曜日の感覚のない仕事をしとったら、土日のこの混雑具合は仰天するよなあ。大阪梅田の、阪急百貨店内はことさらに。特段誰かが大声を張り上げているわけでもないのに、普通の道ゆく人の話し声だって、それが数百人がそぞろに歩くこの空間では、壁一枚隔てたところでは喧噪と切り離すのはなかなかに難しい。開け放たれたブースの入口から、まるで風が通っているかのようににぎやかな音が入ってくる。それどころか足音までどかどかと近づいてくるのが伝わってくる。
そう、どんどんどんと近づいてくる……。
阪急うめだ本店九階。
日本ではじめて参加するグループ展示会が、午前十時、開店とともにスタートした。
まさかこの日本で、初日の午前中から人であふれ返るようなことにはならへんやろうと高を括っていた私は、開店と同時に流れる店内の音楽が鳴りやむか鳴りやまないかというところでおもむろに入ってきた人、その後ろにまた人、人人人の姿に開始早々目を剥くこととなった。こんな初っ端から乗り込んでくるひとなんて同業、あるいは身内かという関係者ばっかりやと思っていた。それがどうやろう。それらしき人はちらほら見かけるし、なんなら私もポカンとしてられんと、会話交じり撮られながら応対してはいるが、ただ単純に絵を観に足を運んだのだと言わんばかりの様子でぐるりと中を見て回るひとも予想以上におって、私は顔に出ないよう気をつけて、心のなかでただただポカンとしていた。
『ここは――人来ますよ』
高円寺さんに言われたことばをにわかに思い出す。
ご本人は入口の手前のほうで並び立ち、来場者を出迎えていらっしゃる。気さくで人当たりのよさそうな笑顔の裏で、彼が会社に捻出させた広告費の額は計り知れない。夕方のワイドショーでも特集されとったもんな……。まあそれはうまいもん市に三分の二ぐらい持ってかれとったけど……。
催事場にも大階段も近いから、ついでにも時間つぶしにも人が集まるんやろうな。
「うわっ。すご……」
「こまかっ!」
「ほんま、写真みたい!」
「きれー……」
「ものすごいな、これ五枚つながっとるん?」
「これどこなんやろう?」
「筆致すごない……!?」
「まずこれ筆……?」
まあなんやかんや言うても、ひとに見てもらえる場があるというんは幸せなことやな。見知らぬひとの横顔が、きらきらと輝いていく。それを見るのは好きや。絵というのは生きていくうえで必須のものではない娯楽やけれど、ひとの生活をほんの少し彩る力になれる。かもしれない力がある。
「みょうじさん、よろしいですか。以前連絡差し上げた月刊『現代美術』の――」
「あ、はい――」
受けた質問に頭を悩ませつつ、一生懸命話している間に写真を撮られ、そのかたわらで楽しそうに興味深げな様子で眺めていく人々を盗み見つつ、ときおり百貨店の店員さんによって掲示されたタイトルの横に、シールがそっと貼られていく。
…………。
めしの種に感謝合掌や。
「みょうじさん!お花届きました!」
「ありがとうございまぁす!」
ありがたいことにお花も届く。人垣の向こうから聞こえてくる知らせに声を張って返す。落ち着いたら見に行こうと、さらに記者やショップカードをしげしげと手に取る来場者の方にご案内をしたり質問に答えたり、店員さんに呼ばれて購入者の方の応対をしたりと思いのほか忙しい。もうすぐランチタイムで飲食店が賑わうし、十三時から催事場でライブペイントがあるから、午後は大分落ち着けそうやけども。机に陳列していたミニキャンバスが結構好調やな。買い物のついでで寄ってくれるひとも多いやろうから、あんまり荷物にならへんようなお土産サイズにしといてよかった。個展ではもう少し大きいものを置く予定である。ショップカードは帰ったら刷り直さんと。あ、まためしの種……。
「みょうじさん、なんで合掌してはるんです?」

「うわ。角名からやん……」
予想通り、午後に入ると人足は一気におさまった。午前中の売上の台帳を確認したり在庫を補充したり、掲示されている購入が決まった絵に別れを告げたり、あとは人のいない隙を見計らったガチの取材を受けたりと、私のやることもひととおり終わってから、新たに届いた花々を見て回る。昨日侑が贈られたお花や尾白から届いたお花、あとは向こうでお世話になったサロンや画壇、印刷屋さん、以前絵を描かせてもらった高貴な方からいただいたお花。二列目まで設けて新たに置かれたお花の名札にはまだ会っていない懐かしい後輩の名前が書かれていた。なるほど、それで今も人がちょっと集まっとるんやな……?数人の女性がスマートフォンで写真を撮っている邪魔にならない距離からその様子をうかがい、記憶の中のひとをくった笑みを構えるくそがきを思い浮かべる。奴はいま長野やったかな。グループ展があることなんて知るはずもないのになんで花届くんや。侑か治、教えよったな……?その隣には治からも届いとる。おにぎり宮、とこれも毛筆で力づよい……あっ泣きそう……。
「このみょうじってひと宛のん多ない?」
「な。有名なひとなんかな??」
「ちょっと中見て行こっか!」
「あっちょっと!ミヤアツもおる!」
「なに!?ほんまこのひとなに!?」
お花だけは私、そうそうたる面々やなほんま……。
見掛け倒しもええとこや……。
特に元バレーボール部。
ほんまあいつらまじバケモン。
そしてそんなバケモンたちを統べ従えとった北信介ちょう男前。世界中のどこ探しても、北信介よりかっちょええ男なんかおらへん。最高。好き。きゃっきゃと楽しそうに話しながら展示場へ入っていく声を聞き流しながら、ずらっと並んだお花たちの前で自分の恋人の姿を思い浮かべて心ときめかせれば、午前中の気づかれなんざマッハで吹き飛んでゆくみょうじなまえであった。
「みょうじさ……またボーッとしてはるなぁ」
「あの人の頭ん中って、どうなってるんでしょうね?」
「おや。鬼藤さんお嫌いなんですか」
「いや……なんかしら掴んで、あやかりたい」
「はははっ!」
様々なひとの助力によって、午後からも客足はぼちぼち。私自身もそこそこ忙しくさせてもらった。展示している作品は全部で二十五点ほどあるが、五分の三ぐらいは無事に行き先が決まった。本当にもう、ありがたい限りである。複製画や小物は、よりスムーズに在庫がはけている。オンラインショップの方も先ほど確認したが、ちらほらと受注が入ったようだった。それもこれもきっと北家のご加護があってのことだと思ったので、北家のある方角に向かって手を合わせておく。
「なむ」
「なまえちゃんなにしてるん?」
「ん?……あっ!?」背後から掛けられた馴染みの声に振り返る。素敵なジェントルメンと素敵なレディ、それに素敵なグランマがよそゆきの恰好で立っていた。えっ……。えっなんでおるん???
「北パパ!北ママ!おばあちゃんまで!」
思ってもみなかった人たちの姿に一気にテンションが上がって三人に駆け寄った。
「えっすごいすごい!なんで?来てくれたん!?好き!!!」
「告白されてもうた!」
「信介怒るで」楽しそうに北パパが笑う。
「目ん玉飛び出たで!?見えた!?」
「めっちゃ驚くやん」
「な?言うたやろ?」と得意げに息を吐く北ママ。どうやら言い出しっぺは北ママらしい。飛び出た目ん玉と心臓を手で戻すボディランゲージをしながら、ニコニコしているお婆ちゃんをのぞき込む。今日も癒される素敵な笑顔やこと。その両手をやわくにぎにぎしながらふふっと笑い合う。肩の力抜けた。
「信ちゃんもあとから来るで」
「えっ?」
「一緒に来れるかな思て、俺も午前中手伝っとったんやけどな。配達入ってもうて」
「私らんこと恨めしそうな顔して見とったわ〜」
「えっえっ」
「あんたが信ちゃんからかいすぎやねんて」
「そ、そんなつもりしてくれとったん……!?」思ってもみなかった言葉に、再び目ん玉飛び出してきそうや。たしかに、時間みて来てくれる言うとったけど……。会期中の話やんか。そんな初日から……、そんなん……、そんなん……、
「ときめく…………」
「あっこれアトリエで見たやつや!」
「ほんまや。色重なるとまた雰囲気ちゃうなあ」
「なまえちゃんのこのシュッ!!て感じ好きや〜」
「お値段のところ、シール貼ったるな?」
「コレ『売れましたよ』って印やで」
「そうなん?すごいなあ。他のも貼ったるやん」
「なまえちゃんって結構有名やで」
「はあ……並ぶとほんま、壮観やな……」
「ミニキャンバスやて。かわええなあ」
「あっほんま。かわええ。これ私欲しいな。ちょお払ってくるわ〜」
「えっちょっと北ママ」
待って待って。ひとが恋人に思いを馳せている間に三人は思い思いに動いて北ママはミニキャンバスを手に奥の会計場へ向かわんとしている。あわてて呼び止めてそれに描かれている絵の内容を確認する。ああ、この田んぼのやつ。
「それ複製やし、買わんくても。新しいの渡すよ」
「えっ?ええん?買うで??」
「献上させてください……ぜひ……」
「ほんならあとで話そうか」満足そうに北ママは笑って、キャンバスを元のところへなおした。こちらは安堵の息を吐くばかりである。恋人のお母さまにまさか、自分の手仕事を売りつけるなんてできんやろ。北ママが欲しがるとも思わんし。びっくりしたな……と胸をなでおろす。またなまえちゃんで遊んで、とお婆ちゃんが呆れたように北ママをとがめたが、家系一・二を争うというマイペースな人格をもつ北ママに今のところ効果は見られない。ほかの展示物を順番に眺めていく北パパのほうへ向かう後ろ姿を今度は見送った。
「まったく。仕方のない子やなあ……」
「ははは……」
「なまえちゃんは、何時までここにおるん?」
「ん?んー……とりあえず初日やし、ざっくり夕方って感じかなあ」
売上報告や連絡相談なんかは端末に飛ぶので、極論描いた本人がおらずとも、場は成立してしまうのだ。それでもメディアや関係者が来るし、お客さんと直接話をすることで新たに受注できる案件も生まれるから、まったく来ないわけにもいかないだけで。それでも一日中ここに張り付いているとしんどいし心が病むので、ちょこちょこと中抜けをして、そこらへんをブラブラするのである。ちょうどうまいもん市をやっているし、イベントもあるので見どころは多そうや。そして人もたいがいそっちへ集まっている。うまいこと英気を養いつつ、待機する所存であった。みなさん大体そんな感じやと思う。
「北来てくれるなら、会えるまではおろかなあ」
「ふふ」
「なんで笑うん?」
「ええ、なんやろ。ついなあ」
「ついかあ」ついやったらしゃあないなあ。
なんて言いながら、北に会えるとわかった途端に心がうきうきと弾みだす。なまえちゃん、と穏やかな声が耳に響く。ここ二か月やそこらで、記憶の中の北信介の解像度大分上がったなあ。高校時代からは想像もつかへんような北の一面が、どんどん綿密に積み上がっていく。はあ、と情念のこもった熱い息を吐いた私を見上げて、お婆ちゃんは再度笑った。

「みょうじさん。またお花届いてますよ」
もはやお花どんだけ届くの???
とは思ったが、呼びに来てくれた高円寺さんにお礼を言ってブースを出る。今日新しく届いたお花はどんどん手前の方に並べられていくが、一応宛名別にまとめてくれている。前日に届いたものと合計すると、なかなか、数……。お花屋さんはちょうど設置を終えたようで、私が出てくるとほぼ同時に手際よく撤収していく。一番最新のものであろうそれの前へそば寄って、それを確認する。これはまた見事なお花やなあ。なんて思いながら、視線を徐々に上へ上げて名札のところを見た。
「えっ」
「どうしました?」
あとをついてきたらしい高円寺さんの声が掛かるが、私は開いた口が塞がらない。名札を見て目ん玉をかっぴらいたまま動かない私の視界に高円寺さんがひょいと入ってきて、私の視線を辿ったかと思うと、不思議そうな声で、ついにその名を読み上げた。
「稲荷崎高等学校、男子バレーボール部……?」
「ヒイッ」
やっぱり見間違いやない――!
「みょうじさん、なんですコレ?」
「あ……あああ……」
「みょうじさん???」一点を見つめ、亡者の叫びのような声しか口から出てこない私を完全に不審がる高円寺さんに肩を揺すられるが、なんとも、どうとも、うんともすんとも言えずに身体が完全に固まってしまった。
な、な、なんで――
なんでここからお花届くん!?
バレー部からて。
それって。
『待っとるからな』
――――やっばい。
「みょうじさん!?」
慌てて首を回して周囲を探る。人、人、人の隙間っから、今にも思い浮かべた人物が姿を現しそうで。いや普通に考えたら、今日この時間にこんなところにおるわけないけど。いやでも。でもでも。
「あれ、みょうじさん何してるんですか?」
「いや、わからん……」
「めーっちゃキョロキョロしとんな……」
「アレは最早ギュンギュンですね……」
「人間の首ってあんなはよ回るんすね」
「メカみたいな動きしとる……」
シャシャシャシャと機敏に首の角度を変え、しばらく辺りを見回していると、みょうじ?とやわらかい、凪のようなそのひとの声が耳に入った途端、シャッ!!とその方向へ顔を向ける。
「なにしてるん」
「北あ!」
今日も今日とて。
最高に男前な北信介がそこにおる。
「えらい人やな。ばあちゃん達は――」
何かを言い切る前に北へたどり着いて、身体が勝手に飛びつこうとする寸前で思いとどまる。
公衆の面前や。
身体はそれで止まったが、今度ははやる心がそれでは落ち着かず、わたわたとうごめく私の手に、大きくあつい指がそっと絡んだ。
「こんにちは」
「……こ、こんにちは…………」
「今忙しいか?」
「いいえ…………」
「ほんなら、俺も観せてもろてもええ?」
「はい…………」
聞いていると、気分がふわふわと浮かび上がってくる。完全にもうこの声しか入って来おへん。思わずそれを握りしめると、北がふわっとわらう。こ、恋に落ちました……。
「ん?花すごいな……これ全部みょうじ宛か?」
「あそこから、えっと……このへんまで」
「人気やん。誰から……」と北もまた並びそびえた花々に目を向けて、名札を辿ると「あ」と物珍しい気の抜けた声を上げる。
「これは……監督やな」
「き、北、クロカンに連絡したり、した?」
「いや……してへんな」
「うわああああ……」
あかんこれは。怒られるの確定のやつや……。学生時代に受けた数々のお叱りがよみがえり、ぞわっと身体を震わせる私を前に、北も北で「あかんな」と眉をしかめた。
「俺も、怒られるかもしれん」
「へ?な、なんで北が」
「あれだけ心配かけて、なんの報告もしてへんかったわ。連絡せんと……」
心配?北がクロカンに?と首をかしげつつ、連絡せんとなんは私も一緒や。
「練習終わったやろって時間に電話してみるわ。……一回ちゃんと挨拶しに行かんとあかんな」
「わ、私も!私もする!」
「ほんなら、一緒にしようか」
「うん!」北と一緒にする。ということになっただけで、なんやろうこの安心感。あからさまにほっとしたのが顔に出たのか、珍しく焦った様子だった北が私を見て「あかんわ」と笑う。
「なまえちゃんと過ごすのが楽しくて、すっかり忘れてしもてたなあ」
「……き、北……そういうんは家で……」
「うん?」
「家でおねがいします……ここじゃ、すてみタックル、できひんので……ッ!」
「それは大変やなあ」にぎにぎと北の指の感触をひたすら確かめて悶える私と、心穏やかそうに返す北。今日も北信介が好きすぎて私、困ります。
「角名からも来とるな。侑とアランも」
「写真めっちゃ撮られてんねん」
「みょうじの?」
「お花の」
「なら、別にええやん」
北の『別にええ』の基準がいまいちわからへんけども。「な?」とやさしく手を握られながら言われてしまうと、この女にはうなずく以外の選択肢がない。まあ、騒ぎにならへん程度の話題になるぐらいやったら、ええか……。運営の迷惑にさえならへんかったら、まあ。お客さんも、増えますし?こういう催しは注目浴びてなんぼみたいな面もあるとかこの前高円寺さんも言うとったし……。
「ほんなら、そろそろ入ろうかな」
「あ、うん」
「みょうじさんに案内してもらえるん?」
「……特別やで?」
「はは。光栄です」
両手の絡んだところから片方だけを離して、もう片方はその代わりに強く絡め合った。そのまま入口を通ろうとすると、なぜだか目ん玉をひんむいてこっちを見ている高円寺さんや他の作家さん達と目が合った。首をかしげて、軽く会釈をして通り抜けた。
「私のとこな、一番手前やねん」
「そうなん」
「下っ端やからな」
こっちこっち。意気揚々と腕を突っ張らせる私について来た北の足がすぐに止まる。振り返ると、少し遠いこの距離から、壁に掛かったそれをまっすぐに見つめていた。
北?と声を掛ける。
反応がなくて、その表情を眺めるしかない。
静かな静かなその表情。
なにかを考えとるんか、感じているのか。
それやのに、どこまでも凪いだ瞳。
世界中でもっとも綺麗な瞳が、いま私の絵を静かに見据えている。
「……すごいな」
なんやろう。
――この感じ、知っとる。
なんかどこかで。
「見事やな。圧巻や」
「きた…………」
「……すごい……」
北の視界に入っているのは、百号サイズの一枚絵。
大理石で形成された崖を、石灰成分を含むという湖水が浸食してできた洞窟。六千年以上もの長い年月をかけて出来上がった自然の美しい造形と、ヘネラル・カレーラ湖の美しいターコイズブルーを反射して青く輝く。淡い碧。暗い蒼。まぶしい青。深い藍。鮮やかな青色。幾重にも丹念に塗り重ねた、湖水の青色と崖肌の青色。世界で最も美しいとされる洞窟を描いたものだ。
ことばを失うほどの絶景を、目にした時の感動を呼び起こして描いた一枚。
ノリに乗って描いた百号サイズの青の群生は、いささか目立ち過ぎたようで、客足を最初の一枚が一時止めて混雑を生み出すという、ちょっと迷惑な機能を果たしていた。これ高円寺さんに相談したら、「コレでええんです、コレで!!!」とあの熱の入った感じで言い切られたのでそのままになっているが、やっぱりあとでええようにしてもらおうかなと思う。それから、棒立ちになる北の腕をそっと引っ張った。この時間はたしかワークショップやっとるから、人気は多くないけれど、まったく人が来ないわけでもない。後ろからやって来た人とぶつからないように誘導すると、やっと足の動き出す。絵から視線の逸れないまま、少しずつそこへ近づいた北は、たっぷり数分、それを見上げていた。
なんや……、私を見られるんも照れるけど、私の絵をこんなに見つめられるんも、照れるな。
北の視線をいま、私の絵が奪っている。
なんや妬けもしてくる。
なんなんや一体。
私のあたまってほんまに……、などと考えながら、北のうつくしい横顔を見つめていると、やがて北が、それでも視線を外さないままに、ぽつっと呟いた。
「…………みょうじ」
「うん?どうしたん?」
「……みょうじ」
答えぬまま、再度私を呼んで、繋がった手のひらに力がこもる。
ゆっくりと、その横顔が私を振り返る。
私を見て、なぜか目を見開く。
「…………きた?」
眉の下がって、湖水などよりもよっぽど綺麗な目玉がつるりと反射して光る。膜を覆ってなお余りあるそれはまぶたの淵に溜まって、留まりきらずに一筋頬を流れた。
「…………」
「き、きた」
「…………ありがとう」
「えっ?」
「…………」手の繋がったこの距離で、聞こえるか聞こえないかというほど小さな声で、ありがとう、と再度呟いた北は、空いている腕で雑に目元を拭った。北の挙動にも涙にもその言葉にも、あっけにとられて見つめるしかない私に、なぜだか急に晴れやかになった顔つきで笑いかける。きらきらとひかりかがやく笑顔は、私にとって、ほかのなにものよりも価値がある。
「みょうじはすごいな」
「…………」それを惜しげもなく私に与えてくれる北は、そう言ってまたわらうのだ。
「俺の夢……またひとつ、叶ってしもたわ」

初日を終え、予定通り夕方に撤収した私は北と来月の結婚式に向けてパーティードレスをしばらく物色したのち、周辺をぶらぶらしていた北家と合流して一緒に帰る。せっかくやし外食でもする?という話にもなったが、うまいもん市で見つけたお酒とツマミによさそうな干物、あと地下でおいしそうなお惣菜を見つけてしまったため、お家で食べようということになったのだ。私は北と一緒の車へ乗り込む。北の運転する横顔を見つめながら、たくさんお話をすることができたので、一日の疲れもぶっ飛んだが、善良な北家の面々はなんでか私をいたく気遣って、お夕飯の支度の手伝いは断られてしまった。先にお風呂へ通されて、お台所のお婆ちゃんと北パパの立ち姿を見上げつつ、畳に寝転んでぶーたれる私のあたまを持ち上げて北が自分のお膝に乗せた。
「ひ、ひざまくら……!」
「なまえちゃんまた髪乾かさんと。あかんやろ?」
「そのうち乾くよ〜」
「風送るからな」
私の髪の毛にえらい過保護な北が、ドライヤーのスイッチをつける。途端に聞き慣れた機械音と微風が湿ったあたまにバシバシとかかる。節くれだった大きなゆびが、髪を持ち上げたり隙間っから地肌をくすぐったりして心地よい。飼い主にお手入れをされとるペットなんか、いっつもこういう気持ちになっとるんやろうか?きんもちええ……し、なんだかねむたくなる。くああ、と出てきたあくびを隠しもせずに、でっかい口を開けた私を見下ろして北がわらった。
「疲れたなあ?」
「んー……ちょっと緊張してん」
「そうなん。頑張ったんやなあ」
髪を撫でながらそんなにあまやかされると、私のこころはもうぐでんぐでんや。なんのちからもはいらへんくなってしまうで。北のちょっとかたい、けど安定感はんぱないおひざに頬っぺたをこすりつけて、どんどん心がほぐれていく。きょうは、いろんなひととしゃべって、いろいろ褒めてもらったけど、新鮮やしありがたいけど、やっぱりちょっと変なところに力が入ってしまう。ふーっと息を吐くと、からだの中にたまっていたもんが抜けていって、みょうじなまえがひとまわり小さくなったような気がした。あらまあなまえちゃん、とちゃぶ台を拭きにきたお婆ちゃんに手を伸ばして私がやると言うと「動きな」とやさしくとがめられる。ふふっとお婆ちゃんが笑って、ちゃちゃっと拭き終えて行ってしまう。
「みょうじちゃんは休んどき」
「なんでやあ〜……」
「なに、そんな声出るん」おかしそうに笑われる。……ちょっといまの声は、自分でもあんまりやったかなと思った。けれど北に言われるとなんやとっても恥ずかしい。むっとして、今度は見事な腹筋に顔をこすりつけた。「はははっ」もっと笑われてしまった。解せない……。
「明日はどうするん?」
「ん……あしたは、絵ぇ描く……。遠隔で在庫わかるから、バックヤード分なくなるんやったら、補充しに行くかもやけど、だいじょうぶやと思う」
「そうなん」
「あさっては行くし……」
そこまで言うて、ああ明後日、と思い出す。
「なあ北」
「うん?」
「あさってな、北も、いっしょに来れへんかな?」
「明後日?ええけど、どうかしたん?手伝いか?」
「あつむが、来る言うとる……」
「ああ……なるほど」
「おじろも……」
「そうなん。ええよ、一緒に行こう」
「ありがとう……」
「ええよ」
きたはやさしいなあ。
ほんまにやさしい。
ゆびさきも、こえも、えがおも。
ぜんぶやさしくてふわふわするなあ。
きもちええなあ。
「たんぼ、おてつだい、するなあ」
「ふふ。ありがとう」
「いっしょに……するねん……」
「うん。しような」
ゆっくりゆっくり、きもちよくって、やわらかくなって、またあくびが、ふうっと気のぬける、ほんま、もう、でろでろになるわ。このおうちのにおいも、きたのにおいも、ことこというなべの音も、みんなのこえも、むしの鳴きごえ、たたみのかんしょく、ぜんぶきもちええ。ええことばっかりや。ええなあ。ずっとここがええな。いっしょがええ。ずっと。
「田んぼして、展示会行って、それから挨拶やな」
「うん…………」
「一緒に頑張ろうなあ」
「うん……いっしょ……きたと……」
「ふふ。うん」
「すき…………きた……」
「…………」
「……すーき……」
くらやみがゆっくりとやさしくなって、私をまあるくつつみこむ。ほっぺたにしずくがぽつんとおちて、ながれるのをあったかいゆびがぬぐってくれる。やわらかくてすきなものがおでこにぶつかって、きもちよくて、うっとりする。はだをすべる、これもすき。なあんにも見えへんのに、なあんにもこわくない。やさしいくらやみ。あったかい。すき。ぜんぶすき。これぜんぶすきやねん。私をつつむでっかいかたまりをだきしめる。あったかいのとやわらかいのとふわふわのとやさしいのと、いろんなものがまざって、とけて、ひとつになって、私のなかにはいっていくような。それで私もあったかく、やわらかく、ふわふわして、やさしくなれるような、そんなきもちになりながら、ゆっくりと私もまざっていく。こころの底からあんしんして、やさしいきもちになって、ごろごろとくつろげて、からんだものがほどけれまざってとけていく、さいこうのきぶんだった。


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