風が冷たくなってきた。
いちょうが色づいて秋の山々が染まる少し前、一足先にと染まる田んぼ。見渡す限りの黄金が、涼しい風に撫でられそよそよと穂を揺らすその姿に頬がゆるむ。一面の黄金色が風で揺れ踊るのを見て隣のかのじょが穂波や、とうれしそうに声を上げた。
ええ風を肌に感じながら、穂の実りを目に湧くのはやはり、達成感。米づくりを生業にする者として、この瞬間がやはりたまらなく嬉しい。今年は台風や大雨も何度かあったけれども、なんとか倒れずに頑張ってくれたし、倒れてしまったところもあったが、稲を起こして手間をかけ、再び立ってくれた。そしていま穏やかにそよいでいる。
壮観やなあ。
何度季節を迎えても思う。
この景色が愛しい。
北、とこちらを見上げるかのじょの、期待に満ちた瞳を見下ろし、うんと頷く。
「収穫や」

『ア――テス――テステスゥ――』
青く晴れ渡った空に、その音が響く。
きいぃいん、と特有の小さなハウリングにキュッと感覚が締まった。
『テステステスゥ――』
「コラみょうじ!テスは一回や!」
『え〜コレやってみたかってんもん〜』機械を通したかのじょの声は、毎度おなじみアランの突っ込みも楽しそうにいなす。でっかいつば付きの麦わら帽子をあごのところで結んで身に着けるかのじょの顔は、陰っているが笑っているのがわかる。出会いがしら、友人にさんざん指さして笑われたそれを、本人はいたって満足げ、実に堂々とかぶっていた。ばあちゃんがくれたそれはかのじょによく似合っているし、かわええよと俺は思っているのだけれど。似合いすぎても笑われてしまうことがあるんやと、彼らの様子を見て知ることになったのだった。
ともあれ。
『エェ〜、本日は晴天の運びとなり……』
「それ長なるやつやろ!」言い切る前に、今度は路成が声を上げた。
「朝礼で校長が二十分しゃべるアレや!」
「時間間隔リアルやな」
さすが教師、と練が笑う。
できうる限りのしゃがれ声を頑張ったかのじょは『赤木うっさい』と不満をたれたが、練から「次のやつ頼むわ」と(面白がっとるやろ)声を掛けられるとムムッと考えるような仕草をして、数秒すると再度拡声器を口元へ持ち上げた。
『本日はァ、北農園にィ、お集まりくださいましてェ、誠にィ、ありがとゥございます』
「フ――ッ!」
三人が一斉に噴出した様子を視界に入れながら、フッ……!と自分の息も漏れた。
「ハハハハッ!」
「ハマっとる!ハマっとるぞみょうじ!」
「お前の、フッ……そのレパートリー……どうなってんねんッ……」
一昔前のデパートのアナウンスのように、妙な区切りに語尾を下げる独特のイントネーションのそれが記憶の底から一瞬で呼び起こされる、完璧な再現や。あれは人の多い喧騒の中で唐突に入るアナウンスへ意識を誘導するためのもんやけれど、今この開放感しかない、見渡す限りの田んぼという場においては限りなく意味のない……まあ、おふざけやな。なんで拡声器ひとつでそんなに遊べるんやろうか、とはなはだ不思議に思いながらも口の両端に力をこめる。かのじょのおあそびは非常に楽しいけども、ずぅっと遊んでるわけにもいかない。
「なまえちゃん」近寄ると振り返る。
「北!準備おわった?」
「うん」
頷いて、近くに停めてあるコンバインへ一度目をやる。最終のメンテナンスも動作確認も問題ない。直近で天気が荒れたわけでもないから倒伏しているわけでもないし、通年通りの刈取ができそうや。
「ほんなら、鎌配るわな」かのじょのそばに控えていたばあちゃんが、脇へ置いていた鎌の入ったカゴを手に取り、笑いの落ち着いたらしい三人の元へトコトコと歩いていく。両手でなぜかすっかり神妙な様子で受け取る三人へ渡した後は再びかのじょのそばへ戻る。それを確認してから、かのじょは今度はしゃきっとした表情になって拡声器へ声を通す。
『本日は北農園の収穫にご協力くださり、ありがとうございます!一日作業になりますので、休憩は適宜!クーラーボックスん中に飲みもんあります!疲れたら言うてな!よろしくおねがいしまーす!』
やや緊張のはらむ声で言い切ったかのじょはそう言って深々とお辞儀をした。
俺とばあちゃん、それから正面に並んだ三人の旧友もまたそれに倣う。
腹から声を出し、頭を上げて。
顔を見合わせて笑った。
「刈るぞ!」
「オー」
「よっしゃー!」
「なまえちゃんほら。一刀目」
ばあちゃんに鎌を渡され、促されると「えぇ〜?」なんて言いながらこちらをうかがってくる。頼むわ、と笑うと、きょうもたちどころに色づく頬の色。三人にもニヤニヤしながらせっつかれれば、ひとつ咳払いをして。「ほんなら。僭越ながら……」と静かに田んぼへ足を入れる。
「いきます!」と一番隅のひとふさに鎌を伸ばす。
鎌の内側で稲をひっかけていくらかまとめ、反対側の手でつかむ。それから鎌を根本付近へ斜めに入れて刈り取る。伝えたとおりの手順でひと刈りを終えると、刈り取った稲をつかんだまま目をきらきらとさせてこっちを向いた。意気揚々、続々と田んぼへ入り、付近を刈り始める三人を尻目に、俺はきょう、またひとつ恋をした。

片隅をある程度刈ってもらった田んぼにコンバインを進入させて、本格的に収穫作業を開始する。相も変わらず、このコンバインという乗り物に日常滅多と触れることのない大人たちの「おおおお!」と声を上げ子どものようにはしゃぐ姿が視界に入る。畦畔沿いに車体を寄せて、ゆっくりと直進を始めると、六十馬力のエンジン音が轟くなか、バリバリと稲が巻き込まれていく。根元から刈られた稲は波刃のついたドラムの回転によって穂先だけがはじかれ、揺動による選別が行われたのちに籾はタンクへ送られ、残ったわらはわら斬りのブレードで粉砕される。それが次の田んぼの肥やしになる。進行方向とコックピットをこまめに確認しながら、車体を操り、丹精こめた稲を収穫していく。まっすぐに進み、枕地では旋回して方向転換。十分に日が昇り、夜露をはらうことはできたはずでも、刈り切れなかった部分は後陣の手刈りに任せる。ばあちゃん監督のもと、こっちに巻き込まれへん程度の距離を保ってくれとる。向きを変えた時にちらと彼らの姿が見えたが、鎌を持つまであんなにやかましくはしゃいどった人間とは思えへんほど、真剣に働いてくれている。頼もしいなあ。
まあでも、そうか。
昔っからそうやったな。
ふ、と口元がほころぶのを自覚して、気のゆるみも引き締める。
重たいハンドルレバーへ手を添えて、再び旋回する。車もコンバインも、車体を操縦するにはちゃんと気を入れんと。一年間、じっくりと育ててきたものを刈り取るという晴れの日に、集まってくれる仲間のありがたさに胸を温かくしながらも、己の仕事にしばし没頭した。
「はあ〜……相変わらずすごいな〜」
「コンバイン操縦できるんエエな」
「…………かあっこええぇ〜……」
「みょうじ!しっかりせえ!」
「涙出てくる……」
「アカンな。これは脳がやられとるわ」
「北ってなんであんなにかっこええん……?」
「お前も飽きひん奴っちゃなぁ……」
「この世でもっともかっこええ男や……」
「世界にふたつしかない目玉独占しとる」
しばらくして、タンクの容量を確認してそろそろ移し替えんとと思い畦畔沿いまで車体を持って行って停車すると、そばにはすでに軽トラックがつけられていた。運転席にはなまえちゃんの姿があり、どうやら排出がスムーズに行えるよう移動させてくれたらしい。一度降りて、久しぶりの大地に足を踏みしめる。
「オウ北。おつかれ」
「おつかれさん」
「信介、こっからどうするんや?」と尋ねる練へ、身振り手振りを添えて説明を行う。そこで軽トラックのあおりを一面外して乗り込んでもらい、今はまだ空っぽの籾コンテナを去年経験しているアランと一緒になって広げてもらう。
「北!トラックここで大丈夫?」
「うん。ありがとうな」
「…………」はにかむかのじょにふと心をやわらぐのを感じながら、名残惜しくも再びコンバインへ戻ってアームを操作し、軽トラ組の誘導の元、コンテナの方へ近寄らせる。そして十分に排出口がコンテナの上部へ到達したのを確認してから排出の操作をする。
すると。
「わーっ!」
「出た!出てきた!」
「コメや!」
「いや籾やな」
「コメ出てきたぞ!」
ザーッ!と勢いよく排出された籾を見て、手を叩いてよろこぶ姿と言うたらもう。
籾をひとすくいして状態を確認する。それを横から覗き込むひとびと。
「すごいなあ、北!」
ひときわ近いところにいるかのじょが無邪気にわらって俺を褒めるものだから、たまらない気持ちになってしまう。
黄金色の海も、
頬をくすぐる風も、
踊る稲穂もこの香りも。
すべてをいつくしむように目を細めるその表情。
思いっきり抱きしめてしまいたい気持ちを抑えて、そのかわりあたまをかのじょのそれへ擦りつけた。わあ?とかのじょは首をかしげたが、逃げることもせず、ともに籾の出てくる様子を眺めるのだった。

刈ってもらって、刈って、出して。
というのをいくらか繰り返しているうちに時間は過ぎて、昼めしの時間になったらしい。満タンになったコンテナの運搬ついでに家へ運ばれたばあちゃんがかのじょへ連絡をくれたので、みんなで一度帰ることとなった。運転席ではなまえちゃんが慎重に慎重にハンドルを切りペダルを踏んでいる。北はずーっと操縦して疲れてるから、こっち乗って!とはかのじょの進言である。すでに何度か往復して多少はコツをつかんだらしいが、それでも教習所や家で練習してきた乗用車とは感覚がちがうため、まだ慣れへんようすであった。それでも慎重に丁寧にという姿勢の伝わる運転だ。取得して間もない運転免許が今日は大助かりや。ほかでもない、俺が。
「ありがたいなあ」
「……ん?なに?」
なんか言うた?と若干固い声が返ってくる。
「ふふ」
「なに!?なんかおかしい!?操作まちがってる!?」
「助かるわ」
「なに!?!?!?」
乗用車よりもうるさいエンジン音の向こうで、荷台から三人の男が談笑する声が窓からかすかに入ってくる。ゆっくりゆっくりと進んでいく軽トラックに運ばれて、自宅へたどり着くと屋内へ入る前に手足の土草を軽く洗い流す。頭から水をかぶって唸ったアランを見て路成が「おっさんやな」と笑っていた。玄関に上がるとばあちゃんがニコニコと笑い、めしのええにおいとともに出迎えてくれた。四人の男とひとりの女性の腹の音が一斉に鳴った。
「ハイお茶――!コップには自分でいれて!」
「ヘーイ」
「あーす」
「なまえちゃんも座っときいや?」
「ん〜でも作るのぜんぶ任しちゃったし……」
「仕込みは一緒にやってくれたやんか?」
「ンン…………」
「みょうじがきばっとる」
「役に立つところを見せたいんやろ」
「仕事にはミエッパリな奴やからな」
「うるさい!そこ!ほんまうるさい!」
おにぎり少なすんで!?ぷりぷりとかのじょが怒って気を取られている間に立ち上がって作業台に積まれた取り皿を運び出す。料理の乗った大皿を運ぼうと踵を返したところでわれに返ったらしいなまえちゃんが慌てたようについてきた。
「きた!ごめん〜!」
「なんで謝るん」
「私それやる!」
「ええよ。なまえちゃんこそ運転つかれたやろ。ほら座っとき」
「この家私にやさしすぎる……!」なんでか涙をぬぐう仕草をしながらとぼとぼと戻っていく背中に首をかしげる。ともあれ。ばあちゃんと二人で大皿をいくつか運び終え、配膳をしてくれたらしいかのじょの隣へ腰を下ろす。はずみでとんっと肩が当たると、なまえちゃんはみるみる顔を真っ赤にさせるので頬がゆるむ。
そして轟く腹の音。
「あ〜あ〜アラン」
「チューのひとつでもしそうやったで今」
「スマン!スマンて!」
笑い重なる食事のはじまりだった。

「ちゅーか。俺はみょうじが意外とスイスイ刈っとるのに驚いた」
「せや。へっぴり腰見たろ〜思っとったのに」
「ふふん。だてにフランスで小麦の収穫手伝ってへんわ」
「レモンも収穫してへんかったか?」
「ぶどうとトマトとジャガイモもな!」
「なんで農作業に従事しとんねん」
「早刈りのジョージに弟子入りしたかいがあったってもんや……」
「誰やねん早刈りのジョージ」
「なまえちゃんトマトとるんもえらい手際ええもんなあ」
「んふふ〜」
「意外と役立っとるやん」
「せやで意外と役立つ女、みょうじなまえです!」
「アピールしとる」
「ほれ信介、言うとるぞ〜」
「お買い得やぞ〜」
「もう買うとる。売り切れや」
「…………」
「アッみょうじ死んだ」
「享年二十四歳や」
「かわいそうに」
「俺をおいて死なんといて」
「…………!!!」
「悶え転がりだしたぞ」
「化けて出とる」
「ポルターガイストやな」
「はよ食わんと全部食うてまうで〜」
「あかーん!」

やや遅めの昼休憩を終えた俺らのところへ、昼営業を終えた治までが合流して、手分けして収穫の続きを進めていく。早刈りのジョージの自称弟子であったなまえちゃんは、毎年手伝いに来てくれとる治にお株を奪われて運搬や誘導へ回ることが多くなった。「ぐやじい……!」ばあちゃんによしよしと慰められつつ、意外にも立ち回りに不安を感じることはない。これも、世界各地を回る中、労働対価として一宿一飯を賜ることの多かったという経験のおかげなんやろうか。路成の言葉ではあらへんけど、ほんま、本人が言うとる以上に、こっちが思っとる以上に、すごいひとやわ。後輩にからかわれて、本気の地団駄ふんどるけども。ふふ、と息がこぼれた。
『おおみみくんが、いっぽリードしています。おじろくん、がんばってください!』
「小学校の運動会の実況いら――――ん!!!」
これだけの人手のおかげで、例年よりも作業の進みは早い。コンテナいっぱいまで籾を貯めては田んぼと家を行ったり来たりする必要もないので、非常にスムーズに場が回る。次は隣の田んぼ、と刈り終えた田んぼから退出すれば、次の進入路分の稲はもう刈ってくれている。刈り残し分もきれいに手刈りしてくれているので、その分は午前の分と同様はざに掛けておこう。ひとつ、またひとつと一反ごとに田んぼは刈られて、朝の早くにふたりで眺めたあの黄金の穂波はどんどん姿を消していく。それがもの寂しくもあり、誇らしくもあるんやから、まったくひとの心というもんはままならへんなあ。
そんなことを思っていれば、動作音の向こう側、耳障りのよい声が今度はかすかに耳へ入る。かのじょがまたうたっているのかと思い至る。ちょうどタンクの容量が八割ほどになったため、かのじょのいるほうへ向かわせる。
「なつかしいわあ」
かのじょの隣でばあちゃんが笑っていた。
コンバインから降りて、近づくとすでに軽トラックは寄せられ、荷台には路成とアランの姿が。コンテナを全開にしてアームのやってくるのを待ち構えている。お前らほんま手際ええなあ。レバーを操作してアームを彼らのほうへ下ろす。かのじょとばあちゃんのささやかな笑い声を聞きながら。
「ばあちゃんのお母ちゃんが、うたっててなあ」
「ひいお婆ちゃん?」
「エイ穂波、ってなあ」
「それ収穫だーそれ収穫だ、とーりーいーれーだー、って?」
「ふふふ」
「タータラッタッタッタッタッタ〜」
…………。
………………。
「どうしたんです、北さん」
「…………胸が、くるしいわ」
胸元をつかんでくるしむ人間を見たというのに、治はおかしそうに笑い出した。なんて奴や。
昼間は気温が上がるために、休憩は各自こまめに入れる。コンバインを扱えるのは俺しかいないために、俺が休めば全体が止まることになるという理由から作業を続けていた俺も、幾度目かの排出の終わりがけにしっかと腕をととられて軽トラックの陰に引っ張っていかれてしまう。それをニヤニヤと見送る友人と後輩の視線の、なんといやらしいことか。
「はい北、ここでちゃんと休んどいて!」
しっかりとあぜ道に腰を下ろしたのを確認して満足げにうなずいたかのじょがクーラーボックスから取り出した魔法瓶を持ってくる。十分は座ってるんやで、と言いながらそれを渡してさっさと腰を上げようとしたかのじょの腕をつかむ。
「へっ?」
「なまえちゃんもおって」
「き、きた」
「ゆっくり休みたいねん。わかる?」
「…………」なまえちゃんは少し黙ったが、そのあと小さく「わかる」と言って、隣に座り込んだ。肩がぎゅっとぶつかる。帽子を外してふわっと汗のにおいが香った。お互いのあたまもこつんとぶつかった。少し迷ったが汗だくのてのひらを一度タオルで拭ってからちいさなあたまにそっと回す。ほんのり湿った細い髪の毛を指先でなでると、もっとしてというみたいにすり寄ってくる。くちびるのひとつでも吸うてしまいたかったが、こちらをまじまじと見つめる目玉のあまりの多さにそれは断念した。渡された魔法瓶のふたを開けて中のものを注ぐ。ぐいっと呷ると口の中で広がる、冷たさと味に懐かしくなった。
「甘いな」
「配合昔とおんなじやで」
「そうなん?久しぶりやからかな」
高校三年間で飲みなれていたはずのドリンクの味は、こんなにも久しぶりやと記憶よりも甘く感じられた。年やろうか。ふふ、と笑いが漏れる。すぐそばのかのじょも笑った。中身を注いでカップを渡すと嬉しそうに口に含む。ひといきに飲み干したかのじょもまた「あま!」と言ってまた笑った。笑顔がきらきらとまぶしい。それもこんなに近くで。心臓がどきどきする。
「うん?」かのじょの肩にあたまを預ければ、不思議そうに声を上げたが「北、やっぱり疲れたな?」とひとり納得してよしよしと撫でてくれた。
「休憩はちゃんととらなあかんねんで!」
「うん」
「北はこん前もあやうく――」
うん、と相槌を打ちながら、かのじょの首にかかるタオルの結び目を解く。タオルの感触は嫌いやないけど、いま頬に当たるんはもっと違うところがええなあ。そんなことを思って垂れ下がった片端をつまんでぺろっと持ち上げた。あらわになったそこは汗ばんでいて、触れればきっと、ぴったり吸い付くみたいにひっついてくるぐらいしっとりとしていてさぞかしなまめかしく――
「せやから……北?なにしてるん?」
「うん?」
「なんでタオルまくってるん」
「さあ?」
「さあって」
「なんもないよ」
「ほんなら、結びなおして」
「いやや」
「なんもないんやんな?」
「ん」
「うん?ううん?」
「んー……」徐々に厳しくなってくる追及にことばを濁して首元にひっついた。くちびるが皮膚に触れると、やはり吸い付いてくる。さっきまであんなに訝しげにしていたなまえちゃんはひゃあっとかわいい声を上げて驚いた。
「こ、こら!きた!なにするん!」
「癒されとる」
ことばを失ったように息を飲んだ音がした。やっぱりこの感触がたまらんなあ、とくちびるでやわく食んでいるうちに、おもむろにあたまをつかまれて、思いっきり離される。ああ、終わってしまったと残念に思う。なまえちゃん痛いで、と大して痛くもないのに言うとぱっと手も離れる。
「こっ……」
「こ?」
「こ、こ、こうじょりょうぞくに反します!!!」
公序良俗て。かーっと一気に赤くなったなまえちゃんは、捨て台詞さながらに叫んだのち、すっくと立ちあがるとコンテナの向こうがわまで走って隠れてしまった。なまえちゃん?と声をかけるが出てこない。ふと目が合った友人は呆れたような顔をしつつも、手をぐるっと大きく振った。回り込め、という意味やろう。それとも、裏でやれ、やろうか?立ち上がって車体の反対側へ移動すると、かのじょはちいさくしゃがんでぷるぷる震えていた。なんてかわええひとやろう。向かい合わせにしゃがみこむ。
「なまえちゃん。怒った?」
「あ、あかんよっ、あんな……そとで……」
「うん」
「ひとがおるところで……」
「うん」
「……みんな見とった……」
これやからこんひとは。
普段あんなにお調子もんやのに、こんなに恥ずかしがって。かわええったらない。
「ここやったら、だれにも見えへんよ」
「…………」そのことばに顔を少し上げて、きょろきょろとし出すなまえちゃん。
な、おらへんやろ?と言えばちいさくうなずく。
なまえちゃん、と再度ささやいた。
「いっかいだけ、充電してもええ?」
「…………充電?」
「うん。あとちょっと頑張るために、なまえちゃんで充電したいなあ」
「…………」恐る恐るといった風に見上げてくる瞳のまあなんとうつくしいこと。いっかいだけ、と主張するべく立てた人さし指のこともちょっとだけ見つめて、また俺のことをじいっと見て、ゆらっとゆらめく。
「……いっかいだけ?」
「うん。一回だけや」
「……いっかいだけなん」
うん?
あ。これは。
「……やっぱり、三回」つぶやいて、そのまま返事も聞かずに覆いかぶさる。両腕の中にちいさなかのじょを閉じ込めて、ながくて気持ちのよいふたりっきりのカウントダウンにしばし夢中になった。今度は、なじることばなんか一切聞こえてこなかった。

とりわけ昼間っから力のみなぎったこの身体は、この場のすべての作業を終えるころにはほどよい疲労をたくわえて、すっかり刈りつくされた一面の田園を前に充足感に満たされる。むかしむかしのうたやという、まさに黄金の穂波というのも、また来年見られるようにこれから準備していかんとあかん。そして刈りきった稲や籾たちは、精米になるまでの手順がある。こっからや。こっから。やることは色々ある。ほかほかに炊き上がっためしを一口ほおばったときの、あの幸せを、大勢のひとに楽しんでもらうために。手で刈った一部の稲は、束ねて木杭で組んだはざへ逆さに掛けて乾燥する。コンバインに通せば脱穀できるし、家にはもちろん乾燥機があるけれども、やっぱりこうしてできた米は、ひときわうまいんやもんなあ。引っかけられた稲がずらっと並ぶさまを見て路成が「やり切ったな俺ら」と胸を張る。明日は筋肉痛やな、と最も身体のでかい練だけが苦笑した。隣のなまえちゃんもウンウンとうなずいて、まあそれは、俺がどうにかやわらげてやるとして。とにかくその日田んぼでの作業を終えた俺たちは再び北家へ戻った。やっぱり一足先に帰って支度をしてくれていたばあちゃんが、今ごろ彼らを出迎えているだろう。俺はというと、コンバインのメンテナンスのために倉庫前で一つずつパーツを外し、付着した土や籾殻、入り込んだ藁くずを取り除いていく。キャタピラの泥も、刃やギアの隙間に挟まった藁も、その日のうちに落とし切っておく。部品がとにかく多いが、手を抜くわけにもいかない。ブラシやクロスを使って黙々と処理することどれくらい経ったやろうか。
「北?」陰った視界に振り返ればかのじょが見下ろし立っていた。帰宅してしばらく経つはずやけど。まだ作業着のままやなんて、風呂にも入ってへんのか。
「なまえちゃん。どうしたん」
「あ、うん。籾格納して、さっき軽トラの掃除終わったところ」
「掃除は俺するのに」
「明日見て、足りんかったらそこだけして」
手伝うわ、と適当な木箱を持って来ては作業台を挟んで向かいに座る。
「ええよ。あいつらの相手しとき」
「あいつらは今ごろ畳の上でぐーすか寝てるよ。晩ごはんの時間まで起きんやろ」
さっき庭から回って覗いてきてん、とおかしそうに語るかのじょへ、とりあえず刃や尖ったもんのついていないものだけを回して、頼むことにする。
「今日は助かったわ。ありがとう」
素直な感謝を口にすると、「ん……」とくぐもった声を出して照れてしまう。手元に集中するふりをして、うつむいたかのじょを見てわらった。
「今年はえらい人手やったなあ」
「いつもは違うの?」
「治は毎年来てくれるけどな。都合つけてくれる奴もおるけど、簡単には合わへんやろ」
就いとる仕事が違えば、休みだってバラバラや。
それに第一、ボランティアやしなと付け加える。
「ほんなら、今年はえらい偶然やってんなあ」
「なんとかしてくれたんやろ。お前もおるから」
「私?」
「愛されとるなあ」
「……おもしろがっとるだけやし」
うん?
また照れさせてしまったなあ。
会話が弾むでもなく、消えるでもなく、ぽつぽつと穏やかにことばを交わしていく。おおらかな性格にしては、片付けや掃除といったもんを存外丁寧にしてくれる、というのはいささか失礼やろうか。とにかく、こちらの仕上がりを確認してから、そこまできれいにするんやと把握して動くような手伝いの仕方をするかのじょの姿勢は昔っから非常に好ましく思っていた。かのじょはひとを尊重する。当たり前のように。どこに収まるんかもわからへん部品を拭き上げるかのじょの手つきも、それを見る目もやさしくて、こういう時に俺は困ってしまう。
コトン、コトンと静かに並んだ部品たちを、最後は元のとおりに組み上げる。幾万粒の籾を詰め込んでいたタンクの中も、コンプレッサーで風を送り(なまえちゃんがやりたい!とはしゃぐのでやってもらった)残りかすなんかを吹き飛ばす。チェーンにまんべんなく油を挿すため、エンジンをかけて前進と後退を繰り返す。それが終わればやっとガレージにしまいこんで、後始末をして終わる。それでも洗車は明日へ回すのだから、コンバインのメンテナンスには人一倍気をつかう。作物だけではない、農機だって手間を惜しんではいけない。使い終わった鎌の手入れも本数も確認して、収穫物を保管する倉庫も二人で回る。運搬と管理を担当していたかのじょから報告を聞きながら、おおよそあたまの中で数えていた収支と処理の配分を考えつつ、やっと家の中へ上がるころにはすっかり日も沈んでいるのだった。
「ただいま」
「ただいまぁ」
そろって言うただいまになんでか笑ってしまう。
並んで手洗いとうがいをして、ついでに上着を脱いで居間へ帰れば、まず栗をむいとるばあちゃんと練が目に入る。そして縁側で庭を眺めながら巨峰を食うとる治の姿。路成とアランは畳に寝っ転がっていびきをかいている。そうっと足を忍ばせて、鼻をつまもうとするいたずらっ子をつかまえ、用意してくれていた着替えとタオルをふた山持とうとしたところで真っ赤なそのこはばしっと手をはたくので、北さんがフラれた!と仰天した治が口へ放ったばっかりの大粒を飲み込んだ。こらあかんな、腹から芽が出るわ。そう言って首を振ると、ええっと驚くかのじょが治の背中をもっとばしばし叩いた。
「ちょっなまえちゃ、なまえちゃんイタッ、痛い!痛いて!」
「吐け!吐くんや治!芽が出る前に!」
「出るわけないやろ!その北さんの言うこと信じ過ぎるんホンマなんなん、痛いてホンマ!ちょっと北さん!はよ今のうそや言うてください!ちょっと、北さん!北さん!?」
悲鳴に近いその大声に骨の髄まで保護者役のアランが飛び起き、寝起きから仲裁を余儀なくされ、真剣に栗をむいていたはずの練がなんでか俺を小突いた。今のは信介が悪い。せやけどなんで二回もするん。なんや、みょうじにしてもええんか?それはあかんな。やったら素直に受けとき。軽く痛むあたまをさすると、今度はすっかりこっちを心配したなまえちゃんがあたまをぎゅうっと抱きしめてくるので、俺は、どうにか一緒に汗を流すことはできんものやろうかと、ふかふかに包まれながら、考えるのだった。
「めんどくさっ!こんカップルめんどくさっ!」
シャツをまくって背中をアランに見てもらっとるらしい、治がなんでか叫んどった。


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