下校のチャイムが鳴って私は外を見た。居残ってまで話す友人もいない、部活にも入っていない私は終業後いつもさっさと帰ってしまうので、通い慣れた教室からの景色といえどそれはいくらか新鮮なものに思えた。
 11月も下旬。日の入り間近の校庭を駆けるサッカー部の雄叫びや、同じパートが繰り返される吹奏楽部の音色、どこかのクラスからするささやかな笑い声が、冷たい空気を震わす。
 放課後って、こんなにいろんな人がいろんなことをしているんだ。私は2年間過ごしてきた高校生活でそのことを初めて知った。

「ごめん、遅くなっちゃいました」

 新発見の余韻に浸っていると、ドアを開ける音と同じくして申し訳なさそうな声があった。

「ううん、日誌取りに行ってくれてありがとう浅羽くん」

 浅羽悠太。我がクラス2年5組本日の日直だ。
 私は座っていた窓際の席から彼に歩み寄り、挨拶を交わした。

「先生に捕まってさ、弟がどうとか話し込んじゃって」
「だと思った。相変わらずモテモテだね」

 そんなことないよと、彼はその端正な顔を崩さず答えた。「そうかな」私の浮かべた笑顔は自然だったろうか。ああダメだ。私は彼のポーカーフェイスがどうにも苦手だった。

「…ちゃっちゃと終わらせて帰りましょっか!」
「あはは、そうだね」

 ちょっと声のボリュームを上げて意気込んだ私に頷く浅羽くん。よし。そうと決まればさっさと終わらせよう。

 そもそもを言えば、私は今日日直ではなかった。彼ともうひとり担当だった子が休んでしまい、HR委員の私が代理として充てがわれたわけで。
 元より人付き合いに積極的でない私に、同じクラスながらほとんど話したことのない男子生徒と、しかもMr.ポーカーフェイスな浅羽くんと長い時間一緒にいられる自信なんてありもせず、さりげなくそう急かすしかなかったのだ。

「日誌は…さすがに元祖日直さんが書いた方がいいよね」
「なんですかその元祖って」
「じゃあ私黒板消すね」
「はぁ、お願いします」

 意外にも的確なツッコミを入れてくるんだ、と私は知る。それは彼と一緒にいる人たちの影響もあるのかな。なんて、少しは相手を知ろうという努力はしてみる。浅羽くんとよくいる春くんとは、多少お話する仲なのだ。

 私は備え付けの黒板消しを手に持った。少々強めに押し当てて向かって左側から順に、上から下へとそれをおろしていく。私の身長だとギリギリ7cmくらい、上まで手が行かない。日直に当たったときの小さな悩みだ。けれどジャンプしても余計汚くさせるだけなので、ご愛嬌ということでもはや諦めている。今日最後に黒板が使用されたのは日本史で、担当教員は穏やかなおじいちゃん先生だから筆圧もいささか優しいものなのが幸いだった。

 私がしばらく無心に上から下へ、上から下へと黒板消しを擦り下ろしていると、首筋がむず痒い感覚に襲われた。

「…なんでしょう」

 一心に視線を浴びてたらしい、その先を辿ると、前から3列のちょうど真ん中に座っている浅羽くんと目があった。

「いや、すごい一生懸命黒板消しする人だなあと」

 ちょっと意外。そんな声音で彼は呟いて、「あ、どうぞ続けてください」なんて言って日誌を書くことに意識を戻した。なんだ今の、褒めてんのか馬鹿にしてるのか。よくわからない彼の態度に若干戸惑いながら、私の手は黒板の一番右端までたどり着いていた。
 日付と日直の名前が記されたスペースを見て、ついでに書き換えておくかと消そうとした瞬間。

「あ」

 あることに気がついて私は動きを止めた。
 後ろでは急に声をあげた私を、浅羽くんが不思議そうに見つめていた。

「『いい兄さん』の日だね、今日」

 そう言って私は後ろを振り返る。何のこっちゃと首を傾げた浅羽くん。「ほら」少しだけ消してしまった日付を私は顎で示した。「ああ」理解したらしい浅羽くんがそう言えばと話を始めた。

「祐希が…弟がやたらと構ってきたのはそれだって、先生に言われたよさっき」

 ぼんやりと、左上の空を見つめて浅羽くんは納得したように答えた。「ノート貸してとか、購買行くの付き合ってとか、ただ名前呼ばれたりだとか」…仲いいんだな。彼の話を聞いていた私は、自分の顔が徐々に綻んでいくのを感じた。

「…まあいつもとあまり変わらないけどね」

「浅羽くん、いいお兄さんなんだね、本当に」

「え?」

 私の賛辞が不意をついたのか、浅羽くんは頓狂な声をあげた。栗色の双眼がきょとりと向けられて、私はまたも笑みをこぼす。

「だって、いますごく『お兄さん』の顔してる」

 自分で言ったその言葉に、不思議な感覚に陥った。私はつい先程まで浅羽くんのことを苦手に思っていたのに、話してみると存外表情を変える彼が面白くて、今ではとても、素敵な人に思えたのだ。
 だからだろうか。するすると勝手に、言葉が喉を滑り出していった。

「お兄さんがいるってどんな感じなんだろうね。やっぱり構ってほしかったり甘えたりしたくなるのかな」

 少しだけ名残惜しく日付を消して、真っ白な色で明日を記した。

「どうだろうね、オレはその、お兄さんの立場しかなったことがないからわからないけど」
「あはは、それもそうか。でもこんな素敵なお兄さんがいて、弟さんは羨ましい限りだね」
「…そうかな。まあでも、」

 がたり、と。
 椅子を引く音がして私は後ろを振り返った。浅羽くんが教壇に上り、黒板消しを手に持って左端の一番上にそれを置いた。私が、頑張っても届かなかったところ。一直線にそこをなぞって、彼はこちらに近づいてきた。

「そんな風に思ってもらえてるのならオレは、みょうじさんに甘えてもらいたかったり」

 するかもね。

 その声は最後、頭上から私に降り注いできた。私に覆いかぶさるようにぴたりと背後についた浅羽くんは、少しだけ意地悪な瞳でこちらを見ている。なんだ、なんだこのシチュエーションは。

「…えーとあの、どういう…」

 どきどき。思いもせず近づいた距離に心拍数が勝手に上昇。役目を終えた黒板消しを下ろす浅羽くんは、相も変わらないポーカーフェイスだ。

「べつに、どうとでも取ってもらって構いませんよ」

 そう言ってぽんぽんと私の頭を撫ぜたかと思えば、呆気なく背後にあったそのぬくもりは離れていく。「あっ」反射的にあげてしまった声は教壇を降りた彼を引き止めた。

「あ、あのそれじゃあ…」

「………」

 甘えてほしいと言われた意味も、浅羽くんの意図も、よくわからないけれど。
 静かに、こちらを見つめ返す彼に向けて放った私の声は、少し震えていたかもしれない。


「よかったらこのあと、一緒に帰りませんか」


 期待と不安と高鳴る鼓動に煽られて。







やかし上手

「そんなことならいつだって有効ですよ」
目を細ませて言った彼の顔は、兄か、それとも、






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 間に合わなかったいいお兄さん。そして書き終えて気づいた祝日という事実。

 141127


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