太陽の熱が、日に日に強さを増していく。
大きなつば付きの麦わら帽と、首筋をぐるりと囲ったタオルでは逃がし切れない熱が、背面から全身へと回ってくる。太陽だけじゃない。空の色も雲の形も風の温度も、すっかり夏の訪れを感じさせるようなもので、先日やっと梅雨が明けたと思ったら、稲穂もぐんぐん伸び切って、既に開花してしまっている。今年は春から気温が高かったから、刈り取りも少し早まりそうだと考えながら、右手を張った水へ突っ込んで、刈っても刈ってもなくならない雑草の根元へやった。
噎せ返るような暑さの中、ジーワジーワと蝉の声が響く。
全身から噴き出す汗の感覚とは、バレーをしてきた学生時代からの付き合いではあるものの不快感は拭えないが、それでも空気の籠りがちな体育館で大人数が一斉に動き回るよりは、山にほど近い屋外で、一面見渡す限りの田んぼに開花したばかりの稲穂が風でさわさわと揺れる景色を目に中腰でコツコツ、同じ動作を繰り返すことの方が呼吸もしやすく楽ではあるのだろう。
……けれどもバレーは、言うてインドアスポーツやったからなあ。
六年間運動部でやってきたわりに、走り込み以外では外に出ることなんて滅多になかった。そら野球やサッカーなんかをやっていたのであれば、また違ってたんやろうけど。この日差しだけはどうにも慣れんわ、とひとつ息を吐いて雑草を取り除く。額から流れる汗が頬を伝うのを感じて、顔以外で唯一露出している手で拭った。
昼食を終えてから黙々と作業をすること幾時間か。
太陽はだんだんと南西の位置へ移動している。
前屈していた姿勢を直し、背筋を伸ばし視界を上げると、目の前にはいつもの景色が視界に広がった。
真っ青な空に白い雲。
光り眩しい新緑に、白飛びして見えるあぜ道。
何とも色々眩しい季節になってきた。
チカチカする視界に、思わず目を瞑る。
目玉の表面がじくじくと痛むのをやり過ごす。
はあ、と息を吐く。

学生の時とはまったく違う光景に、ノスタルジーを抱えるほど感傷的な性分でもないというのに。
一日、一日と、日常生活を反復していく中で、継続する中で、ただひとつ。まるでこちらの不意を突くようにして、過ぎ去った記憶が、一瞬にして連れて来る人がいるから、思い出すたんびに胸がつまる。

――なんで、泣くんですか?

記憶の中の後輩にはいつだって手を焼いてきた。バレーボール。部活。学校生活。その他諸々。言葉を交わせば大体顔をこわばらせて。声は裏返って。肩を跳ねさせて。
――泣くんはおかしいやないですか。
――なんで泣いとるんですか。

――あんたが、泣くんは、おかしいやろうが。

それやのに、
記憶に焼き付いて離れないそいつは、
射貫くように俺を見据えている。
こわいくらいに真っ青な空。晴れ晴れしい門出の日。桜舞う光景を綺麗やとシャッターを切る音、笑い声が喧騒が耳に響く。せっかくの青空も美しい花吹雪もすべてがぼやけて、何一つ鮮明には残らない。ただその声が、言葉が、胸を深く貫いて、いつまでも離れない。それが甦ると、心臓がぎゅうと締まる心地がして苦しくなる。
そして今日もまた気付いてしまう。
俺はもう、あんひとに、会われへんのかもしれん。
あんなに、あんなに、そばにおったのに。
――笑ってくれとったのに。
そこまで思い出してしまうと、足元が急にやわらかな感覚になって、ふわふわと頼りなくて、目玉がぶわっと熱くなる。背中が曲がる。俯けば、よりいっそう、降り注ぐ記憶の波に足を取られてしまう。鼻の奥がつんと痛い。胸が痛い。頭も痛い。どこもかしこも痛い。痛くて痛くて涙が出そうや。
そうしていると、
――世紀の大失恋やなあ、北。
やさしい声が、とんと降りてくる。
あの日、あそこで、それぞれに道を違え、自分の目指す方へ歩いていった、誇らしい仲間たち。
あの日、ただ呆然と立ち尽くすしかできなかった俺を、拾い上げるような、温かい声だった。

蝉の声が耳奥で震える。
立ち尽くしている。
今も俺は。
こんな田んぼの真ん中で。
色鮮やかなあの笑顔を。

「――た――――」

――――うん?
何かの音が耳に入って、反射で目を開く。
閉じる前と変わらない、強い色彩に少しずつ順応していく視界。
鳴き声には思わなかったが、鳥だろうか。
そう思って空を見上げてみるも、何もいなかった。
――――なんやろ。
確かに何か聞こえたと思ってんけど。
どことなく聞き覚えのある、
耳に入ってくる、
まるで自分を呼ぶ時のような音だと思った。

「き――――た――――!」

澄んだ声が、今度ははっきりと耳に届いた。
首の向きをぐるっと変えて、停めておいた軽トラの方へ向き直る。

青と白のハイコントラスト。
新緑の稲穂。
見慣れた景色。
毎年毎年、変わらない景色。
なのにひとつだけが違う。

「ひ――さ――しぶり――――!」

昔と変わった風貌のそのひとが、
変わらない無邪気な笑顔を浮かべて、
ひとりポツンと佇んでいた。

その姿を認識した途端――
それまで鮮明に、正しくものを映していた視界が役立たずになって、全ての輪郭が急に曖昧になる。足裏の地面の感覚がふわっと浮いた。ばしゃっと水音が鳴って、鳴り止まない。手のひらの力が抜けて、掴んでいたもんをすべて落とした。足が勝手に動く。視界がゆらゆらと揺らめく。今はもうそんなこと殆どなくなったというのに、うっかりと泥に取られそうになる両足を踏ん張って、ざぶざぶと水をかき分け、一歩ずつ進んでいく。脳みそのモーターがいきり音を立てて回転しているというのに、頭には何にも浮かばずに、ただただ早く早くと身体だけが急く。何がそんなに楽しいのか、にこにこと笑って大きく手を振るそれに応じてやる時間も惜しく。ああけれどいつまでも見ていたいような。
そうして上がってきたあぜ道のカラカラに乾いた土に泥水が跳ねる。
軽く弾んだ息も整わないまま、ほんの一時も視線を外すこともできず、まっすぐこちらまで向かってきたことに何を思ったのか、きゅうと細めていたまるい目を、元よりさらにまるくして、こっちを見て固まるのを見て、ああこの表情はなにを思うとるときの顔やったかなあとひと昔も前の時頃を思い返そうとして、けれどいま心にはそんな余白もなくて。
本日の最高気温、約三十五度。
焼きつけるような日差しと生ぬるい風の夏日に、全身汗だくで手足も泥水まみれ。
身体から蒸気さえ出ているに違いないだろうに、
そんなことには何にも気付かず、
足を踏み出し、
両腕をめいっぱいに伸ばして、
その小さな身体を、力いっぱいにかき抱いた。


ジーワジーワと囃し立てる蝉の声を、
恐らくはぼんやりと聞き流して、
一体どれだけの時間そうしていただろうか。
二人分の熱がひどく熱い。
触れ合ったところがやわらかい。
心臓がこれまでにないほどにバクバクと騒ぐ。
まぶたがぐずぐずに溶け落ちそうや。
腕の中におさまる嘘みたいな存在。
嘘でもよかった。
なんでもええ。
離されへん。
放したらへんもう二度と。
二度と。
「き」
「…………」
「きた、きたさん?」
「…………」
夢でも見てるんやないやろうか。
もう一度顔を確認したいと思って、でも離すことなんか出来なくて、思いとは裏腹に、むしろ力が強くなる。目で確認出来んのやから、もっと喋ってくれたらいい。その声をずうっとこのまま聞いていたい。そう思うのに「き」と「きた」くらいしか喋らんので、何となしに、腰のところと、髪に触れている両の手のひらを撫でるように動かすと、それは「ひゃん」と鳴いた。なんそれ。指の間を通り抜けるさらさらの髪の地肌は汗ばんでいて、腰は衣服に覆われていても熱が伝わってくる。そのまま頬を寄せると、かすかな甘い匂いと汗の匂いを感じる。やわらかく合わさった部分からは、ドクドクと激しい鼓動が伝わってくる。
「きたさん、きたくん、あの」
ああ。
これは、これは。
これは夢やないんやな。
「きた……」
「…………」
「北氏」
「なんや畏まって」あかん、鼻声になる。
「きゅ、急にしゃべる!」
「お前こそ何なんや、さんだの君だの」髪を混ぜる手は止まらない。
「北が、返事せんから」
「…………」
それこそ返答に窮したので、いい匂いのするそこへ鼻を突っ込んだ。「ぎゃあ!?」と声を上げて、俺の頭をつかむ小さな手が、さすがに抵抗を企てたが、成人男性の力に非力な彼女がかなう訳もない。いや、高校三年間の部活動によって、体力と脚力と腕力に関しては、普通の女子よりは培われていたのだったか。ほそっこい二の腕をまくって、あってないようなくらいの力こぶを見せてきたことも、そういえばあった。それに彼女が今就いている職業は、想像するよりもずっと力を使うのだと知っている。
「北、それ、それは、それはあかんっ」
まあでも今こうして振り解けんのやから一緒か。
――――かよわいなあ。
そう理解すると、ますます身体が熱くなる。
「汗を。汗をかいてるから。汗を」
「俺もかいてる。猛暑日やねん今日」
「そ、そうなんや……?」
「うん」
「あの」
「うん?」
「心臓が」
「うん」
「いまあの、動きすぎてて」
「俺も」
「なんか逆に止まりそうやねんけど……」
それも俺も。と思って笑う。フフッと漏れた息で気付かれたらしく、「私は北のせいなんやからな!?」頭を掴んでいた手が背中をバシバシと叩く。背中よりも、首が熱いし痛いな。そういえば帽子どこ行ったんやろうか。どっか落としたかな。大して痛くもない攻撃に無視を決め込んでいると、少しして諦めたのか、攻撃は止んで、その代わり作業着の背中のところが少し引っ張られるような感覚がした。思わず奥歯を噛む。
再び大人しくこの腕の中におさまってくれる存在に、あの日、ぽっかりと空いてしまった大穴へ、何かがゆっくりと降り積もっていく。
やわさが、
熱が、
鼓動が、
声が、
匂いが、
あんなにも毎日一緒にいた、あの三年間ですら感じたことがなかったもので、埋まっていく。
目元がじんと疼いた。
「…………き、北」
「ちょっと今しゃべられへん」
「しゃべってるやん。いやそうやなくて」
「…………なに」
「そ、そろ……そろそろ、そろそろ、離れた方がいいんじゃないでしょうか」
「標準語をしゃべるな」
「だ、だれかこっち見てるねんって!」
誰かが見とるよ。
ばあちゃんの口癖が甦った。
「だから離してっ、ちょっともう離して!」
穴がまだまだ塞がってはいないので、ちっとも離したくはなかったのに、聞きなじんだ言葉でハッと我に返って、撫ぜていた手を止めて、腕にぎゅうぎゅうと込めていた力少しずつ弛めていく。ゆっくりゆっくり。こちらを掴んでいた指も解けて、ふたつの身体をつなぐものがなくなって、小さな熱がふらふらと離れていくのがわかって、胸が痛んだ。あんなに感じていた熱も、空気に阻まれて、一気に冷えていく。
望まずとも距離を置かれたことで、ようやくその姿を捉えることができた。
あんなに笑顔で俺を呼んでくれたというのに、
先ほどとはまったく異なる顔をしている。
「……ゆでたタコみたいな色やな」
「――誰のせいや!誰の!」
このっ、朴念仁!
近いようで遠い過去の三年間。
何度も何度も彼女に投げられてきた、
小さな罵声が大空に吸い込まれていった。


「ほな信ちゃん、またなぁ。なまえちゃんも」
齢六十にして紅潮した頬を押さえ、好奇心に瞳をキラキラさせつつも、最低限の節度を保って軽い挨拶と世間話だけでその場を離れてくれたばあちゃんの友達の背中を見送って、それから再び向かい合う。ビクッと肩を跳ねさせるみょうじは頬も耳も首も腕もまだ赤い。
「まさか熱中症なってへんよな?」
「……言うとくけどな。あんただって今、大差ない顔色してんねんで」
ぼそぼそと返される言葉。
キュッと結ばれた唇がさらに赤く彩られている。
ぷっくりと膨らんだそこはとてもやわらかそうやと、静かに唾を飲み込んだ。
「まさか北が、こ、こんな、こんな、ことになると思わんやん……」まったく不本意であった、一定の距離を空け(られ)たことによって、視界にダイレクトに入ってきた情報に、頭がまだ回りきらない。視覚は八割もの情報を伝えてくるのだそうだ。まったくもってそのとおりやなと、さっきまで俺の背中に回していた小さい掌で頬を覆い、か細い声でぶつぶつと呟いているさまを眺めながら、何気なく上から下まで視線を滑らせると、また視覚から情報が入ってくる。それも、とんでもない視覚情報が。
「…………すまん、みょうじ」
「ウン……?」
「その、服が」
「フク……?」
「……あと、靴も」
「くつ……」どっかたどたどしく復唱しながら、ノロノロと顔ごと足元へ向けてすぐに気づいたらしく「あ」と声を上げた。ざぶざぶと水を蹴って、泥を踏みしめて、炎天下、田んぼの中で作業をしていた人間の手元足元は非常に汚れている。
繊細そうな装飾がついたヒール靴には当然のように泥水がいくつも跳ねたし、俺が頬を寄せたせいで、真っ白なブラウスの肩口のあたりに泥がついている。この距離じゃ見えへんけど、きっと髪にも。この炎天下、短くない時間密着していたせいで、不要な汗もかいただろう。
やってしまった。
なんも考えとらんかった。なんも。
せっかくのきれいな格好を汚してしまった。
俺が。
熱くて仕方なかった思考が急激に冷えた。
「大丈夫やで、こんなん。目立たんし」
真っ赤な顔でそう言われたものの、ああそうですかと返せるわけがない。
新しいの買うたる。
目も頬もどこもかしこも赤くてえらい可愛い。
いや洗って落ちるかな。
なんで怒らんの。
落ちようが落ちまいが関係ないやろ。
なんで俺んこと拒否せえへんの?
とにかく汗も泥も洗い流さんと。
どういう気持ちの表情なんそれは。
服も靴も洗濯や。
問いただしたいのに言葉が出えへん。
早う着替えさせたらんと。
くるしい。
「……風呂やな」弾き出した結論を声に乗せる。
開かれた距離を一歩踏み込み、袖のないブラウスからまぶしく光る白い腕をそっと掴んで歩き出す。 「え?あっ、えっ、北っ?」
そばに置いてあったキャリーバッグを持ち上げて、布にくるまった大きな荷物も脇に抱える。どっちも随分と重たいな。男の俺が持つにはそんなにしんどくないけども、みょうじが持って歩くには相当重かったんとちゃうやろうか。朝から晩まで重い荷物を抱えて走り回っていた日もよくあったから、ほそっこい見た目に反して昔から筋力は多少なりとついてたが、それにしても中々の重量だろう。こんな荷物を持って、空港から、駅から、バス停から、ここに、ここまで、はるばるやって来たというんか。俺に、俺に会うために?視界に入らない彼女とつながる手の感覚が、やわらかくて、あたたかくて、途中何度も何度も輪郭がぼやけて非常に困る。
「待って。北待って待って」
全然ちっとも追いついてないんやけど!?と、そう言いたげな顔をしているのが振り向かんでもわかって、わかってしまって、にじんだ視界を歩く中、うっかりと笑ってしまった。


放したくない。
この手を離したくない絶対に。
ただ、そうは思っても仕事中で。
二つの思考がギュオンと轟音で駆け巡った結果、荷物もみょうじも有無を言わさず押し込んで、軽トラックを運転し連れてきた先は自宅だった。道中みょうじは何度も、靴は水で洗ったらいい、服は洗濯したら落ちるからと言って「このままで大丈夫やから何にも気にせんとってほんまにほんまに」などと主張をしたが、そんなものは何にも聞こえないふりをして黙々と車を運転してきた。もはやこれはもうそういうもんやなくなっとんねん。それにあえて無視したというより、もう色んな感情が巡り巡ってグチャグチャになってしまって、視界をぼやけさせないためにも、黙らざるを得なかったわけやけど。とにかくみょうじのひたすら遠慮する声なんかは封殺した上で、駐車した後即座に助手席まで回ってドアを開けて手を差し出すと、シートベルトにもたついていたみょうじはそれこそ目が飛び出しそうなほどまるくした。
「えっ、北、えっ」
「段差高いやろ」
「えっえっ、えっ」
「はよ」
なぜだか動揺しまくっているみょうじに催促をする。はよ手を取れや。片手を頬にあてて、まだ何やら言いつつも、やっとその白くてほそい指を静かに添えてきて、しっかりと握った。「あああ……」小さい。し、やわらかいなあ。ずっと握っときたい。
「なあ北、ここあのまさかもしかして、いやあの」
玄関扉を前に、さっきから手と俺の顔と家を交互に見続けている。数秒待ってはみたが、どうやら永遠に終わりそうにないので、さっさと扉を引くことにする。
「ただいま」
「ヒイ!?」
「ばあちゃん、今いい?」
「うわああああ」
「信ちゃん?」
どうしたん、忘れ物?ひょっこり出てきたばあちゃんはそう言いかけて、すぐに俺が一人じゃないことに気付いて目を丸くした。ばあちゃんに見つめられると、自分がしでかしてしまったことを改めて自覚してしまい、ばつが悪くてそっと目を逸らす。三和土のところまでトコトコとやってきたばあちゃんに「忘れ物やないんやけどな、見てこれ」捕まえていた手を引っ張って、みょうじごと前に出す。
「ヒッ」
「あらあ!かいらしいお嬢さんやねえ」
「あっエッハイ、いやあの」
「みょうじって言うねん。高校ん時マネージャーやった」
「マネージャーさん?」
「みょうじ、なまえと申します……」
「みょうじ、こっちは俺のばあちゃん」
「こんにちは。信ちゃんの婆ちゃんです」
「アッハイ、存じてます……」
「え、なんで存じてるん?」
「最後の春高、応援席いてはったやん……」
よう憶えとんな。
「この、みょうじのな。服と靴を、汚してしもて」
「あらまあ」
「抱きついたら、付いてもうてん」
「そうなん」
「きっ!言い方、北それ言い方!」
「風呂入らせたいんやけど、沸かしてくれへん?」
「ふ、FURO……!?」
「うんわかった、沸かしてくるな」
「ありがとう。着替えも何か適当に出したって。俺のでええから」
「オレノデエエカラ……???」
「何語……?北語……??」素っ頓狂な声を上げ、首をもたげるみょうじに、ばあちゃんが靴を脱ぐように促すと、放心したような顔で従う。三和土から上がったところで、つないだまんまの手が少し突っ張った。二人の目がそこへ集中したことに気付いて、指の力を解いた。一瞬、間をおいてからみょうじからの力も弛んで、ゆっくりと手は離れた。ああ、離れてしまった。と数秒、無言で眺めてしまう。視線を二人へ戻すと、みょうじも顔を上げてこちらを見た。いまだに、何が何だかわからないという顔をしている。
「みょうじ」
「は、はい」
「まだ仕事残ってるから、俺は外に戻るけど、二時間もせんと帰るから」
「ん、うん」
「ええ子で待っとってな」
「――――っ!?」
「ええか。ウチの敷地から出るな。絶対にどこも行くなよ」何度も何度も言い置いて念を押して、言葉を失って赤べこみたいに首を振る彼女に、頷くだけじゃ返事にならへんぞと言って諳んじさせて、ようやくひとまず田んぼへ戻ることにする。その前に積みっぱなしの荷物だけ降ろしておいてやらんとな。ああでも荷物を渡してしまったら、もしかしたらいなくなっとるかもしれへん。さてどうしようか。


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