「テーブルと、椅子と、うん、あとは壁が……」
あらわになったうなじが憎い。
仕事の合間、昼めしのあと。かのじょと過ごせる、ほんのわずかないっときを、普段ならば目いっぱいに堪能するのだが、今日は少しばかり勝手が違った。ポロンポロンと楽しそうなメロディを奏でたスマートフォンを手に、とんと指でなぞり上げてからすでにもう五分。五分が過ぎている。あー!ミサミサやん!と声を明るくしてからしばらく、みょうじなまえはこの空間に俺という存在がおることなんか頭から抜け去ってしもたみたいに、もうひたすら楽しそうにさっきっから、しゃべくり続けている。そんで俺は食後の茶をすすりながら、そんななまえちゃんを隣で見とる。
「引っ掛けられそうなもんあるかな?ああレールが。そんならそこに掛けたら――うんうん、それから……」
なにがそんなに楽しいのやら。ふふっと幸せそうな表情に頬を染めてはしゃぐような声を上げるなまえちゃん。時折漏れ聞こえてくる声と、かのじょが呼ぶ相手の呼称から、かのじょの友人であることはすぐにわかった。
「うん。そんでレールあるんやったら吊り下げて、周りはお花とかで……」
会話の内容的に、なにやら打ち合わせじみた実のある内容であることもわかる。
「そうそう。それから写真見繕ってやな……」
わかったが、わかっとるけど、わかっとるけどなんやろう。全然しばらくちっともこっちを、ちらりとも見てくれへんねんもん。一体何にそんなにテンションが上がっているのやら。会話の冒頭、『えっ!?ほんまに!?やるやるー!』わあっと何かを秒速で快諾しとったのは見たけども。
スマートフォンを片手に声を華やげるかのじょを横目で見ながら頬杖をつく。なにがそんなに楽しいんやろうか。瞳がきらきらと輝いている。血色のよい頬がうつくしい。こんなにきれいな愛らしいひとに、かまわれへんなんてことがあってええんやろうか……。「ブツの大きさがこんくらいやから……」恋人を六分もほったらかして。のどごしよい気分がすっきりする冷茶をまた一口流し込んだ。
「ははっ!なに言うてるんもー。そーんなでっかいん、さすがに入らんわ!ちゅーかジャマ!せめて椅子の座面におさまるぐらいやないと――」
弾けるような笑顔を、それを見ることもできん相手との会話で惜しげもなく浮かべるなまえちゃん。それを話にまったく関係のない俺がぞんぶんに盗み見て、実感するのだった。
捨て置かれている……。
「持ち込みと、片付けもあるからなあ。あんまり無駄にならんようにせんと……」
恋人放っておくんはどうなんやとか、狭量なことを言うつもりはない。声に出して言うつもりはないが、こうも目の前で楽しそうにはしゃがれてしまうと、いくら相手が女性とはいえ、友人とはいえ、なんだかな。気になってしまう。不快ではないが、面白い気分ではない。これでかのじょがほんの一瞬、ちらりとでもこっちを向いて、笑ってくれたりしたならば、それは俺かて十分くらいなら恐らく、こんなことを言うたりはせえへんはずやろうに。こっちを向け、と念じて手を伸ばす。人さし指で、そのふっくらと薔薇色に染まったやわらかい頬を突いた。突かれた勢いのままにかのじょは「う」と言葉の途中で反応したが、すぐに電話口の相手へ軽く謝罪を入れる。今の音が聞こえたのだろう。しかし、なんでもないとは聞き捨てならへんな。なんでもないことないやろ。
「前の日の夕方やっけ。十六時から?やったら二時間でやってまわなあかんから、一回どっかでブツの確認も含めて買い出しと擦り合わせしとこっか」
何事もなかったかのような会話を続けながら、ちらりと目玉だけをこっちへ向ける。それだけで、心が跳ねた。ちょっと眉を寄せて、くちびるをつんとわずかに突き出してくる。なんやそれ。ちゅうせえってことでええ?する?ええ?
「来週とか都合どうやろ?うん、ああそん日は大阪やから……」
じりじりとおのれに近づいてくる存在に、気づきもせんのは恋人をほったらかしにしとるからやで。元々そんなに距離のあったわけでもないのに、さらにそのわずかな隙間まで詰めて、さてどうしてやろうか。
「パース作るし写真何枚か撮っといてほしいねん。うんそう、二方向からと……」
どこにしてやろう……ときれいな横顔を物色する。
うんうんとうなずくかのじょの、あらわになった耳。首筋。こめかみ。頬。くちびる。まぶた。鼻先。額。髪の毛。つむじ。どこもかしこにも目移りして、最初の一回目がなかなか決められない。なまえちゃんがほったらかしにするからするのに、怒られてしまうのもいやや。怒るなまえちゃんはかわええから見たいけど、このことで怒られるんはいややなあ。どうしようか。やっぱり我慢しようか。でもまだまだしゃべってそうや。どうしようかなあ……。
逡巡していたときのことだった。
「北あ?」ぐりんと首を回して、振り向いたかのじょとばっちり視線が合った。
心底好いているきらきらした瞳が突然、至近距離でまっすぐとこちらに向けられて、驚きと、うわかわええ、と思ったのと面映ゆい気持ちになったのとで、思わず変な声が出そうになったのをすんでのところでこらえる。びっくりする。急に見んといてほしい。焦ってまう。かわええもんと急に目が合うと、ひとはこんな気持ちになるのかと、ひとつ新しいことを知った。どきどきと早打つ鼓動を感じながら、なんやと声を上げる。かのじょも思いのほか近くにおったことに驚いたらしい。目をまるくして口をしばらく開けっぱなしにしていたが、やがてはっとしたように(ちゅうかハッて言うた)表情を戻す。通話中の様子はそのままに、こんなことをするのだから、相手と俺の話題にてもなったんやろうか。首を傾げて待つと「うんそう、今もそばにおる」と返すので、そのとおりなのだろう。かのじょはうんうんと、何度かうなずいたと思ったら、えぇ〜?と奇妙な声を出して、眉を顰めた。
「……ちょっと待ってくれへん?折り返していい?」うんごめんな、という言葉を最後に、なんでか通話を切ったかのじょはすぐに俺のことを見て眉間にしわを作った。ともあれ、ようやく電話を終えたかのじょが俺に意識を向けてくれた。
「どうしたん?」
尋ねながら、両手を身体の前で広げる。
言わずもがな、こっちへおいでという意の動作だったが、いつもならば一も二もなく満面の笑みで飛び込んできてくれたなまえちゃんは、おや、どうしたことやろう。条件反射のようにピクッと一瞬動いたものの、応じてくれる様子がない。それどころか、難しそうな顔をしてこちらを見上げてくる。
「………………」
「…………うん?」
数秒、かのじょは黙ったままだったが。
やがて「…………あんな」と、なんでか神妙な様子で切り出してきた。
「来月ミサミサの結婚式に行くんやけどな」
「結婚式」うん、と頷くかのじょを眺めつつ、告げられた愛称に誰やったかなと記憶を辿るが、女子の名前なんか苗字で言われなければとんと見当がつかない。そもそも友人の友人の名前まで把握しとらん。女子やし。せめて顔を見れば見覚えぐらいはあるかもしれへんけど。
「…………なんか、お式に、北も呼ぶ、て言うてんねんけど……?」
北ミサミサと親交あった?訝しむようにして言われた言葉に、あっと今度こそ声が出た。
「熊谷さんか」
「うん……なに?仲ええん?私知らんで?」くしゃっと顔をゆがめて、両手を伸ばし寄ってきたかのじょをよろこんで腕の中へ迎え入れる。すんなりとおさまるやわらかいぬくもりに頬がゆるんだ。「なあ北なんで??」とてもとても不安です私は。という表情で見上げてくるのが愛くるしい。もちもちの頬を手のひらで包めば、すりっと寄せてくる。そこでようやく、俺はかのじょへくちびるを押しつけることができたのだった。
「もう、ごまかさんといて!」
うわ。押しのけられた。
頬を手のひらでぐいっと押しのけられて、すぐさま離れてしまう。ぺたっと頬に張りつくそれをそのままに、かのじょを見ると、なんでかめっちゃぷりぷりしとる。とげとげした、不信感たっぷりの声を荒げるなまえちゃん。
「ごまかしてへんよ」
「ほんならなに!急にちゅうして!」
「急やないよ。ずっとしたいと思っとった」
「えっ…………」目をまんまるにして、ぽっと頬を染めるなまえちゃん。指をもじもじといじり出す。なんやこのかわええひとは……ほんまにもう……。ぐいぐいと押しのけられようとも離すつもりのなかった腕に力を込めて、ますます抱きしめると、はっと思い出したように「もう!」わなないた。
「きいてる!?私おこってんで!?」
「聞いとるよ。ずっとなまえちゃんの声聞いとるし、なまえちゃんをずうっと見とる」
「えっ…………」と途端にまた。
「そ……そんな……もう……」ほんま、かわええことしかせえへんよなこんひと、と思いながら、極上のくちびるにかぶさってことばを奪った。んっ、と一瞬ふるえて、また抵抗しようとするものの、何度かそのやわらかをやさしく食んだらだんだんと力の抜けていく。
漏れ聞こえてくるかのじょの声が、心地よさにゆっくりと沈んでゆくのを、聞きながら俺もまたしばらく、心ゆくまで浸った。

それから――そうして。
一体どれくらい経ったころやろうか。
「梅雨ごろやったかな。前にばったり会うてん」
ようやくかのじょがひとの話をええこで聞いてくれそうになったころ。くちびるの感覚の残るそこをどうにか動かして、辿った記憶を伝えていく。腕のなかですっかりおとなしくなったなまえちゃんはきろっと目玉だけを動かして俺を見る。
「ミサミサと?」
「うん。恋人と歩いとって、デートやって。結婚することはそん時聞いた」
あれはどこやったかな。松屋町のあたりやったかなあ。ばあちゃんの大事にしとった人形が、壊れてしまって修理してもらいに出かけたときやった。あっ北くんや!という声に振り返れば、見覚えのあるような気のする女性が、こちらはまったく見覚えのない男性と腕を組んで立っとった。
「…………ミサミサと面識あったんや」
「いや、正直うっすら顔覚えとったぐらいやけど。多分おんなじクラスになったことないやろ。なまえちゃんとよく一緒におったから、なんとか覚えとったぐらいやで」
「…………そうなん?」上目遣いで拗ねとるみたいな声に、うんと肯けば、少しは眉間もゆるくなる。ぎゅっと甘えるようにしがみついて、胸に頬を摺り寄せてくる、ちいさな頭をそっと包んでやさしく撫でてやる。そうなん、とちいさく繰り返す、だいじなかよわいいきもの。
「…………そうなん」
えらいかわいいやきもちや。
なに、なまえちゃん妬いたらこんな、ますますかわいなるんなんなん?
俺そろそろどうにかなってまうで?
「なあ、もっかいしてもええ?」
「…………えーえーよー……」
さて――どうしようか。
かのじょをすっかり安心させてやるために、してやれる話をひとつ持っているんやけど。
それをかのじょに話してしまったとき、かのじょに一体どう思われてしまうやろうかと考えると躊躇してしまうが。手のひらになじむ後頭部を撫でつけて、ほのかな期待を浮かべるかわええひとにくちづける。緊張が少し解けたのか、さっきよりもさらにやわらかくなったそれを食いつつ、数か月前の自分を思い返していた。思い出せば思い出すほど、なんで今まで放っておいたんか、自分でも不思議なくらいに、熊谷さんには無茶な頼みごとをしたもんやと恥ずかしくなる。
「…………結婚式、おまえ、前から行くつもりしとったやろ?」
「うん……?」とろんとした瞳をまたたかせて、かのじょは少しぼうっとしたあとで「ああうん」と肯いた。
「元はと言えば、お式誘われて、ミサミサのドレス姿見たいから、頑張って帰ってきたんやもん」
「……結婚するって聞いてなあ。式するて聞いて、俺がまっさきに何考えたと思う?」
「ん……?クイズ?」
「……めでたいなあ、とか?」なんてのんきな解答をするなまえちゃんに笑みさえこぼれる。ほんまにな。そんなことなら、どんだけよかったやろうか。おまえの友達から結婚するという報告を受けて一番はじめに、めでたいなあなんて思えるような人間なら、どれだけよかったか。ほとんど言葉を交わしたこともない元同級生を相手に、祝いのことばの一言でも最初に伝えられるほどに、頭のなかにすき間があったならどんなに。
「みょうじに、会えるかもしれんって思ったよ」
かのじょが目を見開いた。
それを見て俺は笑った。
「きた…………」
「笑えるやろ」
「い、いや……」
「我ながら女々しくて笑えるわ」
ひとの吉報を聞いてまずそんなことを考えた自分に驚いたし、多少見損ないもした。それでも会いたい気持ちがちっともなくなれへんのやから、会えるかもしれへんと思ってしまったのだから、俺がすることなんかもう決まっとった。みょうじも呼ぶん。からっからに掠れた声でそう尋ねた俺に返って来たのは『それ、北くんに関係ある?』と苦い笑顔だけだった。かのじょの友人だという女性に、ひいてはその伴侶となる男性へ頭を下げて、二人の大事な晴れ舞台に、別の目的しか見えとらへんこの男を入れてもらえるよう、かのじょに会えるように、自分がかのじょに会うためだけに何度も何度も頼み込んだのだ。学生時代かのじょと親しかったあの女性は少し渋ったが、心をくだいてしばらくことばを交わすうちに、最後にはなんとか許してくれて、ちゃんと出欠をとるハガキを自宅へ送って来てくれた。そのハガキ一枚にどれだけ救われたか。呼ばれるかどうかも、来るかどうかも知らんまま、それだけを頼りに縋ってきたこのざまを、笑い飛ばしてくれてもよかった。そんなかのじょが、突然ひょっこりと、みずから俺んところへ来たときの、俺の気持ち。
みょうじなまえがまた俺の前でわらった、ときの。あの気持ちを。思い出すだけで、鼻の奥がつんとなる。目が熱い。
「……北が女々しいなら、私は女々しい世界選手権の日本代表やし」
「……はは。なんやそれ」
「…………」ぎゅうと抱きついてくる、こんひとの温もりを、ほんのひと月前までは知らんかったのに。身体になじんで仕方がない。心がほぐれる。あたまを、なでてくれる。このたいせつでちいさな手のひらが、日ごろどんなに恋しいか。
「……結婚式、いっしょに行こ」
とろとろにあまく笑ったなまえちゃんが言う。
「うん。……今度は、ちゃんと言いたいわ。おめでとうって」
「よろこぶで。ミサミサは、ええ子やねん」
「ふふ。うん」
せやな、と本心からそう返す。
ほんならさっそく電話や、とかのじょは満面の笑みでスマートフォンを操作する。ほどなくして繋がったひとの声がスピーカー越しに聞こえる。友達とたのしそうにしゃべる腕の中のかのじょのことを、今度はほほ笑ましく見守っていられた。
『新婦側に男おったらちょいややこいし、あんたら北家連名で出すからな。頼んだで』
「ミサミサちゃん!?!?」

ふわふわと揺れていた意識が突然すとんと落ちた。
真っ暗な視界が急に拓けて、ぱっときらめく眩しさに目を瞑りたいのに瞼はぴくりとも動かない。あちこちに下げられたシャンデリアの光がそこかしこに反射して、煌びやかな熱で体温が上がる。やや薄暗くオレンジに色づいたこの場の空間はひとびとの楽しそうなざわめきに満ちていて、ここに集まるひとは男も女も、老いも若きも、総じてこれから行われる祝福の会に心を弾ませているようだった。普段とはまったく違う、襟元を軽く締める糊のきいたシャツの感覚にやや引っ張られながら、あてがわれたこの円卓のなかで唯一浮いた存在である俺は一点、隣の空席だけをひたすらに見つめる。ドクドクと血の巡る感覚がいやに鮮明で、身体はこんなに熱くて汗さえかいているのに、手足はひやりと冷たい。空いた席の卓上にはここへ着くべき来賓者の名前が上品な書体で記されている。鼓動がうるさい。顔が熱い。身体がうまく動かせへん。時間の経過がやけに遅い。ぎこちない動作で腕時計の時刻を確認すると、あと数分で開演すると招待状に書かれていた時刻になってしまう。ほんまに来るんやろうか。来るつもりやから、ここに席が用意されいているんやろうけど。ただ五年以上海外を転々として一度たりとも帰って来んかったひとが、友人の晴れ姿のためとはいえ帰って来るのだという実感がまだあまり湧かない。本日一生に一度の晴れ舞台へ上がるという彼女の友人に頭を下げて、こうしてここに居ることのできる資格を得られたのはいいが、招待状に同封されていた座席カードにかのじょの名前がしかと記されていたのを見つけてから、この数か月、夢を見ているような心地で過ごしてきた。
ほんまに来るんか。
ほんまに今日会えるんやろうか。
俺の隣に座るんか。
座って、くれるやろうか。
湿った手のひらをハンカチで拭う。
秒針の進むたびに、心臓の音が速く大きくなっていくような気がした。少しでも落ち着かせようと、肺の空気をふうっと大きく出す。思いっきり息を吐いたところで、かたんと隣で音がした。
「えっ――」
声が。
すぐさま隣へ顔をやる。
「え、き、北っ?」
言葉が出なかった。
みょうじ、と形づくるそこから息だけが漏れる。
「な、なんで北がここに……???」手にしているのは俺が持って来た座席カードとまったく同じもんではないんやろうか。それと俺の顔を見比べて、首をかしげる、俺がずっと会いたかったひとが、華やかにめかしこんで、きれいな女のひととして、俺の隣に座った。きらきらと輝く瞳が俺のほうを向く。うっかり気を緩めると涙さえこぼれそうだ。彼女は盛大に驚いて、俺を見て、北と呼んで、彼女の驚くさまをはやし立てる同卓の旧友に説明を求めて、それを聞くにどうやら彼女には俺の席は空欄とした座席カードが届けられていたらしいことがわかった。なんでか散々にからかわれて慌て出す彼女の横顔にしか目に入らない。ちらと俺を見て、頬を染めて、大人しくなるのも、北久しぶりやな、とようやく話しかけてくれるのも、すべてが夢のようやった。言葉が胸に詰まって出てこない。口を開いたところで、マイクに乗せた司会の声が大きく響いて、それまで薄く流れていた音楽が止み、場内の照明が落とされる。スポットライトの光が、出入口の厳かな装飾が施された大扉に当たり、開け放たれたそれから新郎新婦の二人が姿を現す。歓声と拍手。それと有名らしい結婚ソングが流れて一気に場の空気が染まった。わあっと隣で同じように歓声を上げて、新婦の名前を呼んで、嬉しそうに拍手を打ち鳴らす、彼女の姿を見つめる。みょうじなまえが今、俺の隣で同じ時を生きているという事実が信じられなかった。この場にいる自分以外のすべての人間の意識が、ゆっくりと場内をめぐって壇上へ向かう二人へ向けられる中で、涙の粒が、目尻からぽろっとこぼれてしまって、慌てて拭った。新婦のドレスにちりばめられた装飾が反射して、彼女の瞳がこんなに輝いているのだろう。笑みを浮かべ、頬を染めて、瞳を輝かせる、友人を心から祝福する彼女の横顔から目を逸らせなかった。やがて場内が明るくなって、再び司会の進行が始まり、主役の挨拶へ移り出し、ドリンクの入ったグラスを手に乾杯を、する時にばちっとぶつかった視線で胸が焦がされそうだった。真っ赤になってうろたえた彼女とグラスを合わせる。手が震えた。運ばれ出したコース料理の、味がよくわからなかった。俺があんまりにも彼女ばかりを見ているので、彼女が俺をちらと見やると必ず視線が合って、そのたびに焦れる。運ばれ始めた料理をちょんちょんとフォークで突っついて、ちいさな口へ運び出すそのさま。主賓の挨拶を終えて、しばし歓談の時間となった途端に、立ち上がり新婦の元へ向かった他の友人に置いて行かれてしまった彼女が、うかがうように俺を見る。久しぶりやな、と、やっとここでなんとか、口に出すことができた。ほっとしたように彼女も笑う。胸がくるしい。今すぐにでも連れ去ってしまいたいのに。味のわからへん料理を食べてうまいなと言う。お互いの近況をぽつりぽつりと話して、知っていることも知らんかったことのような顔をして聞いて、激しい鼓動をごまかすように言葉を交わした。いくつものイベントが光のような速度で過ぎていく。友人の晴れ姿をうっとりと眺めるこの女性を、ひとつも見落としたくなかった。席を立って新婦へ会いに行く、彼女のあとを追ってその手を取る。その小ささと頼りなさ、やわらかさ。生まれて初めて彼女に触れる。やむを得ず火照った頬を引っ提げて壇上へ寄りつくと、新婦から盛大に笑われることとなった。顔を見合わせて、まいったなと笑う。引っ込めようとするちいさな手を絶対に離してやらなかった。よろこぶ彼女も、ぼうっと見惚れる彼女も、涙ぐむ彼女も、すべてが記憶のなかにしかいなかった彼女がここで、今自分のそばに居るのだと、少しずつ思えてきた。彼女が楽しそうにして、うまそうにして、羨ましそうにしていたものを、全部覚えておこうと思う。時計の針だけがどんどん進んで、いつの間にかすべての行程を終えてお開きとなった会場からどんどんと人がいなくなっていく。立ち上がった彼女の手を再びさらった。顔を赤くして戸惑うばかりで、それやのに拒まない彼女にどんどん期待が膨らんでいく。心臓がおかしくなる。会場を出たところで新郎新婦が見送りをしていて、欲望を押し隠して感謝と祝福をどうにか口にした。失礼なことに今この場ではあんまり示せなかったかもしれないが、彼女の友人には幸せでいてもらいたいと思っている。感動した、めっちゃ綺麗やったとはしゃぐ彼女をしばらく眺め、引き出物らと上着を受け取ってその場を後にする。上着を着ようと荷物を手にわたわたとする彼女から持ち物を奪う。ありがとうと目的を果たせた彼女の手まで奪って、そのまま歩き出した。
「き、北――」
「車で来たから、乗って行き」
有無を言わせない口調で、言い切ればためらいながらもついてくる。手が熱い。自分の車の助手席へ大人しく乗り込む彼女を閉じ込める。前もって帰国していたらしい彼女がおずおずと自宅の住所を告げた。エンジンを回し、すこしずつ加速していく車が街中を走る。動悸がずっとおさまらない。生唾を飲み込んで、高揚を無理やり抑え込み、会話を重ねる。左側へミラーや目視をするたびに、彼女の姿が目に入って、気がおかしくなりそうだった。視線のひとつでも交わってしまえばそれこそ大変なことになる。必死の思いで車を操縦して、単線の小さな駅近くのアパートへなんとか到着することができた。こんなに気を張った運転は初めてや、とますます大きくなった鼓動を感じながら来客用の駐車スペースだという場所に車を停める。ふう、と息を吐いた。
「あ、ありがとう。助かった……」
「…………待ち。部屋の前まで」
「え、あ、うん…………」
ふわふわと浮かぶような声が耳元を心をくすぐってくる。ぎこちなく、けれど急いてここから出ようとする彼女を制止して、先に車を降りた。ドアを開けた彼女へ手を差し出すと、一瞬だけさまよわせてから、その手がそっと乗せられた。ぎゅうと握り込む。今度こそしっかりと視線が交わった。ぼっと火の着いたように熱くなる。息が熱い。こっち、と彼女が言うとおりに階段を上がり、指をさした扉の前に立つ。
「……ここ、やから…………」
「…………うん」
自分のそれよりも細くやわらかい指を手の中ですりっと擦る。彼女は一体どんな気持ちでそれを見下ろしているんやろうか。教えてほしい。今すぐ全部。
「…………あの…………」
「うん………………」
ぎゅうと握り直す。
なあいまなにを考えとる?
俺のこと考えとる?
考えて。
もっともっと俺んこと考えて。
「………………」
別れを切り出そうとする彼女の手を、離す気なんてはなからなかった。なにか言いたげに開かれたくちびるを塞いでしまいたい。あかあかと火照る頬っぺたに噛みつきたい。きれいに整えられた髪の装飾をこの手で外して、歩きにくそうな華奢な靴を脱がせて、華やかで窮屈そうなそのドレスを。 今すぐにでもこんひとを組み敷いてぜんぶ。
「…………お茶とか……」
やがて、彼女がつぶやいた。
「…………飲む……?」
ごくりと、喉が鳴る。
「…………ええん」
「………………ん」
力なく頷いた彼女の表情が見えない。
俯いてちいさな薄い鞄から家の鍵を取り出して、空いた片手で挿し口へ差し込んで、回して、開錠する。一連の動作が、ひどくゆっくりに感じられて気が急いてしまう。はやくはやくと内心念じて、ドアノブをひねって玄関扉が開かれて、薄暗い室内の手前、玄関と廊下のあたりが少し見える。彼女が一歩、俺に背を向けて先に中へ入る。狭い玄関先、靴を脱ごうとする無防備な背中へ片腕を伸ばす。きゃっと短くちいさく上がった悲鳴は勝手に閉まりゆくドアの音でかき消された。そのあとの物音も、ふたりぶんの吐息も全部全部、分厚い鉄の扉に遮られ、世界中でたったふたりにしか聞こえなかった。

「――た――」
「…………」
「き――ぃた――ぁ?」
ぱっと急に明るくなった視界に、あどけない顔をしたかのじょが入りこんできた。あまりの眩しさに目を細め、「…………みょうじ……?」と、声に出したが掠れている。さきほどまで目の前にあったものとはまったく異なる、無邪気な笑顔を浮かべて見下ろされて心が大きくとび跳ねた。
「ようけ寝とったなあ。お水のむ?」
「…………なまえちゃん……?」
「ふふ。北寝ぼけとる」きゃっきゃと楽しそうにしている、かのじょへ腕を伸ばして引きずり倒す。あっさりと倒れ込んできたかよわい身体をしっかりと抱きとめて息を吐く。夢やった。よかった。よかった?ふふふっと笑いながら、腹に頬ずりするかのじょは間違いなく俺のなまえちゃんで。けれど俺は、俺は?あの俺と、この俺は違っとる?ほんまに?かのじょにあんな無体をはたらく、あの俺とこの俺とは違う?ほんまに?ほんまやろうか?かのじょを掴んで離さない、この男のしでかすことはおんなじやろうが。あれは、夢?ただの、夢やろうか?それとも、来るはずやった、未来の話?
考えても詮ないことが頭に次々と浮かんできて、ぼうっとする俺になにを思ったのか。
何の前触れもなく、ふにゅ。
っとやわらかいもんが触れた。
残った感触を確かめるように指でなぞる。
「おきた?私の、北くん」
今しがた触れたばっかりのやわらかいそれをきれいに歪め、いたずらにわらうかのじょにすがりつく。
どれが夢でもええか。
こんひとさえいてくれるなら。
俺のそばにずっと。
おってくれるならなんだって。


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