「こんちはーっ!」
外から大きな声が聞こえて、ふと手を止める。
持っていたバインダーとボールペンを付近の作業台へ置いて、開けっ放しにしてある出入り口から外へ出て家の正面――門口の方へ足早に回る。遠く聞こえていたエンジンの音が徐々に近くなって、米粒のように小さい人影が見えたのも近づいていくと予想通り、体格のよい一人の男が、どこか所在なさげな様子で立っている。
「…………治か?」
声を掛けると、日差しの強さからか下を向いていた顔をパッと上げる。何年か前、ばあちゃんからもらった大きなつばの付いた麦わら帽子を取ってやると、目を合わせたそいつは途端に肩を震わせ直立姿勢になった。
「悪い、ちょっと倉庫のほう見とってん」
言いながら近づいて、敷地のちょうど境界を挟んだところで立ち止まり向かい合う。ハイともイイエともつかない返事をよこすそいつは相も変わらず昔っから、手のかかる奴らであったが、面と向かうと大体この様子で、炎天下だと言うのに冷や汗すら垂らしているように見える。もうとっくに部活も高校も終え互いに成人した身なのだから、いい加減慣れてもええ頃やと思うんやけどなあ。そう思いつつ、生垣沿いに停めている車を中へ入れるように指示をする。返事だけはいつもご立派やったなそういえば。空いているスペースへ駐車させて、蝉の声のうるさい中男二人立ち話もなんやしと、さっさと家の方へ案内する。大きなクーラーボックスを担ぐ大柄の男――宮治が、北家の敷居を跨いだ。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
玄関に入り、靴を脱いで中へ上がる。「ん?」背後の治が小さく声を上げたことに気付いて振り返ると、靴は脱いだが、土間のところに並んだ靴を見下ろし、不思議そうに少し首を傾げている。そこに何があるのか記憶をわずかに辿り、その背中に「行くで」と告げる。そうするとすぐさまこちらに顔を向けて、後に続くのだから、こういうときには便利やなあ考えながら二人、居間へ向かった。
「どっか適当に座り」
「すんません」
居間へ治を置いてそのまま台所で食器棚からグラスを二つ取り出す。冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーも持つと、ちゃぶ台へそれを置いて腰掛ける。麦茶を注いだグラスを一つそっちへやって、自分の前にも持ってくる。そして一口。ごくりと大きく喉が鳴る。
「よう来たな」
グラスを置くと同時にそう言うと、神妙な顔をした後輩は冷たいグラスを握ったまま「急にすんません」と再度詫びる。いや、かまわんよと返して、緊張のほぐれない姿を眺める。双子と兄弟揃って自分のことをあまり得意ではない様子だったが、飲食店を始めたこちらの治とは意外にも縁が続いて仕事でも付き合いのある間柄となった。高校でバレーをやめたこの男は、派手な色の髪を元の黒髪へ戻した分、一見少しばかり落ち着いたようにも見えるが、さてどうやろう。影の濃い屋内で、随分と汗のひいた首筋を撫でつける。ゆうべさわりだけ聞いた感じやと、相も変わらず片割れと勝負だの何だのと喧騒の中を生きているようだけれども。相談事を持ち掛けたんは自分やからとこんな田舎にまで足を運んでもらうこととなった経緯をぼんやりと思い浮かべる。そうしている間に、ちりりん、と風鈴が風で踊る。遠くで蝉の声が響いている。風がすうっと通り抜ける。冷えた麦茶を飲み下す音。ふと言葉の切れた瞬間が訪れ、自分よりも大きくがっしりした体躯を小さく丸めた男を見つめ、で、と声を出す。早々に切り出してやることにした。
「勝負メニューを考えとる、ちゅうことやったな?」

ミーンミンミン。
いつの間にやってきたのか、庭の端っこに生える古い松に止まったらしい、蝉の声が近くなった。開け放った縁側を抜けて突き抜けるような青空を少しの間見上げ、そして元のちゃぶ台に視線を戻す。赤いおにぎり、二色おにぎり、白米にぎりと、そしてカレーの入ったスープジャーが並んでいる光景は、これが果たしておにぎり屋のラインナップかと言われると首を傾げてしまう、所謂新メニュー候補というものが並んでいる。そしてそれらを超えた向こう側、正座したまま、後輩が静かにうなだれている。双子で喧嘩してこっぴどく叱られた後や、今日食おうと思ってた食堂のメニューが売り切れて食えんかった時などまれに見る、ふてくされた顔やこの世の終わりやという顔とはまた違う、浮かない顔。悔しそうな顔。抜け切らん自分に負けたとでも言うような顔。料理人の顔でもある。それを眺めて、残った麦茶を飲み干した。
チーズタッカルビにぎり。
炒飯とケチャップライスの二色にぎり。
そして白むすび(カレーライス別添)。
…………どうも、すっかりわからんようになったみたいやな。
それに、侑もまた妙な絡み方をする。
治が高校でバレーを辞めたことによって、バレーは今や双子の勝負というもんには当てはまらなくなってしまった。聞くところによると、それでも二人は人生かけて勝ち負けを競っていくらしいけど。どんだけ競いたいねん、負けず嫌いの塊か。いやそれにしても、勝負もなんもないもんに対して『勝負してへんな』とは、侑もまた、えらいふっかけ方しよるな。
――侑もまだ、ようわかってへんのやろうな。
「まあええわ。お茶淹れ直すし、飲むやろ」
すっかり黙り込んでしまった治を尻目に立ち上がり、すぐそばにある台所の冷蔵庫を開ける。目的のものを取り出して、食器棚から湯飲みを二つ、お盆に乗せて、冷えた急須の中身をそこへ注ぐ。二人分、移し終えて、急須の中身はまだあと半分と少しほど。少しだけ考えて、そのまんま蓋をして元の場所へ戻しておく。自分と治の座る前へ置いて席に着く。軽く頭を下げた治が、いただきます、と断ってからそれを一口飲み込んで。
「うっま!なんやこれ!」
途端に目を輝かせる後輩を見ながら、自分も手を付ける。
うん。うまい。
やっぱり淹れ方で大分違ってくるもんやな。
甘みとうまみが、ゆっくりゆっくり時間をかけて出て来てくれんねんで。そう教わって、ふと先日淹れてもらった普段とは違うお茶の楽しみ方というものを思い出し、今朝がた仕込んでおいたのだった。
「…………どこのですか?」
茶葉の違いかとアタリをつけたのか、産地を尋ねてきた治に首を振る。
「近所のおばちゃんにもろた普通のやつや」
そう言うてやると、まるで手品でも見せられた子どものような顔をして、持っている湯飲みをじろじろ眺め出してしまう。お前らほんまに、わかりやすいな。
「氷で出したやつやねん。氷で淹れると、渋みが出えへんねんてさ。お茶くれたおばちゃんに教わってな、今朝やってみてん。治、ちょうどいいときに来たなあ、ついてるわ」
「水出しやなくて、氷ですか」
「急須に氷とお茶っ葉入れてな、冷蔵庫で三四時間放っとくだけやねん」
「三四時間ですか……」
感慨深げに呟く治は今、料理人の顔をしている。
うまいを突き詰めていく料理人。
「旨いって、手間暇なんやろか……」
けれども、それだけでは店はやっていけん。
それは米作りもおんなじやな。
「米も、作っとる人のこだわりで、ぜんぜん味違うもんなあ。うちのおにぎりには北さんの米がいちばんやけど。塩も海苔も具材も、うちなりに、儲けのギリギリのとこでこだわっとるけど……。けど、食いもんって人によって好き嫌いもあるしなあ。俺がこれや!思うて作っても、他の人にも旨いかわからへんし。旨い、ってなんなんやろか、むずかしいわ……」
こんなにまで悩み考える治の姿を見たことがない。
見たことないけど、それは、見たことがないだけで、きっとこれまでも悩み考え、答えを出してきたんやろうな。毎回毎回、ちゃんと考えて、試行錯誤して、答えを出して、結果を出してきた。料理人でもあり商売人でもある。そうやってできた治のおにぎりは、ちゃんとうまい。おにぎりは米がないと出来んし、確かにうちの米を使うけれども、もちろんそれだけのうまさやない。海苔、具材もそうやし、炊き方、握り方、提供の仕方。挙げだしたらキリがない。そういうもんを、ひとつひとつ考え抜いて、ちゃんと選び抜かれたもんで、大事に作られたうまさがある。
再び一口。
さっぱりとした甘さを味わって、呟く。
うまいな。
「身体が求めているものを、求めているときに食べるのは、うまいな。外で汗かいて働いたあと、冷たいお茶飲むのも、うまいわ」
「暑いときに冷たいもん、疲れてるときに甘いもん、風邪ひいてるときにあったかいもん、腹痛いとき、眠いとき、急いどるとき……。ほんなら、ふだん、なんでもないときに旨いもんってなんやろ……。――ほんま、旨いって、一筋縄ではいかんなあ」
「治は、その問題を一生考えつづけるんやな」
自分がうまいもんを食いたいのと、
人にうまいもんを食わせたいのは、
似ているけれどおんなじやない。
「俺は、豆腐ハンバーグが好きやねん。けど、普通のハンバーグがうまいっていうのも理解はできる。うまいやろ、肉。うまみの塊や。それでも豆腐ハンバーグのほうが好きやねん。俺はそれでええけど、店やる人間は、また違うんやろな。自分の好きなものと、大勢の好きなもの、どっちを取るか」
俺だって、おにぎりや豆腐ハンバーグに対しては、それでええけど、米となると話が変わってくる。作り方、こだわり方で味の変わる米作りは、それでなくても一定の品質を保つのに苦労する中、今の味を作り出すためには試行錯誤があった。同じ米でも、好みや相性によっては見向きもされんやろう。俺も治も、個人事業主である以上、選択してきたもんの出す結果は全て自分へ返ってくる。
「人生最期の日…………」
人生最期の日に、めしを食うなら何がええか。
どっかで聞いたことのあるそんな話を、ぼんやりと庭を眺めながら、治が独り言のように語り出す。どっかのええ店の、めっちゃうまい寿司とか霜降りの肉とか、そういう派手なもんよりも、普通の、なんでもない日常にこそある、しみじみとうまいもんを味わいたい。治のその言葉には自然と頷けた。……確かに、人の思い描いたそういうもんの中に、自分の作ったもんが入ってきたら、それは誇らしいことやな。
――ただまあ。
「それを決めるのは、お客さんやな。人生の最期にこれを食え、って押しつけるもんちゃうし。ああ、食いたいなあ、って思ってもらえるもんを作りつづけるだけやな」
みっつ綺麗に並んだうちから、おもむろに赤いおにぎりを手に取る。
てっぺんからぱくっと一口。
甘辛ソースがよく絡んだ米と肉と野菜がバランスよく口の中でほぐれて、うまみの後から舌を焼くぴりっとした辛さ。溶けた形のまま固まっていたチーズが少し割けよく伸び、加わると辛みを少しやわらかくする。「……うまい」自然とこぼれた。
「旨いことは旨いんですわ、どれも」
「うん、うまい」
「カレーもどうです?」
「ん、ああ、カレーもうまいわ」
「おおきに」
「けど、カレー別添はおにぎりと合わんやろ。うまいけどな」
「はい……、旨くできたんやけどな……」
それでもこんなにうまいもんを作れるんやから、治は大したもんやなあと思いながら、台所かららっきょを持って来て、二人で他のもんと一緒に食っていく。大の大人ふたりがずーっとうまいもんのことばっかり考えていたら、腹が減ってきたし、うまいもんにはうまいもんを合わせたくなる。
うまいうまいと言い合いながら、
日の傾き始めた夏の午後をともに過ごす。
かつては揃ってバケモンと称した後輩と共に、普段は考えないことまで考えながら、うまいもんを食べて過ごすんは不思議な心地がするが、悪くない。
なにより、治のおにぎりはうまかった。
チーズタッカルビ、ええな。うまいわ。

「ばあちゃんもなあ、とっておきのうまいもんあんねんで」
ひょっこりと現れたばあちゃんが円卓に加わって、三人で漬物をつまみながら、お茶を飲んでひと心地のついたころのことだった。
ペタ、ペタ、ペタ……と軽くゆっくりとした足音が聞こえる。それに気付いた治が「およ?」と声を上げた。あっ。と思い声が出そうになる。足音はどんどんこちらへ向かってくる。
「この家他に誰か…………あ、親御さんとかいてはるんですか?」
素朴な後輩の疑問に対して口を開いたが、何を言うより先に、居間の引き戸が音を立てる。
「おばあちゃん!」
ガラッ!と勢いよく引かれた扉から登場したのは、やっぱり、みょうじだった。何度言うてもその細腕をさらす、首と胸元は隠れているものの、やっぱり薄くてやわらかい生地の服を部屋着を着ているので、心もとない恰好で、そのまま中へ入ってくる。掛け時計を確認する。いつもなら、まだまだ一心不乱に描いとる時間で間違いない。
なんで今。
よりによって今日。
「今ちょっとええ……あっ北帰ってたん……あれ、ごめんお客さん……」
情報がめまぐるしいらしい。
ひとつずつ気付いて表情をくるくると変えていくかのじょは、やがて俺の向かいで足を崩して座る男の存在に目を向けて、詫びを入れかけたところで言葉を切る。向こうもまた、かのじょを見て不思議そうな顔をしている。
「うん?」
「あれ?」
互いにふたつの目をぱちくりと。
数秒の間固まって、それから腰を上げようとした治より先にかのじょがズンズン近付いてすぐそばに屈んだと思ったら、治の方へずいっと顔を近く寄せた。その距離、目算でわずか十センチ。急にそばへ来た顔に赤くなる治。――なに赤くしとんねん。
「うーん……これは……えーっと……」
「あ、あんたもしかして……」
「治の方か!」
「なまえちゃん!」
腹の中が途端に重たくなる感覚をこらえる。顔面に力を入れて、表情に出ないようにしていれば、こちらのそんな様子にも気付かずに、かのじょはぱっと嬉しさで明るくなったし、治はあんぐりと口を開けたまんま、ぶるぶると震え出したかと思うと、
「なまえちゃんやー!!!」
――そのままかのじょへ飛びかかった。
「うわっ?あいたっ。ちょっこら治」
「なまえちゃんひさしぶり!なんやねん!えらいべっぴんになって!帰ってきたん!いつ!なんで連絡くれへんの!」
「言うとること完全に近所のオッサンやん!」
「かわええ後輩になんてこと言うん!」
「かわええ後輩やなかったら痴漢行為でしょっ引いとるわ!」
「チカンとちゃう!」
「ええから重いしどいて!」
「嫌や!」
「駄々っ子か!」
「みょうじ家の長男や!」
「こんなでっかい弟はおらん!」
「じゃあ兄になる!」
「もっと無理!」
「なんやねん!」
「あんたがなんやねん!」
畳の上で、身体をくっつけたまま和気あいあいとそんなやりとりをしている、ふたりの姿を見下ろす。懐かしい。懐かしいやりとりや。懐かしいけど。なんや。胃がむかむかする。
「うわっ、ほんまになまえちゃんやあ。大人っぽくなって……」
「あんたは……体脂肪増えたやろ」
「なんちゅうこと言うんじゃ」
ムッとした治が「ちゅーしたる」と言うて、大きな身体でのしかかったまんま、かのじょの頬に口づけた。立ち上がる。そのあとバシッと背中を叩かれたのに、ちっとも悪びれんと、ぎゅうっと腕を回す、ガタイのええ首根っこを引っ掴んで、力の限り引き上げた。グエッと奇妙な声を上げて治が上体を起こす。気道が締まったらしく数回咳き込んで「なにすんねんっ」とこっちを向いた。批難するようなその眼を覗き込む。
「離れや」
思った以上に低く出た声に驚いたのか。
即座に身をはがして壁際まで下がった治が視界から消え、今度は畳に転がるかのじょへ視線を移す。かのじょはなぜだか冷や汗を流していた。
「みょうじ」
「は、はい……」
「ひとまず起き」
手を差し出すと、恐る恐るといった風に腕を伸ばして手を重ねる。それを握って、首の後ろへもう片方を差し込んで起こしてやった。途端に近くなる顔の距離に、いつものようにかのじょは照れて、けれどもパッと顔をそらす。白い頬が、目に入って、手でぬぐう。「いた、いたい北、強いいたい痛い」それが済むと今度はぎゅうっと抱きしめる。やわらかな身体がぴったりとくっつく。おずおずと回されるてのひらが背中をそっと撫でる。そこでようやく息を吸えた。
「え……なんなん……北さんとなまえちゃんが抱き合うとる……」
唖然とした治の声が聞こえる。
「治ちゃん、大丈夫?」
ばあちゃんの声が治の方へ寄っていく。
「婆ちゃん……これ一体どうなっとん?なんで北さんとなまえちゃんが?ていうかなんでなまえちゃん北さんちに?」
「ふふ。なまえちゃんなあ、信ちゃんと恋人同士やねんで」
「こい…………?」
「お嫁さんになるんが楽しみやわあ」
「北さんとなまえちゃんが……?」
「なまえちゃんも食べる?ぴり辛きゅうり」
腕の中からもごもごと「たべる……」くぐもった声がして、代わりにそれを伝えてやるとばあちゃんはよっこらしょと言いながら立って、治から離れてトコトコ座布団のところへ戻っていく。未だに目を丸くする治へ「治ちゃんおいで」と手招きして、治はこっちを見て眉を下げ、避けるように遠回りして席へ戻る。
「信ちゃんもおいで」
「…………」
「なまえちゃんきゅうり食べたいやろ?」
「たべたい……」と腕の中で再び声。
「優しいしたり」
そうっと力を弱めると、ひょこっと顔を出したかのじょはこちらを見上げて、行ってもええ?と窺うような眼をする。すべすべの頬を撫でて、行こうか、と声が出た。ただどうにも離れがたくて、もう一度しっかりと抱えて、そのまま立ち上がって元の席へ戻った。

「治のおにぎり?えっ、食べたかった!」
「すまん。もうない」
「うそ!ほんまに?ないん?いっこも?」
「うまかった」
「い、意地悪や……!」
教えてくれたってええやん治が来ること、とぷりぷり怒るみょうじが箸を掴む俺の手ごと小さな手で掴んで自分のところへきゅうりを運ぶ。満足そうにぽりぽりときゅうりを食むかのじょがこちらを見て勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「けど、あれ?なんかカレーの匂いすんねんけど」
「カレーはもうちょっとだけ残っとる」
「やっぱカレー、カレーなんであるん?」
「今日の晩ごはん?ちょっとだけなん?なんで?あれ?」と首を傾げるかのじょに治と二人、顔を見合わせて笑う。その経緯、話すとちょっと長なるな。
「なまえちゃんおるんやったら、もうちょっと作ってきたらよかったなあ」
治は治で、先ほど見事な土下座をしたばかりやというのに、額に畳のあとをつけたまんま、にやにやと面白いもんを見つけた子どもの顔をして俺を見る。「あーあ。なまえちゃんがおるって知ってたらなあ!」悪ガキそのものやな。お前もう二十二歳と違うん?それよりも年上のはずのかのじょはその言葉にまんまと乗せられ、じろっと睨んでくるし。渾身の『こわいかお』を作るかのじょには悪いけど、まあ全然怖くはないな。ぴり辛きゅうりのたっぷり入った器へ再度箸を伸ばして一切れ掴む。口元へ運ぼうとしたところで、またもややわらかい小さな手が上に重なって、すすっとかのじょの方へ動いた。
「おいしい」
「なあ俺も食いたいんやけど」
「あかん」
「なんで」
「治来るん教えてくれんかった罪の刑罰や」
「うっかりしとった」
「よくもまあ、まっすぐ目ぇ見てとぼけよる……」
再三箸を伸ばしてもかのじょに食われてしまう。
これでは、いつまで経ってもきゅうりにありつけない。これはもう、かのじょを食うてしまう他ないのでは……?そう考えてしまうのも無理はないと思った。ふたりで静かな攻防を続けていると、ばあちゃんの楽しそうな声がする。その隣に座る治と、ぴり辛きゅうりの作り方について話をしている。もぐもぐと咀嚼するたんびに動く頬と唇をじいと見つめて我慢をする。雛鳥にめしを与えているような気分で、ついまた箸を伸ばすのだった。
「なんや変な感じやな……。なまえちゃんと北さん、付き合うたら、こんななるん……」
「ふふ。ふたりとも、仲ええやろ?」
「仲ええけど、そら仲はよかったけど、こんなやなかったやん……」
「治……それは私も驚いてる」腕の中からみょうじが口を挟んだ。
俺とみょうじが高校二年生になった年、侑と治が入学してきた。すでにマネージャーとして働いていた男子バレーボール部唯一の女子部員に、好奇心旺盛な双子は血気盛んに近づいたし、それがましてやかのじょのような、仕事は難なくこなすがひと癖もふた癖もあって面白い、間違ってもギャラリーでかしましくふたりへ声援を送るような人間ではないひとだと分かると、警戒心すら放り投げて後ろをついて回るようになった。まあ、元々アランと双子は知り合いであったようだし、そのアランが勧誘してめっぽう仲のええ女子やという理由もあるやろうけど。とにかく双子はかのじょによう懐いとった。春も夏も秋も冬も、何か理由さえあればかのじょに甘えていた。かのじょもたびたび彼らをしつけと称して叱りつけながら、それを受容してきた。
そんな過去の姿が過ぎったから、治から連絡があったとき、かのじょと顔を合わせたとき、みょうじがおるでとも、治が来るでとも、伝えられなかった。そしてそれが最悪の事態を招いて、懸念していたとおりの姿を見せつけられた。胸元にもたれかかってくる彼女の髪からふわっと香るにおいでいやに逸っていた心が少しずつ落ち着きを取り戻しながらも、まだまだ手放せそうにないのはなぜやろうか。こんなにええにおいを、こんなにやわらかい身体を、自分以外の人間が知ってしまったという事実を思い返すだけで、ずんと身体が重くなる。そしてまたゆっくりと落ち着いて。そんなことを馬鹿みたいに繰り返す。そんなことにも気付かずに、かのじょは手ずからきゅうりを食わされてすっかりご満悦という顔で大人しくしている。時にはカレーにも手を伸ばす。不意にばあちゃんがこちらを向いた。目が合って、そういえばと思い出したことを尋ねておく。
「そういえばみょうじ、お前ばあちゃんに何の用事やったん?」
「あ!忘れとった。郵便局行こうと思って」
「郵便局」
「完成した分、納品すんねん」
ひと塗りの乾く時間が遅い油絵画家のかのじょの作業は基本的に同時進行だ。一日の中で何枚かの絵に手を付けて、ある程度のところまで並行して進めていく。はじめはあのアトリエの使い心地を確かめるように、ゆっくりとひとつの絵を進めていたが、数日も経つと壁沿いに何枚も何枚もキャンバスが立て掛けられた。毎日毎日、その進捗を眺め、かのじょを見つめ、そして絵からこちらへ目を向けさせる。その瞬間、たまらなく満たされた気分になる。今日の作業で何枚か完成したらしいが、納品は郵送の形をとるらしい。
「ほんなら行くか。車出すわ」
「えっ?ええよ、歩いていくし」
「足痛なんで」
「断言なさる」
「結構距離あんねん」
「でも北、せっかく家おるのに……」田んぼは断水中で、今日は午前の畑仕事と農協へ卸しに行っただけやから、まあ確かにそうやけど。そんなこと気にせんでええよ、と声を掛けようとしたとき「あっなまえちゃん」治の声が割って入る。そちらを見ると、いかにも邪気のなさそうな笑顔を浮かべ、挙手していた。
「俺帰るとき乗せてったんで!そのまま家送ったる」
「えっ治、運転できるん?」
「そら、この年になればな。免許のひとつやふたつ持っとるわ」
「はああ…………おっきくなったなあ……」
「なまえちゃんの中の俺、永遠の十七歳なんかわええなあ」
俺はついでやしええよ、そんなら北さんわざわざ出んでも済むやろ、他意なくそう誘う治にみょうじも少し考える素ぶりをしたと思ったら、「そんなら……」などと言いかける。
「治」一言名前を呼ぶ。
「ハイッ」図らずとも生まれてしまった上下関係の名残のようなものが、今ほど役に立つと思ったことはない。一言でよっぽど何かを感じ取ったのか。さっきまでの笑顔も崩した姿勢も正して汗をダラダラと流す代謝のええ図体に向かって再び口を開いた。それはな治。
「それはな、俺の特権や」

開け放った扉から見える、すっかり日の落ちて暗くなった空に、影絵のようにからすの数羽、山の方へ飛んでいくのを眺める。玄関でスニーカーの紐を結び直す治の背中に声を掛けた。「おにぎりごちそうさん」
「なんの役にも立てへんかったけど、またなんかうまいもんできたら食わしてな」
「そうそう。今度は私の分もたのむな」
隣に佇むみょうじが念を押して、振り返った治が俺らを見て笑った。
「カレーいけるんちゃうかな、って作ってみて、あ、違う、って気づいてやめて、その日々の過程だけが勝負やんな。おにぎりとお前の勝負や。できた『なんとかおにぎり』は、結果にすぎんし、侑はさらに関係ない」
「せやけど、ツムのアホ、ギャフンと言わせたらな……」
「あんたら、ほんまに人生そればっかやな……」
「これだけは、譲れんのや!」
「あーハイハイ。わかっとる。わかっとるからもう……」
ほんま駄々っ子やな、と小さくこぼすかのじょの声は治には届かなかったが、その代わり、後ろから見送りについてきたばあちゃんが「言わはるんやないやろか?」と言う。俺の後ろへ目をやって、治がきょとんと瞬きをする。
「え、なんて?」
「治ちゃんの兄弟……侑ちゃんやっけ?言わはるんやない?ギャフーンて。なあ、信ちゃん?」
「…………そうやな」
「え、なんで…………?」
ばあちゃんを見て俺を見て、わけのわからないと言った風に、こんどはかのじょを見たが、かのじょはただひたすらにこっちを見てぼうっとしているので、残念ながらその視線には気付かない。思わず笑みがこぼれて、髪の毛をそっと撫でつける。結局、首を傾げたまま、治はこの家を出て帰路へつく。小さくなっていく背中を三人並んで見送る。
大丈夫かな治。
ぽつっと心配そうにこぼすかのじょの中で、まだ治は十七歳のままで。
「大丈夫や」
「そう思う?」
「思うよ。勝負も、喧嘩も、今回は治の勝ちや」
せや。近いうちに、店に連れて行ってやろう。
あいつの作ったおにぎり食うたら、きっともう子どもやなんて思えんくなる。
「そっかあ」のんびりした声が胸をくすぐる。
ほんまにわかっとるんやろうかと言いたくなるような能天気な声に笑ってしまう。
みょうじおまえ、このあと自分がどんな目に遭うか、わかっとる?


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