今日だけでもう色んなひとに頭を下げた。
日本のお辞儀とか会釈だとかいう慣習、外に出る前はなんの違和感もなかったのに、帰国してからは頭の下げすぎで首が痛くなる日がたまにある。今月は特に肩が凝りそうやなあと思いながら、ようやく周囲にひとのはけたのを確認してから少し、首と肩をほぐしておく。こきこきと音がする。ジャケットとか久しぶりに袖通したわ。腕まわりが窮屈。ふうと息をこぼし、ふと視線を上げると、目に映ったのは絵画のずらりと並んだ壁面。
元は生成の色をしていたキャンバスに、幾重もの彩りが乗せられひとの目と脳を刺激する。自分が何日もかけてひとつずつ色を置いてつくりあげていった小さな世界が、時にはずらりと一列に、時にはまだらに間隔を空けて、時には寄せて大系的に、飾られていた。
小物とショップカード、ミニキャンバスの置かれた机もある。共同の展示会であるために、個人の規模としては小さくはあるものの、それでも作品数はそれなりにある。どれも自分の中で企画立てて描いたもので楽しかったけれど、よそから受ける評価となるとどうなんやろうな。
そのあたりのことはさっぱり読めへんわ。
コンクールだって獲れた賞と獲られへんかった賞、見比べても自分じゃようわからんもんな。主観も入るし。ぐるりとひととおり、自分の作品に与えられたスペースを再度見ていると、入口のところにあるでっかい置き看板が視界に入る。
日本を代表する、新進気鋭の若手画家やて。
えらい持ち上げられ方をしてしまった。
関西人はほんまに口がうまいわ。
取材とかされてる時とか、それが世に出たのを見た時とか、これは果たして私の身の丈に合っとるんやろうかと考える瞬間がある。何回か載った書籍を見る機会もあったけど。特に日本では、賞とか経歴とか、そういうもんがことさら持ち出されて、私自身や作品のことをつらつらと語るものが多かった。
あれは正直かなんわ。
あれらに書かれていることほどに、私は高尚なことを考えて描いているわけではないし、計画性はなくて行き当たりばったりやし、欲望に忠実なただの人間や。まあ、たしかに我は強いかもしれへんけども。
他の出展者のひとが、さきほどまでの私のように色んなひとに頭を下げている。それを薄らと視界に入れてから、ぼさっと突っ立っていた足を動かして企画展のスペースから出る。出入口の付近には、通行の邪魔にならないよう、壁沿いにスタンドフラワーが並んでいる。色とりどりの植物がきれいにまとまったそれをひとつずつ眺めながら歩く。開催は明日からだが、目を引くのですでに数組、一般客が引き寄せられて同じように眺めていた。
「ココまた絵ぇやるんやなあ」
「な〜芸術の秋なあ。私は食欲の秋派やけどな〜」
「あっ!えっ!?なあコレ見て!こん花!」
「え?なに?…………え!?」
あ〜…………お花きれいやな〜……。
「な!?ヤバない!?!?」
「ヤバ!!!」
ウンほんまにきれい。
「なんで!?ミヤアツって、絵ぇとか見るん!?」
あ〜〜も〜〜やっぱな〜〜〜〜……。
「あっ!?この人もたしかバレーの人やん」
「知っとる!『アランくん』やろ!ミヤアツ追っとるとたまに登場するよな」
「なんやっけ。アフリカ出身のハーフやっけ???」
おいおい適当なこと言うとんで。
侑はともかく尾白の適当な情報を語るな……と思いつつ、そっとその場を離れる。
やっぱ展示会のこと、話さんほうがよかったんやろうか。私から言わへん限り、あん二人が知ることはなかったかもしれへん。
いや、でもたしか電車にも広告打たれとった……。
言わんかったらそれはそれで、めっちゃ怒られるような気もするし……。
うーん、とうなりながら、大階段のところまで歩いて適当に空いたところへ腰を下ろす。鞄からスマートフォンを取り出すと、トークアプリを起動して侑を呼び出し、文字を打ち込む。
「やっぱ、展示会、来んでええよ」
すぐに入力を終えて送信する。反応は数時間後かと思いきや、ディスプレイを落とし鞄にしまい込もうとしたところで通知音が鳴ってメッセージを確認する。
『ぜったい行くし』
…………………………。
「お花、ありがとう。きれい」
再度送信。
通知。
『ぜったいに行く』
「ん〜…………」聞かん坊やなほんまに。
まあこういう強情なところは、懐かしくもかわいくもあるところやけど。こういう場にお花を贈ってくれるなんて、大人になったなあ侑……なんて今朝は感動したけども。ただ前に宣言しとったことをほんまにしでかそうもんなら、スタンドフラワーでアレなんやから、本人登場ともなればちょっと……それも日ごろのあの様子で来られようもんなら……、絵どころやなくなってしまう……。一般人はおろか、メディアと鉢合わせなんかしようもんなら、他の出展者のひとも困ってしまうやろう。いや侑にも絵を見る権利ぐらいはあるけども。そもそも見てくれるんやろうか?あの侑が?絵画を鑑賞???
ミヤアツム、読めへんな……。
ひとのにぎわう大階段で、ひとり考え込んであたまを抱えていると、今度は着信音が鳴る。大方、返信がないのに焦れたのだろう。せっかちな男やと呆れながら、ボタンをスワイプして応答した。
「もしもし?」
『なまえちゃんがなんて言うても行くからな』
「……保護者同伴ならええで」
『なんでや!』
ちょお、吠えるな。機器を耳からやや離す。
『なんでなまえちゃんの展示会にオカン連れてかなあかんねん!』
「オカンやなくても治――は無理か。どうしても来るんやったら、なんや侑が騒がんと大人しくできる人と一緒においで」
『アランくんとか?』
「ん〜……」そらこん二人が連れ立って来てくれたら嬉しいけど、それはそれで注目を集めそうやとは思う。漫才でも始められたらどうしようか。
……まあ尾白は良識ある大人やし、侑がひとりで『なまえちゃ〜ん!来たで〜!』なんて来られるよりはましかもしれん。尾白も会期中来てくれるって言うとったしな。
「尾白の都合がつけばな」
『ほんま?行ってもええ?』
「うん。ええけど、絵を見る場所やで」
それだけは念を押しておくと、『わかっとるし』ふてくされたような声が返ってきた。さすがに子ども扱いしすぎたやろか。いや、侑に対しては、高をくくっとると痛い目見るから……。反省をしつつもこれまで経験してきた出来事が、なかなか私を鷹揚にはしてくれないのだった。
ごめんな侑。
…………いや?
ていうか自業自得では???

同フロアの催事場を覗いてから百貨店から出ると時刻はちょうどお昼どき……より少し早い。前に侑や尾白とここいらで遊んだときは、昼めしを求めてぶらぶらしとったけれど、今日のなまえちゃんはさてみなさん。ひとあじ違うんです。目標の時間よりもほんのり早く用事を済ませられたため、大阪梅田の地下ジャングルを歩く私の足取りは軽く明確だ。スマートフォンを取り出して、トークアプリを起動し、さっきとは違うひととのラブラブトーク画面を呼び出して、ひとこと文章を送っておく。
今から向かいます。
さすがにかれのほうはすぐには見れへんやろうと思ってスマートフォンを、戻そうとしたところでポンと鳴る通知音。
わかりました。気をつけてな。
にわかに足が止まって、近くにあった柱へ寄りかかる。浮かんだフキダシの中に入ったメッセージを、まじまじと凝視して、自然と頬がゆるんだ。
わかりましたやって。
気をつけてやって!
足も軽けりゃ心も弾む。縦横無尽、四方八方からなだれ込む梅田の人ごみなんかもう目ではなくて。軽快なステップで道行くひとびとを華麗に避け、みょうじなまえは目的の電車へ飛び乗った。
カタンカタンと音を立て。
速度を上げていく電車に揺られること十数分。
降車駅を出て少し歩くと見えてくる商店街は、前に車で連れてきてもらったときも見たのでよく覚えている。さらにてくてく、鼻歌を歌いながら歩くとすぐに現れた、趣きあるこじんまりした建物。渋い紺色ののれんに力強くまぶしい白字で、店の名前が書かれている。……あかん、またうるっと来る。にじみだした涙をひっこめるために、今回は早々と引き戸に手をかけ、のれんをくぐることにした。
「いらっしゃいませ!」
店の中へ入るとすぐに、明るい声がかかる。
店主とおんなじキャップ帽にシャツ、それとエプロンを身に着けた、おそらくは学生であろう店員さんの挨拶に、アルバイトさんがおると前に聞いたことを思い出した。宮治、雇用主や…………と実感して、またじわっときてしまったのはやむなし。
店内でお召し上がりですか?と少々ぎこちのない敬語で尋ねられて返事をする。 それから店内をさっと見渡して――
――ほら、あの背中や。
いつもいつも、すぐに見つけられる。
それだけが私の自慢やった。
世界で一番好きな背中が振り返る。
この世でもっともうつくしい目玉が私を見た。
「なまえちゃん」
上下のくちびるをぎゅっと結ぶ。
お連れ様ですね、と通されたかれの隣に腰かけて、荷物を置いたところで、顔をのぞき込まれた。やさしいまなざしと、まっすぐに向き合う形になる。
「なんや。また治に感極まっとるん、なまえちゃん」
おかしそうに、からかうように笑う北のやわらかくほどけた表情と声を浴びてしまってことばを失う。
ちゃうで北。
私今日はちゃうねん。
今日は私、私今日も、あんたに心揺さぶられっぱなしやねん。
どうしよう好き。
「まずは、おつかれさんやな」
「…………北、も」
どうにかどうにか声を絞った私に、さらに北はほほ笑んで。
冷茶の入った湯飲みで軽く乾杯をして。
このようにして。
関西一のデートスポットと名高い(可能性もなくはない)、日本屈指のおにぎり屋さん『おにぎり宮』のこじんまりしたカウンター席にふたり肩を並べ、私と北は待ち合わせを達成できたのだった。

「まっさかウチが、北さんとなまえちゃんのデートスポットになるとはなあ」
感慨深そうに治が言うて、その割にはにやにやしながらたらこにぎりの乗った器を置いてくれる。隣の北にはうめのおにぎり。ほぐしたうめが上に乗ってる様子はこらもううまいことまちがいなしの一品や。いやでもこちらのたらこも負けとらへんで。なんて内心競わせながらも、注文したおにぎりが揃ったので北とふたり、顔を見合わせて、それから治に向かって手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
「ホイどうぞ〜」
一国一城の主、宮治は店主の顔でうなずいた。
はらぺこの大人がふたり、ほどよい力加減で塩と具材の握り込まれたおにぎりを夢中になって食している。目で見てその整った造形に。口に入れてその工夫とセンスに驚かされる。昔は力いっぱい、米をそらもうぎちぎちに詰め込んだバクダンオニギリやったし、具材によって塩加減やかたさも使い分けたり、てっぺんにも具を置く配慮とは無縁の男やった。自分の食欲に忠実やった男がいま、こんなおにぎり誰が食うても絶対うまい言うやろというみょうじなまえに絶妙にヒットするおにぎりを作る男へと成長した。北いわく人気も上々らしい。気になって地図アプリのレビューを確認したが星も多いしお褒めの言葉ばかりやった。私も今日帰ったらレビューしようかなと咀嚼しながら思う。
「ん〜…………!」
塩辛いわけでは決してないのに、噛めば噛むほど、唾液が出てくる。じわじわ出てくる。お米がほろほろほころんで、海苔と具材と絡んで、ほんま、ほんまにもう。
「んん〜…………!」
「なまえちゃん悶えとる」
「はは。かわええやろ」
「……!北さんが、ノロけとる……!」
「ふふ」気が付くと北と治が朗らかに笑い合っとって、なんやわからへんけど楽しそうでええな。 世にも名高い待ち合わせデート中の北と私。ちょうどこのお店へ納品の都合があるというので、ここで待ち合わせることとなったため、私はよそゆきの格好やし北は作業着のまんま。仕事に精を出す銀河系一の男前感出とるとこの姿を見るたびに思う。治の握ったおにぎりにかぶりついて「今日もうまいな」と笑う男前。超超超かっこええ……。なんでこんひとこんなかっこええん……。ずる…………。
「うまいなあ」
「うん……」うまい。北と一緒に食べる治のおにぎりほんまうまい。最強にうまい。
「世界で一番うまい……」
「……なんや味だけの感想やなさそうやな」
でもありがとお。
呆れたように照れたように治が笑って、お茶のお代わりを出してくれる。
ちょうど忙しい時間帯なのでこちらにかかりっきりになるではなく、全卓分のメニューを用意したりテイクアウト分の対応も、店員さんへの指示まで流れるように行う。治の動きは手慣れていた。視野も広い。出されたおにぎりをうまうまとたいらげながら、北を見たり治を見たりしながら、私はただただぼうっとしていた。
「お客さんいっぱいいてはる」
「うん。常連さんも多いねん。……ほらあそこ、座敷におるおっちゃんとか、あっちの席におる人もよく見るわ」お米を卸しに来てそのままここで食べることもあるらしい北はすでに覚えている顔があるらしく、目線でそっと教えてくれる。
「会社のお昼休憩とかかな」
「せやろな。今日はおらへんけど、おばちゃん達にも人気やわ」
「そうなん!治マダムキラーに路線変更したん?」
「ちょおなまえちゃん、人聞き悪いこと言わんといて!」
時折、恋人同士の会話に口を挟まれつつ。
お昼間のテイクアウトはもっぱら近場の会社員や現場仕事の人たちに人気らしい。さっきっから客足が途切れることはなく、ショーケースにあった色んな種類のおにぎりは治が握る端からなくなっていく。数人いる店員さん達も忙しそうや。おにぎりを握ったり注文の品を出したり具材の補充をしたり、手を動かしながらお客さんへ声を掛けて談笑する治を眺め、そして北に見惚れつつ、ことばを交わしながら、うまくて楽しくて、しかもお安い。三拍子そろったランチタイムが過ぎていく。
仕事を増やしてちょっと悪い気もしながら、それぞれおかわりをしたおにぎりまでぺろっとたいらげて、食後のお茶をいただいていたころ。
入口の戸が迷いなく引かれ、入店したのは私らの親の世代のころであろう女性三名。店員さんに促され、空いた席へ座るやいなやキョロキョロと周囲を見回して、なんとなくその挙動を視界に入れていた私と視線がぶつかる。それから少しずれて――
「あらほんま!信ちゃんやないの!」
一人が驚いたような声を上げた。
身体ごと私の方を向いていた北がその声に反応して振り返る。
「ああ、こんにちは」
「ほんまや!信ちゃん彼女連れとる!」
「ええ、その子信ちゃんの彼女なん?」
「あんた知らんかったん?役場じゃ最近そん話で持ちきりやで」
持ちきりってなに?
ほんまやってなに???
とにもかくにも来店早々、信ちゃんなどと親しげに北を称して声をかける様子はご町内のおばさま方と似通っていて。うそやろ北、治の城でもファンつくっとるん……と横目で見てしまう。
治は新たなお客さんを目にすると「およ?おばちゃん今日も来たん」いらっしゃいませを忘れて不思議そうにしている。その気安い口調と北への態度から察するに、どうやらそうとうの常連さんであるらしい。
「そらあんた、きょう信ちゃんが彼女連れてここ来るなんて言われたら、気になるやろ!」
「なんや。おにぎり食いに来たんやないんかい」
「おにぎりも食うで。おかかちょうだい」
「うちはピリ辛きゅうりな!」
「私はうめで〜」
「まいど〜!」
いやまいど〜!ちゃうがな。
北を見た。
北は私を見て恥ずかしそうに笑う。
かわいい。
……いやはにかんどる場合やない。
「北、治北んこと言いふらしとる」
「デート見られるってなんや照れるな」
「北!場合やないねん!」
ひとの個人情報をしゃべくった本人は「そうそうあそこの席の……」なんてうなずいて私を見る。お客様を指さすんやない。三人の常連さんは各々に頭を動かして私の顔を覗き込んでくる。その表情はまさしく。興味津々。
「あんらっ!かいらしい子やないの!」
「こん子がウワサの信ちゃんの……」
うわさ?うわさってなに??
さっきっから謎が多いな???
「ついに信ちゃんに彼女が……」
三者三様の反応をしている間に、私らと彼女らの間に座っていたお客さんが席を立ち会計へ向かう。
「コヨリちゃん残念やろなあ……」
「ああ。あん子信ちゃんのこと大好きやから……」
それは聞き捨てなりませんけど?????
すぐに空いた席を店員さんが片付けさっと綺麗にカウンターを拭いてきれいになったため、気を利かせたらしい治が「そっち座ったら?」と彼女らを促すので、そのとおりになった私達は席を一列に並べることとなってしまった。
北はのん気に「さっき言うた常連のおばちゃんらや」と言うてお茶をすする。
「信ちゃんこないだはありがとお」
「いや、大したことはしてへんので」
「ハ〜!ウチの男衆にも見習わしたいわあ!」
「なあ彼女何ちゃん?」
「かわええなあ!おいくつ?」
「なまえちゃんです。俺と同い年」
「こんにちは〜!」
「こんにちは……」
「あれ?なまえちゃん今日は恥ずかしがりやな」普段通り、やさしく頭を撫でられる。途端に「おおっ」と歓声の上がる。やりづらっ!
「そうなん、恥ずかしがり屋なん!」
「え〜かわええな〜」
「せやろかわええやろ」なんで治が言うねん。
図らずとも北を間に隔ててはいるが、目を爛々とさせた三人がこちらの一挙手一投足を観察しようというような体で見てくるのでいささか調子が狂う。北とやり取りをする中にも三人へ返事をしたり治を目で牽制したりと、にわかに慌ただしくなった私の頭の容量がうまく使い分けができない。まさか北に好感を抱く初対面のひとの前で、デートモードを継続するわけにもいくまい。それも治のお店の常連さんときた。どうしようどうしよう、と思いながらもどうにか笑顔と愛想を振りまく。それでも会話を続けていくうちに、三人は何十年もの間、このお店のある商店街で毎日買い物をしているご町内全体の常連さんらしい。治のお店の開店前から、ちょくちょく様子を見に来ては、おいしいおにぎり屋さんのできるのを心待ちにして、改装中も差し入れをくれたりしていたのだそうだ。普通にええひとらである。
「いや〜でも主将とマネージャーか〜」
「あらあ〜青春やないの〜!」
「私も信ちゃんと青春ラブしたかったわぁ」
――私が彼女らのことを知る過程で、当然、私らのことも彼女たちに知られてしまったのだけれど。
これが痛み分けってやつか……。
「いやいやおばちゃん。主将時代の北さん言うたら、青春ラブどころやないで」
「なんや治。言いたいことがありそうやな」
「エッアッい、いらっしゃいませ〜!」
慌てて新たなお客さんへ向き直る治を見ておバカ……と呆れつつ。
「それにしても信ちゃん」
「うん?」
「彼女とデートにそん格好はないで」
聞きたいことをひととおり聞き終えた彼女たちの関心は常に新しく移ろってゆく。それがおばさまというものだ。急に話題の中心となった、信ちゃんこと北信介は、湯飲みを片手に目を丸くした。かわええ。いやそんな場合やあらへん。
「ちょっと、おばちゃん……」
「せや。なまえちゃん見てみい。こないおめかししてるのに、作業着はないやろ!」
「車もいつもの軽トラやな?あかんあかん」
ウ、ウワアアアア!?
な、な、なんてことを言うんや!?
他のお客さんのおにぎりを握る治もギョッとした顔でこちらを見ている。北にこんなにはっきりとしたダメ出しをする人を身内以外で初めて見た。しかも北はこの度お仕事終わりでそのまま合流したからこの姿なのであって、その指摘は見当違いである。なんなら私も仕事終わりだ。その上私は、この格好をした北が非常にとても物凄く好きだ。そんなことを思っている間にもダメ出しは続いていて。恐らくは私を慮って指摘をしてくれているのだろうが……あああ止めてほしい。
「……そないあかんかなあ」
珍しく北も自信がなさそうに自身の格好を見下ろしてしまう。ああほらもう。
私北のこんな顔見たない。
「――もう、おばちゃん!」
せやせや、とさらに言葉を連ねようとする声を制した。
「北を、いじめんといてや!」
私も北も、恋愛に関してはド素人なのだ。
多感な学生時代や盛りの二十歳前後に誰かとお付き合いをしたことのない私たちは、お付き合いのいろはというか、正常なフローなんてわからへん。
「北は作業着姿も度肝を抜くほどかっこええし……」
気持ちだけが芽生えて育まれ、色々と唐突にはじまった感あるし。未だにお互いさぐりさぐりでやってるんや。そんな風に否定されてしまうと、なんだかこわくなる。なんや間違ってるんやろうかとか、おかしいんかなとか、私は北に思ってほしくない。それが誤解であろうとなかろうとや。
――ていうかもはや視界に入るたび常にかっこええ記録更新してんねんから、こっちは実質常に満足度及び幸福度が五億パーセントですけど!?
「逆に私のほうが、これぐらいはおしゃれせんと男前の北に見劣りする感あるので……」
「そんなハッとした顔でなにを言うてるんや……」そんなわけないやろ、とは優しすぎる恋人のことば。頬っぺたを指の腹ですりすりとさわって、ちょっと笑う北で視界がいっぱいになって、が、眼福…………。みょうじなまえはきょうも宇宙一しあわせ者です。
「なまえちゃんめっちゃ信ちゃんのこと好きやん」
「なんや信ちゃん悪かったなあ」
「かんにんしたってや」
目先の北に完全に心奪われとる間に、店内にいたほかのお客さんや店員さん達までこちらの様子を凝視して、店主たる治が「熱烈な愛の告白を聞いてしまったわ」ニヤニヤとおばちゃんのおかわりにぎり(塩こんぶ)を卓に置く。まわりの様子の違和感に気づいた私は周囲を見回した。
「……?私なんか変なこと言うた?」
「……いいや?なんもおかしいことないよ」
せや。私らはなんもおかしくないねん。
ふふっと笑顔を見せてくれた北に、つられて私の頬もゆるんだ。
「ほんま、頼もしいひとやなあ」

「おばちゃんらな。絵画教室通ってんねんで」
普段使いの車よりも大きいエンジン音を轟かせながら、軽トラックが規則正しい運転によって帰路をたどる。正面を見据えてハンドルを握った北が教えてくれた事実に私はとても驚いた。そうなん?と思わず聞き返すと「うん」とうなずく。いっつも思うけど、うんてかわええな。
「趣味で近所の教室にな。水彩画らしいけど」
「そうなんや……」
「明日っからの展示会、もしかしたら会うかもしれんな」
「ん?ああ、せやなあ」
「なんやみょうじ珍しくたじろいどったから、職業も出展することもわざわざ言わんかったけど。宣伝しといた方がよかったやろか」
「ううん、大丈夫」
そんなことも考えとってくれとったんかと思う。
あのひとらの趣味を知っとったから、私とおしゃべりをさせたんやとようやく気付いた。それらしい会話にはならへんかったけどな。「デートやから、ちょっと緊張しとった?」少しだけ、笑いの混ざった北の声が、明るく気遣いの色を含んでいる。
「…………私な」
「うん?」
「北が」
「うん」
「……あっこの常連さんにまで愛されとって、私ちょっと妬ける」
そう漏らしたあと、訪れた沈黙が少し気になったけども、フロントガラスから移りゆく景色をひたすらに見つめた。こんなん顔見て言われへん。
「北はどこへ行ってもモテモテや」
そうや私は知っとる。ようく知っとる、老若男女に好かれるんやこん男は。前に小学生やったらいくらなんでも北を獲られることはないとかなんとかいう話をしたけれど、あれはもうほんまにそう。基本的に北信介という男はひとに好かれる男で、知れば知るほど好きになる男で、そんで親しくなるにつれて、不意をつくように冗談を言ったり笑ったりして、こちらの動悸を乱すので、ひとは恋に陥りやすい。そして底なしに人柄がええから脱け出すきっかけがない。おまけに男前やし頭もええしひとを統率する能力に長けている。本人はなんやかんやと謙遜するが、『最強の挑戦者』という名に恥じぬ、とんでもないレベルのチームをとりまとめて仕切れる程度のスポーツマンやったという経歴がある。そんで今は田んぼや畑耕して。人間性もほかの男なんて比べもんにならへんほどカンストしとる。
語れば語るほど、とんでもない男や。
「男前すぎて私は心配になる」
そこまで言い切ってから、はっとする。
ちょっと不満みたいな感じになってしまったやろうかと思い、恐る恐る隣を見る。ちょうど信号待ちのタイミングで停止した車の中、運転席の北はというと目玉だけを私へ向けて、なんとも言えないというような表情をしているのでぎくっとした。
あ、呆れられとる…………。
「き、北」
「……そん台詞、そっくりそんまま返したいで」
「……うん?な、なんですか?」
ため息とともに吐き出された言葉を咀嚼できずに繰り返す、アホな私を横目で眺め、再び北はため息を吐いた。これは呆れでっかいな……。余計なことを言うてしまったと、隠しごとのできひんおのれの単純な性格を恥じた。膝の上の手をこぶしにして少し後悔していると、車は再び動き出す。
その後、話題を私のアホさ加減からどうにか逸らそうと思い、急に天気の話をし出す私を一体どう思っているのやら。北は無難に相槌を打ってくれて沈黙は埋まるが、会話をしながらも墓穴を掘っている感が否めない。
恥の上塗りや…………。
こらあかん、と首を振る。
こっから挽回せんと。
「北!このあとの、ご予定は!?」
「え?……田んぼ行って、様子見て水の調整やな」
「手伝います!ぜひとも!」
「気持ちだけもろとくわ。明日は基本立ちっぱなしやろ?今日のうちに休んどき」
「やさしい……!」
「なんで泣くんや……」
こらあかん。完敗や。
私の恋人が素敵すぎて負ける。
しまいには手のひらで目元を覆い出す私に、やっぱり北は呆れたが、やがてふふっと笑い出す。その音がとてもとても好きな私は、そうっと視界を開けて、やっぱりとてつもなく男前な北の横顔を盗み見るので精いっぱいになった。
土のにおいの香る軽トラックがブロロロロと音を立て、木々の生い茂る山々へ向かい走っていく。雄大な自然の風景は毎日見ても見飽きることはないものの、この恋する女の視界はもう、今はもう、たったひとりの男のことしか、見えていないのだった。
「くやしい……!」
「泣かんといて」


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