「おーにーぎーりー、みーや……」
藍鼠ののれんに白い筆字で力強く書かれた店名を読み上げると、ふふっと笑みがこぼれ出た。勢いづいた筆致がなんともさまになっている。店主自ら、それなりに悩んで名づけ、何度も何度も考えていたのだと、開店準備を手伝うこともそれなりにあったらしい北が話してくれた。
私と北とお婆ちゃん。
基本的にお家でまったりしていることの多い私達三人は今、珍しくもそろって街中にやって来ていた。大阪へも兵庫の中心街へも遠くない距離に位置するこの町の、駅からほど近い商店街の中にある木造瓦葺二階建てのこの建物は、もう何年も空き家状態だったものに手を加え店舗へ改装したのだという。一階部分は木製の引き戸に人目を引く大きなのれんの掛かった入り口、その横にしっかりと掲げられたお品書き、客足を誘導するように近くへ置かれた黒板ボードと、間違いなくお店屋さんに見える。逆に二階部分はほとんどさわっていないようで路面に面したベランダは年季の古さがうかがえるが、実際ここで生活しているわけではないというのだからさほど困ってはいないのだろう。今もそろって実家暮らしを続けていると聞いた。ともあれ。今や一国一城の主となった後輩を味わいに、今日はこうして連れて来てもらったのだった。見てみたかった光景をついに目の前にして、私はじぃんと胸に込み上げてくるものを感じていた。
「ええ店構えやなあ…………」
しみじみと呟くと、隣からは抑揚の少ない「せやな」が返ってきた。
「けどみょうじ、いつまでそうしとるん」
「もうちょっと!今、感動を味わってんねん」
「俺はおにぎりを味わいたい」
腹が減った、と主張する朴訥な声。そら北はもう何回も来てるからそうやろうけどな。ちょっとぐらい浸らしてくれてもええやん。私は。いま。感動してんねん。右手に指が絡んだ。キュッと軽く引っ張られる。言うてることはそっけないのに、なんかちょっと甘えられてるみたいな気がして、うっかりときめいてしまったために、お店からつい目を離してそちらを向いてしまう。絡み合った視線と指先に北が微笑んだ。
「そろそろ、行こ」
「…………はぁい」
まあええか。
お婆ちゃんもさっきっからお品書きじーっと見とるしな。いわゆるランチタイムという概念の時間帯から外れるように来たので、三人の大人はとっくに腹ぺこなのだった。気のせいか木張りしている外壁からうまそうな匂いが香ってくる、ような気もするし、仕方なく感動を切り上げて扉に手を掛けた。
「たのもう!」
「奪いに来とるやん、看板」
のれんをくぐり、店内へ入る。
真っ先に視界へ飛び込んでくる特徴的なカウンターにぐるりと囲まれた調理スペースに立つ店主が顔を上げて「まいど!」ともの凄いええ笑顔で出迎えてくれて胸を抑える。黒の短髪をすっきり収めている帽子には店のロゴが。落ち着いた色のシンプルなシャツにも左胸にかわいらしいおにぎりのマークが入っている。おにぎり宮仕様に身を包んだ、宮治はすぐに「こっちドウゾー!」とカウンター席を手のひらで示した。空いた左手で目頭を揉みながら、北に引っ張られてカウンター席の一番奥へ連れていかれて大人しく着席する。その隣を北が、そのまた隣にお婆ちゃんが座った。そして繋いだ手は逆側につなぎ直された。
「すんまんせん、わざわざ時間ずらしてもらって」
「いや。道の駅も寄れたしよかったわ。そっちこそすまんな、休憩中やったやろ」
「ええですそんなん。俺もめし用になんか握ろうと思ってましたし」
「なまえちゃん、婆ちゃん。おにぎり宮へようこそ」床が少し高くなっているのだろう、想像よりちょっと高い目線から治が笑う。鼻がつんとし始めた。
「なんや治、俺には言うてくれんの?」
「北さんはお得意先やし、とっくに常連さんやないですか。コレは初回限定サービスなんです」
「初回限定か」
「えっ。あと三十回は聞きたいねんけど!」
「そらなまえちゃん痛恨のミスやな。今の録音しとくべきやったなあ」
「ホイ。おしぼりです〜」と手渡しされたおしぼりを凝視してしまう。そのあとすぐに、「お茶ドウゾー」と置かれた湯呑みを認める頃にはもう、視界がじわじわと熱いもので滲みだしていた。
「治……立派になって…………」
「まだ食うてへんで」
呆れつつ、そっとハンカチを差し出されるのだから、これだからできる男は困る。さわやかな海色のハンカチをありがたく受け取ってそっと目元にあてる。もう一方の手で、ポケットから出すだけ出した自分のハンカチ(薄紅色、お花柄)を代わりに北に渡しておいた。受け取った北はしばし無言でそれを凝視していた。
「で。何にします?」
「うめと塩昆布を貰おかな」
「わたしは、治ちゃんのきゅうり食べたいなあ」
「なまえちゃんは?」
「うーん……せやな……、ごま!とお茄子!」
「まいど!」
商売人の笑顔がまぶしい。
「うっ…………!」
「落ち着け。お茶を飲め」
今度は湯飲みをそっと寄せられた。促されるままにお茶を一口含む。緑茶のライトな口当たりと、口に広がるほのかな苦みで少し冷静になる。ふう、と一息つく。お茶うまい。
「治が淹れてくれたお茶うまい……」
「お前そんなんでほんまに大丈夫か?」
それは私にもわからん。
ほどなくして、おまちどうさん、という声とともにそっと置かれたお皿を目にして、またしても胸が詰まる。平皿にちょんと乗ったふたつのおにぎりはきれいな三角形をしている。白米がつやつやと輝いて、具材の色身を引き立てながらもその白さをこそ具材が引き立てているかのようにも見える。ほかほかと薄く湯気を立てる二つのそれの脇にはおしんこが添えられていた。
「これ婆ちゃんの分」
「おいしそうやねえ」
「こっち北さんです」
「ありがとう。いただくわ」
「ほんじゃ、わたしも。いただきます」
北とお婆ちゃんが笑顔を浮かべて両手を合わせ、おにぎりを持ち口へ運ぶ。そして柔らかくほころぶ表情。うん、うまい。おいしいなあ。と弾む声がほほえましい。それに応える治の声も。
「なまえちゃんも、食うてや」
はやる鼓動を胸に、そっと両手で掲げ、口を開く。
てっぺんに盛りつけられた具材と白米、それと海苔のところが少し当たるような角度で一口かじってみた。そしてそのまま何度も咀嚼する。はけた波が一瞬で戻ってくるのを感じた。
『なまえちゃん、腹減った』
『なまえちゃーん。テーピングほどけたで〜』
『なまえちゃん、そのチョコ一個ちょうだい』
『なまえちゃんこの後ヒマ?ヒマやんな??球拾って!』
『なまえちゃんもーいっこちょーだい』
『なまえちゃん俺のタオルどこ〜?』
いやタオルは自分で探しや。
色の異なるおんなじ顔が次々と私を呼ぶ。今よりも幼い笑顔で無邪気にひとをからかうし、食いもんたかるし、労働をねだるし、兄弟げんかに巻き込むし、やたらめったらついて来ようとして。いつやったかな。差し入れのおにぎりを作ろうとしとった時治がやって来て、つまみ食いでもしに来たんかと思ったら、俺も握りたいと言うて。乾いた手で米を握ろうとするもんやから、でっかい手が米粒まみれになった記憶が遠くとも新しい。しゃーないから食わんとなあ、とうれしそうな顔で自分の手ごと食うとったなあ。三角形にならへんと騒ぐので握り方を指導して、それでもぎこちなく力いっぱい握られたおにぎりはいびつで米がギュウギュウで。それ食べて酷評した侑ととっくみ合いになって。あとで自分でも食べて『うまいやん』て。あっけらかんとなあ。
「みょうじ」
「えっなまえちゃん??」
「あれまあ……」
目からポロポロとこぼれ落ちて、でも絶え間なく滲んでくるそれで視界はすべて曇ってしまった。それでもこの手で掴んでいるものはわかるので、それにどんどんかぶりつく。ゆっくり食べているつもりなのに、あっという間にひとつがなくなって、目元をぬぐい晴れたすき間にもうひとつを掴んで食べる。頭の上に誰かの手のひらが乗ってやさしく髪を撫ぜる。ふたつ目もすぐになくなって、すべて飲み込んでしまえば空になったこの手を誰かが拭ったと思ったら、そっと握り込むものだから、びっくりしてさらに涙がこぼれた。くるっと椅子を回されて、目にハンカチが、いやこれはタオルか。目元にタオルがあてがわれて、すっかり視界が覆われた。
「みょうじ、口開け」
正面から北の声がする。おしんこや、と言われて口を開けるとぽいっと口へ放り込まれた。口を閉じてむぐむぐと噛み砕く。おしんこ。おしんこや。ポリポリと食感を歯で耳で楽しんで飲み込んだ。両手を包む手のひらは大きくて、それからとても熱い。なまえちゃん、となぜか下の方で声がして、それからギュッと力がこもった。
「どや。俺の、おにぎりは」
笑っとる。
たしかな自信と誇りに満ちた声だった。
「うまい?」と次いで尋ねる声に、口を開いて。息を吸う。
「…………うまいぃ〜……」
涙と一緒にこぼれ落ちた、その一言が皮切りになって、感情がどんどん口からこぼれていく。
「よう、ようやった、ようやったなあ、おさむ。すごいなあ。がんばった。がんばったなあ。こんな。こんなに、うまい。うまい、おにぎりを、こんなに、立派な。すごい。すごいでおさむ。えらい。えらいわおさむ。すごい、えらい、うまい、うまい、うまい、うまいぃ…………」
わあんと泣きながら吐き出す言葉のなんと聞き苦しいことか。これじゃあどっちが年上かわからへん。年下のくせにでっかくて場所をとって、ぼーっとしたりやかましかったり、しょっちゅう腹を空かせて、すぐに食いものねだるし、からかうし、おちょくるし、ちゃらちゃらして、すぐに二人に増えよるし、そうなるともう全部が二倍になって、怒ったり、叱ったり、泣いたり、笑ったりしたなあ。北の作ったお米を丁寧に炊いて、ギュッと握るこのでっかくて熱い手のひらが尊いと思う。かぶさる手を私も握って、何度も何度もうまいと伝えた。わき上がってくるうまいの数だけそれを伝えた。「ありがとうなあ」何度も何度も治が応えた。子どもをなだめる大人のような、おだやかで、なだらかな声をして。ほんまにほんまに、昔が、飛びついてきよったこの間が、うそみたいに、治の歩いてきた長い時間を感じさせる。うれしい。おいしい。誇らしい。さびしい。そんな気持ちがポコポコとわいてきて涙になって流れて、それでもまだまだ滲んでくる。なんだかんだで可愛かった、後輩が、こんなに立派になって。えらい。えらいな治。すごいなあ。五歳児のような感想しか言えない私に付き合って、頭を撫でる手も、タオルをかます手も、手を握る手も、辛抱強くて、ありがたくて、もっともっと泣いた。
「なまえちゃん、ありがとお」

この年になってこんな泣き方をすることになろうとは。と恥じ入る余裕が生まれたのはどれくらい経ったころだろうか。ぐすんぐすんと、少しずつ落ち着いてきた様子は恐らく見ていたひとの方がよく分かっただろう。顔の半分を隠すように覆われていたタオルは目じりをやさしく抑えてくれるようになったし、頭をなでる手のひらは降りてきて頬を撫でる。解放してもらえた片手でタオルを掴んで、自分でまぶたにあてがう。目が合うとお婆ちゃんがにっこり笑って手を離した。こちらをのぞき込んで、とてもやさしい目で見守ってくれた北の、頬に沈む指先をそっと外す。若干名残惜しそうな様子を見せた(ような気がした)ので、その指先に一度だけちゅっと吸い付いた。残りの片手を握りしめるその手をたどると、いつの間に厨房から回り込んできたのか、そばにしゃがみ込んだ治がいた。くそう、大人になりやがって。と言いたくなるような顔をしている。年上やのに自分より小さくってええ年して泣きわめく先輩の手を屈んで握りしめてなぐさめるって今どういう心境なんやろうなあ。まだピタッとおさまらない涙をうっすら浮かべつつそんなことを思った。
「いっぱい泣いたなあ、なまえちゃん」
鼻をすする。治を見下ろすこの体勢ではうっかり垂れてまう。それだけは死守せねば女性として。とか考えながら、よろこばしいことでもあったのか、なんでかむっちゃ機嫌のよさそうな笑みを浮かべている。
「泣いて腹減ったやろ。おかわりせん?」
「する!おかか!」
勢いよく返事をしたところで、きゅるるるる……と腹に飼っている獣も吠えたため、この場にいる全員から、盛大に笑われることとなった。
ううむ、解せぬ。

目を拭い鼻をかみお茶をすすりながら、すっかり晴れ晴れした気分でおかわりの出来あがりを待つ。泣くという行為にはよっぽどエネルギーを消費するのか、さっきほど食したそこそこの大きさのおにぎり二つは胃袋から姿を消してしまったようである。そりゃあ腹も空くし獣も泣くわな。お腹すいた。おかかまだかなあ。なんて思いながら足をブラブラさせて待つ。カウンターの向こうでは治が手を洗い終えて手際よくごはんや具材を準備している様子が見える。立上がりの部分が透けて見える仕様になっているのは食欲や期待をそそるためだろうか。まんまと思う壺になっている私たちは、それぞれ注文したおかわりにぎりを今か今かと待つのだった。
「めーっちゃええにおいする……」
あったかいお米の炊きあがったにおいと、海苔の香り、いろんな具材の詰まった容器のフタを開けたらもうかいだだけで食欲が増幅してしまうようなにおいが漂ってきて頬がゆるゆるになる。
「なまえちゃんニコニコしとる」
「なあなあ治。私のおかかな、でっかくして!」
「ハイハイ。したるから今後ともごひいきにしてや〜」
「はあい!」
「子どもか」
「子どもやな」
「子どもやねえ」
「こういうところがなまえちゃんのかわええとこやんなあ」
「…………」
「あらあ……」
「あ。ちゃいます。ちゃいますて!」
「………………」
「北さん!」
でっかい手でお米と具材をキュッと握って、転がしながらリズミカルに形づくっていく様子を眺めていると、治が思いっきり北を呼ぶので何ごとかと思って隣を向いてみる。そこには相変わらずちゃんと背筋を伸ばして凛とした無表情のかっこええ北がおって、こちらに気付くとふわっと笑う。と、ときめくぅ……。
「なまえちゃん!のんきにときめいとる場合やないで!」
「治なにを言ってるん?」
「かわええ後輩を助けてや!」
なんやの急にさわぎ出して、まるでいじめにでも遭うてるみたいな言い方やなあと思いながら、治から再び北を見る。やっぱりかっこええ北がおって、目が合うとまなじりを下げて笑うのだ。
「キュン…………」
「なまえちゃん!」
「ふははっ!」声をあげて笑う北をうっとりと眺める。やっぱり今日もスーパーウルトラかっこええな。世界一の男やわ。「ちょろい!ちょろすぎるわなまえちゃん!」悲鳴にも似た治の声と「ほんま仲ええなあ」鈴の入った毬をころころ転がしたようなお婆ちゃんの声。そのうちゴトンと音がして、目の前にほかほかの湯気の立つおにぎりが置かれ、うやうやしく両手で掲げ、笑顔の職人に見守られながら、大口を開けていっぱいにそれをほおばる時。さっきほど延々と伝えた一言を、やっぱり声に出してしまう。大人びた、それやのに子どものように笑うでっかい後輩を見て思う。やっぱり治、立派になったなあ。

ほかほかのふっくらに炊かれたお米はきれいに形を保ちながらも口に入れるとほろっとほどけるちょうどよい固さ。お米は一粒一粒しっかり食感と味を感じられる。そんなお米の熱でより芳醇になるおかかが三角形のてっぺんと真ん中に詰まっていて、じゅわっと唾液の出てしまう出汁と香りの濃さがたまらない。そんな二者をパリッパリの海苔がやさしく包んで、美味に輪をかけた美味へと昇華させている。そんな風に言葉を尽くさずとも、治の握ったおにぎりは、ただひたすらにうまいのだった。
「畳はやっぱりええなあ」
ギャンギャン泣いて大人三人を大いに困らせたあと、一転してニコニコと追加のおにぎりを食べたのち、すっかり満たされた腹を撫で立ち上がろうとすれば、「えっ。もっとゆっくりして行ってくださいよ!」とこれから食事をとる治に案内されて、今度はお座敷の席に落ち着いている。お婆ちゃんは比較的新しそうな畳を指でなぞってうれしそうにほほ笑んでいる。その隣には自分用にでっかく握ったおにぎりを五つも並べた大皿が置かれていた。お盆にお茶を乗せてやって来た治がお婆ちゃんとその向かいの私、その隣の北、そして自分の席の前へ湯飲みを置いていく。
「手際ええなあ」
「そら飲食業ですから?」
「治がこんなキビキビ動くと思わんかった」
「見直した?」
「見直した見直した」
「惚れ直した?」
「残念ながら、惚れてへんねん」
「アラア…………」残念そうにこちらを見てから「そんなん言うんなまえちゃんぐらいやで」とおかしそうに笑いだす。自分の生まれ持った顔のつくりの威力をとことん享受して生きている二十三歳の男は世の女性にとっては罪つくりそのものやなと思いながらお茶を一口。あったかいお茶は空調の効いた店内、とりわけ食後にはありがたい。隣を見る。すぐに目が合って、どうしたん、と顔を寄せる。この男も無自覚なだけで大概やけどな。
「いやなんも……」
「なんか言いたそうな顔しとる」
「にぶいか鋭いか、どっちかに統一してくれへん?」
妙なとこばっか感知するそのアンテナどうしたん?北の相手をしている間に治はバクバクとおにぎりを食べ進めてすでに二つ目に取り掛かっていた。相変わらず大食いの上に早食いやな。なんでちゃんと噛みしめてるのにそんな早いん?と思っていると咀嚼を終えた治の口がパックンみたいなサイズでガバッと開いて、ことさらでっかい自分の胃袋仕様のおにぎりの三分の二を吸い込む様子を見てしまった。そうか、そうやったな。こいつ、一口が異様にでかかったな……。髪も黒くなっとるし、パックンというよりはワンワンやな。なんや、よう見たら顔も似とるような気がしないでもない。
「治ちゃん、きゅうりのおにぎり、おいしかったわ」
「ほお?ばあひゃんほ」
「先飲み込んでまい」頬をパンパンに膨らませたハムスターみたいな状態で口を開けば当然のように北が注意して慌てる姿が懐かしい。日本から遥か遠く離れた地で、治がバレーをやめたことを知って、やっぱり寂しい気持ちになったけど、こうして今、これと決めた道をひた走る姿を見られるのはうれしくも誇らしい。治はめしを愛しとる。とろけそうなほどに恍惚の表情でものを食べて、慈しむような顔で食材に触れるようになった、その姿を見られてほんまによかったと思った。
「治それ具なんなん?」
「ん?ング。んん、すき焼きとうめ混ぜたやつ」
「なんそれ!ええな!食べたい私もソレ!」
「ミックス食うてええんはおに宮の社員だけや〜」
「えー!じゃー私も社い」
すっぱーん!
ものすごいええ音がして、私の頭頂部がすっぱたかれた。
「…………」
「…………」
「……き、き、北…………?」
「なんや」
「……お、お婆ちゃあん!!!」
「信ちゃん。優しくしたり」
「しとる」
「やっぱ北、嘘吐いとんな??」
「思いっきり手加減したわ」
「……頭すっぱたかれたん、やっぱ気のせいやなかったんやな……」
「今の一撃を、気のせいや思う可能性あるんもおかしい話やで」おぜんを挟んだ向かい側で治が恐る恐るツッコんだ。彼にもよほど衝撃的な光景だったのだろう。顔色がとても悪い。
「やって……さっきまであんな優しく頭撫でてくれとった人が、急にすっぱたいてくるとか、同一人物や思わんやん……」
「なまえちゃん……口は災いのもとって言葉があるんやで……」
「それは知っとるけど」
「いやそれにしても、もの凄い反応速度やったな……」最後の治のつぶやきもそ知らぬ顔でお茶をすする鉄壁能面北信介二十四歳。ほんまに二十四歳か?今のは二十四歳のすることか?というかかわええ恋人にしてもええことなんか?そこに愛はあるんか?一切表情を崩さずに湯飲みから目を離さない横顔を食い入るように見つめる。
「みょうじ」
「ハッ、ハイ!」
「帰ったら、ミーティングや」
「………………はい」
静かな横顔が淡々と告げる。
かれは今、そこそこに機嫌を損ねていること。
そしておそらく、ミーティングだけでは済まないであろうということを、雄弁に物語っていた。先ほどまでこれ以上ないぐらい優しく撫でてくれた頭を躊躇なくすっぱたいた手が、再び乱れた髪を丁寧に直してくれるが、その優しさが今は恐ろしくて仕方がない。ことの経緯がいまいちよくわからないまではあるが、とりあえずこれ以上機嫌を損ねてしまわないよう、今は全身全霊で大人しく撫でられることに集中しようと口を閉じることにしたのだった。
閑話休題。
逐一隣の気配をうかがいながら、しばらくはお店の話を治から聞いたり、こちらの話をしたりと歓談しつつお茶の時間を過ごし、場の空気も比較的元の状態に戻りつつあったころであった。
ぴしゃーん!
と再び空気を裂くような鋭い音が響いたために私は真っ先に自分の脳天を心配して手を当てた(北が横目でそれを見ていた)が、そこに衝撃はなく、首をかしげて周りを見ると向かいの二人は揃って入口の方へ顔を向けていたため、私も遅れてそちらを向いた。
「ようサム!めし食わしてくれや〜」
外側ののれんをくぐって一歩店に入ってきた上背のあるその男は、相変わらず派手な金髪と黒のツーブロックがハイコントラストでまぶしい。分け目をくしゃっとかき上げたようなスタイリングがやや大人びた印象を与えるが、さてどうやろうな。入って正面の厨房に治の姿がないことに気づくと店内をぐるりと見回して、すぐにこちらの一団を認めるとずんずん向かってくる、治とおんなじ顔をしたその男。
「おるやん。なあネギトロ食いたい」
「お前今日オフやろ。昼めしぐらい作れや」
「ええやんけ。めしなんか作ってられんわ、ってアレ?――き、北さん!」
「こんにちは」
「チワース!!!」
治の正面に姿勢よく腰を据えている北に気付くや否や、オラついた歩き方から一転、直立不動で体育会系の挨拶をし出したチンピラ、もとい宮侑は額に冷や汗を流しつつニコッと笑顔を一つ浮かべた。そして片割れの方へススッと寄ったかと思うと、その背中を膝で蹴る。
「なにすんねん」
「おい、北さん来るなら言えや!」
「知らんわ。なんでお前に言わなあかんねん」
ひそひそと話しているつもりの会話が筒抜けなことに、この双子が今まで気付いたことは一度もない。北は静かに湯飲みを傾けている。お婆ちゃんは二人を見比べてニコニコしている。ほんまにお顔そっくりやなあ、とか思ってるんやろうな。会話に意識を向けてはいなかったが、やがて呆れたようにひとつ息を吐いて腰を上げた治が空のお皿を片手に厨房へ戻っていくのを見て、ああ腹は立つけどめし屋の店主としては腹ぺこの人間を追い返すことはできんのやろうな、と治の性分を哀れんだ。まあただイラッとはする。というところがキモだ。
「それはそうと、北さん!」
「なんや」
「どうしたんです、女のひと二人もはべらせて!」
何食わぬ顔で治の立った空席を埋めた侑が大げさに目を見開いた。私とお婆ちゃんのことを言うてるんか。けど相変わらず言い草がちょっとアレやわ。
「デートですか!?」
「…………」
少し黙った北がおもむろにこっちを見た。
そして顔を戻して「せやな」と頷く。
…………ビビッてしまった。
「デートやな」
「ええなあ。俺も美女二人はべらせたいわぁ」
軽く最低なことをポロッと言って、こっちを見てニコッと笑いかけてくる。一見人当りのよさそうな明るい笑顔ではあるが、腹の中が真っ黒なポンコツ野郎だということをすでに存じているので、今度は何を言い出すんやろうかと思いながらとりあえず似たような顔で笑っておいた。
「で?オネーサンは北さんの一体何なんです??ウチの大将とめし食おうなんてえらい図々し……、いや、ええ度胸してはりますね??」
引き攣った。
ていうか言い直して酷なるってどういうこと。
「北さん妹おりませんよね?全然似とらへんし。近所の人?同級生?それともアレですか、ノーキョーってとこのツキアイってやつですか。知らんけどな。何にせよ、こん人とどうこうなろうとは思わん方が、オネーサンの身のためやで」
「えっと……」
「北さんには、なまえちゃんていう、心に決めた人がおるんやからな!」
思わず隣の北を見た。
相槌もないのにまだまだ得意げに延々としゃべり続ける男を指して無言で訴えると、その手をそっと握られる。眉尻を少し下げて、残念そうに北がかぶりを振った。
「気にせんでええ」
「せやけどこれ」
「侑はこういう奴やねん」
いや、だからってこれ、え、私はどう受け取ったらええん……。さっき北にされたように、引っぱたけばええかな?
「なまえちゃんは絶世の美女マネージャーで、たった一人で百人近いバレー部をまとめあげた女傑で、頭が良くて優しくて気配りもできて人気者で、バレーのこともよう知っとるすんごい人でなあ、誰もかれもが一目置いとった。先輩からも後輩からも慕われとった。男も女も。先生も監督もコーチもみんななまえちゃんが好きやった。学校中の人気者……そう、マドンナや……!」
話盛りすぎやろ。
誰やねんそれ。もはや嘘しかあらへんやん。ようそんな堂々と嘘吐けるもんやな。それともあんたも思い出美化五百パーセントか?
「校内はおろか、その人気は校外にもとどまることを知らんかった。校門には常になまえちゃん待ちの長蛇の列。年がら年じゅう色んな人から告白されとった。自我がめばえた子供からお年寄りまでみーんななまえちゃんが好きやった……そう。初恋キラーや」
現実とかけ離れ過ぎて、逆に悲しくなってくるんやけど。そんで自我がめばえた子どもの初恋キラーはさすがにただの迷惑やろ。たいそう熱の入った演説はもはや呼びかけなど耳に入っていないのか。
「そんななまえちゃんがたった一人、そう生涯唯一愛した男が、この北さんなんや…………」
なんか過去形にされとる。
私死んだん???
「北さんがこの先愛す女も、もちろんなまえちゃんただ一人だけや…………」
こっちは一応現在形やけど、なんやちょっと寂しい人生にされとるで。
ええんこれ?と北に目で問いかける。
またもや首を振られた。
いや振っとらんと。
なんとかしてや元主将。
「あんたがこのまま北さんを狙おうもんなら、敵に回す人間は多いで……」
もはや牽制も行き過ぎて脅迫みたいになっとるんやけど。さっきまで力説!と言わんばかりの熱い表情とは一転、氷点下のような冷たい一瞥を向けおどろおどろしい呪いの言葉を吐き散らす後輩の姿を唖然と眺めていた。侑の中では私(架空の存在)と北のラブストーリーがここまで決定づけられているのだ、もはや私(現実の存在)が口を挟む余地などないようにすら感じられてしまう。まあ顔を見て気づかれんというのも普通に呆れてまうしな。
たしかに五年ぶり。
お互いに成長しとるし髪型も変わって着る服も違う。今日はおデート気分で多少は浮かれた格好しとるし、女性らしい服装に合わせてそれなりにメイクもしているけれども。そんでさっき落ちたけども。それにしたって気づかんか?え、気づかんもん?侑には、結構懐かれとったように思っててんけどな。気のせいやったんかな。それはそれで悲しいわ。
「あんたに全世界と戦う覚悟はあるんか……!?」
あれ?そういえば、私に興味なかったはずの北は一目で気づいてくれたな。帽子放り出して走って来てくれたしな。あれむっちゃかっこよかったなあ。はじめてギューッてされてなあ。かっこよすぎて白昼夢見てるんかと思ったわ。あ。なんか思い出したらむっちゃギューッてされたくなってきた。してくれへんかなあ。機嫌悪いからムリかなあ。ミーティング終わってからならええかなあ。
「……おいポンコツ。さっきっからなーにをゴチャゴチャ言うとんねん」
「お!ネギトロ!」
「はいよ」
「待ってました〜」侑の前におにぎりの乗った皿が置かれると、ぱあっと表情が明るくなって途端に子どものような声を上げる。いただきまーす!とネギトロにぎりに元気よくかぶりついた。相変わらずの変わり身の早さやな。情緒どうなってるん?と首をかしげた。隣から小声で「似たもん同士やで」と聞こえてきた。おかしそうに笑っている北だけはすべてを悟ったかのような顔をしているのが釈然としなかった。
「ウマー…………」
でっかい金髪ハムスターは頬袋にたっぷりおにぎりを詰め込んで幸せそうな顔をしている。なんやそんな様子を見ていると、うまそうに、見えてくるやん……。きゅう、とお腹が切なく鳴いた気がした。
「なまえちゃんもいる?ちっこいの作ったで」
そっと差し出された小皿に目を丸くする。
かわええハーフサイズのネギトロにぎり。ご丁寧にてっぺんのネギトロまでちゃんと再現されており、治のおにぎり屋としてのこだわりがうかがえる。近くのカウンター席から椅子を引っ張ってきた治は、空いたスペースで席を作ってお座敷に座る人間を嬉しそうに眺めている。
「ほ、ほんまに?ええの?」
「おん。なまえちゃんに食うてほしい」菩薩のような笑顔で治がうなずく。
「ありがとお!いただきます!」
「よかったなあみょうじ」
「うん」片手でぱくっといただけるかわええサイズのおにぎりを一口。笑える。とろけるうまさや。んふふ、うまい。新鮮なネギと味も食感も相性抜群や。もちろんお米や海苔とも。これまでの疲弊もぶっとんでひたすらに至福の味を堪能する。
「おさむおいひい」
「そらよかった。まだ食いたいもんあったらどんどん言うてな」
「おに宮ミックス!」
「社員限定や」
なまえちゃん今日はいっぱい食べるなあ。お婆ちゃんが楽しそうに呟いた。
みょうじ米粒ついとる。と北に言われ、くちびるの端を拭っていった親指の先についている米粒にぱくついた。ふふ、と笑われ頬を揉まれてくすぐったい。ネギトロうまい。
「え…………」
うふふあははと笑い声の響くなか、気色の違う声が聞こえて目をやる。食べかけのおにぎりを手にしたまんま侑が瞳孔開き気味の目で私を凝視していた。ええ、こわ。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「なまえちゃんやん…………!!!」
遅すぎるわ。と思うや否や。
ガタガタガタッ!とおぜんが揺れる。
「わっ」お茶こぼれる。
と湯飲みに手を伸ばす。
空を切った。
「ひゃっ??」
両肩を掴まれてそのまま押されて後ろへ倒れこむ。
畳でよかった。勢いのまま頭をぶつけてしまって結構痛む。何がどうなってこうなったんか。いまいちよう分らんけども。ひっくり返った身体にずしっと乗っかる重みを離そうと試みて、首に回った腕の力に気づいて、すぐに諦めた。
「みょうじ!」
目の前に広がる板張りの天井を見上げ、なんやこの既視感と思っていると、視界の端っこから北が入ってくる。
「今頭打ったやろ」
「あーうん……ダイジョーブ」
「ツム!お前なにしとんねん!!」茶ぁこぼれたやろが!?と怒りの声が聞こえてくる。が、当の本人はというと、人の服に顔を埋めたままうんともすんとも言わんと。しがみつく力を強めてくる。おろしたてのブラウスの胸元がじんわり湿って、やれやれと金髪に指を通した。
「……絶世の美女でもマドンナでも女決でも以下省略、もちろん初恋キラーでもないけどな。あんたらにそこそこ慕われとるんは確かやろから、敵に回したらこわいやろうなあ」
よしよしと撫でながら笑う。
あーあ。気づかれもせんと色々と悲しくなるぐらい美化された上にタックル食らって頭は痛いし重たいし、お茶こぼれるしおニューのブラウス濡れてもうた。散々や。この男一人でこんだけのことを巻き起こす、相も変わらず目立ちたがり屋の騒がしい寂しがり。呆れすぎてもう、怒る気にもなれんわ。えりあしをじょりじょりしながら吐き出す声を、われながら甘ちゃんやと思った。
「−−ただいま侑!北の純潔、守ってくれてありがとうな」
「……おかえり。守り、まくったったわ。留守は、ちゃんと、守ったからな。やないと、なまえちゃん、泣くやろ…………」
せやからもっとなでてや、とぐしゃぐしゃになった顔をすぐにまた沈めるかわええ後輩に笑顔がこぼれた。そっと口を開く。
おい鼻水つけんな。


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