「おかしい」
思っていた以上に硬い声でこぼれた落ちた、その言葉がいま頭を占めていた。
「うん?」隣を歩くそのひとは、ことの重大さなどひとつもわかっていないのか。軽く首を傾げてこっちを見たかと思えばすぐに前を向いて、機嫌のよさそうに頬を弛めている。なあコレ机に飾ってもええ?と大事そうに両手で抱きしめているアランのサイン色紙にまなざしを落とし、ふふっと思い出し笑い。きゅうっと細まる瞼が先の感動で赤々と腫れ上がっているのが痛々しく、なのに苦しくなるほどに愛らしい。
「なあ机、ええ?」
「なまえちゃんの机やろ?好きなものを置いたらええよ」
「せやねん。北の隣の私の席」部屋にかのじょの机が誂えられて何日も経つのに、まだこんなにうれしそうな顔ができるんやから、ほんまに感情が豊かなひとやなあ。その片鱗を、これほど近くで眺めているのに、この男の魂胆を意にも介さず、ようようとあたらしい表情を見せてくれる。
「尾白も飯綱くんも楽しそうやったなあ」
「せやな」
「ボールほっとんど見えへんかったけど。なんやアレ、もう全然目で追えへんくなっとった」
動体視力は結構あるはずやけどなあ、と続く声。部活では日々サーブやらスパイクやらを追っていたし、観戦慣れもしていたはずやけど、さすがにバケモン達が勢ぞろいするVリーグとなるとな。かのじょ自身、ブランクもあるはずやし。試合中、忙しそうに頭をあっちこっちへ振り回していた姿が蘇った。
「アランのスパイクは多分……百三十くらいいっとるんとちゃうか」
「ひゃくさんじゅう!?」と声をあげるなまえちゃん。
「高速道路で捕まるやつやん……」
「速度には気をつけや」
「こわくて八十以上出されへんから大丈夫」
それはそれでどうなのか。
今度高速道路で練習してみるかと尋ねれば勢いよく顔を背けられた。
……まあ、まだ免許を取得して日が浅い。
最近一般道にようやく慣れてきたという具合なので、もう少し様子が落ち着いてからでもええかと頷いた。焦りも無理も禁物や。こういうことは、コツコツと丁寧に積み重ねたらええねん。それが自信にもつながる。
会場を出ると風が強く吹いていて、照明に照らされたいちょうがはらはらと宙を舞っている。わ、と声の上がった隣を見れば、さっそくかのじょの顔面に大きな葉っぱが張り付いていた。目を瞑って払おうと手を振り回しそうだったので、それを掴んでかのじょの眉間にかぶさったまぶしい秋色を剥がしてやる。
「取れたで」
「ありがとう。ビックリした」
「寒ないか?」
「手ぇつないだら平気」
ちらと見上げるその瞳が訴えることに、さすがに気づかんわけもない。かのじょの指先を掴んでそうっと握る。掴んだままだったいちょうの葉っぱを離してやる前に、空いたほうの手がそれを求めるように伸ばされて、特に理由もないので譲ってやれば、またもや甘くほほ笑むのだ。
「……なまえちゃ」
「この色なんか井闥山のユニフォーム思い出すなあ」
指でくるくると茎をひねりながら、あっけらかんと吐かれた言葉が胸を刺した。
「……こないだ、田んぼの色やって言うた」
「あれはきれいに染まっとったやろ?これ見て。ほら、まだ緑が残ってる」
グラデーションや。と嬉しそうな様子。
そういう話ではないのに。
いや、なまえちゃんにとってはそういう話なのかもしれへんけども。俺にとっては、俺にとってはそういうことではなくて。
ほんのわずかに逸らされていた意識が元に戻る。
「稲荷崎の奴ばっかり注目しとったけど、もっと色々見どころ多そうやなあ。飯綱くんと佐久早くんと古森くんで三つ巴やし。コッチで試合せえへんかな」
あとでスケジュール確認しよっと。
声が弾んで足取りも軽い。
夜の坂道、暗がりで足でも引っ掛けぬよう隣を気にかけて駐車場までの道のりを歩いていく。ふんふんと機嫌よく鼻歌混じりに、ことさら頬を弛ませてはまっすぐ前を向くかのじょ。
その横顔になあ、と声をかけるとつぶらな瞳がこちらを見て瞬いた。
かわいらしい。
「なに?」
「…………」
吐こうとしていた言葉が脳みそで引っ掛かる。
口を開いたのに黙ってしまった俺を見て「え、なに?どうしたん?」と今度は心配そうに問いかけてきた。いや、とひとまず返すが二の句が出てこない。じっとかのじょが見つめているのをわかっていながら、ただ歩を進めることしかできない。子どもではないのだから、こんなことをして困らせてはいけない。だから早く、うまい言葉が見つかればいいと思うのに言語とは難しい。
やってこんなこと、言うたらどうしたって文句になってまう。
「北……?」
「…………」
文句。
そう、文句や。
俺は今、明確に不満を感じている。
冗談めかすことすらできないほどに。
――それもまたおかしな話や。
高校以来、しかも全国規模の大会くらいでしか顔を合わせる機会がなかったはずの二人が、あんなに気安く、思っていたよりもよっぽど打ち解けた様子で和気あいあいと。他校同士のマネージャーと主将がそもそもなんでそんな。
再び思考がそんな途方もないことで埋まりかけた瞬間のことだった。
ふにゅ、とやわらかい感触が届いて目を瞠る。
視界がクリアになった時にはすでにみょうじなまえで埋め尽くされていたのだから、自分の沈み具合は相当なものだったらしい。
「だいじょうぶ!?」
「なまえちゃん」
「やばい?疲れた?ねむたい?やばい???」ちょっと意識を逸らした間に、心配の度合いが上がってしまったらしい。あたふたした様子で鞄から小ぶりのペットボトルを取り出して俺の頬に押し付けた。
「ごめんな、私が行きたいって言うたばっかりに……」
申し訳なさそうな顔をするので、疲れたわけではないよと告げてペットボトルを離してもらう。謝らせたいわけでも、ましてや後悔させたいわけでもないのだ。
「私、帰り運転するわ!」
「いや、ええよ。大丈夫や」
「大丈夫とちゃうよ!北があんなにボーッとしてるんは、やばい。また倒れる兆候や!」
「あの時はすまんかったけど……今は疲れとるわけでも、体調が悪いわけでもないねん」
「そうなん?ほんなら、どうしたん?言い淀んだり、ボーッとしたりして……なんか悩みごとでもあるん?」
「悩みごとか……」そう言えなくもない状況に眉が寄る。
「なんかあるんやったら、考えすぎる前に話してみるんがええで」
「…………そうやなあ」
「あっ。私に話しづらいなら、尾白とか、飯綱くんとかおるで!」
ひらめいた!という素振りで今度は鞄からスマートフォンを取り出すかのじょは「電話する?」と指でいくつか操作してトークアプリの連絡先一覧をこちらへ差し出した。
そこに表示されている、新しい連絡先の存在が目に掛かるのだ。
「えっ。なんでシュンてするん……北ほんまどうした??」
「なまえちゃん」
「うん?」
「……こんなことを聞いてええのか、わからんのやけど」
「うん?」
「……飯綱くんと、なんであんなに仲ええん?」
自分なりに、考えた末に出てきた言葉はやはり気分のいいものではなくて。それも今心中渦巻いている不満が如実に音にあらわれる。なんて言い方やと吐き出してから悔いたが、一度出たものはなかったことにはならない。
かのじょは目をまるくして、まさか自分の恋人がこんなことを言うとは思わなかったというように口を開けてしばし俺を凝視した。
足が止まる。
あっけにとられた表情をしたかのじょは、スマートフォンを鞄に引っ込めたあと口を閉じた。絡んだ指先がぎゅうと強く握られて、けれどあのとろけるほどの笑顔も、大げさなまでの心配もなく、ただこちらを見つめてなにかを考えているようだった。
往来の妨げにならぬよう、端へ寄ろうとしたところで手を引かれる。すぐに歩みを再開したかのじょは静かに「寄り道しよっか」とこぼした。
駐車場の手前にある道路沿いの公園へ入るため、一本中の道へ回り込む。上り傾斜のある道を、一歩先行くかのじょの息づかいが聞こえて胸をしめつけられるようだった。
一応は質問のていをもっていた、あの言葉に答えてくれるつもりだろうか。
言ってしまえば、一言二言。
回答ならばそれだけで済むだろう言葉に口を開かなかったのは、それ以上のものを感じとったからだろうか。
少なくとも、駐車場までの道すがらに済ませられる話ではないと思ったのだろう。今しがた難癖をつけるような言葉を吐いたばっかりのこちらとしては、道すがらに済ませてそのあとは綺麗さっぱり忘れてほしい話だったが、残念ながらみょうじなまえはそういう人ではない。
タイル敷きの遊道をしばらく進むと、奥にはいくつかの遊具と水飲み場、ベンチが設置された広場に出た。
「ブランコないなあ」かのじょが呟いた。
「乗りたかったん?」
「カレカノの語り場言うたらブランコやろ?」
その理屈は聞いたことがなかったが、こうも自信満々に言うのならきっとそうなのだろう。そうかと頷いて草屋根の下のベンチに並んで腰を下ろす。
人っ子ひとりいない静かな夜の公園で、神妙な顔をした男女がふたり見つめ合っている。
「最初に、一応言うとくけどな」
一言前置いて、かのじょは話し出した。
「飯綱くんとは、主に私の恋の進捗で盛り上がっとっただけやから」
何の含みもなさそうに告げられて、うんと頷く。
たしかにそういう会話やった。
「そもそも侑が佐久早くんにちょっかいかけに行くから、私らが回収するはめになるんやけど」
「ああ……そんな流れやったか」
「北も結構仲ええやん?やからそういう……、ほら、飯綱くん人あたりがええから」
セッターが性格悪いなんてうそやなって思ったわと言って、やっと少し笑った。
「それで、割とすぐ私が北を好きやって気づかれてな。セッターってみんな目ざといよな。それから折々で一言、二言な」
「逆にもう、それくらいしか話題ないしな」と、フォローのように付け加えてかのじょはチラリと顔色を窺った。
「気ぃ晴れた?」
「…………」
「やんなあ」のんびりと、なぜか同意を表してほほ笑んだ。
「難しいなあ」
指先を握られる。
かのじょはいつもこういう握り方をする。
そっと、心を覗き込むみたいに指先に触れてくる。
だからこんなに苦しくなるのやろうか。
「なんでこんなに、苦しくなるんやろうな」
静寂な夜の公園に、ぽつりと落とされた小さな声は響く間もなく消えていく。
「しあわせやのになあ」
顔を上げた、かのじょはわらっていて。
それなのに――泣き出してしまいそうな。
ずっと見つめていたいのに、その声をずっと聞いていたいと思うのに、思うほどに締めつけられる。
この気持ちはなんなんやろう。
思い合っているというのに、確かめ合っているはずやのに、こんなに苦しくなるのが恋やというのなら。
もしもほんまに神様がこの世におるというならば、一体なんてものを創り出してくれたんやろうか。
なんでこんなに――
際限なく、求めてしまうんやろう。
「北」
「うん?」
「……ひと、おらへんから」
ちょっとくっついてもいい?
うかがうように見上げてきた瞳に、応じる間もなく片側に熱がかぶさった。
「北」
「うん」
「きーた」
やさしい声や。
ねぎらうような、撫でるような、甘やかすような。そんな声で呼ばれたら、また言葉に詰まってしまう。うん、と音を乗せるので精一杯になるこちらを見ぬまま、腕に頬を寄せたかのじょは素知らぬ様子で楽しげに語るのだ。
「なんや私ら、むっちゃラブラブやない?」
「うん」
「あとでラブラブツーショ撮って飯綱くんに送ってもええ?」
「うん」
「尾白にも送るで?」
「うん」
「大耳と赤木には北が送っといてな」
「うん」
「北さあ」
「うん」
「私のこと大好きや」
「……今さら気づいたんか」
笑い声が、静かな闇に吸い込まれていく。
ひとの気も知らないで、けらけらと明るい音が耳をくすぐって。
「も〜。どこにこんなかわええ北隠しとったん?」
「隠してへん」
こんな北は別にかわいくもないやろう。
「かわええ、かわええ」
「笑わんといてや……」
「笑うつもりはないねんけどな。なんでやろう、なんかもお、とまらへんわ」
ああ、わかる。
そのグチャグチャな気持ち。
「かわいくって、なみだ出そうや」
あいくるしいというのは、本当はこういうことを言うのやないやろうか。
好きでいるほど、いとおしいほど、しあわせなほどに、大切にしたいと思うほどに涙がこぼれてしまいそうな、この胸のくるしみのことを、全てを伝えきれないもどかしさを抱えたこの気持ちがそうなのではないやろうか。
自分よりもいくぶんか低い、かのじょのあたまがこちらへ寄りかかりつむじを見下ろして。やわらかなからだが腕にそっと触れている。
波のように揺れるかのじょの声を聴いて、途方もないほどの幸福感に満たされる。
矛盾まみれな恋しい気持ち。
苦しいくせに、ずっとそばにいてほしい。
離れないでほしい。
「なあ。ほかになんかないん?」
強く強く、心の中で願ったのを聞いていたのだろうか。かのじょが呟いた。
「うん?なんかって?」
「私になんか言うときたいこと」
文句でもええよとそれは続いて。
文句ならもう言うた。
すぐにそう思ったが、少しだけ余裕のできた頭がかのじょを眺めて言葉を弾く。
「なまえちゃんはひどい」
「ほう?」興味深そうにこちらを見上げて瞬くかのじょ。
「……誰とでも、すぐ仲ようなってしまうところがひどい」
俺がおるのに。
続けると、細い腕がうんと伸びて頭を撫でた。
慰めてくれるらしい。
「私は、あらゆる人に北の恋人になれたことを自慢して回ってるだけやねんけどな」
「またそんなこと言うて、浮かれさすやろ」
「北浮かれるん?」
「浮かれるよ」
「ええ。わかりにくいなあ」ころころと毛玉を転がすようにかのじょはわらう。その表情は、心の機微にうといらしい俺でさえよくわかるほど、たしかな愛情にあふれていた。
「ずるい」
「うん?」
「そうやって、俺んこと玩んで」
「も、もてあそぶて」
「俺はいっつもええようにされてる」
「そうやったか……?」北をええようにした記憶なんかないけど、などと薄情なことを言う。
「いけずや」
「いけずて」
「みょうじちゃんの薄情もん」
「あはは」
「また笑うやろ」
文句言うてって言うたのはなまえちゃんやのに。
そういうの、自分勝手っていうんやで。
胸のしめつけられる心地に耐えながら、精一杯にとがめたというのに、かのじょはとろりと甘くわらったままだ。しばしそれに目を奪われて、陶酔し、やっとの思いで口を開く。もっと言うてええの。すぐにこの世でいちばんにやさしい「ええよ」が返ってきた。本当にずるいな、とみしめて、それから幾ばくか、思いつくかのじょへの文句を重ねた。うん、うん。とかのじょはそのひとつひとつに頷いて、どんどんと薔薇色の微笑みを深くした。なんやろうか。まるで愛の言葉でも贈られたみたいな。そんな顔は、俺のことが一番好きやと思っとるときだけにしてほしい。乾燥した冷たい空気を肺へ送り、不満の音とともに吐き出して、口の中が渇いていくのに、いくつもいくつも、かのじょに聞いてほしいことが出てきて、聞いてうなずいて、ほほ笑んでいてほしい言葉がどんどんと出てきて、自分という人間はまさかこんなにもおしゃべりだったんやろうかと驚きも頭の片隅に、かのじょのぬくもりで暖をとって、髪の匂いを吸い込んではまた胸を締めつけた。
誰もいない誰も聞いていない真っ暗な静かで、ただひとり俺の話を聞いているかのじょに向けて音を出す。かのじょは俺の話を聞くためだけに、しっかりとこちらに耳をすませて。どんな音もちゃんと聞き逃さずにいてくれる。そう思ったら、すっかり高揚してしまったのだろうか。ぴゅうと吹きつけた木枯らしがかのじょにひとつくしゃみをさせてわれに返るまで、ずっとおしゃべりをしていたのだった。

「ただいまあ」
「ただいま」c 少し間延びしたかのじょの挨拶に続いて帰宅する。あらおかえり、とばあちゃんが居間から出てきて「お風呂沸いてるよ」と教えてくれるので先にかのじょを入らせる。
「私あとでええよ」
「あかん。くしゃみしたやろ」ばあちゃんになまえちゃんくしゃみしてんでと言いつける。あっ北あかん。とかのじょが声を上げた。
「あらあ。なまえちゃんくしゃみしたん?」
「ちょっと出ちゃっただけやねん」
「公園で一回、帰りの車の中で一回。あとさっき車降りた時もした。三回や」
「あらまあ」
「ちょっとやねんで!――くしゅ!」
「四回や」これはもう言い逃れできんな。
「それは大変や。はよ温もっといで」ばあちゃんもすぐにかのじょを風呂場へ促した。
「おばあちゃん味方につけてずる〜」負け惜しみを言いながら洗面所へ向かう。二人とも手を洗って、着替え持って行ったるからと言われたかのじょはそのまま残り、俺とばあちゃんは居間へ。畳の上に四人分、タオルと着替えの詰まれたお山が並んでいる。色合いですぐにわかる、かのじょの分のお山を拾い洗面所に足を運んで洗濯機の上にそれを置いた。アルミ扉の向こうから、さあさあと雨粒の跳ねる音がする。霞硝子がぼんやりとかのじょの色を映しているのを見ると少し緊張してしまう。男の性がこんなところで顔を出さぬよう一言懲らしめて居間へ帰った。
「信ちゃん、お茶はいったで」
「ありがとう」腰を下ろして湯呑を手に取る。手洗いで冷えた指先へじわじわと熱が移っていく。一口含めばとろりとした温かな苦味がほのかに広がって、思わず息を吐く。
「試合どうやった?」
「すごかったわ。アランが絶好調でな、ようブロック吹っ飛ばしとった。サーブにも磨きがかかっとって……やっぱり生で観るんは面白いわ」
「すごいなあ、アランちゃん。よう頑張っとるんやねえ」
「せやねん。すごいねんで、アランは」
ニコニコと興味深そうに聞いてくれるばあちゃんへ、観客が沸いたプレイや対戦相手のことなんかをかいつまんで話す。公園で、あれだけのおしゃべりをしたからやろうか。口からあれやこれやと言葉が出てきて、自分でも驚くほどだった。普段だったら、とっくに終わっているだろう土産話を、俺はかのじょが風呂から上がってくるまでずっと続けていたらしい。
唐突に「あーっ!」と声を立ててようやく意識が外に向き、そちらへ向くとほかほかになったかのじょが顔をしかめて仁王立ち。
「おかえりなまえちゃん」
「北、いままでずっと今日の話してたん!?」
「え。うん」
「ずるい!私もお話ししたかったのに!」
あからさまなふくれっ面で、なまえちゃんはわなないた。
俺とばあちゃんはその場で顔を見合わせる。
「なまえちゃんもしたらええよ」どうせ次は俺が風呂に入る番や。ばあちゃんと二人っきりになるのだから、その間に好きなだけ話をすればいい。せやからお風呂あとがよかったのに、と悔しそうにこぼすかのじょへそう声を掛けたのだが「ネタがかぶったらあかんやろ!」と、妙なこだわりがあるらしく。ていうかそんな理由で先に入浴させようとしたらしい。自分はくしゃみをしとったくせに。らしいというか、なんというか。
「まだ話してないやつどれ!?ブロックアウトのボール飛んできて、私が超かっこよく弾いたったんは!?」
「それは言うたな」超かっこよく、という修飾はつけていないが。
「じゃあチャレンジのときの尾白の変顔が爆ウケしたんは!?」
「それも言うた」
「きいっ」きいって。公園で、俺の話を聞いてくれとったひとと、ほんまに同一人物やろうか?と首を傾げてしまうほどの変わりようである。
ずるいやって。
俺が言うにためらった文句を、いともあっさりと口にするかのじょには敵わんなと心底思った。まあ、当の本人は「ほんなら治おったんは!?」とキレ気味に粘っているが。すまんけど、それももう言うてしまったわ。
「ひどいわ……私もおばあちゃんにいっぱいしゃべりたかったのに……」今日は過去一おしゃべりな北やんとこぼすなまえちゃん。それは俺もびっくりしとる。
「ああ、アランにサインねだって小学生に笑われとった話はまだや」
「その話は私も知らんな!?」
「私笑われとったん!?小学生に!?」なんでっと目を丸くして仰天するかのじょに笑いがこみあげて、軽く吹き出した。その話したったらええんやないか、と告げて腰を上げる。「えっ、きた!?」動揺する声を背に、自分の着替えとタオルを持って居間を出た。

しっかりと身を温めて再び居間へ戻れば、ずるいずるいと叫んでいたかのじょはニコニコと機嫌のよさそうにばあちゃんとおしゃべりしていた。ほんまにばあちゃんが好きやなあ、と思いながら冷蔵庫から冷えた麦茶をグラスに注いで飲み干す。台所のコンロには蓋のされた鍋が二つ並んでいて、晩飯のメニューが予想できてしまった。片方の蓋をそっと上げて中を覗くと、思ったとおりのものがあって少し気分が弾んだ。
「あっ!北がつまみ食いしとる!」
「してへん」鍋の中身を見ていただけで、あらぬ容疑をかけられてしまった。振り返ると風呂から上がってきたことにやっと気づいたらしいかのじょがなぜか声を弾ませてばあちゃんに告発をせんと指をさすので即座に否定する。
「食いしん坊さんや」
「見とっただけです」
「でも、北これ好きやろ」ニコニコしてる、とひときわニコニコしたなまえちゃんが言うので少し気恥ずかい。近づいて、同様に鍋を覗こうとするかのじょのために蓋をわずかに持ち上げれば、ふわんと温かい湯気が漏れ出てきた。
「ふわあ……」ふにゃっと顔をほころばせて、うっとりと黄金色のだしに浸るそれらを見下ろすなまえちゃん。
「なまえちゃんははじめて食うやろ」
「うん。おいしそお……」
「うまいで。ばあちゃんのおでん」
覗いた鍋には色の変わった卵が浮かぶ。ちくわと油揚げとタコ、底の方には分厚く輪切りにした大根も沈んでいる。もう一つの鍋には恐らく牛すじの串と練り物、こんにゃくにじゃがいも、餅巾着がひたひたに浸かっているはずだ。考えただけで唾液が滲む。しあわせそうに表情を弛ませるかのじょを眺めていると「あらあら」とばあちゃんがやって来る。
「食いしん坊さんが、ふたり」
「見とっただけです!」
「それは、さっき俺が言うたやつやな」ようそんな堂々と言えるもんや。
ふふふと笑ったばあちゃんが食器棚の扉を開く。
食い意地のそれなりに張っとる食べ盛りの男女のためやろうか、これから晩飯を出すことにしたらしい。人数分の器を取り出して、鍋の脇に置いてあった菜箸を手にするばあちゃん。かのじょは茶碗を出してご飯をよそうことにしたらしい。俺は台拭きを濡らして食卓をさっと拭き、箸と漬物でも並べておくことにする。
「なまえちゃん、こん中で食べられへんもんある?」
「私なんでも食べるよ!」
「ほんなら、一個ずつ入れるからな。おかわりは好きなもんしてな」
「はあい!お餅あとで食べたいな……」
「巾着もようさんあるからねえ」言いながら、ホカホカのじゃがいもを器にポトリ。うわあ、と目を輝かせるかのじょははっとしたように手元の茶碗にお米をよそう。たった三人分のその作業はすぐに終わり、配膳は俺が担うのだから、手すきになったかのじょは当然、台所へ戻ったころにはばあちゃんの背中にべったりだ。お玉できれいなだし色になったゆで卵をすくっているのに歓声をあげている。三つの器にころんと卵が転がって、ぎゅうぎゅうに大物が詰まったそこへさらに牛すじとタコを押し込めば、ばあちゃん特製のおでんの完成や。さっそく大事そうに自分の器(全部同じや)を両手で掴んで持って行く、かのじょの背中を眺めてばあちゃんと顔を見合わせ笑う。なあなあはやく、と急かす声に二人とも自分の器を持っていそいそと食卓を囲んだ。
「しみしみや!」と、思ったとおりの声につい「せやろ」と胸を張ってしまう。ふふっと笑うばあちゃんの声が耳に入って少しばつが悪い。
「えっちょっと待って。これこんにゃくやんな?なんで??私の知ってるこんにゃくじゃない……?」
「なまえちゃんの知っとるこんにゃくで間違いないよ」
「じゅわあって、出てきたで!?」
「ふふ。今度なまえちゃんにも教えたるなあ」
「ほんま!?やったあ!」声を上げて喜ぶなまえちゃん。料理は割と好きなようで、海外で仕入れてきた様々な品をふるまってくれるし、時折ばあちゃんに教えを乞うている。楽しそうに二人で台所に立ち、キャッキャッと華やいでいる姿を見るのが最近の趣味だったりする。
「北これ好きやもんな。作れるようになりたいな」
「俺好きって言うたっけ」
「言わんでもわかるよ。さっきっからずっとニコニコしてるもん」
「…………」とんでもない笑顔で言われて動きが止まる。箸を持つのとは反対の手で自分の頬に触れたが、よくわからず首を傾げた。
「つまみ食いしとったし」
「それは冤罪やな」
「お餅がのび〜る」おでんに舌つづみを打ち、気まぐれに恋人をからかうかのじょ。いいようにしてやらてばかりの俺を笑顔で見守るばあちゃん。だしの染みるようにじわじわと幸福感が胸にあふれてくる。うまいなあ、と頬張った大根をみしめた。

「もうお腹はちきれる……」弱弱しく、けれど恍惚とした声とともに、壁にもたれたかのじょは自らの腹をさすった。心なしか、さする手のひらはまるみを主張しているように見える。食器を流しに浸け終わった俺はその隣へ腰を下ろす。
「余分な餅巾着、全部食うたもんな」
「たまごも食べた……」
それだけでもないけどな。
「こんな小さい腹に、よく入るもんや」
「燃費が悪いねん」確かによく食う。内心で頷いた瞬間に「たしかにって思ったやろ」なんて横目で見られるから驚いた。変なところ鋭いなあと感心する。感心されたところで、かのじょは今それどころではないやろうけども。ぷくっと頬をふくらませ、すぐにふうっと吐いて呼吸を整えているさまは明らかに食い過ぎで、二度目のおかわりで四個目の餅巾着を頬張ったあたりから、大丈夫か?と心配だったが誘惑に負けて自分の限界を突破してしまったらしい。両親の分を取り分けた後とはいえ、ひとりでそこそこの量を食い尽くしとるからな。
「はあ。でもおいしかったあ〜」うっとりとおでんの味に浸るほどの余裕はあるみたいなので、そこまでの心配は不要だろうが。腹の丸みをなぞる手のひらの動きを見ているうちに、ついと手が伸びて自分もそこに触れる。
「うん?」
普段は薄すぎて壊れやしないかと心配になるそこは、たしかにほんのりと膨らんでいるらしい。やわらかな丸みとかのじょのあたたかさが手のひらに伝わってきた。
それらを確かめるように、何度もなぞっていると「なんやひとり入ってるみたいに触るよな」少しぶっきらぼうにかのじょが言った。
「ひとり入ってる……?」その意味がわからず首を傾げたが、一拍遅れて理解する。
ああ、と声が漏れた。
「そうか。こんな感じなんか」
「まあ、ただの食べすぎやけど!」自分が言い出したことやのに、照れてしまったなまえちゃん。
まあ今回はな、と返してなおもその丸みを撫でる。少しの沈黙のあと、かのじょはもうええってと口を挟んだが、払いのける様子もないのでそのままにしておく。力を入れると苦しいだろうから、そっと触れるだけ。
何度も何度も撫でつけていると、なんだか心がまるくなっていくような不思議な感覚に見舞われた。感情が、なだらかになっていく。ふわふわと浮かんでいるような気分だった。
なまえちゃん、と呼びかける。
うん?とかのじょがやさしく応えた。
「今日は、ごめんな」
「なにが?」
「色々言うてもうたやんか」
色々と文句を、と付け足すとやっと思い至ったようにああと声を上げる。せっかく観に行った試合の感動に水を差したような形になってしまったことは、本当に申し訳ないと思っていた。
別にあれくらいかわええもんやけど、と言ってかのじょはわらう。特に気にしてもいない様子で、けれどないがしろにされたわけでもない。ゆるりと唇に弧を描いてまなじりを下げた。
「ビックリはしたけどな」
「そうやろうな」
「でも私北のお話聞きながら、ちょっと懐かしくなってたわ」
「懐かしい?」
「やって、私もよう北にやっとったやんか」
あんな控えめではなかったけど、と続けて苦笑い。
その意味もわからず、けれどまたすぐに思い当たって。
「あれに比べたら今日の北なんてかわええもんで、しかもほんまにかわええから、私はむっちゃときめいた」かのじょの言うときめくポイントはよくわからなかったが、フォローのためとはいえ蕩けた表情でそんなことを言われたらこちらも照れてしまう。
正直ふがいないというか自分の器の小ささに落胆していたのだけれど。
そうか。
かのじょはあんな昔から、おんなじ気持ちを持っとったんか。
あれはこんな気持ちで言うとったことやったんかと思うとどんどんと熱が溜まってくる。
「……なまえちゃんは、すごいんやな」
「なんで?」
「俺がこの年になって初めて知ったもんを、高校の頃から知っとったってことやろ」
「恋をしたら、これが普通やけどな」
「すごいな」と再度言う。
こんなにも強い気持ちを抱えたまま、あの目まぐるしい三年を過ごすなんてことは、当時の俺には到底できそうになかった。正面から向き合うような気概もなかっただろう。
自分に必要だと思うものは自分で考えてきた。
そしてそれを培うための努力を重ねてきたと思っている。
けれど、自分の中だけで考えたものではきっと足りていなかった。
満足していた。
――なのに、あの日感じた喪失感。
今までも、この先もずっと生きていく上で本当に必要なもの。俺の心が本当に求めるものを考えるには、知らなければならないものがもっとあったはずだった。取りこぼしてきたもの、不要だと判じてきた重要であったはずのものも、きっとまだまだ多いのだろう。
大事にしたい。
自分の手で幸せにしたい。
自分のそばで幸せになってほしいひとが、ここで笑ってくれている。
泣きたくなるような幸福を知ってしまった男は、もはやかのじょを手放せない。同じくるしみを、かのじょもとっくに感じていたのだと知ったときに訪れた、言いようのない快感も知ってしまった。
「北は心がきれいやから、きっと思いが強いんや」
そっと触れた、かのじょの指先。
その奥にある心臓が、また一段と大きく力強く鼓動づくのを感じた。


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