日中ずっと澱んでいた空模様が一変したことに気づいたのはどれくらい経ってからやろうか。消える寸前の夕日に照らされ、茜色に染まった畳を見て、燃えているようだと心の片隅で思いながら、この両腕の中にいる熱くてとうといひとのこと想う。私の胸に潜り込んで、離れないこのひとの顔は見えない。それが少し寂しくもあり、けれど癖のないやわらかな髪がくしゃっと乱れるこのありさまを見るのが私はことのほか気に入りで、北が顔を上げて濡れた目ん玉で私をしっかりと見てくれるまでは、こんひとを宝物のように抱えたまま、ずっとこうしていようと思っていた。自分よりもずいぶんと身体の大きな男のひとを、まるでちいさな生き物にそうするように抱きしめる。さっきほど、吐息のようにこぼしたたったひとことを、呟いたきり北はまた黙って、濡れた顔をこすりつけて、でも指先は私の腰をすがるように掴んで。
自分の感情をたったひとこと、
伝えるのに、
他に誰もおらんところまで、
自分の心底安心できる陣地に入るまで、
それでもなかなか言われへん。
――まったくおくびにも出さんと。
あんなにも優しくするしまつで。
あれだけ考えてためらって、
それやのに、やっとのことで口にできた言葉ですら、あんなにあんなに小さな声で、絞り出すようにしか言われへん北を思うとくるしかった。
なぐさめてほしいなんて。
ぎゅうぎゅうとあいくるしい頭を抱え込む。もたれかかってくる北の重みがどんどん強くなって、私はとうとう足をくずして畳を踏みしめる。全身の力を北を抱擁することに注いで、どうか一握でも北の心を満たすなにかに変わってほしいとねがった。どうかどうかこのやさしいひとが、このかなしいひとの、憂いがたちまち消えてしまいますように。私にも魔法が使えたらええのに。尾白みたいに。北が私にしてくれるように。私も北をしあわせにしたい。そんなこと、このまだまだうかつで粗忽な女には、とても堂々と口には出されへんけど、でもいつも思ってるよ。北をしあわせにしたいって。思ってんねん私はいつも。北の髪の毛に頬ずりをする。そのままむちゅっと口づけて、このひとの顔が見たいなあと思った。いつでも思っていることをまた思う。すん、と鼻をすする音が胸に響く。片方の手で広い背中を撫でる。はあ、と時折こぼれる吐息が、北がこの状況でなお自力で心を落ち着かせようと努めていることがうかがえて、この期に及んで、そんなことをせんでもええねんとさらに頭を抱き込みつむじにちゅうをした。北はさらに深く潜った。その様子をとてもいとしく思いながら、私は北の言葉を反芻した。
自分のうかつを謝るのも、
身の回りで色んなことを巻き起こすかわええ後輩と距離を置くんも違うと言う。
災難やった。ほんまに災難やった。
でも北は傷ついた。
だからなぐさめてほしい。
ただなぐさめてほしいと泣いている。
北の起こすかすかな音が、北そのひとの気持ちをあらわしているようで胸が痛んだ。
北はもっと痛いんやろうか。
そんなんもっと痛くなるやん……。
胸のくるしさとくちゃくちゃになった感情の、矛先がいま抱いている頭に向かって、ぎゅぎゅーっとしていると、さすがに今回は力が強すぎたのか北が身じろぎをしたのでごめんと言って力をゆるめた。北(の頭)はふるふると左右に動く。気にすんな、という感じなんやろうか。やっぱり顔を上げへんし、声も出さへん北の頭を撫でる。触り心地が非常によい。そうするとどうしてもしたくなった口づけをしてしまう。でも、これって、私がしたいからしていることで、北のしてほしいこととちゃうやんな。しっかり、というかがしっと腰を掴まれているせいで、離れられへんねんけど、北は、なぐさめてほしいって言うたやん。北の傷ついた心を私がなぐさめるんや。……なぐさめるって、なんやろうな。私はさっき、お昼間、北が来てくれて、北のおらん場所が一瞬で北がおる場所に変わった瞬間、飛びついて受け止めてもらった瞬間、抱きしめられて、見つめ合って、言葉を交わして、そのあと、それから、してもらったこと全部、むっちゃくちゃうれしくて、しあわせで、テンションがわーっと上がって、もう北が好き!ってことしかわからへんぐらいにふわふわして、心の中の色んな嫌なもんが北でざあっと洗い流されて、北好き一生ついてく!ってなったから、私やったら話は簡単やねんけどな。北やからな。北は私なぞよりもよほど上等なもんでできてるからな。性根の正しいのも北やし、繊細なんも北や。いまなぐさめられたいのは北で、なぐさめたいんは私や。アホな私が、かしこい北をなぐさめる。なぐさめ、られるんか?ううん、とうなって、北を見る。つむじがよく見えるこの位置。言い方を変えれば頭頂部しかはっきり見えへんこの角度。ちらっと上から覗ける耳が赤い。はあっと息を吐く北の身体が熱くて、もしかして窒息してるんとちゃうかと思って、「北息できてる?」と尋ねると、北は顔をいっそう私の胸にぐりっと押しつける。息ができてへんわけではないらしい。まあ呼吸してるんは触れ合ったところから伝わっていたけども。「クーラーつける?」と続いて声を掛けると、今度はうんともすんとも言わへん。反応らしい反応はなかっため、現在の室温に関して別段不満はないようだ。それでも身体はほんのり汗ばんできて、髪の毛もわずかにしっとりして嵩が減るのがかわいらしくて、またそこにくちびるを押しつけた。はあっと漏れる吐息もあついような。ほんまに大丈夫か?なみだを流して、そのうえ汗までかいたら、水分は出ていく一方や。立てて置いたもののいつの間にかそばに転がっているバッグにはスポーツドリンクがまだ残っている。もう温なっとるやろうけど、飲んでもらったほうがええかもしれんな、と思いながらも繰り返し魅惑の頭部に吸い寄せられあっちこっちにちゅっちゅっとちゅうを重ねていると、おっぱいが揺れた。つむじが視界から離れ、かわりに顔の火照った涙目の北が私を見上げる。私の心は愛一色に染まった。
「か……かわ……」
「…………」
「ハッ!き、北、水分とり」
「…………いらん」
ひっさびさに声聞いたやん。
「せやけど、顔すごい赤いで」
「……恥じとる」
「ハジトル?なに?」
「……おのれを、恥じとる」
「おのれ」うそやろ。充血した目をうるませて、頬をべしょべしょにして、顔じゅう真っ赤で、こんなに破壊力のあるさまが、自らを恥じてる姿やと言うんか。私がおのれを恥じるとき、こんなに愛くるしいさまになっているわけがない。ていうかそもそも、北に恥じるところなんてあったっけ??なに???なにを恥じてるかはさっぱりわからへんけど、恥じてこんなに真っ赤になってる北がかわいすぎて私、胸が高鳴ります。
「すまん…………」
「えっ。なんで謝るん」
「やってこんな……年甲斐もなく……こんな……」
自分が恥ずかしい……とつぶやいて、北はまた、でも今度は首にすり寄ってきて、一瞬ちょっとだけ不謹慎にも、変な感覚が身体を走る。今度は北の好きなおっぱいに頭を埋めたわけではないので、表情はうかがえる。恥じとる恥ずかしいなどと言う北も、一応今は、私と言葉を交わす気でいることは確かなようだ。ふかふかのおっぱいに包まれて泣いて、ちょっとは気分が落ち着いたんやろうか。それやったらええんやけど、あんまり無理せんでええねんでと思う。
「謝るんは私の方や」
「……あれは、もう、謝らんでええよ」
「ちゃうよ。それもやけど。私は、まだなにひとつうまくできてへんから」
「できてへんって、なにを?」
「北をなぐさめること」
「………………」北は数秒固まった。見開いた瞳に溜まった涙が今にもまたぽろっとこぼれ落ちてしまいそうで、私は舐めとってしまいたいという欲望とひと知れず闘いはじめた。
「みょうじ……それは……」
「わからへんねん私……北の、なぐさめ方って。……ほら私、いっつも北に頼ってきたやろ。傷ついた北の心が、どうやったら晴れるんか、なぐさめられるんか、考えてるんやけど、さっぱり見当もつかへんくって」
「………………」
「教えて。まだ私、北のこと全然知らんみたいや」
「……みょうじ」
「こんな情けない彼女でごめんな。でも、なにしたらええんかわかったら、私にもできることがあるんなら、私なんでもするから」
「なんでも」
「うん」
「なんでも……」と再度北は復唱して私を見つめた。二回目やな、と思いながら、何筋も通ったあとの光る頬に指をそっと這わせる。指が目じりのあたりに届くと、きゅっと目を瞑る北信介くん。かわいい…………。今まさに心傷ついている北をよそに不謹慎すぎるなかなかひどい女やなと自分でも思う。でも北がなぐさめを求めているのならば、なぐさめてさし上げたい気持ちはやまやまなのだ。具体的になにをすればええのかわからないから、こんなアホをさらしているだけで。涙でべしょべしょの頬は、うるうるの瞳は、下がった眉尻は、見ているだけで、なんてかわいそうなんやろうという気持ちになる。どっかのだれか、知らない人がやっていても同情心を誘われるというのに、それをするのがこの北やというだけで、私はほんまになんでもしてしまうやろうなと思った。私にできることならなんでもするし、ささげられるものならなんでもささげる。あっ、でも、エッチはあかんな。今日まだ三日目やねん。毎月来る恒例のあれが、今このタイミングで猛威をふるっとるから、あれだけは今日たちまちにはしてあげられへんな。でも、それは北も知ってるし、それに北はこういう、傷ついたり落ち込んだりしているときに、あんなにいやらしいことをしたいという気分になるような感じには「なんでも……」とてもやないけど見えへんから、そのへんはいらぬ心配というやつやろうな。これで私が、北がなにかを言う前に今日はエッチできんでなんて釘をさしてみ、私はとんだ痴女である。知っとるけど、へえふうんそう、なまえちゃんってそういう子やったんや、なんてしばらくからかわれるに違いない。いや、からかわれるだけならまだええけど、ドン引きされてしまったら、私は立ち直られへん。北をなぐさめようとして、なにも北が願ってもない心の傷を自ら負う必要はいまのところ見当たらないので、四度目の「なんでも……」と繰り返す北には笑顔でうなずくにとどめておくことにする。
「なんでも……」
「なんか思いついた?」
「…………迷うわ」
「なんこもあるん?ええよ?」
「…………」
「……北?」
「いや……、でも、そうやなあ……」悩んでいるのか迷っているのか、ためらっているのかわからないが、とにかく食いついた割に歯切れのわるい反応をする北に首を疑問に思いながら返事を待つ。ちらちらと私を見てくる北がかわいくてきゅんきゅんするけれども、とにかく我慢して大人しく待つのだった。ううん、と真剣な顔をして考える北は目が赤いががっこいい。涙のあとが残るところが、夕日の光でちかっときらめいて、北をいっそう輝かせた。きりっとした表情は、すっかりいつもの北の顔つきで、この表情を真正面から、こんなに近くで見つめていられる幸せが私の頬をじわじわと侵した。
ああ。
ああ、ええなあ。
すきやなあ。
「――みょうじ」
「すき」
「…………」
「はあ……むっちゃ好き……」
ため息と一緒に好きがこぼれてしまって、
あっこぼれた。と気づいて、なにかを言う前に、向かい合った北がぎょっとした顔をする。目をこれでもかというほどにかっぴらいて、私をまじまじと見つめた。
「ごめん北、なんか言おうとしてたな」
「…………はあ」力の入った息を吐く北に、さすがに私は慌ててしまう。
「ごめんって!」
「かなわん――かなわんわ……」
首をもたげて大げさにかぶりを振られ、これはいよいよやばい私、本能で生きすぎやろ!と自らの行いを悔いて北に抱きつく。せっかくあんなに考え込んでいた北が、ようやくなんか言おうとしとったのに、私は出鼻をくじいてしまったんや。なんて間の悪い女なんやろう。
「ごめん北あぁ」
「ふ。なんで泣きそうなん」
「やってさあ」と言いながらも、少しわらった北の笑顔に心を一気にうばわれていた。わらった……。五秒前の後悔をあざ笑うかのように、見事に私の心をかっさらっていく北の笑顔はとてつもない。私の身体をしっかりと受け止めて、今度は北が私を抱きしめる。表情が、ほろっとほどけて、ほころぶ北のほっぺた。弧をえがくくちびるにさわりたくてたまらない。そわそわしながら、北を見上げた。やっぱり下から見る北も最高にかっこええな。北の分厚いゆびが私の頬を滑る心地よさにうっとりと目を閉じた。するとますます北が笑う。北の笑い声ってやっぱええな。私好きや。
「今にも寝そうな顔するやん」
「ね、寝えへんよ。まだ北をなぐさめてへん……、なあさっき、なに言おうとしてたん?私なにしたらええ?」
「…………せやなあ」
「うん」
「みょうじがなにするか決めて」
えっ!と声を上げてしまう。ここまできて、そういうこと言うん。すっかり北から言われたとおりのことをかんぺきにしてさし上げようと意気込んでいた私には正直肩透かしだ。さっき自分でも悩んで、結局答えが見つからなかったということもある。
「私わからんよ!」
「考えてや」間髪入れずに、北がやさしく言葉を挟む。
「俺のこと、いっぱい考えて」
「い…………」
「俺がなにしたらよろこぶかなとか、どうしてほいしいんやろうとか、俺になにしてやりたいかとか、俺だけにしてもええことなんやろうとか、俺のことを考えて、ちゃんとみょうじが考えてほしいなあ」
「……き、きた」
「頭んなか、全部俺にして。俺のことだけ見てや。そうしたら、俺の心なんか勝手に慰められるわ」
俺んこと癒してや、なまえちゃん。
そんなことを、そんな顔して言うもんやから、私の胸がぎゅうっと締めつけられて、すでにおる北の腕の中から、すでに触れている北の胸板に突撃して、押して押して押しまくって、わ、と短く声を上げた北がついに後ろに転がってしまうまで押して押して私は、北の首にすがりついた。仰向けになった北にひっついて、むきだしの首筋にキスをした。ちゅっちゅっとやわらかい皮膚に吸いついてははなれ、首から顎に、顎からはすぐにくちびるにたどり着く。北の吐息と、漏れる声、頭を押さえるあついてのひら。腰に回るもうひとつの手。私に敷かれているがっしりした身体。すべてが私をくるわせる。とろんとしたわずかに腫れぼったい目と視線が合って、またかぶりつく。北がなにしたらよろこぶとか。北はいまどうしてほしいんやろうとか。北のためになにをしてあげたいとか。北やからしてもええこととか。そういうことを、考えんとあかんねやろう。北の言うたとおり、わたしがちゃんと自分で考えて実行することが大事なんやろう。わかってる。わかってるから。考えるから。ちゃんとするから。やからいまだけ、まず好きにさせて。考えるまでもなく、言われるまでもなく、私の頭んなかは、いますでにぜんぶ北でいっぱいやねんから。何回もなんかいも、角度をかえてくちづけて、北のくちびるをあじわって、出てきたべろもいっぱいなめてからめて、くちのなかがたっぷりきたの味になって心が満たされる。きんもちええ……。ちゅうってなんでこんなに気持ちええんやろう。北とするとかくべつよな。あいさつとかで、ちゅっちゅするんとは、まったく全然ちゃうよな。北もほら、とろとろのカオしとる。かわええ。まったくすけべなかおしよる……。
「ン…………みょうじ……」
「きたあ……」
ああもうかわええかわええまったく!
頬ずりをしてほっぺたにもちゅうをして、ますます北を堪能する私を相変わらず好きにさせてくれて、こんなにとろっとろにやさしい表情で見守ってくれるのだからこれだから世界一の男前は困る。この罪作りめ!!私は自分の欲望を優先して、北にとびかかったので、ほんまやったら叱られんとあかんのに、北はなんだかとってもうれしそうにも見える、照れ笑いみたいなかおをつくるから、この女は図に乗るんやと私は思った。こんだけ私が北に日々甘えてるのに、今度は私が北に甘えてもらう番なんはまちがいなくて、この頼りがいのない本能で生きてる二十四歳の女に北はどうすればええんや。ん、でもさっき、北あまえとったな。なにしてるんって聞いたら、たしかに、甘えてんねんって、自分から言うとった。あれなんやっけ、私北になにしてあげとったときやっけ?たしか、たしか北が、急にもたれかかってきたときや。あれ?でもそれ私とくになんもしてへんな。北のかわええ仕草に胸をときめかせとっただけやった。あとは腰痛とかを心配したぐらいや。でも腰痛をいま再び心配したところで、たぶんいまのこのとろとろのあまい表情が一気にスンッてなって言葉のパンチ食らいそうや。んー……、とうなりながら、北の身体にすりすりとすり寄った。するとやさしい寛大なてのひらがなでてくれるんや!私はもうテンションバクアゲや!うれしくってうれしくって、北の顔にたくさんたくさんちゅうをした。くちづけるたびに、北はふふっと笑って、それが明るくてかわいくて、私はまたおのれの責務をわすれた。北はときおり私のたわわな美乳をわしづかみにしてもみしだいた。わろてるし、北は北でなんだかたのしそうに見えるので、そのまま好きにさせておく。結局のところ、北がたのしそうにしているなら、それが一番やとおもう。もうあんなにかなしそうな姿になんてさせたくない。この世でいちばんすきなひとのすすりなく声なんて、ききたくないやんか。北の前髪をすくってあらわれたおでこにくちびるを寄せて、きゅっと下がってしわのよる目じりにも、ぷくっとふくらんだ頬にも、つんと立つ鼻のあたまにも、それから、くちびるにも、くっついて、はあっと息を吐いた。私これいまめっちゃしあわせやん……。
「……って、あかんあかん。私がしあわせになってどうすんねん……!」
「ん?」
「ちょっと待ってな北、これから考えるから、北のうれしいこと」
「――――ははっ」
たまらず、という風に北がまた笑い出した。
「なんで北笑うん?」
「いまから考えてくれるん?」
「うん。遅なってごめんな。ちゃんと考えるから」
「そうなん。……ふ、はは」
「…………ちゅうしてもいい?」
「ええよ」
あんまりに北が笑うので、それを見ていると、やっぱりひっつきたくなって、北がこころよくうなずいてくれたからむちゅっとまた吸いついて、そうするととっても心が満たされて非常におちつく。いやだから私がおちついてどないすんねんこのアホ。ほんま欲望のままに生きとんな私……。かえすがえす申し訳ないので、腰を這う手のひらはしばらくの間知らぬふりをしておこうと思う。北にぺったりと張りついたまんま向かい合う。くそ、かっこええな。こん男のよろこぶことやろ。傷ついた心を癒せるだけのうれしいこと。こんだけのええ男が、されてうれしいことか。それで、私にもできるようなこと。なんかあったかな……。
「ん〜…………」
「考えてるなあ」
「稲作の勉強をがんばる……」
「嬉しいけど、ほどほどにな。働き手がほしいんとちゃうからな」
「じゃあ、おいしいごはんをつくる……」
「いっつもうまいよ」
「あっ!お婆ちゃんの手伝いをもっとする!」
「そらばあちゃんが嬉しいと俺も嬉しいけどな。十分してくれとると思うで。それにちょっと遠回りやない?」
「ええ〜……」
「他に思いつかん?」
「ほかに……うぅん……」
「もうちょっと気ぃ楽に考えてや」
「んん〜……???」
知恵をひねり出したアイデアは思いつくそばから北自身にやんわりと否定されていく。いよいよ頭を抱えだす私に、使えん女やと呆れてしかるべきやと思うが北はふわふわと笑って、次はなにが出てくるんかと私を見つめて待っている。そのかわいさといったら!あまりにかわええので、ちょっと待っててなと思って鼻先にちゅうをした。するとまた、ぽっと頬を染めて、花が咲くように笑って。ああもう好き。
「これは?」不意に北が尋ねてくる。
「うん?なに?」
「いまのやつは、俺のうれしいことちゃうん?」
「えっ?」
はずむような声で言われたことに驚いて、すっとんきょうな声になる。
「いまのやつって、ちゅう?」
「うん。いままでのと、さっきも、いっぱいしてくれたやん」
「えぇ?でも、あれは、いまのんは、ちょっと待っとってなのちゅうやで?さっきまでのんは、あれは、私がしたいからしたやつで、北のためにしたやつとちゃうねん」
「そうなん?――あんまりにも、なまえちゃんがかわええ顔して、俺がうれしいことばっかりしてくるもんやから、俺ほんまは、もうとっくに元気やし、めっちゃ癒されてんねんで?」
「え、あ……?」
「たくさん、たくさん、色んなところに、してくれたな」
「き、きた」
「キスだけやなくて、ほら、こうして、俺んこといっぱいなでて、抱きしめてくれたやん?」
「う」
「やさしくやさしく、してくれたな」
「…………」
「ありがとう、なまえちゃん」
な、なんなん……?
こん男、みょうじなまえをころす気か……?
やさしくやさしく、撫でるような声でころし文句ばっかり並べ立てられて、頬にじわじわと熱がたまっていく。私が、自分の欲望のままにしてきたちゅうを、ぎゅうを、あれやこれを、まさかこんな風に受け取られているなんて、思ってもみなかった。ひとつひとつ。これまで自分がしてきたことをあげつられ、体温が急激に上昇する。静かにかがやく北の瞳が、まだ赤くて、熱をもっているように見えて、ただでさえもうじゅうぶんに近いのに、さらに近づいてきた北の顔がなんだかもう、急にはずかしくなってぎゅっと目を瞑った。「なんで急に照れるん」とからかうような北の声。
「なあ、どうしたんなまえちゃん?」
「……うううん、な、なんも……」
「はずかしくなっちゃったん?」
まるでちっさい子どもに話しかけるみたいな様子でゆっくりと尋ねてくる北に、私の羞恥は増すばっかりや。かあっと顔に血がのぼって、目なんかとてもやないけど開けられへん。ただただ首を振って、身じろぎをするけれど、いつの間にか手首をしっかりとつかまれていて、はずかしいはずかしい、という気持ちでいっぱいになった私にできることは、やっぱりこれしかないとひたすらに首を振る。
「なまえちゃん。好き」
「…………」
「なあ。好き」
「…………」
「好きや。な、聞いとる?」
「…………」
「なまえちゃん?なあ?」
ふわふわとはずむ北の声。
こんなにこんなにはずかしいのに、ずっともっと聞いていたい。でも聞いとったらやっぱり、その姿を見たくなるのや。耳の声が私の耳をくすぐって、ぞわぞわとへんな気分にさせられて、何度も何度もそれをされて、たえかねた私がそっと目を開けると、視界いっぱいの北が、うっそりとわらって、まってましたとばかりに、くちびるをくっつけた。ふわふわとしたきたのくちびる。おして、おされて、はずんで、わずかなすき間をうめあって、からだの奥がまたうずいて、はだをつうっと滑る北のゆびに、ぞくっとして小さく跳ねる。
「ん、」
「かわええ……なあ、もっかいしよう?」
「うん……」
「ほら、もっかい」
「あっ」
「ン。するで?」
「ん…………」
何度も何度もかさなるくちびる。
からだのあっちこっちを、服のなかをとおって北のゆびが、いつのまにこんな。はずかしいのに、いつもいっつもされている感覚が、いつもの感覚をよびおこして、からだが勝手に思いだして、ぐずぐずにとけてしまう。いつのまにか、おたがいに舌をからめて、いつのまにか、からだをべたっとひっつけて、いつのまにか、いつのまにか、ふたりで畳にねっころがって。ぼうっとする頭のなかを、きたのべろがかきまわすように、くちの中で暴れだす。それがもう、きもちよくてきもちよくて仕方がない。「ふ、んン」息がくるしいのもきもちええなんて、へんやのに。きたのゆびが、せなかを、おなかを、なでまわす。ひとがちゅうに夢中になっているのをええことに、こんおとこは、ほんまに、つんっとしたところに、いつたどりついたんか、そうっとつつかれて、ひめいが、ふたりのくちのなかで消える。
な…………な??
なにを、なにをする???
「んっ、んん!?」
「んー……ふふ」
「ンン、ん、ん」
「うん」
いったいなにがふふなのか。
なにがうんや。
器用にもくちづけたままわらって、また深くべろをいれて、私の文句のなりそこないごと、ごっそりと食らいつく。そうすると、私はもう、きもちよくてきもちよくて、また、波にさらわれる。水っぽいおとがいやに耳にひびく。くらくらする。あかん、脳みそとけてまう。きもちええ。きもちええすき。すき。こんひとすき。さっきまで、ついさっきまであんなに、しゅんとしとったたくましいおとこが、なんでこんなにいやらしいことできるん?わしづかみにされて、さきっぽをつんつんとされて、どんどんあつくなってきて、すっかり知った感覚がおしよせて、視界には、きたがいっぱいにうつるし、ほほえむし、ふとももをふとももでこすられて、
あかん――あかん私、めっちゃ興奮してる。
これ、いま、これ、あかん、こんまま、一気にしてしまうかんじや。あかん、きょう、あかんのに。きたわかってるん?やんな?あかん、あかんて。あかんのに、きもちい。ふたりで畳にころがって、だきあって、かみつきあって、なめあって、こんなことを、まだおてんとさんも沈みきってへんのに。暮れなずむ空。あかあかと照らされたきたはきれいで、ひとみのあかと、ほっぺたのあかが、夕日のあかでもっと染まって、火のついてしまったようなあかいろをして、私をむさぼるきたにみとれる。私はいま、この世でいちばんすきなおとこにさわられている。こんおとこが、すきや。じいっと私をみつめて、ふにゃっとわらって、それやのにいやらしいことをする、こんひとのことがすき。
なんでもしてあげたい。
私をぜんぶ差しだしたい。
もらってほしい。
あつい。
私もほしい。
くらくらする。
「……なまえちゃんは、すごいなあ」
「ん…………?」
「俺どんどん元気になっていくわ」
乱れた呼吸に口を開け、舌をのぞかせて笑う北から目が離せない。こんなん目に毒やと思うのに。なんでこの状況で、そんな無邪気に笑えるん。それにさっきっから、なまえちゃんって言いすぎや。私、おかしくなってまう。のしかかった大きな身体がのそっと退いて、すぐ隣にころがった。重力にしたがって北の髪の毛が畳に散らばって、きれいなまるみのあるフォルムがくしゃっと歪み、前髪も乱れてきれいな額をさらしてくる。私の手首をまだつかんでいた北の手は、そのまんま自分の身体の方へ寄せてきて、すっきりとむだな肉のついていないほっぺたに、私の手のひらをあてがわせた。しっとりと吸いつくきもちのええ肌にふれる感覚が心地よい。たまらない笑顔と感覚に思考をうばわれて、北の手はさらに動くが、そのまま好きにさせていた。あたまに、頬っぺたに、くちびるに、くびすじに、むねの、鼓動に、おなか、そして、そして、
「ほらここも、元気になった」
かまどの中でどろどろに溶かされるびいどろみたいに、私も北に溶かされていく。どろどろになっていく。きたのえがおにとかされる。あつい、あつい、むねが焼けそうに熱い。ないしょ話のように、ひっそりとささやかれた言葉。きたの無邪気なえがお。ゆびさきのかんしょく。みみをたべられる。くちも。
あたまがとけていく。

「あっ。また尾白更新してる」
ふたりうつ伏せに寝そべって、肩のぴったりとひっつくほどに寄りそっている。私は北に教えてもらったスマートフォンのアプリを使いこなしたくて、さっきっから興味のある言葉で検索したり、稲荷崎自慢の尾白アランをフォローしているフォロワーをチェックしてにやにやしたりと、自分で操作しながらいろいろ見ていたのだが、ふとホームに戻ってみると、新たに投稿された写真が一番上に表示されている。隣でのぞきこんでうんうんといっしょに見てくれていた北もまた少し身を乗り出してきて、ますます私にぶつかった。
「アラン、なんて?」
「んーと……あ、お寿司や!お寿司屋さんにおるであいつら!」
しかも、回らん寿司や!立派な木目のうつくしい一枚板(っぽい)カウンターの様子が、皿に乗った立派なお寿司の背景に映っている。
「くそー、あいつらええもん食うとるやん……」
「なんや、みょうじ寿司食いたいん?」
「食いたいっていうか、見たら食いたくなるやんっていうアレや」
「ふうん?」
「さっすがプロはちゃうなー……んむ」
「ん。フフ」
「……いま。そんな。流れ。やったかな?」
「見たら食いたくなるっていう主張やろ?」
「無理して理解せんでええねん……」
「おかわりさしてな」
「ンンン」
ときおりの妨害を受けつつ。
友人の生活や新たな一面を、写真や本人のコメントで知ることができるというのは単純におもしろい。その投稿に、何百何千のハートがついて、好意的なメッセージまでもらえるというのだからなおさらや。せやろせやろ、私の親友ほんますごいやろ、おもろくてかっちょええ奴やろ!という気分になる。しかも尾白は写真をしゃれおつに撮るテクニックかなんかを持ってるんか、撮る写真撮る写真、なんかそれっぽい。プロて、プロの写真撮るひとですかと首をかしげるが、こいつひとのほっぺたをゴムまりとでも思ってるんか疑惑のある北によると、いまは素人も写真撮るんうまいひとはうまいんやとか。それを聞いて、人さし指でつっつかれながらよみがえるのは、自分の撮影した写真の数々やった。
「みょうじはしょっちゅうブレとるもんな」
「世界の七不思議やわ」
「はは」
「なあ、ツッコんでくれへん?」
「いまは無理やなあ。幸せすぎる」
「…………」
「……ん。ああ、それとも、『あと三日は無理やろ』て言うた方がよかった?」
「ん?…………、…………。……下ネタやん!」
「ふふ」
「おっさんやん!」
「こら」
「うわあ!」
「誰がおっさんや」
「きたあ〜!」
ごろんごろんと転がって、のしかかられて、くすぐられて無理くり笑わされて、それをたのしそうに見下ろしてくる北がかわいくて、ついつい、降り注ぐくちびるを受けてしまう。くちびるのすきまから、声がもれる。ふふ、と笑う北につられて私も笑った。たのしい。たのしいなあ北。さっきまであんなに、しゅんとしとったんも、なまめかしくしてたんも、うそみたいに笑う。ずっこいなあ北。ほんまにずるい。私を、どんだけ、すきにさせれば気がすむんか。乗っかかってきた勢いでそのまんまぎゅうと抱きついてくる北の背に腕を回す。はあ、と息がもれる。
「……なんや、きょうは、色々あったなあ……」
「おつかれさんやな」
「北こそ。なあ、あんな」
「うん?」
「来てくれて、ありがとう。私な、北が来てくれたとき、ほんまにほんまに嬉しかってん」
「……そうか」
「めっちゃときめいた」
「……そうなん」
「うわ!好き!告白せな!て思ったらすでに私の恋人やった」
「ふふ」
うわあかわいい……。
ひとがこんなにも胸をときめかせていることなんてつゆ知らず、目の前のおとこはよくもまあうれしそうに、はにかんどるやん。どうしてくれんねん。好き。ぎゅうっと、さんざんすがりついたからだにまたひっついた。ひっつきながら、正面からこん男のあいてをしとったら、心臓がいくつあっても足りひんなとおもったので、なぜか放りっぱなしにされてあったスマートフォンに手を伸ばし、さっきほど開いたまんまにしていたページの続きを見ようとディスプレイをつける。尾白の最新の投稿の上に、またなにか挿し込まれていることに気づいて、上へスクロールすると、今度はどうやら侑が新たに投稿したらしい。昼間おぼえた侑のアイコンの下に写真が貼られている。大好きなトロの写真や、尾白とのツーショット、昼間の写真もまた載っている。人気者も大変やなあと、自分の顔にでかでかとスタンプの押されている写真を眺める。そしてまた一枚写真をめくった。思わず口がぱかっと開いた。
「え」勝手にこぼれた声に北が反応して、ひとの髪に顔をつっこんどったのをやめて、どうしたんと顔をよせてくる。すてき。
「そんな場合やない……」
「どうした?」
「こ、これ見て北。これ」
「うん?」と不思議そうに首をかしげるのん気な北に、私の見ていたそれが見えるようにスマートフォンの角度を変える。これで北にもしっかりとわかるやろう。北の大きな傘におさまっている二人の人間のすがたが。ふたつのそん顔にはスタンプが、それぞれ微妙にずれて押されていて、いったい、隠しているのか、隠してへんのか。そのふたりの男女が、ひとつの傘の下、手をつないで歩いている。どうしてそんなにうれしそうなんか、とてもとてもしあわせそうに笑っていて、顔をそばへ寄せて、ないしょ話でもしているみたいに見える。街中でなーにをいちゃついてんねんと思った。
「俺らや」
「ウワアアア……」
「よう撮れとる。侑もすごいな」
な、なにをのん気な……!
「これって写真保存できんのやっけ?」などと言い、笑みさえ浮かべて自分のスマートフォンをいじり出すしまつである。あの泣く子もしゃきっとする北主将はどこ行ったんや。
「この本体には保存できんのか……」
「なあ北、侑に電話で、びしっと言うたってや!」
「ああ、せやな。直接データもらえばええか」
「文句を!言うんや!」
「なにを怒ってるんや、なまえちゃん?」
「きたあ!」
思わずわめくと、よしよし、と言って頭をなでられる。そういうことちゃうねん!と思ったが、ここで北に怒っても、もしかしたらこの手ぇが離れてしまうかもしれんと考えてがまんをする。その代わりに、目の前の胸板に顔をこすりつけた。
「かわええ、かわええ」
「…………」
かわええはええけど、どうすんねんこれ。
北はなんかお気楽に楽しそうな顔しとるけど、これ、こういう、これって、私らのこと、全世界に発信されとるってことやないん……!?ええんこれ!?いくらこれ、顔ほとんどわからへんて言うても!?私らは自分のことやって知ってるわけやし!?ていうか、これ、私らのこと知っとるひとやったら、これ顔、わかるんとちゃう……!?あわてて、いいね欄の下にあるコメントの全文を読むべく『続きを読む』とタップすると、侑にしては珍しいらしい文章レベルのテキストが目に入る。ざっと急ぎ目を通すと、そこにはとんでもないことが書かれていた。

結婚秒読みの先輩らに会う。
めーっちゃ幸せそうやってええなあ。
俺は八年も片思いとかしんどすぎやし嫌やけど。
あんまりこん人らの邪魔せんといてほしいわ。

そのコメントの下には、いくつも並んだハッシュタグ。
『#稲荷崎高校』
『#男子バレーボール部OB』
『#高校バレー』
『#思いでなんかいらん』
悪意しかないやろこれ。
「…………」
ハッシュタグの下には、灰色でコメントの件数が表記されている。
「しばく……絶対しばく次会うたら……」
「えらい物騒やなあ」
「のほほんとしとる場合やないねん……」
件数をタップしてさらに現れる、十分と経たないうちからどんどん追加されていくコメントたち。ウワア人気者め……。ほとんどが侑のコメントや写真の中の侑や尾白に対してのリアクションであるのがまだせめてもの救いか。ただ、私は見つけてしまう。女性ファンらしきコメントたちにたびたび挟まって投げられているコメントの、アカウント名。ローマ字読みがほとんどのそれは、すぐにどれが誰のものかがわかった。あかん!と再びかぶりを振った。
「かわええ……」
「しんぱいして!」
「どうしたん?」
「見てコレ!このコメント!」
「ケー・ダブリュー・エス・ケー……。これなんや?どういう意味?」
「今ごろ私らは話のネタにされとるんや……!」
「うん??――ああ。コメントしとるん角名やん」
「こうしてひとの恋路が拡散されていく……おっそろしい後輩どもや!」
「ふうん?」とにぶちんの北はまたもや首をかしげ、まあええかと思い直したんか「かわええなあ」と再び私のあたまを撫ではじめた。あんたもちょっとは気にせえと思ったが、ここで北にぷんぷんしても、もしかしたらこの手ぇが離れてしまうかもしれんと再び考えてがまんをした。その代わりにすることも、さっきとまったくおんなじや。すぐに「かわええ、かわええ」と繰り返す。まったくマイペースなおとこである。おまえがかわええわ!とうっかり言い返したくなってしまうやろ。北のにおいを胸いっぱいに吸い込みながら、そんなことを思った。
「拡散か。……なかなかええ言葉やな」
「……うん???」
「ん?」
「……いま、なんか言うた?」
「うん。便利な世の中やなあって」
「せやなあ……?」
「ほうらなまえちゃん。動物の動画を載せとる人おるで」
「わ!キツネやあ!」
「昼寝しとるな」
「かあわええ〜……なあかわええなあ!」
「……うん。ほんま、かわええなあ」


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