青い空。白い雲。
北には山。南には海。
阪急・阪神・JR。地下鉄・高速・新幹線と主流経路が交錯するコンパクトな県下一の繁華街。異国情緒と大正ロマンあふれる建築物が今なお現存していて日本屈指の洗練された街並みを誇り、パンやスイーツをはじめとしたうまいもんであふれ返り、服や雑貨など人を集める店があちこちに軒を連ねた、美術や工芸などアートに造詣の深い、日本一わがままでいいとこどりの街(だと私は思っている)。南下すれば海沿いのプロムナードを優雅に歩いたりクルーズ船にも乗れるし、北へ行くならロープウェイで目の醒めるような眺望を楽しめる。
というわけで。
みょうじなまえと北信介。
ただいまふたりで、神戸市街に来ております!
「うわあ……神戸やぁ……」
「神戸やな」
「五年ぶり……」湧きあがってくるのは懐かしさと、それと。手のひらを介してつながる、隣のひとをちらと見上げればしっかりと目が合った。きゅ、と指を絡めて、目じりをさげた、超絶男前がそこにはおった。
「ふふ」
「……へへ」
いやおったというか、一緒に来たんやけども。
お手々つないで!
一緒に!来たんですけども!!!
異常に長くてしつっこい一回こっきりの熱帯夜をどうにかこうにか乗り越えて、早朝普段よりも早めに仕事に取り掛かり、私は一段落をつけるとバスで自宅へ帰って身支度を。北は仕事を終えた後身支度をととのえて、車で私の元やって来た。
『みょうじ。迎えに来たで』
『は、はぁい!』
どきどきとはやる心臓を抑えて扉を開けた向こうに立っていた北は、なんだか普段のさらに二百倍ほど、かっこよく見えた。服装も夏場やしシンプルで薄着やけれど、なんか、いつもよりほんのちょっと、ピシッとしとる感じがする。重ね着しとるし。靴もスニーカーやない。えっかっこいい……。これが北のデート服なん。そう。なんてったって、デート。デート仕様の北や。デートをするつもりで、私とデートをするという、その心づもりがちゃんと前提としてあって、そのための支度をしてきた、北信介デートバージョン。これにときめかずにいられるかって話やわ。お、おっとこまえがおるやん……。扉を開けた体勢のまんま、口を開けて、じわじわと頬に熱をやりながら、呆ける私を上から下まで眺めた北は、おんなじように頬を染める。
『なんや、…………むっちゃかわええな……』
『はぁうっ』
デートが始まる前から尋常でないときめきに襲われた。褒められた。褒められた!いやいっつも褒めてくれるけど!でも褒められた!デート仕様のなまえちゃんを!かわええって言うた!言うたな!?聞いたで!私は聞いた!こん耳でたしかに聞きました!ありったけの数少ない衣服をすべてひっくり返して見繕った末に、もっとも初・公言デート(いや私はしょうみ北がおりさえすればいついかなるときでもデートやと思えるけど今回はこともあろうに北が自らデートやとのたまうから私は私は私は)という記念すべき日を過ごすにふさわしいと思ったこの、なけなしの女子力を底上げしてくれる(であろう)白いワンピースは、私を普段よりもちょっと素敵なお嬢さんに見せてくれる(であろう)。純白ではないミルク色の手触りのよい生地と、大きめの紺襟、規則正しく並んだ黒いボタンがレトロな印象で、なんとなく品のよい感じがするところに惹かれて購入したものだ。割としっかりした厚みがあって、ボリュームのある袖口もかわいい。このお洋服に合わせて華奢なサンダルとバッグを選んだ。髪の毛もこの前の祭りで反応を示した編み込みをちょっと取り入れた。ふわっとさせた。首元のあらゆる痕跡は必死で隠した。メイクも時間の許す限りがんばった。そうやってできた姿を一目見てこの男は言うた。かわええて。むっちゃかわええて言うた私を。これからデートをする相手の私をかわええて言うた。私と北が、これからデートを。あかん涙出そうや。玄関先でときめきのとどまることの知らない状態で感極まってしまった私の様子に気づいたのか、世界一の男前が不思議そうに私をやさしく見下ろして少し屈む。
『どうしたん』
『…………』
言葉がつっかえて、とっさに出てこなかったので、手を、ふらっと、さまよわせると、そっと握られた。あったかい。ごつくてでっかい、ボコボコした男の手。銀河系一好きな手や。指先をちょんと握る、北を見上げる。ふわっと笑った北が、トップコートを塗っただけの爪先にちゅっと口づけた。
『…………』
『みょうじ?どうしたん』こきんと固まった私の顔を北が覗き込んだ。逆効果です。
『い、いま……』
『うん?』
『いまぜったい、胸、きゅーんて鳴った……!』
ぐわし、と胸元を掴み押さえ込む。聞こえた?と尋ねると首を振られた。おかしい。いま絶対音鳴った。鳴ったやんかいま。
『大丈夫か』
『あかん。ときめきで胸がはちきれそうや……』
『そうなん』真剣な顔で耳を傾けた北は、私の主張を聞くと、ひとつ大きくうなずいた。
『そら心配やな。ちょっと、見してみ』
手ェどけて。と言われるまんまに胸元を抑えた手を外す。北の手のひらが今度はそこへ伸びて、手触りのよい生地を押し上げるふくらみに触れた。何度かやさしく揉んだ。
『どう北?大丈夫そう?』
『俺は心配や』
『はい?????』
『こんなに騙されやすいとなあ……』などと呟く北。どういう意味ですか??と尋ねると、そっと手を離して、頬を撫でてくる。わからんでええよ、と北が笑うので、頭の中に浮かんだ疑問がときめきにどーんと吹っ飛ばされてしまった。
『ほな、そろそろ行こか』
『ひゃい』噛んだ。
『よう噛むなあ』
『噛んどらん』
『ふ』
バレバレの嘘つくやん。と北がまた笑う。それだけで、もうええ年になったというのに私は、大人の女になった私はアワアワとしてしまう。私は今からデートをする。北とデートをする。ずっと好きやった北と。北にデートと言われてデートをする。そう考えるだけで胸がいっぱいになる。いっぱいになるのに、なくならんから、新しくやってくるキラキラしたもんは、どうにか入ろうとして、押し入ってきて、ぎゅうぎゅう詰めになって、なくならんので、また入ってきて、またぎゅうぎゅうになる。何回ギュギュッと圧縮しても、すぐに埋まってしまう。
こんひとが好き。
『みょうじ?』
『好き』
たった一言。
一度口に出してしまえば、ふとした時にポロポロとこぼれてしまう。好きって思ったらうっかり口にしてしまう。なんておしゃべりな口やろうか。高校んときは、あんなに堅かった口が。北とちゅうしたら、すっかりやらかくなってしまったな。ふふ。
『行こっか北』
『…………』
あれ?今度は北が黙ってしまった。
どうしたん、と尋ねようとして声を出したところで、私のおしゃべりなくちびるが塞がれた。
ちゅ。と短い音がして、やわらかい北が離れていく。
呆けてしまった。
『外出たら、しばらくできんようになるやろ』
などと犯人の男はのたまい。
行くで。
なにくわぬ顔をして手を引く。
力の抜けたまま、引かれるままに外へ出る。
私から鍵を奪って代わりに戸締りをする。なぜかそのままポケットにしまう。階段あるで。こっちや。今日もあっついなあ。駅はこっちやな。疲れたらすぐ言いや。ばあちゃんになに買うて来たろうか。……なんや楽しみやなあ。
もう。もう。…………もう!!!
五年ぶりの神戸が北とデートとか。
天にも召される心地や。
「出口どっから出よか」
「あ。東口がええな。ミントで服見たいねん」
「東口か。じゃあこっちやな」
駅の改札を抜けて、そのまま連絡用通路を通ってすぐそばのショッピングモールに入る。服飾や雑貨をはじめとしたショップがあり、スーパーや映画館まで入っている大人気の商業施設だ。夏休み終盤の時期だということもあって、平日ではあるものの、建物の中は学生やカップル、家族連れなどで賑わっている。はあ。すごい人やな相変わらず。絡んだ指が、きゅっと握り直されたことに気が付いて隣を見上げる。
「どうしたん?」こん呼び方、心臓に悪いから普通に声掛けてほしいいんやけどな。
「混んどるから、離しなや」
「うん」
なにを今さら。家出てから、道歩くときも、電車乗っとるときも、今もずーっと、離さんやん。冷房のガンガンに効いたショッピングモール。汗は引いてきたというのに、熱はいっこうに冷めそうにない。
「あ。かわいいこん服」
「ああ、ええなあ」
「なあかわいい。私にはちょっとかわいすぎるかもやけど」
「似合うよ」
「断言」
「頭ん中で似合うとった」
「北も服買うときシミュレーションとかするんや」
「みょうじは頭ん中、住みついとるからなあ」
「住んでるん!?」
なに本物よりさきに同棲しとんねん!
「この色もええなあ。白ばっかあってもやし」
「きれいな色やな。海ん色や」
「涼しそうやろ。秋色との相性もよさそう」
「秋色なあ」
「もう言うてる間に秋やな〜」
「秋やから、腕は出さんでええんとちゃう?」
「腕回り不自由やと窮屈やんか。絵描くとき」
「けど寒いやんか」
「カーディガン着るからええねん」
「脱いだら出るやん」
「そらそうやな?」
あれ、話一周しとんな??
「んー。これかさっきの店のあれか……」
「なんや、首ある服ばっか見とるな?」
「…………」
「なんやその目ぇ」
「なんで首あるやつばっかり見とると思てんねん」
「俺なんか関係あるん?」
「胸に手ぇ当てて考えてみ」
「…………?」
「…………これを見なはれ」
「あ」
「わかりましたか」
「ああそういう……」
「反省せえ」
「なんや照れるなぁ」
反省を!せえ!
なんてやりとりがあったりなかったり。
「こんなもんかな」つないだ手のさらに向こう側、北の手にぶら下がったなショップバッグを眺める。三枚ほど新たに首元を隠せる服を購入できたので、これでまあ仕事や用事のあってよそゆきの格好をしないといけない場合のコーディネートはたちまち回せそうだ。これがまた、冬になってきたら、ニットとか買い揃えなあかんやろうけども。しばらくの間、あれでもないこれでもないと、三フロアほどうろつき回って服を見てきたが、北はその間、私の手に取った服にコメントしたり、これはどうやと提案してくれたり、服をあてたときは褒めてくれたりと、関心ありげな様子で過ごしてくれたので、目的のものを購入できた頃にはすっかり心がほかほかしていた。気分も弾む。
「もうええんか?」
「うん、こんだけあったら」
「そうか。ええの買えてよかったな」
「ありがとう。しかも、一枚は買うてもらって……」
「ほんまは全部買うてやりたかってんけどな」またそういうことさらっと言うやろ。最初に服を買おうとしたお店で、なんと北が会計をし出したので仰天のあまり目玉が飛び出そうになったのだ。お金返そうとしても頑なに受け取らへんし。これはあかん。と残りの二件はどっちが先にお金を出せるかの勝負やった。さっきの店ではついに店員さんに笑われてしまったからな。ついさっきほどのやりとりを思い出しつつ、なぜだか残念そうな顔をする北には「もう十分ですもう……」と心からの返答をしておく。最後のお店を出て、通路の端っこに寄って一度立ち止まる。さて。これで服は買えましたな。
「北買いたいもんって、ここで買える?」
「いや……」北はそこで言葉を切って、首を振った。じゃあ出よっかと言うと頷いた。なんやかわええ男やな。という感想を抱いて二人歩き出す。見て回るうちに四階まで上ってきてしまったから、エスカレーターで一階へと向かう。エスカレーターは自動なので、乗ってしまえば私が動くことはない。動くことがないと、考えてしまう。私は、先に乗った北の異様にかわええつむじを眺めながら、北が買いたいもんてなんやろうと首を傾げていた。聞いても答えてくれんねんもんなあ。なんなんやろう。しかもここでは買えへんという。なんやろ。神戸まで来て北がほしいもんとか、まったく見当がつかんねんけど。でもお洋服買うてもらったしな。そっちは私がかっちょよく買うてあげるんもええよな。そんなことを考えていると、地上へ降り立つのは早く。先に降りた北の手に支えられて私も一階へ降り立った。……エスカレーターぐらい、ほんまは一人で降りれるけど。手を差し伸べる北がかっこよすぎて取る以外の選択肢ないやろ。そのまま出口へまっすぐ進んで外に出た。お日さんは今日も絶好調に仕事をしていて、日よけ帽をかぶっていない今日の北の頭部がちょっと心配になるような、ぎらぎらした陽ざしだ。管理された温度から外の熱風を一挙に浴びることとなった私たちは思わず顔を見合わせ、うわあ、という表情になって、それからお互いのしかめっ面がやけにおもろかったので、笑ってしまった。
「な。ちょっとこっちの方行ってもええ?もうすぐそこやから」
「うん、ええよ」
北の行き先がわからないので、それはまあそばを通ったら申告してもらうとして。大通りを南下する前に寄っておきたいところがあったので指をきゅっと握る。ふ、と笑う北の笑顔に影がかかって、お日さんの下の北ってほんまかっこええよなあと思いながら目的地をめざして歩く。ほんまに歩いてすぐ、ミントからワンブロックずれたところの道向かい。区役所のあるブロックに入っている古めかしい建物に到着する。その一階コンビニやクリニック、パン屋に銀行、宝くじにチェーン店などお店がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、来たことがないようで物珍しそうにする北の手を引いて二階へ上がる。「あったあった」目的の看板はすぐに見えた。
「……画材屋?」
「そ」
「額縁めっちゃ置いとる……」北の視線は店頭に飾られた様々な大きさや形の額縁へ一直線だ。ここは廃番コーナーとかお買い得のブロック多くてええねんなあ。北のつたない感想にかわええなとときめいてから、店の入り口そばにまとめられている画材のパンフレットや展示会のチラシにすらっと目を通す。気になるものは持ち帰る。それから店の中へ入って画材の棚へ向かう。
「絵の具買うん?」
「んー。パウダー欲しいんよな」
「パウダー」
「あったあった」
「金粉やん」
「金粉やで。あと銀とブロンズも」
「これ使うん?」
「ちょっとな。やってみたいことあってな」小瓶を一つずつ、それからメジウムも一緒に持ってレジで会計をする。「おまたせ」支払いを済ませて商品を受け取り振り返ると、キョロキョロしていた北は手を差し出してくる。空いている方の手でそれに触ると、もう片方の手で荷物を奪われて、そのまま歩き出してしまった。なんやそっちかあ、間違えた。無性に恥ずかしくなって北の背中へ向かいおどけるように言う。店を出て階段のところまで来ると北が振り返った。
「間違えてへんわ、なんも」
ゆでだこの二人が炎天下に再び現れる。
大通りの交差点を渡って、フラワーロードを南下する。途中通りがかった花時計はなんと三千株を使って豪勢な花束を描いた図案をしていて驚いた。まあるい花びらが目に鮮やかでかわいらしかった。なあ北の寄りたいところ、と切り出すと、まあええやんぶらっとしようやとまた躱された。ますます疑問に思いながら、まあまあと言うて手を引っぱるのでそれに従う。中の道に入ってレトロな建物がずらりと立ち並ぶ旧居留地の街並みを眺めて歩く。
「すごいな。ヨーロッパみたいや」
感心した風に北が呟いて、それからこっちを見る。きゅっと指をにぎる。
「すごい」
「うん、すごいな」
あんたはすごいかわええな。
「大正時代に建ってるやつとかあるもんな。歴史あるよな」
「大正か。それは……古いな」
「色々テイストは違うけど、なんか雰囲気あるよな。私三井ビルとか好き」
「ふうん。それどこにあるん?」
「あれはもっと、海岸通りまで行くねん」
「みょうじ詳しいな」
「このあたりはな。あと北野の方面はよく行っとったわ」
「そうなんーーあ、ここ靴あんで」
「ほんまや。ちょっと見ていい?」
「うん」
広い歩道を手をつないで、ウィンドウショッピングを楽しむ。デートや。重厚な風合いと一棟一棟象徴的なデザインの建物の中には様々なショップが入っていて味わい深い。私は建築については詳しくないけど、ファサードは建物によって全然違うので、あの面構えが好きやとかあれ華美すぎん?とか好き勝手な感想をしゃべりながらうろうろする。北は今まであんまりこの辺まで来ることがなかったようで、興味深そうにキョロキョロとしながら普段よりもちょっと幼い反応をする。かわいい。それやのにしっかりばっちりエスコートをしてくるのでほんまに胸がはちきれると思う今日このごろ。
「あ。とんぼ玉ミュージアム」
「そんなんあるん。とんぼ玉て」
「ガラス系の工芸品が色々飾ってあるねん。綺麗やで〜」
「へえ……見てみたいな」
「あ、うん。もちろん!行こ!」
色とりどりに彩色された鮮やかなガラスの品々。涙みたいに透き通った透明。高温で一気に熱された純度の高さ。どろどろの塊を折り重ねてできた不純な透明。花々を閉じ込めたでっかい球体。細部まで綿密に形づくられた昆虫たちの世界。私も久しぶりに来たとあって一つずつしげしげと眺めてしまう。まったく別の世界に足を踏み入れたような感覚になりながら、出てきたころには二人して、はあ、と大きく息を吐いた。すごかったなと顔を見合わせた。
「みょうじは」
「うん?」
「こういうところにも来んねんな」
「行くよ〜。色んなもん書くのに、材質によって見えるもんとか、魅せ方とか変わるやん。ガラスとか金属とか石とか布とか。まあ勉強やな」
「画家は……美術展とか、個展とか、そういうんに行くもんやと思っとったわ」
「行くこともあるけど、基本それは見る側としてやなぁ。神戸はそういうとこも多い街よな」
「そうなんか……」なぜだか少し眉尻の下がった北に首を傾げる。
「北はなんか行ったことある?絵の催し事」
話の流れで尋ねただけだった。
聞いておきながら、まあそんなないやろうなと思った。あったとしても、小学校のそういう行事でとか、美術の課題でとか、そういうんやろうなと思っていた。質問を受けた北は、記憶を辿っているんやろうか。少し黙ってから、口を開いた。
「元町の方の画廊は行ったことある」
「え?」予想もしない返答に声を上げてしまった。
画廊て。北が画廊?意外に思いつつ、告げられた場所には心当たりがあったので、突っ込んで聞いてみることにした。
「元町の画廊て……トアロード?」
「そんな名前やったな」
やっぱりトアロード。
私も何回か行ったことあるけどーーでもあそこって確か。
「あと県立のところ」
「……兵庫県立美術館?」
「それやな」
「そこも行ったん?」
「うん。よかったで」薄く笑って言う北に、なんでかぎゅうっと胸が締まる。
トアロード画廊は昔っからある歴史の長い画廊やけど現代美術ばっかりを扱う画廊や。県立美術館はものすごい規模のでかい美術館やけれど、展示される作品は兵庫にゆかりのある作家の作品ばかり。ゆっくりと流れゆく街並みなんか目に入らず、まっすぐ前を見て歩く北の横顔を馬鹿みたいに見上げたまま、私は少し乾いた口を開く。
「なあ北」
「うん?」
「それって、いつの話?」
北は黙った。こちらを見ることなく、数秒黙って、それから答える。
「春……になる、少し前やったかな」
「……今年、の春?」
「せやな。今年も行った」
「…………」
「なんや。変な顔して」
どうしたん。
今度こそこっちを見て、やさしく笑う北に、言葉が出なかった。
そんなん。やってそんなん、そんなん。
いつから?なんて、とてもやないけど聞かれへん。
涙が出そうやった。
やわらかい笑顔を浮かべながら、いまどんな気持ちなんやろう。私と向かい合って、いま、力のこもる指先で。いまなにを思うてるん?
寂しいと思ってくれた?なんて、はじめて酒を酌み交わした晩に言うたっけか。泣いたって北は言うたな。私は見たかったって駄々こねて、結局北を泣かせたんやったな。
『お前が今、抱きしめてくれたら、泣いてまうかもしれんなあ』
言うたとおり。
私が抱きしめたら、北は泣いたな。
会いたかったって言うてくれたな、いつもいつも。
あの日、はじめて私を抱きしめたとき、びっくりしすぎて声すら出せんかった私を痛いほど抱きしめて、あんときも、北は、震えとったな。あんときも。あんときも。あんときも。
いったいどんな顔をしていたんやろうか。冷えた指先をぎゅうと握られて、はっとする。いつの間にか立ち止まってしまっていた、その目はなにかを言いたげに、じいと見下ろしてくる。北は、なにも言わない。ただ、ショップバッグを引っかけた腕を持ち上げて、そっと髪を撫でる。ふっと笑う、その表情が胸に刺さる。
どうしたらええんやろう。
どうしたら、どうしたら私は、こんひとをしあわせにできるん?
「……なんて顔をしてんねん」
「……北ぁ……」
「ほら。こっち寄り」歩道の端っこまで手を引かれて、建物と北に挟まれる形で立ち尽くす。繁華街から少し離れているとはいえ夏休みの観光スポット。北の身体越しに人が行き交う姿がぼんやりと視界に入るものの、顔が、くっつきそうなくらい近づいてすぐに見えなくなる。
「き、きた、人おる」
「うん、ええから。どうしたん、そんな泣きそうな顔して」
「……わからへん」
「わからんの」
「うん……」
わからへん。
わからんことばっかりや。
なんで私はこんなにアホなん。
なんで北はこんなに優しいん。
なんで北は私が好きなん?
髪を撫でるやさしい手のひらが恋しくなって掴まえて頬にあてる。ごつっとしている男性の手。なのにふやっとやわらかい。北のぬくもりが伝わる。どきどきするのに、ほっとする。北を見上げる。くちびるをきゅっと噛みしめた北が、吐息のかかる近さにおって、思わずかかとが浮く。「え」手のひらよりももっとやわらかい、少し開いたところに触れた。あ。グロス塗っとったんやった。と離れるときにやっと気づいた。
「……みょうじ」
「…………」
「人、おる……」
「うん…………」
おでこから首まで真っ赤になった大人が二人、人の往来も、車通りまである道端で、街路樹と建物に隠れ切れずに立ち呆けてキスをする。なんて節操のない。という声が聞こえてきそうで途端に恥ずかしくなる。真っ赤になった北の、くちびるはわずかに赤くかがやいて、慌ててポケットから取り出したハンカチで拭う。
「なにするん」
「グロス、ついた……」
「……ほんまや。みょうじはちょっと薄くなっとる」
顔の赤いまんま、北が、笑った。花が咲くみたいにきれいに笑う。目じりがやさしく下がって、くちびるがきゅうっと弧を描く。きれいなひと。なんで私の前でそんなきれいに笑うん。汗をかいても離れない、放さない手のひらがお互いにぎゅうっとつよく握り合って、夏の日差しの降り注ぐ道ばたで、ちょっとの間、そこに二人でたたずんだ。
蝉の声がやっと耳に届くぐらいになるまで落ち着いたころになって、ようやく私たちは動き出した。離せないものは離せないまま、影もくっついて歩き出す。せっかくここまで下ってきたし、そのまんま私の好きな建物を見に行く。少しだけひやっとする潮風の身近に感じられる海岸通りすぐ手前にそびえるテラコッタ風のデザインが目を引く建物。正面の玄関口とトップに曲線を重ね、手の込んだ外装が心を華やかにする。昔はこれ見ていつかイタリア行ったんぞとか思とったな。懐かしい、と思い出しながら、首の痛くなりそうなほど見上げてしげしげと眺める北を見て笑った。おんなじブロックにあるショップを覗いて夏にぴったりのマリンアイテムを物色して、おそろいのキーホルダーを、どっちが買うかでちょっともめて結局お互いの分を出し合った。ゆらゆら揺れる水面と青色をふたり眺めてひと心地つけた。そこから少し西側へずれて北上し、通りすがりのベーカリーでパンを買って食べる。めっちゃおいしかったけどそれ以上に北が立ち食いはへたくそでコロネのクリームに苦戦している様子がかわいくてたまらなかった。いつの間にか南京町まで来ていたので小籠包のおいしそうな店を絞り込んで購入した。久しぶりの中華に舌がおおいによろこんだ。桃まんも食べた。よう食うなあ。からからと北が笑った。人の密集具合がすごくて、あれよあれよという間に南京町を抜けてしまった。
門を出たところで、北が右手を握り直した。
「……じゃあ、そろそろ、俺の買い物に付き合うてもらおうかな」
「お!」ようやく北、そん気になったんか!
「ええな!どこ?なに買うん?どっち?」
北の買いたいもんなんてまったく見当もつかん。濁したり躱すばっかりで全然教えてもくれへんから、気になって気になって仕方なかったんや。自然と声も弾むし身を乗り出してしまう私に、北は「ノリノリやな」と笑う。
「なあどこ行くん?」
「内緒や」
「な」内緒て。北が使うとかわいすぎる言葉トップ10に入る強ワードを、あんたそんなあっさりと……。きゅんきゅんと鳴り響く私の胸の内なんか知るよしもないまま、「こっちや」と手を引く北に従って足を進める。東側の門から出た流れのまんま、商店街の手前まで行って身体の向きを変え立ち止まる北。どうやら横断歩道を渡るようだ。渡った先はーーと正面を見ると、でっかいでっかい……旧居留地エリアのシンボルとも言えようでっかいでっかい……まるで宮殿のようないでたちの重厚な建物。これで築二十年ちょっとなんやもんなあ。などと思っていると信号が変わって、一斉に歩き出す。北が迷いなく進むのでついていく。何車線分もあるメリケンロードの交差点を渡り終えると、北はその、緑の庇の特徴的な、コーナーのアーチ状がうつくしく目を惹く、その建物へずんずん近づいていく。正面入り口の円柱のところまで到着すると、二人の身体が完全に日陰に入って、そこで足が止まった。
「北?」
「ここや」
「ここて」
北につられて建物を見上げる。近づきすぎてもはや軒天しか見えへんけども。
「大丸やん」
「大丸やな」
「え、百貨店やで?」
「うん」うんて。北の反応からして、目的地はここで間違いなさそうやけど。品のよさそうな見た目に反して身の回りのもんにあんまり頓着せえへん北にしては意外なチョイスやなと思う。
「ここでなに買うん?」
この男がわざわざ百貨店まで来て買うもんなんて限られとるやろ。スーツとか礼服とか、誰ぞ同級生の出産祝いとか、お中元、の時期は終わったな。あとはあるとしたらお婆ちゃんへのプレゼントとかか。などとアタリをつけていると、さっきっから表情を微動だにしない北が、こともなげに口を開いた。
「指輪」