お兄ちゃんに会いたい2 H.25/09/29


(土沖)最低土方さんと健気沖田さんというリクエストを二か月くらい前にいただいていたので前にブログで書いた「お兄ちゃんに会いたい」の続きを無理矢理かきましたすみません。



「お兄ちゃんに会いたい」


あれから俺はずっとお兄ちゃんに会えなかった。


確かにお兄ちゃんは、別れる時に俺の事を迎えに来るだなんて言ってなかった。
だけれども俺は、昔お兄ちゃんが俺の部屋に来て俺を起こす時みてえに、いつか施設の部屋の扉を開けて「総悟、学校に遅れるぞ」と言ってくれると思っていた。

でもいつまで経ってもお兄ちゃんはやってこなくて、わけのわからない変な施設にずっと閉じ込められて、そのあとはもっとわけのわからない、笑顔のはりついた新しいお父さんがいる鬱陶しい家族に引き取られて暮らした。

けれどその家に俺は二年もいなかった。
要は俺の素行が悪かったもんで家族とうまくいかなくて家を飛び出したからだ。
はじめあたらしいお父さんはすごい気持ち悪いくらい優しくて色々俺にものを買ってくれたりしたんだけど、俺はどうしたってさみしくてしかたなくて夜の街に繰り出しては男を漁った。

男を漁る、というのはあたらしいお父さんの表現で、俺としてはお兄ちゃんを探していたつもりだったんだけど、はじめ気持ち悪く優しかったお父さんは俺の夜遊びをうるさく注意しはじめて、俺が男の人とホテルに入ろうとして補導されたりなんかしたら顔を真っ赤にして怒った。

こんなに愛を注いでいるのにやはりお前は汚らわしい淫蕩症なのだと罵られた。
うちの子供たちに悪影響だとか近所に体裁が悪いだとかなんだかわけのわからねえことを言いだして最後には外出禁止だということになってしまった。
そんなもの何の意味もねえから変わらず外に出てお兄ちゃんを探していると、とうとう出ていけと言われた。
俺の家族を滅茶苦茶にしただとか性虐待に逢っていたお前を引き取ってやった恩も忘れてだとか勝手なことを喚き散らしてそっちのほうが近所に体裁が悪いんじゃねえのかってくらいだった。
こっちこそこんな家には辟易していたので、14の歳に家を出て戻らなかった。

宿にはまったく不自由しなかった。
家を出てどこへ行こうかと考えて、お兄ちゃんを探そうと決めた。
むかしの俺の家に行ってみたけど、もう別の人が住んでいるみたいでどうしようかなと思っていたら中から地味な兄ちゃんが出てきて、そいつは山崎って言ったんだけど、俺のお兄ちゃんとは全然似てなくてでも声をかけたら真っ赤になっておもしろかった。

地味な大学に通う20歳のそいつと一日ゲーセンで遊んでそのまま部屋に泊めてもらった。
そいつはハナからお兄ちゃんとはかけ離れていたので同じ布団に寝ることはなかったんだけど、ここにいたらお兄ちゃんが見つけてくれるかもしれねえと思っていた。
けれどひと月くらいした頃に山崎家のババアが「退ちゃんのお友達いつまでいらっしゃるの」などと言いだして面倒だったので家を出た。
バーロイ、元は俺とお兄ちゃんの家だと道端の空き缶を庭に蹴り込んで、その足で夜の新宿へ行って公園で男を探した。
そこは施設に入る前にお兄ちゃんが俺の部屋に来てくれなくなってさみしくて代わりを探した場所で、すぐに知らないオッサンが声を掛けてきた。

とりあえず一晩。

次の日、その次の日と男とホテルに泊まってたまに一人暮らしのマンションなんかに住まわせてくれる奴のところへ転がり込んだりした。
山崎とは違ってさすがに一つ布団に寝ないとホテルに泊めてくれなかったりマンションに入れてくれなかったりするのでお兄ちゃんに全然似ていなくても仕方なく寝た。
そのうち男が俺を殴りはじめたり浮気をしたといいがかりをつけられたり飽きられたりといった理由で仮の宿を追い出されたりしたらまた公園。

そうやって一日一日をしのいでいたらいつのまにか3年が経っていて俺は17歳になっていた。
その頃にはその日暮らしとは一応おさらばして、住み込みでバーで働いていた。
もちろんソッチ系の店で男にケツを触られたりするひどい職場のくせに住むところを提供してもらっているもんで時給は壊滅的に安かった。
住所不定の俺が働かせてもらえるんだからあたりまえかもしれないが飯が食えないほどなので、夜はやっぱり知らないおじさんと一緒に寝てお金をもらっていた。

もちろんこの頃にはもうあのクソ兄貴の十四朗は、ただ子供だった俺をミツバお姉ちゃんの代わりにして性的虐待の対象にしていただけだという事を理解していた。
それから、絶対に迎えになんて来ないってことも。

それでもおかしなもので、お兄ちゃんを諦めれば逆に細い糸の繋がりが日の光にきらりと輝いて見えることもある。

ある晩こんな場末の汚ェ店に、良さげなスーツを着た大企業のおじさま達がやってきた。
「ここは良い子揃いなんだよ」
などとえらそうに言っているがここはもちろんソッチ系の輩どもが相手を探すために来るようなところなので接待する店じゃない。
なのに給仕の俺にさりげなく気持ち悪くボディタッチしてきて次やったら蹴ってやろうと思っていたらそいつはいきなり俺がどきりとする名前を出した。

「土方みたいな堅物も一度連れてきてやりたいなあ」

ひじかた。
それは、俺とミツバお姉ちゃんとお兄ちゃんの・・・母親の旧姓。

違うかもしれない。
でも、そうかもしれない。

俺の心臓は、ガンガンと音を立てた。
俺は、あんな・・・俺のことを性欲処理に、しかもミツバ姉ちゃんの代わりに使っていたクソ野郎・・・そして邪魔になった俺を施設に押し込んで逃げた男を、それでもまだ求めているのだ。

「あのォ、お兄さん名刺くだせえよ」
「あれ、ソーゴちゃん珍しいね。てかもうちょっと色っぽく頼めないの」
「くれねえんですかぃ」
「いやいや、ハイどうぞ」
「へーっ、○○っつったらすげえ大企業じゃねえですか、すごかったんですね」
「ソーゴちゃん、俺をなんだと思ってたの、それより名刺くれだなんて、俺に興味持ったってこと?」
「その出っ腹には興味ありやすぜ、どうしたらそんな大惨事になるんですかぃ」

うるさい親父を軽くあしらって俺は名刺をじっくりと見つめた。
○○商事。
その辺の道歩いてるどんな奴に聞いても知ってる名前だ。
お兄ちゃんは、俺を施設に連れてきてそいで俺はすべてを打ち明けたんだから、きっと児童虐待かなんかで捕まったはずだ。
服役したかどうかなんて知らねェけど、事件の内容的に執行猶予なんかがつくんだろうか。
どうにしろ、そんな事件を起こしたお兄ちゃんが・・・こんな大会社に勤められるはずなんかねえ。
でも・・・でも・・・・。
俺は、どうしたってこの名刺を破り捨てることなんてできなかった。

俺は、そのたった一枚の名刺から、身体とフットワークを使ってお兄ちゃんの連絡先を調べ上げた。




 *   *




「総悟・・・」

お兄ちゃんは、俺の顔を見るなり苦しそうな顔をして俺の名を呼んだ。
いきなり押し掛けた俺を部屋になんか入れたくなくて、開けたドアをそのままがっちりと閉めてしまいたかったんだろう。
明らか警戒して、でもそれを隠した暗い瞳で俺を見た。

「入れて・・・くれねェんですかい」



お兄ちゃんは、あれから四年服役してもちろん元いた会社は解雇というか自主退社となった。
それから母方の姓に名を変えて、過去も隠して再就職して一度結婚。
けれど新婚生活は1年にも満たないで破局。新妻は実家に戻り、今は新居であるこのマンションでお兄ちゃんは一人暮らしをしているという。



たった四年。
俺を虐待していた期間が1年にも満たないという事実と、みずからを告発したことで罪が軽減されるなら刑法になんて意味は無いと思う。
お兄ちゃんにはたった十二だった俺をミツバ姉さんの代わりにしたことを大いに後悔してほしかったし社会復帰なんてしてほしくない。
だけれどもお兄ちゃんの入っている刑務所をもし知っていたら、きっと俺はお兄ちゃんに会いに行っただろう。

会いに行ってお兄ちゃんに・・・・・・。




「どうしてここがわかった」
お兄ちゃんは、俺がリビングに上がり込む頃には、もう何を考えているのかわからない顔になっていた。
俺が来たことがうれしいのか迷惑なのか、動揺しているのかこんなことなんでもないと思っているのか。

「店に・・・お兄ちゃんの会社のひとが、きて」
「そうか」

暖かいホットミルク。
お兄ちゃんは俺の事をまだ小学生かなにかと思っているのだろう。

「俺は、何も知らないお前を自分の欲望の餌食にした男だ」
「そんなこと、とうの昔にわかってやす」
「だから、お前に・・・会う資格が無いんだ」

吐き気のするようなお兄ちゃんの言葉を聞きながら、それでも俺は焦がれ続けたその顔をうっとりと眺めた。
あの瞳で俺をじっと見つめて、あの唇でやさしく俺に触れて、そうして総悟がかわいいと言ってくれたのだ。

なのに、こんなにずるい言い方ってあるだろうか。
「総悟に会う資格がない」
ただ過去と俺を切り捨てて自分だけ綺麗に生きたい。そうやって自分を守るための卑怯な言葉。

俺は、俺は普通の生活なんてもうできねえ。
そんなふうにしたのはお兄ちゃんなのに、俺だけがこうやって屑みてえに生きなければいけない。
憎くて憎くて仕方ないのに、それでも目の前にお兄ちゃんがいると、あたまと身体のすべてがお兄ちゃんを求めてしまう。

「おにいちゃん」
俺を、抱いてくだせえ。

俺は、お兄ちゃんに擦り寄って、まったく動かないお兄ちゃんの首に抱きついた。
それから頬と顎にキスして、お兄ちゃんの視線がゆっくりと俺に移るのを、気絶しそうなほどの悦びの中で見返した。





お兄ちゃんに会えるのは週に一度。
俺はお兄ちゃんに引っ越せと言われて新宿を出た。
お兄ちゃんは俺がバイト先の店に住み込んでいることを知って、こんなところで不健康だと言ったけれど、別に職場を変えろとは言わなかった。
金ねえもんと言ったら、新しいアパートの資金援助をしてくれた。
ここも鼠でも出るんじゃねえのってくらい汚ェワンルームのわりに家賃は7万。都内で安いところを探す方が難しいけれど、もうちょっと良いところに住まわせてくれるかと思っていた俺には期待はずれだった。
お兄ちゃんはそのアパートにきっかり週末の土曜だけ俺を抱きに来た。
俺は、アパートの家賃を手伝ってくれなくていいからお兄ちゃんのマンションで昔みてえに一緒に暮らしたかった。
けれどだんだんにわかってきた。
お兄ちゃんは新しい完璧な生活に、俺と言うゴミを持ち込みたくなかったのだ。

つまり、昔と同じように性欲処理の為に俺を抱きたいけれど、家に出入りされたくない。だけれどもホテルで落ち合ったり俺の勤め先の二階にお兄ちゃんが来たりすると誰に見とがめられるかわからない。
だから俺をいかがわしい場所から引き上げてたいして金のかからないところで飼いはじめたのだ。

そんな風に俺はお兄ちゃんにただの物のように扱われて、それでもお兄ちゃんを待った。
おいしい飯を作って、土曜は絶対に仕事を入れないで。
かき入れ時に来てもらえなければくびにするぞと言われても黙っていた。俺目当てであの店にくる客も増え始めていたのでそれはただ店長の脅しだったけれど、ほんとうにくびになったって俺は土曜日だけは家にいただろう。



「ん・・・ンンッ・・・あ、はあぁ・・・んっ」
畳に薄い布団を敷いただけの愛の巣で、俺を四つん這いにさせて後ろから犯すお兄ちゃん。
「んぅ、うっ、うっ・・・ううっ!」
俺の尻がお兄ちゃんの下腹部に打ち付けられるたびに、ぎゅうと敷布をつかんで痛みに耐えた。
「お、にい、ちゃっ・・・にい、ちゃっ・・ん」
尻だけじゃなくて、お兄ちゃんが触れている俺の腰骨が火のように熱い。

お兄ちゃんが、俺の中に入っている。
昔みてえに優しく愛撫してくれねえけど、それでもお兄ちゃんの命が、お兄ちゃん自身が窮屈な俺の中に潜り込んで熱い壁を擦っている。
あますところなくお兄ちゃんを感じたくて、俺はお兄ちゃんを強く締め付けた。
鋭い楔でもって、俺の弱いところを凶器のように激しく突いて。
俺はただいやらしい女のように喘いで泣いた。

「んふうううっ、あっ、あっ、あっ、やめっ・・・やっ・・・そこ・・」
触れられてもいない陰茎から、勝手に精液が飛び散る。かまわずに激しく腰を律動させ続けて、お兄ちゃんも俺の中に吐精した。
「やっ・・・出る・・出てる・・おにいちゃん」
「すまねえ」

コンドームをしてくれないと、俺はきまって腹の調子がおかしくなる。
してくだせえって言うんだけど、お兄ちゃんは滅多としてくれない。
俺は自分で買って常備しているのに。

お兄ちゃんがこの部屋にきてすることはセックスだけ。
あとはさっさと服を着て出て行ってしまう。用意した飯も食ってくれないことが多い。お愛想程度に「きちんと掃除をしろ」なんて吐き捨てて帰るだけ。

お兄ちゃんが帰ったあとは来る前より寂しかった。
いっそずっと来なければ、きっともうすぐ来てくれるって期待していられるのかしら。


そんな生活が半年続いて俺は18になった。
まだ未成年というやつだけれど結婚だってできるしもう誰と身体の関係があったって文句言わせねえ。

だけどまた、だんだんお兄ちゃんがやってくる日が少なくなってきた。
せっかく休みをとって家にいるのに、お兄ちゃんは日付が変わっても来なかったりして、俺はメールや電話をしちゃあいけないことになっているもんだから、次に会ったときに聞いてみたら仕事が入ったり人との付き合いが入ったり出張だったりするらしかった。


お兄ちゃんは、まだ子供だった俺に手を出してしまったのを罪深いことだと言った。
だから俺は自分自身であの出来事に幕を引いた、おまえをまともな世界に戻そうと考えて自分は罪を償った。それなのに。
ほんとうは俺とお前は再び出会ってはいけなかった。
そう言ってお兄ちゃんは俺を抱いた。

俺はもう何が何だかわからなくなった。
お兄ちゃんは、自分を悪者にしたくない最低野郎だった。
たった12歳の俺には頼るべきひとりきりの家族で唯一絶対の存在だったお兄ちゃん。こんなクソ野郎だったってわかったのは、すっかりお兄ちゃんの存在が俺の中に刷り込まれきった後なんだから、おれだけが過去に縛られてがんじがらめになっていた。
ひとりだけ何もかも忘れて綺麗でいるなんて許せない。
だけど許せないからじゃない。身体の奥底からお兄ちゃんを求めるから、だからこうやって疎まれてもつきまとってしまうのだ。

こんなふうに・・・日の目を見られない関係でも、それでも俺は、お兄ちゃんが俺を抱いてさえくれればよかった。
それなのに・・・・。


お兄ちゃんが悪い。
お兄ちゃんが悪いんだ。

俺は、絶対に俺の部屋以外ではお兄ちゃんと会わないという約束を破って、ある日お兄ちゃんの会社の前で待ち伏せをしてしまった。

でっかい自社ビルの前で「定礎」と書かれたプレートの埋め込まれた壁にもたれて待っていると、定時時刻が過ぎてわらわらと人が出てきはじめる。
でもお兄ちゃんはぜんぜん出てこなくて、結局5時間待って俺がもうあきらめようとした頃にやっと姿を見せた。

電車も無くなるかもって時間。
ものすごく明るいビルのエントランスから同僚らしき男の人達となにやら熱く言葉を交わしながら出て来たお兄ちゃん。
俺の顔を見て、ぎょっとしたような素振りを見せた。
それからすぐに難しい顔を作って、一緒にいた人たちに俺のことを知り合いの息子だと説明してなにか約束していたらしいのを断った。
同僚たちは何を疑う風も無くお兄ちゃんに手を振って去って行った。

ふたりになると、お兄ちゃんが怖い顔で俺を見た。
ぐっ。・・・と強く右腕を掴まれてビルの陰に連れ込まれる。

「お兄ちゃ、」
俺がお兄ちゃんを呼ぼうとした時、ぼこんと強く右頬をなぐられた。

「アッ」

つめたい石畳に手をついて転がる俺をおっかねえ顔のまま見下ろして。
「馬鹿野郎。なんでこんなところへ来た。俺とお前の関係が明るみに出れば、俺たちは会うこともできなくなるんだぞ」

お兄ちゃんの雷のような声が聞こえるけれど、もうどんな顔をしているかは見えない。冷たい石に手をついたまま、俺は項垂れてその指先をただ見ているだけだから。

「会えねえ・・・・て・・・なんですかぃ」

「なに?」

「もう、俺は・・・十八になったんですぜ。だれと・・だれと会っていようが何をしていようが、誰に文句も言わせねえ。・・・なのにお兄ちゃんは・・・てめえの・・・てめえの体裁ばっか気にして・・・・」
「わけのわからねえことを言うんじゃあねえ。俺達・・・俺には過去の罪がある。誰もが放って置いてくれるわけじゃねえんだ。これ以上聞き分けのねえことを言っていると、」
「罪!罪ってなんですかい。俺を遠ざけてほったらかしにして・・・それ以上の罪なんてねえんだ!し、施設に俺を押し込めて、ほんのすこし刑務所に入ったくらいで逃げおおせられると思ったら大間違いでさあ。俺ァアンタが・・お兄ちゃんがどこへ消えたって必ず探し出して・・・縋り付いてやります」
俺はもうずっと長い事、お兄ちゃんに嫌われないように一生懸命顔色を窺って生きてきた。お兄ちゃんと二人っきりになってから、お兄ちゃんが俺の部屋に来るようになってから、俺がお兄ちゃんのことをだいすきになってから。
一生懸命良い子になってそれなのにお兄ちゃんは俺を捨てた。
それなら・・・それなら俺だってお兄ちゃんの言う事なんか聞いてやるもんか。
お兄ちゃんがどんなに嫌がったって、どんなに俺を邪魔にしたって俺は俺のやりたいようにやる。

ぼた。
と音がした。

何かと思えば俺の涙だった。
大粒の熱い涙が頬を伝って冷たくなり、石床についた俺の手の甲の上に落ちたのだ。

お兄ちゃんを罵りながら見上げたその視線の先。
「真剣な顔」と表現するにはあまりに恐ろしすぎるお兄ちゃんが、いた。

お兄ちゃんはゆっくりと俺の胸倉を掴んで立たせた。
狭いビル裏の路地は俺とお兄ちゃんが二人並ぶといっぱいになる。
どん、とビル壁に俺を押し付けて、お兄ちゃんが低い声を出した。
「いい加減にしろ、総悟」

総悟。

ああ、俺ァこんな時でもお兄ちゃんが俺の名を呼んでくれるのがうれしくてしかたないんだ。

「俺が、逃げた、だと」
お兄ちゃんの息が俺にかかる。熱い、熱い息が。

「逃げたんじゃねえですか。俺が!俺のことが邪魔になって!俺をあんな・・・あんなひどい施設に押し込めて!足跡も残さずにてめえは逃げたんでさあ!・・ウッ・・・」
強く、俺の喉元をお兄ちゃんが締め上げた。
ゴホゴホと激しく咽るけれど、胸元の手は緩まない。

「貴様、俺がどんな思いで」
「ごほっ・・・ごほごほ・・」
「何故・・・誰が好き好んで、こんな誰にも認めてもらえない関係を、続けると思う」
「ごほごほ・・・うう・・」
「何故、俺がこんなにも苦しい思いをしていると思っているんだ」
「うっ・・おにい、ちゃん・・・」
「馬鹿野郎、畜生・・・馬鹿野郎。兄と・・・呼ぶんじゃねえ」
「ううっ・・・うう・・・お兄ちゃん・・」

「きっぱりと、俺はきっぱりとお前と縁を切らなくてはならなかった。それなのに・・・・」

重い唸り声が聞こえた。

ふいに喉元が緩んで、俺は息ができるようになった。
間近にある男らしいお兄ちゃんの顔を見ると、強く眉を寄せて伏せた瞼からひとすじの涙が流れ落ちていた。

お兄ちゃんの唇は、怒りの為か小さく震えて、まだ何かを言おうと何度か開かれようとしていたけれど言葉にならないようだった。
しばらくその震えを見ていて、俺は何故だか喉がつまったみてえになって、やっぱり何も言えなかった。
随分時間が経って、お兄ちゃんは意を決したように唇を引き結んで大きく息を吸った。

「中途半端に・・・こうやってお前に会って、何の、何の意味があるのか。お前の為にならない関係を、続けるだけだ。それでも俺は・・・・・俺は・・・」

ぎゅうと、お兄ちゃんが俺を抱きしめた。
こんなことをしてくれたのは、もうずいぶん久しぶりだった。

「俺は、この・・・・罪深い旅路に、お前を道連れにするんだ」

ぽつりと聞こえた声。
お兄ちゃんの、たしかな苦しみ。

だけれども、俺の寂しさはそんなことでは癒えなかった。

「それを・・・こんな路地裏じゃあなくて・・・お兄ちゃんは、つい5メートル先の、アンタの大事な大事な会社の真ん前で・・・い、言えますか・・ってんです」

くやし涙をこらえる為に歯を食いしばって言ったら、泣き声みたいになっちまった。
お兄ちゃんは、俺の胸倉をもう一度強く掴んだ。
それから左手で俺の背中に手を回して、肩の後ろを引き上げると、ずるずると俺を乱暴にひきずって、明るい光に包まれた大企業自社ビルの正面玄関前に連れてくると、ゴミでも捨てるように放り出した。

「お、にい、ちゃん」
転がされた痛みに顔をしかめて見上げる。
お兄ちゃんは、鬼みたいな顔をして俺を見下ろしている。
眦が鋭く切れ上がって、興奮したように顔が上気していた。顎を上げて、俺を・・・さっきの言葉とは裏腹にくずでも見るような目で見ている。

お兄ちゃんは、俺が夜の仕事をして身体を売って生活費を稼いでいることを咎めなかった。
俺の為に俺の為にって言いながら俺を放り出して、俺の更生はどうでもいいくせに抱くだけ抱いて。
そうしてこうやってゴミみてえに俺を扱う。

哀しくて哀しくて、また俺の目に涙が溜まって、今にも零れそうになった時、お兄ちゃんがものすごく大きな声を出した。

「畜生!俺は・・・俺はなんとかしてお前から逃げようとしていた。それなのにお前は、平気な顔で俺の背後に忍び寄って俺の生活を滅茶苦茶にしようとしやがる。お前は、これ以上堕ちることなんてねえだろう。すべてを俺のせいにして俺を恨んで生きていればいいんだからな」

俺は、茫然とお兄ちゃんの言葉を聞いていた。
すべてをお兄ちゃんのせいに?
あたりまえじゃねえですか。
あんた以外に一体誰のせいだっていうんですかい。まさか俺の・・・俺の性根が悪ィって、アンタもそう言うんじゃあねえでしょうね。

「そうだ俺が悪い、俺のせいだ。お前がそうやって男のくせに売春して生活するようになったのは俺のせいだろうよ。てめえがそんなに俺を恨んで前に進めねえってんなら・・俺をお前と同じ地獄に落としてえなら、望み通りにしてやる。」

ぐ、と三たび胸倉を掴まれて引き上げられた。
「アッ」
お兄ちゃんの顔の真ん前。俺は背が足りないので、つま先立ちになる。
喧嘩でも始まったのかと、そこいらの奴らがこっちをチラチラ見ているのが視界の端に映った。

「に、いちゃん、んぅ・・」
熱い唇が、俺の息を止めた。
後頭部に回ったお兄ちゃんの指も、火のようだった。
「んん、んっ・・・はっ・・・」
長いくちづけ。何度も角度を変えて、俺の唇を貪る。
お遊びのキスなんかじゃないってことはすぐに解るだろう。

みんな、みんなが見ている。
見物客の中には、会社から出て来たお兄ちゃんの同僚や上司なんかもいるかもしれない。
お兄ちゃんが今まで必死に守ってきたものを、俺が、お兄ちゃん自身が滅茶苦茶に壊そうとしているのだ。

なんで。
なんでですかい。

どん!
と俺がお兄ちゃんの胸を叩いた。
お兄ちゃんは、案外簡単に俺から身を離して俺をじっと見た。

「馬鹿野郎。なんでわざわざ茨の道を行かねえとならねえんだ!畜生!俺はお前を愛している。誰が見ていようと言ってやろう。お前がそうしてほしいなら俺も覚悟を決めた」
「お兄ちゃん!やめてくだせえ!」
俺は必死になってお兄ちゃんのシャツの襟を掴んだ。
でも次の言葉が出てこねえ。

だって、俺は・・・。
俺をこんな風にしたお兄ちゃんに苦しんでほしい。
ただ法で裁かれただけで涼しい顔をしてほしくないし、俺のことも心から愛してなかったなんて考えたくねえ。
だけど、哀しいことに俺の方はお兄ちゃんをどうしようもないくらいに愛してしまっている。お兄ちゃんがいねえと生きてる意味もねえ。
だからお兄ちゃんに苦しい思いをしてほしい反面、世間から白い目で見られるなんて耐えられねえ。
こうやってお兄ちゃんが皆に向かって大声で俺と関係していることを吐き出してくれるのはうれしい。俺のことをただの日陰者じゃなくしてくれようとしているのだから。
だけど、だけど今より余計にお兄ちゃんと会えなくなるかもしれない。お兄ちゃんの立場がすごく悪くなるかもしれない。
それは俺が望んでいたことのはずなのに。
俺は、自分がどうしたいのかなにもわからなくなってしまった。

「おにいちゃん・・・・」
ぐすんと鼻をすすった音に気付いて、お兄ちゃんが俺を深い色の瞳で見つめた。

「ごめんなさい・・。お願いですから、自棄にならねえで」
「自棄糞になどなっていない。俺はお前を俺と言う毒から遠ざけてやらなければならないと思っていたし、二度とこうやって抱いてしまうのもいけないと解っていた。再び会えばどうなるかも承知していたし事実当然のように昔と同じことをしてしまった。いけないと思いながら中途半端にお前を突き放そうともした。俺と離れさえすれば、お前だっていつかはまっとうな生き方に辿り着くだろうとな」

ああ・・・・駄目でさ。みんなが、みんなが興味深げに俺とお兄ちゃんを見て・・・やす。
だからもう、言わねえで。

「だがお前がこうやって縋り付いてくる姿がいじらしくて仕方ねえ。何もかも捨ててお前と」
「お兄ちゃん!」
俺は、大きく鼻を啜りあげてお兄ちゃんを睨んだ。
それから踵を返して駅の方角に走り始めた。
「総悟!」
お兄ちゃんの、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。だけど立ち止まったりしねえ。
これ以上、何も知らねえ奴らにお兄ちゃんの告白を聞かせたくなかった。
悪いようにしかとらねえ奴らばっかだ。
俺の頭の中はぐちゃぐちゃだけど、それでも俺は、お兄ちゃんをあの場所から引き離したかった。

俺を追ってくるお兄ちゃんの足音が聞こえる。

「総悟!」

俺の、大好きなお兄ちゃんの、声も。

俺は、みっともなくぼろぼろと涙をこぼしながら、夜の街を全力で走り続けた。




(了)




















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