鋭い犬歯を覗かせて嗤ったあなたを、わたしは、忘れたいのでしょう。


「もう、行かれるのですね」
「ああ…此処にはもう、用は無いので」
「そう、ですか」

 月明かりが窓から差し込む夜も更けた頃、手際よく身なりを整える彼はわたしの顔も見ずに答えた。

「何事もなかったかのような、声ですこと」

 自嘲気味に吐き捨てると、彼が長い髪の奥で笑んだ。

「はたして…何か、あったんでしょうか」

「っ……」

 かっと、頭が熱くなるのを感じた。握った拳に力がこもった。彼を見つめる目が霞がかった。
 落ち着け、落ち着け。感情的になってはいけないと、なけなしの理性が活性化する。だってこの男は――薬売りは、わたしの命の恩人なのだから。

「…そうね、あなたにとっては取るに足らない出来事なのでしょう。モノノ怪を退治し、哀れな女の慰みの手助けをした…ふふっ、そりゃ笑うでしょうよ」

 そう、それだけ。

 ただそのモノノ怪が、わたしの一番大切な人だった、たった、それだけ。
 なんて滑稽な話だろう。大切な人を殺した張本人と交える馬鹿な女、なんて、戯曲のネタにもなりゃしない。

「モノノ怪か…それでも、わたしにとっては大切な人だった…」

 忘れられるわけ、ないのよ。

 まだ熱の残る布団に顔をうずめた。薬売りはもうほとんど身支度を終えていた。

「…無理に、」

 月が落とす色濃い影の中、彼は切れ長の瞳を細めて言った。

「無理に、忘れることはないでしょう。忘れたくても忘れられないものだって、ある、ものです」

 むき出しのわたしの肩に指を滑らせる彼を盗み見た。薄く引かれた藤色の紅は弧を描き、その表情を汲み取ることを難にしている。けれどその時の薬売りは、たぶん、かなしんでいたのだと、思う。何をかは、わたしには知り得ない。

「…あなたにも、あるのかしら」
「何がです?」
「忘れたくても、忘れられないこと」

 くぐもった声で訊ねた。それから今度はちゃんと顔を上げて、彼の返事を待った。
 すると薬売りが自身の肩をそっと押さえて、静かにわらった。


「そうですね…この傷が癒えるまでは、あなたのことを、忘れられない…でしょう、ね」


 では、私は、ここいらで。

 最後にひとつ、わたしの髪に触れるだけのくちづけを落として、彼は立ち上がった。襖が締め切られるのは見なかった。
 わたしは自分の肩に手をやる。さっき彼が触ったところ。いくつかの歯型が残って、じわりと、熱を持っていた。

 この傷は、癒えるときが来るのだろうか。







鋭い犬歯を覗かせて嗤ったあなたを、わたしは、忘れられないのでしょう。








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 140911


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