コーヒースタンドを出てきっかり一時間後。
その男は唐突に、しかし颯爽と現れた。
「みょうじ」
人波にも喧騒にも負けない静かな声が、何に遮られることもなく、いつだってまっすぐに届く。
「きたあ!」
気付いたらもう、わき目も振らず駆け出していた。
勢いを殺すことも思いつかぬままに飛びついたので、さすがに北はその場でたたらを踏んだが、倒れることもなくしっかりと抱きしめ返してくれたため、私のこの胸の高まりはとどまることを知らなかった。胸元に顔を埋め、ぎゅうっと私を囲う腕によって、より香ってくる、大好きな北の匂い。心地よい拘束にうっとりと、思わず寝落ちてしまいそうになるくらいにあったかくてやさしくてええにおいできもちよくて、私がもしも猫だったならゴロゴロと喉を鳴らしまくっているだろうし、耳も尻尾も気分よく揺らしていたことだろう。けれど残念ながら私は猫ではないので、私の行動に驚いたらしい北は目を丸くしてこちらを覗き込んできた。おかおがちかい。――今日はじめて視界に入れた北はとてつもなく素敵できらきらと輝いていて、私の目はいっそうくらんだ。
「どうしたん。こんな、飛びついてきて」
「やって……待っててんもん……」
「待っててくれたん」
「うん。寂しかった……」
「寂しかったん」
「会いたかった」
「はは」なんでか北が笑った。なんで笑うん、と思ったが、瞳をとろとろにさせて、まなじりを下げる北の笑顔が私の心臓をつらぬいて、とてもじゃないが言及する声なんて出ない。もう、だれ?北のこと、鉄面皮男なんて言うたん。なんて思う。なんでか知らんけど北が笑っているんやったら、もうそれでええかなと思いながら、私はいちばんお気に入りの場所である腕の中でくつろいだ。手のひらが私の頭をまあるく撫でる。これ好き。もうずーっとこうしとってほしいぐらいや。あったかい。とろける。北のにおいする。好き。むっちゃ好き大好き。
「コラみょうじ!ちゃんと点数数えとけや!」
なにやら外野からなどと尾白アランらしき声が聞こえるような気がするも、私の目玉はどちらも目の前の北にしっかり固定されてネジ一本ゆるみそうにないのだ。こんなにしっかりと、ずーっと北のことを見つめていられるなんて、大人になってよかったと心底思う。それでもって北がさらに顔を近づけてきて、何を思うより先に目を瞑る。暗くなった視界の中、やわらかい感触が触れるのを待っていると、それは唇ではなく額にやってきて目を開く。困ったような顔をして北が笑う。ほっぺた赤なった。かわいい。よしよしと撫でる手のひらが頬に降りてくるのでなおのことそこへ顔を寄せた。
「なまえちゃん!今俺のナックルサーブが火ィ噴いてんけど!?おーい!?」
宮侑らしき文句も聞こえるような気もするが、今はもうこのひとから目が離れない。疲れも痛みも飛んでいって、足元がふわふわする。さっきまで抱えていた漠然とした心配も不安も恐怖も溶けて、心がとろけてうっとりとポカポカして、でれでれと擦りつく私をそのままにさせておいてくれる北がやさしい。はあ幸せ。
「もう寂しなくなった?」
「うん。好き」
「……ふふ」
「なんで笑うん」
「すぐ好きって言う」
「しゃあないやんか」
「なにがしゃあないん」
「うっかり、こぼれてしまうねん」
「こぼれてしまうん?」
「うん。困ったなあ」
「困ることないやろ」
「北は困らへんの?」
「そんなん、困らんよ」
「そっかあ。じゃあ私も困らん」
「俺の恋人はかわええなあ」
「私の恋人もかわええよ」
「かわええってなんなん」
「あっ。今度はかっこよくなった」
「お前なあ……」呆れたように息を吐くのに、やわらかい顔をして私を見下ろしてくる。北がそんなんやから、私は止められへんねんやんかもう。北がそんなやから、私はすぐに、好きって思ってしまうねんで。でもそうか、私に好かれて、北は、もう困らへんのか。ふふっと笑みもこぼれて、北の腕にしがみつく。背後で、軽く小さなボールが軽快に跳ねる音と、体育会系の男二人のむさくるしい掛け声が聞こえるような気がするが、やっぱり私は、この声しかうまく聞き取れへんのであった。
「ヨソでやってほしいわ〜」
「なまえちゃんのアホぉ〜」
「くぉら!誰がアホや!侑!」
「聞こえとるやん!?」

新たに北の加わった私達四人がいるのは、梅田駅最寄りの複合アミューズメント施設。その中でも、人通りの最も少ないであろう八階の卓球フロアの小さなお部屋の中である。ボウリングやカラオケ、ゲームエリアも覗いてみたものの、授業終わりの若者達がわんさかたむろしているのを見て、ビリヤードとダーツという大人のスポーツに興じたのち、卓球台へ流れ着いたのだ。尾白と侑が全力で食後のピンポンに勤しんでいる姿を、尾白に言われたとおり侑のスマートフォンを使って撮影していた私は、一生懸命にシャッターを切ったものの、あのでっかい男どもの動きが機敏すぎて、多分めっちゃぶれている。まあそこはご愛嬌というやつである。そうやって撮影係兼審判業にいそしんでいたところに、この世でもっともかっこええひとが来たので、プレーは進むが勝負は完全に停止して一生終わる様子はなかった。そこはまあ各々でカウンティングをがんばってほしいと思うみょうじなまえだった。ぽこんと頭にピンポン玉がぶつかった。思ってること読まれてしまったんやろうか。うっわコワ…………。
「――事の次第はわかった」
この面々の中でもっとも知的に違いない男が、かくかくしかじかの経緯をすっかり頭に入れてしまってから「なるほどな」と頷いた。きりっとした表情がこの世でいちばん様になっている。かっこええ。私の恋人はなんでこんなにかっこええんやろうか。
「災難やったな。驚いたやろ」
「驚きすぎて、まるで役立たずやったわ……」
「俺はむしろ、アランみたいに記者追っかけるとか、無茶しとらんで安心した」
頭を撫でながらそんな風に言ってくれる北。
やさしすぎるやろ。
ちゅうされたいんかと思ってしまう。
「私も行ったらよかったって思ったけど……尾白で追いつかれへんなら行ったところで私とか話にならんかったな」
「双子と路成の次に足速いからなあ」
「そもそも私はあいつらと違って、脳みそ分の重量が加わってるから、不利やしなあ……あいたっ」 ピンポン玉の直撃したこめかみをさすりながら、その球の出どころを見る。おおコワ。入口のところで立ちっぱなしだった私と北。故意か偶然かはともかくとして、流れ球が多いので移動することにする。北の手を握って、卓球台を挟んだ逆側へ歩き出す。北は大人しくついてきてくれた。興味深そうに、侑と尾白が妙な掛け声で打ち合っているのを眺めている。
「北もタッキュー!!やりたい?」
「うん?ああ、せやなあ。時間まだあるん?」
「うん。あと三十分ぐらいかな」
「やったら、あとで混ぜてもらおうかな」
「わー!」色よい返答に思わず声が出る。卓球する北!見たい見たいぜったいに!そんなん絶対絶対絶っっっ対に、かっこええに決まってるやん!
「そんなら侑ぶっ潰してや!」
「さっきっから、口が悪いで」
「けどなあ私、ひどい目に逢うてん!」
「ひどい目?なにされたん」
「あんな、二ゲーム前にな、侑と勝負しとってんけどな。ラリー続くと、『あっ北さん!』とか言うてきてな、ことごとく私の集中を切らしてきてん!」
「ほう。そらひどい」
「十回!十回は、やられた!」
「自分はサーブん時音出すな言うて、吹部とひと悶着あったくせに!」それに、声出ししてしまった観客に対してもひどい剣幕やった!両手をパーにして突き出し、おのれの主張を述べると、優秀な裁判官北信介はふむふむと頷いて、尾白と向かい合っている侑へと顔を向ける。ぐりんっと勢いよく視線を交えることとなった侑は、サーブトスの体勢のまんま固まった。
「侑、ほんまなんか?」
「そ、それは〜……」
「十回や!」
「わかったて」
「どうなんや」
「ス、スンマセン!なまえちゃんの様子が面白おかしくて、ついやってまいました!」
「ほらあ!認めた!」
「『えっ!?』言うて、めっちゃ嬉しそうな顔してキョロキョロするんです!」
「あ、侑、そんな詳細に語らんでええねん……」
「何べんやっても、引っかかるんです!そんなん、おもろいやないですか!」
「そん言い方、私がアホみたいやん……!」
「間違いなく、アホやろ」
「なんやと!」侑が蛇に睨まれたカエルのように動かんせいで、尾白が暇を持て余して口出ししてくるのでべえっと舌を出す。次の瞬間、びしっと額に衝撃が走って思わずのけぞった。て、敵襲、敵襲や!デコピンや!思い至ったらすぐにキョロキョロを周囲を見回す。すると最も身近に立つ北の右手が指を弾いたあとの構えをとっていた。私のデコを弾いたのは北らしい。私は驚きで開いた口が塞がらない。さっきまであんなにあまあまの顔でやさしくしてくれとった恋人が、なにゆえ私の額を狙うのか。
「き、北!?なん、今なにした!?」
「灸をすえた」
「キュウ?九?」
「人前で、舌を出したらあかん」
「した……」
「口を閉じ」
「ふひゃ」自ら閉じる前に北の手で口を覆われて間抜けな声が出てしまった。そんなことは意にも介さない様子で私の口を塞いだまま尾白に向き直ったかと思うと、「すまんなアラン。俺の恋人が」と軽く謝罪を入れた。
「オ、オウ……ええよ、気にしてへん……」
「侑もすまんな、俺の恋人が」
「イ、 イイエ…………」
「みょうじ、二人とも許してくれるって言うとるで」
「ンン…………」
「よかったなあ」
「………………」
口元を隠されたまま、さらに近づいた北の笑った顔がかわいくて、私は身悶えした。
「よかったなあ」
「ンン!」
「ふふ」
「……さ〜限界ラリーの続きや侑〜」
「……オ〜やったるで〜……」
ほどなくしてゲームが再開したらしく、軽すぎるラリー音が警戒に鳴り響く、通常卓球台のあるべき姿に戻った。北の手はやがて離れるまでの間、私の唇を突っついたり撫でたりさわさわしていたような気もするが、二人のプレーを見つめる横顔はとても静かで、高校の頃、コートの中で遊び回る彼らを見守る姿がふっとよみがえってきたから、きっと私の気のせいだったのだろう。時間の経過は北をより大人びた風貌にしたけれど、こういうところは変わらない。記憶の中の、とてもとても好きだった横顔を、大人になった私は、何のはばかりもなくそこだけを見つめた。
「……みょうじ?」
「うん?」
「照れるわ」
こっちを向かないまんま、北が口端を上げる。頬っぺたがちょっと赤くてかわええ。照れてるかわええ。ふふ、と笑っていると、今度はわざとらしく咳ばらいをする。
「さっきっからこっちばっかり見とるけど。ちゃんと写真撮ってるんか?」
「こん二人はもういっぱい撮ったよ。見てコレ」
私は手にしているここ一時間ほどの任務の成果を見せてやることにした。まあこれ侑のスマートフォンやねんけど。興味のあるらしい北がしっかりとこっちを向いて覗き込んでくる。少し屈んで影のかかる顔にやっぱりドキドキしてしまう。
「めっちゃようけある……けど、ブレとらん?」
「二人とも打ち合い激しいねん」
「たしかに、速いな。残像が行き来しとる」
「私初っ端めっちゃカモられてん」
「これか、この写真の……ふっ」
「あ!北わろたあ!」
「やってお前こん顔…………はは!」
「爆笑やん!」
「すまんすまん……くく、けどみょうじ、こんポーズはあかんわ……ふふっ……」
「ポーズをとったんとちゃうねん!一連の動きの中のこの一瞬を、たまたま切り撮られただけで!」
「ばあちゃんに見せてやろ。送ってもらうわ」
「あっかん!消す!」
「あかん」
今度はこちらで争いが始まってしまった。さっとひったくられた侑のスマートフォンを取り返し写真を消したい私、対するは写真が欲しいので消されたくない北信介。背伸びをする私の猛攻を耐えるために北まで背伸びをして、そうすると私は手が届かへんのに。ずるい。試合中の侑に「写真何枚かもらうで」と声を掛け(自分の身が一番かわいい薄情な侑は元気よく返事をした)、私の手の届かん上空にてスマートフォンを勝手ながらに操作した北は、少し経つと「はい、どうぞ」と手のひらの上にそれを返す。満足そうに笑う北のスマートフォンに、問題の写真が送られてしまったのは間違いないだろう。ええ土産ができたわ、と笑う北の頬っぺたをつねった。さらに嬉しそうな顔をして笑われてしまう。道理がおかしい。
「そういえば、北」
「うん?」
「これさあ、なんでこんなに写真撮ってるん?」
私は手のひらのスマートフォンを起動する。侑にほいっと手渡されたスマートフォン。このデータフォルダの中には、北と電話を切ったあとから逐一撮り始めた写真がたくさん収められている。
「北に言われて写真撮るねんて言うとったけど、なんで?」
「なんや。俺がアランとしゃべっとったん、聞こえてへんかったん?」
北と尾白の会話?まったく耳に覚えがない。あの時私は、北に嫌われたかもしれへんというショックと絶望に打ちひしがれとったから、まったくそれどころやなかった。
「なんも聞いてへんかった……」
「そうか」と気にした風でもない北の指先が私の髪をやわらかく梳いた。
「侑から、週刊誌の記者やろうって聞いたわ」
「あーうん、そんなこと言うてた」
「今はネット記事もあるやろうけど、記事組んで文章組むんも時間いるしな。本にするなら尚更や。色々と踏まなあかん手順があるはずやろ?」
「……それはそうかも」
「あいつらどっちもSNSやっとるから先手打ってな、記事が世に出る前に自分で載せるよう言うてん」
「ほう…………?」
「俺らは今日、昔馴染みで遊んでんねんってな」
「ほう!」ポケットから自分のスマートフォンを取り出した北がたかたかと操作して見せてくれた画面には、おしゃれな人が軒並みやっているという噂のカメラマークアイコンのアプリケーション。『映える』写真を撮るためにみなが必死になり時には骨肉の争いになるという噂の「どっから聞いたんそん噂」笑われてしまった。
「北、これインストールしてるってことは……」
「うん?」
「き、北もやってるん!?」そうやとしたら驚愕の事実や。北信介検定段入りのみょうじなまえが、このことを知らなかったなんて、まさしく驚天動地。青天の霹靂。見たい。北が自分で写真を撮ってコメント書いて投稿してるんやったら、なにがなんでも見たい。ぜひとも。よしなに。めっちゃくちゃ食いついてきた私からの質問に、けれど北はあっさりと答えた。
「俺はやっとらんよ。元々これ買うた時に入っとって、アカウントだけは作ったけどな」
「やってへんの?」
「みんなの近況をたまに見るくらいや」
「そっかあ……」一瞬期待しただけに残念な気分だが、まあそれもそうや、北はこういうもんに自ら手を伸ばすひとではないよな。みんなの近況を見るという目的も非常に北らしい。……まあそれに、北の投稿を私が見れるんはめっちゃくちゃ胸躍るけど、私以外のひとにも北の投稿が見られてしまうんはちょっとアレや。単に北が何かの写真を撮って載せるだけならまだしも、こんな、「ほら例えば」と見せられた、このおにぎり屋さんの店主みたいに、顔を、笑顔なんか載せられてしまった日には。全世界の人が北に恋をしてしまうやん?そうでなくても宇宙一の男前やねんから。誰もかれもが北を見つけてしまう。私はスマートフォンをこちらに向けるその腕にしがみついた。
「うん?どうしたん」
「楽しいことを考えようとしてる……」
「それ、俺にひっついてどうにかなるん?」
「万人力や……」
「そんなら、ええけど」
え、ええんかい〜!
なんなん私の恋人。
ほんまもう。
好き。
「そんで、これ二人もやってるん?」
「うん。ほら、コレ……」
「あ!尾白アランて書いてる!」
「うん。アランのアカウントや。そんで、コレ最新で、三十分前の投稿」
「あっ!私と侑卓球してる!」
今の尾白VS侑が開始する前のプレーの様子とともに、何枚かの写真が投稿されている。北の人さし指がつるつるの画面をすすっと流れて写真が切り替わっていく。外套の写真は私の背面から撮ったようなアングルなので、私の顔は見えていない。侑はすでに著名人であるから、顔は隠されておらず、スマートフォンの小さな画面には元先輩マネを全力でからかう悪ガキのような顔をした侑がラケットを振りかぶっていた。これや。こんな顔を、十回はされたんや私は。
「そん前には、侑がアランとみょうじの試合載っけとる」
「ほんまや。私の顔スタンプ押されてる」
「リボンとヒゲも付いとるな」
「リボンはええけどヒゲって……」
「これの前は、別の場所やな。喫茶店か?」
「尾白行きつけのコーヒースタンドやって。めっちゃ店カッコよかったわ。北に電話したんもココ」
「へえ……随分と洒落た店やなあ」
「キメッキメの顔でエスプレッソ飲んどって……ああコレ!この侑上げとるやつ!」
「ほんまや。キメッキメやな」
「キメッキメやろ!」
どっかから「キメッキメ連呼すんのやめてくれえ!!!」と聞こえてきたが、残念ながら私の首は、今そっちには向かれへんつくりになってんねん。
「すごいな、もうコメントされとる」
「炎上ってやつしてへん?女おるん」
「してへんよ。本文にも先輩やて書いとるし、二人で会うてへんことも写真見てわかるからな。うまいこといったら、撮られた写真も使いもんにならんと思ってくれるかもしれんな」
「おお……!」
「まあお前の方は、身元割られへんかったら、さすがに顔出されんやろうけど……」
そん時は目だけ隠されるあの感じになるんやろうかなどと考える。考えがわき道にそれ始めたのを感知したのか、北が腕を寄せて私をより近くへ招いた。
「それでも嫌やん。みょうじは俺の恋人やろ?」
「は、はい…………」
「うん?」
「北の恋人です……」
「うん」北が満足げにうなずいた。
もう私は胸がいっぱいや。
これやで。
この、圧倒的な安心感。
顔がもうにやけて頬からどろどろにとけそうになるのを両手で押さえて、スマートフォンをいじる北を眺める。そんで北が気づいてはにかんで。こんな状況にもかかわらず幸せな気持ちになれる私はすごいと自分で思うし、私を幸せにしてくれる北は世界最高峰の男やと断言できる。
「いつまで見てんねん」
「私北に一生ついてこうと思った」
まじめな顔をして言うてみた。
「ふはは!」声を上げて笑われてしまった。
かわええ。
エエなあ、と北が無邪気に笑う。
「ついて来てや、なまえちゃん」
やさしげに細まった瞳がきらきらしている。
弧を描くくちびるから目が離れない。
そっと絡まる北の指がいとおしい。
ないしょ話をするように、ささやかれた言葉が私の耳をこしょこしょとくすぐって、心をぎゅうっと鷲掴みにして、こんなに明るく笑って、私について来てなんて、なまえちゃんなんて、ああ、ああ好き。好き。好き。惚れる。みょうじなまえは今日も明日も明後日も北のことがこんなに好きで、毎日好きで、どんどん好きになっていくなと思った。
「……いや、ちょっと違うな」
「えっ?」
「一緒に行こうな、なまえちゃん」
ああもう。
「お前ら!エエ加減に!替わらんかい!!!」

夕焼け色のひとつも見えない空の下を北と歩く。雨雲よりも濃いグレーの傘は二人が入るとちょっと狭いようにも感じるが、私は自分の腕にビニール傘を引っ掛けたまま、人の多い中心街をとっとこ歩くのだった。傘同士のぶつからないように気を付けながらつながった手を離さないよう、人の流れに時折逆らいつつ、歩き続けて、駅回りからちょっと外れたところにあるコインパーキングまでたどり着くと、お互いふうと吐いた息が重なった。普段こんな都会まで出て来おへんから疲れたなあ。
「なんか飲み物でも買うか」
入り口近くにある自販機を指さして北が言う。
ラインナップにぐるりと目を通している間にさっと小銭を投入した北に促されてスポーツ飲料の下にあるボタンを押した。
「北は買わへんの?」
「そんなに喉乾いてへんしな……飲みたくなったら、ひと口もらってええ?」
「……そりゃまあ。お金払ったん北やし……」
低く小さくごにょつく私に北が笑う。
「照れとる」
「そういう指摘いらんねんほんま」
「俺も照れとるで」
「照れてるひとの顔ちゃいますけど?」
「照れとる照れとる。今さら手ぇ繋いだり一緒に傘使たりジュース買うてやったり、回し飲みするていうだけで照れてまうなまえちゃんが可愛くって照れてまうわ」
「せやから!そういう指摘!いらんねん!」
「わかったわかった」
からからと笑う北の背中をばしっと叩いて「痛いなあ」とさらに笑うけしからん男が手早く料金の精算を終えてから連れだって車に向かう。助手席の扉を開けて、私が車内に入るまで傘を傾けてくれる北は優しい。失礼と親切を同時に行って、私を混乱させようと企んでいるに違いなかった。
「閉めるで」
「ありがとう!!!」
「やけくそやな」とやっぱり笑ってドアが閉まる。間もなく運転席のドアが開いて、ぬっと北が入ってくる。やっぱり北が入ると急に狭く感じて、熱をすぐ近くに感じて、触れてもいない右側が熱かった。
「シートベルトした?」
「うん。もうプロやで」
「ふふ」
丁寧に動き出した車に運ばれて、私達はお婆ちゃんのいるお家に帰る。道中私は侑に会うた経緯やらお茶漬けのお店のことやら尾白おすすめのコーヒースタンドがめっちゃカッコよくてはしゃいでしまったことやら、なんでもかんでも話した。北が来るまでにやっていたビリヤードはさっぱりわけがわからんかった。侑がひとりボロ勝ちしとった。でも卓球では力負けしとったな。私にずるい手を使った報いを受けとった。北も私の雪辱を晴らしてくれた。でもやっぱり尾白は強いな。北善戦しとったな。ラケットを機敏に動かす北は想像の五万倍かっこよかった。横から観ててもかっこええのに、卓球台を挟んで向かい合ったときなんか、ちょくちょく北に見とれとって、球を振りのがすこともあった。それやのに、いざゲームが終わってみたら、なんでか私が勝っとって、負けてもうたわ、なんて北が言うて、これが世に言う接待試合か!?と疑ってみたり。でも北があんまりにも嬉しそうに笑うもんやから、私はぐうっと唸るしかない。私と北お二人を乗せたこの車はゆっくり、どんどん進んで、見慣れた自然豊かな風景の、そこにじんわりと馴染む人里の景色を楽しみながら、笑い合ったり、言い合ったりしながら、仲良しこよしで帰路についたのだった。
「ただいまあ!」
「ただいま」
滑りのよい玄関の引戸を開けて、声を上げると、すぐにぱたぱたとかわいい音を立ててお婆ちゃんが姿を現した。
「お帰りなまえちゃん、信ちゃん」
ほっとするこの笑顔。
私は胸がほっとして、お婆ちゃんに抱き着いた。
「どうしたん?」
「甘えてんねん」
「甘えてるん」と繰り返してお婆ちゃんがさらに笑った。北もお婆ちゃんもよく笑う。よく似た家族やなあとここに来てから思う。
隣を見やると、北が脱いだ靴をきちんと揃えている。こちらを見て「はよ上がり」と言うので、しぶしぶ身を離した。
「ふふ」
「どうしたん、お婆ちゃん」
「なんや慌てて出て行ったと思ったら、信ちゃんなまえちゃんとこ行っとったんやなあ」
「慌てて…………」
「そんでなまえちゃん連れて帰ってきて、信ちゃんめっちゃ嬉しそうやなあ」
「…………」
「ばあちゃん」
「なあに、信ちゃん」
「そういうことは、口に出さんでええねん」
「ふふ」
「ふふとちゃう」
なんなんこのふわふわな祖母と孫は。
二人の会話やというのに、私はすっかり照れて顔を覆い隠す。三秒も経たないうちに北に腕をひっ掴まれて意味がなくなって、笑顔で手を振るお婆ちゃんをそのままに、北は廊下をまっすぐに歩き出す。「北?」洗面所で二人とも手を洗ってうがいをしてからすぐにそこを離れ、台所も居間も通り過ぎた先は私の作業場があるが、その手前にある階段に足をかけて、とんとんとのぼっていく。そっと掴まれた腕が熱い。北の足取りは軽く、別段感情の起伏のうかがえないまま、ごくごく自然に一段一段上がって、階段を終えると二階にあるのは数部屋で、その中でも北が向かう先はと言えばやっぱり北のお部屋だった。すっと扉を開いて促されて従うと、中に入って手が離される。お布団のまだ敷かれていない畳のお部屋。北は座卓のところにある座布団をふたつ、隣り合わせにひっつけてお部屋の真ん中に置いてから「どうぞ」と手のひらでそこを示す。なんや……?と思いながら、言われたままにそこへ腰を下ろす。間もなく北も隣へ座った。
「座布団近いな?」
「遠いよ」
「ちょっとそれは無理あるんとちゃう」
「遠い」
「北」
「遠い」
「…………」
譲らんな……と黙り込むと、隣で背筋を伸ばして座っていた北の頭が傾いて、ゆっくりとこちらに下がってきて、やがて私の肩に当たって止まった。寄りかかっている、という感じなのだろうか。こういう、いきなり、なん、こういうことするやろ!!自分より座高の低い人間に寄りかかるには、正座という座り方は窮屈で不向きなはずだが、過去最高に猫背になった北は静かに瞳を閉じて、器用にこの体制をキープしていた。
「背中痛ない?」
「痛ない」
「腰痛めてしまいそうや」
「痛ない」
「北、どうしたん?」
「……甘えてんねん」
「……甘えてるん」今度は私が繰り返す。
ぐしっと頭をこすりつけて、ぐしぐしっと二度三度おんなじ風にして、なんだかあまえたな猫ちゃんみたいな仕草に心ときめくものの、なんだかやっぱりちょっといつもより、ちょっと……これは…………。
「……北、すねてる?」
「……拗ねてへんわ」
拗ねとった。
と思ったが、次の瞬間にまた北から「ちゃうからな」と念を押される。
「拗ねとるんとちゃうねん」
「そうなん」
「拗ねとるんやないけど」
「うん。疲れた?仕事したあとに、急いで来させてごめんな。卓球もしたし」
「疲れてるんでもないよ。雨やし、元々作業切り上げて家におったところやし」
「そうなん?」
「うん。卓球は久々で楽しかったし」
「それは、よかった」
「…………楽しかった、けど」
ぽつぽつと、小さな小さなつぶやきをどんどんこぼしていくような、珍しい話し方の北に耳を傾ける。けど、の続きを待って十秒ほど。語られない言葉に、首だけ動かして北の顔を覗くと、気だるそうにも見えるくらい重そうに瞼を半分ほど押し上げている。眉間に少ししわが寄っている。そして私を見ない。
「…………怒ってる?」
「怒ってへん」
返事はすぐにあった。
これを嘘やと思わへんのは、私の耳がご都合主義なんやろうか。けれど芯のある一言だった。
「……怒ってへん。怒ってはおらんよ。自分の口くらい自分で拭かせえとは思うけど。お前ら昔っからそんなやったんは知ってるし。せめて人目を気にせえとは思うけど。偶然会ったんも一緒にめし食うんも、なんにも悪いことやあらへん。そもそも二人っきりで、逢引きしたわけでもないんやし」
最悪の瞬間をうっかり写真に撮られてこんアホ、とは思っとるけど。いちいち心に刺さる言葉やな、と思いながらも、北ならではの正論パンチにしては、やっぱり切れ味の鈍い。覇気のないパンチに伏せがちな瞳。部屋に入ってから、すっかり元気のなくなってしまった北に、私は言葉を挟むことができず、ただ肩にかかった重みを享受して、髪をそっと撫ぜた。
静かな静かな部屋で、
たっぷり沈黙すること数分間。
やがて。
小さく、
本当に小さく、
ささやくような声で、
やっぱり私を見ないまんま口を開く。
「………………傷ついた」
ほんまにほんまに小さなその声が、たった一言の本音をこぼす。
その一言に、たまらなくなって、力いっぱいに抱き寄せて、北の頭を抱え込む。隣り合わせから向かい合わせになって、まるくてさらさらしてすべすべの頭をいっぱい撫でて、髪の毛にくちびるを押しつけた。北が、やっとの思いで音にできた言葉を聞いて私は、ぎゅーっと抱き込んで、撫でて、ちゅうっとすることしかできない。それでも北はこんな私の好きにさせてくれて、それがさらに申し訳なかった。北を傷つけるなんて、一番したくなかった。
「ごめんなさい」
「……ちゃうねん。謝ってほしいんやなくて……」
「うん……」
「……なんやろうな。後輩と、距離置かせたいわけでもないねん」
「うん……」
「……俺は」
「…………」
「俺は、ただ……」言葉を重ねながら、考えているような北の指が、私の腰にそっと触れる。この指先も、やわらかい髪の毛も、閉じた瞳も、うつくしく繊細な心も、私の服を濡らすそれも、すべてがすべていとおしい。私の全部でこんひとをつつみ隠してしまいたかった。北よりも小さなこの身体ではそれがかなわず、せめていま抱えているものを大事に大事にとじこめた。
そうして幾ばくか経ったころ。
ひっそりと北が声を漏らした。
まるでないしょ話をするみたいにひっそりと。
私にだけ聞こえる声で北がささやく。
「…………なぐさめてほしい」


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