心地よいくらやみの中からふと意識が戻った。
両方の瞼はしっかりと隙間なく閉じているのに、完全な闇ではなく、どこかぼんやりと明るいのは、もうお日さんが昇っているからやろうか。明るい、どころかこれはちょっと、眩しいな。そう思ったと同時に身体はごろんと横へ転がって、視界をほんのわずかに暗くする。そしてそのまま腕を伸ばして、慣れた手つきで隣を――まさぐるのだが。
…………またおらへん。
隣を埋めるはずのあたたかいやわらかなひとが指先にかすりもしないことで、まだ目も開けないうちから気分が少し落ちてしまった。
きっとまた絵を描いているのだろう。
俺をここへ置き去りにして。
うぅん、と唸った音は濁っていて、ひどく不満げやと自分でも感じた。
こんな凶暴な獣のような音が自分の喉からいま出たんかと思う。
かのじょがそばにいてくれへんだけで、俺は今ふてくされているんか。
我ながらなんてわがままやろうかと自嘲さえしながら、重い瞼と身体を起こし、朝の光なんかよりもよっぽどまぶしい、光のかたまりのような笑顔を浮かべるそのひとを今日も探しに行こうと思って、ぎゅうっと眉間に集めていた力をやわめて、ようやく視力を取り戻さんとする。
一瞬ぼうっと白んで、日の光が照らした室内が徐々に鮮明になる。
かのじょの脱け出した空っぽの隣が映る。
――それと同時に、頬になにかが触れた。
「起きてる?」
ひそやかな声が楽しそうに揺れる。
それを聞いた瞬間――途端に瞼も軽くなり。
片方の頬をシーツにこすりつけた体勢をふたたび九十度転がした。
「うわっ」と声が慌てるのも構わずに、元の仰向けの状態に戻ると、天井の木目がいっぱいに映るはずの視界に、さかさまに映ったかわいらしいひとが半分ほど割り込んでいた。
「あっ起きた。起きた北、おはよう」
「…………なまえ」向けられるやわらかな微笑みに思考が追いつかない。身体を起こしつつ、かすれた声で名を呼ぶと、手を、頬に触れてきた手を退いては、なんでかまたわらう。
「おでこ出てる」と、自らの額を指さすので、はっとして前髪に手を添える。昨夜はさんざん汗をかいて、そのまま泥のように眠ってしまったために、湿った髪が重力に逆らえなかったのだろう。ふふっと大人びた、それでいてこちらを子どもでも愛でるかのような目で見てくるのだからたまらない。かあっと顔が熱くなって、直視できずに下を向く。
おはよう、と、こちらはどうにか言葉にできたところであるのに、今度は両側から頬を包まれる。
なにをと言わんうちに、あっという間に間を詰めてもぐり込んで無理やりに視線を交えたかのじょは、たったいま目のさめたばかりの男のくちびるをうばって。
「今日も私がいちばんや」
そんなことを言うのだから。
ゆるやかな目覚めとはほど遠く、泣きたくなるくらいに愛しい思いが胸いっぱいにあふれてきては、出て行こうとするやわらかな熱を力いっぱいに抱きしめてつかまえた。
わあっと驚きつつも拒まない、かのじょもかのじょである。求めていたやわらかがようやくこの腕におさまった瞬間の、なんと幸福なことやろう。ほそくてやわらかい首筋の皮膚を唇でやわく食む。くすぐったいわとかのじょは笑った。おしゃべりなその唇にもかぶりついて。ひゃーっと高く声を上げて、かのじょが身をよじる。ちいさなやわらかが、もぞもぞとうごめいて、ひっついては押しつけられ、離れてはたぐり寄せて。
ンン、とこもった声。
あまい。
息苦しささえ心地よくて、穏やかに眠っていた身体中の神経が揺り起こされていく。
それやのに、この図体はかのじょの華奢なからだを巻き添えに、敷布団の上に再び転がった。
「ひゃっ」
「なまえ……」
「な。なに。寝ぼけてるん……」
「なまえちゃんやらかい……」
「ちょっと、こらあっ」
それは叱咤というには、あまりにまろやかな声色で。やわらかい太腿の間をこじ開けて自分のそれを割り込ませた。脚を絡めて密着性を高め、触れ合う肌のやわらかさに浸る。
こらこら、と言いながら、しがみついてくるんやもん。こんなん、止められるわけがない。朝っぱらから全くもって節操のない。昨夜さんざん不埒なことをした後だというのに、このからだはすっかりもうこんな始末になって。
「もう北、あそんでんと……」
「なまえちゃん」
「なに?」
「勃った」
「はあっ!?」
「またっ!?」と再度声を荒げたかのじょは、にわかに腕の力を強くして、重なり合った身体の間に滑り込ませようとする。どうやら貞操の危機を覚えたらしいが、なんとも今さらな話である。
「そう、またや」肯定してその証左をかのじょの腰へあてがえば、びくりと跳ねる。
「あっ……相棒――っ!相棒――っ!」
「こら。そんなに大声立てたら、オカン達起きてまうよ」
「…………!」はっとして口を塞ぐなまえちゃん。まあ夜更けに帰宅して、朝俺が支度を終えて外へ出た後にようやく起きてくるといった生活を送っているふたりが、この程度で起きるとは思えへんけども。考えながらも口には出さず、おとなしくなったかのじょの、唇を覆う手のひらの片方を剥がして指を絡める。
「なあどうしよう」ひそっと声で相談すれば、みるみる大きな瞳の色が揺らぐ。
「ど、どうしようって……」
「こんなやと、外歩かれへん」
「……おさまらへんの?」
「おさまらへん。助けて、なまえちゃん」
乞われると、無下にもできないかのじょは真っ赤な顔で、眉を下げ、口をむぐむぐとさせて、何かしら言いたいことがありそうな顔をしつつも、絡んだ指を少し握る。
それが承諾の代わりだった。
緩む口元を自覚しながらも、かのじょの表情を楽しんでいれば、やがて何故だか、じとっと上目でこちらを見てきた。
「……お尻揉んでる」ぼそっと呟かれた言葉に驚いてしまう。
瞬きをして、口を開く。
「手が勝手に」
「そんなことある!?」
なんということやろう。
かのじょの腰のカーブを感じるように撫でていた手のひらは、いつの間にやらかのじょの尻まで到達して、胸部とは異なる弾力を自分の意識の外で堪能していた。この、ずっしりと重厚な弾力。指が食い込む、もちもちとした感触はここでしか味わえない。指摘されてからもついつい、もにもにと指を動かしてしまう。
「ちょっと北、揉まんといてっ」
「俺も困っとる」
「ダウトや!」
「はは」
せやから、はは、やあらへんの!とわめくなまえちゃんは、片手は自身の尻を揉み、もう片方は不埒な男の熱へ触れさせるのを、拒むどころかいっそう身をよじらせて、いまは弄っていないほうのふくらみを押しつけてくるのだから、この熱がいっそう昂ってしまうのも致し方ないことだと思うんやけどな。
「セクハラやあ」
「ハラスメントなん?」
暗に嫌やと思ってるんかという問いかけをしてみれば、
「……ちゃうけどぉ……」
かわええひとや、ほんまに。
笑いながら、その赤い頬に唇を寄せる。
ぎゅうっと瞼を閉じるかのじょのあちこちにそれを落として、すっかり覇気をなくしたかのじょの手を掴んだままの腕を、動かして自身の昂りを撫でさせる。
布越しのかのじょのちいさな手のやわらかが送る、もどかしい刺激に耐えかね、下履きを乱暴にずり下げてはそそり勃つそれを外気にさらす。はあっと熱を含んだ息がこぼれた。
すると、導かれるままになっていたかのじょの手のひらが、こちらの意思とは関係なく、おもむろにそれを握ってくるではないか。
「ン、ッ」望んでいた直の感触に思わず声を漏らしてしまう。
先端を指でなぞり、くぼみをしっかりとなぞって、やわく力を入れたり抜いたりして、竿をしごく。やや慎重に、けれど迷いのないその手つきは、これまで自分が教え込んだ経験がかのじょの中にしっかりと根を張っているのを感じさせる。先走りが絡まって、かのじょの手の動きに従いちゅこちゅこと卑猥な音が立つ。
それと自分の、欲にまみれた息づかい。
だらしない声を自分だけ吐き出しているのがいやで、かのじょの唇にかぶりつく。
こわばるように一瞬止まった指も、また動き出す。
はやさも強さも感触も、自分で動かすのとは違うその快感に身体が震えて涙がにじむ。
「ン、なまえ、ちゃ、ソレ、そこ」
「うん、これ、ここやんな?」
「うん、ンッ、ンン……!」
汗のにじむ額にやわらかが触れる。
「ええよ、きた」
そして、やさしく包まれる。
激しく、抽挿もどきの快楽を与えられるかたわらで、こんな、ひどいひとや、ほんまに。ほんまに。
かのじょのやわらかに顔を埋めて、ぐりぐりとより深く埋まって、情けない嬌声をすぼめ、かのじょのにおいを自分にこすりつける。
ええよ、と慈悲のことばを再度ささやいて、かのじょはほんのわずかに力を強めた。
「――ッ!」
それだけで、かろうじて引っかかっていた限界がこじ開けられる。
「――う、ッ……!」
薄く白い靄のかかったような意識のなかで、欲望が、解放される感覚がする。
唾液のついたかのじょの肌に顔を押し込めてその快感に耐える。
くしゃっと、乱すように髪を撫でる、恋人のみょうじなまえに「ええよ、ぜんぶだして」なんてそそのかされるままに、存分に精を放出した。

「……なーあー。北あ〜」
ぎゅうーっ!と。
ぎゅぎゅーっ!とかのじょを抱きしめて、寝起きでは浸ることのできなかった余韻に浸ること幾ばくか。呆れたようなかのじょの声が呼びかけてくるなか、こちらは胸いっぱいに収まりきらない多幸感に酔いしれる。かのじょの髪に鼻を突っ込み、かのじょのにおいを吸い込みながら、つかまえたかのじょのからだのやわらかを手のひらであそばせて、俺はいま幸せな気分でいっぱいだった。 朝から男のふしだらに付き合わされたかのじょに対して申し訳ないという思いも浮かぶが、しかしかのじょはなんだかんだ、腹をくくれば、こちらの予想を超えていやらしくなるもので、耳元でやさしく『ええよ』とささやかれたあの声を思い出すとぞくぞくと、わずかな快感が背筋を走る。
「きたぁ〜?」
「なまえちゃん……」
「うん?」
「むっちゃ……好きや……」
「…………調子がええねんから」
とは言うが、撫でる手つきのやさしいこと。
心地よい疲労感を覚えながらも、この腕の中にいるもののおかげで、今日も一日ちゃんと生きられそうやとぎゅうぎゅう抱きしめる。唇が触れるものに片っ端から口づけた。くすぐったいとかのじょはわらう。その力の抜けきったふにゃふにゃな表情をいまこの瞬間にひとりじめしているのだから、なんて贅沢なひとときやろうか。
「ん、ふふ。ちょっと北」
「なに?」
「私おなかすいた。ごはん食べたい」
「えぇ」幸福感に酔いしれるなか、この言葉はあまりに無慈悲や。
「えぇて」笑い混じりの声に耳を澄ませながら(笑いごとではない)、手を伸ばしてスマートフォンの画面をつける。すぐに表示された時刻を見ると、起床には少し早い。秋が深まるにつれ、空も白むのが遅い。外はほのぼのと明るくなりつつあるといった様子で、両親はまだまだ起きる気配もないだろうが、ばあちゃんは既に台所へ立っているのかもしれない。
「あんな。きょうの朝ごはん、鮭やねん」
「鮭か。ええな」相槌を打つが、内緒話でもするようにひそひそと話してくれるのがかわいらしくて心中それどころではない。
「しかもな、塩焼きやねん」
「うまそうや」
「せやんなあ!」
この小さくあたたかい口の中には既に焼き鮭の味が広がっているのか、くうっとたまらんっと言うようにして声を躍らせている。このひとの頭の中は、いまやすっかり色気より食い気のようだった。
少々、いや大分まだ名残惜しいが、仕方がない。
「ほんなら、準備せんとな」
心を決めるとともに口に出す。
そうするとかのじょは「うん!」と破顔した。
これやからもう、こんひとは。
頬のゆるみを自覚しながらも放っておいて、身体を今度こそ起こして敷布団から退いた。なまえちゃんも続いて起き上がる。窓を開けて、ベランダへ布団を干していく。外気が部屋に入り込むと、ひんやりとした朝の空気がばしばしと頬に当たり、夢心地から現実に戻ったような気分になる。はあ、寒いなあ。きゅっと目を細めるかのじょが脇から現れて、ともに外を覗いた。
「そろそろ居間にはカーペット敷く頃やな」
「わあ。それええな。お婆ちゃん、そろそろお昼寝寒いかもしれんし」
私あとで出しとくよ、と在宅(正確には少し違うがそのうちそうなるのだから間違いでは決してない)仕事のかのじょが申し出てくれるのでありがたい。日課の掃除のあとに敷いておいてもらえることになった。窓を閉めて、ごみの入ったビニール袋を手に部屋を出て階段を下りた。
まっすぐに台所へ顔を出すと、さっそくばあちゃんを見つける。
ばあちゃん、と声を掛けると、こちらを向いてやわらかく笑う。
「信ちゃん、なまえちゃん。おはよう」
「おはよう」
「おはよう!」
最後にひときわ元気な声が朝の挨拶を済ませて、かのじょはそのままばあちゃんと台所へ残り、まだ顔を洗っていない自分は洗面所へ向かう。途中、ひゃーっと楽しげな歓声がいくつもの壁を隔てて聞こえてきて、首を傾げつつ歯を磨き顔を洗う。さっぱりとした気分でそこへ戻る、その道すがらに届く、脂の軽く乗った、香ばしい匂い。秋やなあ、と感じるのはもう今年何度目やろうか。ぐう、と小さく腹が鳴って喉が鳴る。なんや俺も食い気が勝ってしもたな。

つるつるとまるい瞳が、隠れては現れる。
チョコレートのような甘い色味の茶色と漆黒との色合いを見つめていれば、閉じられて、そこを覆うくるんとしたまつ毛に見入っていれば、ふたたびまみえる。そして視線がぶつかると、あちこちせわしなく寄ってしまう。
「へあっ」むずむずと開かれたかのじょの口から、気の抜けた音がこぼれる。
左右それぞれの手のひらに触れる、かのじょのやわらかい頬っぺたはさきほどからひどく熱かった。
んむう、とまた奇妙な声を発して、かのじょはぎゅうっと目を瞑る。かと思えば、かっと目を見開いて、意気込んで口をひらいたかと思うと、音にならない息を漏らしてはまた熱く。
「なまえ?」
「…………」
「なまえちゃん」
「…………」
「なまえちゃんこっち見て」
また、音のなりそこない。
名前を呼ぶたんびに、揺れる瞳。
引き結ばれて、むぐむぐと動く唇。
お互いの顔さえ見切れるほどそばに寄って見つめ合う、この至近距離はよっぽど落ち着かないらしく、さっきっから狼狽振りが尋常ではない。気づいてはいるし、気持ちはこちらとしても理解しているつもりでいるが、こちらもここで放してやるわけにもいかない。
逃がさないよう手のひらでしっかりとかのじょを包み込んで、再度名前をささやいた。
そろそろと、うるんだ瞳に俺を映す。
「し」短く、一音乗せる。
すると、
「……し」
返ってきたのは、なんとまあか細い声で。
さっと逸らされたのを追いかけては、続けて口を開く。
「ん」
「…………」
「頑張れ」
「…………ん……」絞り出された貧弱な一音とともに、かのじょは真っ赤な頬を隠しもせず、やっぱり瞼を下ろす。くちづけでもねだっているかのような表情に誘われる本能をぐっと抑え、次の一音を出すことにする。
「す」
「…………っ!」これ以上赤くなる余地はないと思っても、どんどん増してしまうかのじょの赤みを、この距離で眺められる特権を味わいつつ。ほら、と小声で促しては、おのれの望みを押し通さんとする。かのじょの瞳の表面に張られた水膜が今にもこぼれ落ちようとしているというのに、まったくこの男は。と思った。
「うう…………」
「なまえちゃん。頑張って」
「………………す」
「――そん次は?」
心臓が早鐘を打つ。
自分の顔面にも熱が集まっている自覚はある。
それでも、待ちに待った瞬間をきょう迎えるのかという期待にはやり、見守ってしまう。
固唾をのむ、というんは、なるほど、こういう気持ちのことかと唐突に理解した。
かのじょのくちびるがまた開いて、ためらって、音を、音を紡ぐ。
大事な大事な一音を。
「…………す、すき……」
静かな室内に、消え入りそうな声がしっかりと響き渡った。
「…………」
そうやない。
そうやないけど、そうやないんやけど、
俺が聞きたかったんはそれやなかったんやけども。
………………、
………………………………。
「あーもう……」
今日はもう、それでええわもう。
身体中の力を抜いて、緊張の糸もほどき、かのじょのほうへもたれかかると、かのじょはわあっと悲鳴を上げたが、なおも寄せればそのままふたり、やわらかな畳の上へ倒れ込む。
「な、なにっ、なに?」
なに、はこっちの台詞や。
「なんなんなまえちゃん……」
なんでたった一言で、こんなに、心をぐっちゃぐちゃにされなあかんねん。今さら、なんで、こんなに。こんなに。
「俺も好き」
苦し紛れの仕返しの言葉。
それをかのじょは、こんなに顔を赤くして、それやのに満面の笑みで受け取るのだから、ほんまにもう――俺が敵うわけないな。
「困るわなまえちゃん」ころころと転がるかのじょを捕まえて言葉を投げれば、「うん?」と目を丸くしてこっちを向いた。
「なまえちゃんはずるい」
「ええ?そんなことないよ」どの口が言うのか。
「そんなことあるよ」
「それ言うなら、北のほうがずるやねんけど」
「俺はずるなんかせえへんよ」
「いいや、ずるいわ」
「なにがずるいん」
「自分だけ、さらっと名前呼べちゃうんやもん」
「なまえちゃん」
「ほら!ずるい!もう!」わあっとわめいてなまえちゃんは俺の懐へもぐった。
俺のことで癇癪を起こすのに俺にひっついてくるところがとても愛らしいと毎回思う。てのひらに収まるまるくちいさな頭を撫でる。触れたところから、かのじょの熱い体温がじわじわと流れ込んでくる。「なまえちゃん?」耳元でこっそりと呼んでみれば、びくんっと身体をふるわせて、胸元へこすりつけていた顔を上げこちらを睨む。くちびるを噛みしめて、瞳を潤ませたかのじょが視界を埋めてくれる。
「わっ……、私は!北を!北って、呼ぶたんびに、胸がっ張り裂けそうになってんのに!」
「張り裂けそうなん?」
それはえらい物騒なことになってるな。
相槌がてらに感想を述べれば、それまでの勢いはどこへやら。かのじょはううん?と首をひねった。
「いや、……はちきれそう……?」
それもなんだか凄そうや。
過去の記憶をたどれば、最初っから俺を好いてくれていたというかのじょは確かに、いつも一生懸命という感じやった。はじめは北くんて(同級生の中で俺だけ『くん』付け)呼んどって、いつしかいやに緊張した面持ちで、呼び捨てにしてもええかと聞いてきた様子がよみがえる。
それから、今まで。
かのじょは数えきれないほど俺を『北』と呼んできた。なんだか聞いていて不思議な心地のする温度で、たくさん、いっぱい、山ほど、なにかにつけ、『北』って呼んでいた。
「私が北って呼ぶなかに、『好き!』って気持ち、いっぱい入ってるからな。呼ぶたんびに入れてるからな」
生まれ持ったこの名字を、たった二音を口にするだけで、胸が張り裂けるほどの、はちきれるほどの思いを抱えてくれていたなんて。
なんて愛おしいひとやろうか。
頬を包む。
ふわふわしたやさしいかのじょの頬の感触を楽しんでいれば、その手を取って口づけられる。唐突なくちびるの感触に驚き照れれば、満足そうにかのじょは笑んだ。
……さらっとやないよ。
俺もなまえちゃんのこと、大事に呼んでる。
大事にしたいねん。
ずっとこうしてそばに寄せて、ずっと、大事にしていきたい。
俺がずっと。
胸にこみ上げてくる、この感覚をなんと表現すればええのやら。なるほどたしかに、張り裂けそうやし、はちきれそうや。かきむしりたいような気もする。
「本番までに言えへんかったら、どうしような」
なおも寝っ転がりながら、たわむれの合間にかのじょが呟く。
かのじょと共に出席する予定の同級生の結婚式を翌週に控えた今、本当に連名で届いた招待状に名目上夫婦として行くことになった経緯から、さっきまでのような呼び名の練習をここ数日続けていた。俺は既にかのじょを下の名で呼んでいるし、なんなら呼び捨てだって可能であるので、練習はもっぱらかのじょが俺の名前を呼ぶという練習になっているが、まあ結果は見ての通りである。進捗具合は芳しいとは言えなかった。むしろ日を追うごとに緊張も照れも増しているようにも見える。
俺も名前を呼んでほしさについ前のめりになってしまうし、かのじょがあまりにも照れるもので、悪戯心がくすぐられて、ちょっとあそんでしまったことにも一因があるかもしれない。
とにかくかのじょは一向に名前を呼んでくれないのだった。
「せやなあ。どうしようか」と返しつつ、別にそこまで焦っているわけではない。ただあそばれ尽くした挙句に結局呼ぶことができないかのじょは思いのほか深刻に捉えているらしい。しわの刻まれた眉間を指の腹で押してやる。
「身分詐称が、ばれてしまう……」
「詐称ではないやろ」そのうちほんまにそうなるし、と続けると急激に赤く熟れる。
「ちょっと前借りするだけやん」
「前借り!……北に最も縁遠そうな単語や」
「農機はローンあるから、そうでもないけどな」
「それもちゃんとしたやつやんかあ。堅実に返してるし」
「そりゃあな。借りたもんは、返さんと」
「堅実や……」
「身分は……そんまま、返さんでええけどな」
「エッ」
「俺はな?」そこまで言って、視線を交える。
おまえは、どうや?という無言の問いには気づいたらしい。
「あああああ……」この秋の穏やかな気候のなか、かのじょは急に発汗して顔を扇ぎ出してしまった。その様子に小さく噴き出した。
かわいくって、なんだかおかしい。
笑ってしまうな。
かわいらしいけれど、俺はいつまで我慢できるんかなと疑問にも思う。今度こそかのじょを強引にかのじょ自身から奪ってしまうことのないよう、かのじょの心が整うまで――心底願ってくれるまで、丁寧に進みたいと考えてはいるのだけれども。
こんなに待ち遠しいことは初めてやから、ちゃんと待てるかどうかはわからない。
待ち切れるかな。
どうやろうか。
ううん、と唸っていれば、どうした?と聞きたげにかがやく瞳がこちらをうかがう。なんと応えようか、と少し考えて口を開く。
「別に『北』でもなまえちゃんの気持ちは伝わってるからええねん。なまえちゃんのペースでええんやで。そんなに気に病まんと」
「ん、うん…………」
「もし来週までに呼べへんでも、まあ大丈夫やろ」
「そ、そうかな……」
「夫婦って形で行くんやから、人前では呼ばへん方がええのはたしかやけど」
新婦の熊谷さん。同級生の俺の存在を気にして夫婦とするくらいやから、新婦側の出席者は当然女性ばかりやろう。なんならこちらの事情を知るらしい高校時代のかのじょの他の友人もいるらしく、先日かのじょもはしゃいでいた。けれど翻って新郎側の出席者はやはり、全員男性ということで。同封されていた席の案内に記載されている名前達もそれを表している。
友人の結婚式は合コンの場。
子どもの頃、母が好きでよく観ていた連続ドラマで、母の好きな女優が言っていたのだという台詞を思い出したのは、その座席案内を見たときだった。
その台詞が果たして事実なのかどうなのかは定かではないが、未婚の可能性がある同年代の男女が知り合うきっかけになる場面であることは違いがないから、この愛らしい花に虫が寄りつかない訳がないと思った。
そもそも自分だって、かのじょと再び出会うために出席枠をもらえるよう頼み込んだのだ。
思いがけず先に望みが叶ってしまったものの、共に赴いてかのじょの危険を阻止できる絶好の機会を逃すほど愚かではない。友人の晴れ舞台のためにうつくしく着飾るかのじょのそばから離れる気はないし、夫婦として呼ばれるのであれば、夫婦として行動する。現状を鑑みれば、ささやかな飯事のようなものだ。きたる日に向けた予行演習とも言える。
「名前を呼ばんでもやりようはあるやろ」
ねえ、とか、なあ、とか、肩を叩くとか、手を引くとか、呼びかけやこちらが気づけるような仕草は山ほどある。そもそもかのじょから目を離すつもりもない。友人の晴れ舞台にひときわ輝かせるであろうこの瞳を、本当は誰にも見せてやりたくなかった。
かのじょへ向けた親密な提案に、本人は驚いたような顔をした。
ほんまにちょっとおあそびが過ぎたんやろうか、『名前を呼ばないと』という一種の義務感でいっぱいやったらしいかのじょは、きょとんとしてから、顎に手をやった。そして、んー、と唸る。
やりようはあるやろ、という短い言葉から、告げていない具体的な方法を本格的に思考しているらしい。どうやって?とすぐに聞き返したなら特段なんということもなく教えてやるつもりだったが、寝そべったまま真剣に考え出す表情がかわいらしいので、そんなに難しい問題ということでもないのだ、すぐに思い至るであろうと、こちらはしばしその様子を眺め楽しむことにした。
さほど時間も経たず、ぱっと顔を上げたかのじょと視線が絡む。
まだほんのりと頬が赤い。
かのじょはかのじょなりの方法を口に出した。
ためらいがちに。
「……あ、あなた、とか?」
ああもうほんまにこいつはもう(以下省略)。


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