「遠慮せんと入っといでな」
なにがどうなってこうなってん。
「あとから着替え置きに行かせてな」
「スミマセン……」
「脱いだ服はカゴへ入れといてくれたらええよ」
「アリガトウゴザイマス……」
「信ちゃん帰ってくるまでたっぷり時間あるから、のんびり浸かっといで」
「ハイ…………」人のよい笑顔を真っ向正面から向けられて、後ろめたさと罪悪感で心臓がキュッと締まった。
真っ昼間っから、私は一体何をしてんねん。
そんで北にもこのお婆ちゃんにも、一体何をさせてしもてんねやろ。

夏でも温かいシャワーを浴びると疲れは流れていくもんやなあ。ぼんやり思いながら身体に纏った泡を流していく。はあ、と何度目かになる深いため息が水の音にかき消される。無理無理無理、北んちの敷地に足を踏み入れるだけでもこっちは心臓跳ね上がるほど緊張してんのに、お風呂とかこいつ、一体私にどんな苦行を強いるねん。とか思っていたというのに、まあ身体は素直なこと。いや仕方ないやん、こっちはここまで戻ってくるのにトータル丸一日以上の時間を要してんねん。浮遊感やら揺れやらに長時間晒され続けて、やっと着いたかと思えば、心臓を含む全身をブッ刺すかのような羞恥とときめきに襲われて、熱・動機・息切れ・めまいで私の身体は倒れる寸前やった。正直、物理的な長時間の攻撃よりも、兵庫に着いてから受けた一時間にも満たない精神攻撃の方がよっぽど利いたわ。こうしてお湯にあたると少しずつ身体は落ち着きを取り戻していく。全身の汗をしっかりと洗い流してシャワーを止める。ふう、とまた息を吐く。今度は静まり返った浴室にしっかりと響いた。
この家の一番風呂に入る正当な権利を有しているわけでもないのに――という罪悪感が最後まで躊躇させたけれども、懐かしいあの妙に圧のある目力と、朗らかな優しいまなざしを受ければ私に逆らう術はない。ほかほかとお湯の張られた浴槽に足先から浸していく。ちゃんと肩まで浸かるんよ。 そう穏やかに笑ったお婆ちゃん。急にこんなことになって驚いただろうに、暑かったやろ、と言いタオルと冷たいお茶をくれて、自由になった両手をギュッと大切そうに握って、わざわざ沸かしてもらったお風呂の場所へ案内してくれた。
いい人やな。
北のお婆ちゃんらしいな。
純度の高い親切を当然のように行い、しかもそれが押しつけがましくない。
「北の遺伝子すご……」
遺伝子、という言葉で頭に浮かんだのは後輩の顔だ。二つ同時に浮かんだけど、おんなじ顔やから実質DNAは一つやな。元気にしてるんかな。してるんやろな。北帰ってきたら、同輩を含めた近況を色々聞いてみよう。たしか、仕事あと二時間とか三時間とか言ってたような……、あかん、脳がショートしてて、途中から言われたことあんま覚えてない。憶えているのは、憶えてるんは、北が。北に。北の。……………………。

ポポポポポンッ!

とアプリの通知みたいな音を立てて、怒涛の勢いで畳みかけてくるここ数十分の記憶に、勢いよく首を振った。あかん。これはあかん。思い出したらあかん。でもどんどん出てきてしまう。こんなんどうやっても消されへん。北のせいや。ほぼほぼ全て北のせい。だってこんなん、ずるいやろ。ずるすぎるやろ。今この手に、あの頃持ってた携帯があったなら、ずるすぎる男・北信介の話だけで夜を明かせるで。私の話を延々聞いて、うんざりしてるくせに、色んな感情がせめぎあってひそかにプルプルしてる私に気付いて話の場を設けてくれてたな。尾白、ほんまにいい奴やったな。
北のことで慌てふためくんも、随分と久々や。
あの頃は、いつかあいつを慌てさせたんねん!って息巻いとったたな。
そんで、そんな私を応援してくれてた尾白の図。
フフッと笑いが漏れる。
なんやねん。全然忘れられてへんやんか。
「ビッグな女になったはずやねんけどな……」
満を持して戻って来たはずだというのに、初日から首をひねらざるを得ないこの状況に、おかしいなあと呟いた。やっぱり、一夜ぽっちじゃ全然足らなさそうだ。尾白のオフはいつなんかな。あとで北に聞くことにしよう。


「お先にいただきました……」
自分の髪から人んちの、もとい北んちのシャンプーが香る違和感とこそばゆさを感じながら、脱衣所に置かれていたサイズの合わない着替えにビビり倒しつつ、悶絶と葛藤のすえ全て言われたとおりにしてジリジリと居間へ訪れた私を「おかえりなまえちゃん」北のお婆ちゃんがやわらかく迎えてくれて胸がキュンと鳴る。おざぶのところへ促し「喉かわいたやんな?お茶あるで」と氷の入ったグラスを置いてくれる親切にホッと緊張がゆるむ。
「ありがとうございます」
「信ちゃんのティーシャツだと、やっぱり随分大きいねえ」
「ああ、いえ、ハイ。あの、全然大丈夫です」
「そう?ならええんやけど」
「全然大丈夫です全然」
「ふふふ。なまえちゃんかわいらしいなあ。大きい服も似合うなあ」
「そんなことは!決して!」
「なんや、若い子の間では、そういう着方が流行ってるんやろ?」
「そ、そうですね!」
もう、いっぱいいっぱいや。
「こういう、大きめの、服を……」服に視線を落とせば、この場にはいない顔をまた思い出してしまい、言葉に詰まる。肩幅も身丈も袖の長さも全然合わない、肌になじむ綿のTシャツは、きちんと畳んであって洗剤の匂いもする清潔なものなのに、ただの服でしかないのに、そう言い聞かせようとしているのに、やっぱり心臓は落ち着かない。ああ記憶が。頬が熱い。熱を冷まそうとお茶を流し込む私を見て、お婆ちゃんはフフッと笑う。ああ似とる。もはやお婆ちゃんにすらときめくねんけど。ちょっともうヤバイんちゃう?
「なまえちゃんの荷物な、おとなりの客間に動かしたから、そこの襖開けたらすぐやからな」
「は、はい。すみません、すごく重かったですよね」
「大丈夫やで。コロコロ付いててすぐやったしな。ああ、ちゃんと拭いてあるからね」
「重ね重ね……すみません……」
「ええんよ、頭なんか下げんで」
信ちゃんが女の子連れてきて、婆ちゃんウキウキしてるんやから。
ウキウキしているお婆ちゃんは大変にかわいらしいけども、ここへ来ることになったのは事故というか不可抗力というか。いや私にも何がなんだかやけども。そんなウキウキしていただけるような案件やないんですて。久しぶりに地元へ帰って来て、駅の物産コーナーでブラブラしとったら、見かけたお米の名前になんとなく足が止まって、まじまじと袋を見ていれば、農家さんの名前と所在地が袋に載っていたので、ちょっとした好奇心といたずら心で突撃してみただけのことで。遠巻きに二十四歳の北を堪能して、なんなら昔のよしみでちょっぴり話をして、枯渇したエネルギーを一番効率がいい方法で三分チャージして、明日からの活力にできれば御の字という心持ちやってんて。逆に、そばに女のひとおったらさすがに引き返してしばらく枕を濡らそうかなとか。
それをあの男は。
スンッとした顔で、飄々とぶち壊していきよる。
なんやそれめちゃくちゃかっこいい。
なんやのあの男は!
なん、なんなん!?
かっこよすぎん!?
え、二十四歳の北信介、かっこよすぎん!?
すっかり日焼けして!
分厚くたくましなって!
ますます大人びて、でもやわらかい雰囲気で!
相も変わらずクスリともせんと!
――――旧友に!
ハグするような男になりよった!br> いぶし銀の古きよき日本男児。
ド真摯で生真面目で頑固すぎる堅物男!
あの北信介はどこいったん!?
「供給が過ぎる…………!」
たまらず下を向いた途端、ゴンッと額に衝撃が走ってうずくまる。この痛みをもってして、どうにかちょっと落ち着いてくれんもんかな、私の脳みそと心臓。さっきっから三十秒に一回は悶えてる気がするねんけど。定期的に襲ってくる羞恥。しかも一回始まると長い!本人おらんくてコレってちょっとヤバイんちゃう。
北帰ってきてマトモにしゃべれるんか。
えっしゃべんの北と?
私が?
無理ちゃう?
無理ちゃう???
「なまえちゃん、そんなグリグリしたら痛いやろ」お向かいからは心配そうな声。
いつの間にか頭をかかえて悶えていたらしく、どんどん身が低くなって、頭を下げた瞬間ついにちゃぶ台にぶつかったのだとか。何やってんねん私は。どんだけ周りが見えてないんだよ。お婆ちゃんにはさっきっから変なところしか見せてない。初対面ですっかり『頭のおかしい女』という称号が授けられたことだろう。「大丈夫っす」心は全然大丈夫じゃないけれど、この場はそう返すしかないのだった。
「ああ、おでこ赤なってるなあ」
「大丈夫です。もう全身既にあちこち赤いので」
「ふふふ。たしかになまえちゃん、あっちこっち赤いなあ」
「し……お孫さんには、ユデダコと言われました」
「信ちゃんそんなこと言うたん」
お婆ちゃんはニコニコしたまま楽しそうにこっちを見ている。私の滑稽な挙動が北家のエンターテイメントになるというのならそれはそれでええかもなと思いながら、赤くなったあらゆる箇所を手で仰ぐ。外はたいそう暑かったがこの家の中はめちゃくちゃ風通りがええみたいやし、冷風とも呼べる温度の風が肌を撫でるので火照りきった身体には気持ちいい。これがこの国伝統の日本家屋がなせる業なのか、北家が代々積み重ねてきたであろう徳が何らかの力となって屋内の気温を下げているのかは私には判断がつかなかった。ちりんちりんと風鈴の音が耳障りのよい。ゆっくりと息を吸い込めば、木と畳の匂いがする。深呼吸をしながら意識をそれらに集中させれば、多少は鼓動も落ち着いたような気がした。
「それにしても、えらい荷物あったけど、旅行でもして来たん?」
「ああ――はい。キャリーとは別の、でっかい包みの方は、なんて言うか仕事道具みたいなもんです」
「ええな、旅行。どこに行ってきたん?」
「世界中あっちこっちですよ。見たいもの全部観て回るつもりで、色んなところに行きました。最後に行ったのはチリですけど」
「チリって、あの、タツノオトシゴみたいな形してるやつやろか」
「そうです。南米の、あの細長いやつ」
「はあ〜。えらい遠いところに行ってきたんやねえ」
「へへ。めっちゃ綺麗な洞窟があるって知って、見てみたくって」
「すごいなあ。そうなん、なまえちゃん外国に行けるんやねえ。かっこええなあ」
はあ〜っと感嘆の息を吐くお婆ちゃんに、照れつつ、促されるままに向こうで見てきたものの話をする。街並みとか、景色とか、文化とか、食べ物とか、どういう人がいてとか、こんなことをしてきたよとか、そういう話を、目を輝かせて聞いてくれるお婆ちゃんに、キュンとしながら、できるだけ丁寧に言葉を探す。高校を卒業して五年とちょっと、色んな場所を転々としてきたので、話のネタは尽きなかった。途中さりげなく出てきた茶菓子を二人でつまみ、会話に花を咲かせる。
楽しかった。
めっちゃ楽しい。

数十分後。
「はあ……久々の母国語トーク、落ち着く〜……」
「ずうっと英語やったん?」
「基本英語で、簡単なんやったらご当地語かなあ」
向こうで生活していく上で必要になり、ほんの少しだけしゃべれるようになった言語を指折り数えていく。でもどれも本当にカタコトの日常会話でゆっくりじゃないと聴き取りは難しいし、読み書きもまだまだで辞書に頼りっきりだったから、そんなにすごいすごいと言ってもらえるようなものでもないんやけども。
「そんなにしゃべれたら、いろんな人と仲良うなれるなあ」
「うん。人種年齢性別を超越しとるよ」
「そら楽しそうやなあ。なまえちゃんとおしゃべりするの楽しいからな。みんな好きになるんやろなあ」
「お、お婆ちゃん……!好き〜!」
「うれしいわあ。わたしもなまえちゃん好きやで」
なんやこのお婆ちゃん。
かわいすぎてお持ち帰りしたいんやけど!
ええ?ええかな?あかんかな?

話の流れで、水仕事でひんやりしているお婆ちゃんの両手を握り、手遊びに興じていた時のことだった。現地で覚えた手遊び唄を歌っていると、名前を呼ばれる。
「お仕事はなにしてはる人なん?」
そういえばという枕詞のあとに、思い出したように質問された。
あれ、まだ言ってなかったっけ?
「ああ、私は――」
「画家や」
背後から凛とした声が響いた。
ビクッと身体が跳ねてしまうのも無理ないやろっというほどに気配を消しての帰宅やった。扉開いた音した?えっ足音した?えっ忍?草の者ですか???
「おかえり信ちゃん」
「ただいま」
心臓バックバックで胸を強く押さえる私をよそに「えらい早かったなあ」お婆ちゃんは立ち上がってトコトコと台所の方へ歩いていって(歩き方かわいい)グラスを持って戻ってくる。ちゃぶ台に置かれたピッチャーから麦茶を注いで、氷と合わせてパキパキ音を立てるそれを手渡すと、北はそれをグイッと飲み干す。えっかっこよ……。タオルを外してあらわになった喉仏が上下する様子から目が離せなかった。空になったグラスを静かに置いたあと、こちらに目をやった北は「おるな」と頷く。
「おるよ……あんたが連れてきたんや……」
「そらそうやな。ただいま」
「お、かえり…………」
「うん、風呂も入ってんな」
「仰せのままにしましたとも。……あ、着替え借りてる」
「どうぞ。ああすまん、デカかったな」
「全然大丈夫です」
「そうか」
からりと笑う。
ギュッと瞼を閉じた。
「何してんねん」
「いやなんも……」笑う前は事前に『今から笑うよ』とどうか言ってほしい切実に。
「信ちゃんもはよお風呂入っといでや」
一切目を開けようとしない私に気付いてくれたのかどうなのかは不明だけど、お婆ちゃんがそう言ってくれたので「せやな」と北も私から気を逸らしてくれたようだ。畳まれた洗濯物がいくつかとタオルが置いてある小さな山ごと一抱えにした北は、そのまま脱衣所へ行くのかと思ったが、もう一度こっちを向いた。
「待っときや」
またそれか。
「ハイ…………」
「自分ちやと思って、寛いどってくれ」
「自分ちはさすがに無理がある……」
「なんでや」
「こっちがなんでややねんけど」
北がいる北んちで、私が自分ちのごとく振舞えるわけがないやろ。
私は鋼でできてるわけやないんやで。
そう零すと、この鉄面皮は「そらそうやろ」と正しい答えを返した。

「やらかかったしなあ」

お前それセクハラやぞ……。
尾白がもしこの場にいたなら、きっとそう言ってくれたに違いない。
北のあまりにも衝撃的な発言に言葉を失う目の前の私なんかまったく見えていないのか。「風呂入ってくるわ」淡々と告げて背中を向けて北はさっさと居間から出て行った。姿が見えなくなって、はあ、と熱っぽい息を漏らした私を見て、お婆ちゃんは、やっぱりニコニコとしている。
「なまえちゃんは信ちゃんが好きなんやねえ」
「…………うん」
やさしい笑顔のまま、ふんわりと言われたそれに嘘なんか吐けんかった。
「好き…………」突っ伏したまま、絞り出した声は震えてて、泣きそうだった。いい年した大人が情けない。でももうこんなん、しょうがないやん。どうしろって言うねん。地球の裏側まで行ってもなかったことにならんかったもん、一体どないせえ言うねん。
「アルバムあるねん。信ちゃん戻ってくるまで暇やし、一緒に見よか」
「見る…………」
アルバムとか、北の写真今見るとか。
そんなん火薬庫に自分から火種持って特攻するようなもんやと頭では考えていても、口は勝手に答えていたのだった。


「…………何見てるん」
今度はちゃんと足音が聞こえていたので、居間へ戻って来るんだろうというんはわかっていたんやけれども。一瞬すぐ背後に見えた大人北は風呂上がりで、思いっきり目が合って、非常に心臓に悪いので子ども北の方へ視線を落とした。
「わぁ北、大人北や」
「大人北て」
「子ども北を見てんねん」と分厚いアルバムを慌ててめくる。後ろから覗き込むようにして屈む北は、すぐに離れてそこらへんに座るのかと思ったがなかなか離れる気配がない。気配もそうなんやけど、熱気とか、呼気とか、畳に触れる音とかがめちゃくちゃ近く感じられて、動くに動けなくなった。「ばあちゃん、またえらい昔のもん引っ張り出したな」耳元で声がして硬直する。……これ、振り向いたらぶつかるんちゃうんっ!? ぞくぞくっと謎の震えが一瞬、全身を駆けた。
「は……はっ……」
「こん時の祭り、どこのやったっけ?」
「こん時は、小学校でやっとったなあ。ほら自治会の。はじめてのお祭りやからって、近くのやつにしたんや」
「あそこか。今年ももうすぐやんな?」
「せやねえ、こないだ回覧板きてたなあ。たしか、第四土曜の夜やなかったやろか」
「久々に顔出すんもええかもな」
「それがええよ。富田さんのところもな、今年もご主人が屋台やるねんて」
「おっちゃんの焼きそば、懐かしいなあ」
「信ちゃんよう食べとったねえ」
「うん。せや、みょうじも一緒に行かんか?きっと綿菓子あるで。好きやろ、甘いもん」
「…………こ」
「うん?」
「呼吸を……っ、させてくれ…………っ!」
息も絶え絶えやった。
全身をブルブル震わせて身を丸くする私に今すぐ気付いてくれ。頼むからドン引きしていいから距離を、どうか適切な距離を保ってくれっ!!! 唯一左右に自由な空間を利用して腕をバタバタさせれば北はすんなり離れた。薄ら口元を上げて首を傾げる表情、なんて見たことがなかったから、こっちはもう、それどういう気持ちのあらわれなん?通訳いるんちゃうこれ?海外で使うたこと滅多にないけどな?地元で必要ってどういうことなん??としばらく頭をかかえた。

作業着を脱ぎ、汗を流してさっぱりした北を加えて三人となった居間ではしばし歓談を挟んだが、少しして「あらまあ。もうこんな時間」という声で一区切りとなった。
「そろそろお夕飯の準備せんとね」どっこいしょと立ち上がったお婆ちゃんが、続き間の台所であちこち動き出したのでふと外を見ると、そろそろ日も沈もうとしているところだった。久しぶりの兵庫の夕焼け空だった。思わずあっと声を上げる。すっかり色々と夢中になっていて、時間を忘れてしまっていた。北家は私にとって竜宮城だ。なら乙姫様は北だ。微妙に似合いそうなところが腹立たしいな。
「長居しちゃってすみません」
「えっなまえちゃん、お夕飯食べてってや。信ちゃんとなんも話せてへんやろ?」
「えっ」キュウリ片手にのんびり言ってのけるお婆ちゃん。立ち上がりかけた姿勢のまま固まってしまった。
「けどいやあの」
「夕飯もやけど」首にひっかけたタオルで頭をやや乱暴に拭きながら、北が言った。
「泊まってったらええんとちゃう」
「ハ?」
追い打ちやんけソレ。
「着てきた服も、まだ乾いてへんやろ」
「せやねえ。今日干しといて、朝には乾いとるやろけどねえ」
「バスもこれから本数少ななるしな」
「外も暗なるしなあ。女の子一人じゃ危ないわ」
「せやなあ」
なん……なんなん……?
この祖母孫コンビなんなん……?
みょうじなまえキラーかなんかか??
いや、二人ともよかれと思って言っているんやろうけども。
お婆ちゃんなんかは先ほど私の北への好意を聞いているので、そういう意味での親切心もあるんかもしれん。ただごめんなさい。今はそれ逆効果やねん。もうすでにひん死のところまで来てる心臓を、どうか今晩は休ませてほしい。ゆっくりと。時間をください。こっちは思い出の中の北と現実の北、ついでに子ども時代の北からひっきりなしに攻撃を受けてんねん。保たへんねん。というのを全て伝えられたらいいのに、一つも言葉にならなかった。
それどころか「どうしても絶対に今日帰らなあかん用事でもあるんか?」懐かしい、静かだけれど妙に圧のある視線を投げられ、予定も用事もなんのその、すっかり気の赴くまま生きている私は正直に「ありません」と答えていた。嘘やろ私の口。
「じゃあ決まりやな」と頷く北に愕然とする。
え、決まりなん?
この状態が一晩続くん?
死やん。
死にひたすら一直線やん。
「ご両親は今こっちにおるん?」
「先月からメキシコやねん。んー……まあまず半年はあちこち行っとるやろうな」
「……会おうと思った時はどうすればええん?」
「ん?メールしてアポとって、あっちに行くか、向こうが来てくれるかやな。中間地点で会うって選択肢もあるか」
まあこの五年、会っとらんけどな。
「それ、ご実家今どうなってるん?」
「さ来週から人に貸すってメール来とった」
「せやからどっかで部屋借りようと思って」居住スペースと、作業場が別に必要なので二部屋はほしい。2DKあたりが無難じゃないだろうか。とりあえず一晩休んだら、どっか適当な不動産屋を予約して、部屋探しをするつもりだと説明する。住民票はまだ実家になっているのも変更せなあかんな。荷物は出国する時にほぼほぼ処分してあるけれども、残りの荷物は貸倉庫に突っ込んであるって書いてあったし、運び出さなあかん。……結構することあるな。思わずげんなりしてしまう。
「条件とか決めてるんか」
「部屋数以外は特に……ああ、作業部屋の換気は必須か。お風呂とトイレ別で、清潔感さえあったら築年数は経っててもええかな」
「フローリングがええとかは?」
「どっちでも。床に座って描くこと多いから、むしろ畳の方がええかもしれん。どっちにしろ、絵の具対策で何か敷くことになると思うし」
「交通の便とかは気にせえへんの?」
「言うて仕事柄、家こもること多いやろから、あんま外出んしな。それにのどかなとこの方が好き」
「セキュリティとかは」
「気にする人間に見える?」
「そうか。そんなら……色々見つかるんやろうな」
生まれてこの方実家から離れたことがないんやろうな。北は部屋探しの話題に存外食いつき、私の回答に一つずつウンウンと頷いていた。部屋探し、したこともないだろうにチェックする項目は的確で、不動産屋がしてくる質問も多分こんななんやろうな、と思って不思議な感じがする。
「あ!あと車一台置けるとこ」
「持っとるん?」
「これから教習通おうかなって。車はそのあと」
「ふうん…………」
「北、めっちゃヒアリングするやん」
「住む家は、大切やからな。よく考えなあかん」
「せやな」まあ私が住む家やけどな。
――トントン、コトコト。
台所から聴こえてくるリズミカルな音とうまそうな匂いに食欲をかき立てられながら、心境的には割と穏やかに会話が進んだ。恐らく、中身のある話だからだろう。昔もそうだった。部活とか授業の話とかだと、てきぱきと話ができてたなあ。けどそれ以外はからっきしやったなあ。感情をあまり乗せない北の声や表情に仕草、一つ一つに一喜一憂させられ、無駄に勘ぐったり深読みなんかして、友達も後輩まで巻き込んで、空回りばっかしてた。未熟ではた迷惑な恋だった。
大人になった北も、やっぱり真摯で丁寧で正しい人で。変わらんな、と思うたんびに嬉しくなって、でも泣きたくなった。


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