「最終回逆転サヨナラホームランおめでと〜」
ガチャッと重たい音を立てて押し開かれた扉から、五年ちょいぶりに顔を合わせた友人はたしかに開口一番、そんなことばを投げてきた。ウワア美人に拍車がかかっとる……と心奪われていた私はあんまりちゃんと受け止められていなかったので、考えてきていた感動的な再会の挨拶よりも先に「え?」と聞き返すことになる。
「なに?最終……?」
「振り逃げやけどな」
「うん??振り逃げ???」
「まあ入りぃや」と半身分の隙間をさらに広く開け放ち、彼女は玄関のへりからもたれ掛かっていた身体を引っ込めてしまう。ぼさっとしてると扉はそのまま再び閉じてしまうので、慌てて手で押さえて身体を滑り込ませる。
「おじゃまします!」
「うん」靴を脱ぎ、置かれていた来客用のスリッパへ足を通す。靴をそろえて、悠々と歩き出す背中を追いかけた。つるつるしたマンション特有のフローリングを踏みしめる。廊下を少し歩いてあけっぱなしのドアを過ぎると、すっきりと明るいリビングにたどりつく。小さめのダイニングセットに二人掛けのソファ。テレビにリビングテーブルにと、主な家具はそろっているが、雑貨や日用品はまだ少ない。さらに中へと促され、今まさに見つめていたソファの前まで到着した。
「ここがミサミサの愛の巣……」
「きもい言い方やめて」
「ここが新婚さんのおうち!」
「ほら座り」
「あと言い直してもやっぱり、きもい」五年ぶりの再会やというのに、三分と経たへんうちから二回もきもがられてしまったどうしよう。悲しい……と悲嘆にくれつつ指定されたソファへ腰かける。うわあ!バインバインや!高反発のクッション材の座り心地にはしゃいでいたところへさっと渡されるグラスには、冷え冷えのアイスティーが入っていた。
「桃のにおいする」
「せやろ。絞りたてやで」
ええ具合に凝り性やなあ。ぺきぺきと氷のとけはじめる音を聞きながら、渇いた喉を潤した。おいしい。すっきりする。涼しいこれ好き。そうしてると隣に彼女も腰を下ろした。相変わらずスマートなひとやなあと尊敬の念を隠せない。
「ひさしぶり、ミサミサ。あとおめでとう!」
「うん久しぶり」あとそれ十回は聞いたでと応えながら、高校時代からの大好きな友人は、それはそれはきれいに笑ってくれた。
きれいな木目の天板がおしゃれなリビングテーブルにクロッキーやペン、パステルを広げて、ソファ上には式場のパンフレットやメモ、見積書。現地で撮っておいてもらった写真や手書きの見取り図、なんかを確認しつつ、引っかかりの少ない滑らかな紙へ軽いタッチでペンを滑らせていく。ほーっとゆるい声を上げて横から覗くミサミサの、大切な晴れ舞台のために、ちょっとでもできることがあるってええなあと頬がゆるむ。現場の骨格が簡単にできたところで、ここにウェルカムボードを置いて、受付がここで、と聞いた話を落とし込む。
「よう動くなあ。手」と一体何に感心したのかよくわからない感想をミサミサがこぼした。そういえば絵描くところをミサミサに見られるんはじめてやったな、とそれで気づく。キリよく二枚ほど、パースの原図ができたところでプリンターをお借りしてコピーをとらせてもらう。まっさらなコピー用紙が、ビーッと音を立てて、ギャギャギャッと鳴らしながら、少しずつ線が塗られて出てくるさまを眺めた。
「私の絵もこうやって大量生産されてるんやな」
「虚無の顔で言わんといてくれ」
原図の大量生産が終わったら、今度は集めてもらっておいた彼女と旦那さんの好みのイメージに近い写真たちを見せてもらって、これをするにはこれが必要で、と別紙に書き出しつつイメージカットを作っていく。今は百円ショップも色々おしゃれなものがあるらしいので、これは売っとった、これは家にある、これはちゃっちいからちゃんとしたところで……と、百円ショップをはじめとした雑貨屋さんにはよく足を運ぶらしいミサミサの意見をもとにメモをとる。そうか、今はこんなもんまで売ってるんかあと感心してしまう。
「これは百均にもあるし使えんねんけどイケアのやつ使いたいからイケアで買う」
新居の家具や雑貨の多くを世界的に有名なスウェーデン発祥の家具屋さんで揃えたらしいミサミサはすっかりとりこになっていた。「ていうかイケアに行きたい」行きたいだけかい。まあ私も海外の店舗へ足を運んだことが数回ある。あそこは時間忘れるよな。ここから行くんやったら鶴浜の方が近いよなあ。書き上がったものを見ながら、原図に落とし込んで組み合わせる。シンプルな空間の素描が飾られていく。持って来たパステルでさっと彩色して全体のおさまりや雰囲気を見る。組み合わせや配置、飾りを数パターン確認して意見を出し合う。学生時代から大人っぽかった彼女の好みはやっぱり洗練されていて、明確な基準があるから判断がしやすく、思いのほかさくさく話が進んだので、午前の終わるころにはすっかりデザインも固まり、午後からのお買い物マップまで完成していた。友達とこういう、一緒になにかを考えることが懐かしくて楽しくて、夢中で手を動かしていたためでもある。
「――うん、こんなとこかな」
「あとは色々店覗いてみて、ええもんあったらまた考えよっか」
「うん。でもグリーンで結構お金かかりそうやから、あんま目移りしすぎんようにせんと」
「せやなあ。でも今回目移りするん私ちゃうで〜」
「……財布の紐しっかり締めとかんとな」
「め、目が据わっとる……」
「やっぱ家具家電揃えるとな。引っ越し代もあったし痛いねん……」お式も来月やもんなあ。毎週の休みもほぼ引っ越しやら式の準備やらで、ここ数か月は出ずっぱりらしい。私らそんなアグレッシブとちゃうねん〜と突っ伏すミサミサの背中をさすった。彼女が泣きごとを言うのは非常に珍しい。泣きごと、いやこれは、おのろけの入った泣きごとか?うれしい悲鳴というやつやろうか。なんにせよこんなミサミサは非常にレアなのでよしよしして存分にかわいがってあげたのだった。
「あー、もうこんな時間か」時計を見てミサミサが腰を上げたころにはすっかり通常運転で、空になったグラスを下げ始める。
「そろそろ出発しよ」
「お昼ごはんどうするん?」
「イケアにレストランあるやろ」
ほんまにドはまりしとるやん……。
いやうまいけども。「今日はラザニア食べんねん」うきうきと外出の支度にとりかかるミサミサはかわええから、まあええけども。私も身のまわりの散らかしたものを整理して鞄にしまう。準備が整えば、部屋の電気を消して玄関へ向かい、二人そろってお部屋を後にした。コツコツとコンクリートの廊下を移動してエレベーターで地上へ降りる。しばらくの浮遊感が終わると広いエントランスからオートロックの扉を抜けて外へ出た。
敷地内の駐車場に停めてあった彼女のスカイブルーの「ちゃう。クリア=エメラルド=パール=クリスタル=シャインや」復活の呪文かな?――彼女の愛車、クリア=エメラルド=パール=クリスタル=シャインのアクアへ二人で乗り込む。北ではないひとの助手席へ座るのは随分と久しぶりのことのように感じた。ゆっくりと走り出すアクア。高校生以来の友達がこうして今車を運転しているというのもなんや不思議な感覚や。運転が好きらしい彼女はふんふんと車内に流れるポップミュージックの音楽に合わせて陽気に鼻歌をうたっている。そのリズムを耳に、車窓を流れる大阪の街の景色を眺めた。
南下して高速沿いの千日前通りをしばらく走り、川を渡ってすぐにまた千歳橋。そこを渡るとほどなくして現れた、スウェーデンカラーの大きな建物。なるべく便利のいいように入口付近へ車を停めたミサミサが、ひとつ深呼吸をした。気合入れとる……と横目でうかがう。
「ほんならなまえ。行くで」
「ハイ」
目がマジや。

「で?あんたは旦那とどうなっとん」
家具屋さんに百円ショップにミサミサの好きな雑貨屋さん。数件巡って目的のものやそうでないものを見て回り、色々と買い込んだり写真を撮ったりして再び彼女の自宅へ戻って来ると、おやつタイムはとうに過ぎて夕方になってしまっていた。なんとか両手に持てるだけの買い物で終えられたことに安堵しつつ、買い物袋から購入した品物を取り出し、開封したりタグを切っていく。その最中、唐突に投げられた質問であった。
「へ?だ、だんな……」不意に脇を刺されてうろたえる私に彼女がはっきりと今度は名前を告げた。どくっと高鳴る鼓動は北信介という単語にものすごい反応をする。あたまの中でよみがえる北のわらった顔。なまえちゃん、とささやきかける声。
「だ、だ、だんなて、そんな、私らまだ……」
「こっちはエリリンから色々聞いて、もうネタは上がってんねん。とぼけられんど」
「言いぐさこわない?」
「吐きや」バツンッとはさみでタグを断ち切ったタイミングで畳みかけられたせいで、ヒッと声が出てしまった。相変わらず仲間内でのみ最大限に発揮されるミサミサの弁すごいな。これで周囲からは人当たりよく丁寧で落ち着きある美女でまかり通ってるんやからほんまに大したもんや。そんなことを考え出すと勘付かれてしまうために、思考をかき消して「えっと」と塗り替える。
「……まあ、せやな。みんなには、昔っから、ほんまに色々お世話になったしな――」
だんな、ではないけれど。
まだ、ちゃうけど。
なったら。
ほんまにそうなったら、どんなに素敵か。
どんなにどんなに、しあわせなことやろう。
「――北に、会いに行ってしまった」
そこからやろうか。
たったひとつのことばをあの日見つけてしまった偶然から、この夏の魔法がはじまった。
一生忘れられへん。
田んぼの真ん中から、駆けてくる北の姿。
手の腕のつよさ。
身体のあつさ。
汗と北のにおい。
ひとたび思い返すとどんどんよみがえってくる。
あたまの中が、あふれんばかりの北でいっぱいになって、私はそのたんびに胸が詰まった。抱きしめられて、手を引かれて、北のお家に行って、なんか近くて、お酒を飲んで、またひっついて、そんで、そう、はじめてのちゅうをした。
「あんな」
「うん」
「北が、好きやって言うてん」
「うん」
「私を、好きやって言うて。いっぱい言うてくれて……」
わらってくれて。
いっぱい笑ってくれるねんで。
なまえちゃんて言うてくれて。
かわええとか言うて。
いっつも、やさしい目で見てくれて、やさしくしてくれて、私をあまやかして、わらってくれて、さわってくれて。ただでさえ北のことが、好きで好きでそればっかりやった私に、そんなことをするから。私はまいにち、北に恋してる。まいにちまいにち、日に日に北のことが好きになっていく。
「なあミサミサ――信じられる?北が。北が、私を好きやねんで」
私は今でもたまに信じられへん気持ちになる。
北の気持ちがうそやとか、そういうんやなくて。
なんやろう。
不思議が不思議のまんまやからやろうか。
朝起きて北が私のこと好きじゃなくなってたらどうしようとか思うときある。心底ぞっとして寒くなるから、あんまり余計なことを考えんようにするんやけど。北はほんまに私のことを丁寧に丁寧に包んでくれるんやけど。焦げつきそうなくらいに見つめてくれるんやけど。好きでおってくれてるんはちゃんと伝わってるけど。北のことは間違いなく信じられてるはずやのに。
それやのに。
いつか、なんかもののはずみで、北にかかった魔法が解けてしまったらと思うとこわくて仕方がない。
北が知ったらそれこそ解けてしまうかもしれへん、そんなふうに考えとるなんて知られたら。
ちょきちょきと機械的に断ち切り続けたために小さな山のようになったタグや紐をじっと見下ろして動かない私に、ふうと隣から息が漏れる。彼女特有の大人っぽいアンニュイなため息だった。
「信じられるよ」
てっきりそんな泣きごとをと叱りつけられるかと思っていた耳が、いやに力強い言葉を拾うので顔を上げた。学生時代から大人びてひときわきれいやった顔が、怒るでも呆れるでもなく、真剣な表情を浮かべていて自然と居住まいを正していた。
「なまえ」静かに私の名前を呼ぶこの声。私の目玉をまっすぐに見つめる。そうそうこんとき。こういうとき、ミサミサは友達だけじゃなくて先生みたいになるねん。
「ええか聞き」
「ハイ」
「魔法やない。別に魔法やないよ。あんたが三年間、頑張って北の視界に入り続けてきたことが、報われ始めとったことに、たまたまだぁれも気づかれへんかっただけやろ」
私らもあんたも、それに北も。と続く。
「そんで、あんたがおらんようになってから気付いたってだけの話や」
「…………」
せやろか。かしこくてしっかりしとる、大人なミサミサからはそう見えるんか。……けどそれってなかなか、結構、そうとうに間抜けな話やないやろうか。あんなにあんなに、自分ではめっちゃがんばっとった、つもりやったのに。それがむくわれとることに気づかんがったなんて、そんな間抜けな話があるやろうか。いや、あったというんか。
「せやで間抜けや。あんたと北は、特に間抜け。二人そろって大間抜け」
断言されてしまった。
いやはや、昔っからこん子らには頼りっぱなしで、手間をかけることが多かったこの身からはぐうの音も出えへん。北はともかく、私がとんでもない間抜けやということは、これまでの人生の中ですでに何度も証明されてしまっている。
「あんたがやってきたことは無駄やないよ。無駄なんかやなかった」
「……そっかな」
「そうやわ。あんたが北にとって、離れたくなかった存在になったんは、あんたが頑張ってきたからや。あんたと……まあ、私らが頭悩ましたり手伝ったりしたおかげも四割ぐらいあるかな」
「結構あるな……」
「せやで?せやから私の晴れ舞台、お礼にかわいく飾ってや」これ、とフェイクグリーンの蔦をゆらゆらと揺らして笑う。四割もあるわりにはずいぶんと気安いお礼やこと。
ごみをすっかり片付けたあと、購入したものと手持ちの雑貨や写真を広げる。それを見ながらあれやこれやと話し合ってから加工のための準備へ移る。
「新聞紙もって来たで」
「ありがと〜。敷いといて!私水入れてくる」
「うん。洗面台の方からな」
「はぁい」
持って来た筆や水入れ、パレットを出して、百円ショップのかわいい色の塗料を並べ、どれにどの色を塗るか決めてもらって一緒に塗装していく。この少量入ったやつええなあ。色もかわええし……。黒板塗料やニスまで置いているのだから最近の百円ショップはあなどれない。塗料が乾いたら同様に購入しておいた金具や手芸用のパーツを取り付けたりと、ちょっとだけ手を加えてやればハンドメイドでもそれなりの品に仕上がる。イケアや雑貨屋で買った他の品物の中に混ぜ、写真や小物と合わせて仮配置。数パターン組み合わせを変えて寸法を測り写真を撮りまくった。
「よし。こんなもんかな」スマートフォンに入った写真データをひととおり確認してうなずく。固定したり設置するために必要な道具と合わせても、キャリーケースに全部入りそうな量におさまった。仕上がりも満足そうや。片付けを済ませて、前日の予定を確認して、を終えると、ようやく本日の予定は終了だ。おつかれさまでした、いやいやそちらこそお疲れさまでした、いやなんなんこれ?二人して笑って、ソファへひっくり返ると充実感に満ちた息をこぼした。
「小腹空かん?マフィンあるで」
「空く――!」
「ちょっと待ってな」
フルーツやチョコレート、ナッツに抹茶。色とりどりのマフィンが詰まった夢の箱を見せられ興奮する私をおかしそうに眺めるミサミサ。なんでも好きなん食べ、やって。なんて優しいんやろう!?私は散々悩んでレモンを選んだ。淹れ直してくれた紅茶と一緒にいただくと、ちょっと遅めのティータイムだ。彼女をはじめ、今のところエリリン以外の友達とは全然会っていなかったので話題には事欠かなかったが、やっぱりというかなんというか。ひととおり話が済んだら、やっぱりそれぞれの相手に関することに話は転がるもので。ミサミサの旦那さんの話ならまだええけど、私の相手、つまり、北のことに話が及ぶと、やっぱり私はどぎまぎしてしまう。きわどいところを突っつかれ、挙動不審になる私をおもしろがるミサミサは小悪魔や。新妻ともあろう女が果たして小悪魔でええんやろうか。これは旦那さんも大変やわ。ひとの真剣な交際のありようを何がおかしいんか時折けらけらと笑われて私は羞恥心にさいなまれつつ、再会から今までのことの経緯や交際の進捗をこと細かにしゃべらされて私はもう、口どころか目玉や耳からも火を噴きそうな思いやった。
「もう。そんなに笑わんといてや」
「あーおっかし。やってあんたら、ほんまにもう」
「なに?なにがそんなに、おかしいん?私らなんか、変なん?」
「いやあ……ほんま、一筋縄ではいかんって感じよな」目じりに浮かんだ涙をぬぐいながらそんなことを言われてしまった。泣くほどなにがおもろいんやろう。
「一筋縄ってなに?」
「ほんでなに、今日このあとも会うん?」
「え?ああ、うーん?予定はなかったけど……なんやしゃべっとったら会いたなってきた……」なんや前にもこんなことあったような。と思いながら最後のひとかけらを放り込んでマフィンを完食する。
「はは。単純か」
「ミサミサひどい。わろてばっかりや……」
「マフィンもう一個食べてええで」
「マフィンもう一個食べてええん!?」
「はははっ!」なんてことや。マフィンをもう一個食べてもええなんて!?どうしよう!?どれにしよう!?箱をのぞき込んで再び悩みだすかたわら、楽しそうな笑い声がうっすら聞こえてきた。なんやミサミサ楽しそうやな。よかったなあ。どれにしよう。抹茶はさっきミサミサが食べた。いまレモン食べたから、次はやっぱりチョコレートやろうか。でもラズベリーなんて絶対うまいやん?シンプルなナッツや塩バターも捨てがたいやん??でもじゃあリンゴ外せるんかって話やん???ううんんん……、考え込む私の頭がそっと撫でられる。
「なまえがしあわせそうでよかった」
…………きゅん。
「なんで胸おさえてるん」
「ときめいた……」
「そういうんは北にしたりぃや」
「北には常にしとる……」
「常に」
悩みに悩んで選んだナッツのマフィンをひとかじり。生地ふわふわや。ナッツカリッとしとる。こおばしい。うまい。好き。うまい。撫でられ撫でられ、よかったなあとほほ笑まれて気分がギュンてよくなった。
「はあ。それにしてもほんま、安心したわ」
「ふが?」
「よく噛んで飲み込みや。……いや、前会ったとき、剣幕凄かったから」
ごくんと飲み込んでから口を開く。
「なに、剣幕?北の?」
「私が呼んだせいでやばいことになったらどうしようってちょっと心配やってん」
「やばいこと……???」
「先に会うて、話まとまっとってくれてよかったわ。ほんま」
ミサミサがいま一体なにに対して安堵しているのかがまったくわからず、ただただマフィンと紅茶をうまうまと消費するみょうじなまえなのだった。
「わからんけど……なに?北に会いに行ったのがよかったってこと?」
「せやで。グッジョブやなまえ」
よくわからないなりに褒められるのはうれしい。
グッと親指を立てるミサミサに笑みがこぼれた。
「私も北にはちょっと、意地悪言うてもうたしな」
「いじわる?ミサミサ意地悪とか言うん?」
「そら私も人間やしな。言うこともあるよ」
「言うたん?え、北に?」
「言うたよ。せやから断り切れへんかったんや」
「なに言うたん?」
「秘密」
「ええ…………。めっちゃ気になるねんけど。じゃあ、理由のほうは?」
「やって。あんまりやと思ってんもん」
「うん?なにがあんまり?」
「けどまさか、あんななると思わんやん」
「うん???」
「あん頃は私も子どもやったし」
ぽつぽつとなにかを思い浮かべているかのように、言葉をこぼしていくその言いように既視感があった。
「……それ、もしかして卒業式の話?」
「……なんや、聞いとるん?」
聞いとるもなんも。
帰国してからサシで北とのことを話した友達には漏れなくそんなニュアンスの言葉をもらった。よかったとかおめでとうとか、寿ぎのことばだけならまだしも、合間合間に物騒な心配しとってんみたいなことを言われて、北があんな様子でとかみんな言うやん。
「なんかそれ、みんなして言うねんけど……」
尾白もエリリンもふうちゃんもや。
みんなが口をそろえてそんなことを言うとった。
「あんなって、北あんときどんな様子やったん?」
知らんのは、卒業式に出てない私だけや。
私と北の間のことやったら、当事者のはずやのに、私だけがなんにも知らない。せいぜい泣いたということを北本人の口から聞いたぐらいや。いやそれでも相当なことやけど。あんときの北のことを、私はなんにも知らんのだ。時間はさかのぼられへんけど、せめて私のせいで泣いたときのことぐらい、ちょっとでも知っておかんとと思って事情を知るひとに尋ねてみるのだけれど。
「いや、それは言えへん」
「なんで!」
今のところ、まったくおんなじ答えしか返って来おへんやん。どういうことなん?
「北信介の沽券に関わるやろ」
それも、みんな口そろえて言うねんけど!?
なに!?私がおかしいん!?ひたすら首をかしげる私をしばらく眺めて、ミサミサは呆れたように笑った。
「せやなあ――」
なんだか私、帰って来てから笑われてばっかりや。そうやない?気のせい?なんか、おかしない?
「あんたがいつか北なまえになったら、そんときに教えたげる」

最寄りの駅で電車を降りてしばらく。
目に映りゆく景色をなんとなしに眺めながら、ぶらぶらっと散歩をするような足取りで自宅までたどり着いた。北の話をいっぱいしたから、北に会いたい気持ちではいるものの、今週はすでにほとんど入り浸っているようなもので、毎日毎日お世話になりっぱなしなので、それに北も忙しくなってきてるし。さすがに今日は、あんひとらのことを恋しく思っているけれど、せめて電話とかで我慢しようと言い聞かせて鞄から鍵を取り出して玄関扉の鍵穴へ差し込んだ。解錠してまたすぐ鍵を閉め、狭くて暗い玄関でどうにか靴を脱ぎ部屋へ上がる。ふうっと息を吐いてダイニングの入口で鞄を下ろし、冷蔵庫から取り出したペットボトルのふたを回し水を喉へ流し込む。何度か飲み込んでまた一息。あー楽しかった。けどちょっと疲れたな。あちこち買い物に行ったからやろうか。年かな。それは嫌やな、なんて思いつつ水を元の場所へ戻し、目をしょぼしょぼさせ、髪留めを外しながら寝室の扉を開く。
すでに日は暮れたうえ、バルコニーのシャッターを下ろして出かけたために室内は真っ暗かと思っていたが存外、というかめっちゃ部屋明るい。まぶしい。電気ついてる。いたい。あれ私、消し忘れたん?強烈な明暗の差にぎゅっと瞼を閉じて、少ししてそうっと開く。
部屋の灯りはやっぱりついていた。
清潔感ある白の壁紙ややわらかい色合いのフローリングに巨大なパイン材のデスクカウンター。その向こうにはふかふかベッド。あとは壁沿いに棚やテレビ台などの家具が少々、といういたってシンプルな部屋のなか、ひときわ目を引くものが鎮座していて私はえっと声が出そうになって、すんでのところで口を塞ぐ。
「…………」
ことばを失って、それから瞬きを数度。
何度編集点を作っても視界に現れるそれを、見つめて、そうっと足を向ける。音を立てないようにそば寄って、それからしゃがみ込んで顔を近づける。
北が寝ている。
くうくうと静かな寝息を立てて、きれいな目玉をひっこめ瞼で覆う。ベッドの側面に背中を預けるような形で座り込み、器用にも眠り込んでいるらしい。普通にベッド使ったらええのに……と思いながらかれを見つめる。わずかにゆるく空いているくちびるがかわいらしい。きれいなまつ毛。呼吸かわええ。どきどきしながらじいと北の寝顔を観察する。肩と胸がわずかに上下する。北が私のテリトリーで寝ている。寝顔かわええ……。ええ、なんでこんひとこんなにかわええん?なんなん?ずるない?なんでそんなすこやかに寝れるん。姿勢きつない?首しんどない?肩凝らへん?
なんでここにおるん?
なんで私が会いたいときに来てくれるん。
きゅうっとやさしく、心が北に締め付けられる。
私。私なあ。
我慢するつもりやってん。
するつもりやってんで?
我慢しようと思とったのに。
まさか本人がのこのこと、こんなところまで来てくれよって、まったくもう。
すき。
どうしよう好き。
胸がきゅーっとあまく締まる。
今日もこんなに北が好き。
「………………」
にしても起きんな。
いやいやあんた、起こさないよう息まで殺し衣擦れすらおさえているくせにと自分を笑う。だってしゃあないやん。北の寝顔、ずっと見ときたい。まもりたい、こん寝顔。て毎回思ってまうねんもん。あたまの中で色々と浮かびながらも、視線は変わらずよいこに眠っとる北から離せない。ふふ。かわいい。
隙だらけや。
あかんで北。
こんなにこんな男前が、自分を好いとる女の前でこんな無防備に寝こけてええと思ってるん?
両手を北の脇について前のめりになる。
私の身体で明かりを遮られた、北の寝顔が陰ってしまった。
ぴくりとも震えないやわらかな瞼。
薄く開いて誘うくちびる。
とくとくと弾む心臓と、流れる血液の感覚がいやに鮮明だ。
しずかに近づいていく。
ほんまにほんまに隙だらけ。
どうしてくれよう。
頬が熱い。
震えるくちびるが、やわらかいものへゆっくりと、すこしずつ触れていく。
北に触れていた。
しっとりとくちびるに吸いつく北の感触。
ちゅ……とわずかに音を立てて離してすぐに、また恋しくなって別のところへ触れる。起こしてしまわないよう、そうっと触れるのに、起きてしまえばええとも思っていて。はよ私を見てとも願っていて。このあどけない寝顔をずうっと見ていたいのに、あのきれいな目玉をのぞかせてほしい。うつくしいまなじりをきゅうと下げて、くちびるに弧を描く。赤々とした舌先で私の名前を呼んでほしい。おだやかな声でやさしく私をくすぐってほしい。そんな矛盾した望みを抱いて、よこしまなくちづけを夢中で送る。意識のないひと相手に、なんて悪いことをしているんやろう。そう思うのに止められない。くちびるから伝わってくる北の熱と感触に理性をうばわれ、ただのよこしまな女になったみょうじなまえは、時間も忘れ、ただただひたすらに北へくちづけ続けていたので、いつの間にかぶ厚い手のひらががそっと添えられて、触れていただけの接触がどんどん深くなって、奪った呼吸以上を奪われて、なにがどうなってこうなったんかちいともわからんまま、ひっくり返ってうっそりとほほ笑む北越しに天井の灯りが眩しく目を瞑ったその瞬間われに返るまでの間のことは、このあたまにはなんにも残っていないのだった。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -