視界がぱっと明るく光って、一瞬で元に戻った。
それより少し遅れて、音がする。
カシャッ。と、軽い音。
小さな小さな、けれど人の声や調理器具の音、店内の設備の機械音などとは全く異なる、人気の少ない飲食店には不釣り合いな音。あ、これカメラや。とすぐにわかった。光はフラッシュを焚いたせい。反射的に侑から手を離して振り返る。
食事やスイーツなど、自分がこれから食べるものを写真におさめてSNSにアップする人が最近多いのは知っていた。そういった類のものだろうか、とカウンターの端っこの席から全体に視線を巡らせて――すぐにそんなものではないのだと知らされる。
ひときわ大きな音を立てて、慌てて席を立ったひとりの客の後姿を見つけたからだ。
「やっば……」背後からひきつった声。
尾白がもう立ち上がっていた。
「待てや!!!」
え、え、え。
走り出て行った後姿を追っかけて、あっという間に見えなくなった尾白、放られて床に落ちた箸、倒れた椅子、眼を剥いて驚愕する店員さん、他の数少ないお客さん、それと――
「パパラッチや……」
さあっと青ざめる侑がこぼした言葉を耳が拾う。
「ぱ……パパラッチ……?」
パパラッチ。
PAPARAZZI??
て、アレ?ローマの休日とかのアレ?
スキャンダルを目論むゴシップ記者??
侑お姫様やったん???
「どーしよ、俺殺される…………」
両手で顔を覆った侑を眺める。
寒くもないのにガタガタと震え出したところを見るに、どうやらムスビィにはこの男を震え上がらせるほどの怖いお人がおるらしい。そ、そうやんな、選手は広告塔……、さわやかなアスリートのイメージづくりというもんがあるのかもしれない。
「えっと……今撮られた、写真って……」
「……多分やけど……なまえちゃんが俺の口、やさしく拭いてくれとるとこ」
「あかん死刑や……」と再び絶望し出す侑に私が掛けられる言葉はない。侑がねだったとはいえ、私が結局、人前でこの有名人の身体に触れるような世話を焼いたのだ。たまたま入った店に侑がいたのか、侑を見かけてここに入ったのか、そもそも付け狙われていたのかは定かではないが、とにかく宮侑がうれしそうな顔をして異性から世話を焼かれている写真を撮られてしまった。しかもばぶとか言うとった。今年二十三歳にもなる大男がこれは情けない。雄々しいプレーからはかけ離れた姿が世に出てしまう。イメージダウンもはなはだしいやろう。青ざめた侑を見てそんなことを考えていた。
「キス待ち顔としてバラまかれてまう……」
だから侑の言葉は完全に寝耳に水だった。
「キ、キス!?」
「そう見えるかもしれへん、ちゅう話や」
「俺あんとき目ぇ瞑っとったし。口突き出しとった」再現するみたいに口をにゅっと突き出して侑が言った。さっきも思ったけど、なんともまあ間抜けな顔や。この顔でキスを待たれる女の子はよう笑わずにいられるもんやと顔も知れない人物に感心せざるを得ない。侑の方を向いている間に倒れた椅子を戻しに店員さんが出てきて、騒いですみませんと頭を下げた。床に落ちた箸は手渡して回収してもらった。三人の中で誰よりも早く反応して飛び出していった尾白は、もしかしなくてもさっきの客を捕まえに行ったのだろうか。それってもしかして危なくないんやろうか。ひとりで追いかけて行ってしまった。……目ぇ回したりしてへんで、私も追いかければよかった。なんですぐに足動かせへんかったんやろう。私はアホか。アホや。
「大丈夫かな、尾白……」
「アランくんやで。滅多なことにはならんやろ」
「……ちょっと外見てくる……」
「アカンて」声だけで制された。
「あんだけ急いで出て行ったんや、もうそこらへんにはおらんやろうけど……なまえちゃんが行くんが一番危ない」
「…………」
「ここで待っとこう。スマホもサイフも置いて行っとるから、なんにせよすぐ戻って来るわ」
な。と落ち着いた声で言葉を並べる侑は、けれど困った顔をしていて、それやのに私を宥めるために冷静な様子でいるそのさまを見て、浮かせた腰を元に戻した。引き際というもんを理解するんも、出来ることと出来んことを判断するんも、大事なことやとさすがにもう知っている。
「ごめん侑」
「フ。なんでなまえちゃんが謝るん」
「やって……」
「ほら、ええから餅食うて落ち着き」
「それ尾白のやで……」
そうして侑と二人、待つこと数分。
「アカン逃げられた……」と低く呟いてトボトボと歩き戻ってきた尾白の表情は暗く険しい。ハアッとでっかくため息を吐いて椅子に腰を下ろす。少し息が乱れている。しばらくあちこち走り回っったのかもしれない。申し訳ない気持ちでいっぱいになって、一連の様子をただただ眺める私の顔を一目見て、尾白は眉を下げて笑った。
「なんちゅう辛気くさい顔をしてんねん」
「おじろお…………」
「ア〜ちょお待ってや。まずコレ食うてまいたいねん俺」
「お、おう……」
「アランくん、それ食うたら場所変えへん?」
「せやな。どこがエエやろ」
「食いもん今食うたばっかりやしなあ」
「いっちょ運動でもしたいところやけど――」
「まあそのへんはあとで決めようや」
「せやなあ。とりあえず、しゃべれるところやな」
「あと俺コーヒー飲みたい」
「お。やったら俺、ええスタンド知ってんねん」
「スタバちゃうん?」
「フフン。最近の行きつけや」
「おお……!行きつけ!カッコええな!」
「むっちゃエエ感じの店でな、お前らもテンション上がるで〜」
「やからそんな不安そうな顔すんな」そうやって穏やかに慰められて、情けない気持ちになりながらも、必死に眉に念を込めて、下がりっぱなしだった眉尻を押し上げる。食後、きちんと手を合わせて(誰の影響なのかは最早言うまでもない)食事を終えた尾白と侑と席を立ち、正式にお店をあとにした。がちゃがちゃ騒いでしまってすみませんでした。非常にうまかった。
「ちょっと歩くけどエエか?」と前置いた尾白に連れられて。コンビニで買った傘をさして地上をとっとこ歩くこと十分足らず。私達三人がたどり着いたのは、スカイビルのほど近く。けれどもあまり人通りの多くない通り沿いに、そこはあった。大きなグレーの建物に、店名を綴るアルファベットのサインが目を引く。通りに面したガラス戸に『COFFEE STAND』と書かれているそこに、尾白は流れるように入っていく。私も追いかけて、そのあとを侑が続いた。
「うっワー!」
「カッコええ!」と侑がはさっそくはしゃいだ。
入って手前側はコーヒースタンド用のカウンター。その向こう側はカフェ・レストランのソファ席にテーブル席がずらりと並ぶ。大量のワイングラスを吊り下げたシェルフの特徴的なワインスペースに、その奥の厨房。店内は倉庫みたいなイメージの内装で天井が高く、空調や配管、鉄骨がむき出しのまま配置された武骨な雰囲気。コンクリートとアイアン、レンガ、それに木目を組み合わせたクールでおしゃれなお店だ。
「電気!アレどうなってるん!?」
「百個ぐらいぶら下がってへん??」
「見てなまえちゃん、王様みたいなソファある!」
「あー。侑こういうん好きよな」
侑とお店の中を見てあれこれ言い合っていると、尾白はスタンドのカウンターにいたバリスタと何やら親しげに話し出し、途中こっちを指さして笑い合っていたが、すぐに手招きをするので奥の大量のライトが吊り下がっているテーブル席へ行こうとしていた侑の首根っこを掴んだ。尾白の元へ寄ると「ソファ席使ってエエて」と言ってサングラスを外し、後輩いわく『王様みたいなソファ』へ腰かけた。続けて二人とも座るが、その座り心地のよさにまたはしゃぐ。手荷物を置いて、ひと心地つくと気づく。低くなった目線からは、スタンドの大きなカウンターが壁になって、通りから見えないようになっている。元々、お店の両側が道に面してどちらにも大きなガラス窓がはめられているものの、こっち方面はあんまり人も流れて来おへんやろうし、それになにより平日の真昼間や。客入りもまばらであるのだから、そこまで警戒する必要もないのかもしれない。侑は興味を引かれたソファに掛けることができてよっぽど嬉しいらしく、非常に機嫌のよさそうに身を弾ませながら、尾白の持つメニューを覗き込もうとして、鬱陶しがった尾白が木箱を組んだテーブルの上に置いて、私にも見えるようにしてくれた。
「俺アイスコーヒーやな〜」
「みょうじ何にする?」
「私コールドブリューかなぁ。尾白は?」
「フ。エスプレッソ一択や」
「鼻で笑うやん……」大阪という都会の街におるからか、それとも自分の行きつけのカッコええ店におるからなのか、さっきっから微妙に持って回った言い回しをする尾白にツッコみつつ腰を上げる。
「オーダーしてくるわ」
「ありがと〜」
「スマンな」
大きな白いタイルと木目の美しいカウンターで、作業をするバリスタさんにオーダーを入れてソファへ戻る。さっそくエスプレッソマシンの稼働し始めたのを眺めながら、いざソファに座ろうとして立ち止まった。
「侑、なんでそこおるん?」
たしか私は一人掛け、垂直の配置のソファに尾白と侑が座ったはずやった。
「なまえちゃんの横がええから?」とのたまう男は作り笑いを浮かべて私の元いた隣に堂々と座している。あんなに青ざめて、自らの行いを悔いていたのではなかったのだろうか。
「あんたは三十分前のことを忘れるんか?」
「みょうじ、三十分経ってへん」
「経っとらへんで」
「俺は過去に縛られへん男やねん」
「ええから退けやそこを」
「嫌やあ。俺こっちに座りたいねん〜」
「……じゃあ尾白ソコ代わって」
「ハイハイ」
「なんでやあ!」
「なんでやもかんでやもないわ!」
尾白と席を交換し、再び一人掛けとしてソファに身を沈める。その上私との間に尾白のでかい身体をかますことになった侑はたいそうご立腹だが、その主張は当然聞き入れられない。注文の品はできあがり次第こちらへ持って来てくれるそうなので、私のコールドブリューを待つ間、バッグの中をあさってスマートフォンを取り出す。電源を入れて、電話帳に登録されている数少ないメンバーの中で、一番上に出てくるようにしているひとの名前をタップする。そこにはこの世で一番好きな日本語と電話番号が表示されている。少しの間それをじっと眺める。
「みょうじどうしたん?」
「北さんとのラブラブトーク読み返して悦に入ってるんやろ」
「ちゃうわ。北が私の電話帳に登録されているという事実にときめいてるんや」
「うっわ……想像の常に先を行っとる……」
「冷静に引かんといてくれん?」
「まあ気持ちはわかるけど」と尾白が笑う。
「どや。北、優しいやろ」
尾白がそんなことを尋ねるものだから、北の顔が浮かんできて、顔が熱くなって手のひらで覆った。 「……そりゃあもう」
「優しいどころかもう……」北とおるどの場面を思い返してもこのようになってしまう。「とんでもない男やわ……」高校生という身分ではなくなってからは、互いに慌ただしい日常を送る中、再会したとはいえ昔のようにじっくりと話を聞いてもらうことがなくなった。恋に焦がれて身を焦がす私の無様をさんざん見守ってきた男は、殊のほか嬉しそうにほほ笑む。私は頬から両手を外し、尾白に向かって拝んだ。
「うわっ。なんやねん」
「尾白神社にお礼参りをしとる」
「拝むな拝むな。なんの御利益もないで」
「魔法を使ったんやろ?」
「使てへんわ。ちなみに催眠術もな。お前北になにを言うとるんや」
「北に見つめられると、ドキドキしすぎて妙なことを口走ってしまうねん」
「それはもう病気やな」
「はー……あん人、彼氏としても隙無しやな……」
「うん?隙?隙は結構、あるで。私たまに逆襲してんねん」
「想像つかへん!」
「あっせや、見てコレ!」
「お!コレが噂のアレか!」
「ユビワや!ダイヤやん!」
「ふふん。ええやろ、羨ましいやろ」
「いや、羨ましくはないやろ」
「北さんにもらったん?」
「せやねん。ふふっ。こないだ、デートしたときになあ。北がなあ、買うって言うてなあ……」
「そんで北もペアのやつしとるらしいで」
「ええっ!ホ、ホンマかなまえちゃん!?」
「ふふふ…………」
あーあかん顔にやける。
あの日のことを思い出すといっそう顔が溶け落ちそうになって困るわ。きらきらと今日も薬指にきらめくそれがことあるごとに視界に入って、それを見るだけでみょうじなまえは地球上でもっとも幸福な人間になるのだった。心をほくほくさせて、前のめりでひとの指を見てにぎやかに騒ぐ二人と口頭で戯れていると、ほどなくして三人分の飲み物が運ばれて来たので、ひとまずカップをそれぞれ掲げて一口含んだ。お店のロゴが入った白いエナメルマグは氷で冷えてひんやりしていて、注がれたコーヒーも冷たい。まだまだ暑い日中の熱をはらんだ身体を冷ましてくれる。アイスコーヒーほど苦みも渋みも前面に出てこない、まろやかな味が心地よかった。おいしい、とこぼすと尾白が胸を張った。
「は――……」
気付けば長く息を吐いていた。
「スマン。捕まえられんかった」
尾白が神妙に切り出してきて、両側の人間はぎょっとする。
「いやいや何言うてるん」
「せや、アランくんが謝ることとちゃうやろ」
「なんやねんアイツめっちゃ足速かった、陸上部かっちゅうねん……」
尾白は相手の走るスピードに追い付けなかったこともあってか悔しそうな顔をして吐き捨てる。侑があん時パパラッチという言葉を使ったけど、ああいう職業の人はみんな足が速いんやろうか。学生時代の尾白の百メートル走のタイムを知っている私からすれば、尾白が走って追いつかれへん人間なんかもはや妖怪や。テケテケや。「ああいう奴らは食い扶持かかっとるからな。必死で逃げるよなあ」と言ってマグに口をつけ、やっぱコレやなとウンウン頷いている。尾白こだわりのエスプレッソの味がちょっと気になるところだ。
「それにしても、スタートダッシュすごかったな尾白」例の瞬間を思い出せばそんな感想が口をついて出てくる。撮られた上に壁際から店内が視界に入る一だった侑とほぼ変わらないタイミングで尾白は気づいて振り返り、写真を撮ったと思しき人を即座に追いかけた。反応速度がものすごいと思う。やっぱり有名人はプライベートもそれほどに気を遣うのだろうか。
「すぐ分かったからな。フラッシュ焚かれたし」
「いやいや、私とかもう、なんのことか分からんでさあ……」
「ンー。みょうじは海外おったから知らんやろうけど、こいつな。前も一回やられてんねん」
「えっ?」
「エヘッ」と舌をぺろっと出してかわいこぶった侑を尾白が叩いた。
「前って……」
「前はモデルの子ぉに抱きつかれた写真すっぱ抜かれとる」
尾白の衝撃告白に私のテンションは上がった。モデル!侑の彼女モデルなん!と沸いたが、即座に反応した「彼女なんかおらんわ!」という侑のでっかい声に一瞬で沈められてしまう。
「ファンやっとったんやて侑の。明らか狙われとったよな〜」
「週刊誌載ったと思ったらSNSで匂わせしよって――あん時大変やってんで!」当時のことを思い出したのかプリプリしながらコーヒーを音を立ててすする侑。アイスコーヒーをすすってどないすんねん。しかしまあその話の通りなら、今日のアレは侑に張りついとって、偶然ネタになりそうな場面があったから撮ったってことなんやろうか。
「人気者は大変やなあ」
「特にコイツはな。見るからに突っつきやすそうやし、周りも騒ぎそうやろ」
「確かに……」
「確かにってなんやねん!」
「だってアイドルのコンサート並やったやん前から」試合の度にびっしりと埋まる体育館のギャラリーが脳裏によみがえる。しかも治もおったから二人それぞれのファンと双子ぐるみのファンとおって、もの凄いありさまやった。観戦ルールとか設けとったもんな……。こいつら顔はええから顔は……。
「まあ俺の顔がエエんは事実やけど」
「腹立つ」
「なまえちゃんも巻き込んでスマンなあ。俺がイケメンでモテモテで超絶すごいセッターなばっかりに」
「尾白、なんで人は人を殴ったらあかんの?」
「お前の手が痛むからやで」
「そっかあ」
「物騒なこと言わんといてやぁ」
自業自得やわ。
閑話休題。
「そんで、どうしようなあ」
天井のあたりをぼうっと見つめながら尾白が呟いた。ごつい身体をすっかり背もたれにあずけきって、お気に入りのエスプレッソを飲んで心底くつろいでいるらしい。人目の気にならない席というのもあるやろう。ただし前におったお店で起こったドタバタで目はちょっと死んでいる。
「アレ絶対お前ら二人で切り取られるやろ」
「せやろな〜」侑と二人で同意する。あのタイミングで撮られた写真の使い道くらい、想像がつかんわけではなかった。
「兵庫の誇る尾白アランをトリミングするとか、間違ってるやろ!!」
「やめろや照れるわ」
「今はそこに怒ってもしょうがないで」
「三人一緒にはいピース!うちらズットモ〜!じゃあかんかったんかなあ」
「どんな週刊誌が買うねんそんなネタ」
「ええ……よくない?心がほっこりせん?」
「ゴシップ雑誌でほっこりさせてどうすんねんて」
「よくて三角関係ネタやなあ」侑の吐いた言葉が思いのほか衝撃で、うっかりマグを落としかけてしまった。さ、三角関係!?
「こんなどこにも掠っとらへん三角関係ある???」
「掠ってるかもしれやんか〜」今度はにやにやと笑いだした侑にむっとして口を開く。
「北が登場せえへん以上、まったく掠ってへんわ」
「お前はホンマに北ばっかりやな……」
「はー……はよ会いたいなあ北……」テーブルに置いたスマートフォンに再び触れる。データフォルダの中には、北と私が映った永久保存版の写真が入っている。写真の中の北と目が合って、瞬間火のついたように熱くなる頬を見て侑が声を上げて笑う。
「呼んだらエエやん。電話してみ?あちゅむと熱愛報道出てまう〜って」
「似てへんにも程があるやろ……」
あとあちゅむって何やあちゅむって。
かわええやろ、と素で言われて、全然かわいないわと切って捨てておく。
「そんな言い方してみい……殺されるん侑やで」
「エッ」
「当然やろ」
「――まあ言い方はアレにしても、電話はすぐした方がええと思うで」妙に落ち着いた声で尾白が言うので目をやると、まじめな顔をしているのでびっくりする。
「すぐって、え、今?」時間は先ほど午後の三時半を過ぎたころ。この時間はまだ田んぼにおる時間帯で、連絡はつかないだろうと予想がついた。
「すぐやすぐ。今」
「たぶん、出られへんで」
「北なら、気づいたら掛け直すやろ」
「それはそうやけど……」
「なんやなまえちゃん、気乗りせえへんの?」
「やって、仕事中やし、秋はどんどん忙しくなってくし……」
そうなん?と首を傾げる侑には、北のお部屋にある本を読んで知ったお米づくりのスケジュールを説明してやる。私も大雑把なイメージしか知らんかったから、少しずつ勉強したり、たまーに手伝わせてもらっているところではある。小麦とかブドウとかレモンやったら、私もちょっとはわかるねんけどなあ。今は仕事に教習所にとなかなか時間が難しいけれども、次の期からは少しでも尽力できるようになればええねんけど……、なんて思っているのだった。
「今年は収穫早めるって言うとったし、秋は台風も多いし。大変やねん」
「ほぉん」
「返事雑やな」
「農家さんがこれから忙しいんは分かったけど。そんで?なまえちゃんはなんで電話一本掛けるのを渋っとるん?」
「えっ」言葉に詰まった。
「さっき電話帳引っぱり出しとったくせに」
「それは、無意識で……」
「せやから、そんまま掛けたらええやろって言うてんねん俺らは」
「………………」
「遠慮しとるんか、北さんに」
まっすぐな目えして、たまーにひとの核心を思いっきり突き刺してくる男は健在で、私はあからさまに狼狽えた。返す言葉を探していると、「なんで遠慮なんかしとんねん」尾白まで乗り出してくる。
「え、遠慮っていうか……」
「なんやねん」せっかちな男二人に据わった目を向けられる。これ私がかよわい女性やったら恐怖で卒倒しとんで。なんて思う裏側で脳みそを回転させて言葉をつくる。
「んん……、ただでさえ北、しょっちゅう送り迎えしてくれてるし……忙しくなるのに……、急用でもないのに、仕事中にあんまり連絡すると、迷惑……えーっと……そう、うざいって思われるやん……」
自分の中の感情を、可能な限り丁寧に拾いながら、適切だと思われる言葉を見つけて音に出す。明瞭に出ているわけではない気持ちを言葉で表現するのはやっぱり難しい。私の言うたことはうまいこと伝わったやろうかと二人を見ると、どちらも大きく目を瞬かせていた。そして二人して、ンー、となぜか呻り出す。
「俺なら、その考え方の方がうざいけどなあ」
あっけらかんと侑が言って、
「せやから、なんで遠慮なんかしとんねんって」
さっき言ったことを繰り返す尾白。
思わぬ反応をされて私が一番驚いてしまう。
「え、え、なんで?」
「みょうじ、お前……いつまでも片思い気分でおったらあかんで」
「片思い気分て」
「気づいてへんか?お前のその考え方、高校の頃とおんなじ思考回路しとるよ」
「へっ」
「ソレ分かる」と頷くのは侑。
「なまえちゃん北さんの顔色うかがい過ぎや。付き合うて、あんだけ仲良うして、そんな大層なもん貰っといてやな、他の奴とうっかり週刊誌載っちゃいますって時に、仕事中やし電話でけへん〜って、それはおかしいやろ」
「お、おかしい……」
「俺が彼氏やったら、普通にイラつくわ。何まったりコーヒー飲んどんねん、真っ先に連絡してこいや!ってなるやろ」
「イラつく!?」
「北も、気分ようないと思うで。そんな大事な連絡、後回しにされたら。それどころか黙っとってヨソで初めて聞かされてみ?傷つくわぁ〜」
「…………」
いやあの、
黙っとく気はさすがに私もなかったけども。
そ、そうなん……。
そういうもんなん……?
迷惑かけるんもうざがられるんもイラつかれるんも不快にするんももちろん嫌やし、なにより傷つけるなんて一番嫌や。でも今ここで電話一本をかけへんことで、むしろそうなると主張する男が目の前に二人もおるのであれば、私の考え方がおかしいということなんやろうな。尾白の言う片思い気分というのは、よくわからへんけど。片思いやったら、あんなに北にべたべたせえへんし。どころか指一本触れられへんし。私が日ごろどんだけ北に甘えて過ごしているか……。
「そんで。どうすんねん電話」
「掛けます」
「ヨシ」
今のやりとりで変な手汗かいてしまったやんと思いながら、握りしめたスマートフォンを再び捜査して電話帳へ移動する。北の名前を見ると反射的に体温の上がるのを感じる。表示された電話番号を、そっとタップする。呼び出し音が鳴り出して、それがしばらく続き留守番電話サービスの案内になるのだろうと思って、私はまだタカをくくっていた。
『もしもし』
ふとコール音が切れたと思ったら、次の瞬間スピーカーから魅惑の声がして、ぶるっと身体が震えた。
「わっ!」
『みょうじ?』
「き、北!」
『そうやけど』
「で、出た!」
『そら着信鳴ったら、出るけど』急激に速まった鼓動と、駆けめぐる体内の熱。ま、まさか通話になろうとは、思いもせんかった……!「なんや北さん出るやん」などという声も遠い。
『どうしたんみょうじ。電話なんて珍しいやん』
あああああ…………。
こえ……声が、
私のスマホから北の声がするう……!
しかもなんだかちょっと弾んどる、かわええキュンキュンする好きぃ……!
「なーアランくん。なまえちゃんが今考えとること当てるゲームせえへん?」
「誰も外さんから成り立たへんやろ」
うるさいうるさい外野。
北と電話をするのは、いつだってドキドキしてしまう。耳元で北の声を聴くなんて、ああもう、なんでここが自宅やないんや。ベッドに寝っ転がって枕に顔を埋めてじたばた悶えることが不可能な状況で、しかも気心知れた仲とはいえ見られてるし、人気も少なくはあるがゼロではない場面で、下手なことはできんので、頭部を火照らせて発汗するだけにとどまるよう、必死に平静を保とうとする。
「あ、あんな北」
『まだ大阪か?雨降っとるやろ。迎えに行こか』
「………………」
「なあアランくん、なまえちゃんが泣いとる」
「感極まっとるな」
あ、あかん…………。
好きしか出て来ん…………。
私の恋人、なんでこんなに優しいん……???
すぐ迎えに来ようとする……。
好き……………………。
片手で目頭をおさえ、片手でスマートフォンを耳にあてたまま沈黙する私を不審に思わないわけもなく北が『みょうじ?』『どうしたん?』と呼び掛けてくるものの、声が詰まって出てこない私がとれる行動は、スマートフォンをテーブルに置いたうえで、スピーカーのアイコンをタップすることだけであった。
『おいどうした、返事せえ。今どこや』
「…………」
「き、北さん!!」
『………………侑、やな?』
「チワッス!」
『こんにちは。なんでお前みょうじとおるん』
「オーイ北、俺もおんで〜」
『アランまで、なんなん』
「怒んな怒んな。みょうじとは偶然会っただけや」
『怒ってへん』
「けどこれから怒らすかもしれん」
『……どういうことや』
「ホラ。お前らどっちか、当事者から説明せえ」
徐々に北の声色が硬くなっていくのがわかる。不穏な前振りをした尾白の言葉に通話の向こうは静かになって、こちらの言葉を待っているのもわかった。ときめきに高鳴っていた心臓が別の意味で鼓動を激しくする最中、視界を覆っていた手をほどいた。侑は顔面いっぱいに冷や汗を浮かべ。頬筋を引き攣らせている。
「き、北さん、あの〜……」
「き、北!」せめて自分で説明しなければと、恐る恐るといった様子で切り出そうとしていた侑の声を遮った。
『どうしたん』と少し柔らかくなった声。
私はもう、情けなさでいっぱいになる。
「さっき……みんなでお茶漬け食べとって」
『お茶漬け……?うん』
「私つい、侑の世話をな……焼いてしまって」
『うん』
「そこをな、パシャっと、その、写真をな」
『…………、撮られた?』
「と、撮られて、逃げられてん――い、嫌やあ、北以外と、ゴシップ、週刊誌に載ってまう……」
「嫌やあて。俺傷つくねんけど」
「嫌やあ〜!」
「分かった分かったて」
「落ち着け。コーヒー飲め」
「むごっ……ちょっと止めて」
押しつけられた自分のマグから一口だけ飲んで、あとは尾白へ押し返す。明確に拒否された侑はなにやら小声でブツクサ言っているようだが何を言っているかまったく聞き取れない。それよりも私はちょっと前から反応のない電話の向こう側のひとのことが気になって仕方がない。
「き、北……あの、ごめんなさい…………」
『………………』
無応答。
――あ、あかん。
失望された…………。
さあっと血の気が引いていく。
「……死………………」
「北!北聞いとるか!?」
『…………ん?ああ、すまん』
『聞いとったよ』ようやっと返ってきた声はどこかぼんやりとして、感情のうかがえない温度だった。足元から一瞬で這い上がる絶望感。全身から力が抜けて頭からソファの背もたれに倒れ込む。なまえちゃーん!と遠くの方で侑の声が聞こえたような聞こえんかったような。尾白もなんや北としゃべっとる……ようなしゃべっとらんような……黒い配管や鉄骨の張り巡らされた雰囲気ある天井も眩しい照明もなにもかもぼやけて見えるような見えへんようなで、眼の奥からじわっとにじみ出るなにかが、流れたような流れんかったような、気がするようなせえへんようなで、私はもう、いまどこにおっていったいなにをしているのか、もう、もう自分が、とんでもないアホやということぐらいしか、わかることがなくて、ほんまにもうアホでアホで、北が軽蔑するのもしょうがなくて、ほとほと愛想尽かされるのも、仕方が、仕方がなくて、北が、北の、
――――北の魔法が。
――――とけてしまうのも。
「おいみょうじ!」
ぱぁん!
と、間近で鳴った破裂音。
「わっ!?」
驚きのあまりに竦み上がった私の視界にあるのは、でっかいでっかい、力いっぱいボールを打ち下ろすためにある二つの手のひら。ドッドッと早鐘を鳴らす心臓を思わずいたわるように抑えこんだ。
「へ、あ……??」
「起きたか?」
「お、お、おじろ……?なに、いまの……?」
「寝とったから、起こしたったんや」
「ね、ね……?」いまのなに……ねこだまし……?尾白私に猫だましした……???
「ホレ。返すコレ」頭の回らんうちに今度はスマートフォンを押しつけられて受け取ってしまう。
『…………みょうじ?』
聞こえてくるのは北の声で。
「きた…………」
『大丈夫か?』と普段どおりのやさしい声がスピーカーから流れてきて、ぼたぼたっと涙の大粒がこぼれた。
「北あ…………」
『とりあえず、今からそっち向かうから』
「えっ?」
『一時間はかかると思う。俺が着くまで、アランの言うことよく聞くんやで』
「え、えっ」
『返事は?』
「あっハイ」
『ええこや』
役立たずな手のひらからすべり落ちたスマートフォンが膝の上に着地した。
『じゃあアラン、頼んだで』と最後は尾白に言い残して通話は切れた。
オウ任しとき、と立派な返事をした尾白は今度は自分の手荷物へ手を伸ばす。その姿を、なにがなんだかという具合で見つめる私の視界に侑が割り込んでくる。
「なまえちゃん?大丈夫か?」
「耳が」
「耳?」
「死んだ…………」
耳をおさえて呟く私を見て楽しそうに笑う。
ええこって言うた……笑っとった……。
上がったり下がったり急激に上がったりと、自制のきかない熱がうらめしい。私はもうほんまに心臓がもたへんこのままやと。それなのに北は来るって――あれ?北来るって???
「き、北来るって!」
「ウン、言うてたな」
「愛されとるなあなまえちゃん」
「あい」
「ホレ愛されみょうじ。こっち寄り」
「へ?わあ!」
「ほいチーズ」
「なまえちゃんもっと笑って」
「チーズて言え」
「ち、ちーず?」
「はいパシャーッ」
わけのわからないまま尾白と侑に指示をされて、二人の詰めて空いたスペースに座らされて、チーズ言わされたら、ほんまにシャッター音が鳴って、尾白の掲げたスマートフォンに笑顔の三人が写り込む一枚が表示される。写真や。また写真?なんで写真?目を白黒させる私をよそに、侑までいつの間にかスマートフォンを手に、コーヒーをうまく配置したテーブルを映しこんでシャッターを切っている。かと思えばこっちへ向けられたり。な、なんや?なんなんや???
「一息ついたら、そろそろ出ようか」
「北さん来るまでどこおる?」
「飲み食いしたら身体動かしたならへん?」
「なるー!!!」
「じゃあラウワンやな。みょうじ、まだ元気あるか?」
「え、あ、ある。復活する!」わけのわからんまま、とにかく尾白の言うことを聞けと言われたとおりに返答をする。肉体労働をしたわけでもない、身体はまだまだ元気なのだ。心が復活すれば、なんてことはない。
「ほなひとまずボウリングやな」
「俺ビリヤードもやってみたいねんけど、あとダーツ!」
「お!エエやん。勝負するか?」
「負けへんでぇ〜」
なんだかええ笑顔でバチバチと火花を散らす二人はマグの中をすっかり空にして楽しそうに話し出す。私もコーヒーを飲み干して、お手洗いに席を立って、心の乱れをあらわしたかのようなメイクを手早く整えるなどの身支度をして戻る。二人は立ち上がっていて、手渡された傘を握って、ようやくお店の外に出た。
「まだ降っとる?」
「振ってる」
「ホワイティ通って行こ〜」
「……尾白」
「うん?なんや」
「北に、なに頼まれたん?」
「やっぱお前寝とったやろ」隣を行く尾白が笑う。
「こん状況で北が俺に頼むことなんか、一個しかないねんけど。お前わからん?愛されみょうじ」
「…………」
「アランくん、なまえちゃん!はよ行くで〜!」
「ちょお待てや!走るな泥はねる!……まったく。あいつホンマ、一直線やな」
ホレ行くで。と、一歩を踏みしめる大きな足。
その前を急ぎ行く強烈にまぶしい背中。
私は考える。自分の頭で考えながら、大きすぎる二人を追いかける。私が追いかけてくるのを楽しそうに眺め振り返る、二人に並び歩けるように駆け出した。見上げた外はまだ暗く沈んだ色をして、さめざめと涙を流している。
けれどもこれは、私の涙ではないのだ。
私の涙は、きっと北が持ってる。


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