午前五時。
「おはよう燐子」
耳元でやさしい声が鳴る。
まだしばらくはくっついていたいと懇願する上瞼さんと下瞼さんを無視してグッと力を入れて暗闇から手元を視界に入れる。指先はスマートフォンの通話ボタンをギリギリかすめていた。「おはよう冬美ちゃん」なんとかすぐに返すことができたけれど、カラカラに乾いた喉のせいでわたしの生まれ持った美声が掠れてしまっている。
「なあにその声。相変わらず朝弱いね」
「わたしは弱くないよ……。弱いのは、上瞼さんと下瞼さんだよ……」
「なにも五時に起きなくても。そっちはあと三時間くらい寝ても余裕あるでしょう?」
「んん……でも起きるの……」
「まったくもう」
呆れながらもやさしく笑う朗らかな声は一日の始まりを迎えるに心地よい。さすがは我がお姉さまだと思いながら弛緩しきった身体を起こした。毛布を捲って適当に畳む。「今朝はちょっと温かめだね」季節は四月も中ごろに差し掛かろうという頃合いで、朝晩はまだひんやりしていることが多いようだけれど、わたしは個性柄、体温が高めであるので薄着で寝起きしていても風邪を引いたりはしないのだ。たぶん。
「朝ごはんちゃんと食べるんだよ?」
「うん。大丈夫だよ、近くにおいしいパン屋さんがあるんだ」
「ならいいけど……野菜も食べなさい」
「サンドイッチがお気に入りでさ」
「サラダ」
「野菜サンド」
「野菜ジュース」
「……タマゴサンドと野菜ジュース」
「仕方ないなぁ」
まことに遺憾である。
他愛もない会話を続けながら、櫛を通していない髪の毛を片手で撫でつける。棚の上に置いていたクリップで適当に視界を広げると、いくらか頭が冴えてきた。明かりは消したままだたけれど部屋は明るい。カーテン締め忘れて寝ちゃったなぁ。外の光がまぶしいくらいだ。今日は一日快晴だな、これは。
「起こしてくれてありがとう」
「うん。今日もがんばれ!」
「うん。あ、冬美ちゃん」
「ん?」
「今日朝ごはん作るの早めたほうがいいよ」
「なんで?」
「焦凍そろそろ起きるから」
「まだ三十分もあるけど」
「でも起きるよ」
「そうなの?じゃあお味噌汁先にあっためておこうかな」
「それがいいよ」
「燐子も朝はしっかり食べなね。野菜ジュースもね」
今日も一日、がんばって。いってらっしゃい。
冬美ちゃんもお仕事がんばって。
通話を終えてスマートフォンを放る。畳んだ毛布の上に跳ねたのを確認して、あくびを噛み殺しつつ洗面所へと歩き出した。


午前三時に起床して毎日パンを焼き続けること二十年という究極のプロ根性を発揮する巷で人気のパン屋さん。焼け次第開店してくれるので五時半前後、店の前を通る頃には様々なパンがすまし顔で並んでいる。とってもいいにおい。店内には既に数名のお客さんがいてそれぞれパンを物色している。わたしのお目当てはカリカリのホットサンドにマヨタマを挟んだタマゴサンドで、レジのそばにあるショーケースに鎮座している。
「おじちゃん!おはよう!」
「おはようさん」
「タマゴサンドと野菜ジュースください!」
「いつものやつね」
「わぁ。なんか常連っぽい〜」
「毎朝来てりゃ常連だろうがよ」
おじちゃんは少しいかつい顔をしたごま塩頭がトレードマークの五十歳。いっつもしかめっ面をしているけれど、二十種類くらいのパンを毎朝一人で焼くし、おばちゃんが販売をするけれど自分でレジにも立つスーパーすごいおじちゃんだ。冷え冷えの野菜ジュースをむんずと掴んで、でもタマゴサンドはそっとやさしく持つ。そんなところがわたしはとても好きだ。そしてタマゴサンドの味も好きだ。
「三百円だ」
「百円玉ないや。はい五百円〜」
「はいよ。釣りだ」
「ありがと!」
「もう少し落ち着いて喋れねぇのかお前」
「もう〜。おじちゃんがそろそろお歳だから、配慮してるんだよ〜」
「還暦もまだだわ!!」
「ふふ。今日も元気だねぇ」
「何だその鼻垂れたガキでも見るような眼は」と言いながら丁寧に袋に入れてくれる。なんだか受け答えに既視感というか似たような感じの男の子を知っているのでそのせいだろうか、つい声をかけてしまうのだ。
「おじいちゃんってこんな感じかなぁ」
「手前ぇみてぇな孫は五月蠅くて適わねぇや」
「そんなこと言ってアンタ、日曜はいっつもソワソワしてんじゃないか」
「お前は黙ってろぃ!!……オイ何だ手前ぇら、ニヤニヤしてんじゃねぇ、買うモン買ってさっさと学校なり会社なり行って来い!!」
店を出て。出入り口付近に留まっていた人たちと目が合って、お互い笑ってしまう。
「いやぁ今日もアレが出たね」
「よかったぁ。仕事前はやっぱりアレを聞かないとね」
「パンも凄くウマいけど、面白くていいよな」
「ふふ。みなさんも中々アレですよぉ」
こんな早朝から空くパン屋に足しげく通う常連の方々も方々であった。
「おねーちゃんは今日もとれーにんぐかい」
「毎日頑張るねぇ」
「いやいや皆さんには適いませんて。お仕事がんばってください」
「ありがとな」
「ではまた明日」
「また明日〜」
「明日は休みだから私は明後日ね〜」
「僕はこれ食べたら寝ますよ」
「徹夜明けご苦労さん!」
「じゃあな」
「お気をつけて〜」
手を振って、または会釈をして去っていく人たちを見送って、駅とは反対の方へ足を進める。数分歩いて、大きな公園へ到着するとベンチへ向かう。袋から購入したパンとジュースを取り出した。緑の多い自然公園で、早朝から活動する鳥の鳴き声が聞こえる。風はそんなに吹いていないけれど空気がひんやりしていて気持ちがいい。タマゴサンドを一口かじる。カリッと音がして、ふんだんに詰まっているマヨタマがジュワッと口に入ってくる。
「おいしい……」
今日もおいしい。
明日もきっとおいしいんだろうなぁ。
しずかで緑豊かな公園で、お気に入りのタマゴサンドを頬張る。
至福の瞬間だ。
すぐに食べ終えてしまって、ジュースも飲んだ。
こんなにおいしいタマゴサンドを作りたもうたおじちゃんに手を合わせてなむなむと感謝の意をささげ終えてからは数分間の休憩である。
「赤髪の子だ。おはよう〜」
「あ、おはよーございます!おはようジャック!」
「ワフ」
「ふふ」
「今日も会話してる〜」
犬にせがまれて散歩をしているお姉さん。
「やあお嬢ちゃん。朝メシは食ったかい?」
「どうも〜!食べましたよ。おじさんは?」
「これから食うところさ。今日はハヤが三匹だ」
「わあ、大漁!」
「へへっ、調味料も新しいのを仕入れたばかりでね。この前教えてもらった、むにえるっつーのを作ってみようかね」
「きっとおいしいよ〜」
たくましく生きるホームレスのおじさん。
「雄英のお姉ちゃんや」
「あ。おにーさんおはよう!」
「こっちはおやすみやな〜」
「また夜勤明け?おつかれさま〜」
「ね〜。ほんま疲れるわぁ」
「あっちの並木道を通って帰ったらいいよ」
「そうなん?楽しみ」
仕事帰りでフラフラのお兄さん。
早朝の公園を、色々な人が通っていく。
言葉を交わして見送ったあと、立ち上がる。
脇に置いていたザックに手をかけ、ゴミは自販機隣のゴミ箱へ。その場で軽く屈伸をして、肩や腕をいくらか回してから、駆け出した。


午前六時四十五分。
草木生い茂る森に囲まれた山上にある学校がある。
国立雄英高等学校。
「おはよーロボさん」
「生徒ノ通学時間ヲ逸脱シテイル」
「たった十五分でしょ?」
「人間ハ数字ニ弱イ」
「わたしは特にね。はいだから通して」
「一年A組ノ生徒……担任・イレイザーヘッド」
「そうそうざわちん先生」
「ソレハデータニ無イ」
「追加しておいてよ。あだ名です」
警備帽を被ったロボを前に問答を終え、登校可能時間はやっぱり早められないというのでその場でおしゃべりをして時間を過ごすことにした。担任の先生も、ロボが職員室と通信した結果まだ出勤していないということだったのでせっかくだし先生と一緒に校舎へ行くことにする、ことに今決めた。
「ねぇロボってやっぱりオイルっぽいものが食べ物なの?」
「機密事項ダ」
「秘密なの?じゃあ好きな子はいる?趣味は?日曜日は何してるの?」
「待テ待テ質問ハ一ツズツ」
「朝から何小学生みたいな質問してんだ」
「あ、先生」
痩身痩躯。黒髪に全身黒ずくめで首元にマフラーのように巻かれた捕縛布がトレードマークのこの男性が、マイティーチャーの相澤消太先生三十歳だ。今日も気だるげな表情と隠す気のないおヒゲがチャームポイントとして知れ渡っている。わたしの中で。
「先生、おはよーございます!」
「はいおはよう」
「オハヨウ、ザワチン先生!」
「…………。轟。お前何を吹き込んだ?」
「わたしは何も」
「嘘つけ」
「ギャ」
せっかくのすがすがしい朝だというのに、さっそく捕縛されてしまった!
「ちょっと早く着いちゃって、先生を待っている間に、世間話を、していたんです」
「イレイザーヘッドガ来タ。ジャアナ。アバヨ」
「あ、行っちゃった〜」
「まったく……」
溜息を吐かれてしまった。
拘束を解いてもらえないまま先生が歩き出すので引きずられかけて、慌てて足を動かす。
「なんだか連行されてるみたいですねぇ」
「みたいじゃなく、連行してるんだ」
「おや?わたしのような品行方正の美少女が、なぜそんなことをされるのでしょう」
「日本語は正しく使おう」
「痛い痛い痛い。先生締まりますこれ胃が!出ます!」
「…………」
「先生。溜息を吐くと幸せが逃げるらしいです」
「何で朝からお前の相手をしなきゃならないんだ」
「その言い方だと、まるで問題児でも相手にしているような」
「まるでもようだもあるか」
「おやおや」
「大体、何で教師より早く来てんだ」
「ふふ」
「…………」
「痛い痛い。最近タイムが上がってきちゃったから、うまいこと時間調整できなくなっちゃったんですよね。前は五周でちょうどピッタリ七時だったのですが」
「走り込みでもしてんのか」
「そんな感じです。で、今から朝練をするので森へ」
自宅を出たときから雄英ジャージを着用しているので、準備はバッチリだ。一度校舎へ向かうのは先生と同じく職員室へ使用報告をしなければならないからである。「ちゃんと仕切れよ」と毎朝言われるのは、戦闘訓練を行うからで、うっかり通行人を巻き込んだりしないためだ。まあ七時に森を使用する人なんかあまりいないとは思うけれど。
「よくもまぁこんな妙な活動を許可したもんだな……」
「先生がお相手をしてくれるなら、わざわざ同好会なんか作らなくてもよかったんですけどね」
「俺は忙しい」
「でも安心してください。今日も早めに切り上げて、先生のお手伝いに伺います」
「結構だ」
「あ、ミッドナイト先生だ!おはよーございまーす!」
廊下の端っこに見えた美女に向かって大きく手を振った。左腕は唯一捕縛から逃れることができた大切な部分だ。精一杯の挨拶に気付いたミッドナイト先生が近づいてくる。
「おはよう轟さん。相澤君も」
「おはようございます」
「今日も一段とおきれいですね!」
「アリガト。貴女も素敵よ」
「わぁ!わぁ先生聞きました!?」
「じゃあな。俺は行く」
捕縛が解かれる。自由になった身体をさすっているうちに競歩の足並みでどんどん進んでいく先生はすぐに見えなくなってしまった。残されたわたしとミッドナイト先生は顔を見合わせる。
「一緒に来たの?」
「校門でたまたまお会いしまして」
「青春ねぇ……」
頬を染めてうっとりとした表情のミッドナイト先生は今日も美しい。
「轟さんはこれから朝練?」
「はい。使用申請書を出しに職員室へ」
「せっかくだし、預かって行くわ。毎朝一番乗りなんだもの、少しでも長く練習したいんでしょう?」
にっこりと大人の笑顔で手を出されてしまったら、断る術がないのでザックから用紙を取り出して渡す。同性でもこの距離で並ぶとドキドキするような香りがしていいなぁと思いながら。挨拶をして踵を返す。


午後七時五十分。
朝練を終えて後片付けののち、シャワーで汗を流して制服へ着替える。
午前八時ちょうど。
「おはよう!!」
威勢のいい挨拶とほぼ同時。非常に勢いよく開け放たれたドアから姿を現したのは、四角いメガネと性格が特徴の男の子。わたしは着席したまま声をかける。
「おはよー委員長」
「今日も早いな君は」
「この年になるとね。自然と目が覚めるのですじゃ」
「いくつだ君は!?」
「女性に年を尋ねるとは、なんと失礼な」
「そ、それはその通りだ……すまなかった!」
いや、同い年だけれども。委員長は今日もまじめで素敵だなぁと思いながら、キビキビ歩く姿を目で追う。姿勢がとてもよい。そして手の動きがおもしろい。機敏に鞄を自分の席へ置いて着席し、荷物と机の中を整理したかと思うとサッと起立して教室中の机と椅子がきれいに整列しているかどうかを確認して回り始めた。ブレない行動原理である。
「うん、今日は完璧な配列だ!」
「うん。わたしさっきやったもんね〜」
「何だとっ!?で、出遅れてしまった……!!」
「委員長って面白〜」
「やはり登校時間を早めるべきか……!?」
「いいじゃんそれくらい。委員長は他のこと全部がんばってるんだから」
「む……」
「机の整列業務はわたしに任せてよ」
「轟くん……!君にそんな一面があったとは……!」
感動されてしまった。
委員長のリアクションがいちいち面白かったからだとは言えない。
「不真面目極まりなくふざけてばかりの女子だと思っていたが、それは誤りだった!」
「いやそれは間違ってないよ」
「ありがとう轟くん!学級委員長として、君を机の整列係に任命しよう!」
「え、あ、ありがとう?」
任命された。
まあ時間はたっぷりとあるし別にいいのだけれど。
手を差し出されたので反射的に握る。身体も大きい委員長は手も分厚くて大きいなぁと感じながら、上下に振るのにしばらく付き合うのだった。

午前八時ニ十五分。
予鈴が鳴る直前から委員長が「皆!予鈴が鳴るぞ、自分の席に着こう!!」と促していたおかげかそうでないのかは置いておくとして。先生が入ってきたときにはちゃんと全員が着席している。すばらしく規律のいいクラスだ。きっと担任が先生で、委員長が委員長だからだろう。
「おはよう諸君」
「おはようございます!」
先ほどいたいけな十五歳の少女を拘束した三十代男性が教壇に上がる。
「朝のHRを始めよう」
わたしのヒーローアカデミア。
今日も一日が、始まる。

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