『なんや、みょうじおらんのか』
電話口の相手は残念そうな声でそう言った。
「ひとの恋人になんの用ですか」
『おお怖。二人そろってなあ、俺に妬くんそろそろ止めえやお前ら』
「そうは言うてもなあ……現状、俺はまだお前を超えられてる気がせん」
『なんでやねん。超えとる超えとる、ていうか別に俺は超えるべき壁やあらへんからな』
「それはどうやろうな……」
『不吉な感じでぼかすん止めろや!』
「で……みょうじになんの用事なん?」かのじょへの用事も、わざわざ先に俺の方に連絡をしてくる、大雑把に見えて細やかな気遣いをする友人に用件を促せば、せやせや、と声色の戻る。
『部屋の掃除したら、昔みょうじに借りとった漫画が出てきてな。どうしようかと思って』
「漫画」
『あいつ卒業式来よらんかったやろ。返せずじまいで借りっぱやってん』
「ああ……」
『全二十七巻や』
「大作やな」
『超傑作やでアレは。今でも時々読み返すぐらいやし』
「ふうん」相槌を打つと、『北も読むか?』となぜかからかうように言ってくるので、勝手に又貸しの約束なんかしたらあかんやろと返す。しかしそうすると、『みょうじが北に乞われて貸さんわけないやろ』と、見通したようなことを言われるのだから、やっぱり壁は壁やと思うねんけどなあ。
『けどまあこの場合、北ん家に置いとった方がええんかもしれんよな。みょうじしょっちゅうそっちに泊まってるんやろ?』
「うん、まあ極力な」
『極力』
「できうる限り。わりと力ずくで」
『……ま〜みょうじもお前に弱いもんやから……』呆れと笑いの混ざったような声に、そんなことを言われると照れの来るもんで。かのじょに対してそういう気持ちをまったく抱いてへんと胸を張って言い切れるらしいこの友人に、ええやろと言いたい気持ちが湧いてくるんやから、困ったもんやなと笑ってしまう。
『今日はなんでおらんの?』
「明日試験やねんて。免許の」かたい声で、がんばってくるわ……と緊張の孕んだ様子でうちを後にしたかのじょの姿がよみがえる。電話の主は『おお、ついにか!』と明るくなった。
『実技か?』
「いや、学科。技能はおとつい終わったて、ニコニコしとった」
『だいぶ早いんとちゃう?一か月、経っとらんやろ』
「時間に融通効くからな。人よか早いよ」
『ほぉん。いや懐かしいなあ……俺も通った道や……右側はみ出して追い越ししたらアカン標識とかな……まぎわらしいヤツ……。そうか、みょうじもついに車乗れるようになるんか』
「うん。ぎちぎちに教習詰め込んで、頑張っとったからな」
『あ〜頭痛なるヤツ』昔っから学業に関してはからっきしな友人は、きっと今苦い顔をして首を振っていることやろう。簡単に想像がついた。素直な男や。
「楽しそうやったで。さすがに試験は緊張するらしいけど、みょうじやったら大丈夫や」
そんで。
『北は寂しくなるんちゃう?奴が免許取ったら』
油断しとると、こうして穏やかに言葉が刺さる。
返答に詰まった。
「…………そらなあ……」
かのじょにとっては、便利にはなるんやろうけどな。車がないと不便と言える、バスの運行も少ない山間の町に暮らす俺らの生活に寄せてくれとるかのじょが、歩くのに少々骨の折れる距離を行こうとするときはいつだって車を出してきた。出勤のため来るにもバスを使うからと固辞するかのじょを半ば無視して送迎を行い、こちらに来る予定のない日だって、可能であれば連れ帰るためにも頼まれていないところへ足を運んでお持ち帰りに及んだ回数は既に手の指だけでは数えきれない。
もうほとんど自分の希望だけで動いていた。
それやのに、あんなにもうれしそうにしてくれるもんから、いっこうに止められる気がせえへんのやけれど。
「自分で運転できるようになってしもたらなあ……一緒におる時間も減るやんか」
『せやなあ』
「自分でどこにでも行けるようになってまう」
『……まあそれは今さらやけどな』
「せやけど」たしかに、車の免許なんざなくたって、地球の裏側まで行ってしまうひとを相手になにを言うてんねんと言われればそれまでや。けど、わからんかなあ。わからんか。思いもかけず、かのじょの前に現れたときの、俺を見てかがやくかのじょの目。鮮やかに赤く彩られる頬。一瞬で、満面の笑みになる。運転中、ちらちらと俺を見てくる。ぼうっとしたまなざし。少しちょっかいをかけてやれば跳びはねるちいさなからだ。助手席にちょこんと、おってくれる存在が、視界の端っこに常にあって、それがどんなに幸せなことか。わからんかなあ。俺しか、わからへんなあ。
大切なかわいいひとのことを思い出してぼんやりしていたらしい。北と何度か呼ばれてわれに返る。 「まあ、単純に運転も心配やからな。免許もらった後、しばらくは忍び込んででも同乗するつもりや」
『し、忍び込んででも……』ゴクリ、と喉の鳴る音がした。酒でも飲んでるんかもしれへん。
「まあ、助手席からなまえちゃん見るんもオツなもんやろ」
『……あんまりからかったりなや』
「愛でてんねん」
『愛でくり回しとるの間違いやろ……』
「とにかく、かわいがってるで。かわええからな」
あんなにかわええもんを他に知らへんわ、と、そんひとを思い浮かべて続けると、『それはそれは』と返ってくる。
『よかったやん。二人とも、楽しそうにしとるんはエエな』
「うん。ありがとう」
『こないだの卓球もおもろかったわ』
「卓球な。高校の球技大会以来やったわ」
『その割には強かったやん』
「現役のアスリートにはかなわんわ」
『そうかあ?』
そらそうやろ。なんでそんな不思議そうなん。
『それにしてもみょうじは大喜びやったな。卓球しとるお前見て』
そう言われて、すぐさま頭に浮かんでくる、あんときのなまえちゃん。ただただ卓球するだけの男の姿の何がうれしいんか、ほんまに目をきらきらとさせて、紅色の頬っぺたで、声を上げて手のひらを打っての大よろこびの様子が大変かわいくて抱きしめたくなってたまらなくなったのをよく覚えている。そないエエもんでもないけどなあ……。アランにも負けてもうたし。とは思うが、ただまあ、そういうことではないんやろうな。
『みょうじと北の対戦の時なんか、やばかったな。アレはお前、わざと負けたったんやろ?』
「そんなことはせえへんよ」
『そうかあ?ホンマに?』
「一球ごとにはしゃいどるなまえちゃんがかわいくて、つい目で追ってしまっただけや」
『さよか……』
「なんや、もの言いたげやな」
『いやあ……まさか北がこんなになるなんて、誰も予想してへんかったやろうなと思てな……』
「こんなって、どんなや」
『こんなはこんなや。ベタ惚れやん』
「否定できんな」
『俺はいつまで魔法使いの肩書を背負うんや……』
「みょうじまだそんなこと言うてるん?」
『さすがにもう本気では思てへんやろうけどな。ちゅーか途中まで本気で俺催眠術師や思われとったん、あいつほんまに思考が五歳児レベル過ぎるやろ。……みょうじからしてみれば、急に北がこんななっとるんやから、驚くんも無理ないやろうけど』
五歳児のなまえちゃんもきっとかわええんやろうなと思い、続いた呟きにまた別のことを思う。そのことがあまりにも頭から離れなくなったために、しばらくの間ぶつぶつとなにやら吐いていた言葉に重ねるように、なあと声を掛ければ、気が付いたように待ってくれた。
「高校の頃の話やけどな」
『うん?なんや?』
「一年生のときのバレンタインのこと、お前覚えとる?」
『一年?……ああ……バレンタインなぁ……』
疑問と、すぐに氷解、そして懐古。
ころころと変わる声色ですぐにそれとわかる。
「覚えとるんやな」
『そらなあ。忘れんわ』
「……聞いてもええか?」
『――なんや、そんな昔の話持ち出して。みょうじとなんかあったん?』
「いや……クッキーをな」
『うん?』
「みょうじがこないだ作ったんやけど」俺だけなかなか食わせてもらえんでな。ことの経緯をかいつまんで説明してやれば、ブッと噴き出すような音がして、少しむせた後、『ハハハッ!』聞こえてきた声はえらく楽しそうに揺れていた。
『なんや、みょうじしっかり報復しとるやん!』
「そんな物騒な感じではなかったけどな……」ただまあ意図や自覚のないだけで、俺の胸にしっかりと刺さっとることに違いはない。むしろかのじょのほうが申し訳なさそうに縮こまっとる姿が、ますます心に突き刺さる。それを思えば、たしかにようできた報復や。
「あん頃のこと、よくよく思い出してん。あん時、俺お前を呼びにあの場を離れて――そっからの話、俺知らんよな?」
『あー、せやったな』
「…………あの後、お前行ってくれたんやろ?」
『そらまあ。行ったらんとと思うやろ、色んな意味で』
色んな意味。と頭のなかで繰り返す。
「……なまえちゃん、どんな様子やったか、教えてくれへんか」
『……ちゅうことはや。あのチョコ、ほんまは誰に作ったもんやったか、わかったってことやな?』
「――七年越しで、ようやくな」
『そらまた、えらい経ったもんや』
「ほんまに……」
色んなことを繋げて、もう少し深く考えとったらわかったことやった。
言われた言葉をそのまんま受け取っただけで、そこからつまりと考えることをしなかったんは、なんでやろうか。わからんけど、そのせいで妙な勘違いを七年も引っぱることになったんは、みょうじのせいでもアランのせいでもなく、紛れもない自分のせいやった。ましてや俺以外の人間ほとんど全員、知っとったという話やねんから、もうその通りやろう。
『まあみょうじがハッキリ言うとったら一番簡単やったんやろうけどな。アレでも色々考えとってんで。部活やっとるうちは、他ん奴らに迷惑かからんよう、最後の大会終わってから言うつもりしとった。その間に頑張って好感度上げてこっていう……まあざっくり言うとそういう予定やってん。連敗しとったけどな』
「……言われた記憶、あらへんけど…………」
『連敗に次ぐ連敗で好感度さっぱり読めへんかったしな』
「…………」
『あ、それだけやないで?一番の理由は、進路の変更やな』
「……海外」おのずと出てきた言葉に、ウンと頷いて、答えを返してくる。俺には知るよしもなかった、あん頃のかのじょの出した答えが。
『元々はほんまに大学行くつもりやったみたいやで。そんつもりで真面目に勉強しとったし。けど、色んな奴と出会って、色んなもん見てきて、……まあ多分、侑とちゃうかな。あいつの、恐ろしいまでの本気は、考えさせられるやろ。みょうじは、自分はホンマにこれでええんかって思ったって。色々迷ったけど、今したいことがちゃんと見えてるんやったら、ソレやってみようて思ったんやて』
「…………そうなん」
そんなことを考えていたなんて知らんかった。
多分、知ろうともしてへんかったんやろう。
『あとな。みょうじは泣いとったよ』
「………………」
『お前が呼びに来た時、なんでやねんて、何がどうなったんやわからんけど、ああ失敗したんやなって思った。みょうじはひとりで泣いとった。ぽかんて口開けたまんま、間抜けな顔して、ポロポロポロポロ涙こぼしてな。子どもがこけてビックリして泣いとるみたいになあ。ホンマに子どもみたいに。……あれは見てられへんかったわ』
「……………………そうか」
『……チョコは俺が食うた』
「……うん」
『めっちゃうまかった。どや、羨ましいやろ』
「……うん」
「羨ましいわ、ほんま……」知らず奥歯を噛みしめていたらしく、ぎり、と音がした。
『なんや今物騒な音聞こえたけど。怖いねんけど』
「気のせいとちゃう」
『――ウンまあでもエエやん。これからあいつが作ったもんは、まっさきに北が食えるんやから』
「うん……せやな」作ったもんどころか、本人もまるっと食うけどなと思いながら頷く。
『今から楽しみやん。北もみょうじも、今度こそ、誰も泣かへんハッピーなバレンタインや』
「うん。――楽しみや」
二十四年、生きてきた中で、一番しあわせなバレンタインになるんやろうなと思えば、今から期待に胸膨らむ。あの行事が、こんなに楽しみになることってあるやろうか。俺のためにどんなものを作って、どんな顔で渡してくれるんやろうかなんて、考え出してしまえば、それこそ夜も眠れなくなるだろう。
『それまで、あんまりいじめたりなや』
「いじめてへんよ。常に愛でとる」
『せやから……』呆れたように繰り返すその声は、けれど楽しそうに弾む。なんで呆れられとるのかも、なんでそんなに楽しそうに笑っているんかもわからんまま、それでも大切な友人が自分とかのじょを思ってくれていることだけは明白で、広く感じるひとりぼっちの部屋の中、その声を聴きながら、語る夜は少しずつ更けていく。この話が終わって、部屋に再び静寂が訪れたなら、今度はかのじょへ電話をしてみようか。一体どんな声でさえずってくれるやろうか。どんな顔をするんやろう。ああ会いたい。あんひとを抱きしめて、こんなかにしまいこんで、ずっと聞いていたいなあ。
「ふふ」
『加減したりや……』
心が弾んで仕方がない。

「ほんならばあちゃん、行ってくるな」
「うん。気ぃつけてな」
いってらっしゃい、と穏やかに手を振るばあちゃんに背を向けて外に出る。
お日さんがまだてっぺんに届いてもない朝のうちに、大分早くから起きて仕事をひととおり終えて軽く支度をして車へ乗り込むことにした孫の姿をニコニコ嬉しそうに見送る、そん顔を見ていると、なんもかもを見通されているような気分になって、いささか気恥ずかしく思いながら、ロックを解除して運転席のドアを開ける。間もなくエンジンをかけて、安全確認を済ませ、発進した車が山を下って向かうのは、田んぼでも、かのじょの部屋でもなく、スーパーでもなく、郵便局でもなく、海でもなく山でもなく、後輩の店でもなく、大阪の街でもなく、そのうちいくつかの場所を通り過ぎて、国道に入り、高速へ乗り入れ、めったに出すことのない速度でかっ飛ばし、西宮どころか芦屋も神戸も飛び越えて、すぐそばに大学のあるインターで降りて数分走らせたところにある立派な建物……には駐車できないため、近くのコインパーキングに車を停めて、歩いて一分ほど。
自分も過去に訪れたことのあるその建物に、しっかりと名称が掲げられている。
兵庫県自動車運転免許試験場。
ひとつ頷いて、建物の中へ入っていく。
ここへ来たのは数年前だが、中の様子はなにひとつ変わっていないようだった。日中でもやや薄暗い、落ち着いた色で固められた建物の中を規則正しく並んだ蛍光灯が照らしている。印紙を購入したり、書類を提出したりする窓口や試験の受付窓口、適性検査をするスペース、証明写真を撮影する場所がまとまったこのフロアには、しかし人がほとんどおらずに閑散としていた。腕時計で時刻を確認すれば、午前十一時になるにもまだしばらく時間がある。ちょっと早かったみたいやな、とベンチの並んだところで腰を落ち着けることにする。
ポケットからスマートフォンを取り出して、トークアプリの画面をもってくる。目的のひとのアイコンをタップしてトーク履歴を呼び出し、たった一言メッセージを打ち込んで送信しておいた。その後は、指が勝手にトーク履歴をさかのぼったり、データフォルダに大切にしまってある写真たちを呼び起こしたりするので、それを眺め頭の中で思い出に花を咲かせて、ほんのひとときの間の時間を過ごした。
やがて、懐かしい学校のチャイムのような音が鳴り響き、ほどなくして足音が少しずつ聞こえてきて、人の姿もだんだんと増えてくる。試験後で疲れ切った顔、出来具合の芳しくなかったのか険しい顔、眠そうな顔など、これも学生の頃とさほど変わらない顔ぶれをして、さまざまな年代の人間がどんどんと歩いてくる。そのほとんどはまっすぐこちらへ向かって歩いてきて、ベンチの並ぶこのスペースで自分の席をとり腰を下ろす。そして音楽プレーヤーを出したりスマートフォンを出したりと、時間をつぶす気満々の姿勢をとる、彼らはこのままここで結果が出るまで待つつもりなのだろう。
さあて、俺の目的のひとは、いつごろやって来るんやろうかと、続々と流れ出てくる人だかりに目をこらす。
通路の出入口を観察することほんの数分。
人足も次第に落ち着いて、それでも数人ずつは試験場から戻って来るのを見ているうちに、ふと目を奪われる。そのひとは、今日も今日とてかわいらしい格好をして、まっすぐ前を見据えて歩いており、こちらに気が付く様子がない。普段よりはせかせかとした足取りで、なんでかしかめっ面で、なんでやろう、ゆうべやった一問一答は非常に出来がよかったのに、本番は思わしくなかったんやろうかと一瞬不思議に思って、それから次の瞬間には理解した。
「な。めし食いに行こうや」
かのじょの隣を歩く、人の姿。
「俺ウマい店知ってんねん」
「行かへん」
「じゃあ散歩や。この辺ブラブラしよう」
「せえへん」
「ずっとここにおるん?暇やん?」
「そうでもないし」
「俺らもっとお互いのこと知った方がええと思うわ。結果発表までおしゃべりしよ!」
「私は思わへん」
「じゃあムズかった問題の答え合わせとか」
「せえへん」
「俺らどっちも受かっとったら打ち上げしようや!」
「せえへん」
「俺バイクはもう持ってんねん。後ろ乗っけたんで!」
「結構です……あの、ほんまにもう……」
「わーちょっと待って!今他の案考える!」
「考えんでええんで……」
「ジュース!ジュースおごるから!」
なんやあれは。
恐らく振り切ろうとしているのだろう、かのじょにしてみれば早足で歩くその隣を難なくキープして、しきりに話しかけている男性の姿があった。「いらんし……」かのじょが一瞥たりともせえへんのに、めげることもなく延々と誘いをかけるそれを視界にとらえ、理解した瞬間、席を立つ。
「自販機……コンビニ!いやカフェあったなカフェ!お食事処でお食事してこぉや〜」
「…………」もはや受け答えすらなく(それが本来正解や反応なんかしてやるから調子乗るんや)いっそうどんどん眉を下げるかのじょの様子はお構いなしか。なおもなんやかんやと話し続けて衆目にさらされている。その方向へ進み、ずんずん進み、まだ少し距離のあるところから、かのじょの横顔へ向かって口を開いた。

「なまえ」

一言ではなんとも形容しがたい、醜い醜い感情を、誰よりも一番恋しい名に込めて投げかける。
するとかのじょはぱっとこちらを振り向いて。
「えっ?」
眉間の皺がとれて、口を開く。
ぽかんとした表情。
「あれ?…………ええっ!?!?」
ひとつ瞬きをして、きらきらと輝き出す。
まあるくそんまま開きっ放しになった口の、端っこがきゅっと持ち上がって。
ぽぽっと頬まで染まり出して、いつものよく見る顔をした、かのじょになった。
そう、こん顔が見たかってん。
「な、あれ???あれっ???え?????」
「行くで」
「はい!」
疑問も驚愕もなんのその。一言声をかければ、よそ見もせず、隣のことなんか気にもとめず、すぐさまこちらへ掛けてくる。それまで隣におったそいつが唖然とした顔で見送るほかなく、そいつに今や見るすべのなくなったのがいっそあわれなほどの、驚きとよろこびに満ちあふれた表情をしているのを見て、いったんの溜飲が下がる。バタバタとせわしなく駆けて、すぐにそばまでやって来たかのじょは「北!」と俺を呼んで、さらに笑った。
きゅうっと胸が締まる。
「きた、なんでっ??」
「試験どやったん」
「え、あ、楽勝!」
「そらよかった」
「ゆうべ一問一答やっとこ出た!」
「全部おさらいしたやん」
「北のおかげや!」
「どやろな。発表まで時間あるやろ」
「あ、うん多分?」
「ジュースおごったる」
「やったあ!」
「カフェの方がええか?」
「どっちでも!」
「お食事は、発表されてからにしような」
「うん!」
急激に機嫌と顔色のよくなった、愛くるしいかのじょの背中に手を添えて玄関へ向かう。誘導されるがまま、一切の抵抗もなくみずからすぐそばを歩く、かのじょの声はうきうきと弾んでいた。試験場の敷地から出て、近くにあったコンビニ目がけて歩き出す最中。
「あれ何やったん」とつとめて平坦に尋ねれば、かのじょもまた首をひねって「ようわからへん」と返した。わからんってなんやねんと思ったが、ほんまに不思議そうに答えを探す横顔にひとつ息を吐く。
「なんか、試験場おんなじやってんけど。ほんま色んな人に話しかけとったであの人」
「あんまり愛想振りまいたらあかんで」
「振りまいてへんけどなあ」
「旦那がおるってちゃんと言え」
「だ」
「旦那や」
口ごもるかのじょをよそに、ぶらぶらしているその手のひらをとって、ちかっときらめく輝きを指でなぞる。
「この魔除けを使うんや」
「魔除けて」笑いごとやあらへんぞ。
「ええねん今日は。ほんもんが来てくれたし」
「お前なあ。そういう油断があとあと――」
「北が……旦那さんかあ……」
「………………」言い出したんは俺やけど……、いざかのじょからそう呼ばれると、なんと言ってええんか……。
「……み、未来の話な!」
「……俺は未来やなくてええんやけど」逃すことなく挿し込んでおいた主張は果たしてどれだけかのじょへ届いているのやら。
「な。さっきのもっかい言うて?」おもむろに腕に抱きついてくる、やわらかなかのじょがそっとこちらを見上げてねだった。さっきの?と首を傾げた俺の耳元に、仰ぎささやく、かわええ悪魔の声。
…………、
……………………。
………………………………。
やけに楽しげな顔をして、こちらの様子をうかがい、するとますますにやにやして、鼻歌までうたって、ほら、はよ、はよ、と指を絡めて、上機嫌に足を進める。一歩後ろからその姿を見つめて連れられる。なんてひとやと心中なじった。
ひとの恋心を使ってあそぶなんて。
そんなにそんなに楽しそうにするなんて。
なんてひどいひとやろうか。
コンビニに着いて、ジュースを買って。足取りの軽いかのじょを今度はこちらが手を引いて、パーキングまで連れて行く。自分の車のところまでやって来て、後部座席のドアを開け、入ってもらって、俺も続いて乗り込んで、扉を閉めて、それから。
「北?」
それから。
「き」
「なまえ」
それから、どうしてしまおうか。
「…………」またたく間にこんなに真っ赤になってしまうかわええひとを、一体どうしてくれよう。
間になんの障害物もない、近づいた分だけ触れられるかのじょに手をかける。少し肩を突いてやると、そっとシートにもたれかかる、この非力なひと。自分から言い出したくせに、こんなに茹で上がってしまわれれば、必然とこちらも熱くなってくる。はくはくと音にならない声はしかし雄弁で、のぼせ上がった瞳はまぶしくて、かのじょがこのような様子では、熱が冷めるわけもないので、かのじょにはしばらく黙っていてもらうことにする。口をふさいで、目は閉じていてもらおうか。それでこの、むちゃくちゃになった気持ちの乱れを落ち着けるまで、この世でもっとも心地のええものにたっぷりとふれさせてもらおう。かわええ声をまた漏らす、それごとぱくりと食べて、さまよう指先をしっかりと握りしめて、離さないでいてやろう。汗のにじむ、鉄の箱の密室で、外から見えなくなるほどに、いつの間にか身を倒して、ふたりだけの幸福をついばんだ。
しずかな車内に、しばらくは息づかいとリップ音だけが反響した。やがて、息も絶え絶えになったかのじょがへろへろな声で、やんわりと反抗をし出すと、また楽しくなる。
「あかっ、ん」
「なまえ」
「た、たんま」
「なまえ」
「もうやめて……」
「なんで」
「あかん、こうさん、降参です」
「勝負なんかしてへんよ?」顔をそむけるかわええ子の、あらわになった耳のふちをくわえた。ひぎゃあ、と間抜けな悲鳴を上げられる。
「聞いとるなまえ?」
「むり!負け!負けです!」
せやからこれは、勝負なんかやないて。
こんなかわええひとをわざわざ負かしてしまう理由もあらへん。
いよいよ頭回らんようになってる証拠やなと、耳の裏側、耳たぶ、付け根とくちびるを落としながら、わあわあと騒ぐかのじょを眺めてわらう。
「ギブ、ギブ!」
「ギブミーやろ」
ええよあげると言うてまた食らいついた。
ちゃぁうぅ、と蚊の鳴くような声がかろうじて聞き取れたが、まったく聞こえなかったふりをして、そのやわらかを、心ゆくまで楽しませてもらう。
俺はいつだって、思う存分、かわいがっとるし、常に愛でとる。ただまあ、愛でくり回すという、かのじょを、好きなだけ愛でくり回すという言い方も、なんというか非常に、興味を引かれるというか、胸をくすぐられるものがあるので、もしかしたらかのじょはこれから、ちょっと大変かもしれへんなあと、ぼんやり思った。


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