「おじろ!」
聞き慣れた高い声が逸る。
ごめんお待たせ、と遠くからみょうじが駆けて来たのは、昇降口にずらりと並んだロッカーへもたれ掛かり、大きく開いた入口を自由にすり抜ける冷たい風に頬を冷ましながら、携帯をいじって暇をつぶし始めて十分ほど経った頃のことだった。そない走らんでええで、と鷹揚に言うてやりたいのは山々だったが、今日も今日とて全身の筋肉を酷使した練習の後だ。外も暗い。ええ加減疲れたし腹減った。眠たい。おお、と張りのない返事をする。切らした息を整える暇もなく急ぎ靴を履き替えてロッカーの扉を勢いよく閉めたみょうじは、バタンと大きな音で瞬間眠気の覚めたこの身体の反応を見て楽しそうに笑った。
「なに、寝てたん?」
「ええから。はよ帰んで」
「はあい」
ふたり並んでとぼとぼと疲れの溜まった足を動かして、けれど片方の軽い足取りはアスファルトの上をかさかさと乾いた音を立てて転がる枯葉を時おり蹴りながら、短いようで長い帰路につく。あんなにも目に鮮やかだった、落ち葉の色はすっかり枯れて、おまけに踏まれまくって黒ずみところどころ千切れている。風にさらわれてやって来て、また風に乗ってどこかへ行くさまを、ぼうっと見送りながら、しんと静まる暗い街路を歩いていた。中身のない会話をそこそこに楽しみながら、いつも通りの帰り道を辿る。隣を歩く、頭ひとつぶんは小さいみょうじのつむじを見下ろしながら、ことばを交わし、足を進め、置いていかないように少しだけ気をつけながら、他愛ないやりとりを挟み、また見下ろす。そうしているうちに、あれ、と思う。
なんや違和感あるな。
――ああそうや。
さっきっから、目ぇ合わへん。
つむじばっかり目に入るということは、みょうじのほうがこっちを見んということやろうか。いったんそれに気付いてしまえば、特徴的なふわふわと弾む話し方も、心なしか気もそぞろの。
「みょうじ?」
「なに〜?」
「さっき」
「うん?」
「なんかあったか?」

日の暮れる時間がどれだけ早まったところで、部活の終わる時間も一緒に繰り上がるわけではない。暗闇から光を求めて虫が集まってくるものの、この体育館の熱気の中へ入る気はさらさらないらしく、練習を終えて汗だくの部員らが最後の水分補給と休憩へ入るころ、開け放たれた開口部付近には蛾だの羽虫だのがうろうろとさまよっている。そろそろこいつらを見かけるのも今年最後の頃合いか。なんて虫に情を向けている場合でもなく、ほんの少し息が整えば慌ただしく片付けに入り、それが終われば整列して申し送りや連絡事項。それが終わってようやく今日の部活動は終了となるのだった。
「ちょお待て、みょうじ」
解散した部員がぞろぞろと体育館を出ようとしていたとき、同級生らに続こうとしていたみょうじは、監督に声を掛けられた。
「はい!」
「この後エエか?」
「なんですか?」
「ちょっとな。話があんねん」
「ええですけど……どうしよう……」
「ん?なんや?」
「私、アラフォー男性のお悩みを解決できる自信ないんですけど」
スパンッ!と小気味のええ音が響く。
監督の顔面……いや、額のあたりを凝視しながら眉を下げてことばを返したみょうじのすっからかんな頭は、当然のように叩かれた。
「いたい!ヒドい!」
「ヒドいんはお前や!」
「監督……ちょお……」コーチが宥めるように声を掛けると、ばつの悪そうな顔をしてひとつ咳払い。コイツとしゃべっとると、ついムキになってまう気持ち、俺ようわかります。と思いながら、いよいよシューズを履き替える。
「なんですか……ハッ!お説教……」
「なんや心当たりでもあるんか?ぉおん?」
「ないです!」ホンマアホやなあいつは。
ほかの部員らと一緒にいよいよ外へ出ようとしたところで、みょうじの声が呼び止める。首だけで振り向いた。
「なんや」
「先帰っといて」
「ああ……なんや、そんなにかかるんか?」
「わからんけど」
「いや、十分十五分程度や」とみょうじの後ろっから監督が顔を出した。なんでか顔だけひょこっと見せているみょうじと同じような様子で姿を見せるので、上下ふたつに並んだこの顔の並びがなんだか愉快で、うっかり吹き出しそうになったのを堪えた。これ親子やろ。
「尾白。スマンけど、待っといたってくれるか」
「あ、ハイ!」
「ええのに」
「アホ!お前みたいな子どもが、夜道を一人でフラフラしとったら、誘拐されてまうわ」
「尾白とおないなんですけど……???」ほんまにコイツはアホアホやな、と思いながら、わかりましたと監督に返す。まあその程度なら待つぐらいはできる。身体をそっちへ向けて一礼し、また戻る。先に行った奴らに追い付くように、足を早めた。
「お前は臓器しこたま持ってかれるタイプや」
「夜道コワイ!!!」

そんなやりとりを思い出して、口を開く。
「監督、なんの話やったん?」
もしかしてホンマに説教やったんやろうか。それで落ち込んどるんちゃうか。そう予測を立てながら投げた言葉を、受け取ったみょうじ(つむじ)は「んん」とうなる。声の調子が少し下がるところからして、褒められたとかそういうエエ話でないんは違いなさそうやな。
「なんか」
「オウ」
「いろいろ聞かれた」
「うん?」
「なんや不便はないかとか、悩みはないかとか」
「はあ……?」
「人間関係はどうやとか」
人間関係て。
思いもよらない言葉が出てきて面を食らう。
「なんや……お前監督に心配されとる?てこと?」心配というか気遣いか。どちらにしてもなんや今さらか?
「ん〜……」
ハッキリした答えを持っているのか、いないのか。――いや、このモゴモゴと濁す感じは、多分持っとるな。なんや、と思って見下ろしてことばを待つと、不意にみょうじがこちらを見上げてビックリする。目が合うの、久しぶりやとそんなに経ってもないのに思う。その表情が、珍しく眉の下がっているそれでさらに驚いた。
「なあ尾白、どうしよう」
そんな顔をして、そんなことを言うもんやから、こちらも聞く姿勢を正すのは礼儀や。
「うん?」
「私、北のこと嫌ってるように見えとるみたい」
「ゴホッ」
むせた。
「えっ尾白」ゴホゴホとその場で咳き込んで、喉にさわった違和感を取り払う。
「大丈夫!?」
なんちゅう、こいつ急になんちゅう話題ブッ込んでくるんや!?勢いよく喉を鳴らし、微妙に残る痒みに眉をひそめて顔を上げた数秒後には、すっかり心配そうな顔に変わったみょうじが覗き込んでいて一歩距離を取った。
「きゅ、キュウキュウシャぁあ!」
「止めえ!」
誰のせいで。いやまず呼び方マンガか。あとむせた程度で救急車呼ぶな迷惑やろ!と言いたいことは色々あったものの、普段は頭脳明晰で冷静沈着な俺が、少しばかり混乱しとったらしい。このときばかりは大声で叫ぶ小さなまるい頭をすぱーん!と叩き、肩で息をするのがやっとだった。いったあ!と頭を抱えるみょうじを見下ろして、こっちが頭抱えたい気分やわ、と思いながら、ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出して、時間を確認する。息を吐いた。乗りたいバスが到着するまで、まだしばらく時間があることがわかってしまった。
大きなため息をもうひとつ。
「……ちょっとだけやからな!」相手と、自分にも言い聞かせるように一言念押ししてから、道すがらにある公園へ寄り道すべく、疲れた身体を引きずり出した。
一戸建ての比較的新しい家ばかりが立ち並ぶこの住宅街に住む子供たちのために設けられたのだろう、小さな公園には数点の遊具とベンチが設置されていて、迷うことなくベンチへ並んで腰を下ろす。
ふうっと一息つくと、隣から申し訳なさそうに声がかかった。
「ごめん尾白……はよ帰りたいやんな」
「……まあ、せやけど」
そんな顔してる友達放って帰れるわけないやろ。
と心の中で毒づく。
ますます申し訳なさそうな表情になってしまったけれども、こんなこっぱずかしいことを口に出すなんて、思春期盛りの男子高校生にはとてもやないけどできんわと言葉を濁す。
「で。どうしようって何や?」弁明のない代わりに強引に話を流してやると、さらに眉が下がる。
ああもうそんな顔をすんなや。
「その、嫌いやないのに、私がそんひとのことを、嫌ってるように見えてる、みたいな話で……」
「北やろ」
「なっ!?なんで北のことって!?」
「さっき言うとったで」
「そ、そうか……さっきな……」せや、せやったな……、ド忘れしとったわ……。うっかり…………。どんどんとか細くなっていく声。この暗がりでもわかるほどに火照った横顔。冬やのにえらい暑そうな。あーコレは相当、動転しとんな。
「お、尾白から見ても、そう思う??見える???」
「んー……見えんことはないな」
「エッ」ヒュッと息を飲むみょうじ。
……これでも、言葉を選んでるつもりなんやけど。
女子ってやっぱり難しい。
「嫌いではないんやろ」と付け足すと、コクコクコクと勢いよく首肯する。オイ振り過ぎや酔うぞ。
「き、嫌い、でない。そんな。もちろん。決して」
「けどいっつも緊張しとるやろ」
「…………し、してへん!」
「バレバレの嘘をつくなや」
俺に嘘ついてどうすんねんこれから。
呆れつつ、けどまあこいつも思春期盛りの女子高生。自らのそんな話を、開けっぴろげにすることに対して羞恥心ぐらいはあるんやろうな。だからこそ、そして自分が間違いなくこの女子を友人と思っているからこそ、こいつが気づいていることに気づいてからは、あえて触れんようにしてきたこの話。ここでするんか。監督もなんもこんな時期に。春高予選が終わって、試験も終わって最後のスパートかけるこの時期に、マネージャーのこんな、ごく個人的な話を持って来んでもよかろうに。なんぞ問題を起こしたわけでもなかろうに……。監督がどういうつもりで指摘したんかはともかく、そう思うといっそ哀れですらある。
「…………き、緊張……すんねん……」
「ウン」
「でもきらいとちゃうし、絶対ちゃうし……」
「ウン」
「……でも監督に気づかれて、みんなにもそう思われとったら嫌やし、マネ失格よな……」
「……なんや、そこ落ち込んでるん?」
「なんやてなんや!」
「ウワッ」形相ヤバ。
「私の仕事はなあ、雑用やないねん。みんなにどんだけ心置きなくバレーに打ち込んでもらえるかやねん。その環境を作るんが仕事やねん。結果として雑務やサポートを担っとるけど、そもそもの順序はこうであって、マネージャーという生き物は……」
つらつらと言葉を並べ始めたそれが念仏のように右から入って左へ抜けていく。いやマネの本質の話はええけど。ご立派やけども。場が場やったらちょっと感動しとるとこやけども。お前今女子高生の顔にも紅一点のマネの顔にもなってへんで、おっそろし……。
「――せやから!マネが、誰か特定の一人のひとをそんな……、す…………どうにか思っとるなんて、思われたら……、思われ……、思われてるって話やんな……、ああ…………」
今度はひとりでに沈みだした。
悩んでも落ち込んでも、せわしないんは変わらへんねんなと思った。基本的には笑ったり怒ったりと、常にポジティブな感情を乗せる、部活のときなんか殊更にそれが強い、みょうじなまえが顔を覆ってうずくまる、なんて姿を、まさか今さら見ることになろうとは。
「……そら『マネとして』なんて話し出したら、褒められたもんやない――かもしれんな」
友人としては、いちひとりの人間として、みょうじが誰かを好きでも嫌いでも、別にかまへんと思うけど。確かに北に対して、めっちゃがんばって話しかけてる風に見えることは見える。ただまあ相手が相手やし。誰しも多少なりと緊張したことがあるはずや。俺も場面によってはちょっとコワい。「うん……せやねん……」しゅんと萎れるみょうじはしかし、そんな風に開き直ることはできんのやろうな。
「監督も言うとった……」
「なんて?」
「北とはマネージャーとして、ええ関係を作っといてほしいって」
「……ン?」
「今なんか問題があるわけやなくても、ちょっと頑張ってみてくれんかって。今後のためにもって」
「………………」
北とはって。
ええ関係を作ってほしいて。
今後のためにもって。
……なんでそんなことを監督が言う?
みょうじが口にした監督の発言に疑問が浮かび、首を傾げ、眉を寄せて、思考がそっちへ持って行かれる。北信介という同級生に対して、同じポジションでレギュラーを争う(という空気はあまり感じないが)仲間に対しての、思いもよらない監督の言葉を聞いて、出かけた声が飲み込まれた。
飲み込んで。
「…………要するに」
慎重に口を開く。
今考えるべきことは、監督のことではない。
目の前で珍しくも落ち込んどるみょうじを見ろ。
「ギクシャクせんようにしろってことやな?」
「し、しとる?ギクシャク」
「スムーズにしゃべれてると思とんかお前」
「思てへんです……」
そこは一応自覚しとるらしい。
そらそうか。
「俺には嫌っとるようには見えんけど」
「…………」
「一人だけ態度ちゃうことには違いないしな」
「ハイ…………」
「まあ部活絡んどることやし、監督にもそう言われてしもたんなら……頑張ってみたらええんちゃう?」
「ウン…………」
「お前も、できれば仲良うしたいやろ。北と」
「し、したい…………」非常に感情の入った声だった。まあ好きであんな態度になっとるわけやないやろうしな。
「ええキッカケやん。本腰入れる気になったやろ」
「せやな……ウンせやな……」
言い聞かせとるやん。
「あと北も気ィ遣ってんで多分」
「えっ!?」
「俺らが気づいてんねんから北も気づいとるやろ。嫌われとるか、苦手なんか、怖がられとるか、思とるかもしれんな」
「あっ…………!?」
告げるやいなや、さあっと青ざめた顔。
「あ、あかん……」うわごとのようにそうこぼすみょうじは、これで少しはケツに火がついたんやろうか。あかん、と繰り返して首を振る。
「こ……こんままじゃあかん!」
「せやな」せや、いつまでももじもじしとる場合やないな。急に立ち上がり、こぶしを握ったみょうじを見上げて、同意をしつつ、力の入ってきた言葉に胸を撫でおろす。
「あかん、あかんわ尾白!」
「せや」
「わ、私、私北と、仲良くなる!」
決意を込めた強い宣言が、夜の公園に響く。
しっかりと目を合わせ、うん、と頷いた。
みょうじなまえの恋が、多分これから動き出す。
確信に限りなく近い。
予感がした瞬間だった。
奮起するみょうじを目にウンウンと頷いて、このとき俺は非常に満足していた。
気付いてしまってからは極力触れないようにしていた部分にようやく触れることができたし、沈んでいた友人を元気づけることができたのだ。それではお互い明日に向けて一刻も早く身体と心を休めようと再び帰り道を辿り、みょうじと笑顔で別れ帰宅して、風呂に入ってめしを食って、少しばかり家族とたわむれて布団に入る。すぐさま溶けるように眠りに落ちて、十分な睡眠をとり、目覚ましとオカンの声に起こされて顔を洗ってめしを食い。バタバタと支度を整えて家を出る。がらんとして寒いバスの中再びまどろみながら学校へ着き、部室で仲間とあいさつを交わしながら荷物をまとめ体育館へ向かう。シューズを履き替えてつやつやの床板を踏みしめたところで、聞こえてきた声。そして呼びかけに応じる静かな声。お、と思って中へ入る。既に人の集まり出している中、目当ての二人をすぐに見つけた。早速やっとる、と思った次の瞬間。
「――私と!」
向かい合っているみょうじと北。
握りこぶしを構えてぎゅうと目を瞑り、首から上をすべて真っ赤にした友人が声を振り絞っている。
「な……っ!」
あ、おいお前なにを言うつもりや。
「なかよくしてくださあい!!!!!」
でっかくでっかく。
そらもうでっかく、まるで思いっきり腕を振り下ろし渾身のスパイクを打ったときのような勢いのついた叫び声が、冬のはじまりの早朝、兵庫県立稲荷崎高校・第一体育館内にしばらくこだました。それまで正常に流れていた時間がにわかに止まる。第一体育館周辺におった、あらゆる生き物の視線がみょうじなまえに注目する。誰もかれもが、うそやろお前……といった形相で眼を剥いている。俺もまた、信じられないような気分で友人を眺めていた。
――わ、私、私北と、仲良くなる!
ゆうべ耳にしたばかりの決意がよみがえる。
こんな仲良く仕方ってある???
幼稚園児か?????
ちゃうやろ高校一年生やろ。
高一のコミュニケーション能力どこ行ったん?
それもこんな衆人観衆の中お前……。
様々な感情が頭の中を駆け巡るなか、スッと隣に誰かが立った。それに気付いて顔をそっちへ向けると、監督がスンと濁った目をして、今しがたとんでもないほどの絶叫をかましたみょうじを、なんとも言えぬ面持ちで眺めている。
そして一言、ぽつりと呟いた。
「女子って……ムズいな…………」
監督らしからぬ声だった。
色々と声に出してしまいたい感情はあれど、俺も見習って一言だけ、音に出しておくことにする。
そうですね…………。
とにもかくにも、この硬直する空気どないすんねん、エッ俺?俺行くん??こん中突っ切って、アイツ回収したらなあかんの??ウソやろ???などと事態の収拾にまで考えが及んだところだった。
「…………ふ」
ちいさく息の漏れる音がした。
自身に起きた突飛すぎる出来事に、さすがに目をまるくして固まっていた北の横顔が、ほぐれた瞬間。
「ふっ、はははっ!」
これまたなんと――世にも珍しい。
ゆるくほどけた表情で、
ひどくおかしそうに、
たのしそうに、
子どもみたいに、
声を上げて北が笑った。
その場にいた誰もがさらに目をかっぴらいて、今度は北を見た。
茹でダコ色をしたみょうじも当然、その様子に見入っていた。焦がれるように。吐く息も白くなってきた冬の早朝に、熱を帯びたような表情で。
見とれていた。
はははっと笑う北を、瞬きひとつせず、じいっと見つめるその横顔を一目見て、気づかん人間がおるやろうか。そんぐらいはっきりしていた。
一目瞭然だった。
そんぐらい明確にみょうじは、
みょうじなまえは。
北信介というこの男に今まさに。
心を根こそぎ持って行かれた。
そんな顔をしていた。


「アラン!」
背後から降りかかった声に振り返って、眼を剥く。はあっと大きく息を乱したその男は、制服に身を包み、普段通り登下校時のスポーツバッグを肩に掛け、学校の敷地を出てもうすぐでバス停の見えるところに到着しようとしていた俺の足を止めさせた。なんや北、と帰路を共にしていた赤木が、らしくもなくバタバタと慌ただしく駆けてきた北に怪訝な表情をつくる。何度か深呼吸をして呼吸を整えたあと、ぐっと上体を起こした北がしっかりと俺を見据えてきて、たじろいだ。
「よかったアラン、まだおって」
「な、なんや、どうした?」
「北お前、みょうじどうしたん?」
「今すぐ部室戻ってくれ」
「ハ?」
「ええから。みょうじ待っとるから」
「ハァ???」
なんやて??みょうじ待っとるから???
口早に告げられた言葉に首を傾げる俺をもどかしそうに、じれったいねんとでも言いたげに眉を顰めた北は、こちらの疑問なんてまったく解いてくれる様子もなく「ええからはよ」と、見たこともない剣幕でそう言い重ねたと思ったら俺の手を掴んで何かを握り込ませた。開いてみると、部室の鍵だった。さっぱりわからなかった。わけがわからないながらも、みょうじという名前を出されてしまえば仕方のない。真剣な表情の北の全身にさっと目を通して、いつもの鞄以外には荷物を何も持ってへん状態でおることから、いや鞄にしまってあるんかもしれん、という可能性がまだあることはあったが、なんとなく嫌な予感がして、めっちゃとてつもなく嫌な予感がして、今来た道を戻ることにする。赤木に視線をやり、よくわからないままに、じゃあ悪いけど、と言うと形容しがたい難しい表情で北を見たのち、ひらっと手を振られた。そのまま俺の代わりに北が赤木と並び立つのを見て最後、完全に踵を返した俺は、二人に背を向けて走った。首に巻いたマフラーが暑くて走りながら途中で外した。校舎をぐるっと回り込んで部室棟まで、全力で駆け抜けて、バレー部の使う部室までたどり着くと、ドアノブを回す。施錠のされていない扉はすんなりと開いた。勢いのままに中へ入る。視界に飛び込んできたのは、真ん中に置かれたベンチに腰掛けるみょうじの姿。
その横顔が、べしょべしょに濡れている。
大きく開かれた目玉から、滲んだ水分が目のはしっこからぽろぽろとしずくになってこぼれて頬に流れていく。手には小さな箱を宝物みたいに抱えたまんまうつむいて。
しずかに、しずかに泣いていた。
「…………みょうじ」
――なんでや。
さっきまであんなに、嬉しそうにしとったやん。
俺らに渡した菓子よりもよっぽど手の込んだもんを一生懸命作って、勇気を振りしぼって北に、声掛けて、渡すんやって意気込んどったのに。風の凍てついた、雪さえ降り出しそうな寒さのなか、頬を林檎色に赤らめて、あんなにあんなに、この世でいちばんしあわせそうな女の子やったのに。
「……おじろ…………」
ゆっくりと顔を上げたみょうじが、ぐじゅぐじゅに濡れた目玉で俺を捉えた。
「おじろ…………」
「みょうじ……お前どないしたん……」
「ううぅっ」言葉にならない様子のみょうじに、靴を脱いで近寄った。
さっきまで、ひとりでうつむいとったんか。ぽろぽろとこぼれつづける涙のつぶが、つやつやに保たれた無機質な床にちいさな水たまりを作っていた。前に見たときは皺ひとつなかった透明なラッピングの袋は指でぎゅうっと握られた部分がしわくちゃになっている、ひとの名前ひとつ声に出すのも困難らしく、嗚咽ばかりが火の気のなく寒々しい部室に響く。なんでこんなことになっているのか。北にとっておきのチョコレートを渡すんやと、言うとったやんか。それやのになんでや。菓子ひとつ渡すだけやろうが。なんで北は俺を呼びに来たん?あんなに急いで。なんでみょうじは泣いてるん?なんで?なんで???言葉にならない疑問ばかりが浮かんでは、痛ましい音にかき消されていく。最近は、ようやくみょうじも北と少しばかりはまともに話せるようになって、仲良うなってきたと思っとったのに。なんでみょうじがこんなに泣かんとあかんのやろう。なんで北にだけいっつも、こんなに下手くそなんやろう。気が付くとふたたびうつむいて、肩を震わせる、友人をのぞき込むようにして身を屈めた。力いっぱい抱え込んだ、かよわい腕からそれを抜き取って、この手のひらにすんなりとおさまった小さな箱を眺める。袋から箱を取り出して、ふたを開けると、蛍光灯の光に照らされてつやつやと輝く、かわいらしい小さな小さなハートが並んでいた。ひとつとして、つまんですらもらわれへんかったみょうじの気持ちが、きれいなまんま入っていて、無性にやるせなかった。そっと指を入れて、チョコレートをひとつ、つまみ上げる。指の温度で溶け始めるハートの表面はそれでもつやつやときれいで、色鮮やかで、口の中へ放り込んだら、噛んだところからふわっと甘いのと甘酸っぱいのが広がった。部活終わりにひとり一個、平等に渡された菓子と、朝一番に友達へと渡されたちょっと華やかな菓子。それらはまだ鞄の中にあるけれども、これはきっと、他のどの菓子よりも気持ちを注がれて、丁寧に丁寧に作られたに違いなかった。
「アホやなあ北は」
俺という人間は、これでも非常に単純な人間なもんで。こんなことになってる事情のひとつも知らんくせに、自分を呼びに全力で駆けてきた仲間をののしる言葉が出る。
「こんなにうまいもん、食われへんなんてなぁ」
「……おじろ…………」
ぽろっと、またひとつ、友達の目からなみだが落ちた。なんて顔をしてんねん、と笑って、ポケットを探ったが、ティッシュもハンカチも出てくるわけがなくて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、ただ眺めてふたつめのハートを取り出した。北のために作られたチョコレートを俺に食われて、みょうじは憤ることなく、ただ俺の手元を見ていた。みっつあった、つやつやのきれいなハートのチョコレート。それがゆっくりと、ひとつずつなくなっていくさまを、言葉もなくただしずかに、しずかに見送っていた。


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