もはや骨の髄までいやな匂いがこびりついているような錯覚に陥った。だからそのドアを開くことを、なまえは躊躇したのだ。
「あいてるわよ」
「…」
けれど、彼女には何もかもお見通し。
ドアの向こうから響く凛とした女性の声に、なまえは小さく肩をすくめた。「やあベルモット」
「ご苦労さま、なまえ」
中に入ると淡いオレンジの照明が程よく部屋を照らしていた。その灯りの中、大きめのシャツを着てその豊満な胸元を惜しみなく広げ、白くしなやかな脚をそのままベッドに放り投げて座るベルモットがいる。なまえは薄く笑みを浮かべる彼女に近づいて、そのシャープな輪郭の両頬にキスをした。
「…だぁーっ疲れた…」
「ふふ、報告はもう済ませたの?」
「んー…まだあ…」
「あらまだなの? 怒られても知らないわよ」
「そー…だね…」
どさりと、彼女の隣に倒れ込んだなまえ。女がふたり、脚を伸ばしてもまだあまりある余白を見せるベッドに、彼女は確かな安心を覚えた。沈む身体、ベルモットの体温、薄明るい部屋は甘い匂いで満たされている。頭を枕に埋ませて、全身でそれをしかと感じて。
「随分派手にやったのね」
心地の良いそこから辛辣な言葉でなまえの意識を引き戻したベルモットを、彼女はじろりと見遣った。
「あっはは、そんなに怒らないで…
ただ、なんとなく訊いただけよ」
ベルモットはかぶりを振った。悪意の無さを示したつもり。けれど今のなまえにはなんの気休めにもならず、なおも彼女は不貞腐れた面持ちでベルモットを見ている。
「ベルモット」
「なぁに」
ベッドサイドのテーブルから、細い葉巻を1本、そこに火をつけながらベルモットはなまえに返事をした。いつ見ても優雅なベルモットの仕草ひとつひとつに、なまえは言わんとしていたことをぐっと喉の奥に押しやってしまう。代わりにすっと、手を伸ばして同じくベッドサイドのテーブルからガラスの灰皿を手にとって、ベルモットの側に置いた。ありがとう、とにこやかに、ベルモットは葉巻の煙をくゆらせた。
「…ベルモット、」
「どうしたの」
「どうしたら、ベルモットみたいにキレイになれるんだろう
あたしはまた、――キレイじゃなくなったよ」
深く息を吸って、吐いた。なまえも、ベルモットも。
そう。
一言それだけ呟いたベルモットが、灰をとん、と落とした。
なまえは静かに天井を仰ぎ見る。それからベルモットをちらと盗み見、手の甲をまぶたに乗せた。閉じた瞳の奥は、赤と黒で塗りつぶされた。
「ねぇ、なまえ」
ベルモットの声が静寂に響く。なんだい。思ったよりも低い音で出た声に、なまえ自身が驚いた。
「貴女、いまとってもキレイよ」
不意に浴びせられた賛辞の言葉になまえが目を開くと、そこには至極愉しそうな笑みを浮かべたベルモットが映った。その碧眼に、なまえは反論を制されてしまう。
「貴女が何を思ってキレイとするのかは知らないけれど、貴女の目に私がキレイに映っているのなら、それは私に"秘密"があるから…」
「秘密…」
艶やかな声音で話すベルモットにまるで毒されたかのように、気の抜けた声でなまえは言葉を繰り返した。ベルモットは彼女の頬に手を滑らせ、さらに続ける。
「そう。秘密は女を美しくさせる魔法なの」
「どうして?」
間髪入れず、なまえは訊き返した。彼女の口癖であるそれを、なまえはずっと理解できずにいた。
「ねぇ、どうしてさ。あたしはベルモットのように美しく、強くなりたいんだ。
……あなたに見合う人間に、なりたいだけなんだよ…」
妬みでも嫉みでもなく、ただ純粋に憧れ慕うベルモットの隣に。
ささやかな願いは、与えられた仕事をこなしていくうちにだんだんと遠のいている気がして仕方が無かった。表情も仕草もからだつきも、すべてが望んでいるものとは違いすぎて。
もう自分が何をしたいのか、どうなりたいのかが曖昧に、すべてが黒に沈んでいく日々だった。
「どうして、どうしてあたしは、こんなにも…」
熱くなるまぶたをぎゅっと閉じればそこに、やわらかなリップ音が鳴った。
「そう、どうしてかしらね…
そうやって問いかける貴女は、悩む貴女はとても素敵」
ひとつ、ふたつと、なまえの瞼、額にキスを落とすベルモットは、愛しいものに触れる甘やかな手付きと表情で、呪文をかけるように彼女へと語りかける。
「常に好奇心を持って、常に何かを求めていると、必ずわからないなにかにぶつかるものよ。なにかに隠されたそれは、"秘密"と呼べるもの…。そしてそれを知ろうとしてまたひとは努力をする。
ねぇなまえ、貴女は何もかもを攻略してしまったゲームと、まだ見ぬエンディングのあるゲーム、どちらが面白いと思う?」
ひゅっ、と息を吸う音がした。あと、と声にならぬ声で答えたなまえに、またひとつ、ベルモットはくちづけをした。ゆるりと、なまえは瞳を開けて、ベルモットを見た。
「人間もそれと一緒…
秘密のない人間なんてつまらないわ
それはもちろん、自分自身に対してもね」
目を細ませて笑む彼女に、なまえは心の底からの憧憬と愛おしさ、なによりも強すぎる渇望を覚えてその身体を自らの腕に押しやった。
「…ベルモット、本当にあなた格好良すぎ」
「ちょっとこーら、なまえっ、」
声をあげてじゃれあって、ふたりは笑みをこぼした。軋むベッド、揺れる影、波打つシーツの衣擦れに、たおやかでどこかあやうい美をなまえは見出した気がした。途端、どうしようもなく熱くなる胸を、からだを押さえ込むようにただひたすら、彼女はベルモットを抱く腕に力を込めた。
「…いいわ、満足するまでそうしてなさい
ちゃんと報告はしに行きなさいよ? 私までお咎めをもらっちゃうわ」
「わかったよ
もう少し、もう少しだけさ、このままで」
アプロディーテの胎動きっとなるから、だからわがままをきいてよ
あたしがつまらなくなったそのときは、どうかあなたの手で、
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ほのかににほひたつゆりをかきたかった
141119
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