「忘れもんはあらへんな?」
引率の先生みたいなこと言うよなあ。
と昔っから常々思っていたけれど、今回も口には出さず「ないです!」と敬礼で返す。
満足そうに頷くと北は、私の足元に鎮座するキャリーケースその一とその二の持ち手をそれぞれ掴んで、フラットなロビーの床を静かにコロコロし始めた。一気に荷物が激減した私は、背負ったリュックの紐を無意味に掴んでフロントへ行き、最後の精算を済ませる。こんだけ連泊しておいて、帰って来たり来なかったりして訳わからん客やったやろうなあ、と思いながら「お世話になりました」と頭を下げる。百貨店の店員さんと同様、教育の行き届いたフロントのお姉さんは、一糸乱れぬ綺麗な笑顔で、より深くお辞儀をした。はあ。接客業の鑑やな。などと思いながら隣の北と目を合わせる。
「お待たせしました〜」
「行こか」
「うん」
今度は北の足元にある二つのキャリーのうち一つを手早くさらう。目を丸くした北が一歩あとをついてくる形になって、二人で駐車場へ向かって歩く。
「貸し。俺持つから」
「一個はええの!」
「重いやろ」
「自分の荷物やもん」
凹凸のない地面を車輪付きで動かすのだ、女性でもほとんど力なんてかからない。こちとらアスファルトどころか舗装されてへん道だって歩いてきてんねん。北はちょっと過保護や。あんまりそういう、エスコートとか、気遣いとかされると、こう、動悸が激しくなるから、控えてほしい。駐車場へつながる自動扉を抜けて、駐車場に入る。すっかり見慣れてしまった、北の車はずらっと並んだ中でもすぐにわかる。北が案内するより先に駆けて到着して振り返ると、呆れたような顔をして笑っていた。
「はしゃいどるなあ」
「そうかな?そう見える?」
「見える。そんなに楽しみなん」
「そらなあ。だって、ワクワクするやん?」
「ワクワク」ドアロックを解除しながら北が繰り返す。オノマトペを使う北がかわいくて、出会って十分も経たないうちからときめきが折り重なるので困るんだよなあと思いながら、開いたトランクへキャリーをそれぞれ積み、助手席まで行くとやっぱりスマートにドアが開いて、またダメージを食らう。ヨロヨロと車内へ乗り込み座席へ身を沈めた。
「なんや急に疲れとらん?」
「ちょっとな……残りライフ1や」
「ワクワクはどうしたん」
「ゼロです」
「なんでや」
ますます訳がわからないという風に首を傾げた無自覚な男前は、しばらくまじまじとこっちを見ていたが、やがてヌッと身を乗り出してきた。
「なっ、なに!」
「ちょっとな」
ちょっとってなんやなにがちょっとや。
これまでの度重なる経験から思わず身構えた私の警戒をあざ笑うかのように、北が狙ってきたのは銅ではなく面であった。やわらかい感触が額に触れる。ちゅ、と軽く音がして、視界いっぱいの北はやがて横を向かねば見えない北になった。こちらは首を回すどころか声すら出ない。いや、たしかに今日、前髪上げて、デコさらしてますけども。
「これでちょっとは貯まるとええなあ。ライフ」
一体どんな顔をしてそんな言葉を吐いているのか。
興味はあったが見る度胸はなかった。

駅前とはいえ県内ではそこそこにのどかな田舎町。早朝で車通りの少ない道を、それでも丁寧に進んでいく。日の昇りきっておらずまだ涼しいと言える空気を取り入れるために開けられた窓から、入ってくる風や景色を楽しんで、数分と経たず、指定されたナンバーのところへ車を停めてもらい、到着したのは一棟のアパートであった。
「ここか…………」
開いた窓に肘を乗せ、顔を覗かせるようにして、珍しくお行儀の悪い北が呟く。隣を見るも、ここからは完全に後頭部しか見えないため、どんな顔をしているのかはわからなかった。なんや、ラスボスのアジトに乗り込む前みたいなセリフやなあ、なんて思いつつ、北が完全に背を向けている間にこちらはシートベルトを外しておく。統計学上、このシートベルトを着け外しするときに、よく北にちょっかいを掛けられているようなのだ。私はこれを、『魔のシートベルト』と呼んでいる。外し終えた瞬間に、グルッと急に向きを変えた北と目が合って、びっくりしていると、ふと視線を下げられて、やはり、手元の方へ向いているので、またなにか悪戯でもしようとしていたのだろう。「…………」表情は完全に『無』だと主張しているが、先日めでたく北検定特級(有段者)入りを果たしたみょうじなまえの目はごまかされへん。これは、まちがいなく、クロや。
「はよ降りよ」
「……せやなあ」
心なしか、声の調子が少し低いような気がするが、促されるとエンジンを切って自分もシートベルトを外して、車外へ出る。私もドアを開けた。涼しいなあ、と思っているうちに回り込んできた北が差し伸べてくれた手のひらに指先を乗せる。握られた。
「今日も暑いなあ」
「…………んん」
極力手のひらから意識を逸らそうと、目前に佇む建物を見上げる。二階建てのこのアパートは築十数年は経過しているけれど去年大幅な改修工事をしたところだというので、外壁も塗装もまだ綺麗。集合ポストは宅配ボックスも備わっているし、階段は内階段だから雨の日も部屋まで傘を畳んで歩ける。二階だからエレベーターなんて上等なものがなくても不便ではないし、こうしてキャリーだって運べる。表札に記載のない、部屋番号だけが書かれたプレートどおり。ネイビーの玄関ドアを、事前に受け取っていた鍵を挿し込んで開くと、ほんのり薄暗い玄関から廊下とキッチンが見えた。
「おじゃましまーす」
「……おじゃまします」
小さめの玄関で二人分の靴を脱いでキャリーを二つも置くと、もういっぱいになってしまうので、とりあえず靴を靴箱にしまって中に上がる。かついだリュックを下ろして、ウェットティッシュを見つけ出して数枚抜き、北と分けて小さな四つの車輪を拭いてからフローリングへ上げた。そのままコロコロと転がして、脇にある扉もキッチンも通り過ぎ、くるっと向きを変えれば、そこには『部屋』が広がっている。
「……二部屋、と台所?」北が呟いた。
うんそう。と返して、空きまくっているスペースへ適当にキャリーとリュックを置く。ぐるっとその場で一回転して、全体の様子を確認する。うん。前見たとおりやな。と頷く。
白い壁紙とフローリングで全体的に部屋は明るい。二面採光なので、ベランダに面しているシャッターを下ろしていても薄暗いで済む明るさ。北が先に窓を開けてシャッターを上げていくと、ちょっとまぶしいぐらいだ。朝日が入る……。網戸と薄い白色の方のカーテンを閉めてくれて、落ち着いた明るさになった。
「ありがとう」
「ん。ブレーカー上げてくる」
「あ、そっか。お願いします。玄関のとこある」
「わかった」
その間に、と再びリュックに手を突っ込んで探し当てたのは、世にも名高いあのフローリング用のモップ。ドライかウェットのシートを装着してモップがけの要領で床を綺麗にするアレだ。クリーニングはされていて特に目立った汚れもないが、念のため二重にかけておくことにする。障害物をうまく避けたり退かしたりしながらワイパーをかけていく。ブレーカーを上げてもらい、さらに明るくなった室内で、いっそう美しく磨かれたフローリングに満足していると、北が視界をうろうろし始める。物珍しいのだろう。あっちこっちをキョロキョロと、右から左、上から下まで、立ったり屈んだり、北にしては落ち着きのない様子で、色んなところを開けたり閉めたりしている。
「これ全部、付いてきたん?」
「うん」
「……すごいな」
「ね〜」
エアコン、洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、IHコンロ、テレビ、照明器具といった電化製品のほか、ベッド、本棚、デスク、ゴミ箱や掛け時計まで全て室内に備え付けられており、ライフラインさえ機能すればたちまち部屋としてちゃんと稼働するような親切設備である。私的にはこの、パインの集成材で作ってある広めのデスクがお気に入りだったりする。あと、寝具について、マットレスと掛け布団、枕、シーツ一式を新調してくれているところも大きなポイント。しかもなんだか、部屋が全体的に、おしゃれである。きれいやし。改装したてやからな。クリーニングもちゃんとしてくれてるし。オール電化やし、ネット回線引いてあるし、モニターホンあるし。これで駅近2DKやし。敷金礼金かからんし。どや、ええ物件決めてきたやろ。と胸を張って北の方を向く。少し眉尻を下げた北が頭を撫でた。首を傾げる。なんでそんな顔するん。
「……そんで、家具とかはこのままでええん?」
「あ、えっと。ちょっと配置変えたい」
「じゃあ指示して」
「ん、じゃあ、まずこれ外して……」
家具の配置替えの前に部屋の仕切りの引き戸を外して空間を広くする。ベッドから動かしたいので、まず小さなものから退けて、スペースを空けてから二人で脚を持って、ぐるっと回して……デスクを壁沿いからこっちっ側へ……テレビは配線あるしのこままで……本棚をこの壁に寄せて……と順番に再配置していく。引っ越しにあたり当初は北の力を借りる予定はなかったのだけれども、やっぱり男手があるとこういうのがすぐにできるから大変助かる。ひととおり自分の希望通りになったベッドルームを眺めてウンウンと頷く。
「で、うちから持って来たモン運べばええな」
「ありがとうございます!」
「なんで敬礼なん」
「感謝の気持ち?」
「そういうんは別の方法で表現して」さっさと駐車場へ戻ろうとする北を慌てて追う。敬礼はお気に召さなかったようだ。別の方法、と脳内で復唱しながら階段を降りて、開けてもらったトランクを覗き込む。キャリーの居なくなった分はポッカリと空いているが、先日貸倉庫からセレクトしてきたもの達が残っている。「椅子と、鏡と、掃除機と、マイビッグ思い出箱」指さし確認をするかたわら、北も横から覗く。
「これで全部やったな?」
「うん。ありがとう」
ホテルまで迎えに来てくれる前に、北の家の倉庫に置かせてもらっていたこれらを車へ移してくれていたのだ。
「礼なんてええ。なんでもないし」
相変わらず、またそんな、優しくする……。
ちょっぴり胸をときめかせつつ、とりあえず一往復で済ませたいので、持てるだけ持ってみた。脇からひったくられた。
「なんで重いもんを持とうとすんねん」
椅子と姿見を片腕ずつに抱えた北がちょっとプリプリしながら、これでも持っとけ、と掃除機と思い出箱を押しつけてきた。トランク閉めといてと言うと背筋を曲げることなく再び階段を上り始める。本棚動かす時とか思ったけど、この男、重さとか重力とか、感じてへんのやろか。ちょっとはこう、よっこいしょ!みたいな感じにならへんの?そういえば、よく、ひとのことを持ち上げてくるしな。隙あらば持ち運ぼうとするし。その疑惑、十分ある……。
「なにボーッとしてるん」
「北には重さの概念がない疑惑……」
「また妙なこと言うて」
「だって〜」
「はよおいで」
「はい」

簡単に掃除して、模様替えもして、北んちから持って来たものを配置すれば、ほぼこれでお部屋の完成である。あとはキャリーの中のもんを移し替えるぐらいか。水道や電気の開通は電話で済ませてちゃんと通っているし、オール電化物件なのでガスの開栓立ち合いもない。テレビもオーナー所有のものやから、わずらわしい手続きも必要ない。
というわけで。
「おひっこし!終わりです!」
パチパチと勢いよく手のひらを打ち鳴らせば、つられて北も拍手をしてくれて、こちらは気分も上々となる。お疲れ様ですと頭を下げる。そちらもお疲れ様ですと返ってきてふふっとなる。グルリと部屋を見渡す。うん。われながら、かんぺきなレイアウトや。ふふん、と鼻を鳴らす。時間はまだ九時ちょっと手前。休憩がてら、コンビニで飲み物でも買って来ようかと思ったけれど、北が魔法瓶を用意していて、相変わらず用意周到、と思いながらベッドを背もたれにして並んで床に腰かける。椅子はあるけど、一つだけなので。どちらともなく。短い方の面なので肩がぶつかる距離だった。これ床に座るときラグいるな。おしりちょっと痛い。言うてアトリエは畳やし、一枚持ってこよっかな。それとも新しく買うか……などと考えながら、コップを受け取ってお茶を一口含む。
「あ。このお茶」
「前に淹れてくれたやつ」
「やってみたんや」
「うまかったからな」
「……へえ……」
「にやにやしとる」
「ニコニコしてんねん」
「ニコニコ……?」
「その顔やめろや!」
「ふはは!」
「ぐうっ……!」反射的に胸を抑えた。
ずるい……ずるいわ!急に笑うとかもう、もう!
ぎゅうーっ!と締めつけられる心臓に堪えきれず枕を抱きかかえてぎゅうぎゅうと締めつける。ずるいずるいとアナコンダを絞め落とす勢いで枕に攻撃していると、横からそれを奪われてしまった。目で追うと、肩が触れるほど、というより既に触れている距離に隣り合わせた北が眉を寄せて自分で掴んだ枕を見つめている。いや、見つめる、というか……、
「……なんで枕睨んでるん?」
「睨んでへん」
「いや今たぶん北史上最高に目つき悪いで」
眉間に刻まれた皺をつん、と押してやる。こんなにグーッと皺をつくる北なんてなかなかお目にかかれへんわ。この枕、気に入らんのかな。一応低反発やし沈み心地はよさそうやけどな。お茶おいしい。空になったコップへ中身を注いで北に差し出すと、ようやく枕から視線と手を放す。その隙に再びベッドの上へ放っておく。コップを受け取った北が、ゴクッと喉を鳴らしてお茶を飲みくだす。え、かっこよ…………。見てはいけないものを見てしまった気分になる。いつも。思わず目を覆ってしまう。
「なにしてるん」
「直視できない」
「なんでや」
「できひん」
「こっち見い」
「あっ!」両手に指が絡まった。
「あかんあかんあかん!」
外しにかかる北に抵抗して力を込めるも、悲しいかな腕力の差。北こいつ、ほんまに、涼しい顔して、力ある……農筋…………!グググ、と数秒の間拮抗していたもののすぐに力尽きて顔面を保護していた手が外されてしまう。そこで北も離してくれればええのに、開いた指の間にするっと北の指が入り込んで、まるでそういうつなぎ方をしているみたいになって、しかも両手でそういうことを急にするものだから、こっちは心の準備なんてできてへんし、ただでさえこんなに距離が近いのに、もっと近なるし、なんなんもう、さっきまで変な顔しとったくせに、なんでちょっとわろてんねん、
「――心臓もたんねん」
「へ……」
「て、言うとったな。前」
「う、うん?」
「供給過多て」
つるりとした瞳に自分の間抜け顔が映り込む。
「ふは」
そんなことがわかるほど近いところにおるのに、そっと、こぼれるように笑うものだから、ぎゅぎゅーっ!とさらに締めつけられて、首から上が急激に熱くなった。心臓もたん、供給過多、北が言うてるんはきっと私が前に言うた言葉や。なんやねん思い出し笑いか。かわいい。好き。思いつきでひとを殺しにかかるのやめてほしい。好き。このひとが好き。好き。好き。つながった手に力がこもる。
「俺もやねん」
眼の奥、頭の中まで覗き込まれるような感じがすんねん。北に見られると。なに。なにが俺もなん?さっきっから心臓がうるさくふるえて集中できひん。グルグルと思考がかき回されて、それなのに芯がしびれるような感覚。すっかり言葉を失って、ただ北を見ることしかできない。そうしていると、不意に視線を逸らした北の瞳が視界から消えた、と思ったら、首筋が映って、ひい、見てはいけないもの、と即座に目を瞑る。そのあとすぐに、北のやわらかがぶつかった。
…………。
おでこ。
ほどかれていた手をそこに当てて唸る私を横目で見ながら茶をすする北の顔のまあ〜涼しいこと。なんでそんな一瞬で、『俺別になーんもしてませんけど?』みたいな顔を作れるん?不公平や。神様あんまりすぎる。えこひいきや。なんて、大して信心深くもないくせに心の中でそんなことを思った。

「そうだ、北」
「ん?」
「引っ越ししたし、新生活が始まるやん?」
「……せやな」
「この近く教習所あるやん?そこ通おうかなって」
「教習所」復唱した北はパチパチと瞬きをする。これも前に言うとったんやけど、忘れていたのだろうか?口を閉じ、真顔のまま、さらに瞬きを数度してから、北は「あそこなあ」と声を発する。
「俺もそこ行っとってん」
「やっぱり!北んちから最寄りやもんな」
「スクールバス出とるしな」
「そうなん?」
「うん。せやし、仕事と教習重なる日はうちの近くまで来てもらうように登録したらええよ。ここかは徒歩で十分もせんやろ?」
「そっか……、アトリエ行かれへんと思とったけど、それなら行けるな……?」
「教習の内容によっては朝だけやったり昼間やったりもあると思うしな。タイミングによっては俺が迎えに行ってもええけど」
「いや……いやそれは北……」
さすがに、献身が過ぎん……?
どんだけ親切なん……?と度肝を抜かれる。
北は自分の発言内容になんの疑問も持たないのか「嫌なん」と眉を寄せる。ああ北、またそんな表情を……。
「タ……タイミングが、合えばな……」
「スケジュール決まったら、見してな」
押しても頼んでも懇願しても一切うぬぼれる隙をくれんかった隙なし男、北信介はどこに行ってしまったん?ほんまに疑問で、首を傾げた。
「それより、優等生北のゆかりってことで、試験の判定優しくなったりせん?」
「なるわけないやろ」
「優等生割とかないん?」
「なんや優等生割て」
スマートフォンで目的の教習所のウェブサイトを検索しながら、私の頭の中は不安でいっぱいだった。聞くところによると、運転免許というのは、学科試験と技能試験、二種類も試験があるというではないか。しかも、仮免許をとるための試験、本免許のための試験と、それぞれ二度に分けて行われるという。合計最低四回の試験に合格しなければ、車を運転する資格はもらえない。それもアレやろ、技能教習って怖い教官隣に乗っけて色々怒られるんやろ。「誰から聞いたんやその偏見」エリリンですが何か?きっともはや疑いなく教習所でも優秀な成績を収めたであろう北信介の紹介ということで、どうにかならんもんやろか。
「そんなに心配せんでも、そこまで難しいもんでもないで」
「高校のころ、全教科あんだけ成績よかった北に言われてもな……」
「みょうじは思いっきり文系やったな、そういえば」
「エリリン学科仮免三回落ちたって」
「それは恐らく記憶力以前の問題や。標識とか道交法さえ覚えたらええんやから、大したもんやない」
「覚えられる量ですか……?」
「少なくとも、お前が覚えた外国語の単語よりは量ないで」
「えっそう??」
「それに……三年の春高」
「ん?」
「うちのばあちゃん、一回で憶えたんやろ?」
「あれは〜……」
「あれは別枠やん……」あんなん、あんなセーター着とったら、北のお婆ちゃんてすぐわかるし。北のお婆ちゃんやから、そんなん、一回見たら、忘れられへんし。北を応援できてうらやましいなー、とか、あのセーターええなあ、とか、思とったし。「別枠?」と首を傾げる北になんでもないと返す。
「試験は楽にならんけど。確か卒業生の紹介やと、教習代、安くなるんちゃうかったかな」
「えっ、そうなん?」
「卒業するときになんや貰ったな。紹介カード。多分、まだうちにある」
「じゃあ、北紹介してくれるん?」
「うん。今日うち来た時に、名前書いて渡すわ」
やさしく頭を撫でられて、そのうえ北の署名までもらえるんか。ええ日や……。ああでも、カードは教習所に提出せんとあかんのやろうな。コピーとかじゃあかんかな……。あかんか……。ホームページに書かれている記述は目を通すが頭にはまるで入ってこない。さっそくこの記憶力の評判が人知れず揺らいでしまっているわけだが、頭の中ではそんなことばっかり考えていたのだった。
「もう行く?」
「せやなあ」
午前も九時半を過ぎて、そろそろかと二人で腰を上げる。立ち上がって、デスクの上に置いたサランラップ(スーパーで購入)をビニール袋(百円ショップで購入)に入れたものを三セット、手に通していつものリュックを背負う。換気のために開けていた窓も、北がシャッターを下ろして窓を閉めておく。カーテンも忘れないように閉めて、壁際の照明をオフにして狭い玄関へ歩いていく。
「鍵持った?」
「うん持った」
なんか会話がこそばいな。若干ふわふわする足取りで靴を履いて、玄関ドアを開け、玄関の照明も落としてドアを閉める。ちゃんと施錠できたことを確認して、ちょうどすぐお向かいにあるおんなじ色の玄関ドアを見る。インターホンのところまでほんの数歩歩いて、ちょっとドキドキしながらボタンを押してみた。隣に並んだ北が私の手から三つのうち二つの袋を外して自分の腕に引っかけた。お礼を言っているとすぐに、インターホン越しに応答があったので用件を伝えると、間もなくドアが開いて、かわいい赤ちゃんを抱っこした、主婦!って感じの女性が出てきた。ぺこぺこと頭を下げながら、挨拶と自己紹介をして、袋を渡して、少しばかり世間話をして、またお辞儀をしてその場を離れる。それをもう二回繰り返して、無事に駐車場へたどり着く。ミッションクリアや。ほっとしたわ。車に乗り込んで、熱い、エアコンをつけてもらって、シートベルトを装着して、空調が利き始めるまでの間半分ほど開けてある窓から、さっきまでいた建物をのぞく。
「かわいい赤ちゃんやったな」
「せやな。周りみんな家族世帯でよかった」
「北そんなとこ見とったん」
「大事なことや」
「ふうん?」まあ2DKやし、単身よりは家族世帯の可能性の方が高いわな。
「ええとこやったやろ」
私は内見の時に一度見たが北は初めてだった。色々と心配していたようだし、このすばらしい条件の部屋を見たからにはきっと安心してくれることだろう。こうも私にとって都合のいい条件しかない物件も珍しいわな。さすがやわ、と自分自身を褒めたたえて鼻を高くする。
「せやな」北が短く返した。ブレーキを解除して、指示器を出して、安全確認をしてからゆっくりと車が動き出す。夏休み期間だからだろう、小学生ぐらいの子どもが道路でボール遊びをしていて、車に気づくと中断して通り過ぎるのを待ってくれる。ありがとうと軽く手を振って、住宅街の中を気持ちゆっくりめに、運転する横顔はやっぱり今日も最高にかっこよくて、いつか私もかっこよく運転する姿で北をドキッとさせてみたいなと思った。不可能に近いなとは思った。

それから北の家に着いて、なんやかんやあって、お婆ちゃんと午前中掃除をして、お昼を三人で食べて、午後からは作品に取り掛かって、夕方帰宅した北とすったもんだして、お風呂に入って晩ごはんを食べてちょっと休憩して、とっぷり日の沈み切った頃に再び北の車に乗って、今日からは新たな住まいへと送り届けてもらう。駐車場はアパートのすぐ前やから、別にええのに律儀にも玄関先まで送り届けてくれた北が私の腕を引っ張ったと思ったら、またふにゃっとやわらかい、額に感触がして、すぐに離れてしまう。
お。おでこ。
またおでこ。
なんなん今日おでこの日なん?
朝から晩まで何度も何度も繰り返し、執拗におでこばっかりを狙って唇をくっつける北に、モヤモヤは募る一方だ。
「晩は冷えるからな、あったかくしいや」
「…………」
「腹出して寝なや」
「………………」
おかしい。
いつもやったら、とっくにいっぱい、いろんなところにしてくれるのに。
しかも、ゆうべまではホテルのロビーで人目があったから、あんなんやったけど、今晩からは他に誰もおらん場所やのに。やさしく髪を撫でて、頬を撫でて、とろけそうに嬉しくなるけど、でもいつまで経っても、さみしいところには触ってくれへん。
意地悪や。
モヤモヤする。
やきもきする、はちょっと違うか?
じれったい。
そう、じれったくなる。
口にはしてくれへんの?と思うけど、でもそんなん、とてもじゃないけど私からは言い出せへん。どんな顔して言うねんそんなん。どうやろ、お酒飲んでたら言えるかもしれんけど。今日は飲んでへんし。なんて思いながら北を見上げる。北はすました顔でこちらを見下ろして、視線だけそらした。
――やっぱ北、今日機嫌悪い。
なんで?
怒ってる?
でもいつもどおり優しかった。
笑ってくれたし。
けどちょいちょい微しかめっ面をする。
どういうこと?
北、と声を掛けて、
返事はあるが視線の合わない。
ムカッとした。
筋肉の培われた北の腕を今度は私がひっ掴んで、渾身の力で中へ引っ張る。
「え。みょうじ?」
少し慌てたような声で北が言う。振り向かない。北の靴の転がる音がした。振り向かない。そんなん後でええ。転がしとき。戸惑ったような声を上げる大きな身体がためらいながらもついてきて、部屋の真ん中に力ずくで座らせる。電気もつけずに一体なにをしてるんやろうか。なんて頭の片隅に浮かんだツッコミもよそに、自分もその場で膝をついて、座り込んだ北より暫定的に高くなった位置から見下ろして、逆に見上げてくる北の、すべすべの頬を両手で包んで固定する。これでもかというほどにかっぴらいた二つの目から向けられる視線をまるっと無視して、かろうじて届く玄関の照明でぼんやりと捕捉できた目標へ向かって唇を寄せた。
「な、んむ」
「んー……」
しっとりしてて、ふわふわとやわらかい熱が唇から伝わる。
そうそう。
これこれ。
これやねん私が求めてたんはと思う。
昔と違って隙だらけの北の唇を奪うなんてこと、ハイパーレベルアップしたこの私にとっては朝めし前やわ。思った通りの感触を得られて超満足。ふにふにと弾むそこへ押し付けて離れてを繰り返すうちに、腰に腕が回って引き寄せられる。傾いた上体を北の身体で支えられて、瞼を閉じた北の整ったまつ毛を至近距離で見つめながら、なんやねん乗り気か、とツッコミを内心でかましつつ、薄く開いて吐く息ごとぱくっと食べた。どういう仕組みかはわからないが、せっかくどうやらその気になったらしいので、本日一日分の不足を補ってもらおう。いつもはそっちのペースでしてやられるのだ、今回は思う存分、私の気のすむまで付き合ってもらうこととしよう。窓もシャッターも閉められて、暗くて静かな夜のアパート。どっかの部屋の家族が笑う声をかすかに耳に拾いながら、この部屋ではこんなことをする罪悪感が少しだけ湧いて、だけどもうすっかり親しみなじんでしまったこのやわらかさを味わうごとにぼやけていって、ずるいわと漏らした北の声も溶けてしまい、されるがままから一転、押しつけられるようにもなって、デコはどうしてんデコはと思ったが、それもどんどん解けてしまい、はじまりと終わりの境界も曖昧になって、新しい部屋のはじめての夜はいっそう更けた。


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