わかっとる。先っぽだけ触れて、指を絡めて、それがいつの間にかてのひら全体を合わせていた。高い温度のそれは俺の手ですっぽりと覆えてしまうほど小さくて、熱くて、しっとりとやわらかかった。それに触れていると、ゆうべの幸せな記憶がゆっくりと、攫うように押し寄せてくる。
かっこええと言われて、
めちゃくちゃ、
とてつもなくやと言われて、
好きなひとからそう言われて、
浮かれん男がおるもんか。
――それもあんな顔をして。
ふわふわして。
顔が熱くって。
胸がどきどきして。
どうしようもなく触りたくなって。
髪の毛に触れて。
それだけじゃ満足できなくなって。
血色のよくて、ぷっくりとふくらむそこに。
生まれてはじめてこの腕にひとを閉じ込めたあの瞬間からもう、触れたくて触れたくて仕方のなかったそこへ、今度は許可を求める間もなく、自分のそれをくっつけた。
はじめての感触だった。
くっつくことで形を変える互いのそこは、互いのそれに合わせて弾んで、なじんで、吸いついて、離れない。その感触を認識した途端に全身がかあっと熱くなって、今までの比じゃないほどに、熱く熱くなって、何度も何度も、少しだけ弱めたと思ったら強くして、角度を変えて、何度も何度も、息が苦しくなってもそれを続けた。苦しそうに、薄く開いた相手のそこへ、無遠慮に舌を突っ込んで、頭がまっしろになったまんま、その中をグチャグチャにして、絡めて、ふたりでぐちゃぐちゃになった。夜の風でやさしく冷やされた肌が一瞬で汗ばむのも気付かずに、ただふたりで。ふたりだけで、こんなことをしてしまう。しばらくそうしていると、やがて、それまでジクジクと疼いていた身体の一部が、痛いほどにうったえ始めて、ようやく少し離すと、お互いに息も絶え絶えで、肩で息をしながら、顔中を真っ赤にして、その中でもひときわ赤く目立つそこは艶めいていて、無意識に唾をのむ。小さな手が途方もなくといった風に伸ばされてなんなく掴んで、しまうものの、主張する身体の痛みが、直視したくない自分の欲望を思い出させる。息をほんの少し整えて、ある意味で身体に毒なかのじょの姿を見つめて、口を開いて、息を吸って、そうして――
「すまんってなんやねん……」
そうしてなんとか絞り出した言葉は、こうして一晩経ってからかのじょにすげなく一蹴される。
「なにに対してすまんやねん。なに謝っとん。なにをどうしたことに対してすまんと思っとんねん」
眉間にしわを刻んで、唇を突き出す。欲しいおもちゃを与えられなかった子どものような顔をして、言葉を重ねる姿に、なんとも言えず、ただそれを見守った。ばつが悪いというのは、こういう気持ちのことを言うんかとどっか遠くでぼんやりと考えながら、ただそれでも触れているところは離れず、互いに熱を伝え合っているので、感情をつかさどる繊細なところを、ふうっとやさしく吹き込まれてこそばゆくなるような気分で、ひたすらにかのじょを見つめていると、やがてさらにむっとした顔をしたかと思うと次の瞬間、やっぱりまた笑うので、感情の落ち着く先がなくて、あっちこっちへ転がされて、すっかりまいってしまう。
「罪な男やなあ」
無邪気に笑い、鈴の転がるような声が俺をやさしくなじる。やっぱりいつまでも見つめていたいし、ずっと聞いていたい声だと思った。
胸がぎゅうと締めつけられるような感覚がくるしくも心地のよい。
「なあ北」
「うん?」
「ちゃんと言うて」
「…………」
「言うてくれんと、私は理解せんからな」
ダメ押しのように付け足された言葉。
勝てる気がせんかった。
こちらは初めて、どんどん、とめどなくわいて溢れてくるこの感情にあたふたしてるというのに。それを言葉にしろと笑って言う。なんて意地悪なひとなんやろう。どくどくと血の巡る音が鮮明になる。
「ちゃんと言うてや」
真っ青な空の下、
屈託ない笑顔で手を振る姿を、
一生目に焼き付けて忘れたくなかったこと。
今日がきれいで清々しく、
もっとも幸福な朝だと感じ、
それがずっと続けばいいと思ったこと。
声も姿も熱も匂いも存在も、
なんもかもをずっと一番近くで感じたいと願ったこと。そんな気持ちを言えと言う。
「ちゃんと私のこと見て」
ちゃんと。
「ちゃんと、ちゃんと、みょうじなまえを見てや」
小さい頃から、毎日毎日繰り返し向き合ってきた言葉と、今日もこうして向かい合う。
みずからの、胸のうちとも。
胸の奥がひどく痛む。
声のふるえたかのじょを今すぐにでも抱きしめてやりたい。やわらかなくちびるを噛みしめる、そんなことをやめさせて、自分が噛みついてしまいたい。腕の中にとじこめて、やわらかなぬくもりを胸いっぱいに吸い込んで、そこかしこにふれて、どこにも行かないように。もう二度と、ぜったいに、置いていかれへんように。そんな乱暴な気持ちを、かのじょに知られたくないと思うのに。
会いたかったと。
おまえに会いたくて、
会いたくて会いたくて恋しかったと。
この男は、おまえがいなくなってからすっかりぜんぶ気づいたうえに、恋しくて恋しくて仕方なくて、五年経ってもさっぱり忘れられず、いざ会うたら泣いて縋りついてしまうような、情けない男やということ。
ほんまは今も泣きたいこと。
全部全部、言うてしまいたいとも思う。
ちいさくて華奢な手のひらを握り込む。
さわらんといて。
泣きそうな顔でかのじょが言った。
そんなこと、言わんでや。
いやや。さわらんといて。
――――いやや。
私を、私を見てくれへん北に、さわられたくない。なんで、なんでわかってくれへんの。北のどアホ。なんで。なんで気づいてくれへんの。なんで。なんで。なんで。
なんでそんなにかなしそうな顔するん。
なんで。
なんで、指、ほどかんの。
私を見てや。
ぽろぽろと涙をこぼしてかのじょが言う。
――私を見て。私を見て。私を見て。ちゃんと見て。私は、みょうじなまえは、こうやったよ。ずっと前から、こんなやったよ。昔っから、ずっとずっと、こうやったよ。ずっとずっと、北でいっぱいやったよ。北のことばっかり見とったよ。ずっと。ずっとそうやったやろ。見てよ私を。ちゃんと見て。私を、ちゃんと見とってよ。
視界がぼやっとほやけて、淵から流れて、クリアになっては滲んでゆく。
力のない手のひらを、さらにぎゅうっと閉じ込める。まあるい目玉に、きれいな膜を張っては流れていく。それを見ていたいと思うのに、止めてやりたくて、でも自分のそれだって止まらなくて。どんどんぼやけてあふれていって。見えなくなったかのじょが見たくて覗き込む。しずくがかのじじょに落ちていった。
「――みょうじ」
「私を見て!」
「みょうじ」
「私は、私は、見とったよ。北のこと、見とったよ。ずっと、ずーっと、見とったよ」
「――うん」
そうか。
そっか、そうなんか。
――そうやったんか。
「わたしをっ」
「ごめんな。ずっと、気づかんで、ごめんな」
「さわらんで……」
「嫌や。離したない。好きや。みょうじが好きや」
「……うそやあ〜…………」
しゃくりあげて、くびを振るかのじょの身体を閉じ込める。
「嘘やない。ごめんな。好きや。好きや」
「っ、きた、きたあ」
「好きや。好き、好きやねん」
「ひっ、ひ、うっうぅ……」
「みょうじが、好きや」
眼球がじわじわと熱い。わあ、といよいよ泣きじゃくるかのじょを、抱きしめて、腫れぼったいまぶたをぎゅうと閉じる。ふやふやにぼやけたかのじょが視界から消えて、けれどやわらかい熱を感じる。呼吸が聞こえる。においが香る。鼓動が伝わる。そのことがこんなにも幸せで、しあわせでたまらなくなって、ますます熱がこもる。「う、」濡れて光るくちびるをうばった。しっとりとやわらかくて、しょっぱい。そこを舐めると「んん」かのじょはほんの少しだけ身じろぎをして、それからうっすらと瞳を開けて、またひとすじ、こぼれたものをそのままに、俺を見上げる。
「……ずっと、見とってくれて、ありがとう」
「…………きた」
「帰ってきてくれて、ありがとう。会いに、きてくれて――俺に、会いにきてくれて、ありがとう」
「きた」
「好きや」
「北」
「みょうじが、好きや」
こんひとのことが、好きや。
きっともう、一生に一度。
生まれてはじめて実らせた、
はじまらなかったふたりの、はじまりだった。


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