「なまえちゃーん!」
週初めの平日午前といえば、いくら天下の阪急うめだとはいえ高層階は客足もまばらの。土日の混雑が嘘のように落ち着いた人の入りに、初日よりはのんびりできるなあと他のひとの作品をゆっくり観たりフロア内をぶらぶらしたり大階段で北と大人の恋愛映画みたいに恋人同士の語らいをしたり。むしろその傍らで数少ないお客さんの対応をしたり備品持ち込んで発送作業をしたりオンラインの更新や対応をしたりと、充実した時間を過ごしていた私の平穏は、その一声で一変した。
来た。
ついに来てしもたな。
隣の北もすぐに気付き、同時に声のもとを辿る。
「おーい!なまえちゃん来たで〜!あつむくんやで〜?なまえちゃんの大好きな侑くん来たでぇ〜……ってんぉわっ!き、北スァン!?!?……チワァアス!!!」
やっぱりというかなんというか。
だだっ広い九階のフロア一面に響き渡るような非常に張りのある声量で初っ端から色々と問題のある登場の仕方をした認知度の高いバレーボール選手の宮侑は、なにがそんなに楽しいんかとんでもなく満面の笑みでこちらへ駆け寄ろうとするが、私の隣に立つ北の姿をひとたび認めてしまった途端、盛大に身体を震え上がらせた。表情のみならず浮かれまくった声色が驚愕へ一転、瞬時に胴を直角に折り懐かしの『やかまし挨拶』へ移行した。その変わり身のはやさといったらこいつの右に出るもんはそうそうおらんやろうな、と思いながら北とともに入口から離れたところにいるやかましい仲間を迎えに行くことにする。
「おはよう」
「おはようございますッ!!」
「うるさっ」思わず耳を塞ぎたくなる大声に顔をしかめる。汗だらだらや。うろたえすぎやろ。隣に立つ尾白はすでに呆れ返ったように侑を流し見ていた。いや見てんと保護者ちゃんと機能果たしてやと思う。
「な、なんで北さんおるんですか!田んぼはほっといてええんですか!」
「私が頼んでん。あんた騒ぐやろうから」
「なまえちゃん!?」
「田んぼは明け方から作業してきたわ。なまえちゃん手伝ってくれてんな」
「なまえちゃんんん!?!?」
「ちょっと北……」侑をさらにやかましくさせた北の服を引っ張って抗議した。しれっとした横顔はまっすぐに侑を見上げている。こん顔はわざとやな……?目ん玉を半分ほどむき出しにした侑の驚いた顔といったらもう。大口を開けて信じられないというような顔でこちらを見て北を指さした。声は出ないがなにが言いたいんかはよくわかった。返答代わりに私は胸を張ってふふんっと笑ってみせた。
「こんドヤ顔ムカつくわぁ」尾白が言う。
「そうか?」と北が首を傾げた。
「かわええやろ」
「お前最近甘やかしすぎとちゃうか?」
「ちょっと尾白、余計なこと言わんといて!?」
「ウワッ」
「北の気が変わってしもたらどないすんねん!」
「気が変わるってなんや」と今度は北が引っ掛かりを覚えて私に詰め寄るなどするもんやから、せわしないやりとりが継続する。みょうじお前まだ俺の気持ちを……、いやいまのは言葉のあやで……、せやけど……、なんて、明らかこんなところでするような会話ではないそれに気恥ずかしくなりながらもどうにかかれの不服そうな表情を晴らしたのち、こいつらまたやっとる……とでも言いたげな二人に向き直った。
「終わりましたかァ〜」
「ハイハイどうもすみませんね!」
こうなればもうヤケである。
なんで北はこんなけろっとしてられるん?
私がおかしいん??とはなはだ疑問に思いながらも、すぐさま氷解できる問いやとはとても思えなかったため、軽く咳払いをして気をとり直す。それにしても、と視線を投げた先は正面に立つ侑だ。
「なんで白スーツなん?」
「カッコええやろ?」
なんて自信満々に返してくるんや。
上等そうなジャケットの生地をつまみ、ヒラヒラと扇ぐようにしてそれを見せつける侑。その下に着用している色シャツには黒の細いストライプが入っていて、上下とも白のスーツの印象を緩和させているし、この迫力ある金髪の大男が身に着けることで、たいそうサマにはなっている。
なってはいるが。
「ちゃらい……」
「えっ!?」
一言だけ告げて隣の男の背後に隠れる。よく馴染むてのひらがやさしくあたまを撫でた。
「むり……」
「なんでや!よう見て!」
一度は北の後ろに隠れたが、よう見ろと主張する侑のために顔だけ出して、再度見上げる。
「うさんくさい……ホストとかやってそうや」
「こんなムキムキなホストおらんやろ!」
どうやら私は狙っていた及第点の反応を返せなかったらしい。侑は「なんでや!」と声を荒げてその場に膝をついてしまった。かんしゃくが激しいな……。
「大人の魅力に満ちあふれとるやろ!!」
こいつまだ自分のことわかってへんのか。ひとりで気合い入れすぎると、あんたは大体失敗するやろ。バレー以外やと余計に。恐らく少なからず慕ってくれている私の展示会にはしゃいでくれとるんやろうけど、いかんせん格好が悪目立ちするしちゃらいわ。ちゃらすぎるわ。こん格好が侑が大まじめに気合を入れた結果やというのならば、私は侑の将来が激しく心配になる。
「せめてウケ狙いやと言ってくれ……ウケを狙ってダダ滑りしたんやと……」
「俺ドMとちゃうねんけど???」
一方でカジュアルな普段着で身をまとめた尾白は「せやから着替えて来い言うたやんか……」とぐったりしている。止めさせようとはしたらしい。せめて保護者の忠告を聞ける耳があったらよかったな。これからも精進するんやで……とまで思うと気も楽になった。侑は激しく憤ったが。
「侑ええか、用途に応じた装いができんとあかんで?それが社会人というやつやからな」
「俺今真剣に心配されとる……?」
侑はどこまでも不服そうに首を傾げている。
この分やと再来週に出演するというイベントがにわかに心配になってくる。ファン感謝デーやっけ?今侑が所属するチームには稲荷崎の人間はおらんというし、ほんまに大丈夫なんやろうか。などと心配事が次々と浮かんでいた私だったが、カサカサと擦れるような音がしたと思ったら、不意に視界がまるごと赤く染まって「わ」と声が出る。それと次に、特有の豊かな香り。
「ん」
一歩後ろに下がって状況がわかった。侑が、ずっと握っていた花束を私の鼻先に突き出したのだ。
お祝いのお花、もう贈ってくれとるのに。
「なまえちゃんおめでとお!」
なんて笑うから、治のお店で私と北のことを祝ってくれた侑のことを思い出して不覚にもちょっとうるっとくる。こないだ赤いバラはあかんて言うたのに、なんて言葉もさすがに出てこない。どうせ、花束言うたらバラやろ!とか思ったんやろ。アホの子やなあ。
まったくもう。
「……ありがとお!」
かわええやつである。
両手でそれに触れると、ラッピングのセロファンが擦れてカサカサと音を鳴らす。透明とピンクの薄いシートが幾重にも重なって深紅のバラ達をふわっと包んで、同じ色のリボンできゅっと結ばれている。すん、と鼻を今度は寄せて芳しい香りを胸に取り込む。
「ええ香り」
「せやろ!」
はじけるような笑顔で嬉しそうに次々と言葉を連ねる侑の話にひとつひとつウンウンと頷いて、あれも聞いてこれも聞いてと口を開く後輩の少し色の変わった金髪を何度か撫でつける。侑はなんでか「アザース!!!」と声を張った。
「なあ北、一応聞くけどアレは……」
「なまえちゃんからは、アウトやな」
場も落ち着いて再び視線をまわりへ向けたら、なんでか尾白は「ハワワ……」とかわいこぶった女子のような声を出して私を見ていた。なんで急にアラン子ちゃん出てきたん?
なにはともあれ。
無事に祝辞と贈り物を大事に受け取った私は、もはやうっすらと聞こえてくるカメラのシャッター音なんてもうここまで来たら半ばやけくそで、ちゅうか今回はこの場にちゃあんと北がおるし。こわいもんなんてそういえばなかったわと思い出す。
「そんなら、中入る?」
「入る!」
「そういや絵ぇ見に来たんやったな」
「侑。お前中ででっかい声出しなや」
「ハイッ……!!!」
「ひきつっとる」
「悲鳴のような声やってんけど」


監督、明後日来てええって。
北にそう言われたんは、展示会初日の晩やった。
私は初日の公開を終え北家に着くや否や、北の膝枕で寝落ちしてしまい、起きた頃にはすでに夕食が準備されていたため、その支度に混ざれなかっただけではなく、北の入浴時間を盛大に遅らせるという失態をおかしたあと、片付けぐらいはやり切ったところへほこほこと湯気立つ北が戻ってきたと思ったら、その場で私をぎゅうと抱きしめて、そっとささやいた。私はえっと声を上げて驚いた。なんと、私がのんきに北のお膝で気持ちよく居眠りをしている間に、北はクロカンに電話をしていたのだ。挨拶だけではなく、その手前の電話も一緒にするつもりだった私は、そりゃあもうビックリした。ビックリしたし、まずいなと思った。なんでって?そりゃあそうやろ。やって、北と一緒に怒られるんやったら、そんなにこわないなって思っとったんやもん。それが、北だけ先に報告を終えとったやなんて。そんなことがあってもええんやろうか。私がそんな打算をしているとは思ってもなかったんやろう、なまえちゃん寝てしまいましたって言うたら、『ほぉん』やって。と北が言うたので、私が明後日怒られるんはもう揺らがなさそうやった。侑と尾白のやって来る時間帯まで確認してくれたらしく、訪問するのは二人と別れた後の六限目が始まる時間のころとなったようだ。そん時間は授業あらへんて。そう言った北も、どこか記憶をたどるような瞳をしていた。制服着て行こうかな、とつぶやいたら、それこそ叱られてまうでと言ってくすくすと笑った。それを見て私の胸はぎゅーんとエレキギターのようにかき鳴らされた。もうむり。きたしんすけちょうすき……。
そんで今。
懐かしの校舎が目の前にそびえ立っている。
「来てしまったな……」
「壁塗り直したんやなあ。白い」
「ええなあもう報告?終わらせとるひとは!気ぃ楽で!」
「なんや、怒られるん怖いんかなまえちゃん」
「こわないもん!」
「手ぇつなぐ?」
「つなぐ!!!」
差し出されたてのひらを勢いよく掴むとなんでか北が声を上げるほどに大きく笑った。指をしっかりと絡めたのち、稲荷崎高等学校、と厳かな書体で記された校門で仕切られた敷地へ一歩、足を踏み入れた。その途端、耳に入ってきたのは予鈴の音。
あ。と思った瞬間、あたまの中にいろんな記憶が浮かんできた。
「…………」
歩き出してすぐに足を止めた私を覗き込んだ北の目がまるくなった。
じわあっと視界がにじんでは熱い。
てのひらでつながった温もりと、私を見つめる北のまなざしが胸を突く。
三年間という決して短くない時間をここで過ごした、思い出の場所にいま、北とおる。
北と手をつないで、心を通わせてここにおるんや。
「なまえちゃん」愛情にあふれた声で私の名前をつむぐ。そのさわりのよさにまぶたを震わせると、おおきなつぶがぽろっと落ちて地面をほんの少し濡らした。もう片方の目にたまったそれは、大きくてぶあつい指がそうっとぬぐった。
「なまえちゃん行こう」
「…………うん」
北がわろてる……。
なまえちゃんって呼んだ。
私にさわる。
どれもこれもが前にここを歩いたころとは違っていて、それは私にとって、とてもとても大きな違いで、一歩足を動かすごとに、私はいちいち心がふるえて、胸がくしゃくしゃになった。
北に手を引かれてとことこ歩く。
校門を抜けて校舎の前を突っ切ると懐かしい昇降口があるが、今の私たちはもうこの学校の生徒ではない。校舎と並行に足を進めて中ほどにある正面玄関から私たちは入ることとなった。うっかりそのまま進みそうだった私を引き留めてくれた北も、少しぎこちなかったように思う。正面玄関を入ってすぐのところに事務室の窓口があって、顔を出した用務員さんに北が要件を伝えると来客用のスリッパへ履き替えるよう案内を受ける。来客用スリッパ……、と不思議な心地で言われるがまま足を通して脱いだ靴をそろえる。再び立ち上がったところで「おお、北!」と低く強い声がして振り返った。
「お久しぶりです」
「久しぶりやな、よう来てくれた!」
快活な笑顔をにいっと浮かべるそのひとは、相も変わらずジャージにサンダル。首からホイッスルをぶら下げて。黒縁メガネのレンズは少し厚くなったように感じる。すきっとした短髪は見慣れた髪型で懐かしいが、悲しいことに、ほんの少し額の面積が増えていることに気づいてしまった。クロカン、と声に出したらものすごい勢いでこっちを見た。
「お」ん?
「前」あ、歩い「は」てく「ァア……」る。
「お久しぶ」
「遅いんじゃこんッ、どアホ!!!!!」
べしこーん!
「あだ――――ッ!?!?」
思いっきり頭頂部をはたいたおっきな手。
北よりもさらに分厚く容赦のないそれに、衝撃のままふらついたが肩を北に支えられる。
「いたい!ヒドい!」
「ヒドいんはお前や!!!」
頭を抱える私をギッとひと睨みしてから、それはそれはでっかいため息を吐いたクロカン。これは怒りを抑えるためのやつだ。息が震えとる。こわい。いたい。
「帰ってきたなら帰ってきたで、電話の一本ぐらい寄越さんかい」
「うぐっ…………」
「五年間、なんの知らせも寄越さんと、お前はホンマ……まったく……」
目元を手で覆い表情が隠れてしまった。これは怒りが深いな……とお察しする。そして頭がとてもズキズキする。その部分をやんわりと撫でてくれる手のひらの持ち主にたまらずすり寄った。
「きたぁ……いたいぃ〜……」
「信介に甘えるな」
「いたっ!」また叩かれてしまった。しかも今度はゲンコツや!勢いつけられてないのがせめてもの恩情やろうか。それにしても痛い。私は今度こそ北を呼んだが、北はというとやさしく私を支え頭を撫でてくれているというのに、「すまんけど」と首を振る。
「お前の連絡不精に関しては庇い立てできんわ」
「きた!?は、はんぎゃく!?」
「反逆とちゃう。お前向こうおる間、アランにしか連絡してへんかったやろ」
心配したし、あれは寂しいわ。なんていっちばん好きな人から言われてしまえば私にもうなすすべはない。クロカンにも北にも向き直って「すみませんでした」と頭を下げると、しかめっ面のクロカンの溜飲も少しは下がったのかどうなのか。またもやでっかいため息をひとつ吐かれて、乱暴に頭をかき回された。
「そんな気にされとったんやったら……北とクロカンにも送ればよかったな、絵はがき……」
「せめて意思の疎通とれる媒体にせえや」
はあ。まあええ、行くで。
と言い背中を見せるクロカン。
私と北は顔を見合わせて、かつての恩師について行った。

迷いなく歩くクロカンに付き従うこと数分。
校舎を出たあたりからなんとなく察していたが、私たちが連れて来られたのは体育館だった。第一体育館。男子バレーボール部の活動場所である。今の時間は体育の授業がないらしく、入り口は開放されているらしいが物音ひとつ聞こえない。数段のステップを上がって入口のところでスリッパを脱ぐ。一応な、と言いながら準備していたシューズを取り出して履き替える北を眺める。私のシューズは日本を発つ前に処分してしまった。その時は思い出に浸ってしみじみしとったぐらいやったけど、いまはこう、なんや、もの悲しいな……。しんみりしつつ、空いている下駄箱にスリッパを突っ込み、二人のほうを見ると、その視線が下駄箱の上部、壁のほうへ向けられていることに気づいた。ん?と思って二人に倣う。
「は???」
まぬけな声が口からこぼれた。
私の絵が……飾られとる。
「え?えっ??カ、カン」
「なんや」
「こ、これなんでっ……」
「なんでって、お前が俺にくれたんやろうが」
こともなげにそう言って、再びそれを見上げるクロカンに、私は返すことばを失った。
――なんて顔して見とるんや……。
えらい横に細長いキャンバスが、綺麗に額縁におさまり壁に掛かっていた。はじまりは手に持って抱えられるだけのサイズだった。けれど描いていくうちに、ここまで描きたい、こんひとも入れたい、やっぱりここも、これも入れなと、継ぎ足され継ぎ足され継ぎ足され――結局元々のサイズの五倍長くなったこの絵は、それぞれのキャンバスの端っこを裏側から金具で接続して固定する仕組みになっている。たっぷりと時間をかけ、心を込め、思う存分描き込めたので、描き込みの仕上がりにはこれ以上ないほど満足しているが、絵づくりに関してだけ言えば完全に失敗しとる。私が学生時代に完成させた、最後の絵。
こんなん合うサイズなんてなかったやろうに。
ユニフォームを身に纏い、飢えた獣のように目をぎらつかせる少年たち。トスを上げるセッター、高く飛び、打ち下ろすために助走へ入るスパイカーたち。ネットを挟んだ向こうはそれを阻む壁をつくる。コート内に手を伸ばすリベロ。外側からともに闘う仲間たち。観客の声援。横断幕。監督にコーチ。跳ねる鼓動。途切れる呼吸。煌々とひかる眼。真摯な指先。駆ける脚。真っ赤な闘気。頼もしい背中。肌を焼く照明。回転するボールが、空を裂く音。ひかりを反射するツヤツヤの床に落ちた汗。私が三年間見てきた景色。
あんときの一番がここにあった。
「………………」
五年も経って、自分の手を離れたそれがこうして実際に飾られているのを見ると、それを見ているひとの横顔を見ると、なんや胸にこみ上がってくるもんがある。ほのかな苦しさを感じて胸を抑える。その拳を、上から包む手があった。眉を下げたかれも、なんだか苦しそうに見えた。
なんやろうなこの気持ちは。
こんなにも堂々と、母校に掲げられていることへの驚きとうれしさ、照れくささ、誇らしさ。描いた当時の記憶や描かれている思い出の懐古。北信介に負け続けた日々。なつかしく、騒がしく、激しく、苦くも楽しかった毎日が今はもう遠いところにある。別れを告げる時間もなかった。五年という月日があっという間に過ぎていった。あの日ここで出会ったことで、動き出したものが多くあった。多くの汗と涙をここでこぼした。すべてを賭して向き合い進む背中を見て、何かがおのれに問いかけた。――おまえはきょう、何をする?
「こんな風に見えとったんかって思った」
北がそっと口を開いた。
凪いだ声で、瞳をして、私の絵を見る。
私のいない私の絵を見上げている。
「勝っても、負けても、日本一になれんでも、初戦敗退でも、きょうの挑戦が成功でも失敗でも――試合に出ようが出れまいが。みょうじは俺らのことを、こんなにも勇ましく見てくれとったんや……て、これを見てわかった」
なんだかんだ関係者全員の姿の描かれた絵を順に目で追って、ふっと笑う。
「見とってくれてありがとう」
きゅうと穏やかに細まる双眼。その頬が色づいているのは、私に対する情がしっかりと込められているから。そのやわらかい、ほどけた笑顔を、見たくて見せてほしくてたまらなかった。そよそよとそよぐ、風みたいにゆるやかで心地のいい声。
「みょうじが俺らのマネージャーでよかった」
ほんまはあの日に言いたかった。
そうやってまた笑って。
不意打ちでそんなこと言うから――こっちは毎回泣きたくなるのに。
ほんまに北はずるい。
ずるい。ずるいのに、化粧も崩れるのに、なんでこう、なんで――
なんで報われたなんて思うんやろう。
見返りを求めてたわけではないのに。
なんでこんな。
北に恋するなまえではなく、稲荷崎高校男子バレーボール部のみょうじなまえがいま、よろこびにむせび泣いている。「ウワッ」とクロカンが驚いて、ティッシュどこやと探し出す。北は当然のようにポケットティッシュを取り出して私の目下にあてがった。さすが私の恋人や。クロカンも見習ったらええよ。心で思っただけやのに小突かれた。なんでわかったん。こわ!
「なまえちゃん」
「……だい、じょぶ」
ティッシュはありがたく受け取って、その場でちーんと鼻をかむ。目元を軽く叩くように拭って、ぶ厚い水膜の晴れた視界で北をとらえた。
「大丈夫や北。ありがとう」
「…………」
「あんな。私もな……」
私も、みんなに出会えてよかった。
ここで出会えたんがみんなで。
「三年間、最高にカッコええ姿を見せてくれてありがとう」
みんないつでもカッコよかったよ。
こんなん今さら恥ずかしくて、ぜったいに冷やかされるやろうから、北にしか言われへんけど。
私の自慢で宝物やった。
必死に汗だくになって、腕も足もパンパンになるまで駆けずり回った。笑ったり怒ったり泣いたり、どこよりも濃密な時間を過ごした、この第一体育館。そこに飾られた自分の絵が、あの頃の自分を連れてくる。
ただ絵を描いて生きとるだけやったみょうじなまえなまえが、マネージャーのみょうじなまえになって、北に恋するみょうじなまえになった。
いまは画家のみょうじなまえで。
北の恋人のみょうじなまえ。
――出世したなあ。
「この絵は……あん頃の私の卒業制作やねん」
ちょっと不格好になってしまったけど、と続けながら手を伸ばす。油絵特有の凹凸ある表面は額縁にはめられたアクリルで保護されている。ご丁寧にマットまでつけてくれて。なんやこんなきれいに飾られると、なんかそこそこええもんのようにも見えてくる。クロカンがやってくれたんやろうか。そうやったら嬉しいなあと思う。
「これ持って行ったとき、クロカンに言うたな」
「ん?」
「私らんこと、忘れんといてくださいって」
頬がゆるんで仕方がない。クロカンが、私の言ったことを聞いてくれた。厳しいけど私らのことをちゃんと見て理解しようとしてくれとった、尊敬する大人が、巣立っても私らのことを忘れずにおってくれる。帰国の報告こそ忘れたが、どこからか展示会の情報を得てお花まで贈ってくれたんは、自分の落ち度に恐怖を感じたが、実をいうと、めちゃめちゃに嬉しかった。
「こんな目立つ、毎日おるところにあったら、忘れられませんね」
「……アホぉ。お前らみたいな手ェかかる代のことなんか、忘れたくても忘れられへんわ」
「ふふ」
「何笑てんねん!」
「ふふふ」
「北まで!オイ笑うな!」
照れ隠しに怒ったふりをするクロカンにますます笑った。かつての教え子二人から笑われたクロカンは顔を真っ赤にして「エエから!はよ!中入れ!アホ!」ぷりぷりしながらフロアへ上がっていく。その背中に続こうとした瞬間、くるっと振り返ったしかめっ面。
「…………おいみょうじ」
「うん?はい?」
「お前、忘れるなって言うなら、自分のことも描いとけや」
不満げに呟かれた言葉に面を食らった。
思わず何度か瞬きをして、離れ際にもう一度自分の力作へ目を向ける。端から端までさっと目を通して、ああ、と声が出た。
「ほんまや!忘れとった!」
すっぱーん!
鳴りのよい平手が、第一体育館内にこだました。

「おかしい……」
「どうしたんみょうじ」
「北!なぜ私ら、ボール磨きしてるん!?」
「あん?」
「クロカン!私らは、ご挨拶しに来たのであって、労働しに来たんやないで!」
「ジュース買うてやったやろ。ホレしっかり働かんかい」
「北あ……」
「なんや懐かしいわ」
「北あ!」
「しゃべるついでに手ぇも動かしてボールが綺麗になる。お前らは懐かしいし、あいつらの仕事も減るから練習時間が長くなる。誰も損せえへん、一石三鳥やないか」
「思い出した……ときどきOBのひとが来た言うてたとき、備品とか体育館とかちょっときれいやった!おんなじことさせとったんや!」
「ええやないか」
「しれっと!」
「お前ら好きやったやろ、ボール磨き」
「ウッ…………」
「なあおいみょうじ??ンん???」
「は、ははは〜っ……」
「そういえば、よう手伝ってくれとったな」
「え!?ああその、うん、まあウン……」
「ハハハッ!なんやお前ら、相変わらずそんな感じなんか!」
「そんな感じって、なんですか?」
「コイツの部活時間外の手伝いは基本なあ」
「クロカン!あかん!それはあかん!」
「コラ!監督の話を遮んなや!」
「もう卒業したもん!クロカンなんて、こわないもんねぇ!」
「言うたなお前、このっ……!」
「やあーっ!」
「……相変わらず、監督となまえちゃんも仲ええですね」

「はー……つっかれたあ……終わった……」
「おう。ついでにドリンク準備しといてくれ」
「OB使い荒ない!?ねえほんま!!」
「ケチケチすな。ほら鍵、場所変わってへんから」
「も〜……!ほんなら北、私ちょっと行ってくるな。ついでに差し入れの粉もしまっとくわ!」
「俺も行くで」
「クロカン。こういうとこやで。見習わなあかんのとちゃいます」
「うるさいわ」
「ありがとう。ええねん、北はここにおって。クロカンひとりぼっちやと、寂しいやろうから」
「ホンマにうるさいわ!」
「いってきまーす!」
「マネージャー今年はおらんのですか」
「おらん。今は部員で持ち回りやねん」
「そら大変ですね」
「せやな……あんなうるさいのでも、おるんとおらんのとでは、やっぱり違うわ」
「…………」
「……お前らほんまに付き合うとるんやな」
「電話で言うたやないですか」
「聞いたけども。手ぇつないで来た時は涙出かけたで」
「その節は、心配をかけましてすみませんでした」
「俺もまさか北を心配する日が来るとは、思とらんかったわ」
「すみません」
「ええ、ええ。うまくやっとるならそれでな。そうか。あのみょうじとなぁ……。コメの方、もうじき収穫やろ」
「あ、はい」
「北の米はいっつもうまいけど、今年食う新米はもっとうまいんやろうな」
「――ふ。そうですね。夏からの伸びが、格別よかったんで」
「ヨメの方も、ええ頃合いで収穫したりや」
「…………」
「オイなんか言え!俺が恥ずかしいやろが!」
「いや――そうですね。収穫したいんは山々なんですけど」
「ん?なんかあるんか」
「なまえちゃんの心が育つんを、今か今かと待っとるんです」
「……そら楽しみやなあ」
「はい。すくすく育つように手ぇかけるんは、楽しいですよ」
「……そうか。お手柔らかにしたれよ。急にあれもこれもやったったら、あいつ死ぬで」
「ははっ」
「いや、『ははっ』やあらへん」


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