車のエンジンを切ってシートベルトを外す。
夏も盛りの頃は、途端に太陽の熱でむわあっとしていた車内がちょうど今頃は晴れの日も温度はそんなに変わりない。それどころか運転席のドアを開けて外へ出たならば、こうして、ひんやりとした風が頬をくすぐる季節になった。ここは駅前の賃貸と比べて標高もずいぶんと高いしな、と考えながらドアを閉めてキーを使いロックする。駐車スペースから少し歩いてお家に回り、玄関扉を引いた。
「ただいまあ!」
靴を脱いで家の中へ上がる。
まっすぐ洗面所まで歩いて手洗いとうがいを済ませていると「おかえり」とお婆ちゃんの声がかかる。手を拭き終えて振り返れば、出て行くときとおんなじようにやさしく笑う、大好きなお婆ちゃんが立っていた。
「ただいま」
「お荷物ぜんぶ出せた?」
「うん、無事に。ちまちましたもん多かったから、ちょっと時間かかっちゃった」
「そらお仕事しがいあるやろなあ」
お話をしながらふたりで居間へ戻り、定位置へ腰かけるかたわらちゃぶ台の上に広がったものが目に留まって口を開く。
「おばあちゃん?」
「なあに?」台所の、食器棚の扉を開く音が返事と一緒に聞こえてくる。
「編み物してるん?」
「ああ、うん」ちゃぶ台にはかぎ編み棒と細めの毛糸玉が数色散らばっていた。棒にはすでに、銀杏を敷き詰めたような色の毛糸がいくらか編まれて布状になりつつある。きれいな色やな、と言いながら指先で毛糸玉を軽く突く。人目を引く色や。吸い込まれそうな、深くて、奥行きのある……北の瞳の色みたいな……。落ち着くのに、どきどきする、でも目が離されへんあの色彩が近づいてきて、とろ〜っととろける瞬間の記憶が脳裏に浮かんで、思わずぼうっとしてしまっていたようだ。いつの間にか天板に顔を乗せ、毛糸玉をぼんやり見つめていたらしい私の真横でコトンと音がしてはっとする。お婆ちゃんはニコニコしながら手を引っ込めて、自分の座布団のところへ腰を落ち着けた。私はお礼を言って上半身を起こし、湯呑みに手を伸ばす。指先がほんのりと温かくてほっとする。
「これね、ひざ掛け編もうと思て」
「ひざ掛けかあ、ええね。ちょっとずつ冷えてきたしね」お昼間こそぽかぽかと陽光が入ってくるけれど、夕方から朝方まではもう涼しいという言葉では足りなくなってきた頃だ。袖のない服で作業するのを見とがめる北が、自分のカーディガンやらなにやらを掛けてくれることが増えた。
「うん。いつもより、ちょっと明るい色選んでみたんやけど、どうやろか」
「ええと思うよ」私この色大好き。そう続けると、お婆ちゃんはいっそう笑みを深くした。
「出来上がったら、なまえちゃん使うてくれる?」
「え?……これ私のなん?」
「せやで」
「私のひざ掛け?」
「うん」
「おばあちゃん、編んでくれてるん?私のを?」
ふにゃあっと眉を下げて笑うお婆ちゃんを見て、心臓がきゅうぅっと締めつけられるような感覚がする。驚きのあまり質問を繰り返すことしかできなかった私は、毛糸玉をやさしく撫でるちいさな手にそっと触れる。北よりもちいさい私よりもちいちゃくて、つめたくて、しわくちゃのお婆ちゃんの手。お婆ちゃんは慣れたように少しだけ力を入れてこの指先を握った。
「あとりえで使ってな?」
「うん」
「女の子がからだ冷やしたらあかんで」
「うん」
「ここいらへんに縞々入れようと思ってんねんけど、なまえちゃん何色がええかな」
「どの色があるん?」
「うんとね、これと、これやろ、あとこの色と……」
脇に置いた紙袋からせっせと毛糸を取り出すお婆ちゃんのそばに座り直してふたり、畳に転がした毛糸玉を覗く。うつくしい秋色にあてがっては色合いを見比べて、幼い頃、坂道をひとりどこまでも駆けたときのように胸のはやる音を感じては喉を鳴らす。時計の針がのんびりと回る。山鳥の声が薄く響いて、あの愛らしいひとが玄関の戸を引くまでのわずかな時間を幸福に過ごした。
「ひざ掛け?」繰り返した北にうんっと頷いた声は自分でわかるほどに弾んでいて、ちょっと浮かれすぎてるなと感じた瞬間に、ふふ、と息をこぼす北の笑顔を見てさらに恥ずかしくなる。均整のとれたたくましい身体から、わずかに湯気の見えるほどに肌は赤づいて、私のひょろ腕なんぞ比べものにならないほど太くてごつい農家さんの腕はいまおのれの濡れた髪の毛をわりかし雑にがしがしとタオルで拭っているところだった。
「そらええなあ。なまえちゃん薄着やからな」
「そうでもないけどな」
「そう言うやろ」眉を下げてわらう北。
声も笑顔もとてもやさしいし、いつも丁寧にしっかりしたこんひとが、自分への扱いは結構雑やということを、寝食をともにするようになってから知った。せっかくのうつくしい髪が質を損ねることを心配して、むんずと掴んだタオルをねだれば好きにさせてくれる。こうして髪を拭かせてもらったり、肩をもんだり、ちょっとした忘れもんを持って来たりとかいう、自分のことを任せてくれる北に今日も盛大にときめきを抱えてしまう。
「北は去年セーター編んでもらったんやんな?」
「うん。えんじ色のな」
「おばあちゃんのセーター着てる北見たい」
「ただセーター着とるだけやで」
「見たぁい」
「ほんなら、そのうち着るわな」
「毛糸でもこもこの北かわいい……」
「もこもこではないで」
「北をもこもこしたい……」
「どういう想像しとるん?」
想像の中のもこもこ北がかわいすぎて、タオルごとまあるいあたまをぎゅーっと抱きしめる。北は「うわ」とまったく驚いていなさそうな(もはや笑っている)声を出して、どころかむしろあたまを押しつけてぐりぐりと動かしはじめた。
「ぐりぐりせんといて」
「えぇ?」不思議そうな声が上がるが、そこで動かれると連動しておっぱいまで動いてしまうからちょっとむずむずしてしまうのだ。と、そこまで思えば、経験則上ひとつの考えに至るのも当然である。
「あっ、これすけべなやつや!」
「ん?」
「私いま誘われとる……!?」
「なまえちゃん察しがよくなったなあ」
「しみじみ言うこと?」
「俺が育てました」
「生産者コメント風に言うこと???」
「生産者、北信介」
「名乗るん!?」
「なまえちゃんにそれ書いたタグつけときたいわ」なんてさらっと言われて冗談か本気か判断に困った。私の北理解度もまだまだや。深淵が深い……。いや、そんなんつけれるんやったら私も北に『こんひとみょうじなまえのもんです』って書いてひっつけときたいわ……。出歩くたんびにどっかでファン増やして帰ってくるんやこん男はもう……。好きすぎる……。
「なまえちゃん?」と呼ばれてわれに返る。
「どうしたん。嫌やった?」
「うぅん……、よう考えたら、私も北にタグつけたかった」
「ほんなら、おあいこやな」
「うん。おあいこや」
「なまえちゃん」
「うん?」
「おいで」やさしい声とともに腕を広げられて、頭がふわふわになった私に選択肢などない。タオルを北のあたまにかぶせたまんま、さらけ出された胸元に飛び込んで、ぎゅうっと閉じ込められるのを待った。さっきまでは私がしていたのに、よしよしと髪を撫でられて当然悪い気はしない。機嫌よく鼻を鳴らす一方で、けらけらと無邪気にわらう北の声が耳に低くあまく響いて心地よかった。そんなたわむれをしながら、腕だけ北のからだから脱け出して、水分を吸ってしっとりとしたタオルで北の地肌をふたたびこしこしと撫ぜるのを続けた。
「うーん」
「どうやろう」
「いっせーので言う?」
「うん。ええか?ばあちゃん」
「はあい」
「いっせーのーで!」
「これ」「こっちかなあ」「これやな!」
毎度おなじみ北家の食卓。
普段であれば、このちゃぶ台に並べられるのは大きさ彩りあざやかな料理の数々であるが、今ばかりはこの広い円卓の端から端までをおんなじひとつのものがよそわれた器で埋め尽くされていた。
掛け声とともに一斉に示された三者の指先はその中でもたったひとつ、右から二つ目のお米がよそわれた器を指していて、それを確認した北がやっぱりなあと神妙に頷く。膝上に置いているバインダーに挟まった用紙にその結果を記入して、あごに手を添えて少し考える仕草をするので、それを真横から眺めていた私はキュンとしていた。
「甘いねんな。炊飯器で炊いてもベチャッとせえへんし、ちゃんとデンプンが詰まっとる味や。この質に、どうにか近づけたいねんけどな……」ひとつずつアルファベットを振られた器のお米と、書類に載った乾燥方法と成分の一覧表とを交互に確認しながら眉を寄せる。
「炊き上がりの匂いもちょっと違ったで、信ちゃん」
「うん。こっちはなんか、ふわっ……てしたもんな」
「せやんなあ」悩ましい声を上げる北。
「こっちに行くにつれて、そんな感じしたな。これが乾燥の度合いの違いってやつ?」
それぞれのお米を準備したときのことを思い出しながら、おばあちゃんに同意する。語尾を上げると、北は「そうや」と頷いて顔を上げた。
「温度と、時間と、量やな。うちのは品種によって水分量の適量を出しとるねんけど、そこへ持っていく方法は色々あるから、色々調整中やねん」丁寧で簡潔な説明を終え、うぅんとまた唸る。北はお米のことになるとこうやってよく考え込む。
「品質で言うたら、いまんところ、いっちゃんええんは自然乾燥やんな?」
「せやな。無限に手間ひまかけられたら、ほんまそれが一番やなあ」米に余計な負荷かけんで済むし、と続けるが、乾燥するまでにかなりの時間と手間を要するため、今のところは家庭内の消費と上お得意さんへ回す分で抑えているようだ。味では一番とはっきり言いつつ、そういうコスト面までちゃんと加味して、でもできるだけええもんを作りたくて……、それで最終的にちゃんと商売を成り立たせようとするところがいかにも北らしい。
「逆に、効率だけで言うたら一番早いんはFやけど」
「Fってどれ?」
「これ」
「これなぁ」
「微妙やろ」
「そこまではいかんけど……そうやなぁ、北のお米っていっつもおいしいから、舌肥えた後で食べて比較すると……」
「割れたり欠けたりが許容値スレスレやから、これは無しや」
「……てなると、中間とるんやんな?」
「うん。やねんけど、Dまで質落として中途半端になるんやったら、Bくらいの仕上がりにしたいやんか」ちょっとムキになった言い方がなんだかかわいらしい。
「聞いとる?」
「聞いとるよ」
そうか?と首を傾げる北の手元を覗き込む。なるほど一覧表には乾燥機の設定温度や一度にかける量なんかが小刻みに記されており、北の試行錯誤がうかがえる。それでも年々完成度を上げ、ブランドを確立していくというのだから仕事のできる男である。
「うーん、乾燥かあ。豆とかやったら、水分のほうは収穫の時期でかなり厳しく見もって、二三パーセントだけ機械で落とす作業とかやっとったな」放浪時代、いや漂流時代のそれらしい記憶を引っ張り出して呟けば、耳ざとく北が反応した。
「それは、どこのなんの知識や?」
「えーっと。アイオワやな。大豆収穫しとった」
「大豆か、ええな」
「なんやっけな。北のこの……ここの数値よりも、幅だいぶん狭かったと思うで。基準値以下になるまで、いっかい乾燥だけかけるんやって。えっと、風を送るほうな。それで、むらができるから、量減らして、混ぜてってしとるんやって……」
「混……攪拌か?」
「そうそう、かくはん」
「つまり、自然に水分が落ちるんを待ってから収穫した後はいっぺん風を送って、もう一段階下げる二段階、いや攪拌で三段階か。それなら無理に熱を加えへん分、機械使ても負担は大分……、それにむらもできにくいか。けど攪拌な……それって、収穫量と乾燥期間とか、欠損率の詳しい数値の推移は……」
「うーん!」目の色の変わった農家の質問に両手を上げた私を見て、相手は目を見開いて苦笑した。
食いつきすぎたと自覚したらしい。
「すまん」
「いやごめん。あんまり覚えてなかった」
「いやいや、ええねん。今ので充分や」
「俺が悩んどるから、記憶漁ってくれたんやろ?」いつものたくましい笑顔で頬を撫でてくる北。ありがとうな、なんてやさしくお礼を言われて、私はファーマーズマーケットで出会った大豆農家のジェームズに心の中で盛大に感謝した。あと奥様自慢がしつこすぎてあらかた話を聞き流してしまっていたことをひっそりと詫びた。
北のぶ厚いてのひらにちょんと乗ったスマートフォンを、肩と肩が重なるほどにひっついてふたり、畳に寝そべりながらその画面を覗いている。耳に吐息がかかるのがくすぐったくて、ちょっと笑ってしまいそうな気分のまま、ひとさし指で表示された画面をスクロールする。
北のスマートフォンの画面には、さまざまに着飾った女性の写真がずらっと並んでいた。
「これええなあ。こんひとの」
「うん。襟がええな」
「あとここの、ひらひらもよくない?」
「うん。ひらひらしとるな」
「あっでもこっちもええな〜黒リボン!これあるとウエスト締まって見えるよな〜」
「ああ、そういう効果もあるんか」
「ああ〜!この!色ぉ!絶対かわいい〜!」
「なあ北どれが好き??」振り返ると超至近距離で私の視界のほぼすべてを埋める超絶男前の北信介は間もなく「どれも似合うと思う」と大まじめに返してきた。
「北、それ一番どうでもいいやつとちゃう?」
「ちゃうよ」
「ほんまぁ?」
「俺一緒に見ながら、想像しとったよ。どれが一番ええんかなって」
この生真面目な男がそう言うんやからそうなんやろう。そう思い直すことにする。
「そうなん?どの私が一番かわいかった?」
「それは、このなまえちゃんやな」
「うん、どれ?」スマートフォンの画面を見下ろしながら、北の長い指がどこかを指し示すのを待った。すると、肩にあつくてやや硬い、てのひらがそこを覆う。
「北?」
「この、なまえちゃんが一番かわええ」
「…………!」
その瞬間、なまえは戦慄した。
この男……、やり手や……!!
「なまえちゃん?」
私知ってる!こないだエリリンから教わった!これ!いまのこれ『すぱだり』って言うんやろ!私のダーリンなんやろ!北がダーリンて!私のダーリンて!あかんもお!なんなん!好き!好き!!!
辛抱たまらず、あたまを北の肩口にこすりつけると、こそばいわ、なんて言って北は笑ったが、こちらは笑いごとではないので、気を落ち着けるのに少々時間を要した。
「うーん。ひとまず候補はこのあたりかなぁ」
「薄紫に、緑の濃いのと薄いのか」
「ラベンダー色と、モスグリーンと、セラドンな」
「セラドン?グリーンとちゃうんや」
「緑っぽい灰色やから、灰色メインらしいで。あー、でもここではライトグリーンって書かれてる」
「緑多いけど、緑色が好きなんやっけ?」
「ううん。形とか素材も合わせて考えたらこうなっとった」
「そうなんや。どれも綺麗やもんなあ」
ショッピングアプリでハートをつけた一覧に表示された画像を順番に再度目を通す。画面には、うつくしく見た目の映える方法で撮影されたパーティードレスの写真と商品名、サイズに価格などが表示されて、こちらが『カートへ入れる』ボタンをタップするのを待っている。
そう、ミサミサの結婚式に着ていくドレスを選んでいるのである。
お呼ばれドレスなんてものを今まで地球のあっちこっちをブラブラしていた絵描きが持っているわけもなく、折を見て探していたのである。先日北家総員が阪急まで来てくれた際にも一緒に見てくれたり、試着したものに意見をくれたりしたので、形の方のイメージはおおよそ固まっていた。エリリンおすすめのこのショッピングアプリなら、写真の数もレビューも多いから使いやすく、ただいまセール中だというので試しているのだ。北も一緒に見てくれるというので、こうして仲よくふたりでアザラシのように寝そべって見ているところであった。北はアザラシになってもきっとかわええ。
「確かにこの、ラベンダー色はええな」
「せやろ」
「うん。なまえちゃんのやわらかい雰囲気が、よう出そうや」
「…………」こいつ、照れることばっかり言うな……。
「スカート部分がめっちゃふわふわしとるな」
「うん。胸の下んところで切り返しがあるから、すらっとして見えそうやし。上の部分の編み込みもかわいくない?」
「ええやん。丈も長いし、……袖はちょっと、短いけどな」
「さすがに冷えるから、なんか羽織るよ……」また袖か。北はなんでか袖に不満を抱えやすいらしい。
「他のやつは北的にどう?」
「どっちもええと思うで。なんや、モスグリーンちゅう方は季節的にもピッタリやしな。この間試着したやつの色に近いな」
「そうやねん。よくある色やけど、しっくりくるよな」
「大人っぽく見えて綺麗やったで」
「その感想は捨てがたいな……」
「これ以上綺麗になられても困るけどな」
「またなんちゅうことを……、いや、困ることはないやろ」
むしろ存分に自慢せえと返せば、まだなにかもの言いたげな視線をよこしたが、ふうと耳に息を吹きかけて仰天させるだけで気を済ませたらしい。妙な声とともに跳ね上がった私の文句にはまったく耳を貸さずに、残った候補の一着の写真をじいと見下ろした。
「この薄緑は、ラベンダーのと形が似とるな」
「ったくもぉ……、せやな、なんか似ちゃったな」
「でもこっちは上下まったくおんなじ色やねんな」
「な。あっちは上がちょっと濃いもんな。こっちは統一感がある」
「袖はないけどな」袖気にしすぎとちゃう?
「なんか羽織るから……」
「こっちの方が丈が長いのと、ひだが細かいな」やっぱり丈も気になるらしい。ふくらはぎ丈か足首丈かの違いぐらいやけどな。
「あっちがふわっ……やったら、こっちはひらっ……て感じやな」
「なまえちゃんどっちが好きなん?」
そう尋ねられ、まあ結局はそうなるのだけれども、考えた挙句に頭を抱えた。
「……どっちも好きぃ〜……」
「やんなあ」と苦笑する北。
「む〜ん……。…………、…………、あ、せや!」
「ん?」
「なあ北、北は持ってるスーツで行くんやんな?」
「そら俺が着飾ってもなあ」その意見に反論したい気は山々だけども、それよりも今しがた思いついた要望をはやくはやく口にしたくて流してしまう。
「ネクタイだけ、色変えへん?」
「え?」
「私北のネクタイとおんなじ色の着たい……」音にすると妙に気恥ずかしくてだんだんと尻すぼんでしまう。顔面がいやに熱くて、それやのに、数秒間を置いてもっと熱いてのひらが重なって、重なって、重なって。閉じたまぶたを開けても、まだまだ顔の熱は取れなくて、分け合ったお互いの熱にまたのぼせてしまいそうな、そんな大人ふたりはやがて、アザラシのように畳へ転がった。
ごろごろとしばらく転がった。
「ただいまあ!」
暗がりから一転して明るい家の中へ入っていくと、せかせかと廊下を歩いてきた北が何を言うよりもまず慌てたように腕を伸ばしてくるので首をひねった。
「北、ただいま」
「おかえり。それ、よこして」
「ん?」
「そん荷物や」
「そんなに抱えて……」ため息をついて眉を寄せるこのやさしい恋人は、どうやらこの両腕に提げたり抱えたりしている荷物たちを持とうとしてくれているらしい。
「そんなに荷物あるなら、言うてくれたら車出したのに」
「いやあ、ええって。これくらい私全然持てるし」そうは言いつつも、催促するように振られた腕へ、胴体に寄せてバランスを取って運んでいた荷物を少し差し出した。振動で紙袋がガサガサと音を立てる。「阪急の紙袋や。なに買ったん?」「色々お土産を……」二人そろって短い廊下を進み、居間へ入って挨拶を。おばあちゃんは荷物を見て「あら、まあ」と目を丸くして、北ママは逆に目を輝かせて立ち上がる。
「私の今日のアテ〜!」
「そんなん頼んだん……」すぐさま状況を察した北は母親へやや厳しい目を向けた。
「初日にあれだけ買うとったやろ」
「なまえちゃんセレクト楽しみにしとってん。どれどれ」
「人ん話聞いとるんか?」
くわっと眼光をとがらせる息子の声はなんのその。なおも言い募る声をナチュラルにスルーしながらほくほくと足取り軽く元の席へ戻り中身を改め出す、その様子がおかしくて見ていたかったが、ひとまず一旦残りの荷物を置かせてもらって洗面所で手を洗う。タオルで水気を拭っていると、洗面台の鏡に北の姿が映し出されて振り返る。憮然としたその表情から察するに、北ママへの諫言はどれも受け止められなかったらしい。あからさまに不服そうな顔をしているのがかわいらしい。
「きゃーっ、お酒も入ってる〜!」
「北ママはしゃいでるな」ひとつ開けてははしゃぐ声がここまで聞こえてくる。
北は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
なにそれかわええ。
「すまん」
「なんでえ。選ぶん楽しかったよ」
「腕にもこんな、跡つけて……」と、言いつつ取られた腕には確かに、引っかけてきた紙袋の持ち手が腕に食い込んだ跡がまだ残っていた。いささか神経質そうに赤くなった皮膚を指でさする北に笑ってしまった。北はなんでか昔っから、私をかよわいと思い込んでいる。私結構力持ちやねんで、と長年言い続けているのに、なんなら力こぶだって見せたことあるのに、北にはちっとも届いていないのだ。
「北は結構、おかあさん似やな」
「なんでそんなこと言うん」
「ふふ」
「ふふやなくて」
「はは」
「こら」不満たっぷりの声を隣に携え、胸の奥からわいてくるこそばゆい思いを笑い声に乗せて歩く。けんめいに腕をやわくさする無骨な親指はひどくやさしくて、それなのに熱い。間もなくしびれを切らした恋人が、ふたりきりでいられるギリギリの空間で唐突に唇を奪ってしまうその瞬間まで、私は笑い続けた。
閑話休題。
「と。いうわけで!」
気を引き締めた声で一同の注目を集める。
ちゃんと正座をして背筋をピンと伸ばし、円卓を囲む面々の顔をひとまわり見もってから深く息を吸う。
「帰国一発目のグループ展が無事終了しましたーっ!」
声を張って一息に言い終わると、おおーっという歓声が届く。みなさんご丁寧に拍手までしてくれるものだから、私はちょっと照れた。
「これもみなさまのおちからぞえのおかげさまでございます」
「噛みっ噛みやな」一言茶化す北。
「一生懸命言うたの!」
言い返してから、半身下がってちょんと三つ指をつく。「ほんとうにありがとうございました」と頭を下げればお婆ちゃんと北パパを慌てさせてしまった。顔を上げて顔を、と促されて頭を上げる。
「そないかしこまらんでも」
「いや……もう期間中ほとんどずーっとお世話になって……、搬入も手ぇお借りできて、正直めっちゃありがたかったんです」
「いやいや、信介の仕事も手伝ってくれてるやんか」
「助かってます」と合いの手を入れる北の声。
「信ちゃんはー、このままなまえちゃん引きずり込もうとしてるからー」
「オカン。余計なこと言わんといてくれ」
「ちゅうかそれ土産もんのやつやろ、なんでもう開けて出来上がってるんや」と再び北母子の火蓋が切られてしまう。しっかり者の息子VSマイペース母君。うぅん、見ものである。苦笑いでそれを宥めんとする北パパも入って会話するその光景を見ていれば、そっと肩になにかが触れる。
「なまえちゃんおると楽しいで」
「お婆ちゃん……」
「いっぱい、好きなだけおってなぁ」
「…………賃料を!倍!払います!!」
「そういうんはええから」また北が割入ってきた。
北家の住居の一部分をアトリエとしてお借りする分として、月に一度、わずかばかりのお金を渡させてもらっている。取り決めの際は不要だと延々跳ねのけられ、どうにか取り付けた後も支払いの際の北はそれはそれは渋い顔をするが、あんまりにも私が折れためにお婆ちゃんが味方についてくれたことで、一応どうにか受け取ってもらえていた。
これはまあ、自分なりのけじめというか。
中途半端な立ち位置のままこの家にお邪魔して、部屋の提供どころか何から何までお世話になり続けているのが自分的にかなり心苦しいのでむしろ頼み込んで支払わせていただいているという経緯がある。
「今回の売り上げ、結構振るってん」最終の収支はあとで見るけれど、出品したものはほぼ売れたし、オンラインの方にもちょくちょく注文が流れてきたのだから、かなり利益は上がったはずだ。
だがしかし、北はそれを聞いて息を吐く。
「それを場所代につぎ込んでどうするんや」と。
「そもそもその場所代やってうちは別に」
「北、過去決めたことを蒸し返すんはなしや!」
「合意を取ればええんやろ。最終的に」指をパキッと鳴らす北。
「ど、どんな手段で取るつもりや……!?」と、私は震え上がった。
「暴力反対や!」
「暴力は振るわへん」
暴力は、となぜか北は繰り返した。
それがいっそう恐ろしくある。
「おばあちゃあん!」
「はいはい。信ちゃん、やさしくしたりや」
「しとる」また平然とうそをつく……!
「指パキッて鳴らしたもん!私聞いたもん!」
「なまえちゃんも。お金は今のまんまでええから」
「ほら個展も決まったんやろ?」やさしく頭をなでられてうんとうなずく。
グループ展でお世話になった高円寺さんが大阪駅近辺のスペースをいくつか紹介してくれたのと、尾白の行きつけのコーヒースタンドで展示スペースを借りられるというのを聞いたので、以前回って話をつけたのだ。せっかくいただけた話題性の冷めないうちに次へつなげたいという考えもあって、品物を発送する中にその案内を入れておいた。
でも今度は私一人だし有名百貨店の舞台もない。海外でやってたゲリラ的な展示会に近い感じになるやろうなと思っている。
「のんびりやるけど、来てくれたらええなあ」
「せやねえ」のんびりやるんはええなあ、とお婆ちゃんはうんうんと頷いてくれる。
のんびりしたあったかい声にすっかり気分がよくなって、私はウキウキで次の展示の話をした。
いつの間にか北が真横に来て指を絡めていたり、北ママが上機嫌で五杯目の芋焼酎を呷ったり、北パパがそれをたしなめたりして、みんなで仲良く過ごした。
「さて、なまえちゃん」
「うん?あ、北もう雨戸閉めた?」
「うん、全部閉めたよ。二階行くで」
「はあい。……こん手はなに?」
「仲良うしようや」
「し、してるやん、いっつも……ちょっと、にぎにぎせんといて」
「なんでそんなこと言うん。悲しいやんか」
「なんかちょっと笑ってんねんなあ北……」
「ほうら、お部屋に着いたで」
「あ。お布団もう敷いてある」
「ごろんしてええよ」
「ヤッタ〜!色々歩いて足つかれてん今日〜」
「そら可哀想になあ。ちょっと足出してみ?」
「わあ、ありがとう!北の脚揉みきもちええねんな〜……ってこら、どこさわってんの!」
「まあまあ。慌てんと」
「あ、あいぼっ、相棒っ!私の相棒はどこやっ!すけべ警察の出番やーっ!」
「お前の相棒はあれとちゃうやろ」
「あっ、また長押んとこにおる!」
「うん?ああ、ほんまやなあ」
「ほんまやなあちゃうねんっ。あれ北やろ!あそこに引っかけるんやめて!取りにくいっ!」
「なまえちゃんちっこいもんなあ」
「枕元に置いとくのに、気づいたらいっつもあそこにあるん、北やろ!」
「知らんよ。あそこにおりたいんとちゃう?」
「よくもまあぬけぬけと!」
「ぬけぬけって」
「北しかおらんやろ〜がっ!」
「はは。まあそう怒らんと。気持ちようしたるから」
「なにをわらっ……、わ、わっ、ちょっとっ」
「…………」
「……こら、こらあっ…………」