「あー指輪な。ゆび……」
北の吐き出した単語を復唱したところで、なにかが引っかかって言葉を止める。あれ?いま私なんて言うた?北なんて言うた?北を見上げた。実は俺AIやねんと告白されても『せやろな』と思えるようなぐらいに完膚なきまでのポーカーフェイスが、真摯に私を見下ろしている。
「………………え?」
「指輪や」
「ゆ…………、え?」
「指輪」
「…………、…………。…………、え??」
「せやから、指輪」再三聞き返す私へ北は再四繰り返した。覚えの悪い子どもに根気強く足し算でも教える教師のように丁寧にゆっくりと、その単語を音にする。うつくしい発音。しずかに動くくちびる。きれいやなと思った。いやそんな場合やないな。
「ゆ、ゆび……ゆびわ??指輪!?」
「せやで」
「指輪、北、指輪ってあの、指輪やで?」指にはめるアレやで?アクセサリーやで?ジュエリーやで??混乱のあまり、とんちんかんな質問を重ねる私に対して、あくまで北は冷静に答える。
「あの、指輪ってこう、指につける……」
「それくらいは、さすがにわかるわ」
い、いや、いやいや、わからへんやん。北、こないだまで、アンクレット知らんかったやん。バングルも。指輪のことも、どういうもんかも、知らんかもしれへんやん。可能性あるやん。装飾品なんて微塵も興味ない男やんか。
「……お婆ちゃんは、お洋服とかの方がええと思うで?」ほらあんひと、自分の服は頓着せえへんから。お孫さんが選んでくれたお洋服ならきっとよろこんで、ああもう秋になるから、秋カラーやけど薄手のトップスとか、なんて続ける私の額に、あっついくちびるが降ってきて、むちゅっとぶつかった。アホ、と罵声まで降りかかる。
「お前以外に、誰がつけんねん」
ひい。
単純な私の脳みそには、いま現在指輪というものは以下のとおり認識されている。
まちがい、うぬぼれ、カン違い、そのどれも引き起こしようのない。男性から女性へ贈るにあたっては最上級のプレゼントという名の明確な好意を形にしたものである。
ひいては愛情表現とも言う。
つたないながらも将来の約束をした子どもがお花とかおもちゃで代用するあれとか、めちゃくちゃ好きな恋人になんかの節目に贈ったりするあれとか、プロポーズするときに携えるあれとか、結婚式からずっと肌身離さず着けることになるあれやんな、え、あれやんな?指輪ってそういうもんやんな?私の指輪の認識まちがってへんよな?おかしないやんな?
せやのに北は指輪を買うという。
しかもこの言い草やと、私のつける指輪を。
「理解できたか?」
「……あたま、いま、噴火しそうやねんけど……」
「大丈夫や。まだ、形保っとる」真顔でうなずくなや。ボケボケか。
「保てんくなったらどうするん」
「根性で、どうにかせえ」
「北からそんな言葉が聞けるとは!?」
「ええからもう、そろそろ行くで」なかなか進まないこの問答にしびれを切らしたのかなんなのか。少しじれったそうな言い方をして、ずーっと繋がれたまんまの手を引っぱって身体の向きを変える。一歩踏み出されると、自動的に私の身体も動いた。北の手があつい。握る力も引っぱる力も強くてちょっと痛い。通行人の邪魔にならへんように壁際まで寄っていた私達が、いよいよ入口に、どんどん近づいていく。脳みそがいまどろどろに溶けてマグマ状態や。入ってしまう大丸に。百貨店。指輪。百貨店に入ってる指輪を扱っているお店。
――――あかん!
あかん、ここに、北を入れたら。
「ま!待って!」引き留める声が腹から出た。
――北に、あの北にここまでさせておいて、私はなんちゅう逃げ腰や。
「待って待ってっ、北っ!」それでも必死に呼んだら北は振り返って「なんや」と足を止めてくれる。ただし少々しかめっ面で、私はさらに足がすくんだ。
「言うとくけど、買うのは止めたらへんからな。俺は今日、指輪を買いたいんや」
「あ、う…………」指輪指輪連呼せんといてや。
恥ずかしくなって言葉が詰まる。待ってほしい。ほんまに待って。いま、いま頭ん中を、整理、まとめるから。待ってくれるけども、止めてはくれへんと言う北に、ちゃうねんと返したい思いがある。
「そ、それは、指輪は……まあ、そうとして」
「そうとしてってなんや」
「なんも――なんも、ここで買わんでも、よくない?百貨店とか、ちょっと、ええとこ過ぎひん?」 なんやもうクラクラしてくる頭を全力で働かせる。頭ん中をよくよく覗いてみると、有名なハイブランドのロゴ達が、土星のわっか部分みたいにグルグルと高速で回っているのがわかった。速すぎて見えてへんかった。そうや。そうそう。これや。私が言いたいんこれ!とひらめいた。
「せめて、もうちょっとお手軽なところで!」
「お手軽ってなんやねん」
「俺はお手軽に済ませるつもりはない」またもやくるっと回れ右を、しようとするのを阻止すべく、腕を思いっきり伸ばして、抱きついた。
「――は、みょうじ……?」
つないだ手ごとそん腕を抱きしめる。ぎゅーっと、ぎゅぎゅーっと、あらん限りの力を振り絞ってしがみついた。瞼までぎゅっと閉じてしまって、北の顔は見えないが、動揺したような声は聞こえた。それから、有無を言わさぬ、みたいに掴まれていた手の力が少し弛んだ。そんで、ガサガサ、とショッパーのぶつかり合う音がして、頭頂部になにかが乗って、やわやわと髪を撫でる。そっと目を開いて、見上げると、困ったような顔で見下ろされていた。
「なんやねん、ほんまに……」くちびるをほんの少し突き出して、頬をつまんでくる、ショッパーほんま邪魔そうやな。やっぱりあとで返してもらおう。いつも私をかき抱く腕を、いまは私が抱きしめる。その体勢のまま、自然ともっと力が入って、大好きなまなじりがやさしくたわんだ。
「…………北」
「うん」
「あんな」
「うん」
いつもの、心地のええテンポでうなずく北の声がしみ込んでいく。はあ、ふう、と息を吐いて、私の心臓も、とくとくと正常な音を取り戻す。やっぱり、ちょっとは速いけど。
「……指輪は」
「うん」
「…………ほしい、です」
「…………ん」きゅうと指が絡む。
「けど、もうちょっと、貰うにこう、緊張せんレベルのもんが、ええな……」
百貨店なんてそんな行くもんやないからよう知らんけど、私でも知っとるようなどえらいブランドばっかり入ってるんやろ。そんな大層なところで、まだ、け、結婚するわけでもないのに、指輪なんてものを、買うてもらうわけにはいかん……、ただでさえ、こっち帰ってきてからは、北にあれこれ世話やいてもらってるねんから。泊まることも多い。部屋も借りとる。ごはんうまい。それはともかく。さっきだって、服も、キーホルダーも買うてもらったしな。あんまり、こう、出費ばっかり……。という旨を、言葉を選んで、慎重に述べてみた。北はじいっと私を見て、ひとつ大きくうなずいた。
「そごう行くか」
「おんなじやん!」
「冗談や」北が小さく笑った。ぐうかわええ許す。
せやなあ、と少し考える風に視線を上へ向けて、戻ってくる。
「ほんなら、みょうじが畏縮せん店探そうや」
それならええやろ、と振られて何回もうなずいた。私だって、北から指輪を贈られたくないわけではないのだ。ビビって腰ひけてるんは事実やけど。ほしいか、ほしくないかで言うたら正直、喉から手が出るぐらいはほしい。もしも途中で気が変わって、やっぱあげるん止めたって言われでもしたら、いじけてしばらくアトリエに引きこもってまうかもしれん。そこまで考えて縁起でもないと手をパタパタとさせて嫌な思考を払いのけた。
「幸い、神戸にはまだ色々あるからな」
「いろいろ?」
「うん。この通りにも四件ある」
「へ!?」
「センター街ん中にもあるみたいやし」
「……そうなん?やっけ?」
よう知っとるな……?と首をひねる。あんまり、神戸は詳しくなさそうやったけどな。でも画廊は行っとたんやっけ。でも建物とか。などと考えている間に、背中に手のひらが触れる。
「行こか」
「ハイ」
結局、百貨店には入らず年数の割には厳かな建物から離れる。ごめんなさい。今度ちゃんと、なんかしら……、なんかしら、そう、おばあちゃんのお洋服とか、それこそ北へのプレゼントとか!買いに行きますんでハイ……という風に心の中で手を合わせて、手と背中、二方向から進行方向を指示されつつ足を動かせる。大丸の交差点を東へ折れて西国街道をてくてく歩いていく。十秒も経たないうちに、北が声を上げる。
「こことか、そうやな」
「ここ……」
つるつる。キラキラ。という表現がザコすぎるけど正しい。目の醒めるようなきれいな青色の庇の下には、綺麗に切り出された大理石を積んで建てられた、整然とした美しい外観。ゴールドの細身の字体で設えられたお店の名前。「ぎ、銀座……」ガラス張りの扉からは中の様子がすっかりうかがえるようになっている。壁も床もつるつるで、照明や宝石の光をよく反射するだろう。ショーケースがずらっと並んでいる。入口そばにある螺旋階段が美しい。エ、エレガント〜ぉ……。
「…………」身体の変なところに再び力が入って、しまうのを感じたのか、そのまま北に背中を押されて歩き出す。お店を通り過ぎた。
「ここもや」先ほどのお店を過ぎてすぐ、一件飛び越したところを示される。お店を見た。
「ヒッ」上ずった声を上げてしまった。
「…………」無言で背を押す北の優しさが痛い。
だってあんな、黒とネオンの。シャンデリアが。ロゴに王冠あるやん。し、しかも、ダイアモンドて書いてある。こわ……。真っ赤なテディベア。なんか石膏像あった。あれ誰やったかな。おしゃれやけど。おしゃれやけどこわい。こわい。
「お前画家やろ。石膏像とか好きなんちゃうん」
「それとこれとはちゃうやんかあ……」
「ああ、そこもや」
「ま、また銀座!?」しかもまたダイアモンドて書いてる……!なんなん、みんなそんなにダイアモンド好きなん!?綺麗やんな!さっきのお店にちょっと似てるな。黒いところが。すすす……とスムーズに足が進む。なんかもう進むんこわい。「行くで」容赦ない北もこわい。半泣きでさかさか足を動かして、促されるままに交差点でくるっと二階ほど折れ、三宮神社を背に中央通りへ入る。服屋さんや雑貨屋さんを過ぎたところで、再び北が足を止めた。
「ここや」
「ぶお……ヴォ……」お店の名前、読もうとして読めんかったらしい。まあフラ語やしな。さすがに北もな。「ぶ……、んん……」かわええ。
三階建てのビルは黒く塗られて、白字で店名とイカリのマークが描かれていた。外壁もサッシも看板も黒く、やっぱりガラス張りの正面からは店内の様子がよく見えるけれども、ここは今までのお店と違ってかなり薄暗い様子だ。どうや、と北は私の様子を観察しているようだ。
「カジュアル、て書いてあるな……黒いけど……」
「もはや黒を警戒しとるやん」おかしそうに北は言うけど、笑いごとちゃうねん。こっちは真剣やねん。お店にはカジュアルスタイルジュエリーと書かれている。むむ、とうなる。確かに、ぱっと見オシャレな雑貨か家具屋さんかな?という感じではあるけれど、実際はジュエリーショップである。いやめっちゃかっこよさそうなお店やけど。今の私の心境的には、黒はすっかり敷居の高い色となっていた。
「どうする?」
「……ちゃうところ、先見てもええ?」ええ加減お店ん中にぐらい入ればええ話やねんけど。でも入ってしまったら出られへん気がする……精神的に……ジュエリーショップやし……。妙な店選びに付き合わせて申し訳ないと思って、ごめんと呟いた。
「ええよ。みょうじの付けるもんやねんから」
「まあ俺も、ちょっとイメージちゃうかなとは思った」出たわ、フォローの完璧な男。ああもう好き。と別の意味で頭を抱える。
「みょうじってなんやもうちょい、ふわっとしとるからなあ」
「ふわっと?髪の毛の話?」
「…………そういうトコやで」

そのお店を見つけたのは、それからどれくらい経ってからのことだろう。
さっきの黒いお店に入れなかったことで、なんなんやこのポンコツは……??と自分に落胆してしまった私を慰めるように「隣のビル、本屋あるねんて。ほら」と意識をそらしてくれた北。なんで私の彼氏はこんなに優しいん?と本気で首を傾げながら、気分転換もかねてありがたく乗っかることにして隣のビルの二階へ上がると、デザインやアート系の本の宝庫で、思いがけずめっちゃテンション上がってしまって、書棚を一列一列凝視してしまった。ええお店があることに、気づいてしまったな……、と思いながら、ほこほこと温まった心でお店を後にした。楽しかった?と尋ねられて、返す声も弾んだ。そんな気分のまま、大好きな北に階段危ないでと支えられ、次こっち行ってみよかとやさしく手を引かれれば、足取りもまあ軽くなるわな。私達はそのままセンター街へやってきた。アーケードの下に軒を連ねる、パン屋さんや喫茶店、スポーツブランド、靴屋さん、お菓子屋さん、服屋さん、眼鏡屋さん、ああ保険屋さんまで。日常感あふれる並びが今むしろ興味深くて、きょろきょろと周りを見回しながら歩いていたときだった。
「あ」と、ある建物の前で足が止まった。
「みょうじ?あ、ここ――」
「かわいい…………」
両隣を服屋さんに挟まれてちょっと窮屈そうな、間口の狭いお店やった。淡い淡い、やわらかなすみれ色と、クラシカルなデザインがひっそりと目を惹いた、四階建てのメゾン。イカリとあぶくのかわいらしいロゴ。入口のガラス戸は開かれている。そこからダイレクトに視界へ飛び込んでくる、タイル仕立ての真っ白なショーケース。ライトで白くほのかに光っていて、清純できれいな雰囲気がただよう。向かいにある一面のガラス棚には、白木のフローリングの木目が、シンプルだけど高級感のある調度品を少し近寄りやすく魅せている。ショーケースには、アクセサリーが展示されていた。
「かわいい、お店や……」
私、ここ、好きかもしれん。
どきどきする胸をそうっと抑える。きゅうっと指を握られて、やっと隣を見る。北がやわらかい表情で私を見ていた。
「…………入る?」
「…………うん……」
入りたい。日頃の声のでかさはどこへやら。なにやらもう、照れくさくて、小さく小さく呟いた声を大事に大事に拾い上げて、北はやさしく笑う。目じりがきゅーっとなって、それを見た私も胸がきゅーっとなる。この心臓、ほんま北に反応しすぎやろ。私の心臓のくせに、ちっとも言うこときかへん。ほな行こうと促されて、お店に足を踏み入れた。
「ほわあ…………」
「綺麗やなあ」
「ますますかわいい……」
それにきらきらしてるのに、なんやろう、今までこっちが勝手に感じていた威圧感とか格調とか、そういう隔たりのある感じがせえへん。ただただときめく。ふわあーっと気持ちが浮つく。頬がゆるんだ。口を開けっぱなしにして視線をさまよわせていると、店員らしいお姉さんに微笑まれる。
「いらっしゃいませ」
「こ、こんにちは」やっぱり店員さんにはちょっと緊張する。でも優しそうなお姉さんやな。
「ちょっと、見て回ってもいいですか?」
「もちろんです。ゆっくりご覧になっていってください」ご自由にお着けいただけますので、気になったものがあったら、おっしゃってくださいね。ゆっくりと、あたたかい笑顔でそう言ってもらえてほっとする。お姉さんの立っている、真っ白なショーケースに近づいて、ガラスケースの中を覗き込む。真っ白な台座や照明、リボンやお花と合わせて丁寧にディスプレイされたシルバーやゴールド、パールや宝石たちが輝いていて、しばし見惚れ、思い出したように息を吐く。
「…………きれい……」
「せやなあ」厚めの指の腹が、手の甲をくすぐる。
「みょうじは、どんなん着けたい?」
やさしい声も、私をくすぐった。
そうや、私の、指輪を買いに来たんやったな。
思い出したら、顔が熱くなる。
「かのじょの、指輪を見に来たんです」なんて北がお姉さんに伝えているのを直視できずに視線を落とす。曇り一つない透き通ったガラスケースの中にある、数々のアクセサリー。ネックレスに、指輪に、ブレスレットに、ピアス。シルバー……プラチナかな、あとゴールド、ピンクゴールドもある。カラーの異なる台座にはめ込まれた細やかな宝石。やっぱりダイアモンドが多そう、でも宝石ついてないものも、別の宝石のものもある。シンプルな装いのものも、女性らしく非常に華やかな装いのものも、土台のあしらいが丁寧だ。ひねってあったり、リボンの形やったり、これなんかティアラの形になってる。宝石をはめ込むための台座のかたちがものによって全然違っていたりする。それに宝石を映えさせるための周りのデザインも考えられている。リング字体にカットが入っている変わった質感のものもある。太さ、まるみ、角度、かたち、素材、宝石の有無、色合い。宝石ひとつ取ったって、よく知らんけど、大きさとかカットの仕方とかあるんやろうな。こんなにもちっさいもんやのに、このひとつのもんを創り出すのに、きっといろんなアイデアや知識や技術が詰め込まれている。
「職人ってすごいな……??」
ははっ!と隣で楽しそうな声が聞こえて顔を上げた。北がはつらつと笑っていた。対面しているお姉さんも楽しそうにほほ笑んでいて、なんやろうと首を傾げた。
「なんの話してたん?」
「ふっ……」
「ふふ。すみません……」
「えっ?えっ??なに???」
「フフ。せやな……、職人は、すごいなあ」
「あ」声に出とるやん。
「四階がアトリエになっておりまして……、よろしければ、後ほどご覧になってください」
…………恥ず!!!!!
キュッと唇を噛みしめて、未だくすくすとおかしそうにこっちを見ている北をひと睨みしてから、アクセサリーを物色し直すことにする。入口から一番近いこのショーケースには、新作や季節感のあるもの、人気のあるデザインのものを展示しているらしい。やっぱりどれもかわいい。一通り見させてもらって、いくつか指を通させてもらったりして、その後お姉さんに勧められ、奥のショーケースも見せてもらうことになった。
「わあ。また雰囲気ちゃう」
「ほんまや」
お店の奥の方は、また違った雰囲気をしていた。落ち着いた色、ダークブラウンのショーケースと背の高いチェアはアンティーク調。促されてチェアに腰を下ろしながら、ふっとロンドンのライブラリーを思い出した。
「こういうん、なんや、かっこええな……」
「北似合うよ」
ディスプレイされているアクセサリーも、比較的大人っぽいシンプルな形のものが多いような気がする。二人でガラスケースを覗き込んで、これええやん、さっきのあっちもよかった、それつけてみたら?お姉さん、ええですか?なんて、まるで夢のような時間を過ごしている。さっきのショーケースで飾っていたものも含めて、ずらりと指輪の並んだベルベットのジュエリーボックスを前にすると、さすがに、圧倒される。圧倒されつつ、さすがにもう、ここまで来て負けるわけにはいかないと、ひとつひとつ、再度見ていく。
「あ…………」
これ、と呟いて、指で示す。お姉さんがそっと取り出して、渡してくれたのを受け取ってよく眺める。はめる前に手のひらの上で持ったりくるくる回したりする私を北とお姉さんが見ているのだろう、視線は感じるが、手元から外れることはなかった。
「そちらは、こちらのセットリングと重ねて、二連着けすることもできますよ」
「それ、気になるん?」
「うん…………」手のひらにちょこんと乗っている、ほとんど重さを感じないそれから視線が剥がせない。
「はめへんの?」と尋ねられて、ようやく、薬指に通す。指の付け根で、ちょっとひんやりしていて、きらきら輝く指輪の存在が、何度見ても見慣れないけれども、そんな気恥ずかしさよりも、もっとこう別の、なんやろうこれ、これ、じーっと見てると……。
「どうしたん?」
「これな、見てるとな」
「うん?」
「なんやろ。なんかなあ」
「うん」
「北と、手ぇつないでるみたいな指輪やなぁって思えてきてな」
ゆるゆると頬がゆるんで、ふふっと笑う。
笑えてくる。
リングアームはゆるくウェーブがかかっていて、その両端が、真ん中まで来たところで、ほんのちょこっと重なっているデザイン。その重なっているところに、三つの小さなダイアモンドが散らばっている。北と手をつなぐと、心臓は当然すごいことになるけれど、心がうきうきするのだ。手をきゅっとつながれて、指を絡めて、そうするともう世界が見違える。おんなじ景色がちっともおんなじじゃない。これを見ていると、触れ合っていない今も、そんな気分になって、北を思い出して、心が北でいっぱいになる。北に、やさしく、そっと手を取られて、ときめきでたっぷりと満たされる。そんな感覚がよみがえってくる。気がするんや。
「私これがええなあ」
手元を眺め、照明にかざしたくて腕を上げ、色んな角度から眺めてみる。ふと視界に入ったお姉さんが、口に手を当てて、またなにか笑っているような仕草で、北を見ているので、なんだか気になって隣を向いてみた。
顔を、どえらい真っ赤にした北がおった。
「北?」
「…………」こっち、見んといて。とそっぽを向かれた。えっなんで?私なんかした?ていうか北顔赤いで、日射病?歩きすぎた?疲れたん?長く見すぎ?眠たい?言葉を重ねる私に、小さな小さな聞こえるか聞こえへんかぐらいの声で、うるさい……、と覇気なく暴言を吐く北に、ますます疑問がつのってしまう。
「なんでそんな急に暴言を――」
「素敵な感性をお持ちですね」お姉さんの声がして、北から視線を正面へ戻す。
「嬉しいです。ほんまに」
「お姉さんも、うれしいんですか?」
「はい。とっても」なんでか、頬を薔薇色にして、ほんまに嬉しそうな表情をするお姉さん。一向にこっちを見ない北。
ほんまにこの世界は、わからんことばっかりやな。
不思議なことであふれ返っている。
せやから、面白いねんけどな。
「なあ北。これどう?」耳から向こうが見えない北の肩を揺する。ゆっくりと振り返って、なぜかじろっとねめつけるような目で見てくる北の顔面はまだまだ紅潮しているが、大丈夫?と尋ねようと口を開く前に手を、いや指を取られた。指輪をはめた方の指を四本分、がしっと掴まれて、北の方へ引き寄せられる。じい、と観察するように手元を見つめて、それがどんどん辿られて、ゆっくりゆっくり、どんどん近づいて、最後にまっすぐ目が合った。な、なんやねん。照れるわ……。
「うん」
うんてなんや。
「よう似合う。似合うわ」
「う…………」
「それにしようか」
「ひゃい」
「噛んだな」
「か、噛んでへんわ!」
なんで嘘吐くん、と北が笑う。
私はこれっぽっちも笑われへん。
せやから。
せやから言うとるやん。
そんな真っ赤な顔で、とろっとろに笑われたら、かなんて。
「すみません。じゃあこれ、お願いします」
「ありがとうございます。――ああ」
「はい?」
「こちらの指輪ですが、ペアでデザインされたものでして。もしよろしければ、お客様もペアのものをお持ちしましょうか?」
「……俺ですか?」
「あっ!お持ちしてください!見てみたいです!」北が何かを言う前に、勢いよく挙手してお姉さんに返答する。少しばかり目を見開いて、瞬きを繰り返す北は、まったくの予想外といった顔をしていた。お姉さんはにっこりと笑って、少々お待ちくださいませ、とその場を離れた。
「俺のはええよ」
「私は見たい。……し、ペアなんやったら、ひとりだけ着けてるん、寂しいやん」
「……そら、そうか。せやな」
「それに、虫よけは、ちゃんとせんと……」ペア、っていう言葉を聞いて、ぴこーん!てひらめいてん。ぴこーん!てな!
「え?」
「北の分は私が買うからな!」と指をさして宣言する。指さすな、とやんわりそれを下ろされる。 「ええよみょうじ、自分で買うから。お前の選んだやつ、思てたんより大分安くて予算余っとるし、……さっきのセットリングっちゅうやつ、一緒に買わんでええん?」
「私はこの一連のがええの〜。こっちの方が、北とお手手つないどる感あるやろ!」
――ていうか北、どんだけ高い指輪買うつもりで予算組んどんねん……。これ、婚約指輪でも、結婚指輪でもないやろ!
「北のは私が買うの。虫よけやねんからな」
「俺に虫なんか飛んで来んわ」まーったく説得力のないことを、なにくわぬ顔でほざく北をしらーっとした目で睨んでいると、お姉さんがくすくすと笑いながら戻ってきた。仲ええですね、とちょっとくだけた口調がうれしい。言うてくれた内容もうれしくってにやにやしてしまう。新しく小ぶりのジュエリーボックスを開いて、私がしているそれよりも大きい輪っかの指輪が三つほど並んでいるのを見せてくれる。男のひとがつけるのだというその指輪は、アームのところはおんなじデザインやけど、宝石がついていないし、よりシンプルでダイレクトにイメージが伝わってくる。
「これも、ええなあ。私のもこっちでええぐらいやわ」
「いや、お前のはダイヤ付いとってほしいわ」
「北、北。はめてみて。はよ」
「せっかちやなあ」
「ふふ。お客様は、普段指輪はお着けには……」
「あ、初めてです」
「では、こちらでサイズを――」
お姉さんの取り出した、輪っかの大量に引っ掛けられた道具でサイズを確かめてから、指輪を出してもらう。私よりも大きな輪っかやのに、手のひらもでっかいから、やっぱりずいぶんとちっさく見えるなあと思いながら、物珍しそうにまじまじとそれを眺める北を眺めて笑う。まさか自分が着けることになるとは思うてなかったんやろうな。北もアホやな。ひとにそんな、着けさすんなら、自分だって着けるぐらいの気持ちで行かんとやろ。「指輪か……」かわええ。
「…………」どこか神妙な顔つきで、そっと自らの薬指に指輪を通す。ゆっくりと、北の、節くれだった指を、輪っかが通って、その付け根にぴったりとおさまった。私とおんなじ、おそろいの、指輪が。北の。薬指に。へえ、とそこを見て呟いて、北がこちらへそれをかざす。
「どうや?みょうじ」
「死にそう」
「どうした」
「うんあの。お姉さん。これに。これに、します。買います。出します。ありがとうございます……」
「大丈夫か?」購入の意思を示したため、準備のために再び席を立ったお姉さんを見送ることもできず、なにがなにやら、ぼやけてきた両目の視界には多分北の顔があると思うねんけど全然ぼやけて見えへん全然。つきあたりの階段を挟んでお向かいにあるキャッシャー、その近くにあるベンチでお待ちくださいと言われていたのが、いかんせん見えないので、椅子を降りようと軽く俯けば、いとも簡単にぽろっと、ぽろぽろっと、こぼれ落ちてしまったので、私は慌てた。え、うわあ、とうろたえる私を見かねてか、左手がそっとすくい上げられた。
「つかまり」
「ひゃい……」
ゆがんだ視界に映る北もたいそう男前で私は困る。
両足が地面に着いて、引かれるままに歩いて、肩をそっと押さえられて着席する。
お姉さんとは別のお姉さんがカウンターに控えているらしく、お飲み物はいかがですかと尋ねられて、北がコーヒーと、たぶん私用にラテを頼んでくれる。ハンカチが目元にそっとあてられた。 「どうしたん」ベンチは隣が空いているのに、座る私の目の前で屈んで私を見上げてくる北が、むっちゃ好きすぎて困ると思ったんや。そう言うたらどうするんやろう。いったん外されて寂しくなった二人分の薬指を凝視する私のことを、北は世話を焼いてくれる。感極まって一瞬でそびえ立った涙の膜は、北のハンカチに吸われて消えていった。
ごめんなあ。
こんな彼女で。
アホやしビビるしすぐ泣くし。
情けない恋人やんなあ。
ただなあ、私。
ただ、ただただ北が、こんひとんことが、好きなだけやねん。好きなだけやねんけどなあ。なんでかなあ。こんなに、こんなにしあわせで、ええんかなあ。こんなに。こんなに。
「ごめんな北……」
「謝らんで。大丈夫や」
「なんかもう……この世のありとあらゆる森羅万象、すべてが美しく見えるわ……」
「それは壮大やなあ」
笑いごとやないで。と返したかったけれど、お姉さんがわざわざ、ドリンクを持ってきてくれて、私はカップを受け取ってラテを一口飲んだ。はあ、と息を吐く。空調の効いた屋内で、開け放している出入口を考慮してかやや冷えだった身体がじわじわとあったまる。ようやく北も隣へ掛けて、凪いだ表情でコーヒーを一口。……サマになるなあ。
「なんや、どうしたん」
「ときめいとった」
「……お前ほんまに」
「ん?」
「ほんまに、帰ったら覚えとけよ」
「はい???」
それからしばらくして、お姉さんが戻ってきて。
ベルベットの小さなリングケースと、あとお互いの仕事のことも考えて、ペンダントチェーンも購入しておくことにした。会計を終えたのち、「着けて帰られますか?」と尋ねられて二人ともうなずく。手のひらサイズのリングケースをそれぞれ渡された私達は、その蓋を開けて「……あれっ?」それからちょっと驚いた。
「こっち、北のやつ……」私がお姉さんに渡された薄いピンク色のケースには、さっきほど私が買った方、北のはめる指輪が入っていた。であれば、北のパステルブルーのケースに入っているのは。
「お前のが入っとる、……ああそうか。みょうじ」
「うん?」
「手ぇ出して」
「えっ。……あっ。――えっ!ええっ!?」
「はよ」ちょっと遅れて気付いた私を北が急かす。そ、そんな殺生な……。手のひらを差し伸べて、催促をする北に、脳みそをかき回されつつ、身体はまあ正直なもんで、恐る恐るながらも指先を そこへちょんと乗せる。そうしたら一度握られて。それから薬指の、爪先をほんの少しの力で浮かされて、小さいほうの輪っかをつまんだ反対側の手が近づいてくる。呼吸が止まった。
ひやっとした感覚。
するすると、肌を滑る細い輪っか。
きらきらと、純白に――――たまに虹色に輝くダイアモンドが、薬指におさまったのを見ると、胸に熱いものがこみあげてきて言葉が出なかった。「うん」北が満足そうにうなずいて、まだそれを見つめている。伏し目のまつ毛がうつくしいなと思う。こんなにうつくしいひとがいま、私の手を取って、うやうやしく指輪をはめたんか。と思うと、まったく現実味のない心地になってしまう。
ぼうっとただただ北を見ているうちに、
ふふ、とちいさく北が笑った。
ゆっくりと顔を上げる。
私を、見た。
瞳の奥が、
深い、
「つかまえた」
指を、捕らえられたまま。
きゅうとまなじりをさげて。
ひどくうれしそうに笑って。
身体じゅうの熱が、一気に駆けのぼってきて、
口を――開いては、閉じる。
ゆでだこの恋人を前にして北は楽しそうに、どこかなまめかしく、それでいて幼気を装った風に、声を弾ませた。
「俺のもつけてや」

「二階はブライダルサロンになっているんですが、ご覧になっていきませんか?」
「へっ!?ブ、ブライダル……!?」
入店してからこれまで一連のやりとりにすっかり付き合わされてきたお姉さんは、退店間際、それはそれはいい笑顔でお声を掛けてきた。
「ええんですか?」と返したのは北だ。
「ええ!もちろんです。二階はまたちょっと違ったテイストのフロアで――あっ。こちらの階段から……」
「えっいや、待ってあの、いいえ!?」
今にも階段の一段目へ足をかけそうだった北を引っぱった。振り返った北は、薄らと笑って、小首を傾げる。
「見ていかへんの?」
「ぐ……。そ、そん顔、止めえや……」
「後学のために、ええやんか」
「…………今日は、もう……」
すでに、もう、いっぱいいっぱい、です……。狭まった喉から出る声は、段々と小さくなって、最後には消え入りそうな音になる。その目を直視できずに、俯く私を見て、二人は声を上げて笑い出した。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。また来ます」なあみょうじ?なんて。またそんなこと言うて。私を照れさすやろ。身体中かっかと熱いまんま、たどたどしくなりつつ、私もお姉さんにお礼を言うて、二人ようやくお店を後にした。ええ買いもんしたなあと声を弾ませる北に、この右手から、いまの私のこん気持ちの一割でも伝わればええのに。と思いながら握りしめる。
「…………あの、北」
「うん?」
「これ……、ありがとう……」むっちゃうれしい、囁くような声しか出えへんのが情けない。こういうことは、ちゃんと顔を見てとびっきりの笑顔で言うもんやと頭ではわかってる。わかっているけど、どうにも、どうにもなあ。心が、まだこんなに火照っていて、さっきラテ飲んだのに、喉がこんなにからっからでなあ。どうにもならへんねん。
「大事にしてな。それも、俺んことも」
「…………ひゃい」
「あと俺も、ありがとう。これ。大事にするわ――なまえちゃん」
「……………………」
そういえば、堂々と虫よけとか宣言してしまったな。……私よう考えたら、あそこで、色々と、あなこととか、こんなこととか、相当恥ずかしいこと、しでかしてへん!?そして、相当恥ずかしいこと、されてへん!?記憶がどんどん掘り起こされて、つないだ手を離してその場でのたうち回りたいぐらいの羞恥にかられる。ぷるぷると震え出す私の手をわずかに引っぱって北は進む。人通りの多いセンター街を、駅に向かって歩く。色んなお店がぎゅうぎゅうに軒を連ねたこの通りは、学生の頃もたまに来ることがあって、昔からあるお店もかなり多いのに、見知った道ではあるものの、懐かしさを感じるどころか、真新しい、さらぴんの場所に来たみたいな気分になって、きらきらと輝いて、まぶしくて、わくわくして、それやのに、どこにも立ち寄る気にはなれなくて、ただただこうして歩いていたくて、不思議な感覚やった。どんどん歩いて、ふわふわと歩いて、歩いて、アーケードを抜けると、そごうの向こう側に見えた空はとっぷりと暮れていた。ぱちっと瞬きをする。
「わあ、もう夜やん」
「そろそろ帰らんと」
「おばあちゃん心配するな」
「ちょっと待って。先メール入れとくわ」近くにある地下通路への階段の脇、空いたスペースに立ち止まって、スマートフォンを取り出して操作する北。その、しゅっとした横顔を見つめて、胸がまた、きゅーっとなる。さっきほど名残惜しそうにほどかれた手にはまだ北の熱が残っていて、持ち上げて、暗い空の下でも輝かしいそれごと胸の前で抱える。
「これでええか……」
「…………なあ」
「うん?どうしたん」
「あの……」
「うん」
「今日あの……あの、今日北が、北がヤじゃなければ、なんやけど……」
「うん?」
「今日、北んとこ、泊まってええですか……」
「…………」こっちを向いて、ぽかん、と口まで開いて驚いた。珍しい顔を見て、はっとわれに返る。
私、いま、と、と、とんでもないこと、言うた。
なんか……なんかこう、今日あった色んなことが、よみがえって、胸が、ぎゅぎゅぎゅーってなったと思ったら。
言うてしもうてた……。
ドドドッと打ち鳴らす心臓の音がうるさい。
「ち、痴女やないからな!?」
「思てへんよ」
俺は元々、そんつもりやけど、と前置いてから、私を見下ろして、北の表情がほころんだ。
「はじめて、みょうじから言うてくれた」
「うぅ…………」
「そういうことやって、思ってええんやんな?」
両手を掴まえられた。
は、はずかしい、こんな……こんな……、こんなまっすぐ、そんなことを。
「い、いちいち、確認、せんといてや!」
「恥ずかしいのに、言うてくれたん」
「うぅぅぅぅう…………」
なにがそんなにたのしいのか。
ああ言うたらこう言う。なんて言葉を北に使うことになるなんて。非常にたのしそうに、けれどとろっとろに蕩けた眼をして、ほほ笑むのだから、こんなんもはや凶器やんか道行くおんなのひと、いまぜったい北のこと見んといてやとメガホンで唱えながらこん手を引っつかんで帰りたい気持ちになってしまう。ずるい、ずるい男や北は。ほんまにずるい。ほんまに、ほんまに……。
「ほんなら、帰ろうか。一緒に」
…………でもまあ。
こんな顔を見れるんなら、まあ、火ぃ噴く思いして、言うた甲斐も……ありますか…………。
「うん」
そんなことを思わせてくる。
北の笑顔は、やっぱりずるいなあと思うのでした。
「あ。さんちか寄ろ。おみやげ買うねん」
「ええよ。なんかあるん――」
「うん、おばあちゃんがなあ前に――」
「そんな店が――」
「ドイツおる時によく――」
「それって確か――」
「そうそう――」
「ほんならあの――」
「多分まだ――」
「――――――」
「――――――」
指におさまる、かたい感覚。
それを大事に、握りしめる感覚。
まだ慣れないそれを、今日から毎日繰り返す。
まいにち、まいにち、丁寧に、積み重ねて継続して、当たり前にしていく。
ふたりの当たり前に、なりますように。


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