午前五時三十分。
無機質なアラームの音で目が覚める。
目をこすりスマートホンを手にアラームを解除したのち、あくびを一つ挟んで起き上がった。伸び放題の髪をくしゃくしゃとかき回して、ふうと息を吐く。名残惜しく思いながらベッドから出て、一度大きく伸びをする。ちょっと頭が冴えた。そのまま入口の扉に手を掛けた。
部屋を出てリビングへ向かうと真っ先に母親が気付いておはようと挨拶をする。新聞を読んでいた父親がそれに気が付き続いて挨拶を。母親はすぐに朝食の支度へ戻ってキッチンの端から端へ行ったり来たりしている。食器棚の戸を開けて自分用のマグカップを取り出した。冷蔵庫の方へ向き直ると、母親が牛乳パックを差し出していた。ありがとうと言って受け取って、なみなみと注ぐ。テーブルには既に朝食が並んでいる。あとは味噌汁くらいかな。グラスを自分の席に置いてからもう一度キッチンへ。鍋から容器へ移された三人分の味噌汁をカウンターに置く。テーブル側に回り込んでから全員の席へ置いた。鍋を流しに浸けた母親が戻って来る。それで全員食卓について、手を合わせる。
「いただきます」

午前七時十分。
校舎へ一度入り急いで体操服に着替えるとすぐに更衣室を出る。建物がかなり大きい分、昇降口から近くて助かるな。外へ出てまっすぐ森へ向かって走り出す。使用許可をもらっているエリアまで軽いランニング程度の速度で駆けること数分。
「あの子とはどう?最近進んでるの?」
「児童ニ話セル事ハ無イ」
「ね〜教えてよ〜女子は総じて聞きたいんだよぉそういう話をぉ」
「昼ドラデモ観テナ十五歳」
いた。
何か雑談してる……。
「もー。相変わらずガードが堅い〜」しゃがみこんで業務ロボ相手に何やらツッコミどころ満載の会話をしていたその女子生徒は、ガードが堅いってなんだ、というかそれロボット、いやでも意中の相手がいる……?と混乱して一体どう声を掛ければいいのかと立ちすくむ俺の存在に気付くとパッと顔を上げた。
「おはよ!心操くん」
「……おはよう、轟さん」
にっこりと綺麗に笑う。
お手本のような笑顔だなと思った。
「今日も暑いねぇ。タオル三十枚はいるねぇ」
「そんなに持って来れないよ」
「ね〜。でも朝はまだマシだよね、風が涼しい」ポケットから扇子を取り出して仰ぎ始める轟さん。サポートアイテムだと前にイレイザーが言っていた。炎の個性なのにどういうこと?と首を傾げると、「ひとつ煽げば風を呼び……ふたつ煽げば雲を呼び……」などと嘯いていたことから、西遊記から着想を得ているのかもしれない。しかもそれ生徒が作ってるとか。
「心操くんも煽いであげようか。ほらコッチへ座りんしゃい」
「言い方。……俺はいい。まだ準備しただけだし」
「ふふ。では時間も有限だから、さっそく始めようか」
立ち上がって扇子をしまい、首や肩を回し始めた轟さんに自分も倣う。そして首に巻き付けてあるソレに指を添えた。
ふう、と一息。
神経がキリ、と締まる感覚がする。
肩幅に足を開く。
軽く腰を落とした。
「心操くんKOラウンド三十連発!いくよ〜」
ガクッと肩が落ちた。
力が抜ける。
独特のテンポがある人だな。
と思いつつ、口を開く。
「轟さんKOラウンド三十連発……の間違いでしょ」

「ふふ。間違ってなかったでしょ〜」
得意げに目を細めて笑う姿を仰ぎ見る。木漏れ日が赤髪を透かしてキラキラ輝いていて、場違いにも絵画でも鑑賞しているような気になる。思考がボケてきたから、そろそろバテてきたんだろう。差し出された手を借りる気分にもなれなくて、自分で身体を起こした。かろうじて根元が引っ掛かっているだけの捕縛布を首に巻き直す。相手から離れたいと思うと無意識に出し過ぎてしまう。対人での距離感を掴むのは時間がかかりそうだ。動くしな。
「まあまあ心操くん。そう気を落とさずに」
「いや、考え事してた」
「諦めないで。まだ訓練は始まったばかりだ!」
「話聞いて」
「ねぇそろそろパン休憩挟もう?挟もうよ〜」
幼稚園児かな?
「お腹がすくと力が出ないよ〜」困ったような顔でそう言うけれど本気で言ってるのかどうか。さっきまであんなに――と思考しかけて止める。また落ち込んでるとか言われても癪なのだ。
「今日はねぇA組午前中体育あるでしょ?いっぱい買って来たんだよ」
「……どっか木陰に移ろうか」
落ち込むわけがない。
まだ俺はそのレベルにすら到達していないのだから。

午前七時四十余分。
「パン休憩といえば、タマゴサンドだよね!」
パン休憩とは如何に。
言葉の通り、パンを食べながら休憩をとることである。朝食はいつも割としっかり食べていると思うけど、身体と頭を激しく動かせばその分やっぱり腹は減る。食べ盛りでもあり、成長期でもあるこの身体は三十分少々の訓練の後には軽い空腹状態になっている。この状態で教室へ行き、四限ある授業を乗り越える頃には正しく飢餓状態になってしまうことだろう。と思ってそれまでは休み時間に購買で補給したりしていたんだけど、いつからか轟さんがパンを携えてくるようになって、しかも俺にも分けてくれるようになってからはただの水分補給の時間がパン休憩という言葉に変わっていた。まあつまり轟さんが(勝手に)作り出した休憩だ。
「サンドイッチで言うなら、俺はハムサンドの方が好きだな」
選ばせてもらった焼きそばパンにかぶりつく。昔ながらの焼きそばパンという感じのオーソドックスな味ながら、薄く敷かれているキャベ千(キャベツの千切り)と相性が良くて美味しい。
「轟さんいっつもソレ食べてるね」
「そう!ここのタマゴサンドは最高なの。トーストされたカリカリのパンにバランスよくブレンドされたふわふわとマヨタマがじゅわっと溶けるの。おいしいの!」
「食レポが凄い」
「心操くんって食細そうなイメージだけど、案外食べるよねぇ」
「ああ……まあ最近はね」
「割れた?腹筋」
「まだ」
「捕縛布は首と腕に向こうの力がかかってくるから、しっかり踏ん張れないとキツイよ〜」
「……そうだね」
「力負けする時は切って逃げなね」
「そうする。武器だけど弱点にもなり得るからね」
「こちらが深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ〜」
「誰のマネ?」
「心操くん編入の未来を見据えて!ヒーロー科総員モノマネ四十連発!する?しちゃう?なんなら二三年生ミナサマガタのも入れちゃうよ?掛けることの……ひゃ、百二十連発だ〜!」
「しなくて結構だし、時間ないでしょ」
「ああそうだ。八時までに行かないと、飯田くんが来ちゃう」
「競争でもしてんの?」
「机の整列業務はわたしの使命なんだよ〜」
「ちょっと意味がわからない」
「ふふ。心操くんも大事にした方がいいよ、コミュニケーションをね。特にC組の子とはね。同じクラスで授業を受けられるのは今しかないんだからね」
「……そうなれるように、頑張るよ」
「そうそう頑張ってね。燐子ちゃんと同じクラスになれますように〜」
「人数的にはB組じゃない?」
「つれないこと言わないでさァ。せっかくこうして共に汗を流す機会を得たワケじゃない?」
「全部俺が倒されて終わってるけどね」
「捕縛布使って攻撃に対応する訓練なんだから、結果じゃないんだよ〜。逆に始めたてで捕まえられたらわたしの沽券だよ。今は倒すことじゃなくて、倒されないことが心操くんの目標だよ」
「わかってるよ」
会話交じりにパンを食べ終えてゴミを片す。食べ物をもらうのでせめて飲み物くらいはと手渡したジュースも飲み終えたらしいので、入れてきたコンビニ袋にまとめて口を縛った。満腹になると授業中眠くなっしまうので、空腹感がなくなるくらいの丁度いいところで留めておくのが学生には重要だ。現に轟さんはふわあ、と大きなあくびを既にしている。大丈夫なのだろうか。

「お腹も満たされたし、そろそろ行こうか」
目を擦り擦り、そう言って立ち上がる轟さん。俺も続き、体操服の土や草を軽く手で払ってから荷物を持って一緒に校舎の方へ歩く。
「あとは今日の放課後の一時間と、明日の朝で一学期最後だよね」
「うん。しばらくはわたしも先生もいないけれど、メニューは引き続きやってね」
明日は終業式で、今日が実質一学期最後の授業になる。
そしてヒーロー科は明後日から一週間、林間合宿があるらしい。だからしばらくは俺の指導をしてくれるイレイザーも、暇をみては組手や実戦の訓練に付き合ってくれる轟さんもいないのだ。一応そこを踏まえた上で、鍛錬用のメニューを組んでもらっている。
「林間合宿って何やるの?」
「基本的には個性のばしだよ。ある種の可愛がりで、ある種の拷問だというもっぱらのウワサ」
「物騒なんだけど」
「ふふ。わたしも何をするかまでは知らないんだけどね。ひとりひとり違うだろうからね。でも先生はいやらし澤先生の顔をしていたから、きっといやらしいことを考えているよ」
「首締められない?大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。先生は案外お優しい」
俺の記憶が正しければ、一日に一回は捕縛されている姿を見かけるんだけど。
そしてその度に、鬼だ鬼畜だと文句を言っているような気がするんだけど……。
「でも明日は荷づくりしなきゃだから、夜は早めに帰んないとな」
「一週間分だもんね。大変だね」
「ホントだよ〜。しかもこの前なんか買い出し行けるって日にアレでしょ、ショッピングモールに敵来たって言うでしょ。その時学校だったからさァ、警察に連絡入ってバタついたよ〜」
週明けに、担任からHRで聞いた話のことだ。
あの辺りで一番大きなショッピングモールに、雄英襲撃事件の主犯格とされている敵が現れ、A組の生徒に接触したのだとか。
「……聞いていいのか分かんないケド、大丈夫だったの?」
「うん。モールはその日は念のため閉鎖で、絡まれた子も事情聴取されたみたいだけど、表立った被害は今のところ。すぐ警察に通報できたのと、敵本人にもその気がなかったっていうのが大きいみたい……ってゴメン、先生方から聞いてるようなことしか、今のところ言えないんだけど」
「いや、いいよ。大丈夫だったなら良かった」
四月の件もそうだけど、敵に遭遇するってどういう感じなんだろうか。
殺意を持って、敵意を持って自分に向かってくる人間を捕まえる。というのがヒーローの第一の仕事でもある敵退治というものなのだろうけれど、言葉では分かっていても分かっていない。凶悪事件に巻き込まれたこともない。ただヒーローになりたい、自分の個性を誰かのために使いたい。そういう漠然とした思いで動いているから、こういう事件を身近に感じることが、もっと言えば自分が当事者になり得るということがヒーローを目指すということなのだと考えると、自分がまだまだ未熟な子供なんだと感じる。
「心操くんはマジメだからサボったりは心配してないけど、逆に焦って無茶したりしないでね」自分の思考に釘を刺すような、そうでないような言葉にギクッとしながらも頷く。分かってはいる。ここで焦ったところで、何にもならないのだ。
「困ったこととか、不安に思うことがあったら、ちゃんと連絡してあげてね。先生に話しづらいことだったら、わたしでもいいよ!そういう時はねぇ」
「轟さん」
「とっておきの猫ちゃん写真を……うん?」
「ありがとう」
丸くなる瞳。ペルシャ猫みたいだと思った。
「こうして訓練に付き合ってくれてること、感謝してるよ。いくらイレイザーに頼まれたって言っても、轟さんの時間を削ってるワケだし。それに初対面で結構俺、失礼なこと言ったのに」
明日言おうか迷ったことを、今伝えておく。
言いたいと思った時に言うのが、きっと正解だろう。それに最終日、しばらく会わないタイミングで言ってしまったらきっと気恥ずかしくて、戻って来た時に顔を合わせづらい気もする。
「そんなことを気にしてたの?」
「そんなことって……俺にも一応良心ってモンがあるからね」
「ないとは思ってないけれど」と意外そうな表情をする轟さん。
いや、自分で思い返しても、初対面の女の子に対して、かなり色々言ってたよ。正直嫌な奴だった。
「わたしは全然気にしてないよ。別に失礼だとも思ってない。だから、わたしが心操くんに対して言ったことについても、わたしは全然失礼だと思ってないし反省もしてない。良心は残ってるつもりだけどね」
「それこそ気にしないでよ。アレで轟さんの印象、かなり変わったけど」
「いい方に?」
「どうだろう。俺はいいと思うけど、人によっては悪くなるかも」
「心操くんは正直者だなあ」
何も気にしていない、と彼女は笑うけれど。
自分としては一度、謝っておきたかった。
あの日。
竦むことしか出来なかった俺の横を、
彼女はするりとすり抜けていった。
綺麗で鮮やかな、
赤い風が、
立ち止まることなく、
俺の夢を打ち砕く。
絶望感。
「でもそこは心操くんのいいところだと思ってる」
「え?」
「だって普通は隠すでしょ。そういうところ」
「ああ、そうかもね」
「それで急に牙を剥かれても、困るからね」
「……そうかも?」
自分は良い奴なんかじゃない。
嫉妬と羨望で頭がおかしくなりそうな頃があった。 そんな自分に、手を差し伸べてくれる人がいる。
応援してくれる人がいる。
夢に近づけるよう、手伝ってくれる人がいる。
――恵まれてる。
「あとそうだ。クッキーも感謝してる」
「え?ああ、猫のやつ?」
期末試験でバタバタする前、七月の初めに迎えた十六回目の誕生日には、どこから情報を仕入れたのか、いつものあの笑顔でおめでとうと言ってクッキーを差し出された。それが猫の形をしていて、色んな種類の猫の模様が描かれた後ろ姿のクッキーだったのだ。
「勿体無くて少しずつ食べたよ」
「勿体無かったのはクッキー?それとも猫?」
「主に、猫かな」
「猫かぁ」
こういうところがマメというか律儀というか……。人にモテる理由なのかもしれないとクッキーを食べながら思ったものだ。専門学科の多い雄英では一年生で専門科目の基礎が叩き込まれ、他のクラスと関わる機会なんてそれこそイベント事がほとんどだ。それこそ普通科なんて、ヒーロー科の入試に落ちた人間が多いものだから、ヒーロー科の生徒に対して複雑な感情を抱く人間も多い。俺もそうだった。というか今もまだ払拭しきれてはいない。
でも俺だって、編入が叶えば、そういう感情を向けられる側の人間になる。そのとき、この人みたいに言葉で、実力で、ぶっ飛ばして、笑い飛ばすことが俺にできるのか。気が早いとは思いつつ、今から自分に問うていかなければならないことだ。
猫のクッキーは非常に可愛かったしとても美味しかった。
「また作ったら食べてくれる?」
「美味しかったけど、誕生日以外では貰わないでおくよ」
「えぇ、どうして?」
「あんたのファンに刺されそうだ」
ぷっ、と音がした。
「なにそれ!」
こらえきれないという風に口を開けて笑う轟さん。
笑いごとじゃないんだけどな。
とは、恐らく言っても無駄だろう。
昇降口に到着して、手をブンブン振る彼女と別れた。 そのまま校舎へ入っていく姿を見送ってから、自分も荷物をロッカーに預けて外周を軽く駆け足で回る。机の整列係なんてものはC組には存在しないし、八時ジャストにやって来るクラスメイトも多分いないと思うので、彼女の言うコミュニケーションとやらは休み時間に充てようと思う。規則正しい呼吸を意識しながら、姿勢も崩さないように努める。
広い雄英の敷地内、どこかで部活動の声出しだろうか、たまに遠くから聞こえる音がクリアに届く。夏と言っても朝のまだ熱されていない空気が肌に触れる。汗で濡れる感覚。腕が、足が、筋肉が伸縮する。
息を吐く。
暑い。喉が渇く。
肺が焼ける。
疲れた。
でも辛くない。
だって目の前に、ちゃんと道が見える。
不確かじゃない。
無謀な夢でもない。
期待しかない。
午前七時五十五分。
俺は今、自分に期待している。

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