――意識が浮かぶ。
早朝の冷たい風が肩をひやりと撫でるので、目蓋を閉じたまま布団と心地よい体温に潜り込む。 ふたりぶんの体温が移ったシーツはやわらかく外気を阻み、腰に回された重たい腕はなによりも私のそばにあって、素肌同士を吸いつかせてくれている。全身をくるむ安心感にほうと息が漏れ、そして肺に酸素を取り込めば、この極上に気に入りのにおいとお山の金木犀の香りが微かに混ざってまどろみを誘うような甘いにおいとなる。
とろんと再び落ちていく、思考のなかで、落ち切らずにぐずぐずと、かれの肌に頬を寄せて。とくんとくんと、穏やかな鼓動を感じる。すうすうと、聞こえる寝息に耳を立てて。かれの温度を感じながら。かれはいま、どんな夢をみているのだろうと思う。しずかで、あまい、私がいま感じている、このしあわせな時間を、すぐに溢れかえるこのいとしさを、鞄いっぱいにつめこんだようなやさしい夢を見ていればいい。かれの指が髪を梳いて、わずかに撫でるように動き、わたしの心を離さない。意識のない間でさえこんな様子で、私はいつも困るのだ。
ぎゅううとしがみつき、首元にあたまをこすりつけてぐりぐりしたい衝動と人知れずたたかう私の勇ましい姿をかれは知らないだろう。私がどれだけもっと、眠るあなたを抱きしめたいと思っているか。月の光がかろうじて照らす、くらやみで感じるかれも、まぶしいほどの陽光で照らされるかれも、ぜんぶがほしくて、私はいつもかれを抱きたい。かれを吸って、かれを聞きながら、いつでもこの男を感じていたい。
このひとを。
北信介を。
名前を、聞くだけでこの胸は打ち震えて、朝から晩までずっと私は恋をする。
私はかれに、恋をしている。
そして、そして、彼もまた、私を。
「…………」
身じろぎをして、少しだけ身体を起こす。
うつくしい瞳を瞼でふさぎ、静かに寝息を立てて回復に努めるかれの身体は、あれほど濡れていた汗も引き、触れると表面はややひやりとする。捲れた布団をかけてやり、再びふところにおさまれば、夢航路を旅しているはずのかれがこの身をぎゅうと抱き直す。私はほんの二月も経たないこの短い時間のなか、こうやって抱きしめられてきた。
視線のひとつ、ほんの指先の動きひとつから、感じられる私への好意と愛情、それに劣情。それらをこのわずかな間で一心に注ぎ込まれ、そしてあの高潔なかれが、私に同じだけのものをねだるのだ。
「…………きた」
音となる手前、舌先で転がせば、吐息となってこぼれ落ちる。
いとしく、恋しいかれの名を紡げば、この甘くくるしい胸の締めつけがすこしやわらぐような気がした。ただ呼吸をしているだけのかれの薄くひらかれたくちびるに触れて、短く髭の生えた顎先もついばみ、つんと天井を向く鼻先をやわらかく挟んで、あらわになった愛くるしい額にも嘴を。笑めば少し吊り上がる目尻、そのそばのこめかみにもひとつ。形がよく、鳥の声を聴き分ける耳に届かぬような音で。血の気のやわらいだ頬の感触をたのしみながら。かれの安寧を妨げないように、けれどかれにささいな刺激を与える。この感情は、なんやろうか。
つん、と頬を突く。
弾んではすぐに戻って。
きょうも北の肌艶は絶好調である。
近ごろは秋の大収穫を終えて、ここからが勝負どころやと毎日せわしくしており、それやのに私にぺったり貼りついたりして。ふんだんに甘やかしてくれるのだから、この男にはかなわない。私が甘やかそうと思っていろいろやっとっても、なんでかいつ間にやら私の方がええ思いをしているんや、いつも。北はずるい。ずるい男。
――ずるい男には、こうや。
「…………ん……」
私のわずかな悪意を感じ取ったのか、北のまぶたはぴくっと震え、喉から息を漏らした。ぎくりとして動きを止めたが、かれはあたまをもぞつかせて、ええ位置取りをみつけたのか、そのまま幼子のようにそこへ頬を寄せて顔を埋めた。
私はかれを抱きしめる。
この身にかれを抱ける幸福を感じながら暗闇に再度浸る。
身を寄せ合ったふたりをさらう波に身を預けた。
まだ朝は来ない。
眠ってしまおう。
お天道様が昇ってくれば、今日もまた、われわれの慌ただしい日常が始まるのだから。

「ほうれん草ゆで上がった〜!」
「土鍋のほうももうすぐやわ」
「先じゃこ炒めちゃう?」
「うん。たれ混ぜといたからな」
「揚げ玉もう冷めたかなあ?」
「油吸わしてるから、もう大丈夫とちゃう?」
「あとはアスパラ巻いてっと……」
「お味噌汁もええ感じや」
「こんぐらいかなあ、カリカリって」
「このちいちゃいの、もらうな。うん、おいしいで」
「お婆ちゃんのだし巻きも、味見いらへん?」
「あらまあ。なまえちゃんったら……」
六畳一間のお台所は、女二人があちこち動き回るには申し分ない広さ。作業台に流しにコンロに食器棚にと行ったり来たりを繰り返し、動線を考えながら炒め物をしつつ、周りの音やにおいにも注意を払って細かく様子を見る。品数を多く出す日には、限られた熱源や調理器具を使う順序を考えておく必要があって、ふたりの人間がそれを行うには都度都度声をかけ合ったり互いの手元を把握したりということが必要だった。台所に立つ人間に与えられた特権の一切れをうまうまと咀嚼しながらコンロの火を止めてフライパンの中身を平皿へ移す。菜箸で多少なりとも見栄えのよくなるようちょいちょいっと動かして、一皿の仕上がりとする。間髪入れずに次の皿へ。声かけを交えながら次々と調理を進めていき、食器棚の上の方にしまわれている何枚もの大皿を大量のおかずで埋める頃には、タイミングよくお米の炊き上がったのを知らせる音がする。ふたを開けて、その瞬間ぶわわっとたちこめる蒸気とお米のほのかに甘いにおいが、あったかく香って、思わず胸いっぱいに吸い込んだ。
「んん〜っ……!」
「ええ香りやねえ」お婆ちゃんも覗き込んでは嬉しそうにほほ笑む。頬のゆるみを自覚しつつも、このにおいの前では引き締めることなんて不可能や。私はうなずいて、手にしたしゃもじで軽く釜の中をぐるっと回す。上から下まで、ふっくらと白く照り輝くお米のつぶを確認し、濡らした手ぬぐいを使って釜ごと作業台へ移動させた。そして用意しておいた寿司桶へ中身をまるまる移して、空になった炊飯釜を流しへ置く。
「ありがとう」
「うん。第二陣、よろしく!」
「はいはい。ほんならそっち、先握っといてな」
「はぁ〜い」
桶の中のお米たちをほぐしつつ鳴らして等分する。そして塩やお水、具材を入れたお皿を近くへ寄せたあとは、気合を込めて、そう、ひたすらにお米を、握るのである。お婆ちゃんは空になったお釜に再度お米を満たすとお水で洗って、水を張って炊飯をセットする。
「あら。おいしそうやねえ」
お皿に並んだおにぎりたちを見て、のんびりとしたお褒めのお言葉がかかってくすぐったい。せわしく手を動かしつつ、照れながら、胸に湧いた懐かしさを口にする。
「なんや、こんな急いでいろいろ作るん、めっちゃ久しぶりや」
「きょうは大所帯やからねえ」
「うん。マネージャーやっとった頃の……合宿とか思い出す」
「部活なあ。もっと人数多かったやろ?大変やったやろなあ」
「こうやっておにぎり大量に握ったり、から揚げ延々と揚げたりしとったわ」
「道理で、手際がええもんなあ」
「ええ?へへ。でも父母会のひとが担ってくれた分もあるし――北が手伝ってくれたりもして……」
「そうなん。信ちゃんが」
「うん。ふふ」
昔っから、親切なひとやった。
当時を思い出しながらそう告げれば、隣でせっせとお米を握るそのひとはお顔をくちゃくちゃにして笑って。私も、自分の若かりしころの、未熟すぎる恋まで過って苦笑する。あつあつのお米をてのひらに、水と塩で若干緩和しつつ、熱い熱いと言いながらお婆ちゃんと笑っておにぎりをこさえていくのが楽しくて、楽しくて楽しくて。
北と、お婆ちゃんと、北ママと、だれかと一緒にごはんを作ることが、こんなにうれしくて、こんなに楽しいもんで、こんなにも幸せなことなんやということをはじめて知った。
こんな気持ち、知らなかった。
自分でできるようにならんと、と思って、なんでもやるようにしてきたから、ひととおりのことは、家事だってそりゃあできるけど。そのおかげでマネ業もなんとかこなせとった感あるけど。でもだからって、こういうことが好きやったわけではなくて、ごはんなんか自分が食べるだけやったら別にカップ麺とか惣菜とかコンビニ弁当とかでもええし。その空いた時間で絵を描くような人間やし。そういう人間やってんけど。
でも、いまむっちゃ楽しくて。
料理するんがこんなに楽しいことって、そんなにないよ。北とふたりでつくったごはん。お婆ちゃんをお手伝いするごはん作り。お婆ちゃんと作っているのを北ママがつまみ食いする場面やったり。北とお婆ちゃんと三人で作るごはん。北ママとこっそり作ってみんなを驚かした朝ごはん。お婆ちゃんと一緒に、みんながおいしく食べられるようにと考えながら、丁寧に作るごはん。
どれもこれもうれしくて、楽しくて、しあわせやから、大事にしたくて。
うまいなあ、と笑う北のかおが浮かぶ。
いよいよ締まりのなくなった頬筋がゆるゆると最上の笑みを形づくる。
「…………んふふ!」
「どうしたん?」
「なんや、私めっちゃ進化したなあ!」
「うん?」
「北帰ってきたら、チューしてまうかも!」
キュッと手の中のお米たちを整えながらそう言った私に、お婆ちゃんは「それは信ちゃんもよろこぶなあ」とさらに笑った。

ガラガラッと勢いよく引き戸の空く音がして、ちょうど配膳をしていたお婆ちゃんがうなずいて玄関へ向かうために台所を後にした。流しで手を洗い、具材の空になったお皿や桶を水に浸けているうちに、いくつもの足音と話し声がしてはどんどん向かってくる。
「なまえちゃん」
と、居間ではなく台所の入口で立ち止まった北が、続けて「ただいま」と言って、わらう。
きゅううううぅぅぅぅぅうううっと心臓が鳴って、私はもうなんだか泣きたい気分だった。
「…………おかえり」
この一言を、言うのが精いっぱいやという私の心境に気づかないのであろう、北はのほほんと鼻を鳴らしては大皿にたんまりと乗ったおにぎりを見て「うまそうや」とまた笑った。そうすると、私が胸の詰まる切ない思いでいることをまったく考慮していない奴らが北の後ろやら横やら上やらから顔を覗かせては声を上げた。
「お!うまそうやん!」
「お疲れさまです!」
「気張ったなあ」
「ちゃんとバァちゃん手伝ったかぁ?」
「みょうじのメシ食うん、なんや懐かしいわ〜」
「なまえちゃんのエプロン姿、かわええなあ〜」
「侑。横見い、横」
「ウワッ!!」
ぞろぞろと立ち尽くす迷惑な北と銀以外の大男たちの間をすり抜けてお婆ちゃんが入ってくる。 「エッちゃ、ちゃうで!ちゃいます!」となにやらひとり騒いでいる侑の声を聞きながら、きりっとした表情が今日もことさら男前な恋人に居間で休んどきと伝えれば、その大所帯を引き連れて台所を過ぎ、居間の入口から室内へ入りおのおの腰を落ち着ける。何人かは、倒れ込むように寝そべり出したが。
「北よりくつろいどるやん」お盆に人数分のグラスと氷、それと麦茶の入ったピッチャーを揃えて居間へ入れば、だらしなくほうぼうへ足を伸ばす男どもと、あぐらをかきつつ背筋のまっすぐな超超男前。その男前はこちらを見上げて「ありがとう」とお盆を受け取っては男たちへ配ってくれる。
「北を見習ったほうがええよ」
「また始まった」
「お前はそればっかりやなあ」
「エコヒイキや〜!」
「なんでやねん」いくら労働のあととはいえ、ひとんちでだら〜っと寝転んで北が手を貸してくれたら、北にときめくと同時にこいつらをちょっとはしばきたくなるんも止むない話やろうに。全人類が同意するわ。なんやかんやと言い出す輩に、仕方なく麦茶を注いでやろうと、すでに手を離れたお盆へ腕を伸ばせば、それもかわされて誰よりもゆっくりと休んでほしいと思っている当の本人がピッチャーを握りお茶を注ぎだす。
「北ええよ、私やるから」
「大丈夫や」
「ちゅーか。北に飲んでほしくて持ってきたのに……」
「俺らは〜!?」
「あくせく働いてきたんですけど〜???」
率直な乙女心に無粋な男たちからヤジが飛ぶ。
ぷーっと膨れた私の顔を見て北はおかしそうに笑い、最後大耳のグラスへ麦茶を注ぎ終えると、それを今度こそ私へ返した。
「北?」
「俺のは、なまえちゃんが入れて」
ドッッッッッ……キュン。
ひときわ大きい鼓動ののち、甘く切なく胸に響く。
「あんまり他んひとの世話焼かんといてな。俺妬いてまう」
「はい…………」
こぽこぽと麦茶を注ぎながら、この世の生きとし生けるものすべてに祝福を送る。照れたように、でも上目を遣って私の恋心を全力でくすぐりに来ている北信介、この男のことしかもう目に入らなくて、北が止めてくれるまでなみなみと麦茶を入れてしまった。それをこぼさないよう、目を寄せて飲むかれのことをたまらなく好きだと思って、そのほっぺたに一瞬だけくちびるを押しつける。喉を鳴らしてうまそうに麦茶を飲んでいた北が、次に見ると目をまんまるにして停止していた。
「北?」
「キャーッ!」
…………なんや?
女子のような悲鳴。
北ではなく、北の背後から聞こえてきたな。
ぬりかべのごとく微動だにしない北から顔を出して、その背後を確認すれば、だらしなく畳に寝っ転がっている現役選手が顔を真っ青にしてこちらを見上げているではないか!「侑!?」と銀が驚いて駆け寄っている。
「侑?どうしたん」
「ウウッ……」にわかにぐしゃっと歪んだ目鼻口。
おうおう、せっかくの北よりは劣るけど割と整った顔立ちが台無しや。でっかい子犬のような目玉にはなぜだか涙が浮かんでいる。
いまなんか泣くとこあった?感動の名場面??首を傾げる私をよそに、侑は仰向けから瞬時に畳へ伏せた。バターン!と豪快な音まで立ててや。赤木がそれを眺めて「あ〜あ」と言いつつおかしそうに笑った。尾白は呆れたように、大耳はちっこい孫でも見守っていますよみたいな穏やかな表情でそれを眺めお茶を飲んでいるので、さらに私は不思議に思った。さらに言及すべく口を開いたそのとき、サイドに垂らしていた髪がひとふさ、ちょいっと引っ張られて気がそれる。見ると北が毛先をつまんでいた。
「北?」
「……なまえちゃん」
ちょいちょいと指先でいじる様子が大変かわいくて、私はうっかりときめいた。
「うん?どうしたん?おかわり?」
「ううん……」なんでか声も小さい北は、少しうつむいて視線もよこさない。一体どうしたんやろう?と疑問に思って顔を思いっきり下へ落としてその表情をむりやりに覗く。
薄くてやわらかなくちびるをキュッと真一文字に結んで、左右の頬っぺたをかっかと赤くした北と目が合った。
なにやら――
なんでか――
なんでこんなかわええお顔してるん?
困るんですけど???
たまらなくおさまらない胸のうずきに耐える沈黙のなか、周囲では奇妙なうめき声と「もう止めたれや……」という涙声が聞こえてきた。

なんて一幕を挟んで。
隣に大好きな北、その隣にはお婆ちゃん、それから赤木と大耳と銀に侑、それから私の逆隣に尾白でぐるっと円卓を囲んでは、みな一様に手を合わせて食前の挨拶を。神妙にそれを済ませた瞬間、目にもとまらぬ速さで大皿から消えていくおにぎり達を見て、私もお婆ちゃんもついつい口をぽかんと開けてしまう。なんてことや。こいつら、昔よりさらに早なっとるやん。大皿にちゃんと並べられた、塩むすびをはじめ、ゆかりとしらすのしそ巻きおにぎり、とろろ昆布の鮭おにぎり、山菜の混ぜ込みにぎり、天かすとおつゆの梅干しにぎりなどといったそうそうたるおにぎりメンバーたちは連中のでっかい手にむんずと掴まれ、おもむろに開けられた大口に消えていく。
「うま!」
「ンン!こん味!」
「ほーほう、ほんははひひゃっは!」
「ん。さすが新米やな、粒だっとって、甘いわ」
「ウマ〜!」
「ほれ!ほれひゃろなまえひゃんひひっはん!」
「コラ!米粒こっち飛ばすな!」
「食いっぷりやばない!?」あまりのすさまじさに叫んでしまった。おかずもガンガン減っていくので、反応を見たくて一拍開けていた箸を慌てて皿へ向ける。現役のアスリートが二人おるにしても、想像をはるかに超える食いはじめのよさに度肝を抜かれてしまう。驚きを隠せないまま、目をしぱしぱと瞬かせつつおにぎりに一口かぶりつく。うん、噛みごたえ、塩の加減、ともに良好や。うまい。塩むすびははざかけしたお米使った方やな。これは永遠に、噛める。うまい。隣の北も、同級生と後輩の食いつきに目を瞠りながら、おのれの仕事の成果を満足そうに噛みしめる。
好き。
ちょうすき。
じーっと北を見続けていれば、視線が絡んで互いにわらう。相変わらず私の腕では届かないところのおかずを皿へ入れてくれる甲斐甲斐しさがたまらんわもう。お返しにと尾白との間に置かれたから揚げを入れてさし上げる。
「うん。うまい」
「やっぱもも肉は最強やんな〜」
「なんやポカポカする」
「生姜入れてるよ。北の身体が冷えへんようにって」
「そうなんや。ありがとう」
お礼言われてしもた。
照れる…………。
「ちゅーかもはや肝心な新米の感想を大耳しか述べてくれへんな」
獣のように貪り食うとる、と男衆を指させば、まあええやんと朗らかにその人さし指を握って下ろされる。
「ただの『うまい』でええねん」
それが嬉しいねん。
その笑顔があまりにあどけなくて、いたいけで、屈託なくて。
私は北が驚くのもかまわず、即座に起立して足を動かすと、お爺ちゃんのお仏壇の前に正座して勢いよく手を合わせ、ただただ涙のあふれそうなこの気持ちを、このひととの縁をつないでくれた北家の方ご先祖さま方に篤く篤く感謝の念を飛ばした。
「なまえちゃんどうしたん?」
「北……生まれてきてくれてありがとう……」
「ほんまにどうした?」
「北の誕生日はもう過ぎとんで」
「そういえばみょうじ祝えてへんな」
「ほんまや。信介ファンの名ぁ廃っとる」
「廃ってませんけど!?」
バリバリ最前線で常にファンやってますけど!?
顔だけこちらへ向けてめしを食いながらやいのやいの。とびかかる野次へむきになって言い返すなどしていれば、取り皿におにぎりやおかずを盛った北がこちらへやって来ては当然のように隣へ腰をおろす。こんひと、どんだけ私を好きにさせれば気が済むんやろう……?
「なんで首をひねってるん?」
「ちょっと謎を解明しようと……」
「解明してんと。ほら、ばあちゃんのだし巻きやで」
「わぁ!くれるん?ありがとう!」
「お口あけて」
「はぁい」やさしい声に促されてお口をあけると、うつくしい箸づかいでそうっとくちへ入れられるだし巻きたまご。ふわっと軽くて、なのにひとくち噛めば、おだしがじゅわわ〜っとあふれ出して、たまごのやさしいふるふるとろとろな食感と絡み、極上のハーモニーを奏でるのである。んん〜っ……!とうまさに悶える私に「うまいなあ」と同意して、自分もそれを放り込む。
「お婆ちゃんのだし巻きほんま好き」
「やあもう、なまえちゃんたら。またそんなこと言うて……」
「いやホンマにうまいでバァちゃん」
「ウンウン。こんなうまいだし巻き初めて食うたわ」
「ほんまや。サムにも見習わせたらなあかんな」
「なんでお前が見習わせたんねん……」
「こんおにぎりの……肉のやつもうまい!」
「しぐれ煮な。こんなん食うたら余計腹減るわ」
「俺コレむっちゃ好きやわ。このおこわのやつ」
「水菜がエエ食感出しとるよな〜」
「しらすのもうまいわ。凝っとるなあ」
「それ私のレシピ!」
「褒めてソンした」
「なんでや!」とかなんとか。
喧々ごうごうと騒いでいれば、ほっぺたをかああっと赤くしたお婆ちゃんがお椀を手にこちらへやって来た。大人数からの褒め殺し攻撃に合うので避難してきたらしい。まったく、かわええお婆ちゃんである。北も微笑ましそうに見つめている。なんやもうこの祖母孫コンビは!愛らしい!愛!お爺ちゃん(のお写真)に向かって手を合わせながら、そんなことを考えている。大体いっつもこんな感じや。でもきっとお爺ちゃんも同意してくれてると思う。差し出されたおにぎりにかぶりつきながら、フンフンと思いのたけを存分にお爺ちゃんへ伝えれば、視線をずらすと大好きなひとたちや、仲間がいて、みんななんや楽しそうにしとって、私もたのしくって、うれしい気持ちになって。
「すごいなあ北」
「うん?」
「おいしくてたのしくて、私最高にしあわせや」
「なまえちゃん……」
「北とおると、私しあわせ記録どんどん更新していくねん。すごない?」
「……それは、すごいな」
まなじりをこう、きゅうっと下げて。
私の好きで好きでたまらない笑顔を惜しげもなく見せてくれて。
私を呼んで、隣に座って。
みんなおって。
そんで、きょうも、めしがうまい。
「私は世界最強やな」
「なまえちゃん、それは聞き捨てならへんで。最強なんはこの俺や!」
「オーイ。これはそーいうアレとちゃうから」
「少なくとも侑はサーブランキング影山に抜かれとるから最強ではないやろ」
「マジレスせんといてくれますかッ!!!」

一幕の回復と休憩を終え。
再び労働に出て行った北とその他の男たちを見送れば、さて片付けやと踵を返して家の中へ。残りった洗い物を終えて洗い場の片付けまで済ませると、その後はアトリエでしばしキャンバスと向かい合う。開け放った障子、縁側が色鮮やかな自然とをつなぐ。鳥の声が聞こえる。風に運ばれたち葉が稀に真っ白な紙を彩って。ああ、この色ええな。色源を練り合わせて新たな色をつくる。色の上に色を重ね、時に削ぎ、厚く、薄く、明瞭に――曖昧に。キャンバスの上に淡々と色を落とし、色を添えてゆけば、それは――
「それ、北さんの田んぼ?」
鳥の声、ではないそれが心地よい静寂をかき消して、意識をうつつに返す。音の主を向けば、治が庭におって、縁側に腰かけてこちらを見ていた。昼営業が終わったら必ず行くと、言うた料理人は新米のお披露目会へ向ける並々ならぬ情熱があるのだとか。お披露目会言うて、ちょっとめしを出すだけなんやけどなあと、はにかむ北のあたまをぎゅうっと抱きしめた記憶も新しい。
「治、早いな。お店終わったん」
「おん。なあそれ、北さんの田んぼやろ」
それ、と指さすのはまだまだ未完成のキャンバス。
目的のめしが頭から飛んで行ってしまったかのような食いつきに驚きつつも、せやでと頷いた。
「この間の、稲刈りの時のやつ?」
「ようわかるな」
「わかるよ」そう短く切って、靴を脱ぎ室内へ入ってくる治を見上げる。
床に散らばった素描、スケッチブック、色を垂らしたロール紙たちを、踏まぬようにでっかい男がよたよたと歩いてきたと思ったら私の、というよりはイーゼルに掛けたキャンバスのそばへと屈む。視線はずうっと逸れないままだ。ここ、と呟いては指でそこを指し示す。
「このへんを刈っとるんやろ。土の色や」
「そうそう。ここから、こっちに刈っていくねん」
「この赤は、コンバインや」
「うん。まだ下色だけやけどな」
「ほんなら、北さんはここに描くんや」
「そこまで、描けるかなあ」
「そんなこと言うて」描くやろ、と治はそう言うが、見渡す限りの田んぼの群れ、その一反の中に入っては黄金を刈ってゆく、コンバインを操縦する人間までをつぶさに描ききれるかどうかは微妙なところだ。元々キャンバスがさほど大きくないという理由もある。うーんと紙面を眺めて考える私をよそに、治はよっぽどその絵が気になるのか。その目玉でじいと紙面のあちこちを見つめては、少し離れてみたり、近づいたりを繰り返す。
「まだまだ序盤やで?」
「きれいや」
「……ありがとう」
「うまそう」
「それはおかしい」
「おかしないよ。こんなきれいな場所で、丁寧にちゃんと毎日手ぇかけられて育った米やって思たら、腹減ってくる」
そんなことを言うたかと思ったら、ぐう、ってほんまに鳴るし。この子ほんまにどういう胃袋してるんやろう。おのれの腹を見下ろして「腹へった……」とつぶやく、治に息をひとつ吐いて、握りっぱなしだったナイフを置いた。
「なまえちゃんの絵見たら腹へってもうた。すごいななまえちゃん」
「それは、元から腹ぺこなだけや」
伸びをひとつと、立ち上がって。
「腹ぺこさん用のおにぎりあるで」
「ほんま!?」途端に瞳がまぶしく輝く。
ほんま、と返して、同じように立ち上がり、身体はぐるんと廊下へ出ていく。ちょお待ち、と制止して私も出た。玄関を通っていない治をうっかりこのまんまひとりで行かせたら、お婆ちゃんびっくりさせてまう。ちゃんと入口から来んとあかんよ、と念を押しておく。ひとんことを驚かせたがる悪戯っ気は相変わらずや。ちぇっと唇を突き出して、わかりやすく拗ねたような顔になる、でっかい後輩と並んでのしのしと廊下を進む。
「北さんらはおらんの?」
「納屋のほうにおるよ。食べ終わったら、治も行ってな」
「へーい……なまえちゃん、ひと遣い粗なったなあ」
「働かざるもん、食うべからずやねん」
「ツムも働いとる?」
「きりきり働いてるよ。すごい食べとるもん」
「あいつ、収穫んときは来おへんかったのに、食う集まりには呼ばれもせんのに来よって」
「サムの代わりに食いに来ましたぁ〜って言うとったで」
「しばいとくわ」
「北はよろこんでるから、ほどほどにしたってな」
ええ、と渋りながらも笑う声。
洗面所で手を洗って、ともに居間へ。なんやかんやと話しながら揃って入れば、お婆ちゃんがぽかぽか陽気に照らされて、うとうとと舟をこいでいて。かぎ棒と毛糸、それからきれいな銀杏色の編み物が散っている。治と顔を見合わせて、ふふっと息をこぼす。怪獣のようにでかい足を音も立てずにお婆ちゃんへ忍び寄って、床に落ちたものを拾い上げ、こちらは毛布を続き間に設えてある箪笥から取り出し、そうっと掛ける。ぐう、と再び腹が切ない音色を出しかけて、治がこぶしを腹に一発入れて黙らせた。おいおい。忍び足で台所へ向かい、ラップをかけて取り置いてあったお皿をとって戻る。
おまたせ、と小声で声をかけて、縁側に並んで座る。皿に乗った色とりどりのおにぎり達を見て、声は出さずとも喜色満面の。
はやってラップを剥がしてむんずとおにぎりをつかまえて、でっかいでっかい口を開けてかぶりつく。んん!と鼻から抜ける感嘆の息――そして、真剣な眼。これは栗と牛しぐれ煮、これはゆかりとしらすのしそ巻きにぎり、これは天つゆと天かすの梅干しにぎり、これは……。ひとつひとつ説明をして、うんうんと頷いたり、質問してくるおにぎり屋の店主に応じながら、後輩の腹の膨れるのを待ち、庭の色彩が風で踊るのを眺める。
「うまいなあ……」
「さよか」
「ほんまに、うまい」
うまそうに、しあわせそうに、それでどこか悔しそうに、何度もうまいと呟く治。北の新米で作った治のおにぎりを、その片割れは大層好むのだそうだ。先日収穫した分を、乾燥、籾摺り、精米と工程を踏んで、治のお店に出荷されて。
その後は治の仕事やな。
うまい……、と睨むように蕩けたまなざしを、おこわにぎりに向けるでっかい、でっかくなった後輩を見て、しずかに心が弾む。たのしみや。この後輩の店で、治のおにぎりを食べるのがとてもとても待ち遠しい。唸る後輩の背中をひと叩きして、活を入れたつもりがいまいち伝わらへんかったようで、むっとした顔をされる。その顔に「夕飯は、卵かけごはんできるで」と囁けばみるみる破顔する。そんなさまを笑っていれば「あ!」と驚いたような声が。玄関先から直接こちらへ回り込んだらしい、北たちがぞろぞろと戻って来ていた。先ほど声を上げたのは、北の後ろから覗いたような体勢の侑だ。
「サム!お前なに来とんねん!」
「それはこっちのセリフや!」
「ま〜たすぐに応戦して……」さきほどの空気はなんやったんか。あまりの変わり身のはやさと激しさに、もはや双子マジックやなと思うのはいささか逃避気味の。
「ちゅうか遅れて来たくせになんでなまえちゃんと仲良くまったりしてんねん!?しばくぞ!」
「そ・れ・も・こっちのセリフなんじゃ!」
「なんやとぉ!?食うためしの分、いまから働いて来い!その間俺はなまえちゃんとまったり休憩や〜」
「なんや偉そうに、食うときばっかり来よって!」
「俺はお前が忙しそうやったから代わりに来たんや!」
「誰が頼むかそんなこと!!!」
双子の言い争いをかたわらに、まっさきにストップをかける役割だった北は脇をすいっと通り抜けて私のそばまでやって来て「ただいま」と見下ろす。一も二もなく告げられた挨拶に、私の関心は完全に北へとシフトしてしまった。私の心のチェンジレバー、いまK(北)に入りました。といった感じや。
「おかえりなさい……」
「うん。治とまったりしとったん?」
「アトリエに急に現れてん。びっくりした」
「それは危ないなあ。ちょっと、考えんと」
「なにを?」という私の問いかけには答えず、床板に置かれたお皿を見つめる北。
「おにぎり、空っぽやな」
「ものの数分やで」
「それはすごい」
「おっそろしいわ」
「頼もしいやんか。今日はまだまだ食うで」
「ふふ!それはつくり甲斐あるなあ」
「頼むわ。あいつら、久々のみょうじのおにぎり目当てに来たようなもんやから」
「アー!なに言うてっ、なに言うてんねん北!」
「ちゃうし!新米が食えるから来たんやし!」
「なんや、アランくんまで素直やないなあ」
「ほんまや。正直に言うたらええのに」
「侑はまさに釣られてますしね……」
「一本釣りやな」
「銀かてみょうじの顔身見に来たんやろうに」
「エッハッ、い、いやっ俺は」
「コイツ角名からなまえちゃんと北さんのラブラブツーショ撮るよう言われとるんですよ」
「角名の手先か!」
「人聞き悪いな!今日は都合つかへんからって、頼まれただけや……」
「それでしょっちゅうスマホ向けとったんか!」
「ま〜でも角名はまだこの二人のいちゃつきを見てへんから」
「ソレ送ったら驚くやろうな」
「いや〜笑い転げてベッドから落ちるに一票」
「けど俺には無理やわ、北さん盗撮ミッションなんか……」
「盗撮がなんやって?」
「ン北サンンン」
「これ俺となまえちゃんか?観てもええ?……よう撮れとるな。これ俺も送ってもらってええか?ああ、このなまえちゃんええな。フフ、かわええ」
「北さんほんまにやばいな……」
「なあ、こんひとほんまに北さんか?」
「変わりすぎやろ、なあなまえちゃん、なまえちゃ……」
はあもう北かっこええ……『頼むわ』なんてもう……なんなん……かっこよ……そんな笑顔で言われたら私もう、愛しさで胸がはちきれてしまう……あかん……あかんけど目ぇ離されへん……ぎゅうしたい……ちゅうもしたい……なにこの気持ち……、これが…………恋………………!?!?どんなときも『ただいま』を忘れへん男、好き……。なんかニコニコしとるかわええ好きちゅうして……。永遠に推せます……………………。
「………………」
「………………」
「ああ…………」
「ウン…………」
「懐かし……」
「これやわ……」
「やっぱ北、『メロメロ』覚えたやろ……」


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