「じゃあ信ちゃんなまえちゃん、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい〜」
五年ぶりの日本食をすっかり堪能して、せめて洗い物ぐらいはと立候補した私と監視役?の北とですみやかに食器や調理器具を片付けて、おしゃべりもいったん区切りがついたところで、おばあちゃんはお風呂へ入って寝るのだと言って居間を後にした。お婆ちゃんかわいいなあ、とつられてニコニコしながら見えなくなるまで手を振っていたが、しばらくすると向かいに座る北の視線がまっすぐ私に向いていることに気付いてハッとした。
あっそうか。こっからは……、
ふ、二人っきりや!
あかん!
あかーん!
「き、きき北はっ?北はまだ寝んの??早寝早起きタイプやったやろたしかっ」
「さすがに八時には寝んで」
「そ、そっか。そりゃそうか。ドイツでは四時には日ィ沈んでたけどな……」
「…………」
どっどうしよう、せや、私もフライト疲れで時差ボケが発動して急に眠気と疲労マックスっちゅうことにして、さっさと布団に潜るべきや。せやせや。おとなりの客間、使ってええよって言われてるし、押し入れに布団がしまってあることも聞いた。そういえば足もクタクタな気がする。ウン。よし。それで行こうそれで。作戦名、『いのちだいじに』。
「あっ私」
「少し、話そか」
口を開いてすぐ、目の前にグラスを差し出された。急に視界いっぱいに割って入ってきたグラスに驚いて言葉が止まってしまった。出鼻、くじかれた。
「お前酒飲める?」
「えっ」
北信介と、飲む……?
何を……?酒を……?
お婆ちゃん行っちゃいましたけど……?
二人で?
何度目かになるフラッシュバック。
あ、あか「飲めんのか?」
「アッ飲めます」反射で答えてしまうのは昔の癖だ。同じ質問を繰り返す時の北は、結構怖い。質問やけど質問じゃないように感じてしまう。――飲めますて答えておいてなんやけど、こんな状況で酒なんか飲んだら、まずいんとちゃうやろうか。お酒なんて、初めて飲むわけでもないけど、今のこの状況下、なんかやらかす気しかせん。やって今もうすでに顔が赤いねん。昼間っからすでに真っ赤やってんで。すでに大分のぼせあがっている状態でアルコールが入って、そう強くない自分がおのれを律しきれるとも思えんし、北の前でこれ以上醜態をさらすのもごめんだというのにもかかわらず。
「ちゃんと話、せんとな」
「えっもう十分しゃべったよ」
「ばあちゃんとやろ。俺とは全然しゃべってへん」
「ばあちゃんに会いに来たんとちゃうやろ」と言ってグラスを押し付けてくる。お夕飯作ってもらってる間とか、皿洗いの時とか、ちょこちょこしゃべったやんけ……。と思いながらも、他でもない北からそう言われれば断りきることもできず、諦めて受け取ることにする。仕方ない、ちびちび舐めるように飲んで量をごまかす戦法をとるか。
「北ってお酒飲む人?イメージないんやけど」
「普通に飲むよ。お前の中の俺は高三で成長止まってるやろ」
「そうかも……」記憶の中の北と目の前にいる現実の北、見比べすぎてわけがわからなくなりつつあるのもそういうことだ。
「ビールと日本酒と、梅酒あるけど。あとさっき帰ってくる時、適当に買ってきた」
「お酒を買う北信介……!?」
「実は成人しとんねん」冷蔵庫からガシャガシャと缶が擦り合う特有の音がしばらくしたかと思えば、ぴっちりとお盆に積まれて目の前へ置かれた色んな種類のお酒の缶。めっちゃあるやん、と素直な感想を漏らせば「お前の好みがわからんかった」と返ってきた。それはわかるけど、だからってこんなに買わんでええんとちゃう?なんやの、こいつ、まさか酔いつぶす気か……?としか思えんような量や。――これはこの飲み、覚悟せんとやな。と、さっきまで据えていた戦法を捨てざるを得ない。自分のために揃えられたもので北家の冷蔵庫を占領するのは心苦しかった。一応ひととおりパッケージを確認したが、一発目に選んだのは無難にレモンサワーだ。アルコール度数も低めやしな。北はというと日本酒を選んだらしい。いかにも地元の銘酒ですといった瓶を自分の元へ寄せ、残りの缶は何本かを残して再びお盆に乗せて冷蔵庫へ直しに行って戻ってくる。丸いちゃぶ台で、さっきは向かいに座っていた北が、今度はすぐ隣に座った。
「開けれん?」
プルタブにうまく引っかけられず難儀する指に熱いものが絡まったと思ったら、カシュ、と空気の抜ける音がして、薄く色づいた液体がパチパチと泡立ちながら注がれていく。その様子が、手元を凝視する私の視界にうっすら入った。しっかり七分目まで溜まってから、熱が逃げて、はいどうぞ、と渡されたグラスを落とさないよう慌てて力を込める。
「…………」
「なんや、もう飲んだんか?」
「先飲んだりせんわ」
「さっきよか赤い気ぃするから」
眉一つ動かさず、淡々と自分の方を開栓する北に、ちょっともう堪忍してくれと思ったが、言葉にならず、けれども言い負かされてばっかりは癪だったので、手酌しようとする大きな手から瓶を奪った。一つ、瞬きをしてこちらを見据えるふたつの目。
「……お注ぎします」
やっぱり気恥ずかしく、目は合わせられなかったけれど。
「……お願いします」
なぜか神妙に返す北に笑ってしまった。

夏の夜。
虫の鳴き声がどこからか聴こえてきて、無音ではないというのに、とても静かに感じる。
開け放した障子から昼間見えたのはつつましくも感性が垣間見える庭の景色だったが、夜の風景は完全に闇だ。家の中が過剰ではないが照明によって明るさに包まれているので、余計に暗く感じるんかも。風鈴も時折きれいな音を鳴らす。心地よい。
そんな静かな空間の中で、私と北は隣り合って座っている。お互いに準備が整ったところで、顔を見合わせた。
「じゃあ……えっと」
「乾杯しよか」
「なにに乾杯?」
「まずは、無事の帰国やろ」
「あー、そっか?」
「そんで、再会に」
「あと、北仕事おつかれさまってことで」
「ぎょうさんあんな」
「うん。ぎょうさんある」
「じゃあ、みょうじの帰国と、再会と、おつかれさんってことで。乾杯」
「……乾杯」
肩の触れ合うような距離で、そっとグラスを合わせ。
まずは一口、喉に通す。
「――おいしい」
「そら良かった。まだまだあるからな。好きなん飲んでや」
「うん。北強そうやな」
「そうでもないで」
「途中で寝たらごめんやで」
「運んだるから、心配せんでええよ」
「慎重に飲むわ」
「ええって言っとる」
隣り合わせで座っているので、ずっと顔を見なくても不自然じゃないのが救いだった。気付いたら肩は少し触れていて、熱いけれど。冷ますためにお酒を飲んで、潤った喉から、ぽつりぽつりと、言葉をこぼしていく。
「北のお米な」
「うん?」
「駅の物産でな、見かけて」
「ああ。いくつか置いてもらってんねん」
「品名見て、なんやめっちゃ懐かしいなって思ってん」
「せやろな」
「袋の裏見たら、やっぱり北やってん」
「ああ……。住所、それ見て来たんか」
「うん」
「てっきり治にでも聞いたんかと」
「なんで治?」
「あいつの店にな、米卸してんねんで」
「おにぎり屋やっとんのは知っとる?」と聞かれたので首肯する。
懐かしい後輩が、卒業後専門の方へ進み若くして店を持ったのは知っていた。というか、オープンのお知らせがメールに届いていた。けどお米のことは聞いてへんな。いや、地元のめっちゃうまい米を農家さんから仕入れました、という具合には書いてあったと思うけど。なんやねん書いとけや。せっかく帰国したんやし、近々行ってみようかな。定休日なんて書いてあったっけ。
「まさか北と治が手を組むとは……」
「別に敵とちゃうしな」
「なんかええなあ、そういうん」
治とか昔北には結構ビビっとったと思うんやけど、今はそうでもないんかな。まあ同輩と後輩の繋がりが継続しているというのは喜ばしいことだ。片割れの方は何してるん、と聞けば、こちらはやっぱりプロになっているとのこと。そらそうやわな。たったの二年しか見てないけど、あんだけバレーにぜんぶ捧げてきて、別の道選ぶ方がビックリやわ。そうかそうか。そらよかったわ。
「北が作ったお米を治がにぎって、できたおにぎりを侑が食べてバレーすんねんなあ」
こんひとらは、そうやってつながっていくんか。
なんかええなあ、と繰り返す。
気分がいいので酒もうまい。ちょうどグラスが空になったので、もう一杯分くらい残ってんのかな、と缶を持ち上げたら、横から奪われた。注ぎ口はこちらに向けているので、また注いでくれるようだ。どうもどうも、とそれを受ける。今度は途中で中身がなくなって、半分ほど入った。飲む前から既にふわふわしている頭に、特有の高揚感が加わって、しかも二人っきりのこの状況で、酔いは進みそうだ。やけど、せめて大量にある缶缶の三分の一ぐらいは消費してしまいたいな。お婆ちゃん、明日お昼に素麺ゆがくって言ってたしな。冷蔵庫、開けといたらんと……。口内でシュワッとはじける感触を楽しんで、ゴクリと一飲みにした。こんなん、炭酸みたいなもんやねん。
「は〜。お酒飲むん久々やわ〜」
「そうなんか」
「全然ゆっくりしてへんもん。最初ん方はしばらく滞在して色々しとったけど、中盤ぐらいから、ああこれ思ってたより全然ペース遅いな。ってなってん。最後の最後とかもう、マーブルカテドラル直行しただけやで。ちょっと勿体なかったかも」
「そんで五年か」
「ほんまは三年ぐらいで帰る予定やってんけど」
「……ふうん」
「やがて時は過ぎ……」
「なんで二年も延びてんねん」
「国から国への移動に、意外と時間かかってん」
目的地のはほとんどは自然風景だったので、天候面でストップを食らう場面も多かったのがタイムロスの一因にもなったな。悪天候で飛行機飛ばんとかな。手続き自体も時間かかることがあったけど、ただまあ一番の理由は、間違いなく順路やなあと言えば、どういうことやと尋ねられる。サワーを一口飲んでから、えっとなあ、と記憶をたどる。
「イギリス飛んでからから中国まで戻ったり」
「…………」
「そっから急にクロアチアに行きたくなったりしたもんな」
「お前は、なんでそんなにアホなん?」
「う」
聞き覚えのありすぎる言い回しに、見たくないなと思いつつ、でもやっぱり恐いもの見たさで恐る恐る隣を見上げる。北は非常に厳しい目で私を見ていた。キリリとした眉を顰めるその表情は、記憶の中の北によく見られた。主に双子を相手取ってる時だ。過去私に向けられたことはほとんどないはずやのに、まさか成人した今、向けられることになろうとは思いもよらない。
「あっ痛い。北痛い。目力が」
「もっと神妙に痛がれや」
「言葉の刃相変わらず鋭いな……えっほんまにキレてる?なんで?私のアホさ加減に?」
確かに私はアホですけども。
「キレてると言うより」
北は下を向き、深く深く息を吐いた。え、それ、通常人が怒りを殺すために行うルーティンやないんですか。治がよく侑にやっとった。えっこわ。めっちゃ恐いんやけど。
「呆れてるわ」
「呆れ……」
「お前は、意外と自由よな」
「うん?」
「……いいや、なんでもない」
静かに首を振る北だった。なんでもないようには見えなかったが、私に話してもしゃあないと思ったんかもしれんな。それはちょっと寂しいな。まあ天気はしゃあないにしても、と北は言葉を重ねる。
「旅行すんならちょっとは効率考えや」
「せやなあ」
「せやなあやあらへん」
「ごめんて。あれなんで謝ってんの私」
「悪いことをしたからやろ」
「ハイスミマセン」
ピシャッと言われた一言に反射で謝ったけど、悪いこと……?と首を傾げつつ、とにかく機嫌を持ち直してもらおうと、酒瓶を取る。無言でグラスを差し出した北の目は据わっていた。あまり食い下がると、そろそろブリザードを起こすのは過去色々見てきて知っているからだ。言いたい言葉は飲み込んで、ついでにお酒も飲んでおこう。あれ、もうなくなった。
「北、次それ取って〜」
「どれや」
「ブラッドオレンジ」
「ほい。グラス出し」
「どうも〜」
また北が注いでくれた。
今日はなんてええ日なんやろうか。
嬉しくなってニコニコしてしまうやん。
チラッと見ると、北もこっちを見て少し笑っていた。出血大サービスやん。どんどん顔が熱くなっていく。ちょっとだけ触れている肩を何度か押し付けて遊ぶと腕も少しくっついた。北は好きに遊ばせておいてくれた。太っ腹やな。そういえばお酒代北持ちやん。すごいな器。北家は器量が年々増えていくんかなあ。
「……なに笑ってん」
「北の器はとどまることを知らん……」
「フ。なんやそれ」
「北も笑ってんやんか」
北もなんだか機嫌がよさそうだ。
よかったよかったと頷いて新しいサワーを喉に通す。レモンと違うまろやかな甘さとほろ苦い味が広がった。おいしくて頬が弛む。隣に北いるし。おつまみの枝豆も塩加減がバツグンだ。風は心地ええし、北とくっついてるし、もう言うことないな。
「お前と二人で酒飲む日が来るとはなあ」
ひとり言のように小さく、北が言った。
「うれしい?」
「フッ」
「うれしいやろ?なあ北うれしいやろ〜」
「引っぱんな。シャツ伸びる」
「うれしいって言え〜!」
「嬉しい嬉しい」
「こんな綺麗どころと飲めて、うれしいやろ!」
「せやなあ」
「せやなあやあらへん!」
「すまんて。なんや、さっきこのやりとりしたな」
そうやっけ?
首を傾げるも、よく思い出せない。
まあええかとお酒を呷る。
ハー、と息が漏れた。
北のシャツを掴んでいた指をそっとほどかれる。
バレーをしていたきれいな指先には見知らぬタコができている。
さほど古くない傷跡が、数年の北の試行錯誤を薄ら伝えてくる。
ぜんぶぜんぶ好きやと思った。
なあみょうじ。と、北が呼ぶので返事をした。
「俺はなんでか、みょうじは進学すると思っててん」
そうやろうなあ。
「お前めっちゃ勉強しとったやん。」
ああ英語な。
したな。
受験で使う教科なんかそれくらいやけどな。
他もぜんぶ他言語やったな。
つけ焼き刃っちゅーやつやな。
「まさか外国に行ってしまうなんて、思いもせんかった」
まあふつーは進学か就職やからな。
私も途中までは進学するつもりやったけどな。
「しかも卒業式にも出んと」
それは完全に予想外やったわ。
飛行機早めんといかんくなってん。
「そもそもな」なんやねん。
「俺は、お前が絵を描くのも知らんかった」
…………せやろな。
北は私に興味なかったもん。
「俺はお前のこと、なんも知らんかったなあ」
独白のような北の話を黙って聞く。
眉を下げて笑う横顔を見ていた。
こんな顔をさせたかったわけじゃなかってんけど。
うまいこと行かんなあ。
絡んだ指に少し力を入れる。
「なあ北」
「うん」
「私が、おらんくなってな」
「……うん」
「ちょっとでも、寂しいって、思ってくれた?」
やっとこっちを見た。
日に焼けた肌。でかく太くなった身体。シュッとした顔つき。ますます精悍になって男ぶりも上がった北を、直視する度に頬が焼ける。
昔はこれを必死でかくそうとしてたな。
今はもうそんなんせえへん。
――できんわもう。
「泣いたわ」
「えっ?」
「泣いた」
「…………そうなん?」
信じられないような気分だった。
泣いた?北が泣いたん?
私がどっか行ったから?
北が泣いたんなんて、あん時くらいやん。
部活の。ユニフォームもらった時の。
「ポロポロ泣いたん?」
「そんなん言えんわ」
「見たかった」
「ひどい奴やな」
「見たかったなあ」
「そんなん見てもなんもないで」
「なあ今泣いて?」
「アホやろ」
「泣いてや〜なあ北あ」
「泣かんて」
「泣いてってば」
「泣け言われて泣くもんとちゃうやろ」
なんやこいつガンコやな。
知っとった。
でも見たい。
ポロポロ泣く北、私のせいで泣く北見たい。
「なにしたら泣いてくれるん?」
「お前、そんなにか……」
「ええから泣いてやあ〜」
身体ごと北の方を向いて、空いていた方の手も北を掴んで離さなかった。子どもみたいなおねだりが口からポンポン出てくる。大人やのになあ。でもどうしても見たいねん。唇をキュっとむすんで、大きな瞳からきれいな涙をポロポロ泣く北を見たい。卒業式の日には見られんかったから、あの日の私はもう居らんから、大人の北が泣くのを、大人になった私が見たい。ついには頭ごと肩に押しつけてグリグリし出す私についに折れたのか「せやなあ」と北が考える素ぶりをする。私は答えを待った。
「お前が今、抱きしめてくれたら……泣いてまうかもしれんなあ」

目を開くと、誰かの胸板が視界いっぱいに映ってギョッとしたけれども、ドクンドクンと聴こえてくる鼓動と、背中に回った腕と、脚にある感触でハッとして、顔を上げると北がこちらをまっすぐ近くに見下ろしていてこちらの心臓は一瞬止まった。近い。お顔が近いです北さん。
「起きた?」
「私寝てた?」
「ちょっとだけな」
「……運んでくれるって言ってたやん」
「ちょっとしか経ってへんから」
吐息がかかるほど近いので身じろぎすると、腕と足でガードされた。
「き、北」
「まだもうちょっと」
「さすがに照れるし」
「いや、まだちょっとしか経ってへん」
ぎゅうと音がしそうなほど力を込められる。これ私、北に包まれてる。いや、たしか私が北を包んでたんや。あんなことを言うから。自分のことを、こんなに好いてる女に向かってあんなことを言うから。そんなん抱きしめてしまうやんか。
「北」
「なんや」
「目ぇ赤いな」
自分で宣言したとおり、私が抱きしめたら北は泣いた。ポロポロと涙がこぼれ落ちて、溶けてしまうのがもったいなくて、すくい上げてやりたかったけど、すぐに腕を回されて身動きがとれなくなって、結局私の着ているシャツ(それもまあ北のもんやけど)にしみ込んでいった。瞳も薄ら赤いし、擦ったのか目尻も赤らんでいる。そっと指を這わせると、ピクリと反応する。
「北を泣かせてしまったな」
「……泣かされてしもたな」
「どうしよう。赤木にぶっ飛ばされる」
「フフ」
「笑いごとちゃうで」
在学当時から奴は北派の人間やった……。片思いを長くわずらういたいけな少女相手に、時折笑顔でまあまあキツイことを言う、かの男を思い出す。
「いや大丈夫。尾白はきっと庇ってくれるはず。稲荷崎の良心」
「お前ほんまアランと仲ええな……」
「超親友やで」
「その超親友と明後日飯行くで」
「えっ!?」
なんて会話をしつつ。
一向に離してくれる気配がないので、顔の向きだけ変えてちゃぶ台の方へ目をやると、中途半端に飲み残していたグラスはすっかり温くなってしまったようで、表面にかいていた水滴がすべて天板へ垂れて底の形に水溜まりをつくっていた。腕を伸ばしてグラスを掴む。
「なにしてるん」
「え。飲む」
「もうあかんよ。終わり」
「ええ……」
「酔いつぶれて寝た人間がなに言うてんねん」
みたびグラスを奪われて、飲み干されてしまった私のブラッドオレンジサワー。ジュースでも飲むみたいにゴクゴク飲んで、上下する喉仏を間近で見つめて、あっそれ私のグラス、恥ずかしくなっているうちに「温い」というなんともな感想でサシ飲みは締めくくられてしまったのだった。カルピスサワーも飲んでみたかったのに。まあ寝落ちしてしもたら仕方がないか。残念だがまたの機会にしよう。
「そろそろ片づけよ」
「せやなあ」
「は、離して」
「うん」
「うんやなくて」
「あかん、動かんわ。酔いが回った」
「まあまあの酒豪がなに言ってんねん?」
「じゃあ金縛りや」
「じゃあとか言うなや」
「みょうじさん」
「な、なんや改まって」
「農家ってどう思う?」
「ハ?」
酔いが回っただの金縛りがだの、おおよそ北の口から出てこんやろという適当な言い訳を流したと思ったら、まったく脈絡のない質問にマヌケな声が出た。そうは見えへんけれども、やっぱちょっと酔ってんかな。
「どう?とは?」
「そのまんまの意味や。忌憚ない所見をどうぞ」
「所見って言われても」
「……うーん。ありていやけど、尊い仕事やと思いますけど……」お婆ちゃんが炊いてくれたごはんはおいしかった。漬物も煮物も野菜のうまみが出ていた。貰いものやという梨はみずみずしかった。おいしい食事はうれしい。私たちの毎日の『うまい』があるのは、北や北のお婆ちゃんや近所の今井さんみたいに、毎日汗水流してうまい食べものを作ってくれてるからや。日本国民としては減少しつつある日本の第一次産業は大事に盛り立てていかんとあかんとも思うし。まるで中学生みたいな回答やけど、今回世界を回ったことでその言葉が身にしみた気がしている。というようなことを、たどたどしくも言葉にする。
「うん」と頷く北は相変わらず感情を読み解きづらい。北検定一級の私でも、この鉄面皮をはがすのは難しいのだ。かと思ったらよくわからんとこで笑うしな。
「なんの質問なん?」
「じゃあ次な」
「二十四歳が無視とかするん」
「……農家の男をどう思いますか」
忌憚ない所見をどうぞ。
さっきと同じように言葉が続いた。
所見。所見て。
またそんな言葉を使う。
さっきとは違い、明後日の方を向いている北とは視線が合わず、それがかえって妙な緊張を運んでくる。目を逸らす北なんか知らん。なんなんこれは。かあっと頬が熱くなる。再度身体を動かすと、やっぱりぎゅうと抑えられるので。北検定一級の私は。私は。正常に働かない脳を無意味にグルグルさせて、口を無理やり開く。
「……かっこええと、思いますけど……」
「……うん」
「めっちゃくちゃ……とてつもなく……」
地球上の、どの男よりも。
うん。とまた一つ頷いて、
北がようやくこちらを向いた。
大きくて、静かに澄んでいて、でも熱い。
きれいなふたつの目が私をちかくで見下ろした。
どきどきする。
こんな目見たことない。
なにか言ってほしいような。
言わないでいてほしいような。
今度は言葉が出てこない。
息遣いと、ドクドク震える音が、
無機質にきれいな風鈴の音と重なった。
…………、
……………………。
「……みょうじさん」
「……なんやの」
澄んだ瞳に薄ら膜が張る瞬間の美しさ。
こぼれ落ちた滴のあたたかさ。
てのひらの。指の。
大きさ。ごつさ。固さ。熱さ。
髪の毛の。鼻の頭の。背中の感触。
太鼓のように鳴る鼓動。
汗の。北そのひとの匂いをはじめて知った。
あんな声の温度ははじめてだった。
こんな目をする北は記憶にいない。
昔の私には見せてくれなかった北に、
どうして今日はこんなに出会うのか。
あのときの。
北にあれほど焦がれた私は、なにひとつ知らん。
なんも知らんかったんは私のほうや。
胸にこみ上げてくるものがあった。
くるしい。好きやのに苦しい。
うれしいのにくるしい。
それでも目がはなせない。
一瞬で北がほやけてしまう。
「髪に、触れてもええか」
そんなことを言う人じゃなかった。
ポロっと涙がこぼれた。
おちてきた滴が同じように頬をつたう。
北も――北もまた、
私の何かを知りたいと思ってくれるのだろうか。
ええよ。
震える声でそう言うと、包むようにそっと手を添えられる。
指を、差し込まれて、撫でるような感覚が心地よい。
北なら。
北にならええよ。
そう言いたかったのに言葉にならない。
「……みじかなったな」
囁くように北が言う。
「日本出て、すぐ切ってん」
「長旅は、大変やろうしな」
「うん」
「でも、もう、帰ってきた」
「うん」
「……帰ってきてくれてよかった」
「…………」
なんなんやろうなあ。
大人になった私は、
結局北のことを全然忘れられんし、
視線ひとつ、指先をほんの少し動かすだけで、
いとも簡単に心乱されるし、
あいかわらず北に振り回されて、
むしろ悪化してて、
そして、
はじめての北にたくさん出会う。
「おかえり」
「……ただいま」
そして今。
またひとつずつ。
頬の。唇の。舌の。
北のやわらかさを知る。


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