信ちゃんと、よくこうして拭いとってん。
目尻にやさしい皺を寄せて、懐かしむようにきゅうと双眼が弧を描く。
北のお婆ちゃんは日頃からよく笑うひとで、とてもやさしく笑うひとで、穏やかで、茶目っ気があって、春の日差しのようなひとやと思う。言葉を交わすと、その笑顔を見ると、心がポカポカする。
今年はにぎやかやなあ。
なまえちゃんと一緒にできるなんて、
ほんま嬉しいやわあ。
お盆前にやった大掃除の時やったな。
北家は年に二回、大掃除を行うというのが慣例のようで、八月、ちょうどお盆前のこのタイミングで、北のお父さんとお母さんも一緒に家族全員で、一斉にお家のお掃除をする。大掃除といっても、お婆ちゃんが毎日丁寧に磨き上げているこの家を隅々まで掃除するのはさほど大変なことではなくて、普段の掃除に加えて、そこまでは手を付けないような天井裏とか床下に手を入れたり、物置とか納屋とか倉庫とかを片したりとか、それくらいだ。高さと力のいるところは男性陣が担って、女性陣は残りの部分を。さすが毎日行っているだけあってお婆ちゃんの手際はかなり良いから、別段私が手を貸す必要もないのだろうけど、ふと一緒に床を磨いてみたくなって、お願いしてみたら、笑ってええよと言ってくれたので一緒に拭き掃除をしたのだった。
きれいにしてあんひと迎えんとなあ。
そう呟いて家をきれいにしていくお婆ちゃんはとてもかわいくて、愛にあふれていて、いじましくて、私は思わず抱き着いたのだった。

「お婆ちゃん」
「うん?」
「畳のとこ終わりましたあ」
「はあい。ありがとう」
「バケツそれお水替えてくる?」
「ああ、せやね。お願いしてもええ?」
「はーい」
お部屋同士をぐるっとつなぐ広い縁側の床板を、小さな手で丁寧に丁寧に雑巾をかけるお婆ちゃん。その傍らにあったバケツを持ち上げて水場で汚れて黒くなった水を入れ替えて戻ってくる。膝をつけて腰を落とし、小さな手のひらをめいっぱい広げて、ひと拭きひと拭き。丁寧に。透明な水の入ったバケツを近くに置くと、顔を上げてふにゃっと笑う。ありがとうなあ、と間延びした、心のこもった言葉を贈られて、こちらも頬がゆるんだ。用事は終わったが、そのままその場で懸命に掃除をする姿を見つめる。手の中のものをぎゅうっと絞って、ポタポタとにじみ出た水がバケツの中に落ちて混ざり合う。水気を切った雑巾を、縁側の床板にあてて丁寧に拭いていく、お婆ちゃんの姿を見ていると、このお家に持つ大きな大きな愛情がうかがえて、心がじんわりとあったかくなってきて、私も丁寧にしよう、と思えるから、朝のこの時間はお気に入りの時間の一つだった。自分に任された持ち場を終わらせてはこうしてお婆ちゃんを見る。そしてそうしていると、くすぐったそうにこっちを見て言ってくれる。
「一緒にやる?」
「うん!やる!」
「ふふ。なまえちゃんは変わりもんやなあ。まいにちまいにち」
「やって、楽しいねんもん」
「ほんまおかしな子やわぁ」
「おかしな子ってなに!」やさしく笑うお婆ちゃんの言葉に少し唇を突き出して、もう一枚雑巾を持って来てバケツに突っ込む。ふふふと軽やかに声を上げて、お尻を向けるように続きを始めたお婆ちゃん。持ち前の握力でぎゅうぎゅうと絞って、昔北が教えてくれた、力のよく入る絞り方で、お婆ちゃんとおんなじ絞り方で、ぎゅうっと絞り出す。叩くように広げて、まだ拭かれていない部分をキュッと磨くように擦り始めた。私だって別に、掃除そのものが好きやったわけやないんやからな。
「この家も賑やかになったなあ」
ひとに向けたわけではないだろう言葉がふと聞こえてきた。北に聞いた。今はもう写真でしか見ることの叶わない、あのスーパーミラクルカワイイ北信介(小)は、愛情あふれるこのお婆ちゃんと一緒に、よくお掃除をしていたのだという。VHSとかないん?と尋ねた私に『あるわけないやろ、誰が撮んねん』と冷淡に返した北までセットで脳裏によみがえった。お孫さん、学校でもよく掃除しとりましたよ。片付けも得意やったな。あのむさくるしい、バレーボールばっかりやっとる男達の集うあの部室がいつもあんなに綺麗やったんは間違いなく北の功労や。私らの代のあと、あそこどないなってるんやろう……と想像すると思わず身震いしてしまうが、まあそれはそれで自己責任か。
『誰かが見とるよ』
毎日毎日、部室を掃除したり、ボールを磨いたり、手の行き届かないところを掃除したり、片付けたりを繰り返す。挨拶も、勉強も、部活動も、バレーボールと向き合うことも、色んなことと丁寧に接していく北がまぶしかった。お婆ちゃんもそうだ。いつもなんでも、丁寧に。ちゃんと。やさしくほほえんで、楽しそうに、うれしそうに、毎日毎日、家に触れるから、私も一緒におりたくなんねん。ずっとずっと見てたくなんねんで。
「楽しいことがぎょうさんあって、うれしいわ」
「任してや。こう見えて私、一人で五人分やかましいって評判やってん」
「そうなん?それはすごいなあ。……あ、けど」
「うん?」
「信ちゃんも言うとった。任しとき、て」
「ええ?北は、あのひと人の五倍は物静かやん?」
「ふふふ。けど、言うとったで。そのうち、これから、だんだん、もーっと、賑やかになるで。て」
「…………んん〜?」
視線は延々続く床板を見つめたまんまやりとりをするが、途中で手を止め首を傾げる。だんだん賑やかになるって、なんなん?北、二十四歳にして性格変わるってこと?それにしても『任しとき』とは、北にしては珍しいもの言いをするんやなあ。
「あ!わかった!家に誰か呼ぶんやな?」
もーっと賑やかになるってことは、あれか。双子か?双子呼ぶんか?あと尾白?
思い浮かんだ人物に手のひらを打てば、お婆ちゃんはやっぱり笑う。
「呼ぶんかなあ。せやなあ、呼びもんかなあ」
「呼びもん?」
「信ちゃんとなまえちゃん、二人で呼ぶんやろなあ」
「…………んん〜?」
わかったはずなのに、わからなくなってしまった。
唸り声を上げる私とは反対に、鈴を転がすように笑うお婆ちゃん。なにがそんなに楽しいのかさっぱりわからないが、どうやらとっても楽しいみたいなので、まあ、楽しいならええか?と自分を頷かせて、指摘される前に再び手を動かすことにしようと指先で雑巾をグッと押さえた。
「むっちゃちいちゃくて、かわええ子ぉやねんて」
「………………猫とか?」
でもやっぱり気になるな。

「お婆ちゃん、お茄子しんなりしてきたよ」
「ほんまや。おろし入れような」
「あとぽん酢とお水やんな?こんぐらい?」
「このカップに半分くらいやね」
「みりん入れて……で、あと煮込むかんじ?」
「うん。火ぃは中火にしてな」
「はぁい」ひょいと覗いてにっこり頷くお婆ちゃんがコンロの火を調節してくれて、フライパンから手を離して菜箸を小皿に置いた。ぽん酢とお水を投入したことで、フライパンの中でパチパチと音を立てていた鶏むね肉とお茄子は静かに煮立つのを待っている。このまましばらく置いておくと出来上がりだというので、もう一品作りつつ、おぜんを拭いたりお箸を出したりしていると、玄関の戸の開く音がする。肩が一瞬跳ねて、どくどくと胸の音も少し速くなる。食器棚から出したお皿を両手で抱えたお婆ちゃんが「信ちゃん帰ってきたなあ」と声を弾ませる。そっと入口から顔だけ出して、玄関の方を覗くと、作業靴を脱いだ北がちょうど顔を上げたところでばちっと視線がかち合った。帽子を取って、すこし笑む。
「ただいま」
「好き…………」
おかえり。
「あ。違った。おかえり」
何度聞いても、ええ……!内心身悶えるほどの衝撃を受けたせいか、実際の音声と心の声がうっかり逆になってしまったわ。危ない、危ない。すぐに気づいて言い直したのだけれど、「違ったってなんやねん」わずかにむっとした表情で指摘した北がずんずん歩いてきた。
「いやあの本音と建前が、んむ」
見るも瞬く間に近づいてきた北の顔が視界いっぱいに広がって、鼻の頭がぶつかった。小さな衝撃で反射的に目を瞑ると、唇に今度はふにゃっとしたものがくっついた。いやまあ、これが何かぐらいは、さすがにもう、わかりますけども……。ずっと外におったからかな、北のくちびるは熱がこもってるんかめっちゃ熱かった。三秒もたたずに離れて、正面から合わさった視線にちょっとばかし照れて、そんで北がしらーっと素面に戻って「手洗ってくる」と呟く。私は頷いて進路を譲る。そのまま洗面所へ向かった北の背中を少しの間ぼーっと見送って、こちらは台所へ戻る。
「お婆ちゃあん!」
「どうしたん?」
「北があ……」
「うん?」
離れない感触にムカムカーッとなる。
まったくもう、あの男はほんまにもう!
「信ちゃんが、どうしたん?」
「お婆ちゃん、ぎゅってさせてや!」
「ええ、わたしかいな?」
「連帯責任です!」フライパンの中の様子をうかがっていたお婆ちゃんに後ろっからぎゅっと抱きついた。小さな小さなお婆ちゃんの身体は夏の火仕事のそばにいるのに私たちよりも冷たくひんやりしているように感じられる。「なまえちゃん、暑いわ」と笑って言われたが、そのまんまの状態で一緒にくつくつと煮込まれるお肉とお茄子を見ていた。
「なにをしてるん」手も顔も洗ってきたらしい北がタオルで頭を拭いながら現れた。水を含んでへにゃっとなった髪の毛が手のひらで適当に拭われてあっちこっちの方向に向いているのがかわいらしい。
「北が急にチューする罪で、お婆ちゃんをギューの刑に処してる」
「俺にせえ」
「あかん心臓止まる」
「そんなん言うて、お前、酔った時なんかいっつももっと」
「きっ聞こえませえん!!!」
「なまえちゃんちょっと声大きいわ」
「えっあっごめん、退く……」
「それに急に好きとか言い出したんはそっちで」
「北ちょっと黙ってくれん!?」ギリギリお婆ちゃんから離れたあとで盛大に吠える。私から解放されたお婆ちゃんはまったく動じず、コンロから流しへ移動して溜まった調理器具を洗い始めてしまった。うう、と唸る私に北も動じず顔を寄せてくる。
「なんか手伝うことある?」
近い近い近い。
無意味に顔を寄せんといてほしい。
「もうちょっとで煮込みおわるから、待っとってなあ」後ずさる私の代わりにお婆ちゃんが答えた。 そして「なまえちゃん、そっちで信ちゃんにお茶入れたって?」と言う。振り向かずとも背面がどんな状況にあるのかなどお見通し、といった風格である。さすがお婆ちゃん。お婆ちゃんは、この家で行われていることは、すべて把握しているのだ。という感じがする。比喩である。まさかほんまにすべて把握されとったら、恥ずかしくてもう目合わせられへんくなってまう。ともあれ、お婆ちゃんに言われたからには仕方ない。背の高いグラスと麦茶の入ったピッチャーを片手ずつに持って、それを持とうとする北の背中を肩で押して居間の方へ動かして、おざぶのところまで誘導すると観念して腰を下ろした。私もそばに座って、ちゃぶ台に置いたグラスへお茶を注いで北のところへ寄せる。
「どーぞ」
「ありがとう」
人のことをからかう北も、やっぱりというか当然喉は乾いていたらしい。勢いよく喉を鳴らしてうまそうにお茶を飲む姿から今日も目を離せなくて、みょうじなまえはおおいに困った。
おかわりはいらないと首を振った北がこっちを見てちょっと笑う。
「俺より顔赤ない?」
「あんまりからかうと、ほっぺたつねんで」
「それは嫌やな」
数十分もすると、お婆ちゃん監修のもと私が腕によりをかけて作ったポン酢煮も、私がお婆ちゃんに作り方を教えた夏野菜のナムルも、一緒に考えたチョップドサラダもすべて白米のお供となって三人の胃袋に消えてしまって。すっかり満たされたお腹をさすりつつ、手早く食卓を片して流しで水に浸けていると、すぐ隣に北が寄ってきた。手元の水で冷えた体感も左側に感じる熱で飽和してしまう。「なに?」追加で食器を持って来たわけではなかろうに。そう思って尋ねると「皿拭く」とお皿拭き用のクロスを手に取った。
「座っときいや。また出るんやろ?」
「別に疲れてへんよ」またそういうこと言う。休憩時間は働くな、休め。涼しい顔で水切りカゴに手を伸ばそうとする北に肩で攻撃をする。農業を始めて分厚くなった身体はびくともせず、それどころか鷹揚に頭なぞ撫でられる始末だ。泡の付いたスポンジで皿をこすりつけながら、私は悟った。
「なめられとる……」
「なんでそうなんねん」
「お婆ちゃん、なんとか言うたってや……」
「告げ口せんといて」
「もうあっち言って」
「えらい冷たい言い方やな」
「だってもうこれ、何年言うてると思てるん?」
「三年……あと空白五年八か月空けて二週間やな」まじめか。いやまじめやな。一瞬間をおいた後に返ってきた細かい計算に息を吐く。部活時間内の『バレーボールをする』以外の用事や雑用は、基本的にマネージャーである私の仕事だというのに、ことあるごとに北は先回りをして雑用を済ませたり、力仕事を部員でやる手はずを整えたり、手伝ってくれたりするのだから、それはそれはありがたくもあり、申し訳ない部分でもあり、北の、数少ない困った一面でもあった。下心の一切ない親切心。マネージャーとしてではなく、北に並々ならぬ下心を抱えるみょうじなまえにとっては、そういう親切がちょっと辛かった頃もあった。こういうところやで。と何百回思ってきたことか。懐かしくも苦い記憶をほじくり出してしまった。今絶対むくれてぶさいくな顔しとるし嫌やなあ、と思いながらそっぽを向くと、「けどなあ」とのんびりした声が追い掛けてきた。
「それは高校の時の話やろ?今は、あん頃とは動機がちゃうねんで」
「動機って……効率以外になんかあるん?」
「今はなあ……ちょっとでもみょうじのそばにおりたいと思うから、手伝っとります」
「…………」
「有体に言えば、かまってほしい」
「かまっ……」
「下心やなあ」
いつの間に下心とか持つようになったん。
笑う北をこっそり見つめて思う。
比較対象がゴリラみたいに粗野ででっかい男共やったからもあるんやろうけど、どちらかと言うと、スポーツ選手としては線の細い部類に入っていたであろう北が農業筋とやらを装備してすっかりたくましくなって男ぶりがますます上がったように、外見だけではない時間の経過とともに変化したところはいくつもある。その中でもよくよく感じているのが、その笑顔だった。
よく笑うようになった。
よく私に笑いかけてくれるようになった。
というのが正しいか。
他にもまなざしとか声の温度とか思考うんぬんとか行動力とか色々あるけれど、そういった変化がすべて北の言う私に対する好意や下心に起因しているのだと思うと、胸をかきむしりたくなるような面映ゆい気持ちになる。
端的に言うと、今すぐひっつきたくなる。
困るわ洗い物の途中やのに。
とりあえずどうにか一通り洗剤で拭ったので、洗い流そうと蛇口をひねった。
「…………すぐ、終わらすから、休んで待っとって……」
ぼそぼそと低い声で唸るように告げると、視線を感じる。水の音で聞き取りにくかったかと思ったが、聞き返されることはなかった。
「すぐ来てくれるん?」
手の泡を洗い流してから、食器を持つ。これは都合のええ聞き間違いかもしれへん。子どもが甘えるとき、みたいな声が耳をくすぐる。見たらあかん、と自制して自制して、うなずくだけにとどめた。
「そんなら、待っとこうかなあ」
北の声が、やさしくやさしく誘惑する。
自制して自制して、それでも欲望に負けてしまい、またもやこっそり北を見る。横顔を覗き見るつもりが、しっかりとこちらを向いていたので、その衝撃を真正面から浴びることとなった。クロスを元の位置に戻し「待っとるで」と踵を返して、お昼の番組を観るお婆ちゃんの方へ行ってしまった北を、熱をもった瞳で見送った。のぼせきった脳みそがどうにかはじき出した言葉が一言、するっと口からこぼれ落ちる。
「はにかみ北…………」

「お婆ちゃんは、なんでお爺ちゃんと結婚したん?」
数日前に作っておいたカルピスバーを頬張りながら、洗濯物をたたむお婆ちゃんに声を掛けた。お婆ちゃんはピタリと手を止め、「ええ?」と首を傾げて、ふにゃっと笑う。あ、照れ笑いや。これ好きなやつ。と心の中で盛大にときめきながら「ねえなんで?」と繰り返した。
「そら、このひととなら、ええかなって思ったからやろ?」
まさかこんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。そうかな。子どもや孫から、一度は聞かれる問いかけやと思っててんけど。珍しくもうろたえて、やや窮した様子でお婆ちゃんが答えた。
「ええかなって思ったん?」
「うん」
「お爺ちゃんならええかなって?」
「うん、うん、せやねえ……」
ポポッと一気に血色のよくなったお婆ちゃんのお顔を眺める。私の顔は今おおいににやけているだろう。急にぎこちなくなった手つきでタオル類を膝の上でたたんでいく。口元は普段のとおり笑んでいるが、視線はお膝の方から離れない。はあ、お婆ちゃんかわええなあ。シャクシャクと冷たいアイスを咀嚼して飲み込んでから口を開く。
「お爺ちゃんてどんなひとやったん?」
質問を少し変えれば、記憶をたどるように視線を上でさ迷わせた。
「ぶきっちょなひとやった」
「ぶきっちょ?」
「言葉の足らんひとでなあ……」
「ことばの足らん……」
「けど、やさしいひとやってん」
出会って、結婚して、一緒に暮らして何十年と経って、先立たれてしまって、子どもも孫も成人して。それだけの月日が経過しているのに、今なお、残った記憶をほんの少し拾い上げるだけで、そんなに、しあわせそうに笑えるのか。
「やさしかったんや」
「うん」
「そこは、北に似てるなあ」
「信ちゃんなあ、よう似とるわ」
時代劇の好きなひとやった。
お笑い番組はあんまり観いひんかった。
冗談のひとつも言われへん。
けどよう話を聞いてくれた。
ウンウンて頷くんがおもろくてなあ。
ごはんをよう食べて、あんまり褒めてくれへんかったけど、一言目はぜったい『うまい』やってんで。
ひとつひとつ確かめるように呟いてほほ笑むお婆ちゃんがまぶしい。お写真でしか見たことのないお爺ちゃんのことをひとつひとつ知っていく。いつの間にか食べ終わっていたアイスの棒を片して、お婆ちゃんの近くに座り、洗濯物の小さな山から適当に掴んで膝に乗せる。北のシャツやこれ。鼻先をねこじゃらしでフワフワさせられるようなくすぐったさがこみ上げた。
「しあわせやで」
ええなあ。
ええなあお婆ちゃん。
そんなふうに言えるんって凄いなあ。
出会ったときからそうやと思った。慈愛のあふれる目をして、そん目をきゅうっと細めて笑う。はじめて言葉を交わしたときも。声もふわふわとやわらかくて、優しくて、耳にするっと入ってきて、心をあったかくしてくれる。気性の穏やかでまあるいひと。このひとの前だと、固まる緊張も警戒もほぐれる。お婆ちゃんがこの家におったから、北にもずいぶん素直になれたし、北から向けられるものも素直に受け取れるようになってきたと思ってる。
ただ。
「わたしとおんなじもんを、なまえちゃんが喜ぶんか、わからへんよ」
「…………うん」
「年も、性格も、考え方も、好きなもんも、年代も、環境も、なんもかんも違うからなあ。一緒なん、性別と……食べることが好きなくらいやろか」
「うん」
「ああ、あとひとつあった」
「うん?」
「信ちゃんのことが、大好きなところ」
「…………」
「これはおそろいやなあ」
大きさも色もおんなじ靴下の片方をさがして山の中に手を突っ込んで探りながら、やさしい声が滴のように溶けていくのを感じた。現代に生きる若者にはピンと来にくいことだが、お爺ちゃんとはお見合い婚だったのだそうだ。ひとつの目的のために、少しずつ時間をかけて歩み寄り、生活を共にして、子どもをもうけて、生きるために仕事をして、子どもを育てて、家庭をはぐくむことを成立させる。そうだ。決して、ただ穏やかなだけのひとではない。戦後間もないころに産声を上げ、国のありかたを大きく変えざるをえなかった激動の中の日本を生きてきたひとだ。歴史の授業で習ったような昔のことで、戦争なんて縁遠い、平和な世の中を生きる私達には想像もつかない時代のことで。それでいて子どもを育て上げ、孫を見守り、家を保ってきたのがこのお婆ちゃんなのだ。私よりも小さなこの身体の中には、長い長い、気の遠くなるような長い年月、日々培ってきた過程が『ちゃんと』据わっている。せやからこんなに魅力的なんや。せやからこんなに、いっつも、まぶしく感じてたんか。
「…………私は」
揃った靴下をまとめて次に手に触れたのは藍鼠一色の作業着。他の服より厚みがあって少し重たいそれを手繰り寄せて、なんとなくギュッと抱える。
「自分が結婚とか、考えたことなかってん」
背面を広げて片方の袖口を折り込む。もう片方、というところで穏やかな声が「そうなん」と紡いだ。
「…………うちの両親な、夫婦やけど、仕事ではライバルやねん」
「らいばる。そうなん」
「そ。ライバル企業の同職におる。競合他社。いわば社会的なロミジュリや」
「ろみじゅり」
「ロミオとジュリエット。……お婆ちゃんこの話知ってる?」
「知っとるよ。シェークスピアやろ?懐かしいなあ。宝塚でも観たことあんねんで」
「そうなん」宝塚か。それはちょっと興味ないではないな。今度お婆ちゃんと宝塚デートでもしようかな。と片隅で考えながら袖をしまい終えて、銅の部分を三分の一の長さでたたみ込む。
「仲はええと思うよ。それに私のことも大事にしてくれる。オカーサンの方なんか、私生まれたあと、中学上がるまで休職してくれて、主婦やっとったぐらいやし」
「うん」
「けど復職してから、三人どころか二人が一緒におる時間は少ないし、ふたりとも仕事が生きがい、みたいな感じのひとらやから」
「うん」
「仲はええねんで?」
「うん」
「結婚する意味、あったんかなて思ったことある」
「うん」
「あと、あんなに仕事が好きやのに、私のことで、オカーサン休まなあかんってなったん、申し訳ないなあって思とった」
「そうなん」
「うん」
同じ色のズボンを手に取り、センターで折って金具部分をたたみ込んで、裾からまた折っていく。作業着セットアップが済んだら黒のアンダーや。肩幅広い。これ結構ピッタリめの服やけど、私が着たらやっぱりちょっとゆるいんやろうな、と思いながらそれもきれいにしまえる形にする。そんで次はお婆ちゃんの割烹着。これはアイロン掛けるんやったなあとそっちの山へ移した。二人でたたむとさすがに早くて、すぐに終わってしまった。
「北と」
「うん」
「北と、お婆ちゃんとも、みんなと一緒におりたいんやけどなあ」
持ち主別に分けた山の中からお風呂セットでまとめる。なんでこんなことしゃべり出してしまったんやっけ、と眺めながら思う。結婚、せや結婚や。北が、そういうことを連想させるようなことをよく言うから。お婆ちゃんがあんまりにも幸せそうやから。この家におると、私も幸せな気持ちになるから。けど別に私の親の話とかどうでもええことやんなあ。なんでしゃべってしまったんやろう。お婆ちゃんはこのままアイロンがけに移るらしい。そばに置いてあったアイロン台の脚を拡げ、コードをつなぎアイロンのセットをする。「なまえちゃん」温度が上がるのを待つ中で、お婆ちゃんがふとこちらを見た。
「急がんでええよ」
私が一番好きな表情を浮かべたお婆ちゃんが、やっぱりやわらかい声を向ける。
「ゆっくりでええねん。ゆっくりゆっくり、考えたらええよ。信ちゃんは、わたしも、みぃんな、ここにおるよ。こわがらんでええよ」
「……ゆっくり」
「うん。けど、信ちゃんには言うたってや。なまえちゃんの気持ち」
「一番知りたいんは、信ちゃんやから」そう続けて、そっと割烹着を広げて袖口を台に乗せる。落ち着いた抑揚がすんなりと耳に馴染むのが心地よい。ゆっくり、ゆっくり。と、その声で反芻される。まとめた洗濯物たちを壁際へ寄せて、私ができることは終わってしまった。
「手伝ってくれて、ありがとうな」
「ううん。ええ休憩になったわ」
「アイスおいしかった?」
「うん。久々に食べれて感動やった」
「よかったなあ。そろそろ、お仕事戻るん?」
「そうしよっかな」
「扇風機、回しな?」
「うん。ありがとう」
立ち上がって、スカートの裾を手で直す。軽く腕を回して、ひとつ息を吐く。さて、私もそろそろ再開しよかな。と部屋を出ようと歩き出したところでちょっと考えて、お婆ちゃんの方へ向き直った。
「お婆ちゃん」
「うん?」
「あんな。私とお婆ちゃん、あとひとつ、おんなじところあるよ」
「ええ?なんやろか」
「北も、私らのこと、めっちゃ好きやで」
そう告げると、かわいらしい目をまあるくする。
それから、「なんや。おんなじところ、ぎょうさんあるやん」と笑った。


夜のとばり。
しっとりと湿る髪を風呂上がりに適当に拭ってからはそれっきり、夕飯も団らんも終えて自室でパソコンとにらめっこしている北の背後に忍び寄る。首にぶら下げているだけのタオルをそっと外すと、その肩がビクリと震えて振り返った。
「なんや、おどかさんで」
「へへ。なあ、髪拭いてええ?」
「じゃあ、お願いします」
「前向いてくださぁい」
「ハイハイ」元の位置に戻った頭部はひどく無防備に見える。晒された首筋は日中布に覆われているから、顔より少し白くてなまめかしい。ここにちゅうしたら怒られてしまうかな。どうやろ。と思いながら、まるい後頭部、髪の毛にそうっとタオルをあてがった。そのままやんわりとほぐすように揉んでいく。画面とキーボードを交互に見つめ真剣に打ち込みをしている、画面をちらと確認すると、帳簿のような体裁をしている。タオルをかました指先へじんわりと水気を感じながら「北がパソコン使ってるん慣れんわぁ」と感想を述べる。
「俺もまだあんま慣れん」
「北、電子機器使うイメージないもんなぁ」
「俺を団塊の世代やなんかと思てるんか」
「ホラ、なんか前言われてへんかった?大耳と北で老夫婦とかなんとか」
「侑やったな」
「あれは妬いたわ〜」
「え」
「なあ、ギューしてもええ?」
「…………ちょっと待って」
「待たへん」
しっかりした肩を支えに、首に腕を回して思いっきりくっついた。「ちょっ」ぺったりと上半身が硬い背中に張り付いた。さっきちょっと誘惑された首元がより近くなって、思わずかぶりつく。「みょうじ」よう考えたら、こっちは散々、全身にいろいろ痕跡残されとったわ。ちろちろと舌で何度か撫でてから、ちゅうっと吸い付く。「待」たしかこんな風にしとったやんなあ。わあ、できた。でもちょっと薄いなあ、なんて思いながら、そうやまだ頭拭けてへん、と手だけ頭に伸ばしてタオル越しの頭皮マッサージもどきを再開する。はあ、と北から息がこぼれた。こっちも感嘆のため息が出るわ。背中めっちゃがっしりしとってドキドキする。ひっつきがいあるわあ。北しょっちゅう前で私を抱えるけど、こんなんならおんぶでもええなあ。がら空きな首にちゅうもできるしなあ。ちゃんと正座をして背筋を伸ばし、パソコンと向き合う北に背後霊のように張り付いて、ちょっと急いたように数字や文字を入力していく北の横顔を見つめる。いささか乱暴にエンターキーを叩く北の頬っぺたが赤い。北もドキドキしてるんやろうか。数分ほどして、ノート型のそれを閉じて身体の向きをぐるっと変えた北がはずみで私を引っぺがした。ただ両手は掴まれて、上で持ち上げられたためにバンザイの格好をする形になってしまう。瞬きをした。
「終わったん?」
「お陰様でな。まあ、元々終わりかけやったけど」
「事務仕事とか得意そうやもんなあ」
「そんで?お前はなんなん。誘っとるん?」
「うん?」
「うん言うたな」突拍子のない質問に聞き返した私の反応をええように解釈した北が手のひらを畳の上へ押しつける。私の腕を掴んだままだ。当然のように背中から畳へ倒れ込んだ。いた、くはないけど、仰天している私の上に、さっきまで惚れ惚れしていた背中ではなく、前面がのしかかってきてさらに驚く。あっつい身体がこすりつけられて、自分でするんと、北にされるんと、なんか、なんかちゃうこれ。這い上がってくる感覚にぞわぞわして、解放された腕を使って北をぎゅうっと抱きしめる。顔が近づいてきて、唇がかぶさった。息が塞がれて、心地よいくるしさを噛みしめる。
「んっ……、きた」
「もっと呼んで」
「きた、き、北っ、なあ、ん」
「ん……なに」
「今日も、するん……?てこと……?」息も絶え絶えにそう尋ねる。
「たまには、せえへん日もあった方がええかと思とってんけどな」
「じゃあ、せえへん、てこと……?」
「あんな誘惑されたら、するやろ」
「へえ…………?」
もうなにを言うてるんかよくわからへん。
誘惑されたんはこっちの方やねんけど、と言葉に出すこともできずに、何度も吸われて過敏になったそこをまた食まれて、まあどっちでもええかあ、と融けたあたまで思うようになるまでずっと、ずーっと繰り返し浅く深く口づけられた。くるしい、くるしい、と叩くようになって、ようやく解放された呼吸に必死な私を見下ろして北がにっこりと笑った。
「みょうじが急にギューする罪で、お前をチューの刑に処します」
逆やし、グレードアップしすぎやろ。
これはふたりがすっかり正気にもどった数時間後、枯れた喉で言うことになるツッコミであった。


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