玄関の扉を開け上がり框のところに腰かけて、足の半分近くを覆う暑苦しい作業靴を脱ぐ。一直線に引かれた廊下の中ごろから、ばあちゃんの「走ったらあかんで」というのんびりした注意が聞こえて、鳴り出した足音がどんどんと大きくなってきて、かぶっていた帽子をとり手荷物を持ち直して廊下へ上がろうと立ち上がったときには、ただでさえ可愛らしい顔をほころばせたみょうじがそばに立っていて、一瞬驚いたもののすぐにこちらも表情がゆるんでしまった。
「ただいま」
「おかえり!」
はじけるような、明るい笑顔。
お日さんみたいに笑うなあと今日も思う。
挨拶だけでそんな風に笑いかけられてしまったら、俺はちょっと困るんやけど、とは口には出せず、わずかに湿ってぺしゃっとしている髪を撫でようとすれば、汗やら土やらで汚れた手が視界に入り、慌てて下ろす。かのじょはそれを見て一目でわかるほどに残念そうな顔をしてから「お風呂すぐ入れるよ」と教えてくれた。
「着替えもぜんぶ置いたぁる」
「そうなん?」
「そんで、はいお茶」
「ありがとう」
麦茶の入ったグラスを渡されるままに受け取って、代わりに持っていた帽子と野菜を詰めた袋は奪われた。冷蔵庫で冷やされた麦茶を熱い口内と喉に通す。一気にグラスを呷れば身体の熱は和らいだし渇きは潤ったものの、玄関先で飲めとは、こらまたえらい気が急いとるなあ。今にもどっかしら走り出してしまいそうなほどに、うずうずした顔をしとる、かのじょを見て笑う。
「今日はえらい丁重やな。そんなに楽しみなん?」
触れられない分、少し身を屈めてその顔を覗き込み近くで楽しめば、風呂上がりの身体はソープのええにおいが香ってくる。ぴくっと反応して少し赤くなりつつも、やっぱり小さなかわええくちびるはきれいに曲線を描く。
「やって。ワクワクするやん。お祭り」
世界のさまざまなものに好奇心をきらきらと輝かせるその瞳を惜しげもなくさらす。ああ、勿体ないなあ。この身体が今、汚れてさえおらんかったら。この胸にかき抱いて、ぜったいに離してやらんかったやろうに。
「相変わらず、物好きやなあ。お前、世界中の色んな祭り、見てきたんとちゃうん」
「北こそ相変わらずの朴念仁やなあ。そんなん、北と一緒に行けるお祭りの楽しさに、かなうわけないやん!」
ほんまにもうこいつは。
俺のかのじょはもう。
「……ちっさい祭りやで。地域の」
「北が通ってた小学校見たい」
「出店もそんな数ない」
「お腹はちきれんくて助かるわ」
「花火も上がらん」
「くじ引きで当ててお庭でやろ」
「…………」
「私くじ運あんまりやから北も一緒にやってな」
「うん」
「ふふ。北ってくじ運よさそう」楽しそうに弾む声が心をこしょこしょとくすぐってくる。
何日も何日もかけて盛大に祝う記念日。絢爛豪華な衣装を身にまとい行う宴や踊り、競技、グランドパレード。世にも恐ろしい怪物に扮して子ども達を震え上がらせる夜の行進。花に炎に音楽に、街じゅう国じゅうが大騒ぎで興を起こすひとびとの集まりについて、身振り手振りで面白おかしく語るかのじょ。その話は新鮮であり、驚きと興奮に満ちていて、まるで子どものころに読んだ冒険譚のようだった。フィクションとは違い現実に存在するものごとだというのに、まったく身近には感じられず、けれどだからこそ、わき上がる寂しさにふたをして、その荒唐無稽なものがたりを聞くことができた。
それなのに、かのじょはそのどれにも劣らないという。どころか、これに勝るものはないわ!と言わんばかりの堂々とした様子で、そんな胸を張って、言うもんやから、俺は帰宅してものの数分も経たへんうちにみたび困った。このひとは、ほんまに。かのじょへ俺が、ほんのわずか、かのじょにしてやれるだけのことを、それはそれはたいそうなもののように扱って、大切に大切にして、丁寧に、受け取ってくれる。俺が気づかんかっただけで、昔っから、そうやったんやろうか。この夏より前、俺がみょうじにしてやれたことなんか、それこそほとんどなんもなかったやろう。それどころか、乞われたのにしてやらへんかったことばっかりが記憶に残っている。
「なあはよお風呂入ってきて。ギュッてできんやん!」
なるほどそれは一大事やと、風呂場へ向かいゆっくりと二人歩き出す。はよ入れという割に、一大事という割に、たどり着くまでのほんのわずかな時間も惜しく、言葉を交わしながら、ゆっくりゆっくりと廊下を進んだ。
「上がったで」気持ち急いて風呂場で汗や汚れを洗い流し、身ぎれいになって居間へ足を踏み入れれば、かのじょはこちらを一目見るなり顔を真っ赤にして小さな両手で顔を覆い隠してしまう。そろそろ慣れてもええ頃やろうに。というか、そもそもただの風呂上り。そんなええもんか?と首を傾げつつ。
「くぅっ……!い、色気が……!」
「ギュッてするんとちゃうんか」
「悩殺…………!」
「なあおい」
わざわざ予告までしといてそれはないんとちゃう?こっちはそれを楽しみに急いで上がってきたというのに。期待していたやわらかい抱擁はかのじょ頭からすぽーん!と抜けてしまっているのか、未だにきゃーきゃー言うて風呂上がりの自分よりも顔を火照らして手でパタパタと扇いでいる。いろいろ言いたいことはあるけれども、ただまあすっかり照れとる様子は非常にかわいらしくて、見ていて面白いことには変わりはないのだった。
まあええか。
「なあそれより、みょうじ」
「ん?」
「ちゃんとその、姿、見して」
「うん?あ、これ」珍しくも正座をしているみょうじがゆっくりと身体を動かす。帯の下、上前の部分をちょんとつまんでゆっくりと立ち上がる、この挙動はばあちゃんから教わったんやろう。ややたどたどしいが乱れることもなくその場に立って、「はい一回転〜」と、そのままくるりと一回転してみせた。そして再びこっちを向いて、笑顔。
「へへ。はじめて着た。浴衣」
「…………」
「どぉですか〜?」
深い深い、漆黒にほぼ近い紺色の生地に、浮かび上がるような純白が大輪を咲かせている。まっしろで大きな芙蓉の花弁がところ狭しと咲き乱れ、夜空色をした浴衣をとても華やかに彩っていた。そして胴を締める帯の部分はベージュと薄い茶色を重ね、やわらかく控えめにまとめてある。そんな華やかで、けれど大人びた色合いをした浴衣をその身にまとったかのじょは、先ほどの名残か否か、頬をぽおっと赤らめて、照れたようにふにゃふにゃと笑って袂をひらひらとさせる。
ーーーーああ。
花のかんばせ、というのはこのことかと思う。
「綺麗」
「へあ」
「綺麗や。めっちゃ、きれい」
ドキドキする。と頬をゆるめてそう続けると、ますます照れてしまって無意味に手足をばたつかせる。しばしば見られる挙動のおかしいみょうじを少しの間眺めて楽しんでから、普段よりずいぶんと手の掛けられた髪型を見て、触っても問題なさそうなサイドの髪を一束すくう。
「髪結ったん」
「う、あ、うん。お、お祭りやし」
「なんや難しそうな髪型やな」
「んん。ちょっと編み込んだるねん」
「ふわっとしとる」
「さ、させました。ふわっと……」
「かわええ」
「ギャ」かわええほんま。抱きしめたいぐらいや。と思ったところで、すでに行動に移していたことに気づく。ほかほかのぬくもりとすっかり近しくなったやわらかさが衣服越しに伝わる。みょうじのにおいと、ソープに化粧品の香りがして、たまらずそうっと堪能する。うわあああ、と奇声をあげたかのじょは、けれど慣れない浴衣を身に着けて抵抗もますます大人しい様子だ。長めの前髪を片一方へ編み込んで流しているため無防備にさらされている綺麗な額へ口づける。
「ひい」
「悲鳴上げすぎとちゃう?」
「あ、上げすぎでは、なかろうよ……」
「傷つくわあ」
「顔わろてるやん」
「はは」
「もー…………」口調とはうらはらな表情としぐさに心くすぐられつつ、せっかく普段より早めに帰宅したのだ、自分も支度をしなければならない。このあたりでいったん止めておかんとな、と思って続き間のほうへ目を向けると、かのじょほど背の高い姿見と衣類やドライヤーなどが置かれた先、見覚えのある布地を膝に置きやさしく撫ぜるばあちゃんがいた。ふと顔を上げて視線が合うと「おかえり信ちゃん」と笑う。
「ただいま」
「なまえちゃんかわええやろ?」
「うん。やっぱりあの柄ええわ、よく似合う」
「せやねえ。それ信ちゃんが選んでんでって言うたら、めっちゃ顔赤くなって、ほんまかいらしかったわあ。ぴょんぴょんとび跳ねてなあ」
「あっお婆ちゃん!それ言うたらあかんて!」
「ええ?あかんの?」
「やってそんなん、北の手のひらの上で転がされとるみたいやん!」
「そうなん?」
「ころころっとな!」手の中で団子でも転がすようなしぐさでばあちゃんへ説明するかのじょ。例えがようわからんし俺がいつお前を手のひらで転がしたんやと思い首を傾げた。それにしてもぴょんぴょん飛び跳ねるみょうじは見てみたかったなあ。きっととんでもなくかわいかったやろうに。ばあちゃん動画とか………………撮り方知らへんかあ。俺の前では、あんまり子どものようなことをしようとせんから(まあ結構しとるねんけど)頼んでもやってはくれんやろうな。真っ赤になってののしられてしまうわ。それはそれで、かわええねんけどな。――それはそれで見てみたいので、あとで試しに言うてみることにするとして。
「ようわからんけど、ええんちゃう。振り回されとる者と転がされとる者とで、お似合いやろ」
「ふ、振り……?」
「ほいじゃ、信ちゃんもそろそろ着よか」
「うん。お願いします」
「私がいつ北を振り回した……?」いくら何でもそれは嘘やろ、自覚ないんか。首を傾げてアホみたいなことを言うみょうじを横目に、ばあちゃんのところまで行って姿勢を正す。風呂上がりに直接和装用の肌着を着用しているので、ばあちゃんから浴衣を受け取るとそれを広げてまずは肩へ掛けた。普段着ている洋服のやわらかい生地とは違う、さらっとした独特の生地の指ざわりに懐かしいなと感じる。浴衣着て祭りへ行くなんていつぶりやろうか。細縞とかすれの入った生地は灰一色ではあるが濃淡がある。髪色よりも幾分か暗いトーンのそれに合うよう選ばれたのは濃紺の絹帯のようだった。ちらっと見て口を開く。
「みょうじの浴衣の色や」
「ヒッ」
「ようわかったなあ。信ちゃんのこの帯なまえちゃんが選んでん」
「北が目ざとい……」
「言い方」
「お目が高い!」
「そこまで言わんでええ」
「なんやの!」ともうほぼ照れ隠しで声をあらげ出したかのじょを目で追う。こいつの照れどころがよう分からんなあ。みょうじの選んでくれたという帯を広げる。ばあちゃんがそばに立って、あちこち裾を掴んで生地を引っ張ったり、折ったりしまい込んだりしては手際よく着付けていくのを、毎度のことながら感心して見下ろしそれを眺めた。
「はい、できたで」
ものの数分としないうちに出来上がった姿を姿見で確認してひとつ頷く。鏡の中でもニコニコと楽しそうに笑うばあちゃんに「ありがとう」と伝えるといっそう頬をゆるめた。かのじょの方へ顔を向けると、あいかわらず赤くなったかのじょがこちらをじいっと見つめている。こういう顔、みょうじ高校ん時もしとったんやろうか。どうやろうか?
「みょうじ」
「ふあい!」
「……どうやろか」
「………………かっこいい。です。ハイ」
「えっ?お婆ちゃん行かへんの?」
みょうじの驚いた声に顔を上げる。
「えっなんで?なんで行かへんの?」
行こう???と心底不思議そうなかのじょはばあちゃんのちいさな手を両手で握りこむ。なんなら軽く引っ張っている。「せやねえ」とばあちゃんはいつものとおり正座をして笑顔を浮かべて、けれどやんわりと立つよう促すかのじょに従うわけでもない。
「なまえちゃんと信ちゃんで行っといで」
「なんで?なんでお婆ちゃん行かへんの?」
「ばあちゃんはお家におるから」
「どっかしんどいん?痛い?」
「そういうんとちゃうよ」
「じゃあなんで?」
「たまにはふたりで遊んどいで?」
「……お婆ちゃん一緒がええ……」
「ほら、ばあちゃんは歩くん遅いから」
「私も浴衣やから歩幅ちっちゃいで!」
「すぐ疲れてまうしなあ」
「私おぶるよ!!!」
「たくさんお店回れへんくなってまうで」
「お店そんな多ないって北言うとった!ゆっくり回るんでちょうどええやん」
「ええ?なまえちゃんったら…………」
ちょっと困った顔をするばあちゃんは、かのじょから視線を外してこっちを見てくる。助けて信ちゃん、とでも言いたそうな表情をしとるけれども、助けてやるどころか俺は、ふふ、と笑ってしまった。聞き分けのわるい子どもみたいな大人相手にして困り果てるばあちゃんなんて、滅多と見れるもんやないから希少な光景や。世の中には親のこころ子知らず、という言葉があるけれど、ばあちゃんの恐らく、たまにはふたりで、という気遣いは、どうやらかのじょには通用しないらしい。ばあちゃんの手をさっきっから握って離さない。これはうんて言うまで放れんやろうな。
「ばあちゃんもみょうじには敵わんなあ」
「信ちゃん……」
「あっ北、北もなんとか言うたってや!」とこちらも困ったように眉を下げるみょうじ。かのじょに言われたからというわけでは決してないが。
「一緒に行こう、ばあちゃん。富田さんとこ、屋台はりきっとるて言うとったやんか。焼きそばは出来たてが一番うまいで」
かのじょの下駄の前坪をぐいっと親指で広げながら、気にしいなばあちゃんへ誘いをかける。かのじょへの心配りは非常にうれしいけれども、本人がこんだけばあちゃんと行きたがってんねんから野暮というものやろう。それにどうしても二人っきりになりたい時の、手だては色々とあるしな。と考えながら手元の小さい下駄を眺める。これがかのじょの足の大きさなんやと思ったらちょっと心くすぐられる。
「歩くんしんどかったら、俺がおぶるで」
「……信ちゃんまで」
「北!お婆ちゃんおぶるん私やねんけど!」
「あかん。俺がおぶる」
「私ですう〜」
「俺や」
「私!」
「…………」
「…………」
無言でじゃんけんの体勢に入った俺とみょうじを見たばあちゃんが、少ししてふふっと息をもらしたと思ったら、今度こそ楽しそうにけらけらと笑い出した。
そんな攻防があったのがほんの十数分前。
左手にやわらかいちいさな熱を感じながら、夕暮れの舗道をカランカランと乾いた音を立てて歩く。ばあちゃんは結局自分で歩くと言うたもんやからみょうじをひどくがっかりさせたけれども、そうして俺がちょこちょこと歩幅のせまくなったかのじょの手を引いて歩く。すこし視線を横へやれば、浴衣姿のかのじょが視界に入る。普段出かけるときとは違う着飾り方に、見るたんびに胸がうずく。あまり長い時間直視できずに逸らしてまうくせに、またすぐに見たくなってしまう。ちょっと目線の低いところにあるかのじょが、そちらも不意とこっちを見上げてくるので、視線がかち合ったときなんかは筆舌しがたいものがある。かのじょの逆隣りを歩くばあちゃん(というかかのじょがばあちゃんの横を陣取った)は俺達を見ながら、やっぱりニコニコとしている。
ふんふんと機嫌よさそうに鼻歌をうたうみょうじ。かのじょと繋がった手。気分をそのまま映しとったような軽やかな下駄の音。ゆれる鮮やかな着物の裾。さらされた生白い額に首筋。きゅうっと握ってくる指の感触。ばあちゃんと話す楽しそうに弾む声。
「北わろてる」
「うん?そうか?」
「お祭りが楽しみで笑うなんて、北も案外子どもやな」まるで人の弱みでも見つけたとでも言うようにニヤニヤとこちらを覗き込んできたみょうじの額をとんっと指先で突く。
「えっなに?」
「にぶちん」
「えっ??」
ぽかんとした顔をしたかのじょがまた笑いを誘う。「ほんまなに???」両隣で声を上げて笑う原因がまったくわからないらしく、右へ左へ首を回して首をひねっている。そんな様子がますますおかしくて、数分後しまいにはぷんぷんと怒り出してしまうまで、俺とばあちゃんは笑い続けたのだった。手はほどかれそうやと思ったので指の隙間を埋めるようなつなぎ方に変えておいたのが功を奏した。まあみょうじはますますぷんぷんしたけれども。
「……人通り多なってきたなあ」
スクールゾーンに入り横断歩道が増えてきた。信号待ちの最中、周りをちらっと確認したみょうじが言う。先ほど通り過ぎた町内の掲示板にはしっかりとこの度の催しに関するポスターが貼られていたので、世帯数の(若干)多いこの近辺からはちらほらと祭りへ向かうと思しき人が見かけられた。今この時間帯にここで信号待ちをしている人の大半は目的地が同じなんやろうな。
「あっ見てあそこ」
「うん?」
「浴衣の子どもおる」
「おるな」
「ほんまや。かわええなあ」
「な〜。帰ったらもっかいちっこい北の浴衣写真見して」
「何回見んねん」
「しょうみ一日三回は拝みたい」
「アホか」ひとの写真そない見てどうすんねん。
「お婆ちゃんは見してくれるもんなあ?」
「うん。一緒に見ようなあ」
「ほらあ」
「ばあちゃん……」
「まあまあ北。信号青なったで〜」手を引かれて歩き出す。「太鼓の音近いな〜」おい話流すな。
「ええにおいしてくる!これなん?」
「ああ、これトウモロコシやねえ」
「北んちで食べたんとにおい違うで?」
「バターで焼いとるんやろ」
「バター!」ただでさえ輝かしい瞳がさらにきらきらときらめいて、星屑でもひっくり返したんかと思ってしまう。
「ええなあ……それ絶対食べたい……」
「トウモロコシは、今井さんとこがやってんねん」
「そうなんや。今井さんスイーツ系ちゃうんや」
「畑でな、ぎょうさん採れるねんて。ほら、今井さんとこ、お孫さん多いやろ?みんなよろこぶから、毎年はりきって育ててるねんて」
「へぇ〜。おみかんもトウモロコシもおいしく育てられて、すごいなあ」
「ほんまに。果物と野菜とじゃ、いろいろ勝手が違うからなあ」
「そうなん。果物かあ。ブドウとかレモンの育て方ならわかるけどな」
「なんでそんなピンポイントに知ってるん」
「ふふ。働かざるもの食うべからず。これ世界共通言語やで。私も色んなところでお世話になったからなあ」
「なんやそんなん寓話なかったっけ」
「うん?……あー。アリとキリギリス?」
「ああ、せや。イソップやったっけ」
「うん。けど元々はキリギリスじゃなくてセミやねんて」
「そうなん?」
「うん。けどセミはヨーロッパにはほとんどおらんらしくて」
「ああ。亜熱帯とか熱帯の生き物やからな」
「働けるうちに働いとかんとあかんよな」
「せやなあ」
「私も描けるうちに描いとかんとなあ」
「みょうじは働くと描くはおんなじやろ」
「うーん、まあ今はそうやけど。基本的に『描きたい』が先行しとるだけやからなあ、私は」
「ありがたいことに、たまたまそれが仕事として成立しとるけど……」その後になにかを続けようとした言葉は、ドドン!と強く打ちつけられた太鼓の音にかき消えた。記憶に懐かしい小学校の校門を通過してすぐのところだった。
「わっ!あそこ!見えた太鼓叩いてる!」
わあっと声を上げて駆け出そうとして、両手にそれぞれつながれた人を思い出して、それからはにかんだかのじょを見て胸がきゅうと締めつけられた。しかしそれでもうずうずと気のはやったかのじょは、徐々に暗くなっていく空に並び彩るちょうちんの光で灯されたその光景を見ている。その横顔はとてもきれいで、橙色の明かりが近づくにつれかのじょをぼんやりと照らして、思わず絡めた指先の力を強めてしまう。けれどかのじょはほかに気をとられてそんなことには気づかずに、好奇心で輝くひとみをその光景へ向ける。にぶちん、と腹のなかでちいさく呟いた。その声は当然誰にも届かない。
「一番手前、トウモロコシあった!あったこ焼きもある!イカ焼き…………!」
「…………食いもんばっかやん」
「くじもするもん!花火当てんねん、なあ北も手伝ってや!」
「わかったから」
「わたしも、トウモロコシ食べようかなあ」
「食べよ食べよ!北はどうする?」
「食う」
「食うんやん!」と無邪気に笑ったかのじょがちかちかとまぶしい。今すぐ誰にも見つからないところへこのひとを持って行って腕の中に隠してしまいたかった。指先でやわく手の甲をくすぐられる。ええにおいの出どころ、色とりどりののれんのところへ俺とばあちゃんを引っぱる子どものようなかのじょにとんでもなく心が惹かれて足が勝手に従う。吊るされた照明、ちょうちんの灯りに照らされて、人の声と太鼓の響きを背景に、うまいもんたちのにおいが手ぐすねを引いて待っている。陽ざしの名残でぬるいぬるい空気がひとの気で熱されて、外なのにここいらだけとても熱くて、熱くて、息苦しいのに、心がこんなにもはやって、古い古い思い出の中のひとつをなぞらえながら、けれど真新しい大切な思い出がいまこの瞬間もひとつひとつつくりあげられていく。「今井さあん!」とでっかいでっかいかのじょの声。そういやおまえ、いつ今井さんと仲良うなったん?
「夏はうまいもんを食べ尽くすためにある」とは両手の指で串のはしっこをおさえて最後の一口にありつこうとするかのじょの言い分だった。じゃあのこりの季節はなんやねん、と返したくなったが、春は春でとか秋は秋でとか、冬も冬でとか言い出すんやろうと思うし、うまそうに焼き鳥にかぶりつくかのじょを眺めていると、実際ことばにできたのは「せやなあ」だけだった。
「ん〜……」
「うまいなあ」
「んん〜」
「ふ。口のはし、ついとるよ」
「んん!」
「ほらこっち向き」
「ん…………」手ぬぐいを持ち歩いているのだから、それでやってもよかったけれど、指で軽くぬぐってやるととろっとした焼き鳥のたれがこちらへ移る。それはまあ外なので自分で舐めるとして。なんで目まで瞑ってまうんやろうなあ。人のたくさんおる外やというのになんで俺は理性を試されてるん?とはなはだ疑問に思いながら、くちびるの方も軽くなぞった。びっくり仰天!と言わんばかりにぱっと目をかっぴらいたみょうじ。かわいい。
「な!なにするん!」
「指やで」
「外やで!」
「お前がそれ言う?」
「へぇ?なんの話??」
「ほらゴミ貸し」
「は、はい」
「これで手ぇ拭き」
「ありがとう…………」おとなしく流されてウェットティッシュで手を拭いたそれも終わると受け取って付近に置いてあるゴミ箱へ捨てに行く。飲み食いする用に設けられたスペース、簡易のパイプ椅子に腰かけたかのじょのところまですぐさま戻ると、かのじょへ向けられていた視線がぱっと散った。
「ゴミありがとう」
「うん。そろそろばあちゃんのとこ行かん?」
「うん。おしゃべりまだしたそうやったら、どうする?」
「そん時はフランクフルト食う」
「わ〜!食お〜!」
「手」
「はあい」
ちいさなちいさな手がこの手に戻ってきて、ぎゅっと握り込んだ。そうするとかのじょまでしあわせそうな顔をするのがうれしいと感じる。ふふ、とかのじょがうたった。比較的低身長の人混みをぬい、ふたり連れだって焼き鳥の屋台まで歩いていくと、ばあちゃんは先ほどと変わらず新垣さんとこのおばちゃんと屋台の裏で話し込んでいる。脇へ回って声をかけると、まだここにおるからふたりで行って来ぃ、なんやて。微妙にまだ気遣いの入った感じはするけれども、あんまり会わへんお宅のひと達と話するんは楽しんどる感じがあるし、みょうじもそっかあとすんなり納得しているのでそのまんま別の屋台へ移動する。多少できていた列はわりかし早めに進んでいく。フランクフルトの屋台では若めのにいちゃんが店を回しているらしい。
「いらっしゃい!」
「フランクフルト、三本ください!」
「まいど!六百円です!」
「はあい!」巾着からごそごそと取り出す前にごつい手のひらに小銭を乗せる。快活な笑顔をこちらに向けて「ちょうどもらいます!」と受け取り容器に注文の数のフランクフルトを乗せていく。ばあちゃんは食わへんけど、新垣さんとこのおばちゃんは焼き鳥以外のもん食いたいんやって。
「おねーちゃんええ笑顔やなあ!祭り楽しんどる?」
「それはどうも!むっちゃ楽しいです!全部うまいです!」
「ハハ!これもうまいで!ケチャップ?マスタード?どっちも?」
「全部ケチャップで!」
「はいよ!おまちどうさん!」
「いただきます!」
「早い早いて!」なんで初対面のやつとコントになるん。
「おねーちゃん、一本おまけしよか?」
「えっ……!!」
「綿菓子もりんご飴も食えんようになるで」
「あっそっか。じゃあええです!」
「はいはいっと。……はいどうぞ〜」
「…………どうも」
晴れ晴れしい笑顔を浮かべてひらひらさせる、そのやわっこい手を引っぱり屋台を離れる。新垣のおばちゃんに一本を渡し、残った二本をひとつずつ。一口食うてまたうまそうな顔で頬張るかのじょを眺めながら、自分のそれにかじりついた。なんやちょっと、いや割と、結構なんや釈然とせんもんがあるけれど、このフランクフルトはうまいわ。いつだってそう。うまいもんには罪はないねん。釈然とはせんけどな。