玄関の扉を引いた瞬間、香ってきたものに声を奪われた。匂いに温度のあるのはおかしいと思うけれど、なんだかあたたかく、香ばしく感じる。それに甘い。そんな匂いが、帰宅一番にふわんと漂ってきたものだから、思わず胸いっぱいに吸い込んでしまう。こんな匂いが、うちからすることがあるやろうか。いや、ないとも言えへん、なんだか懐かしいような、知っとるような、知らんような、そんな匂いに包まれて、ただいまのひとつも言えんでぽかんと玄関に立ち尽くしていると、扉の音で気づいたのかみょうじがひょっこりと姿を現した。きょうの登場の仕方はばあちゃんと似とるなと思った。
「北あ!」
ただただ一日の仕事を終えていつも通りに帰ってきただけやというのに、またそんなうれしそうな顔をしてこんひとは。喜色満面。とばかりに駆け寄ってくるそんひとに胸の高鳴りを感じながらも、なんとか「ただいま」を絞り出す、この男の様子に気づいていないのか、にこにこと機嫌のよさそうにかのじょはおかえりと言って笑う。こんな夕暮れ時にエプロンを着けて、うれしそうにおかえりなんて言われるとこっちは気がはやって仕方がない。そばまで来たかのじょと一緒に、ふわっと例の匂いがまた香って、靴を脱ぎ終えると思わずそのまま鼻を寄せた。
うんやっぱり。
みょうじからも甘い匂いがする。
めっちゃ甘くて、あったかくて、香ばしくて、なつかしいような、ほっとするような、ええにおい。かのじょ自身の匂いと絡まって、ますますうまそうな匂いや。
一体なんの匂いやろう?
特別甘いもんが好きというわけではないのに、なぜだか心ひかれる匂いに、首元をすんすんかいでいるうちに、背中にほそい指先が触れて家の中へと押しやろうとするため、素直に足を動かして、習慣通り洗面所まで着くと手洗いうがい、ついでに顔も洗って。まっさらなタオルを手渡され、拭っているうちに首に巻いてあったタオルを外し、作業着の前もくつろげて汗も拭いてくれようとする、かいがいしいかのじょにええ気分でされるがままになりながら、ふわふわと漂う甘い匂いを吸い込んだ。みょうじがあんまりにもうまそうな匂いをぷんぷんさせるので、非常に珍しいことに、腹の音が大きく鳴った。
かのじょが目をまるくする。
かわええ。
「鳴った?」
「鳴ったな」
尋ねられるとなんだか照れくさくなってしまう。
腹をさする俺を見てかのじょがわらった。
かわええ……。
「今日は一段とがんばってきたんやなあ」
「ん?うん」
「お腹すいたなあ?」
「うん。なんや空いてきたみたいや」
「ええもんあるで。お風呂入る前に、食べていき?」
「うん」ええもんってなんやろうと思いながら、汚れもんを洗濯カゴへ放って、一緒に居間へと歩き出す。野花を散らしたようなエプロンをことのほか気に入ったかのじょはよっぽどうれしいらしく、料理に触れる機会がぐんと増えた。今も着ているところからすると、晩めしも一緒に作っとったんやろうな。ほんまばあちゃんのこと好きやなあと思えばさらにうれしくなる。
頭をなでると首をかしげながらも、俺の奥さんみたいな格好をしたかのじょは盛大に照れた。
「……いや、逆か」
「なにが!?」
なまえちゃんが俺の奥さんになってくれるから、こんな格好してくれるんやろ?
ふふ。と笑えば、なんなんや!?なんて言うてまた赤くなる。
ほんまにかわええ奥さんやなあ。
ほどなくして居間へ入ると、そこでも例の匂いがしていた。ちゃぶ台では父とばあちゃんが顔を並べてパズル雑誌を広げて話し込んでいる。時事問題やら若者向けの問題もあるからか、俺にもたまに相談してくることもあるので、またわからない問題があったのかもしれない。向かい側の座布団に腰を下ろせばそろって顔を上げた二人とことばを交わす。かのじょは座って待っとってと言い置いて台所でなにやら動いている。二人が再びパズルに集中し出したころ、戻ってきたかのじょの手には丸いお盆が。麦茶の入ったグラスと、おかきの袋が置いてあって、それを前に出してくれる。
「おかき」
「西藤さんとこでもらってん。お中元で大量にもらって食べきれへんからって」
「ああ……あそこ地主さんやもんなあ」
「ジュースとかコーヒーまでもらってしまった。ほんますごいらしいやん、毎年」
「せやな」麦茶を喉へ流し込みつつ、かのじょの話に頷く。
「ほんまは酒が嬉しいて言うとったわ」
「おっちゃんが確かザルやねん」
「そうなん。すごいな」
「みょうじはすぐ酔っぱらうからなあ」
「そうでもないけどな」などとうその供述をするかのじょを見届けながら、おかきの袋に手を伸ばす。袋の封を破ってひとつ放り込み、ガリガリと噛み砕く。口の中にしょっぱい味が広がって、外の空間とつながりつつもこの部屋に残る甘い匂いとの違和感が相まって、せっかく出してくれたものも、うまいけど、空腹にもかかわらずあんまり食指が動かないまま、ひとつふたつ飲み込んだあとは甘い匂いをまとうかのじょの話をひたすらに聞いた。風呂は母が今入っているらしく、もうすぐ上がってくるだろう、とのことだ。いや、それはええねんけど。ちょっと私とおしゃべりして待っとってなと言い申し訳なさそうな顔をするかのじょは、やっぱりなんもわかってへんやんか。
「待つんはええけど、みょうじ」
「うん?あ、寝る?」
なにをどう解釈してそうなんねん。
「なんでやねん。寝えへんわ、せっかくの癒しのひと時を、俺から取り上げる気かおまえ」
「え、お、おう?ごめん?」
「まったく」
「ご、ごめん……???」なんでかさらに首をひねったかのじょは再度詫びて、それでもそんでええならと再びかわいい声でおしゃべりをし出した。身振り手振りでかのじょが動くたんびに、ふわふわと香ってくる匂いが心をやさしくくすぐって、甘くてほんまにうまそうで、好きなひとの顔を見ながらこんなにええ匂いを感じていられるなんて、ええ気分やと頬がゆるむ。途端にばちんと音のするほどに目へ勢いよく手のひらをやったかのじょに目は危ないから止めとそれをつかまえ、そのまま都合がええので悪さをせんようにと指を絡めて握り込む。顔を隠せず、たちどころに赤くなったかのじょを眺めながら、その手を触り、匂いをかいで、声を聴いて、感覚がかのじょでどんどん覆われていって、五感で言えば残すところはあと味わうだけとなったので、そろそろ味わってもええかなあと考え始めたところやった。
「あ。信ちゃんおかえり」
母がしずくをポロポロと落としながら帰ってきた。
既に酒の入ったグラスを握っている。
「ただいま」
「おかえり。あんたまたなまえちゃんいじめてるん」
「いじめてへんよ」
またとはなんや。今も昔も、俺は好きなひとをいじめたりせえへんわ。まったく心外やな。と思いながら、うちわで扇ぎながら隣に座った母の言葉を否定した。ただ受け止められた様子はまったくない。興味津々といった表情で、赤いかのじょの顔をのぞき込んでいる。
「尋常やないほど赤いやん。いまにも死にそうや」
「タコは食いもんやんな……」
「タコ?ええな〜アテにしたい。あるかな?」
なまえちゃんタコある?と尋ねる母に、かぼそい声で「ないです……」と力なく返すかのじょはきっと間違いなく食いごろやな。手をにぎにぎと無意味に動かし、ちいさな感触を楽しみながら、そんなことを思って気分を上げていると、またもや母が声を上げる。「あれっ?」なんて、不思議そうな声をするのでそちらを見ると、ちゃぶ台の上のおかきを見て首を傾げていた。
「どうしたん?」
「信介コレおやつ?」
「うん」
「クッキーはもう食べたん?」
クッキー?
聞き返した俺ではなく、今度はかのじょに尋ねる。
「なまえちゃん、クッキー出さへんの?」

唐突に飛び出した単語に、また貰いもんかと尋ねれば、母はううんと首を振り「なまえちゃんが作ったクッキーや」と事もなげに答える。なまえちゃんが作ったクッキー。あまりに力のある単語に、思わず復唱してしまった。目を見開いてなぜだか固まっているかのじょの様子に気が付かないのか、母が再び口を開いた。
「食器棚から、昔使っとった焼き型が出てきてん。それ使ってなまえちゃんがクッキーを作って、みんなでおやつに食べてんで。まだちょこっとならあるわ」
すらすらと出てくることの次第に耳を傾けながら、なるほどこの香ばしい匂いの正体はそれかと納得する。そればらば家の中に広がるこの、やさしくてあったかくて甘い、うまそうな匂いも、かのじょからする説明もつく。納得して理解して、それから頷いた俺は、けれども次の瞬間、またすぐに首をひねることになる。
あれ?
じゃあなんで俺はおかきを出されたん?
かのじょを見た。
なぜだかもの凄い汗をかいている。顔面に。
なんやどうした。言うてしまったな……というような様子でオカンを見ていて、それはクッキーのことを忘れて俺におかきを出したというよりは、あえて手作りクッキーではなく既製品(もらい物)のおかきを出したとでも白状しているようなもので、ふわふわと浮かんでいた心がゆっくりと沈み始めるのがわかってしまった。だってつまり、それは、俺にクッキーの存在を知られるんが、ひいては俺にクッキーを食われることが、かのじょにとっては都合が悪いということだ。
「……なまえちゃん?」
「は、はい!?」
なんでそんな怯えた顔をするん。
気分は落ちる一方だった。
「俺はなまえちゃんのクッキーを食われへんの?」
「…………」
「なまえちゃん?」
返事はなかった。
ただただ、目と口をかっぴらいて俺のことを見ている。ものすごい顔や。なんでこんな顔をしているんやろうか。なまえちゃん、と再度声を掛ければ、はっとしたように口を閉じて、それでまた開く。
「た……たべるん……!?」
「そら、食いたいやろ」
「……わ、私が作ったクッキーやで???」
「なまえちゃんが作ったもんを食いたい」
「…………!?」
信じられへんみたいな顔するやん。
大丈夫か!?みたいな目でこっちを見てくる。
なんでそんな顔をするんやろう。なんですぐにクッキーをくれへんのやろう。なんで食いたいと言うてそんなに驚かれてしまうん?全部が全部はなはだ疑問で、それでもこんなとき、心当たりのひとつもないようなまっとうな人間であればよかったのに、ことかのじょについては、思い当たってしまうことがらが、いやことがらは思い出されへんけど、可能性の話として浮かび上がったものがひとつだけある。
「……俺昔、またなんかしたか?」
「………………」
肩がびくっと震えたのがもう答えだった。
やっぱり、と息を吐く俺に「いや」とかのじょが手を振った。
「いや……、いや、ちゃうねん。ちゃう。北がって言うか、私の心がちょっとアレで……」
めっちゃ狼狽えとる……。手を振り首まで振りながら、続けて「バレンタインの呪縛がアレでちょっと」しどろもどろながらも挿し込まれた単語がひとつ気にかかった。
バレンタインの呪縛?
バレンタインで、俺が関わっとること。
なんやろう。
呪縛と言うからには決してよくはない出来事であったんやろうけど。バレンタインという言葉に自らの記憶を掘り起こしてみたものの、なんでかみょうじが嫌な思いをしたというようなことに心当たりが出ない。高校三年間、マネージャーだったみょうじから部員全員が当然のようにお菓子をもらった。同級生やった、それで友人でもある俺を含めた一部の人間は、いわゆる『友チョコ』と言うらしいものを別に受け取って、すごいシステムやなと思いながら大量のお菓子を用意するみょうじは大変やろうなと毎年あの時期になると心配になった記憶ならあるが。せや、最初の年なんかすごかったもんな。全員分のお菓子はともかく、アランに個別で渡すお菓子を見せてもらったときなんか。赤くてつやつやの、ハートの形をしたちっこくてかわええチョコレートがきれいに入っとって、それまで手作りやと言うもんやから、普段お菓子に特別興味のない俺でさえひどく感心して、みょうじえらいがんばったな、これならきっとアランも喜ぶわと太鼓判を押したもんや。顔どころか手まで真っ赤っかにして震える、いつもは元気なマネージャーを勇気づけようと、口下手ながらも誠心誠意言葉を尽くして応援して、待っときや呼んで来たると呼びに走ってやったのだった。あんときほど、俺がやったらんとと思ったことがあったやろうか。そんな思い出がよみがえり懐かしくなって、けれどやがて、あれ?と首をひねる。
二人は付き合うてへんねんて、ただの友達やねんて、やけに神妙な顔をしたアランに言われたん、何度も何度も繰り返し念を押すようにして言われたん、あの後やったな?
……高校の三年間、みょうじは俺のことをずーっと好きでおってくれたって話を、最近聞いたな? 赤やピンクの小さな、つやっつやの、どっからどう見てもただの友人に贈るもんではないと一目でわかる、ハート形のチョコレート。
あれ?
そういえばあんとき、
アランに渡すんやって、
ひとことでもみょうじ言うとったっけ?
…………、
………………。
……………………。
まさか、嘘やろ。
ほんまに。
開いた口が塞がらない。
思わず手で口を覆い、黙り込んだこちらの様子に、俺が気づいたことに勘づいたのかみょうじはますます眉を下げた。いつの間にかまた真っ赤になっていて、まじまじと見つめるこちらからの視線から逃れるように顔をそむけてしまう。
「……みょうじ」
「……謝らんとってな……」
「…………」
「……恥ずかしい、思い出やねん……」
「はじめてのことに、浮かれとって……」ほんまに私アホ……、と消え入りそうな声で呟くが、この場合、どうしようもなく恥ずかしい奴は俺のほうやないやろうか。残暑の季節とはいえ秋の夕暮れ。涼しくなりつつある風をそよそよと浴びたところで、まったく意味のないほど急激に上がる体温に、全身から滲んでくる汗に、ふたり今すぐ水風呂にでも突っ込んでしまいたくなるほど、人生過去最大級のとんでもない、アホにアホを塗り重ねてきた自らの過去に、七年と数か月越し、えらい時間差で、いまようやく気がついたのだった。
それで好きなひとの呪縛になっとるとか。
恥ずかしいとか言わせるとか。
そんでクッキーのひとつももらえへんとか。
アホでしかないやん。
「…………えらい……」
口ん中がからっからやもう。
「……もったいないことを、しとったな……」
「…………そうかも……」かのじょもまた神妙にことばを返して、お互いに真っ赤な顔を向かい合わせに座って、そんで指を絡める。顔から火ぃでも噴けそうな気分でふたり、未熟な思い出を評した。かのじょがそっと俺のほうを見上げる。その瞳に見られたと思うと、どきどきと高鳴る胸の鼓動がうるさくて、まだまだ恥ずかしそうに、けれどそっとくちを開く、かのじょの小さな声を聞き逃さないように耳を澄ませた。
「…………クッキー、たべる?」
「食べたい」
「…………誕生日でも、なんでもないけど?」
そんなことも言うたか……?
と一瞬過ぎったが、即座に食いたいと返す。
「…………ほんま?俺はええから、先ほかんひとにあげとか言わへん?」
「絶対に言わへん」
かえすがえす、ほんまにひどい奴やな俺は。
ひとっ子ひとり分の空間を詰めて、いったん指をほどいてから、ほっそい腰に手を回して抱き寄せる。簡単に胸のなかに飛び込んできた、ちいさなからだを大切にとじ込めた。甘い匂いを吸い込んで、肺を十分に満たすと、気分がひどくよくなった。
「あるやつ全部俺が食う」
「…………うん……」
「なまえちゃんのクッキーもなまえちゃんも余さず食う」
「…………うん……?」
「このうまそうな匂い、ずっと気になっててん」
すんすんと髪を嗅ぐ俺にようやく気付いたのか「バターと小麦の匂いやで」と言って身をよじる。それをしっかりとつかまえて、抱きしめて、どこもかしこもうまそうなからだの、いちばんうまく味わえそうなところを、ほんの少しだけ味見をした。わっと騒ごうとするそこを抑えて、しいっと指を立てれば慌てて口を閉じる、かのじょの素直さがいとおしい。両親やばあちゃんに背を向けて、まあ普通にばれとるやろうけど、しずかにしずかにくちびるをかぶせて、ないしょのくちづけをした。かのじょはなにかもの言いたげな顔をしているけれど、だって。
「き、きた」
「やって食いたくなるよこんなん」
こんなうまそうな匂いぷんぷんさせて。
俺はもうずっとずっと気になっとってんで。
「そ、そういう成分は、はいってませえん!」
「うそや」
入れたやろ、なまえちゃん。
こうやって触れ合うだけで笑えてくる。
口の中に甘味と香ばしさがぶわっと広がって、思い出したように腹の音が、はよ寄越せと言うてくるもんやから、いよいよそ知らぬふりをしてくれていた母が噴き出してしまい、それを父が落ち着かせる。ばあちゃんはいつも通り寛容ににこにこ笑っとって、まわりのことに一切気が付いていなかったかのじょは湯だったように赤くなり目を回す。
そしてばあちゃんに手を引かれて台所へ立ったかのじょは、今度はえらくかわいらしい、ウサギの形のクッキーが何枚か乗った小皿を手に戻って来る。元通りの場所に座って、そっとちゃぶ台に置いた。
「うまそう」
「お、おかきはどうするん……」
「食えんことないけど、今は他のもん食いたないなあ……オカン食わへん?」
「ええん?じゃあもらうわ」
嬉しそうに封の空いたおかきに手を伸ばす母親を示して、ほらと言えば、かのじょはむっとくちびるを突き出して「もう……」などと息をこぼした。必死に眉間にしわを作っているものの、ほっぺたが赤いしゆるゆるなもんで、これはもう間違いなくかわいい。
「なまえちゃんもうまそう」
「クッキーはよたべ!」
わあっとわめき出すかのじょに内心笑いながら「なにわろてんねん!」全然ちっとも痛くないこぶしを横腹に食らいつつ、しっかりと厚みのあるクッキーを一枚手に取った。
ウサギの形をしたそれに、チョコレートやろうか、点とバッテンで顔が描かれ、世界的に有名なあのシンプルな造形のウサギになっているのがかわいらしい。こうして見るとたしかにこの形のクッキー、食うたことがあるかもしれへん。でもはっきりと記憶に残ってはいないので、あっても一二回程度なんやろうな。そもそも手作りの菓子(とりわけ洋菓子)なんてもんが出てくることなんか、うちでは滅多とない。このあったかい甘い匂いも。すん、とひと嗅ぎして、一口かぶりついた。長い耳のところでサクッと音を立てて割れたクッキーは、口の中で、さっきほど知れた味が強くよみがえる。口の中でサクサクと軽快な音が鳴る。鼻に抜ける風味も心地よい。あんなに甘い匂いがするのに、味自体はそんなに甘くないのが不思議だった。久しぶりに味わうバターのうまみに、噛みしめながら唾液がどんどん出てくる。
「うまい」
「さ、さよか……」
「めっちゃうまい」
「あっそ…………」
「世界一うまい」
「もうやめて……」
なにこれうまい。ほんまうまい。
あと照れとるなまえちゃんかわええ。
なまえちゃんもなまえちゃんが作ったクッキーもうまいし最高や。
たった数枚しか残っていない、大事な大事なクッキーなので、ゆっくりと味わって食うていたいのに、いつの間にか一枚なくなっていて、次のクッキーに手を伸ばす。なまえちゃんがこの顔を一生懸命描いている姿を想像しながらまた一口。ふふ、とこぼれてしまう笑みを、一体どのように受け取ったのか。ついに顔ごと手のひらで覆い、それでも見えてるおでこと耳の色がかわいくって仕方がない。クッキーうまい。なまえちゃんかわええ。クッキーってこんなにうまかったかなあ、と思いながら、しみじみとしたうまさを感じつつ、しっかりと幸福を噛みしめて、また一口。胃袋も心もくすぐったいしあわせで満たされていく。ううう、とうなり出してしまうかのじょを見つめながら、好きやなあと思った。
「俺はしあわせもんやなあ。こんなにうまいクッキーを作ってもらえるんやから」
「…………」
「こんなにおいしいクッキーが作れるなまえちゃん。俺のお嫁さんになってください」
「……………………」
「はよ。なあ、はよなってな」
「………………………………」
「食うてまうぞ」
せっかくのかわええ顔を隠してしまう、そん手を少しだけ退けて、まっさきに見えた鼻のあたまにかぶりつく。「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げたかのじょの表情が少しだけ、隙間っから見えて、俺は思いっきり、声を上げて笑ってしまった。
ほんま。
ほんまもう、かわええなあ。
「も、もう!はよ、はよ食べて、おふろ、はいってきい!!!」
とっくの昔にいっぱいいっぱいになっとるなまえちゃんが、必死の形相で叫ぶ姿を見つめながら、クッキーの合間に一言口を開く。
「一緒にはいる?」
「な…………!?!?」
「なまえちゃんもはよ食いたい」ほんまうまいわこんクッキー。定期的に作ってくれへんやろうかと思いながら、心の底の本音を告げれば、驚愕に目を見開いたかのじょは、わなわなと震えだす。さっきはぷるぷるやったけれど、いまはわなわなと言うんが似合う震え方や。震え方にこんな明確な違いがあったやなんて、知らんかったなあとひとつ勉強になった気分でそれを見つめていた。
「ば…………」
「ば?」
「ばかあ!!!!!!」
溜めに溜めとると思ったら、ありったけの大声を出されてしまった。いや、ののしられるやろなとは思とったけど。発奮したかのじょから、これっぽっちも痛くない連打を、再び今度は腹に食らう。
「はいはい。一緒は朝にしとこうなあ」
そう言うてまるい頭をなでてやり、反対の手ではクッキーをまた一枚つかんで口に入れる。
「またそんなっ……きた!きいてる!?」
「なまえちゃんの声はなんでも聞いとる」
「うぐっ…………」
「なまえちゃん、最後のクッキー食わせてほしい」
「な」
「なあほら。食わして」
「き、きた」
「なまえちゃんが作ったクッキーやねんから、なまえちゃんが食わしてくれなあかんで」
な。最後の一枚くらい。などと、自分でもわけのわからない理屈をこねて、盛大にうろたえるかのじょを前に口を開けて待っていると、やっぱりかのじょは、俺のことが好きやという顔をして、うまいうまいクッキーを手ずから運んできてくれて、やっぱり俺は、はやく俺の奥さんになってくれへんかなあと来たるべき日が待ちどおしくなるのだった。
「うまいなあ。最後の一枚が一番うまい」
「うぅ………………」
楽しくって仕方がない。
腹も満たされるし、かわええもんが見られるし、こんなに楽しくて、やわらかいものを抱きしめてくつろげる、仕事の疲れもふっ飛んで、目も耳も鼻も口もなんもかもで、なまえちゃんとおることを堪能することができて、ゆるゆると頬がゆるんでしょうがない。
待ちどおしいけど、いまも楽しい。
こんなことがほかにあるやろうか。
なくなってしまったクッキーは残念やけれど、クッキーに続いて、どうやったら早いこと、かのじょにありつけるのかということに頭の回転がうつろっていく。ちいさくってかわええ、やさしくて、非常に恥ずかしがりやの、けれどもなかなかにいやらしいかのじょの興味を俺がぜんぶ奪ってひとりじめさせてもらうためには、一体どうしようか。腕の中でまるまって羞恥に震えるかのじょを大切に抱きしめて、そんなことを真剣に考えている。
「信ちゃんはなまえちゃんいじめとる時ほんまに楽しそうよな〜」
「なまえちゃんアレ泣いとらへんか?大丈夫?」
「わが息子ながらなかなかに、主張が激しい」
「間違いなくおまえの遺伝子や……あいたっ」
「ふたりとも、やさしくしたりぃや」
大丈夫やばあちゃん。
俺はしとるよ。
いつも。

どのくらい歓談を挟んだ頃やったやろうか。
「そんじゃあ風呂入ってくるわ」ええ加減こざっぱりしてめしだのなんだの、夜の習慣へ足を運ばなければと腰を上げる。ぐるりと家族を見回せば、その格好から両親とばあちゃんは既に風呂に入っていて、かのじょはまだやと判断する。なおのこと一緒に入ればええのに、かのじょはかわええ顔をして首を振るばかりで非常に残念な結果に終わる。つれへんなあ。なんにせよ、はやいこと汗を流してしまって、かのじょにも入ってもらって、そしたらもっと、ひっつこうなあ。なんてたのしいことを思う。
「ハ――イごゆっくり――――」
「なあ早うから飛ばし過ぎやで」
「いってらっしゃい」
「北これ着替え……」着替え一式とバスタオルの畳んだそれを差し出してくる、そのひとの手首をそっと持ち上げた。えっ?と声を上げて、けれど俺がそのままなんにも言わずに歩き出すので、つかまったままのかのじょは「えっ?えっ??」と言いながら、つられて足を動かしてついてきた。流されやすい子やなあ、こんなんで大丈夫か?目離せん……、と思いながら、洗面所までの短い間をのしのし進む。
「き、き、きたっ???」
次第に緊張を孕む声に変わっていくことに気づき、足は止めずに振り向いて、かのじょと目を合わせる。既に顔を赤くして、わずかに力の入り出した身体を安心させるために、ここは笑顔のひとつでも見せておくべきやろうか。
こわくないで、なまえちゃん。
思いを込めて、にこりと笑ってみた。
「き、きた…………っ!!!」
火を止めた煮込み鍋のふたを取ったとき、立ちこもる湯気がまさにこんな感じ。というのをいままさに再現するかのように、急激に熱の立ちこめたらしいかのじょは、着替えを前に抱え、ぎゅうっと身構えてしまう。あれ?失敗してしもた。おかしいなあ?今度は俺が首をかしげて、それでもずんずんと進んでいく。警戒をちっとも解けなかった代わりに、疑問の声はぴたりと止んで、またそんな目ぇして、引かれるまんまについてきた、かのじょは当然、ひとたび目的地に着いてしまえば、その身をうばわれてしまう。
持ってくれていた着替えやタオルを洗濯機の上にひとまず移して、自由になった手をつなぎ、にぎにぎと感触を楽しんで、距離を詰めて、目をまるくするかわいいひとと、さっき少ししかできなかったことをいざしようとひっついた。
「んっ……」くちびるを、ゆっくりと離すとき、名残惜しそうに伏し目がちに俺の口を追いかける、かのじょを見るのがとても好きだ。ちゅう、と、わざと音を立ててやると、ひどく恥ずかしそうにする。そっとひっつけると、わずかに重なった瞬間、びくりと震えるかのじょの身体。これが見たくて、見たくてしょうがなかってん。はあ、やっと見られたと息を吐く。そしてまたひっつける。やわらかいくちびる。ぴったりとひっついた、やわらかいいやらしいからだ。そうっと、熱のいちだんと昂っているところを、こすりつけてみると、びくびくと震えたのち、はあっとかのじょも熱い息をこぼして。それで、しがみついてくるから。
「……一緒にはいろう?」
やっぱりどうして、朝までなんて待たれへん。
いま一緒にはいりたいねん。
はよ一緒に気持ちようなりたい。
とろとろになった瞳から、いまにもなみだがこぼれそうに膜を張って、それがきらきら光って、じいとそこを見つめてしまう。かのじょがまばたきをして、目尻でそれがまるい粒になって、ぽろっとこぼれる瞬間にそれを食らう。
「んっ」かわええ声を出して、ぼうっと見上げてくる、かのじょが嫌がらへんからずるいねん。
「きた…………」
「な。きょう、仲よしできる?ええ?」
「……ん…………」
くちびるをまた突き出す、そこにかぶりつく。
寂しかった、と抱きついて、くちびるの、かさなるすれすれのところで、また見つめ合う。ほんまにきらきらと、とろとろしとって、俺んことだけ映す、きれいな目玉やなあ。こすりつけたからだがどんどんあつくなる。もうなんにも考えられへんくなったかのじょをいちばん近くで見つめて、見つめて、見つめて、それから見つめて。そうしてぐずぐずになったかのじょのこころも、もちろんからだも、俺がぜんぶいまから食う。
「じゃあ、一緒に、はいろ」


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