諸々の事情により、ぎこちない歩き方で一階まで降り、鏡を見て仰天悶絶の末浴室で汗やその他のものを洗い流し、ちゃんとした私服の着替えにチェンジすると、少し心も日常のリズムを取り戻せたような気がする。着替えに関しては、事前に言いつけ渡されていた北作成の持ち物リストに部屋着と同様あらかじめ入っていたことから、恋人同士の営み云々はさておき、晩ごはんとその後の飲み会、からのお泊まりについてまでは計画的であったという疑惑が浮上するが、そんなことを考えている心の余裕まではまだないので、頭の隅っこに置いておくこととする。かっこいいロゴ入り(『KOME UMAI』)の黒タンクトップとゆるめのチノパンを身に着ける。もちろん、下着は新しいのに付け替えて、元着ていた(着て、脱がされ、着せられ、また脱がされ、再度着せられた。いやブラだけは自分で着けた)部屋着や下着については、手紙に記されていたとおり洗濯機を使わせていただく。この洗濯機はすでに通常の洗濯物に加えてシーツまで洗わされてるんだよなあ、今日は朝から重労働やなあ、と思うと、なんとなく両手を合わせてしまった。濡れた頭に引っかけたタオルを押し付け、若干ほぐれた気もするがまだまだ動きづらい身体をずりずり引きずって台所まで足を進める。こんな時間じゃみんなもう帰ってしまってるみたいやし、ご両親も仕事やし、お婆ちゃんも今日は富田さんとこでお茶会やて言うてたし。それやのにお昼ごはんの下準備までしてくれて……、といつものちゃぶ台の上に置かれた書置きを読んで涙ぐむ。ありがとうお婆ちゃん、おいしくいただきます……。おばあちゃんに手を合わせ、神棚に手を合わせ、お爺ちゃんにも手を合わせる。ありがとう北家。ありがとう。ございます。台所からグラスと水を拝借して、カラッカラの喉に流し入れて、失われまくった水分をいささか取り戻してから、またゆっくりと歩いて、作業場へ向かう。
雨戸はすでに戸袋へしまわれており、建具も障子も開放されているので、お婆ちゃんか北がそうしていくれたのだろう。紙や絵具やクリーナーなんかの匂いはほとんど残っておらず、ただ午前中の涼やかな風が開口部を通って流れていく。いつもよりゆっくりと準備を終え、定めた定位置に腰を落ち着けると、昨日までの進捗が視界いっぱいに広がった。

描きかけの絵が、
早く色を乗せろと言っている。
色を、創らなければ。
すでにどの色かは決まっているし、
それをどの位置へ置くかも決まっている。
ひと塗りひと塗り。
ここでなければというところに。
それを置いていって、
何百回、
何千回とそれを連ねて、
延々と色を重ねて、
時には削って、
そうしてやっと完成する。
最初に何を描くのか、
頭の中のどれを切り取るのか、
どこまで落とし込むのかを決めたなら、
そこから迷うことなんて滅多にない。
従うだけや。
ただ従うだけ。
目の奥が小さく、サイダーみたいにパチパチと音を立て、脳みそがかあっと熱くなる瞬間が心地ええ。無限に腕を動かせるような気さえする。
早く乗せよう。
早く早く次の色を。
早く。
頭の中の離れないものたちを形づくれば、
昔から大人は喜んだ。
旅の途中に。
学生時代。
お世話になった人達へ絵を送れば、
みんな笑ってくれたけど。
そういえば――
ひとりだけ、泣かせてしまったんやったな。

「みょうじ」

腕に熱が絡んだ。
手を止めると、今度は身体にも絡みつく。ひとの肩に顎をのっけて、北が私を抱きしめていた。急に現れた存在に頭がついてこず、数秒固まる。
「…………北?」
「うん」
「北信介?」
「せやけど。なに、北なまえになる?」
「へぇっ!?!?」
驚く私に、笑う北。
き、急にぶっこまんといて!?と極小のペインティングナイフを手放し、腰に巻きつく指をほどこうと触れたなら、すぐに絡めとられる。息のかかるほど近くに顔を寄せてくる北に、嫌が応にも部屋でのあれこれがよみがえってきて、さっきとは違う意味で頭がかっかする。そのへんに置きっぱなしにされていたタブレットはちゃぶ台の上に避難されていて、これも北が置いたんやろうか。作業着の上を脱いで薄いシャツ姿の北が、暑いだろうに、身体がくっついて、熱が伝わって、汗と北のにおいが香る。袖口から伸びる筋肉質な腕。しっとりと張り付く肌。どれもこれも呼び水となって私を襲う。
「も、もう昼なん……」
「そろそろな。朝めし食うた?」
「十時過ぎてたから、食べんかった」
「昼は倍食べや」
「眠なる」
言葉を投げ合いながら、なんとか距離をとってもらい、席を立つ準備をして、ついでに絵の具まみれになったロール紙の一部を破って白紙の部分を引き伸ばしておく。タブレットを手に取ると、仕事のメールが数件来ていた。軽く目を通しとこ。そんなことをしていると、つまらないだろうにのんびりと腰を落ち着けてこちらの様子を観察していた北が「そういえば」と言ってポケットから何かを取り出した。
「これ、居間に転がっとったで」
「あ!私の」
連絡手段のない賃借人なんて通る審査も通らんくなるということで、物件探しの日に購入したスマートフォン。トップがチカチカと点滅しているので、何かしら連絡が入っているらしいそれを北から受け取る。電源ボタンを押すと、パッと画面が明るくなって、先日おぼつかない手つきで車窓から撮影した夕暮れの田んぼの写真が表示される。
「光ってるん、審査の結果か?部屋の」
「や?審査は承認おりたで。昨日」
「…………」
「うん?」
「言えや」
「すみません……?」
「そもそもその辺に転がしとくもんとちゃうで」と今日も絶好調の北信介にハイスミマセンと返しつつ、不慣れながらも通知の来ているアイコンをタップする。こういうのって最初から色んなアプリとか入ってるけど、正直電話使えればええや程度やから、あっても使わんのよな。今度精査して整頓せんと……と思いながら、操作していくと、どうやら電話番号から送れるショートメッセージの方に連絡が来ていたようだ。ゲットしてまだ二日なので、この番号を知る人は少ない。それに関係上最も連絡を取り合う可能性のある北は今ここにおるので、部屋の手続きの方を既に終えている以上は連絡してくる人間なんて、もうお婆ちゃんか昨日会った三人ぐらいだ。昨日聞かれたな。そんでスマホ渡したな。名前が表示されてへんからお婆ちゃんではないな。あいつら私の電話番号は登録したけど、私の方には入れてくれてへんのか。まああの三人のうちの誰かやろう。アイコンにすら『?』と表示されたそれを再びタップして、送られてきた本文を表示する。真っ白な画面の中、小さなフキダシがひとつあった。
「えーと。ゆうべは、…………」

ゆうべは おたのしみでしたね。
って、言うた方がええ?

………………、
……………………。
「うわあああああっ!?」
さすがに驚いたのかビクッと身体を震わせる北を尻目に、手にしていたスマートフォンをぶん投げる。薄っぺらく結構軽い情報機器は畳にぶつかると部屋の隅までスルスル滑っていった。
「どうしたんや、急に」怪訝な顔をして「ものを投げたらあかん」至極まっとうなことを言う北が、それと私の顔を交互に見て、ひとつ首を傾げつつも、立ち上がって拾いに行ってしまう。咄嗟にあかん、と思ったが、声に出すより早く、意外にごつくて大きな手が先に拾い上げてしまった。北の手の中にあるとより小さく見えてちょっとときめいたが、これはいわゆる現実逃避だ。拾った流れで自然に画面を見る北から逃避しようとしているだけや。
「なんやこれ。お楽しみ?」
「タチの悪い悪戯や!ただのな!」
「うまいこと言うなあ」
「感心せんでええねん!それとやっぱ北ゲームとかせんやろ!」
「うん?これ誰からや?」
「こんなん送るん赤木しかおらんわ!!!!」
「ああ、ほんまや。すごいなみょうじ、何でわかったん?」生真面目にも自分のアドレス帳に登録されている番号と見比べて答え合わせをする、そして素直に感心している北信介二十四歳。かれは昔っから、世俗の慣習というものに少しうとい。それに対して、あんなこのネタはな、かの有名なロールプレイングゲームシリーズのな……と説明してやるほど破廉恥な女ではないので「私レベルになるとな」とだけ返しておいた。
「番号登録しといたったら?いくらわかる言うても、人数増えてきたら間違えるかもしれん」
「せやなあ」
もう投げたらあかんで、と北から再び受け取ったスマートフォン。画面はやっぱり例のメッセージが表示されたままだったが、『うっさい箪笥の角に小指ぶつけて五分苦しめ』とだけ返してそのまま電源を落とす。こんな奴に自分から連絡を入れることなんてないだろうから私の方は別に困ることなんてない。再会早々、とんでもない野郎だ。問題児にぶち当たって泣きべその一つでもかいたらええのに。
「これ聞こえとったんかな。それともカマかけとるだけやろか」
「そういうの考え出したら奴の思うつぼなんよ」
「お前は路成に何の恨みがあるん?」北の疑問を黙殺して他のメッセージを見ると、それぞれ尾白と大耳から一言ずつ入っていたのでそっちは返信をして、顔を上げると存外すぐそばにいた北とバッチリ目が合ったのでしっかり照れた。落ち着いた穏やかなローアンバーの瞳が揺れて、ほんの少し細まった。スマートフォンごと握られた手が熱い。これだけでもう満たされる距離にいたというのに、それでもなお近付いてくるそのひとに、思うことがあったのだが、とりあえず静かに目を閉じた。
しっとりと。
何度食んでも飽き足りないやわらかが少し離れて、またくっつくを繰り返す。庭の松に留まっているいるのやろうか、近くでジィジィと蝉の鳴く音がする。縁側続きで時折風鈴の音が。けれどなによりも近くでいま、唇があそぶ音がして、耳が侵されていく。北にさわられると、なんもかんも、全部奪われて、北に意識向いてまうのは何でやろう。膝先が当たって、指同士が絡まり合って、熱いのに、暑くないような不思議な感覚に、しばらくの間酔いしれた。くっついてる間は恥ずかしくって仕方ないのに、離れた瞬間からもう恋しくなる。
「……ばあちゃん昼めし外で食うって」
「……ん。書いてあった」
「ふたりきりやな」
「…………やな」
「…………一緒に支度、せん?」
「…………する!」
北と二人っきりは、まだ慣れへん。

「なんや合宿を思い出すわ」
蛇口をひねり、鍋に水を溜めていく。下の開き戸から梅干しのぎっしり詰まった大瓶を取り出した北が、不意にそんなことを言うので、水の溜まるのを待ちながら、私もやっぱり思い出す。バレー部で毎年行われた合宿のことだ。五月の連休や夏休み、タイミングによって稲荷崎単独だったりグループ単位だったり規模の違いはあるが、朝から晩まで、みんなが安心してバレーボール漬けになれるという夢のようなイベントで、マネージャーをしていた私も例に漏れず毎回参加していた。
「北、よう手伝ってくれてたもんな」
部員の中で誰よりも早起きでそれが習慣化している北は、そもそもそんなに睡眠に時間をとらない私が早朝から調理室でバタバタやっているところへやって来ては、食事の下ごしらえを手伝ってくれていた。地域の差し入れでいただいた大量の野菜や米を洗うところから始まり、皮を剥いたり切ったり米を炊いたり、そういう、料理の下地となる部分を一緒に支えてくれる存在が毎回非常にありがたかった。
「大したことやない」
「けど助かってたよ。あん時はありがとう」
主将に選ばれてからもそれは変わらなかった。それは北の優しさから来るものではないと知っていたけど、私はいちいちそれにときめいいた。単純な女の話である。
「それも毎回聞いたわ」けど、どういたしまして。返す言葉は同じでも、私に向ける表情がいまこんなにやわらかいのは、私のことを好きだからやろうか。ふわっと笑う北のその表情、隙だらけや。今すぐにでもその唇、奪えそう。そんな風に思いつつ、蛇口をひねって水を止める。
「ネギ刻んであるけど、大葉も追加せん?」
「ええね」
「じゃあ切る」
梅干しを二つ取り出して大瓶を再びしまい込み、今度は大葉を刻むことにしたらしい北は洗い場のすぐ隣へやってきてまな板の上に大葉と包丁を揃える。大して狭くもない台所で、肩が少しぶつかる。身体の向きを変えたときにぶつかる視線。穏やかでぬくい温度の言葉。どれもこれもがくすぐったい。コンロに鍋を置いて強火でお湯を沸かす準備だけして、教えてもらった場所から鰹節を取り出す。用意したカンナで、極力薄く削れるよう調整した刃に当てて、何度か押して引いてを繰り返す。桐でできた蓋を開けると、なんとも芳しい香りと削れた鰹節が溜まっていて、容器に移しておく。大葉も同様に切り終えたのが容器へ入り、作業台へ並ぶ。
「な。卵の黄身も乗っけん?」
「ええな」
「割って〜。お湯わいたし」
「うん。気い付けや」
「うん」
沸騰したお湯の中へ、封を開けたうどんをどんどん投下していく。煮だっていた音が静かになり、沈んだうどんの様子を見ながら食器棚から器を二つ、箸置き二つの、お箸も二膳出しておく。自然と重なる二という数字が、なんか。照れ。照れ。
「湯気のぼせたん?赤いで」
「い、いま触ったらあかん〜」
「うん?……ふ。もっと赤なった」
「そういうのは!報告せんでええねん!」
照れつつ。じゃれつつ。叫び混じり、笑い混じりに進む食事の準備がひどく楽しくて自然と心が浮き立つ。しかもその相手が北やなんて!そりゃ尾白も仰天するってもんや。せや、尾白。尾白に報告せな。せっかく電話番号を入手したわけやから、今晩電話してみようか。そんなこんなで再びお湯が沸騰してきたので菜箸でゆっくりかき回す。麺がほぐれてきたあたりで、並んで様子を見ていた北が火を弱めてくれた。そうすると鍋の中でくるくる回り出すので、麺の状態を見てちょっとの間そのままにしておく。その間に冷蔵庫からお婆ちゃんが先に作っておいてくれたというかけ汁と刻みネギを取り出して作業台へ一度移し、お盆へ用意したものを乗せてちゃぶ台へ運ぶ。グラスに冷たいお茶も注いで。開け放してある障子から縁側を抜けて庭まで一直線。うまいこと視線が抜けるように造られてるんよなあ、と少しぼんやり、本日も快晴なりの群青空を眺めた。風が頬を撫でる。風鈴も撫でられて機嫌のよさそうな音を鳴らす。気持ちええ。蝉の声。耳の奥で、稲穂の揺れる音が聴こえるような。気のせいやろうか。けれど心地よい。
「……みょうじ?」
「……うん?あ。ごめん」
「うどん、そろそろ上げとくで」
「ありがとう。行くわ」
「ゆっくりでええよ」
台所へ戻る。
ざるへうどんを移して水を張った容器へ浸す。そのままあの手でわしゃわしゃと軽くほぐし揉むようにしてから、大きな器へすべて盛った。北はそのまま入れ替わるように食卓へ向かい、私は残った鍋や使ったざるなんかを流しへ置き、そのまま洗っておく。手を拭いて居間へ行くと、北は座って二つの器にうどんを軽く盛ってくれていた。円卓にふたり。というので、北の座る向かいへ腰を下ろそうとしたところで、食卓の違和感に気付いた。
「あれ。…………北」
「なんや」
「動かしたやろ」
「さあ」
「まっすぐ目ぇ見てとぼけんといてくれる?」
北の座る定位置の向かい、つまりお婆ちゃんがいっつも座っている場所へ自分の使う食器を配膳していたはずが、いつのまにか北の隣に移動している。人が洗い物してる間に……、と北を咎めたつもりやったけど、いやそんな、くもりなきまなこで見つめんといてくれる……。その眼こんなところで使ってもええん?「まあとにかく座りや」とあくまで引かない北に、怒ればええんかときめけばええんか。手を引っ張られるので言われるままに座って、居住まいを正す。なんやろ、北、隣の方が好きなんかな。それはかわええな……。
閑話休題。
「いただきます」
「いただきます」
器に盛られたうどんに、お婆ちゃんが作ってくれたかけ汁をお玉で一杯かけて、刻みネギと大葉をふりかける。北家特製梅干しと卵黄を乗っければ、シャキシャキした触感と梅のさっぱり感が楽しめるぶっかけうどんの完成だ。ふたり、手を合わせて挨拶をしてから箸を持つ。卵黄を絡め、梅をほぐして麺と一緒に一口。するすると吸い込まれて、咀嚼して、飲み込むと、ハアッと息を吐く。
「おいしい…………」
「うまいな」
「なんなん北家、天才なん?うまいもん知りすぎちゃう?」
「みょうじの言うた卵も入れたらうまなったで。よう絡むな」
「へへ〜。これいくらでも食べれる〜」
「お前あんま食わんからなあ。食える時に食うとき」
「ハア〜……人類でよかった…………」
「ふは!感動すさまじいな」
「すさまじいうまさやん?」
「せやなあ、うまいなあ」やさしくまなじりを下げる北の笑顔に私もつられる。しずかな笑いの連鎖にしあわせやなあと思いながら、コシのあるうどんをぱくり、するするっと平らげていく。若干少なめに盛ったうどんはさほど時間も経たず空になり、今度は自分でうどんの入った器から取り分ける。今度はかけ汁にネギをたっぷりめ、削った鰹節におろし生姜とすだちを絞ってシンプルな仕上げに。醤油や白だしベースのかけ汁は今やもう何にでも合う万能かけ汁へ進化した。
「こっちもうまいぃ〜……」
「ほんまうまそうに食うなあ」
「んふ…………」
「大根おろしも合うんとちゃう」
「もやしとか紫蘇とかもな……」
「ワサビと海苔とか」
「締まる!それ引き締まるやつ〜!」
わーっと騒ぐ私に声を上げて笑う北。幸福がふわふわ舞い降りてくる。今なら天使の絵も描けるんとちゃうかな。天使の顔北になりそうやけどな。とかなんとか思いつつ、ほんまにまるで飲み物のように吸い込まれていくうどん。もちもちしてて噛み応えあるのに無限に食べれてまうわ、小麦もなかなかやるよな、やっぱ『KOMUGI SUKI』シャツも買っとけばよかったな、そんな馬鹿みたいなことを考えながら、どんどんうどんを平らげていく私を、見ていた北が口を開く。
「ばあちゃんが甘いんわかるわ」
「ほ?」口いっぱいに入ったうどんをモキュモキュと咀嚼する。うーん、ちょっと一口多かった……えらい間抜けな声出てしまった。
「そんなしあわせそうな顔されたらなあ、たまらんわ。もっともっと甘やかしたなる」
――ひとのことを言えた顔やろか。
そんなことを思いながら、どうにかこうにか嚥下して、箸を置いて手を合わせる。
それからそうっと、双眼を見上げた。
「あ……甘やかして、くれて、ええし…………」
尻すぼみになったけど。
ちゃんと目を見て言い切れた。
「レベルアップしてん。ど、動じんで……」
頬めっちゃ熱いけどな!
北はパチパチと目を瞬かせて、それからうんと頷く。
「そうか。それは進化したなあ」
「せやねん。せやろ。みょうじは日々進化すんねん。クロカンもほら、言うとったやろ。毎日なんかしら挑戦しいて」
「言うとったな」
よく言うとった。
練習でも。試合中も。いつもいつも言うとった。
昨日を守って、明日何になれる?
いつもいつも、私たちに問いかけてきた。
「懐かしいなあ――」
よく叱られたもんやわ。続けた言葉にフと笑われる。初心者ゆえか、はたまた持って生まれ育まれたこの性分のせいか。よく叱られたし叩かれたし、でもよく撫でてくれたし沢山教えてくれた。オカンみたいなひとやったなあ尾白の次に。顔ちょっと怖いのにな。お前は遠慮なくシバけるからやりやすいわと笑う顔が浮かぶ。それって果たして女子としてどうなんとか思ったわ。
けどあん人はええな。
愛しとったな、バレーボールを。
そんで誰よりも、
稲荷崎高校の男子バレーボール部を。
愛してくれとったな。
「あんな北。クロカンにな、絵を贈ってん」
「……うん」
少し遅れて北も箸を置き、手を合わせた。
「あれ。知っとった?」
「見せてもらった。卒業式ん日にな」
「…………そうなん」
「うん」
座ったまま北の方へ身体を傾ければ、ごつい手がそうっと髪を撫でる。その心地よさにうっとりと瞼を閉じた。
そうか。北見たんか。
なんや恥ずかしいな。
「私の大好きな景色を描いたんや」
稲荷崎高校。
男子バレーボール部。
北が主将で、尾白がエースで、大耳がミドルで赤木がリベロ。小生意気でかわええ後輩もおって、毎日毎日が忙しくてせわしくてドタバタしとって、毎日毎日が挑戦の積み重ねで。息を切らして。身体中パンパンでしんどくて。汗だくのドロドロで。
楽しかった。
まちがいなく、あん時私の一番やった。
「バレーボールに出会えてよかったって気持ちを込めてん」
「伝わったよ」
「ほんま?よかった」
「三年間俺らのこと、ほんまによう見とってくれたんやなって思った」
「そら見るよ。マネやもん」
「あげた時、監督泣いたやろ」
北を見上げると、とても静かな表情をしている。
穏やかな、波の立たない水面のような。
明鏡止水。
――こんなん言うたらまた否定されるやろうか。
予想というよりは予言みたいな、えらく断言的な北の言葉に、なんでわかるん、と問うと笑われた。
「そら、わかるよ」
外の景色がそのローアンバーに、つるつると丸い目玉に映り込むのをうっとりと眺める。いま、なにを考えてるんやろうと思いながら見上げとったら、手のひらが頬へ滑ってくる。北の唇が落ちてくる。私もそっと目を瞑る。心地ええなあ、とまなじりが下がる。
「俺も、お前のことが好きやから」
ないしょ話のように告げられた言葉に心がくすぐったくなる。けれど意味が分からず首を傾げた私に、また北は笑って。
「みんなほんまに、好きやったから」
うつくしい瞳がゆらゆら揺れる。
大きな手が瞼を覆う。
唇と共に、雨がひとしずく落ちてきた。


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