「北ええ?」
「うん。決まった」
「いっせーのーでで引くねんで?」
「うん」
「じゃあ引くで?」
「うん」
「いっせーのー……で!」元気な掛け声とともに、握ったひもの先端を強めに引っぱると、長い長いひもが柱を通って『千本引き大会』と書かれた看板の穴をすべって、屋台の中で吊り下がっている大小さまざまな景品たちの中からひとつずつが持ち上がった。戦隊もののフィギュア、大人気キャラクターのままごとセット、室内で遊べる簡易ダーツ、スイカのペイントが施されたビーチボール、お徳用パックに入った駄菓子類、ぬいぐるみ、文房具、うちわや小物など、なんや子どもの好きそうな色んなものが混ざり合った景品の中から、自分が選んだ一本のひもとつながっていたのは、吹き戻しやった。吹き口から息を吹き込むと、先端にくるくると巻き付いた紙が伸びて、離すとまたくるくる戻ってくる、アレや。屋台を出しているおっちゃんがそれを確認して景品を取ってくれる。みょうじの方はどうやったやろうかと隣を見れば、握り込んだひもを何度も引っぱって、おっちゃんが取り外しにかかる間、つながった景品を上げたり下ろしたりしている。子どものようにきらきらと目を輝かせて、頬を紅潮させた横顔は、景品の如何よりもこのくじの屋台やひもを引っぱって景品が決まるという仕組み自体を面白がっているように見えた。「はいお待たせ。おねえちゃんはコレや」おっちゃんがひもを外してそれをかのじょへ手渡した。それを笑顔で受け取って、その屋台の前から離れるように歩き出した。
「花火取れんかったなあ」
残念そうには見えないが、残念そうなことばを口にしてかのじょは腕に抱えたそれを見下ろした。俺は「せやなあ」と返した。
「けど、おもろかったなあ」
「せやな。みょうじええもん獲れたやん」
「な!これかわええな!」
おまえがかわええわ。というような顔で笑って見上げてくるみょうじのほっそい腕にはぬいぐるみがしっかりと抱えられている。たしか、なんやったっけこれ、このネコのやつ。とそれを見ていると「ケーティちゃんやで」とかのじょが言う。そうそう。そういう名前やったな。異様に目力のあるこのネコ。幼児向けっぽいかわいらしいキャラクターグッズを販売しているブランドのキャラやったのはうっすら覚えている。幼児向けにしてはえらい怖そうやけどな。はーかわええ、と言いながらぎゅっと抱きしめるかのじょは異常にかわいらしかった。
「かわええか?それ」
「かわええよ。かわいくない?」
「目がすごい」
「この目がええんやん!」
「そうか…………?」
「にゃん」
「……………………」
「ハローハローケーティ、こんにちは〜」妙な歌を口ずさみながら歩く、機嫌のよさそうな横顔。かのじょは片腕にぬいぐるみを、俺はカラフルなヨーヨーを提げて、もう片方をしっかりとつないで、かつては六年間を過ごした学び舎のグラウンドをゆっくりと回っていく。小さかったころはとても広く感じていた校庭も、今見ると印象が大分異なる。ここよりも広い景色を見てきた。より大きな舞台で戦ってきた。目線も違う。手を、つないでいるひとも違う。不思議な心地のするもんやなあ、と思いながら、さっそく次の屋台に興味を示してぐいぐい引っぱってくるかのじょのために足を速めた。
「型抜きある!」
「やっていくか?」
「うん。なんや北得意そう」
「得意て言うほどやったことない」
「じゃあこれやって!これ!」お金を払って、台の上に置かれている箱の中から薄い板状の菓子を選ぶのだけれど、かのじょがはいっと渡してきたのはひまわりの図柄の溝が彫られた型抜き。
「ええよ。けどなんか難しそうやな、細いし」
「北ならできるて〜」
「まあ、ええけど。みょうじはどれやるん?」
「私はこれ。おさかなさん〜」
「俺のとえらいちゃうな」
「なあ勝負しよ?勝負!」
「難易度に大分差ぁないか」
「気のせいやと思うで」
それぞれ描かれている図柄のとおりに指でくり抜くというこの遊びは、図柄によって難易度が異なる。単純な図柄は簡単やし、複雑やったり細かったりする図柄は難しくてすぐに割れてしまう。かのじょは魚の形のものを取り出してにっこりと笑う。その上で勝負をしようなんていうんはちょっとずるいんとちゃうかと思いつつ、用意された席にそれぞれ着いて、型抜きを始める。ヨーヨーとかくじのところじゃ幼児とか小学生くらいの子どもがほとんどやったけれど、型抜きは大人もちらほら混ざって皆真剣な面持ちで手元を見ながらちまちまと作業をしていた。かのじょはすでに「あれっ!まっすぐしか割れへん!?」取り掛かっているので自分もと手元を確認し、とっかかる場所を探して指と爪を使って小さく細かく割りだした。ぱき、ぺきっと軽い音がして簡単に割れてしまうので、ちゃんと集中してやらんと、細い茎の部分や、花びらのところなんかは非常に危ない。「うーん。ここ割ったら尾っぽなくなってまいそうや……」ああ割れてほしくないところはちゃんと指と爪で守っとかんと。慎重に慎重に少しずつ、ささやかな力を入れて溝に沿って形を割り出していく。こういう細かい静かな作業をするんは嫌いやないので、黙々と行っていれば、徐々にその形が現れてきた。「ギザギザとかどうやるん??これ尾っぽ片方なくならへん?」尾っぽへの被害はもう免れそうにないな。最難関の茎の部分もきれいに細くかたどることができて、最後の葉っぱも難なく図形のとおりに割ることができた。おお、完成や!にいちゃんすごいな。背中の方から子どものはしゃぐ声がする。できあがったひまわりを台の上に置けば、この出しものをしていたおばちゃんが「あらすごいな」と景品を渡してくれた。受け取りつつ、様子はどうやろうと隣を見れば、難しい顔をして手元を覗き込んでいた。
「みょうじできたか?」
丸まっている背中に声をかける。するとかのじょはゆっくりとこちらへ、泣き出しそうな顔を向けた。道端でこけてん痛い、というよりかは、なんかしら不満があんねんで私は、という感じの表情だ。
「そんな顔して。どうしたん?」
「北ぁ〜……」
甘えた声を出すかのじょに、おやおやどうしたと思い椅子ごと隣へ少し寄せた。かのじょは眉を下げたまんま、身体もこっちへ向けて、手のひらのものを差し出してきた。それを覗くと、ああやっぱり尾っぽ切れてしまったなあ。やんわりした曲線の魚の形もだいぶんデコボコになっとる。
「私の負けや…………」
そんな切なそうな顔をして、かわいそうに。手のひらの中にある、ボコボコの魚をじっと見下ろして、かのじょが呟いた。
「こん子もかわいそうになあ。私にあてがわれてしまったばっかりに……」
「そない哀れまんでも」
「魚やったら、できる気がしててん……」
「そうなん」
「いちばん簡単やって聞いとったのに……」
「聞いとったん」
「ちなヒマワリは二番目にむずいやつ……」
「わかっとって勝負持ち掛けとるやん」とはいえ、最難関でないあたりはかのじょの良心がはたらいたんやろうか。
「負けたほう(北)は勝ったほう(私)の言うことなんでもひとつきくねん……」
「そん条件、最初に言わんとずるないか?」
「ずるい……ごめんなさい……」
「けど言うたら北、本気出すやん……」出すけども。いや言われんでも出したけども。別の子どもの相手をしていたおばちゃんが、そのうちかのじょの『魚』に気が付いて「残念やなあ。はいこれ景品!」とラムネの入った小袋をくれた。後ろを振り返れば子ども達が順番待ちをしているので、これ以上長居せん方がええなとふたり席を立った。まあちょっとずるをしたみたいやけど、言わんかったらわからんかったようなことまで、しょんぼりするあまり口に出してしまうような、素直なところがいとおしいなあ。中には未就学であろう子どもまで混ざっている順番待ちの列から「ねえちゃんおしかったな」「あともうちょっとやったで」「ラムネうまいから元気だし」などと励まされながら、ますます本気で落ち込むかのじょの手を引いて、型抜きの屋台から離れた。
「なまえちゃん信ちゃん。おかえり」
「おばあちゃあん!」
「あらあら」ばあちゃんを見つけるなり抱きついたかのじょに目を瞬いて。椅子にちょんと腰かけたまんまでばあちゃんはその背中をやさしく撫でる。
「どうしたん。信ちゃんにいじわるされたん?」
「せえへんよ」ばあちゃんは近ごろそればっかり言うなあと首をかしげる。俺はそんなに、かのじょに意地悪をしているように見えるんやろうか。そうやとしたら、まったく心外やねんけど。
「…………私がずるしてん……」
「あらまあ。ずるはあかんで」
「うん……北ごめん……」
「ええよ。さっきも謝ってくれたやん」
「しかも、負けた…………」がっくりとうなだれるみょうじに空いた椅子を引いてやると、少しだけ身を引いて大人しく腰かけた。俺も手にしている荷物をテーブルの上に置いて、かのじょの隣へ座った。ばあちゃんはテーブルの上にあるたこ焼きの容器からひとつ、つまようじで刺してかのじょの口元へ近づけた。
「はいなまえちゃん。これ食べて元気出しや」
「わあい!」瞬時に。
とても成人しているとは思えないようなよろこびの声をあげて、みょうじがたこ焼きにぱくついた。「んま〜……」ゆるゆると上がる口角と下がる目じり。うっとりとした表情でもぐもぐとたこ焼きをほおばるかのじょを眺める。油断しまくり、隙だらけの顔。かわええなあ、と思いつつ、気分が晴れたらしいことに胸を撫でおろした。経緯は非常にアホくさいもんやけど、みょうじのあんなに落ち込んだ顔なんて、とんと見んから驚いたなあ。
「うまいか?」
「うまぁい」
よかったなと頭を撫でるとうれしそうにすり寄ってくる。好きなしぐさのひとつに胸が鳴った。
「信ちゃんも食べる?」
「うまぁいで!」
「うん。一個もらうわ」
さっきまで暗かった表情が、たこ焼き一つで明るくなる。なんて扱いやすいひとなんやろうか。感情がめまぐるしい。まあ嬉しそうでなによりやけども。うまいもんはやっぱり凄いなあとうなずいて、ひとつ自分の口にも放り込む。ソースとマヨネーズのかかった表面を噛むと、そこからとろっとした生地が舌の上に広がる。タコもけっこうでかいのが入ってる。思わず無言で噛み進めて、かつおぶしの香りと味付けの風味、生地や具の食感を楽しむ。
「うん、うまいわ」
「な。坂常のおっちゃん、天才やなあ」
「坂常のおっちゃんて誰?」
「ゆうゆう窓口におったおっちゃん。いかついけど、話のわかるええおっちゃんやで」
「…………」
コミュニケーション能力えげつなない?
「なまえちゃん、かいらしいもん持っとるなあ」
「これケーティちゃんやで」
「かわええなあ」
「かわええやろ」
「かわええか……?」
「にゃん」
「かわええわ」
「せやろ!」破顔するみょうじには悪いけども。かわええんはそんネコやないんやからな。というのは心の中に留めておくこととして。ばあちゃんは最早ぬいぐるみやったらなんでもかわいく見えとるんとちゃうやろうか。みょうじが人形遊びをするみたいにぬいぐるみを動かしてばあちゃんに話しかけて、うれしそうに言葉を交わす。ままごとは少しの間続いた。
「はい。どうぞ」
買ってきた缶ジュースのプルタブに爪をひっかけて開封したものをかのじょに手渡すと、ちょうちんのあたたかな色で照らされた頬が見てわかるほどに赤くなる。こんくらいのことで、なにもそんな顔をせんでも。とこっちまで面映ゆくなってくる。そんで受け渡しのとき、ちょっと指が触れ合おうものならば、それはいっそう。さっきまであんなにずっと手を握って歩いておいて、これはどういうことやとは思いつつ、身体はまあ正直なもんで。体温を下げるために自分用に買ったラムネの瓶をぐいと呷った。傾けた瓶からカランと音が鳴る。きんきんに冷えた液体が口内に流れ込んで、しゅわっと泡を立てる。のどへ流し込んで、かあっとした感覚になりながら、ひとつ気になったことを尋ねてみようと口を開いた。
「なあ、みょうじ」
「ん?ひとくち飲む?」
「飲む。……うん。ラムネはいるか?」
「飲みたい!」
「どうぞ」
「やったぁ」
「このビー玉ほしくてラムネ買うたりしたなあ」などと言いながら、うまそうに飲んでいるかのじょにたとえば今、間接キスやなとでも指摘してやったなら、えらいことになるんやろうなあ。なんてことを思う。せんけど。いただいたオレンジジュースの缶を返し、返ってきたラムネの瓶を再び手元に戻す。
「なあみょうじ」
「ん?なあに」
「型抜き勝負、勝って俺に何ねだろうと思っとったん?」
なんでもひとつ言うこときく、やったか。
自ら持ち掛けた勝負ごとで、自分と相手の難易度上げ下げしたり、勝敗決めたあとのこと言わんかったりするんは、本人も『ずるをしました』と白状しとったけれども。まずまずみょうじはそういう手段を日常的に講じるような性格ではない。そんなことまでして勝ちたがったということは、よっぽど勝って得られるもんが欲しかったと見るんが道理やろう。慣れへんずるまでして、俺にきかせたかった『言うこと』というのはなんなんやろうか。不思議に思って問いかけると、「えっ」かのじょは数度瞬きをして、それからくちびるをきゅっと結んで、けれどもすぐにそこをむずむずとさせ始めた。
「それは、そのぅ……」
「教えて?」
視線はそっとそらされて、手元の缶へ向けられてしまう。さきほどの名残、とは言えんくらい、またじわじわと赤らむ頬が、なんとなく予感させる。
「あの…………」
きっと俺は、よろこんで叶えてやりたくなるんやろうなあ。
「あんな……」
「うん」
「……耳かして」言われるがまま、顔を近づけた。ふわっとやさしい香りをただよわせて、ひっつきそうなくらいまで側寄ってくる。かのじょの熱をほんのりと感じて胸がどきどきと言いはじめた。
「きこえる?」
「うん」こしょこしょと吐息が耳をくすぐって、なんだかいけない気分になってしまいそうやなあと考えながら、ほぼ息だけでひそひそと話すかのじょの言葉に耳を傾ける。
「あんな」
「うん」
「うんと、あの」
「うん」
「……北と、ふたりで写真撮りたい……」
「…………」
「……撮りたかった、です……」
声がすこし震えている。なんでそんな、勇気を振り絞ったみたいな顔をしているのか。なんでそんな、傷ついたような顔をするのか。なにをそんなに、こわがっとるんか。そんな顔をせんでも。勝負なんかせんでも。ずるなんかせんでも。そんなささいな願いごと、言うてくれたらいくらでも。
「ふ。ふたりとも。浴衣を着とるし。おまつりやし。イベントごとやし。思い出やし。せっかくやし。せっかくやから。せっかく…………」
せやのに、なんでそんなに必死に理由を。
「か、かのじょやから、いま私…………」
冷たくなったかのじょの指先をとる。なんでこんなに冷たいん。とんでもなく真っ赤な顔で、なぜか泣き出しそうな顔をして、見上げてくるみょうじがささやいた言葉は、どこかで聞いた覚えがあった。どこやろうか。なんて記憶をさぐるまでもない。なんでなんて白々しい。こんな顔を、しとったんやろうか昔も。俺の知らんところで。頼りない冷たさをぎゅっと握りしめて、自分の熱を分けてやる。力の抜けたかわいい爪先にくちびるを落とした。
「…………せやなあ」
ぼうっとこちらを見下ろしてくる、熱を帯びたまあるい瞳。
「ほんなら、撮ろうか。写真」
「……えっ。ええの?」
「うん」
「ほんまに……?」
「かのじょやしな」
「う、うん。かのじょ、です」
「せっかくやしな」
「う、ん。せっかく。せっかくや」
「ばあちゃん、頼んでもええ?」スマートフォンをポケットから出して電源を入れ、ほぼ使うことのないカメラを起動してからばあちゃんに差し出すと、やさしい声で承諾してくれる。ここのマークを押すねんと説明して、コクコクと首を振り続けるかのじょをそばへ引き寄せた。
「き、北、近、近い」
「そばに来んと、入らんやろ」
「こ、腰。手っ……」
「気にせんで。ほらもう撮られとる」
「えっ!?お、おばあちゃん!?」
「ほらまた鳴った」
「えっ、ええっ……!?」パシャパシャと特有のシャッター音が鳴り続ける現象にたいそう吃驚するみょうじを見下ろして笑う。
「ほらみょうじ。一枚ぐらい笑わんと、ゆでだこの顔ばっかアルバム入れられんで」
「えっ、あっ、ま、またタコって……!」
「ピースとかしとかんでええん?」
「あっ。……あ〜もぉ〜!」
いくらか促してやって、矢継ぎ早に押され続けるシャッターにもようやっと観念したのか、空けてやった片方の手で、思いっきりピースサインを作って前に突き出した。まだ放してやらない右手はすっかりと熱くなって少し汗ばんでいる。小さな小さな熱い手のひらを、握りしめて、赤いままこわばった顔がやがてほろりと緊張の解けて恥ずかしげに笑みを浮かべるときがくるまでずっと、ばあちゃんはシャッターアイコンを押し続けたし、俺はかのじょから手を離さなかった。
「ずいぶん歩き回ったけど、足痛ないか?」
購入したりんご飴を舐めるかのじょに声をかける。かのじょはちらちらと普段よりも赤くなった舌をのぞかせて、うんと笑う。なまめかしい。
「北が鼻緒んとこ、ほぐしてくれてるから。ガーゼまであててあるし」
「おろしたては一番鼻緒ずれしやすいからな」ばあちゃんが痛くなりにくいもんを見繕ってきたとはいえ、おろしたての下駄は長時間の歩行には不向きそうで、途中何度も休憩を挟んだとはいえどうやろうかと心配だったのだ。椅子とテーブルの用意された休憩スペースとは違う、校庭の端っこに置いてある遊具に腰かけて、器用に片足を抜きさらすかのじょの白い足をふくらはぎから持ち上げて確認する。
「う、うわあああ。北!北!?」
暗くてよく見えへんけど。鼻緒を挟む指の付け根、目視可能な頬みたいな赤みはないから、大丈夫なんかな。とひとり頷く。腰かけるかのじょを見上げるような高さで行っていると、後頭部になにか、もふっとした、軽いもんが置かれた。そして離れる。また置かれた。再度離れたときに顔を上げれば、目が合った。りんご飴を握りしめる方とは別の手で、掴んだぬいぐるみで頭をはたいていたらしい。
「なにするん」
「こっちがなにするん、や!急に足を」
「確認しとった」
「そうでしょうね!」
「やっぱりやらかいなあ」
「あ、こら!」
「揉むなぁ足をぉ……」そうは言いつつ、揉むごとに力の抜けていく声からは多少の疲労がみてとれた。慣れへん格好やしなあ。歩き回って、疲れたなあ。いたわるような手つきでやさしくふくらはぎを揉み続けていると、いつしか頭のぬいぐるみは置きっぱなしになっていた。髪ぐしゃっとなっとるやろうなあ、と思いながら「次、反対側出して」とやわらかいふくらはぎから手を離せば、土の上にぽんとほうられた下駄へ再び足を通して、かわりに逆の方が裸足になって、ほんの少し上げられた。浴衣の裾が、逆側へ少しめくれて開いた合わせ目から白い膝小僧がちらついている。すべすべの肌に触れながら、そこを見ていると「あっ」視線をたどったのか勘付かれて、ぬいぐるみを膝の上へやって空けた片手でめくれた合わせ目を重ねられた。
「あ」
「…………すけべ」
みょうじなまえは本日もかわいらしくて大変よろしい。どうやらご機嫌を損ねてしまったのか、私いまあなたを軽蔑してます!と言わんばかりの表情で睨み下ろされたので、大人しく手を動かした。まあ、そんな頬っぺたしとる限り、ちっともこわないねんけどな。
「いまさらやなあ」
笑いながら、くちびるをつんと突き出したかのじょを見上げる。吸いつきたくなる、くちびるやなあと無意識に身体がかのじょへ寄るが、この場所でそこまでしてしまったら、こないだの海んときみたいに、叱られてしまうやろうなあ。ちょっとだけ、舌入れんかったらええかな?いやあかんか。本人いわく、身持ちが固いらしいのだし。あんときのように、倫理観!と叫ばれたらさすがに人が来てしまう。手を動かしながらそんなことを考えているというのに、かのじょは照れくさいのをごまかすようにりんご飴を、今度はがりっと噛みついた。「うみゃい」ほんまに食いもんは偉大やなあ。
「左の方もなんもなってへんな」
「うん。帰りもヨユーで歩けんで!」
「それはそれでちょっと残念やけどな」
「なんで?」
「歩けんなら、おぶったろうて思っとったのに」
「…………」
「信ちゃん、なまえちゃん、お待たせ」かのじょがりんご飴を食すことに専念し始めて幾ばくか。ばあちゃんが中央の人の群れの中から抜け出して、ぽてぽてと歩いてくるのを見つけた。同級生やという老夫妻との歓談はもうええんやろうか。今キスをしたらりんご飴味やなあとか考えながらかのじょを見上げていた俺は、焦点をばあちゃんへ動かした。走らんでええよ、と少し声を張り、ゆっくりと近づいてくるのを待った。「おばあちゃん!」みょうじが嬉々として声を上げる。
「ごめんなあ、ついつい話が長引いてしもて……」
「お婆ちゃんって人気者やんなあ」
「そんなこと、あらへんよ。ああ、りんご飴や。懐かしいなあ」
「照れとる〜。ひとくちかじる?」
「もう。からかわんといてや。今はええかな、ありがとう」
りんご飴は半分と少しほど飴の部分がかじられて、りんご本体も同様においしくいただかれている。立ち上がって急に目線の高くなった俺を今度はかのじょが見上げた。
「俺にもちょうだいや」
背中を折って、かのじょのそばに片手をつく。
「ええ?さっきはいらんて……」棒のところをうらやましくも大事そうに握り込んでいるちいさな手に自分のもう片方を添えて顔をぐっと近寄せる。一瞬で氷のように固まったかのじょをちらっと見て、それから口を開けて、噛みついた。
「…………」
「甘いなあ」ガリガリと外側の分厚い衣を噛み砕く。少しずつ体温で溶け出してくる煮詰めたような甘味と、果肉の酸味が口の中いっぱいに広がった。目を見開いて、ぽかんと口を開けたまま固まるかのじょをしばらく見つめるけども、十を数えても戻らなかったので、口の中のものを飲みこんで、もう一度いただくことにする。「はっ!?」あっ。正気に戻らはった。
「あれっ北……」
「うん?」
「いまなんか……おかわりせんかった??」
「してへんよ」飴のカケラが歯で砕かれて細かくなっていく。やっぱり甘い。ここまで甘いんは、そんなに好かんけど。
「そう?でもなんか……残り少なない?」
「気のせいやろ」
「そうかな…………??」ほとんど棒っきれになったそれをじいっと真剣に見つめる様子がかわいくって仕方がない。ふふっと知らずのうちに息が漏れ、ばあちゃんが呆れたように、おきまりの台詞を口にした。ちゃうよ。これは、かわいがっとるだけです。
夜もとっぷりと更けたころ、会場へ到着してからすでに結構な時間が経過していた。
「そろそろ帰ろうか?」と差し出した手にからまった細い指が、痛くならないように、けれど離れないようにとしっかり握りしめて校庭の土を踏みしめる。校庭の端から端を抜けて、正門が見えてきたあたりで、息を切らして走ってくる親子とすれ違った。二三歳ほどのちいさな女の子を大事そうに抱きかかえて、必死の形相、全力疾走、という風で、あっという間に祭りの会場へと消えていく。あれ?と思い、並んで歩くふたりと顔を見合わせた。周りにちらほらいた、ご家族や子ども同士のグループも後ろを振り返っていて、けれど少し首を傾げると前を向き直って再び歩き出す。
「なんやろ」
「走ってはったな」
「急いではった。……あれ?なんか聞こえへん?」
「ん?」三人、その場で耳をすませると、たしかに会場の方から、なにか、子どもの高い声が、いやこれ泣いとるんちゃう、泣き声のようなものが薄らと聞こえてきて、再度顔を見合わせた。瞬きをするかのじょとばあちゃんは、目が合うとおんなじ様子でうなずいた。つながった手は引っぱられることもなく、今まで目指してきた門を背に歩き出す。
「帰る前に、ジュース買ってこ」
「せやせや」
「たまにはなあ」
「にゃあ」
「ケーティちゃんも言うとるねえ」
「せやなあ」
祭りの会場へ再び近づくにつれて、その声は次第に鮮明に大きく耳に入ってきた。祭りの終わるほんの十分ほど前。人気がまばらになった校庭。屋台を出しているおっちゃん達も、撤収作業を始めているところがちらほらと。その中でつんざく大きな泣き声。その姿はすぐに見つかった。「くじ屋や」未だ会場内におる人らもそっちが気になるらしく、ちらちらと様子をうかがっているのを横目に、立ち寄ったことのある『千本引き大会』と書かれたのれんへまっすぐ歩いていく。
「いややあ!」
声の主は、ちいさなちいさな女の子やった。
長い髪の毛をやや高さの違う二つ縛りにして、黄色のタンクトップと薄桃色のスカート、サンダルを身に着けている。普通の、保育園に行っとるような子ども。そのそばで困り果てた顔をしているのは父親なのだろう。さっきほど汗だくで少女を抱え全速力で走っていた三十代後半あたりに見える男性が、涙をぽろぽろとこぼす少女を見下ろして、声をかけている。
「おもちゃ、もうなくなってしまったんやって」
「パパ、まだあるって、ゆうたやん!」
「いや……あったらええな〜って……」
「パパのバカァ!おまつり、いけるって、いうたのにっ。おしごとっ、すぐ、おわるって、ゆうたのにぃっ」
「ゆうちゃん…………」
「パパのせいでおまつりおわったあああ〜!」
そういうことやなあ。
辺りに響き渡る明瞭な声。なんと悲しいかな、この度の祭りが盛況であったがゆえに、屋台の出しもんのほとんどが売り切れになってしまった。申し訳なさそうな顔をして店じまいの準備をしている様子がいっそう彼女を悲しくさせるらしい。ちいさな女の子はいっそう涙を流して父親をののしった。父親まで泣きそうになる。お父さんも悲しいな。あんなに必死で、子ども抱えて、汗だくで、走ってきたのに。この様子や、仕事もきっと、がんばって、なんとか終わらせてきたんやないやろうか。よれてびしょびしょに湿ったスーツがそれを物語っている。
「ゆうちゃんくじびきしたかったあっ」
そして屋台のおっちゃんも困っていた。目の前で崩れ落ちる幼女を相手に、どうしたらええのかを考えあぐねている様子だ。おっちゃんの回しとった屋台はさっき俺らも行った『千本引き』。屋台の柱に無数に巻き付けられたひもの中から自分で好きな一本を選び、結び付けられている景品をもらう出しもの。そしてこの出しものも、終始つつがなく盛況に終わった。そう。もうないんや。景品が。少女が目の前で絶望に打ちひしがれても、おっちゃんにはもう、なんともできひん。そんなおっちゃんの心の声が今にも聞こえてきそうな顔をしている。
「たこやきたべたかった、ヨーヨーしたかった、たいこききたかった、ジュースのみたかった、アイスたべたかったあっ。ぜんぶできひんっ。なんもできひんっ。うそつきっ。パパのうそつきぃっ!」
「ゆうちゃん」
「パパなんかきらいぃ〜!!!」
ジゴクエズや……。
後ろを通った子どもが呟いた。
「お嬢ちゃん、かいらしいなあ」
のんびりと間延びした、おだやかな声が隣から聞こえた。大きくはないのに、耳にすうっと入ってくる、心のざわつかない声。生まれたときから聞いてきた、いつも共にあった声が、泣きじゃくる少女にやさしくさわった。
「ゆうちゃんていうん?」
トコトコと歩いて、少女のそばに屈んだばあちゃんは、巾着袋からハンカチを出すと、そっと小さな目元にあてがった。急に割り入ってきたおばあちゃんの存在に、ぽかんとした少女(さっきこんな顔見た覚えある)。ひくっとひとつ喉を鳴らした。
「ゆうちゃんは、何さい?言えるかなあ?」
「ゆえっ、るよ。さんさい」
「まあ。三歳なん。ちゃんと自分で言えて、えらいなあ」
「うん…………」
「おてても濡れてるなあ。なみ拭こうなあ」
「うん…………」
ばあちゃんと少女のやりとりを眺めていると、からむ指がきゅうっと強くなる。隣を見ると、みょうじもこちらを見上げていた。そしてなぜか、ぬいぐるみを顔のそばまで持ち上げて、揺らす。くじの屋台。の方へ。振る。
「…………」
「……あかんかなあ?」
自信のなさそうな声やった。
「……どうやろうな」と返事を濁す。
自信のないんは俺もやった。
けれども、空いた手が帯に挿し込んでおいたそれを掴む。取り出すと、かのじょはうれしそうに笑う。月下芙蓉。という言葉が頭をよぎった。うつくしいひとやと何度でも思う。そんなひとに、子どものように手を引っぱられて、こっそりと、屋台のおっちゃんの肩を叩く。目をまあるくしたおっちゃんが、それでもすぐに笑ってそれを受け取って、手元の見えないように屋台の中からひもを結わえ付けた。ついでに、勝負ついでにもらったこれと、よく弾むこれも託しておこうか。かのじょは少し苦い顔をして見つめた末に、小さなラムネの入った袋も差し出した。それらがすべて結わえ付けられて、下のほうばっかり見とった女の子が、次に顔を上げたとき、目に映ったんは、屋台の真ん中でゆらゆらと揺れて、片手で足りるたった数個の、なんとも寂しい、けれどどっかおかしい、少女が引いてくれるのを待ちわびる、姿やった。