『見ましたよ、オールマイトの姿。あれは痛ましかったですね』
『あまりの衝撃に眠れませんでした。それに引退が発表されたというじゃないですか。長年ヒーロー業界を引っ張ってきた彼がもう戦えないなんて……、これからどうなっていくのでしょうか』
『オールマイトに憧れてヒーローを志す子供は多いですからねぇ。子ども達もショックが大きいと思いますよ』
『間違いなく近代ヒーロー史に残る時代の節目となるでしょうな。存在しているだけで抑制力だった彼のあのボロボロの姿は、陰に潜んでいる敵やその予備軍達に好機と可能性を抱かせるでしょう。何にせよ犯罪数の増加は免れんでしょう』
『ショックです。無敵のオールマイトが苦戦している姿も、萎んだ姿も、これまで私達がどれだけオールマイトに守られてきたのかを実感させられます』
『ヒーローを引退しても、雄英にはこのまま在籍するんですよね?彼の志を継ぐ次世代のヒーロー達に注目が集まりますね。それまでの空白の期間を、我々は耐え凌がなければならない』
毎日毎日、しけた報道ばっかしてんじゃねぇや。

「お父さん、チャンネルころころ変えないでよ」
洗濯かごを両手に抱えて忙しなく洗面所とベランダを行ったり来たりしている娘が文句を言ってきた。何だぃ、テレビぐらい好きに観させろや。そう返して持っているリモコンでまた一つ局を切り替える。夕方のこの時間はニュースばっかりだなおい。内容も似たり寄ったりだ。
『オールマイトの活躍によって攫われた生徒は無事保護できましたが、これから同様に生徒が標的とされた時、雄英は、ヒーロー達は子供達を守ることができるのでしょうか』
これァさっきと同じ番組じゃねぇか。
もういいんだよそれは。
あれから何日経ったと思ってんだ?
「ちょっと、まだやってんの?」家族五人分の洗濯物を干し終えて、腰をさすりながら茶の間に帰ってきた娘が少し間を空けて腰を下ろした。
「いいのがやってねぇんだよ」
「一巡してダメなら消せばいいじゃない。しばらく番組は変わんないよ」
「わかってらぁ」
「どうせしばらくはこの話題で持ちきりだよ」
しまいにはため息を吐いて、ちゃぶ台に置いたままにしていた湯飲みで茶をすする始末だ。せっかくの熱々の茶が冷めちまってるんだろうが、誰に似たのか猫舌な娘には少し冷めたぐらいがちょうどいいらしく、うまそうに飲んでいる。ほら新聞だってと畳の上に放置していたそれを手繰り寄せて開き見せてくるが、そんなのもうとっくに見た。俺が郵便受けから取って来た奴だからな。
「それだけみんなショックなんだよ。なんとなくずっと、ずーっといて、守ってくれるような気がしてたからね。オールマイトは」
妻に似て柔和な丸みのある面立ちを見やる。
「だから怖いと思ってる。みんなこの先、どうなるのかって」
「怖い事なんてなんもねぇさ」
「だって、お父さん」
「変わらんよ。昔も、今も、これからもな」

特別目立った産業も何もない田舎街ではあるが、この街には一つ、大きな『らんどまーく』が存在する。昔は大きな山だったというその頂上一帯をお国が開発し、何ともまあ巨大な学校施設を創り出した。それが今や最も名の知れた雄英高校。ヒーロー養成高校としては随一の教育機関だ。標高が高いもんで、外に出てぐるっとその場で回ってみりゃあ大体あの特徴的な校舎が視界のどっかに入ってくる。ウチなんかは、道に面した店舗の窓からそれが目に入るもんだから、登ったことも入ったこともねぇのにどっか他所事とも思えねぇ親近感のようなモンを感じている。未だ幸いなことに敵がらみでヒーローの助けを借りることはないものの、この辺が他所に比べて敵事件の発生率が格段に低いのは、間違いなく雄英のおかげだってことは街に住む誰もが知っている。この街の人間はみんな分かっているのさ。
それなのによう。
ピピピピピピピ。
甲高い音に我に返る。
粉まみれの手を洗って、濡れふきん越しにオーブンの取っ手を掴んだ。
「オイ、バゲット上がるぞ」
「はいよ。かよ子、カゴ貸してソレ」
「はぁい。ねぇ今日は手前レモンのやつにしたい!暑いし」
「いいよあんたの直感で」
「ハイ上がりィ」
「そろそろ果物切っとかないとね」
「ピヨピヨも焼けた」
「焼きたて味見していい?」
「バカ」
「お父さん譲りかな」
可愛い一人娘も、二十を過ぎれば小憎らしい口を叩くもんだ。パンの入ったバットを向こうへ持っていく姿をひと睨み。
朝はとにかく時間が惜しくて、三坪程度の売り場にところ狭しと並べた、何十個もある空っぽのカゴを埋め尽くす大量のパンを準備するのに、大人三人がとにかくてんやわんや。時折流れ出る汗をぬぐい、厨房を端から端へ行ったり来たり。妻は厨房と売り場を、娘は主に売り場をあっちこっちだ。どんどん売り場がパンに包まれていく。
余熱をとった食パンをスライサーでカットする。冷蔵庫から切った具材の入ったバットとソースをみち子が並べて、五種類のサンドイッチを作っていく。俺はやっぱりカツサンド派だな。空腹にガツンとくるあのボリュームが旨いのよ!作ってると毎回腹が鳴っちまう。女子供にとびぬけて人気なのは、当時小学生だったかよ子が突然リクエストをして、試行錯誤の末店に並べることになったフルーツサンドだ。季節によって種類を変えて通年イチゴと、あとは仕入れの具合に応じて変えている。やっぱり彩りがいいから人目を引くな。順番に、丁寧に、一つずつ仕上げていく。次は定番の野菜サンド。ハムと胡瓜とレタスをたっぷり敷く。噛むとシャキシャキって音がして気持ちいいんだよ。これだけでいくらでも食えちまう。野菜が終わったら次は、
次は……タマゴサンドか。
「…………」
タマゴサンドと言えば、ひとり。
「今日はあの子来てくれるかねぇ」
一瞬、声に出ちまっていたのかと思ったが、みち子が通りすがりに零しただけの言葉だった。ギクリとしたのを気付かれないよう、軽く息を吸ってから口を開く。
「食いたきゃ、来るだろ」
「そうじゃないだろう」
「それしかねぇよ。パン屋と客の間にゃ」
「……それはそうだけどねぇ。あんたも素直じゃないこと」
パンに具材を詰めて、対角線にカットしてから熱したホットサンド用のプレートにセットして蓋をする。軽く焦げ目がついた頃に開いて袋に詰める。
これだけは、焼いてやんねぇとなぁ。
すっかり口癖になった台詞にみち子がぷぷっと笑うのもいつものことだ。
菓子パンも調理パンもバタバタと準備し終えて、売り場が満杯になる頃には午前五時。売り場ではかよ子が既に会計に回っている。毎日のことだろうに、今日も今日とてパンを見て顔を綻ばせる客の顔。旦那の朝飯を作って送り出して、孫のかのとの面倒を見る時間になったのでみち子が交代して売り場に立つ。こんな時間から店を開けるのはウチとコンビニぐらいなもんで、この時間からはしばらく客足が途絶えることはない。製造の方もようやく落ち着いたので、第二陣の支度を少しして、後片付けを終えたら売り場に入る。 「まいどありがとうね」手際よくパンを詰め、会計を済ませ、ついでに簡単な会話をして流れるように客をさばいていく。うまいもんだ。パンを選び終えた客から並びだすので、次の客の分を受け取って先に袋詰めだけ進めておく。
「あらおはよう。今日も仕事かい」
「いやぁ、休みだったんですけど、システムの初期トラブルで呼出し食らいまして……」
「またかい。大変だねぇ、ぷろぐらまーってやつは。ちゃんと寝てんのかい?」
「せめて半休でももぎ取りますよ。コレ食べて」
「ウチのカレーパンは辛口だからね!眠気覚ましにもってこいだよ」
「あ、あとタマゴサンドください」
「全部で四百五十円ね」
「ういっす。じゃあこれで」
「ありがとうね。がんばりなよ!」
よくもまあ客の顔見たまま作業できるもんだ。
と思いつつ、受け取ったトレイからトングで一つずつパンを掴んでポリ袋に入れていく。サンドイッチは冷蔵なんで注文制だ。レモンデニッシュに焼きそばパンにタマゴサンド、店の袋に入れてみち子に渡す。次の客からトレイを受け取る。クロワッサンにフランクフルトに塩パンにタマゴサンドにイチゴサンド。二人分か?次の客。タマゴサンド、レモンデニッシュ、メロンパン。次の客。フルーツサンド、ピヨピヨ、食パン、焼きそばパン。次の客。塩パン、フルーツサンド。次の客。バゲット、野菜サンド、タマゴサンド、チョココロネ。次の客。メロンパン、レモンデニッシュ、イチゴサンド、クロワッサン。次の客。カツサンド、カレーパン、タマゴサンド、フランクフルト。次の客。ピヨピヨ、アンパン、タマゴサンド、野菜サンド、メロンパン。次の、
「すみませーん、タマゴサンドってもうないですか?」
「あら。あんたちょっと」
「ん、ああ。……追加焼いてくる」
サンドイッチ用のショーケースから空になったカゴを取り出して厨房へ戻る。
ここ一週間ぐらいか、タマゴサンドの減りが異様に早い。
しかも早朝だけ。
売り場では相変わらず楽しそうな声が聞こえる。
「五分ぐらいで出来るから、ちょっと待っててね」
「すみません」
「私もタマゴサンド待ちなので、先どうぞー」
「ありがとうございます」
「僕も待ってようかなぁ」
「お先どうぞ」
「あ、どうも」
「あれ、タマゴサンド売り切れ?」
「今焼いてるみたいですよ〜」
「あのー、ここの一番人気とかですか?」
「ああ、そんな感じですね」
「だいたいね」
「モストモスト」
あいつら適当な事を……!
早朝の常連客その一(通信業、三十代男。好きなパンは焼きそばパン)とその二(大学生、十九歳女。好きなパンはコッペパン)、その三(自営業二十代男。好きなパンはクリームパン)に睨みを入れるも、笑顔で手を振られる。これだから常連は困る。適当なことを訳知り顔で言ってのける。追加のタマゴサンドを作っている間も、流れてくる客同士の会話の内容に眉をひそめる。みち子の笑い声。おい同調してんじゃねぇ。
「コラみち子。勝手な事言わせてんじゃねぇ」
「お!今日も旨そうだなァ」
「いい匂いー」
「いいじゃないか。ここんとこ本当にタマゴサンドが一番人気なんだから」
「今の時間だけだろうが」
「それでも数出るからね。集計でもしたら、一番かもしれないよ」
「手前ぇらも笑ってんじゃねぇ」
「いやあ、ハハハ」
「あの子が見たらきっと驚くなぁ」
「ですね!タマゴサンド待ちの行列!」
八月の上旬、雄英は一週間の林間合宿へ向かった。
『一週間もこのタマゴサンドが食べられないなんて……』肩を落とす小さい背中が過ぎった。
何が一週間だ。
もう十日も経ってんじゃねぇか。
生徒の多くが敵の被害に遭って、入院を余儀なくされたとニュースで観た。
結局合宿は三日経ったところで中断されたと聞く。
その後神野の事件があって、オールマイトが引退して、ウチの郵便受けには雄英の全寮制に伴う建築工事の知らせが入っていた。
その後まったく現れない、早朝の常連客その十三(雄英生、十五歳女。好きなパンはタマゴサンド)に、他の常連も思うところがあるんだろう。こぞって普段は買わない奴までタマゴサンドを手に取りだした。
「願掛けみたいなもんかなぁ」
ウチのパンで勝手に掛けるんじゃねぇや。
「そうは言ってもね。売ってるなら、買っていいだろうよ」
「こっちはパンが無くなるから作ってんだ」
「卵が先か鶏が先か、みたいな話ですね」
「店主と客の仁義なき戦い……」
「永遠に終わらないね」
「うるせぇな。いいから、パン買ったら出てけ!他の客入れねぇだろうが!」
そんなこんなで。
午前六時半を過ぎる頃には最初のピークが落ち着いて、第二陣に取り掛かる余裕が生まれる。売り場をみち子に任せて厨房に引っ込み、寝かせてあるパン生地を成形して、減った分のパンを焼いていく。手から伝わる温度がバターを溶かしちまうから、厨房の中は空調をガンガン利かせてる。発酵させて丸々と太った生地を伸ばして、分けて、伸ばして、丸めて、具材を詰めて、時には折ったりして、一つずつ形が出来ていく。数種類分、それぞれオーブンに突っ込んで時間をセットしたところで、
「あれまあ!」
ひと際大きなみち子の声が耳に入る。
オーブンから離れて売り場を除く。
瞳孔が開いたのが感覚で分かった。
「あーっ!」
それは酷く驚いた声。
ポカンと開いたままの口が酷く間抜けな、
久しく姿を見なかった、
早朝の常連客その十三の姿だった。
「タマゴサンドが!ないーっ!!」

「あ」
「わぁカワイイ」
「あぶ」
「うんそうだねぇはじめましてだねぇ」
「あーゅ」
「そっかぁ。そうだねぇ」
話通じてんのかそれ。
「通じてますよ。今ちょうどじぃじのパンは最高だと言っています」
「あら。良かったねーお父さん。最高だってよ」
「かのとはまだ食った事ねぇだろうが」
「かのとくんレベルになるとね、もう見ただけでわかるようになるんですよ」お前がかのとの何を知ってんだ。
いつもの茶の間に、異質な赤色。
座布団の上でうごうごする赤ん坊に目を輝かせ、近くに座ってからはああして眺めたり謎の会話をしたり突っついたりと興味津々な様子を隠さない。かよ子も楽しそうにそんな様子を見守っている。
「おい、此処に置いとくぞ」声を掛けてちゃぶ台の上にお望みのモンを乗っけてやると、さらに瞳が輝いた。正座のまま音もなくにじり寄って来たかと思えばもう口を開けている。
「いっただきまーす」
「ぶ」
「うまうま」
「ま」
「そうそう上手上手」
「…………」
店ン中で死にそうな声上げてたのが嘘みてぇだな。
小せぇ口いっぱいにタマゴサンドを頬張って、にんまりと笑む姿はパン屋冥利に尽きるってぇもんだが、興味津々でそばへ寄ろうとするかのとは食ってる間は一応離しておく必要がある。かよ子が我が子をそっと抱きかかえる。ふくふくの頬っぺたを母親へこすりつけるかのとを見て、ふふっと笑った。 「いやまさか。もぐ。ちょっと来ない間に。むぐむぐ。タマゴサンドが。まぐ。売り切れるほど。あぐ。人気になってるなんて。もぐもぐ」
「食ってからにしろ」
「ごっくん。嬉しいやら悲しいやらだよ!でもわざわざわたしの分作ってくれるなんて、やっぱりおじちゃんは優しいね」
「褒めてもなんも出ねぇぞ」
「タマゴサンドは出たけどね〜」
「…………」
「ありがとう!とっても美味しい!」
店の真ん中で素っ頓狂な声を上げたあの後。
売り場から奥の住居の方へ回らせて、キャリーバッグとリュックを下ろさせて茶の間へ通した後はかのとの相手をしていたかよ子に任せていた。第二陣のピークも過ぎて、午前はひとまず客足も落ち着いただろう時刻になったのを見計らって様子を見に来ると、おねむから覚めたかのとと顔を突き合わせていたって訳だ。用意してやったタマゴサンドを大事そうに、勢いよくがっつく姿に目をやる。頭も腕も足も包帯まみれじゃねぇか。こんな状態で荷物運んで帰って来やがったのか。タクシー使え。まだ十五歳の子供がこんな、痛々しい。襲撃事件の凄惨な有様が窺えるってもんだ。まったく酷ぇ事しやがって。ん?と視線に気づいたのかこっちを見て、ああ、と声を出してかぶりを振った。
「これはね、違うんだよ。襲撃の時のケガはね、リカバリー先生がすぐに来てくれたので、一応ほぼ全快したんだよ。ちょっと熱が出たけれど……、このケガは、その後にできたもので」
「その後だぁ?」
あの神野にいたって訳でもあるまいに。
「有体に言えば、親子喧嘩というもので」
「親子喧嘩」
「ああ、私もお父さんとよくするアレ」
「そう、そうですそのアレ」
「どれだよ」
「ぶ」
かのとも分かんねぇよなぁ?
自分の指をくわえてチュウチュウするかのとに呼びかける。
「おじちゃん知ってる?雄英が全寮制になるの」
「チラシ入ってたよ。工事は一応今日までだな」
「そう、そうなの!それでその件で、家庭訪問の前にちょっと揉めちゃってね〜」
それでこの有様よ、と言われても全然訳が分からねぇ。確かにかよ子とはよく喧嘩をするが、手前の娘にこんなケガさせる訳がない。
「まあ何だかんだ、家庭訪問も無事終わったし、寮ももう完成だから、お引越しの準備をするために今朝帰って来たわけですよ」
「あーぅ」
「そうそう。そこでだよ、帰ったからにはここのタマゴサンドをね、食べないとじゃない?」
だってもう十日も食べてないんだよ?と謎の主張をすると、最後の一口を名残惜しそうに食べ終えて、両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「あいよ、お粗末さん」
空になった皿を預かる。
流しへ行って水に浸しておく。
「はー。幸福」
「う」
「かのちゃんも幸福だよねぇ」
「えう」
「ふふ。いいなぁパン屋の孫」
「ん」
「だっておいしいパンがいつでも食べられるじゃない?」
「燐子ちゃん、ウチ朝は白米なんだよー」
「エッ意外にも」
「お母さんと私の旦那が米派なんだよねぇ」
「オイ俺ぁもう行くぞ」蛇口を締める。そろそろ戻って、次の準備とみち子を休憩に回さねぇと。どうせこっちの事気になってんだろうしな。廊下に出て、店へ向かう。「ありがとうございました!」まったく、今日もうるせぇなぁ。

十三時を過ぎた頃。
表に出した看板をひっくり返して『休憩中』にしておく。戻ってくる頃にはキャリーバッグも十三番もすっかりいなくなっていた。まぁ当然か。「帰る前に店覗くって言ってたよ?」十二時過ぎぐらいだけど、見てない?と首を傾げるかよ子。そうは言ってもその時間は昼休みの客で混むからな。入ってこなきゃ見えねぇよ。一応気を遣ったのかもしれねぇな。「んぶぅ」そうか、かのともそう思うか。
「つうか十二時までは居たのかよ」
「家事してる間、かのとと遊んでくれてたの」
「何させてんだ、お前」
「いいじゃん楽しそうだったよ?それに、朝店にいるちょっとの時間ぐらいしか、家族以外の人と話す機会ないんだよぉ。専業主婦は孤独なんだからね」
「…………」
それを言われるとな。
台所からみち子がお盆に昼飯の素麺を乗せてやって来る。硝子の鉢にたっぷりの氷水を入れて、冷え冷えになった素麺を、刻んだネギを浮かばせたつゆに浸けていただく。これが夏の醍醐味ってもんよ。山葵を付けて刺激も一緒に味わう。
「寮になっても、可能な限り買いに来るって言ってたよ。タマゴサンドを」
「あいつの、タマゴサンドへの、あの異様な執念は何なんだ……?」
「店開ける日は、ほぼ毎日来てるわね」
「そうなの?そんなに?」
「そして、来たら絶対にタマゴサンドよ」
「メチャ好きじゃん」
「あぶぶ」
「『ここのタマゴサンドを食べないことには一日が始まらない説〜』って」
まったくもって言いそうだ。
雄英と言やぁ今はランチラッシュがいるだろうに。
わざわざ山を下ってまで買いに来ると宣言するのだから物好きな奴だ。
「でも、学生時代ウチのパンを買いに来てた子達が今、ああやって立派にヒーローやってるんだから、凄いことよねぇ」そう言うみち子の視線の先にはワイドショーのヒーロー特集だ。
「お。私知ってるヒーローいるかなぁ?」
「エンデヴァーとかそうよ」
「え、嘘。すごい」
「ちょうど、開店してすぐの年ぐらいだったかねぇ。ねぇあんた」
「ん?ああ、そうだな。その頃か」
昔はあんなに怖ぇ顔じゃなかったよなぁ。
記憶を振り返ってそうぼやくと、
「何言ってんの。あんただって、そんな強面じゃなかったよ」
と返された。
つまり時間の流れは残酷ってことか……。
「ハー……エンデヴァーか……」
「有名どころで言うと、プレゼント・マイクもそうだね」
「プレゼント・マイク!」
「よくお友達と来ててねぇ……そうそう、今ヒーロー科の。一年生の担任をやってる子がそうだわ」
「それって会見出てた人?どっち?」
「イレイザーヘッド」
「ブラドキングじゃないのかー」
「なぁに、あんたブラドキング好きだったっけ?」
「ううん、筋肉が好み」
「筋肉が」ヒョロヒョロの旦那が泣くぞ。
「ウチって凄いパン屋だったんだね」感心するような娘の声が耳に残る。
自分の城を構えてはや二十年を過ぎた。親に抱かれて手を引かれて連れられて来てた子供が小遣い握って買いに来るようになって、部活の腹ごしらえやら昼飯やらでパンを買っていく。そして成人して社会人になってからも、地縁がありゃ来るもんだ。今度は自分が人の手を引く立場になることも多い。パン屋と客ってのはその場限りの付き合いのようでいて、細くて長い繋がりがある。まあ、途中で切れることも多いけどな。
「馬鹿。パン屋に凄いも凄くないもねぇんだ」
旨いパンを。
より旨いと思えるパンを焼き続ける。
それだけよ。
「ぶーう」娘の膝に大人しく座っているかのとに限界がきたのか、口をブルブルさせ始めた。かよ子は慌てて残りの素麺をかっ込み始める。
俺らものんびりしてる場合じゃねぇや。

今日も今日とて午前三時。
日の昇る前に起き上がって、パンを焼く。
「おじちゃんオハヨーー!タマゴサンドをください!!」
「うるせぇな!!!静かに入れ!!!」
善人だろうが悪人だろうが、人間は食わねぇと生きていけねぇんだ。そんで食うからには旨いモンを食いたい。思ってウチに来る客のために、ただ旨いパンを提供する。それが俺の生涯選んだ仕事だ。
「あら。今日は沢山買うんだねぇ」
「ふふ。ちょっと学校に用事があって。差し入れにね」
「大変ねぇ。じゃあコレ、試食品も沢山入れとくからね」
「ありがとうおばちゃん!優しい好き」
「あら!ちょっと聞いたかいあんた」
俺ぁよう、不安なんざ何にも感じちゃいねぇのよ。
平和の象徴が終わっちまっても、
神様から特別上等な力を授かった一人のヒーローがいなくなったとしても、
その背中を見てきたヒーロー達が、
その生き様に惹かれた次世代のヒーロー達が、
その志のひと欠片でも取り込んだ奴らが、
この社会をより良くするために戦ってくれる。
子が孫が生きる世界を、
ほんの少し優しくしてくれる。
誰かに導かれているかのように。
何も変わらんさ。
何も。
だから怖がる事なんて何にもねぇのさ。

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